周防 正季(すおう まさすえ、1885年10月8日 - 19… 周防 正季(すおう まさすえ、1885年10月8日 - 1942年6月20日)は、日本人医師、朝鮮総督府らい療養所小鹿島更生園園長。当時世界最大規模の療養所を作り上げたが、強制隔離政策、患者待遇悪化、植民地支配に対する反感などがあり、患者に刺殺された。 1885年10月8日に滋賀県栗太郡老上村字矢橋(現在の草津市矢橋町)に大神家の3男として出生。医家周防氏の養子となる。滋賀県立第一中学校(現在の滋賀県立彦根東高等学校)を経て愛知県立医学専門学校(現在の名古屋大学医学部)、1909年(明治42年)卒業。県立岡崎病院外科、内務省防疫官補、開業、1916年(大正5年)滋賀県技師衛生主事、1919年(大正8年)愛知県技師学校衛生主事。
渡 久雄(わたり ひさお、1885年(明治18年)10月7日… 渡 久雄(わたり ひさお、1885年(明治18年)10月7日 - 1939年(昭和14年)1月2日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
長谷部 鋭吉(はせべ えいきち、1885年10月7日 - 1… 長谷部 鋭吉(はせべ えいきち、1885年10月7日 - 1960年10月24日)は日本の建築家、実業家。住友銀行本店などを手掛ける。 東京都出身(北海道生まれ)。住友総本店出身で、日建設計の母体の長谷部竹腰建築事務所の竹腰健造と共に創業者の1人である。大阪市北浜の住友ビルディング(旧住友銀行本店・現三井住友銀行大阪本店)や千代田区の日本神学校(現東京ルーテルセンター教会)などが代表作として知られている。
西出 朝風(にしで ちょうふう、1885年〈明治18年〉10… 西出 朝風(にしで ちょうふう、1885年〈明治18年〉10月6日 - 1943年〈昭和18年〉3月14日)は、口語歌人。本名:西出一(つかさ)。 大聖寺耳聞山(現・石川県加賀市)出身。父の孫一は橋立(現加賀市)で代々北前船業を営む西出家の9代西出孫左衛門の長男であったが、家督相続を許されず、大聖寺に分家した。 朝風は石川県立金沢第一中学校(現在の石川県立金沢泉丘高等学校)から慶應義塾(普通部)に進学し、後に中退した。 明治30年代から口語歌を発表。1910年(明治43年)には同じ詩人の西出うつ木と結婚し、1914年(大正3年)「新短歌と新俳句」を創刊。1915年(大正4年)、金沢の北国新聞社に入社し、紙上で、若い歌人に口語短歌への影響を与えた。
江坂 徳蔵(えさか とくぞう、1885年〈明治18年〉10月… 江坂 徳蔵(えさか とくぞう、1885年〈明治18年〉10月4日 - 1964年〈昭和39年〉8月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍機関少将。新潟県高田市長。 新潟県中頸城郡高田町(のち高田市、現・上越市)生まれ。旧制高田中学(現・新潟県立高田高等学校)卒業後、海軍機関学校に入り、1911年(明治44年)卒業する(16期)。戦艦「山城」機関長などを歴任し、1927年(昭和2年)、海軍機関大佐に進級、第3戦隊、練習艦隊、第2艦隊、連合艦隊の各機関長を務め、1933年(昭和8年)海軍機関少将に進級、燃料廠平壌鉱業部長に就任し、1936年(昭和11年)3月、予備役となった。同年7月4日、郷里の高田市長に就任した。
鈴木 氏亨(すずき しこう、1885年〈明治18年〉10月4… 鈴木 氏亨(すずき しこう、1885年〈明治18年〉10月4日 – 1948年〈昭和23年〉1月15日)は、日本の新聞記者、編集者。菊池寛の秘書を務めたのち、1923年に創刊された月刊誌『文藝春秋』の編集に加わり、のちに文藝春秋社の専務取締役を務めた。 1885年(明治18年)10月4日、宮城県仙台市に生まれる。早稲田大学を卒業後、文芸誌『新小説』の記者として編集・執筆の道に入った。 1923年(大正12年)、菊池寛が創刊した『文藝春秋』に編集同人として参加。創刊号には「時代は移る」を寄稿している。以後、編集・経営の両面で同誌の発行体制を支え、専務取締役に就任した。 1948年(昭和23年)1月15日、長野県軽井沢の自宅にて死去。
