福永 挽歌(ふくなが ばんか、1886年3月22日 - 19… 福永 挽歌(ふくなが ばんか、1886年3月22日 - 1936年5月5日)は、福井県出身の詩人、小説家、翻訳家。本名は渙(きよし)。別号に冬浦。早稲田大学卒業。東京日日新聞、万朝報などの記者を務め、のち日本女子高等学院などで教職に就いた。南アジア研究者の福永正明は、大甥である。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
もっと読む
西山 勉(にしやま つとむ、1885年4月18日 - 196… 西山 勉(にしやま つとむ、1885年4月18日 - 1960年9月21日)は日本の銀行家、外交官。満州中央銀行総裁、終戦連絡中央事務局次長等を務めた後、戦後 GHQにより公職追放を受ける。追放解除後は初代駐インド大使を務めた。高知県出身。
もっと読む
本田 英作(ほんだ えいさく、1885年(明治18年)4月1… 本田 英作(ほんだ えいさく、1885年(明治18年)4月18日 - 1948年(昭和23年)10月4日)は、衆議院議員(立憲民政党→日本自由党)、弁護士。 長崎市出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。司法官試補を経て、鹿児島地方裁判所や長崎地方裁判所で判事を務めた。退官後は弁護士事務所を開業し、長崎市会議員を3期、長崎県会議員を2期務めた。 1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回・第20回でも再選された。 戦後の1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙で当選。第23回でも再選された。その間、第1次吉田内閣で外務政務次官に就任した。
もっと読む
富安 風生(とみやす ふうせい、1885年(明治18年)4月… 富安 風生(とみやす ふうせい、1885年(明治18年)4月16日 - 1979年(昭和54年)2月22日)は、日本の俳人。本名は謙次。高浜虚子に師事。逓信省に勤めながら俳誌「若葉」を主宰。温和な作風で知られた。愛知県出身。 愛知県八名郡金沢村(現在の豊川市金沢町辺り)生まれ。豊橋町立豊橋尋常中学時習館、第一高等学校、東京帝国大学法科大学卒業。卒業後は逓信省に入り、のち逓信次官。1912年に平塚の杏雲堂で療養。 俳句をはじめたのは遅く、1918年、34歳のとき福岡貯金支局に支局長として赴任した時期に吉岡禅寺洞の手引きを受けたことに始まる。翌年に福岡に来た高浜虚子に接し、「ホトトギス」に投句。同年に本省に転勤。
もっと読む
岡田(永代) 美知代(おかだ(ながよ) みちよ、1885年(… 岡田(永代) 美知代(おかだ(ながよ) みちよ、1885年(明治18年)4月15日 - 1968年(昭和43年)1月19日)は、明治期から昭和期の小説家、雑誌記者。田山花袋の小説『蒲団』のヒロイン、横山芳子のモデルとして知られる。 広島県甲奴郡上下町(現・府中市上下町)に、備後銀行頭取などを務めた地元の有力者であった岡田胖十郎の長女として生まれる。第一高等学校・明治大学で教鞭を取り、草創期の駿台高等豫備學校講師だった岡田實麿は兄。妹萬寿代は、北海道帝国大学教授や庄原市長を務めた八谷正義に嫁いだ。クリスチャンの家であった。 1898年(明治31年)9月神戸女学院に入学。佐々城信子が同時期に通っており、面識があった。
もっと読む
池田 平作(いけだ へいさく、1885年(明治18年)4月1… 池田 平作(いけだ へいさく、1885年(明治18年)4月12日 - 1935年(昭和10年)9月21日)は、大正・昭和期の日本海軍の軍人。連合艦隊主計長、海軍経理学校教官、横須賀鎮守府軍需部長などを歴任した。最終階級は海軍主計少将。 静岡県出身。静岡県立静岡中学校に学ぶ。静岡中学時代は野球部に所属した。東京帝国大学法科大学卒業。 1911年7月、中主計任官、経理学校乙種学生。1912年3月、浪速乗員、7月、横須賀水雷団付、10月、第2駆逐隊付、12月、横須賀水雷団付。1913年4月、第1駆逐隊付、8月、主計長心得。12月、大主計、嵯峨主計長。1915年2月、佐世保経理部第1兼第2課員。1917年2月、第2特務艦隊司令部付。
もっと読む
正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年〈明治18年… 正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年〈明治18年〉4月11日 - 1969年〈昭和44年〉10月9日)は、日本の警察官・内務官僚、実業家、政治家。読売新聞社主、日本テレビ放送網代表取締役社長、読売テレビ放送会長、日本武道館会長などを歴任した。 読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、読売中興の祖として大正力(だいしょうりき)と呼ばれている。 読売ジャイアンツ(巨人)の初代オーナーとして、戦後の日本のプロ野球の発展に貢献したためにプロ野球の父と呼ばれる。日本テレビを創立し、テレビの普及や発展に貢献したためにテレビ放送の父と呼ばれる。また、原子力発電の推進にも貢献したために原子力の父とも呼ばれる。