小池 正彪(こいけ まさとら、明治18年(1885年)10月… 小池 正彪(こいけ まさとら、明治18年(1885年)10月2日 - 昭和36年(1961年)3月31日)は男爵・小池正直の次男。東京市小石川(現・東京都文京区小石川)出身。三井信託会長を経て、1943年に引責辞任した向井忠晴三井物産会長の後任に内定していた住井辰男が、健康上の理由で就任を辞退したため、急遽三井物産会長に就任した。1944年退任し三井本社・代表取締役常務理事に就任。戦後、公職追放となる。
石川 登盛(いしかわ ともり、1885年〈明治18年〉10月… 石川 登盛(いしかわ ともり、1885年〈明治18年〉10月1日 - 1953年〈昭和28年〉1月10日)は、朝鮮総督府官僚。実業家。旧姓は菊地。 岩手県東磐井郡砂子田村字前川原(八沢村、藤沢町を経て、現一関市)出身。菊地宇太郎、とめの三男。1908年(明治41年)代言人の石川銀作の養子となる。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。岩手県警部、西磐井郡長、岩手県理事官を務め、1913年(大正2年)に朝鮮総督府事務官に転じた。全羅北道第二部長、同警察部長、警務局保安課長、同衛生課長、同警務課長兼図書課長を歴任し、1929年(昭和4年)に平安北道知事に就任した。
福岡 易之助(ふくおか やすのすけ、1885年9月28日 -… 福岡 易之助(ふくおか やすのすけ、1885年9月28日 - 1931年2月8日)は、白水社の創業者。現在の秋田県横手市(旧雄物川町福地)出身。俳号は雄川。 秋田県平鹿郡福地村深井(現・横手市雄物川町)の造り酒屋で、二百町歩の小作地に広大な山林を持つ素封家の長男として生まれる。旧制第三中学校(現秋田県立横手高等学校)から旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学仏文科を卒業した。 在学中に父が逝去したため、明治43年(1910年)の卒業後に帰郷し酒造業を継ぎ、農業振興にも力を入れる。大正3年(1914年)に郡会議員となるが、しがらみや因習に疲れ辞職。1917年、農業振興に見切りをつけ上京。 白水社を興してフランス文学の普及につとめる。
斎藤 弥平太(さいとう やへいた、1885年(明治18年)9… 斎藤 弥平太(さいとう やへいた、1885年(明治18年)9月28日 - 没年不詳(1953年(昭和28年)9月28日、戦時死亡宣告))は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階および勲等は正三位・勲一等。 香川県三野郡上高野村(現 三豊市豊中町)出身。農業・斎藤浜太郎の次男として生れる。 旧制香川県立三豊中学校(第1回)を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第12連隊付となる。1914年(大正3年)11月、陸軍大学校(26期)を卒業した。 参謀本部付勤務、第18師団参謀、参謀本部員などを経て、1923年(大正12年)5月から12月まで欧州に出張した。
田所 哲太郎(たどころ てつたろう、1885年9月27日 -… 田所 哲太郎(たどころ てつたろう、1885年9月27日 - 1980年3月20日)は、日本の農学者・化学者。学位は、農学博士・理学博士(東北帝国大学)。 北海道学芸大学・帯広畜産大学・北海道女子短期大学の学長を歴任。 秋田県能代市生まれ。1910年、東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)卒業、同大学助手。1911年、同助教授。1919年農学博士の学位を取得。1921年、北海道帝国大学教授。1928年、東北帝国大学より理学博士の学位を取得、学位論文の題は「Sex differences, from the stand-point of biochemistry(生物化學上に於ける性的差異)」。
塚田 公太(つかだ こうた、1885年9月27日 - 196… 塚田 公太(つかだ こうた、1885年9月27日 - 1966年6月9日)は日本の実業家。東洋棉花会長、日本織物統制社長、貿易庁長官、倉敷紡績社長、同会長等を務めた。藍綬褒章受章。 新潟県出身。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。三井物産ボンベイ支店員等を経て、三井物産綿花部が独立した東洋棉花に移り、ムンバイ支店長、常務、専務などを経て、1940年東洋綿花会長に就任。1943年トヨタ自動車工業監査役。 日本織物統制社長を経て、1946年公職追放された三井物産出身の向井忠晴に代わり貿易庁長官についたが、その後公職追放となる。 1951年倉敷紡績社長。1955年倉敷紡績会長。日本経営者連盟(のちの日本経営者団体連盟)常任理事等も務めた。
小早川 秋聲(こばやかわ しゅうせい、秋声とも、1885年(… 小早川 秋聲(こばやかわ しゅうせい、秋声とも、1885年(明治18年)9月26日 - 1974年(昭和49年)2月6日)は、大正から昭和中期にかけて活動した日本画家。文展・帝展を中心として活躍、今日では《國之楯》を始めとする戦争画で知られている。 鳥取県日野郡日野町黒坂の光徳寺住職、小早川鐵僊の長男として、母・幸子の実家、神戸市の九鬼隆義子爵邸内で生まれる。本名は盈麿(みつまろ)。秋聲の号は、青年時代に愛読していた『古文真宝』収録の歐陽修の詩「秋聲賦」から取ったという。父は京都東本願寺の事務局長を勤め、母は元摂津三田藩九鬼隆義の妹である。幼少時代を神戸で過ごす。弟の小早川好古も日本画家である。
古賀 峯一(こが みねいち、1885年(明治18年)9月25… 古賀 峯一(こが みねいち、1885年(明治18年)9月25日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。海兵34期・海大15期。連合艦隊司令長官在職中に海軍乙事件にて殉職。 1885年(明治18年)9月25日、佐賀県西松浦郡有田村(現・有田町泉山)に生まれる。生家は現存し(2020年現在)、生家前には2002年に記念碑が建立されている。佐賀中学校在学時には、誠友団と名づけた交友団体に属していた。会員には吉田善吾(海兵32期)や小説家の下村湖人がおり、下村の『次郎物語』に登場する新賀峯雄は古賀である。 1903年(明治36年)12月17日、海軍兵学校(34期)に、席次195名中29番で入校。
片桐 英吉(かたぎり えいきち、1885年9月24日 - 1… 片桐 英吉(かたぎり えいきち、1885年9月24日 - 1972年8月16日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 山形県米沢市出身。片桐作吉の長男として生まれる。米沢中学校を経て、1906年11月、海軍兵学校(34期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍砲術学校高等科を卒業し、「摂津」分隊長、「厳島」分隊長、砲術学校教官などを経て、1918年11月、海軍大学校(甲種16期)を卒業。以後、第2水雷戦隊参謀、軍令部出仕兼参謀、「摂津」砲術長、「出雲」砲術長、海兵教官、海軍省教育局第1課局員などを歴任。 さらに、欧米出張、「大井」艦長、「青葉」艦長、教育局第1課長、「榛名」艦長などを経て、1933年11月、海軍少将に進級。
松平 穆堂(まつだいら ぼくどう、1884年(明治17年)1… 松平 穆堂(まつだいら ぼくどう、1884年(明治17年)10月22日 - 1962年(昭和37年)10月15日)は、日本の書家。以文会(現・致道博物館)理事、松平武右衛門家10代当主。黒崎研堂門下では吉田苞竹と双璧をなした。 1884年(明治17年)10月22日、塚原権平の子として、山形県東田川郡松ヶ岡(現・鶴岡市羽黒町)に生まれる。松平武右衛門家9代当主・松平久彰の養子となる。その後、黒崎研堂の門下生となり、書と詩を学ぶ。 1907年(明治40年)山形師範学校を卒業し、最上郡鮭川村小学校に勤務。1908年(明治41年)教員試験に合格し中等教員習字科の免許を取得する。1912年(明治45年)酒田高等女学校(現・山形県立酒田西高等学校)教諭。