もっと読む
井上 登(いのうえ のぼり、1885年〈明治18年〉4月10… 井上 登(いのうえ のぼり、1885年〈明治18年〉4月10日 - 1971年〈昭和46年〉7月26日)は、日本の最高裁判所判事。千葉県出身。 井上義行の息子として生まれる。1913年(大正2年)3月に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1917年(大正6年)に判事となる。1926年(大正15年)、東京地方裁判所部長時代に、ジュネーブで開催された第八回国際労働会議に政府代表顧問として参加。1927年(昭和2年)12月に東京控訴院判事、1933年(昭和8年)に大審院判事、1937年(昭和12年)に司法省の初代調査部長となる。1939年(昭和14年)から再び大審院判事を務め、在官中は慶応、明治、専修大学で民事法を講義した。
もっと読む
戸田 正三(とだ しょうぞう、1885年4月9日 - 196… 戸田 正三(とだ しょうぞう、1885年4月9日 - 1961年11月20日)は、日本の衛生学者、京都大学名誉教授、金沢大学初代学長、医学博士。実用的な衛生学の樹立をめざし研究した人物として知られ、食生活、服装、住宅、上下水道などを日本の風土に適した形で普及させることを目指した。戸田式開襟シャツの発明者としても知られる。 兵庫県朝来郡中川村生まれ。旧制兵庫県立豊岡中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、1910年に京都帝国大学医科大学を卒業。1912年から4年間欧米各国(独英仏米)に留学。1916年、京都帝国大学教授(衛生学担当)に就任。1923年、雑誌『国民衛生』を創刊。関東大震災後の1925年、東京市保健局長を兼務して復興に尽力。
もっと読む
渡辺 七郎(渡邊 七郎、わたなべ しちろう、1885年(明治… 渡辺 七郎(渡邊 七郎、わたなべ しちろう、1885年(明治18年)4月8日 - 1933年(昭和8年)4月26日)は、大正・昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 会計検査院長・渡邊昇の長男として生まれる。父の死去に伴い、1913年(大正2年)12月10日、子爵を襲爵した。 1915年(大正4年)慶應義塾大学部法律科を卒業。1921年(大正10年)大日本武徳会商議員に就任した。 1924年(大正13年)3月8日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し死去するまで3期在任した。 1933年(昭和8年)に七郎が没した後は、長男の武宣が襲爵。さらに1938年(昭和13年)に武宣が没すると、弟の武治が襲爵した。
もっと読む
谷口 三郎(たにぐち さぶろう、1885年(明治18年)4月… 谷口 三郎(たにぐち さぶろう、1885年(明治18年)4月7日 - 1957年(昭和32年)8月13日)は、大正から昭和時代の土木工学者、内務技監。 広島県佐伯郡五日市村(現広島市佐伯区五日市町)に生まれた。1909年(明治42年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、北海道庁に入り、小樽、留萌の築港工事を担当する。1915年(大正4年)内務省に転じ、1918年(大正7年)大阪土木出張所勤務を発令され、10余年に渡り淀川改修工事に従事した。1934年(昭和9年)土木局第一技術課長、1936年(昭和11年)東京土木出張所長を経て、1939年(昭和14年)に内務技監となり、1942年(昭和17年)に退官した。
もっと読む
藤野 繁雄(ふじの しげお、1885年(明治18年)4月7日… 藤野 繁雄(ふじの しげお、1885年(明治18年)4月7日 - 1974年(昭和49年)3月17日)は、大正から昭和期の農業指導者、政治家。参議院議員(3期)。 長崎県南高来郡神代村(国見町を経て現雲仙市)で藤野小三の二男として生まれる。1907年(明治40年)東京高等農学校(現東京農業大学)を卒業した。 長崎県農林主事、同県産業組合連合会長、同県生活物資配給統制組合連合会長、同県農業会長、同県指導農業協同組合連合会長、全国農業会監事、家の光協会理事、全国指導農業協同組合連合会理事・監事、全国土地改良協会理事・監事、全国農業協同組合監事協議会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で長崎県地方区から無所属で出馬して当選。
もっと読む
ジョージ・マサ (George Masa として知られた飯塚… ジョージ・マサ (George Masa として知られた飯塚正治(本名:遠藤章二)、1885年4月6日 - 1933年6月21日)は、日本で生まれアメリカで活躍した実業家。大判カメラ写真家、山岳写真家。グレートスモーキー山脈の国立公園指定に尽力したことで知られる。東京都出身。 東京の地主、高橋家の次男として生まれる。母は出産後、死去。幼少期に静岡市の弁護士遠藤靖の養子となった。1903年(明治36年)、静岡県立静岡中学校卒業。静岡中学在学中は、明治35年に校内で作られた親睦グループ両道倶楽部で活動した。倶楽部内で野球の腕を上げると野球部に入部するなど、両道倶楽部は静中野球部の選手育成の苗圃の役割も果たしていた。