森 矗昶(もり のぶてる、1884年〈明治17年〉10月21… 森 矗昶(もり のぶてる、1884年〈明治17年〉10月21日 - 1941年〈昭和16年〉3月1日)は、日本の実業家、森コンツェルンの創業者、衆議院議員(3期)。位階は従五位勲四等。 弟は元衆議院議員の岩瀬亮。息子に政治家の森曉(長男)、森清(四男)、森美秀(五男)、娘婿に安西正夫(長女・満江の夫)、三木武夫(次女・睦子の夫)、田中覚(三女・三重子の夫)がいる。孫に森英介(五男・美秀の息子)、安西孝之(長女・満江の息子)、高橋紀世子(次女・睦子の娘)、松崎哲久(三女・三重子の息子)がいる。 少年時代から実学で知識と技術を体得し、時にヤマカンとよばれる事業に対する嗅覚によって化学工業の先達となった叩き上げの実業家であった。
武石 浩玻(たけいし こうは、1884年(明治17年)10月… 武石 浩玻(たけいし こうは、1884年(明治17年)10月20日 - 1913年(大正2年)5月4日)は日本の飛行家。日本の民間飛行家として最初の航空事故による犠牲者でもある。本名は道之介。 茨城県那珂郡勝田村大字勝倉(現在のひたちなか市勝倉)出身。武石家は水戸佐竹藩の家老職を務めた家柄であったが、水戸徳川家では庄屋に任じられていた。 1902年(明治35年)3月、茨城県尋常中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)の卒業試験を終えるなり卒業式には出ずに、横浜港から海外へ飛び出し、商船のボーイを務めながらヨーロッパへ渡り、更に翌1903年(明治36年)には郷土の代議士・根本正からの紹介状を得て渡米した。
薬師寺 主計(やくしじ かずえ、1884年(明治17年)10… 薬師寺 主計(やくしじ かずえ、1884年(明治17年)10月20日 - 1965年(昭和40年)3月11日)は日本の建築家。 岡山県出身。1909年東京帝国大学工科建築科を卒業後、陸軍省の技師として勤務する一方で、郷里の有力者であった大原孫三郎の依頼により第一合同銀行倉敷支店(現:中国銀行倉敷本町出張所)の設計に携わった。 1926年の陸軍省退職後、大原孫三郎に招かれ倉敷絹織(現:クラレ)の取締役に就任し、その経営に参画しながら大原美術館本館や倉紡中央病院(現:倉敷中央病院)、第一合同銀行本店(現:中国銀行)などの大原家の関わる施設を中心に多くの建築を手がけた。 1884年(明治17年)、岡山県賀陽郡刑部村(現:総社市刑部)に生まれる。
西 済(西 濟、にし いつき、1884年 <明治17年> 1… 西 済(西 濟、にし いつき、1884年 <明治17年> 10月18日 - 1981年 <昭和56年> 4月27日)は、日本の経営者。十條製紙社長を務めた。位階は従四位。 長崎県平戸市出身。1906年に東京高等工業学校機械科を卒業し、同年に鈴木機械製作所に入社。 1910年に王子製紙に転じ、1941年に取締役を経て、1949年8月には十條製紙社長に就任。1957年11月に会長を経て、1968年5月には相談役に就任。 1960年に藍綬褒章を受章し、1965年11月には勲三等瑞宝章を受章。 1981年4月27日、心不全のために死去。96歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
結城 安次(ゆうき やすじ、1884年(明治17年)10月1… 結城 安次(ゆうき やすじ、1884年(明治17年)10月17日 - 1977年(昭和52年)3月4日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。参議院議員。 結城萬蔵の二男、結城堅の弟として茨城県取手町(現取手市)に生まれる。1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、三井物産に入り、本店、上海、大阪各支店にて勤務する。1924年(大正13年)清浦内閣の時、逓信大臣秘書官に任ぜられた。実業界では早川電力、東京電力、大井川鐵道などの重役、自動車鋳物、大井川電力各社長、三河水力電気、伊豆水力電気、上毛電力、東京湾電気、寸又川水力電気各取締役などを歴任した。
沢田 権左エ門(さわだ ごんざえもん、1884年〈明治17年… 沢田 権左エ門(さわだ ごんざえもん、1884年〈明治17年〉10月16日 - 1959年〈昭和34年〉1月9日)は、日本の政治家。釜石市長(2期)。 岩手県南閉伊郡釜石村(のち釜石町、現・釜石市)に生まれる。早稲田大学法科卒。電友社を経て、東京朝日新聞社に入る。その後、帰郷し、1911年(明治44年)釜石電気会社を設立する。ほか、運送倉庫会社や製氷会社などを興し、その経営に当たる。 政治面では1917年(大正6年)から1925年(大正14年)まで釜石町会議員を2期務めた。1931年(昭和6年)12月20日、岩手県会議員補欠選挙に上閉伊郡選挙区から立憲政友会公認で立候補して、初当選を果たした。同月22日に就任した。
霜山 精一(しもやま せいいち、1884年(明治17年)10… 霜山 精一(しもやま せいいち、1884年(明治17年)10月15日 - 1975年(昭和50年)3月12日)は、日本の司法官僚、弁護士。大審院長、最高裁判所判事、貴族院議員。従二位勲一等。 1910年(明治43年)に東京帝国大学を卒業。1912年(大正元年)12月に判事に任官。司法省参事官も務め、1924年(大正13年)1月に大審院判事、1934年(昭和9年)5月に札幌控訴院院長になった時は51歳で全国控訴院長のうち最年少であった。この後、広島控訴院長を経て、1939年(昭和14年)に東京控訴院長と昇進。1942年(昭和17年)に控訴院判事人事は部長会議(分科会)の合議で決めることになっていたが、霜山院長の独断で代理部長の人事を決めた際に、法律違反だとして若手判事らが徒党を組んで抗議して撤回を迫られるという控訴院分科会事件が発生した。
中村 星湖(なかむら せいこ、1884年(明治17年)10月… 中村 星湖(なかむら せいこ、1884年(明治17年)10月14日 - 1974年(昭和49年)4月13日)は、日本の文学者。星湖は筆名で、本名は中村 将為(なかむら まさため)。 山梨県南都留郡河口村(後の旧同郡河口湖町、現富士河口湖町)に生まれる。8人兄弟の長男。河口村は河口湖に面し、江戸時代から富士参詣者への宿坊を提供する御師の町で、中村家も御師業を営みつつ農業や養蚕を行っていた。 1890年(明治23年)に村立河口小学校へ入学する。両親の影響で幼少時から文学に親しみ、回覧雑誌などを製作している。1897年(明治30年)中学進学のため一時上京するが、翌年に甲府の山梨県立尋常中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)に入学。
小山 鞆絵(おやま ともえ、1884年(明治17年)10月1… 小山 鞆絵(おやま ともえ、1884年(明治17年)10月14日 - 1976年(昭和51年)12月3日)は、大正・昭和時代の哲学者。ヘーゲル哲学の研究者。東北大学名誉教授。 1884年(明治17年)10月14日、埼玉県北足立郡鴻巣宿で生まれた。東京帝国大学文科大学哲学科で、ドイツ哲学を中心とした西洋哲学をラファエル・フォン・ケーベルについて学んだ。同期生には、安倍能成、伊藤吉之助、宮本和吉らがいた。1909年(明治42年)、同大学を卒業。 卒業後は、海軍大学校、慶應大学、東北帝国大学理学部などで講師を務めた。1915年(大正4年)3月5日、板垣退助伯爵の五女、良子と結婚。1921年(大正10年)、ヨーロッパへ留学。
宮島 綱男(みやじま つなお、1884年(明治17年)10月… 宮島 綱男(みやじま つなお、1884年(明治17年)10月13日 - 1965年(昭和40年)3月26日)は、日本の経済学者・大学経営者。日仏交流にも長年尽力した。 1884年、愛知県丹羽郡池野村(現・犬山市)の素封家の家に生まれる。 1904年、名古屋英和学校を卒業。1908年、早稲田大学商科の外交部を首席で卒業。1911年、早大在外研究員としてヨーロッパに留学、シャルル・ジイド(ノーベル賞作家アンドレ・ジイドの叔父)の下で金融経済学を学ぶ。1913年、早大教授となるも、1917年早稲田騒動で早大を去る。その後、山岡順太郎(大阪商工会議所会頭)の個人秘書となる。 1921年、関西大学教授となる。