もっと読む
小笠原 三九郎(おがさわら さんくろう、1885年(明治18… 小笠原 三九郎(おがさわら さんくろう、1885年(明治18年)4月5日 - 1967年(昭和42年)12月13日)は、昭和期の日本の政治家、実業家。商工大臣(第26代)、農林大臣(第15代)、通商産業大臣(第7代)、大蔵大臣(第57代)、衆議院議員(6期)。西尾市名誉市民。 経済人としては華南銀行専務、日本貿易振興会、財団法人東京連合防火協会、南方農林協会各会長、極洋捕鯨(現・極洋)社長・取締役・相談役・監査役、太平洋海運社長・会長・相談役などを務めた。 愛知県幡豆郡、のちの室場村(現西尾市)に、父小笠原長左衛門と母せいの間に誕生。三男三女の末子であった。室場尋常小学校、西尾高等小学校に入学。
もっと読む
大野 一造(おおの いちぞう, 1885年4月5日 – 19… 大野 一造(おおの いちぞう, 1885年4月5日 – 1967年3月6日)は、愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)出身の技術者・実業家・政治家。刈谷町会議員、愛知県会議員、刈谷町長、衆議院議員を務めた。刈谷市名誉市民。かんばん方式などの「トヨタ生産方式」を築いた大野耐一は息子。 1885年(明治18年)4月5日、愛知県碧海郡刈谷町緒川町(現・刈谷市八幡町6丁目78番地)にて旧刈谷藩士の大野介蔵の長男として生まれた。介蔵は刈谷城本丸隅の十朋亭を隠居家としており、1936年(昭和11年)には十朋亭を刈谷町に売却している。 刈谷町立亀城小学校を中途退学。兵庫県立神戸中学校(のちの兵庫県立神戸高等学校)を経て、東京高等工業学校(のちの東京科学大学)窯業科を卒業。
もっと読む
原田 淑人(はらだ よしと、1885年4月5日 - 1974… 原田 淑人(はらだ よしと、1885年4月5日 - 1974年12月23日)は、日本の考古学者。東大教授。浜田耕作・島村孝三郎とともに東亜考古学会を設立。「日本近代東洋考古学の父」と呼ばれる。 東京神田に生まれる。白鳥庫吉の下で東洋史を学び、1908年(明治41年)に東京帝国大学文科大学史学科を卒業した。原田の学生時代には考古学を講じる講師は文科大学にはおらず、原田の卒業論文は「明代の蒙古」という文献学的研究であった。大学院進学後は、中国の風俗史や服飾史に方向を転じる。目の疾病により、文献研究に困難を生じたからという。豊富な漢籍の知識を考古遺物および遺跡の分析研究に生かした原田独特の考古学はここから始まった。
もっと読む
宮崎 郁雨(みやざき いくう、1885年(明治18年)4月5… 宮崎 郁雨(みやざき いくう、1885年(明治18年)4月5日 - 1962年(昭和37年)3月29日)は、日本の歌人。本名は大四郎(だいしろう)。 石川啄木夫人・石川節子の妹の夫。啄木の生前から啄木一家を物心両面にわたって支え、啄木の死後も墓碑建立、「啄木を語る会」を発足させるなどの実績がある。 新潟県北蒲原郡荒川村で宮崎竹四郎の長男として生れる。郁雨の祖父が没して竹四郎が継いだ頃には、借金を抱えて没落していた。 郁雨が2歳の頃に竹四郎は家と田畑を債権者に譲って松前に渡り、母と共に母の実家に預けられる。1889年(明治22年)春[要出典]、父とともに宮崎一家は函館に移住した。竹四郎は「浜かせぎ」や日雇いなどでしのぐ苦しい生活が続いたが、醸造業で成功、「金久(かねきゅう)」を屋号とする味噌製造所の経営者となった。
もっと読む
本居 長世(もとおり ながよ、1885年(明治18年)4月4… 本居 長世(もとおり ながよ、1885年(明治18年)4月4日 - 1945年(昭和20年)10月14日)は、日本の作曲家。数々の童謡で知られる。晩年は長豫と称した。 1885年(明治18年)東京府下谷区御徒町(現:東京都台東区)に生まれる。血の繋がりは無いが、国学者として著名な本居宣長の和歌山学党6代目に当たる。 母は並子、父は本居家の婿養子である国学者の雨宮干信(ゆきのぶ)。生後1年で母と死別。並子の死後、婿養子であった父は本居家に馴染めず、やむなく家を出たため、やはり国学者であった祖父、本居豊穎に育てられる。祖父の期待に反して音楽家を志すようになり、1902年(明治35年)東京音楽学校予科に入学。
もっと読む
安成 貞雄(やすなり さだお、1885年4月2日 - 192… 安成 貞雄(やすなり さだお、1885年4月2日 - 1924年7月23日)は、日本の評論家。 秋田県北秋田郡(現・北秋田市)生まれで、中学までは能代市で育つ。父正治は元長府藩士で、阿仁鉱山の高級機械工を経て、東雲の精錬所に勤務した。弟には歌人の安成二郎、福原信三の秘書を務めた安成三郎がいる。 大館中学校(現・秋田県立大館鳳鳴高等学校)時代は正岡子規選の新聞「日本」に投稿した。また校長排斥ストライキの首謀者として無期停学の処分を受けるが、県知事にかけ合って最終的に校長に辞表を書かせた。 高等工業学校への進学を望んでいた父の願いに背き、作家を志して早稲田大学文学部英文科へ進学。日露戦争の真っ只中であり、文学者の中に反戦気運が広がっていた。