町永 三郎(まちなが さぶろう、1884年10月13日 - … 町永 三郎(まちなが さぶろう、1884年10月13日 - 1966年9月1日)は、日本の実業家。神戸製鋼所社長と尼崎製鉄社長を務めた。 新潟県出身。1913年に大阪高等工業学校機械部機械科を卒業し、神戸製鋼所に入社した。1944年に取締役に就任し、1946年に公職追放を受けた浅田長平に代わり、社長に就任した。浅田長平が復帰した1952年を機に副社長に就任し、1955年には尼崎製鋼所社長も兼任し、1958年に尼崎製鉄社長に就任した。 1965年11月には勲三等旭日中綬章を受章した。 1966年9月1日敗血症のために死去。81歳没。
毛内 效(もうない いさお、1884年10月12日 - 19… 毛内 效(もうない いさお、1884年10月12日 - 1936年5月16日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 青森県青森市出身。弘前藩士毛内嘉胤の三男として生まれる。兄は陸軍少将毛内靖胤。弘前中学(現・青森県立弘前高等学校)、海軍兵学校(33期)、海軍大学校を経て、海軍大学校教官を務めた。佐世保海軍艦船部長、武蔵特務艦長、天龍、那珂、陸奥、尻矢、大泊艦長などを歴任した。航海術の権威で昭和7年(1932年)侍命となった。退役後は太平洋漁業会社顧問として、北洋漁業に関わった。 1936年(昭和11年)5月16日死去。同月18日に行われた葬送の際には、勅使が邸宅に訪れ幣帛が下賜された。
石田 信次(いしだ のぶじ、旧姓:高野、1884年10月11… 石田 信次(いしだ のぶじ、旧姓:高野、1884年10月11日 - 1960年10月31日)は、明治・大正・昭和時代の日本の教育者。 新潟県三島郡与板町岩方(現長岡市)出身。三島郡立与板高等小学校(現長岡市立与板小学校)を経て1906年新潟師範学校卒業後、小学校教諭となり新潟県内各校に赴任した。 1922年、開校して間もない新潟市立万代尋常小学校(現新潟市立万代長嶺小学校)校長に就任した。学習以前の問題が根深く存在していた当時の同校に於いて、7年間にわたって能力別編成による授業などの「万代教育」といわれる教育活動に取り組み、大正期の新教育実践者として知られた。その後は現在の新潟市立沼垂小学校、新潟市立白山小学校校長を務めた。
今村 正美(いまむら まさみ / まさよし、1884年(明治… 今村 正美(いまむら まさみ / まさよし、1884年(明治17年)10月11日 - 1945年(昭和20年)2月22日)は、日本の検察官、内務・警察官僚、弁護士。官選滋賀県知事。 香川県丸亀市出身。今村信美の二男として出生。明治大学、日本大学の各法科を卒業。1905年11月、判事検事登用第1回試験に合格。1906年7月、司法官試補・和歌山区裁判所及同検事局事務修習となる。以後、大阪、岡山地方の各検事、山口県理事官、富山県警察部長、北海道庁警察部長、高知県書記官・内務部長、熊本県書記官・内務部長などを歴任。1927年5月、熊本県内務部長から滋賀県知事に就任(在任期間:昭和2年5月17日~昭和3年6月29日)。
小杉 繁安(こすぎ しげやす、1884年(明治17年)10月… 小杉 繁安(こすぎ しげやす、1884年(明治17年)10月7日 - 1963年(昭和38年)4月29日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 山形県東村山郡天童町(現天童市)で小杉繁治の長男として生まれる。1919年(大正8年)東京帝国大学経済学部経済学科を卒業した。 日本鉱業開発取締役、沢藤電機取締役、東北振興精密機械専務取締役、北日本産業社長、日生鉱業社長、東北農機社長、協栄興業社長、大船産業監査役などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に山形県地方区から無所属で出馬して当選し、自由党に所属して参議院議員に1期在任した。その間、参議院両院法規委員長などを務めた。