もっと読む
藤岡 兵一(ふじおか ひょういち、1885年〈明治18年〉4… 藤岡 兵一(ふじおか ひょういち、1885年〈明治18年〉4月2日 - 1957年〈昭和32年〉1月5日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選県知事、浜松市長。 石川県出身。藤岡明郷の長男として生まれる。第四高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し岐阜県属となる。 以後、岐阜県事務官、山口県事務官、同理事官、静岡県理事官、鳥取県警察部長、群馬県警察部長、宮城県警察部長、広島県警察部長、内務事務官兼内務書記官などを歴任。 大正12年(1923年)9月、高知県知事に就任。在任中の同年12月5日、高知城公園内の板垣退助銅像が建立され、退助令孫・板垣守正の手により除幕されている。
もっと読む
玉ノ川 脇太郎(たまのかわ わきたろう、1885年4月2日 … 玉ノ川 脇太郎(たまのかわ わきたろう、1885年4月2日 - 1924年11月20日)は、現在の東京都あきる野市(当時は神奈川県)出身で佐渡ヶ嶽部屋、伊勢ノ海部屋に所属した力士。本名は加藤 脇太郎。9代佐渡ヶ嶽。164cm、79kg。最高位は西前頭17枚目。 1903年1月初土俵、1911年6月十両昇進。またこの時から二枚鑑札。1915年6月に入幕したが、在位2場所に終わり、その後は十両に低迷して最後は幕下に陥落し、1918年5月引退した。年寄専任となったが、若くして亡くなった。小兵であり、もぐらなければ相撲にならなかった。
もっと読む
城所 國三郎(きどころ くにさぶろう、1885年(明治18年… 城所 國三郎(きどころ くにさぶろう、1885年(明治18年)4月1日 - 1937年(昭和12年)8月9日)は、日本の政治家。第5代八王子市長。東京府会議員、八王子市議(2期)。 1885年(明治18年)4月1日 - 神奈川県西多摩郡五日市町(現東京都あきる野市)の旧家である馬場家の次男として生まれる。幼くして両親が死去、祖父母に引き取られる。五日市勧能学校を卒業後1906年(明治39年)の時に八王子の商家城戸家の養子となる。 1917年(大正6年)11月3日八王子町会議員であった養父荘治郎の跡を継ぎ八王子市会議員選挙に立候補当選。京王電気軌道の誘致運動を起こし2期目に当選した後玉南電気鉄道株式会社を設立商議員に就任するなど八王子への鉄道乗り入れを推進する。
もっと読む
丹羽 七郎(にわ しちろう、1885年(明治18年)3月31… 丹羽 七郎(にわ しちろう、1885年(明治18年)3月31日 - 1935年(昭和10年)7月7日)は、日本の内務官僚。岡田内閣の内務次官、県知事。 福島県出身。丹羽家は織田信長の重臣であった丹羽長秀の一族で、祖父は幕末の会津藩士・丹羽族、父は西南戦争で抜刀隊に参加した丹羽五郎である。 1903年(明治36年)会津中学を卒業し、検定試験を経て、東北帝国大学農科大学を卒業。京都帝国大学在学中の1913年(大正2年)11月、文官高等試験に180名中次席で合格した。1914年(大正3年)7月、京都帝大法科大学政治学科を優等で卒業し銀時計を授与された。 1914年8月、内務省に入り東京府属として内務部庶務課に配属された。
もっと読む
中島 琢之(なかじま たくし、1885年(明治18年)3月2… 中島 琢之(なかじま たくし、1885年(明治18年)3月29日 - 1956年(昭和31年)7月14日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、津山市長、医師。 岡山県苫田郡高野村(現在の津山市)出身。1906年(明治39年)、第一高等学校を卒業。1910年(明治43年)に東京帝国大学医科大学を卒業した。東京帝国大学医科大学内科に勤務した後、日本医学専門学校(現在の日本医科大学)教授・附属病院内科部長に就任した。1914年(大正3年)、津山に中島病院を開院。苫田郡医師会長、美作五郡連合医師会長を歴任した。 1929年(昭和4年)、津山市会議員に当選し、議長に選出された。翌年の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
もっと読む
黒澤 酉蔵(くろさわ とりぞう、1885年(明治18年)3月… 黒澤 酉蔵(くろさわ とりぞう、1885年(明治18年)3月28日 - 1982年(昭和57年)2月6日)は、茨城県出身の実業家、酪農家、政治家、教育者、環境運動家。衆議院議員。北海道製酪販売組合連合会(のちの雪印乳業、現在の雪印メグミルク)創業者、北海道酪農義塾(現在の酪農学園大学)設立者。日本の酪農業の発展と北海道開発に功績を残し、日本酪農の父、北海道開発の父と呼ばれる。 1885年(明治18年)3月28日、茨城県久慈郡世矢村小目(現:常陸太田市小目町)で貧しい農家の四人兄弟の長男として生まれる。父母の家ともかっては相当な資産家であったが、黒澤の代には零落しており、又、父による過度の飲酒がもとで負債をつくり、家計は常に苦しかった。
もっと読む
百溪 禄郎太(ももたに ろくろうた、1885年3月28日-1… 百溪 禄郎太(ももたに ろくろうた、1885年3月28日-1977年12月15日)は、日本の物理学者。 宮崎県東杵杵郡出身[信頼性要検証]。父親は宮崎県延岡で医師と裁判官をしていた百溪龍蔵で、母は冨の5男として誕生。 宮崎県の旧制宮崎県立延岡中学校(現・宮崎県立延岡高等学校)では若山牧水と同窓で、校内の文学愛好会「曙会」に所属した。 延岡中学の校友会の雑誌部長として若山牧水が就任した時、その時の雑誌部校友会役員は、古川正雄、百溪禄郎太、甲斐猛一、松本庫太郎、乗秀小三郎の五人が幹事に選ばれている。 延岡中学卒業後鹿児島に滞在し、その後、東京に出て東京大学で物理学を学んだ。恩師の一人、寺田寅彦を物理学と文学に優れた師として尊敬して、文学者への憧憬も強かった。
もっと読む
沢村 寅二郎(さわむら とらじろう、1885年3月28日 -… 沢村 寅二郎(さわむら とらじろう、1885年3月28日 - 1945年7月7日)は、英文学者、東京帝国大学助教授。
もっと読む
小沢 治(小澤、おざわ おさむ/はる、1885年(明治18年… 小沢 治(小澤、おざわ おさむ/はる、1885年(明治18年)3月28日 - 1976年(昭和51年)3月17日)は、大正から昭和時代の政治家。大日本帝国陸軍軍人。衆議院議員。 茨城県信太郡木原村(稲敷郡木原村を経て現美浦村)出身。小沢金蔵の長男として生まれ、1934年(昭和9年)家督を相続する。1904年(明治37年)成城学校を卒業し、のち東京専門学校に学ぶ。陸軍に入り歩兵中尉に進んだ。 茨城県会議員となり、帝国在郷軍人会稲敷郡連合分会長、稲敷郡養蚕組合長、同農会長、同壮年団長を歴任した。ほか、東邦産金会社専務取締役、松本電機計器監査役を務めた。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では茨城県第1区から翼賛政治体制協議会推薦で出馬し当選。
もっと読む
原田 譲二(はらだ じょうじ、1885年3月26日 - 19… 原田 譲二(はらだ じょうじ、1885年3月26日 - 1964年2月10日)は、日本のジャーナリスト。貴族院勅選議員。 岡山県後月郡西江原村(現・井原市)出身。1907年早稲田大学卒。報知新聞社に入り、1915年、東京朝日新聞社に入る。社会部長を経て、1925年、大阪朝日新聞社に入る。同社では編集局長から専務となり、1946年8月14日、貴族院勅選議員となった。貴族院議員は交友倶楽部に所属し翌1947年5月2日の貴族院廃止まで在職した。同年12月に公職追放を受けた。その後、追放解除となり、1964年に死去した。
もっと読む
都賀 淸司(つが せいじ、1885年3月25日 - 1946… 都賀 淸司(つが せいじ、1885年3月25日 - 1946年6月17日)は、日本の俳優、元子役である。新漢字表記都賀 清司。津賀 清司、都賀 静司と表記に揺れがある。本名須永 淸三郎(すなが せいざぶろう)。 1885年(明治18年)3月25日、埼玉県大里郡西島村(のちの同郡深谷町大字西島、現在の深谷市西島町)に生まれる。『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』には本名も芸名に同じとあるが、『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』では改まっている。 幼少時から子役として舞台に上がっていた。時期は不明であるが結婚し、東京府東京市本郷区駒込坂下町(現在の東京都文京区千駄木2丁目あるいは3丁目)に在住した満27歳のとき、1912年(明治45年)5月18日に長女・都賀静子が生まれ、その後、生年月日は不明であるが長男・都賀一司が生まれている。
もっと読む
日本海 忠藏(にほんかい ちゅうぞう、1885年3月25日 … 日本海 忠藏(にほんかい ちゅうぞう、1885年3月25日 - 1953年9月19日)は、現在の秋田県横手市出身で立田川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は最上 忠五郎。身長178cm、体重83kg。最高位は西前頭16枚目。清ノ森政夫の大叔父。 1904年1月初土俵、1910年6月十両昇進。1914年1月新入幕を果たした。左四つからの寄り、櫓投げを得意としたが、幕内では全く通用せず、初日から5連敗で途中休場。1914年5月十両に、1915年5月には幕下まで陥落したが、中々勝てず、1917年1月廃業した。その後は名古屋市で会社勤めののち、手打ちうどんの製造販売業に従事した。 上の名前は改名歴なし。
もっと読む