田中 義麿(たなか よしまろ、1884年10月6日 - 19… 田中 義麿(たなか よしまろ、1884年10月6日 - 1972年7月1日)は、日本の遺伝学者、育種学者。九州大学名誉教授。 長野県東筑摩郡片丘村(現塩尻市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)在学中、動物学教室でウィリアム・ベイトソンの『メンデルの遺伝の法則』をに感銘を受け遺伝学を志す。1911年に同大助教授となり、1913年、日本で初めて遺伝学を講義する。1917年、「蚕の遺伝学的研究」で農学博士号を得る。欧米留学後の1924年には九州帝国大学農学部教授となる。 安藤広太郎らと7名で1915年、日本育種学会(1920年に日本遺伝学会に改組)を創設、1939年日本遺伝学会会長、1949年には国立遺伝学研究所の第一部長に就任した。
秋山 孝之輔(あきやま こうのすけ、1884年10月5日 -… 秋山 孝之輔(あきやま こうのすけ、1884年10月5日 - 1970年10月23日)は、日本の経営者。栃木県栃木市出身。 1905年に慶應義塾大学法学部政治科を卒業し、1910年に大日本製糖に入社。常務、専務、副社長を経て、1949年6月には日本専売公社総裁に就任し、1953年5月までに務めた。慶應義塾大学理事も務めた。 1964年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1970年10月23日心不全のために死去。86歳没。
村田 正太(むらた まさたか、1884年10月5日 - 19… 村田 正太(むらた まさたか、1884年10月5日 - 1974年12月20日)は、日本の医師、医学研究者。梅毒血清反応「村田法」の創始者。ハンセン病研究者。エスペランティスト。1926年から1933年まで大阪府外島保養院院長を務めたが、外島事件で辞任した。患者を一人の人間として対等に「キミ」と呼び、遇したのは当時としてはたいへん珍しい。その後職に就かず、神奈川県二宮町で個人的研究生活に入る。 法律を勉強していた時に知った女性がらいに罹患し、生涯らいに尽そうと決意した。光田健輔を紹介され、同氏の指示をうけ、医学の道に進む。東京伝染病研究所では、梅毒血清反応を研究。村田反応を創設した。大阪府外島保養院院長席が空席をなり、村田が起用された。
辻 潤(つじ じゅん、1884年10月4日 - 1944年1… 辻 潤(つじ じゅん、1884年10月4日 - 1944年11月24日?)は、日本の翻訳家、思想家である。日本におけるダダイスムの中心的人物の一人とされる。画家、詩人の辻まことは長男である。
上條 信(かみじょう しん、1884年(明治17年)10月3… 上條 信(かみじょう しん、1884年(明治17年)10月3日 - 1950年(昭和25年)10月8日)は、日本の実業家、政治家。筑摩鉄道(現・アルピコ交通上高地線)やバス事業を始め、多くの事業経営に携わった他、戦前・戦後に新村村長・長野県会議員・衆議院議員をも務めた。 長野県東筑摩郡新村(現松本市)で元衆議院議員の上條謹一郎の長男として生まれる。 松本中学校から早稲田大学に進み、のち帰郷して家を継いだ。1913年に新村村長になる。上条を中心とする有志が、1915年(大正4年)に 安筑軽便鉄道として、松本 - 稲核間の鉄道敷設免許を出願するも却下された。次いで、1918年に安曇鉄道が、松本 - 稲核間の鉄道敷設免許を出願するも却下される。
下村 湖人(、1884年(明治17年)10月3日 - 195… 下村 湖人(、1884年(明治17年)10月3日 - 1955年(昭和30年)4月20日)は、日本の小説家、および社会教育家。本名は下村 虎六郎()、旧姓は内田()。 佐賀県神埼郡崎村(現神埼市千代田町崎村)出身。東京帝国大学英文科卒。大学卒業後に母校佐賀中学校教師や鹿島中学校校長等を歴任。教職辞任後は、同郷で高校・大学同窓の田澤義鋪に従い、講演や文筆活動で社会教育に尽力。青少年に影響を与えた『次郎物語』の著者として知られる。 生まれて間もなく里子に出されるが、4歳の時に実家に戻る。佐賀中学校時代から、雑誌に詩歌を内田 夕闇(うちだ ゆうあん)の筆名で投稿。このころから、高田保馬、中島哀浪、山口亮一らと親交があった。