山崎 直(やまざき なおし、1885年〈明治18年〉3月23… 山崎 直(やまざき なおし、1885年〈明治18年〉3月23日 - 1975年〈昭和50年〉3月6日)は、千葉県木更津市長(2期)、医師。医学博士。 第二次世界大戦前中後にわたる難しい時期を進駐軍と巧みに対峙した木更津市長。医師であり、千葉県医師会顧問、同名誉会員、県国保審議会委員、県医師会裁定委員であり、木更津ロータリークラブ創設者。また、私財を投じて私立木更津看護学校(現・木更津看護学院)を創設した。"木更津の吉田茂"とも言われる。木更津町会議員、同市会議員。嘉納治五郎の直弟子。 佐貫藩藩士の末弟、山崎周太郎の長子として1885年(明治18年)3月23日に生まれる。母はろうそく屋で辺りの大地主だった安田の娘・てる。
もっと読む
駒井 藤平(こまい とうへい、1885年(明治18年)3月2… 駒井 藤平(こまい とうへい、1885年(明治18年)3月21日 - 1967年(昭和42年)1月17日)は、明治末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)、奈良県生駒郡南生駒村長。 奈良県平群郡小瀬村(生駒郡南生駒村大字小瀬、生駒町を経て現生駒市)で、酒造業・駒井藤太郎の長男として生まれる。1907年(明治40年)大阪府立農学校(のち大阪獣医畜産専門学校)を卒業した。 帰郷して農事試験場技手兼生駒郡立郡山農学校(現奈良県立郡山高等学校)教諭に就任。その後、家業の酒造業に従事した。南生駒村会議員となり、1925年(大正4年)奈良県会議員に当選。1926年(大正5年)南生駒村長に就任し4期在任した。
もっと読む
志喜屋 孝信(しきや こうしん、1884年(明治17年)4月… 志喜屋 孝信(しきや こうしん、1884年(明治17年)4月19日 - 1955年1月26日)は、日本の教育者、政治家。太平洋戦争後、アメリカ統治下の沖縄で、沖縄諮詢会委員長や初代沖縄民政府知事のほか、沖縄最初の大学である琉球大学の初代学長を務めた。 沖縄県中頭郡具志川(現・うるま市宮里)出身。1904年(明治37年)、旧制沖縄県立中学校(現・沖縄県立首里高等学校)卒業。1908年(明治41年)に広島高等師範学校(現・広島大学)を卒業する。在学中、内村鑑三の著書に影響を受ける。 最初は私立金光中学校、熊本県立鹿本中学校に勤務した後、沖縄県立第二中学校に赴任する。そして1924年(大正13年)に同校の校長に就任する。
もっと読む
安田 尚義(やすだ なおよし、 1884年4月19日 - 1… 安田 尚義(やすだ なおよし、 1884年4月19日 - 1974年12月24日 )は、日本の歌人・歴史学者。
もっと読む
大本 貞太郎(おおもと さだたろう、1884年〈明治17年〉… 大本 貞太郎(おおもと さだたろう、1884年〈明治17年〉4月18日 - 1944年〈昭和19年〉4月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。伊予鉄道(現伊予鉄グループ)7代社長。 愛媛県温泉郡本町(現松山市本町)出身。松山商業会議所議員、愛媛県会議員、同参事会員、同副議長となる。伊予新報社社長、伊予鉄道社長、伊予銀行取締役、(資)弘文社代表社員、松山商工会議所顧問を務める。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において愛媛1区(当時)から立憲政友会公認で立候補し当選。以来連続3回当選。1942年の第21回衆議院議員総選挙には立候補せず引退した。1944年死去。
もっと読む
亀井 茲常(かめい これつね、旧字体: 龜井茲常、明治17年… 亀井 茲常(かめい これつね、旧字体: 龜井茲常、明治17年(1884年)4月17日 - 昭和17年(1942年)5月2日)は、日本の華族、宮内官僚。亀井家第14代当主。爵位は伯爵。東京市渋谷区千駄谷町穏田に居住していた。衆議院議員亀井亜紀子は曾孫に当たる。 第13代当主亀井茲明の子として島根県鹿足郡津和野に生まれる。 1909年(明治42年)に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業、式部官に任じられ皇室の式典及び語学研究のため欧米を歴遊。1912年に帰国後、主猟官を兼ねた。 後に東宮侍従に任じられ、1921年(大正10年)には皇太子裕仁親王の海外巡遊に際し随行を命じられた。1929年(昭和4年)、官を辞す。
もっと読む
十河 信二(そごう しんじ、1884年(明治17年)4月14… 十河 信二(そごう しんじ、1884年(明治17年)4月14日 - 1981年(昭和56年)10月3日)は、日本の鉄道官僚、政治家。愛媛県西条市長(在任1945年(昭和20年) - 1946年(昭和21年))、第4代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1955年(昭和30年) - 1963年(昭和38年))を務めた。「新幹線の父」と呼ばれた。西条市名誉市民第1号。 1884年(明治17年)愛媛県新居郡中村(中萩村、中萩町を経て、現在の新居浜市)に十河鍋作・ソウの二男として生まれる。1897年(明治30年)愛媛県尋常中学校東予分校(現在の愛媛県立西条高等学校)に入学した。卒業後、上京し受験準備のために正則英語学校(現在の正則学園高等学校)に入学した。
もっと読む
瀧 正雄(たき まさお 1884年(明治17年)4月14日 … 瀧 正雄(たき まさお 1884年(明治17年)4月14日 - 1969年(昭和44年)8月12日)は、日本の政治家、法学者。衆議院議員、貴族院議員をつとめ、近衛文麿の家老格の側近として知られた。
もっと読む
立川 太郎(たちかわ たろう、1884年〈明治17年〉4月1… 立川 太郎(たちかわ たろう、1884年〈明治17年〉4月14日 – 1960年〈昭和35年〉7月31日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 広島県安佐郡三入村(現在の広島市安佐北区)に立川斧太郎の長男として生まれる。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、警視庁警部として警務課に勤務した。1915年(大正4年)に警視に昇進し、大塚警察署、牛込警察署、神楽坂警察署、京橋警察署の署長を歴任した。1818年(大正7年)、本庁に復帰して監察官に就任した。1920年(大正9年)、警視庁を退職して弁護士を開業した。 1922年(大正11年)に牛込区会議員に当選し、1926年(大正15年)には東京市会議員に選出された。
もっと読む
大野 政吉(おおの まさきち、1884年(明治17年)4月1… 大野 政吉(おおの まさきち、1884年(明治17年)4月14日 - 1970年(昭和45年)7月31日)は、日本の技術者、実業家。旭硝子(現AGC)社長や、窯業協会会長を務めた。 東京生まれ。1906年東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科卒業、農商務省入省。1907年島田硝子製造所入社。1908年に旭硝子入社後、尼崎工場長、鶴見工場長、牧山工場長、技術課長、支配人、取締役等を務め、日本初の窓ガラスの本格量産化を成功させた。 1927年大日本窯業協会理事長。旭硝子常務取締役を経て、山田三次郎会長が死去した1939年から旭硝子社長及び旭化学工業奨励会理事長を務めた。1940年緑綬褒章受章。 1941年日本光学工業取締役。
もっと読む
石崎 光瑤(いしざき こうよう、明治17年(1884年)4月… 石崎 光瑤(いしざき こうよう、明治17年(1884年)4月11日 - 昭和22年(1947年)3月25日)は、日本の大正時代から昭和の初めにかけて活躍した日本画家。文展・帝展を中心に活動し、写実に基づく鮮やかで装飾的な花鳥画を得意とした。 富山県西礪波郡福光町(現在の南砺市)で、素封家・石崎和善の五男として生まれる。本名は石崎猪四一。石崎家は和泉屋の屋号で本業は麻布業だったが、江戸時代から蔵宿業を営み、町役人も務めた豪商だった。幼少より画才があり、明治29年(1896年)12歳頃東京から金沢に移り住んだ琳派の絵師・山本光一に師事する。光瑤の「光」は師から貰っており、この頃の光瑤は福光や金沢近郊を写生して廻ったという。
もっと読む
宮永 スエキク(みやなが スエキク、1884年〈明治17年〉… 宮永 スエキク(みやなが スエキク、1884年〈明治17年〉4月7日 - 1998年〈平成10年〉6月20日)は、長寿日本一だった鹿児島県曽於郡大隅町(現・曽於市)の女性。 1884年(明治17年)4月7日、鹿児島県曽於郡大隅町の農家に生まれる。1908年(明治41年)に24歳で愛右衛門と結婚し、四男七女をもうけた。趣味は三味線、太鼓、歌、踊りだった。 1954年(昭和29年)、70歳のときに愛右衛門と死別。冗談好きの明るい性格で、おはら節など歌や踊りが得意。107歳ごろまで三味線を弾いていた。そばが好きで、100歳を超えた後も自分でそばを打っていた。109歳までは一人で歩いていた。風邪をこじらせて寝たきりになり、1993年(平成5年)からは特別養護老人ホームで生活していた。
もっと読む
時永 浦三(ときなが うらぞう、1884年(明治17年)4月… 時永 浦三(ときなが うらぞう、1884年(明治17年)4月6日 - 1929年(昭和4年)2月7日)は、日本の朝鮮総督府・内務官僚。官選県知事。 広島県甲奴郡上下村(現府中市)出身。時永清吉の三男として生まれる。第一高等学校を卒業。1909年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進学。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1910年5月、統監府属として渡韓した。 1910年10月、朝鮮総督府取調局属となる。以後、同取調局事務官、同道事務官・平安南道在勤、京畿道在勤、同事務官・総務局総務課長、兼同参事官、同内務部第二課長、同済世院庶務課長事務嘱託、同警務官兼同警視、同警務総監部保安課長、同兼警務総監部高等警察課長事務取扱、同事務官、兼同参事官などを歴任し、1922年1月、朝鮮総督府監察官に就任。
もっと読む
矢吹 荘司(やぶき そうじ、1884年(明治17年)4月6日… 矢吹 荘司(やぶき そうじ、1884年(明治17年)4月6日 - 没年不明)は、福島県常磐市(現・いわき市)長(1期)。 福島県磐前郡湯本村(のち石城郡湯本村→石城郡湯本町→常磐市、現・いわき市)出身。福島県立磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)中退。地元で農業、運送業、土建業、旅館業などを営む。湯本町会議員、湯本町助役を経て、湯本町長を2期務める。1954年湯本町が市制施行し、「常磐市」が発足、これに伴い常磐市長となる。 1957年の常磐市長選挙に立候補したが、常磐炭鉱労働組合長の磯野清治に敗れた。1964年の常磐市制施行10周年の記念式典には「自治功労者」として矢吹が表彰されたが、冊子には「故矢吹荘司」と書かれていた。
もっと読む
山口 寒水(やまぐち かんすい、1884年〈明治17年〉4月… 山口 寒水(やまぐち かんすい、1884年〈明治17年〉4月5日 - 1904年〈明治37年〉6月28日)は、明治期の小説家。本名は清一郎。 1884年(明治17年)4月5日、群馬県群馬郡豊秋村大字石原字手川(現・渋川市石原)で、この地方では大きな一町五反の農家の次男として生れる。 1889年(明治23年)4月、渋川町長塚町の渋川町豊秋村学校組合立四明尋常小学校行幸田分校に入学。 小学校時代から雑誌『少年世界』を愛読し、友人と短篇小説を競作するなどする、文学好きの少年であった。1898年(明治31年)3月31日に尋常小学校高等科を卒業後、前橋の私塾集成学館に学ぶ。14歳から15歳の頃にかけては、度々『少年世界』などに詩、俳句、俳文、雑文などを投稿し採用もされた。
もっと読む
山本 五十六(やまもと いそろく、1884年〈明治17年〉4… 山本 五十六(やまもと いそろく、1884年〈明治17年〉4月4日 - 1943年〈昭和18年〉4月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。栄典は正三位大勲位功一級。真珠湾攻撃を指揮した。 新潟県長岡出身。旧姓は高野(たかの)。海兵32期、海大甲種14期。第26、27代連合艦隊司令長官。前線視察の際、ブーゲンビル島の上空で戦死(海軍甲事件)。日本において皇族・華族以外で、国葬を受けた最初の人物である。 1884年(明治17年)4月4日、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(現在の長岡市坂之上町3丁目付近)で、旧越後長岡藩士(120石)・高野貞吉の六男として誕生する。当時の父親の年齢から「五十六(いそろく)」と名付けられた。
もっと読む
得能 佳吉(とくのう かきち、1884年(明治17年)4月3… 得能 佳吉(とくのう かきち、1884年(明治17年)4月3日 - 1964年(昭和39年)6月19日)は、日本の内務官僚、実業家。官選岩手県知事。 富山県出身。得能通孝の六男として生まれる。第四高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し警視庁警部となる。 以後、岡山県試補、警視庁警視、山形県警察部長、滋賀県警察部長、台湾総督府警視兼同府警察官及び司獄官練習所長、拓殖局書記官、内務書記官、北海道庁書記官・内務部長などを歴任。 1925年9月、岩手県知事に就任。公平無私な県政運営を行う。和賀妻堰・中央耕地の整備、公会堂建築、農学校移転などに尽力。
もっと読む
村松 武美(むらまつ たけよし、1884年(明治17年)4月… 村松 武美(むらまつ たけよし、1884年(明治17年)4月3日 – 1938年(昭和13年)9月10日)は、新潟市長、内務官僚。 静岡県榛原郡勝間田村字切山(現在の島田市)に鈴木美賢の二男として生まれ、村松家の入婿となった。1913年(大正2年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業した。同年11月に高等文官試験に合格し、埼玉県属、埼玉県理事官、埼玉県入間郡長、新潟県理事官・農林課長、静岡県警察部長、宮城県警察部長、宮城県書記官・警察部長、京都府書記官・警察部長、愛知県書記官・警察部長、栃木県書記官・内務部長、広島県書記官・内務部長を歴任した。 1931年(昭和6年)に海外出張を命じられ、翌年に帰国。
もっと読む
吉植 庄亮(よしうえ しょうりょう、1884年4月3日 - … 吉植 庄亮(よしうえ しょうりょう、1884年4月3日 - 1958年12月7日)は、日本の歌人、政治家。 1884年、千葉県印旛郡(現・印西市)の農家に、父庄一郎、母とくの長男として生まれる。当時、この地の農家は繰り返される印旛沼の氾濫に悩まされていた。1892年、父の庄一郎が埜原(やわら)村の村民47戸を率いて、妻とともに北海道石狩国雨竜郡に移住。開墾し、雨竜村和(やわら)(現・北竜町字和)を創立する。両親の北海道移住以来、庄亮は東京の祖父(庄之輔)、祖母のもとで育てられた。開成中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学法科経済学科を1916年に卒業。1921年に父の経営する中央新聞に文芸部長として入社する。
もっと読む