日高 重孝(ひだか しげたか/じゅうこう、1884年10月3… 日高 重孝(ひだか しげたか/じゅうこう、1884年10月3日 - 1980年3月5日)は、日本の歴史学者、郷土史家、教育者、宮崎県立博物館初代館長。その他、旧制中学校の校長、宮崎県立宮崎図書館長、上代日向研究所長を歴任。 宮崎県宮崎市中村町生まれ、同市福島町出身。田村弥太郎、きさの二男奈太郎として生まれ、6歳の時に伯父日高健助の養嗣子となる。高等小学校を終えて、1897年(明治30年)に旧制宮崎県立宮崎中学校(現 宮崎県立宮崎大宮高等学校)へ入学し、1902年(明治35年)卒業。1905年(明治38年)旧制第七高等学校造士館卒業。1910年(明治43年)東京帝国大学文科大学史学科国史学専修卒業。
進藤 甲兵(しんどう こうへい、1884年(明治17年)10… 進藤 甲兵(しんどう こうへい、1884年(明治17年)10月2日 - 1942年(昭和17年)1月25日)は、大正から昭和初期にかけて活動した日本の実業家。東邦電力常務や九州鉄道(現・西日本鉄道)社長などを務めた。山梨県出身。 進藤甲兵は1884年(明治17年)10月2日、山梨県北巨摩郡小淵沢村(現・北杜市)にて進藤利貞の次男として生まれた。はじめ「広平」と名乗っていたが、1913年(大正2年)分家とともに「甲兵」に改めている。生家の進藤家は土地の名家で、甲兵が生まれた当時はアメリカの商社の特約店として肥料商を営んでおり、裕福な家であった。兄の長重は陸軍士官学校を卒業して陸軍軍人となったが、日露戦争中の1904年(明治37年)に南山の戦いで戦死した。
粟山 博(もみやま ひろし 1884年〈明治17年〉10月2… 粟山 博(もみやま ひろし 1884年〈明治17年〉10月2日 - 1959年〈昭和34年〉9月20日)は日本の政治家。衆議院議員(10期)。位階は正四位。勲等は勲二等。 戦前は憲政会・立憲民政党に所属したが、戦後に公職追放された。追放の解除後は、旧民政党左派の松村謙三・鶴見祐輔・小山邦太郎・中村三之丞・松浦周太郎・川崎末五郎らと行動を共にした。政界復帰(1952年)の後は、改進党・日本民主党に所属した。日本民主党が保守合同した後は、自由民主党にて松村・三木派に所属した。 1884年(明治17年)、福島県安積郡(現在の郡山市富久山町)に生まれる。 1911年(明治44年)、第10回衆議院議員総選挙補欠選挙に出馬していた古島一雄の選挙を手伝う。
5代目 三遊亭 圓生(さんゆうてい えんしょう、1884年1… 5代目 三遊亭 圓生(さんゆうてい えんしょう、1884年10月1日 - 1940年1月23日)は、東京の落語家。本名∶村田 源治。弟は5代目三遊亭圓窓。また一時兵役逃れで三遊亭桃生の養子になっていた。 下総国八街(現・千葉県八街市)の宿屋「梅屋」の家に生まれ、父は入婿で東京市の芝愛宕下で大工をしていた。6歳で実父は出奔、親戚に預けられ14歳で日本橋蛎殻町の足袋店に奉公するなど、波瀾に満ちた少年時代を送る。 1902年、19歳で奉公先を飛び出す。剣舞の日比野雷風一座(日比野雷風正吉)に1、2年程加わったり、旅回りの一座に加わるなどの苦労を重ねる、1905年に旅回りの一座で知り合った4代目橘家圓蔵一門に入り、橘家二三蔵となる。
天野 貞祐(あまの ていゆう、1884年〈明治17年〉9月3… 天野 貞祐(あまの ていゆう、1884年〈明治17年〉9月30日 - 1980年〈昭和55年〉3月6日)は、大正・昭和期の日本の哲学者・教育者・文学博士。京都帝国大学名誉教授。甲南高等学校校長。 第二次世界大戦後は第一高等学校校長・文部大臣(第3次吉田内閣)を務めた後に獨逸学協会学校を母体として創立された獨協大学の初代学長を務めた。文化功労者。武蔵野市名誉市民。 1884年、神奈川県津久井郡鳥屋村(現在の相模原市)の豪農の出身。父・天野藤三は自由民権運動に参加して後に村長・衆議院議員を務めた。父は教育熱心な人物であり、天野も将来医師になることを嘱望されて13歳の時に獨逸学協会学校中学校(旧制中学、獨協学園の前身)に入学した。
山根 真治郎(やまね しんじろう、1884年〈明治17年〉9… 山根 真治郎(やまね しんじろう、1884年〈明治17年〉9月30日 - 1952年〈昭和27年〉7月10日)は、日本のジャーナリスト。『国民新聞』、『東京新聞』などで、記者、編集者として活動し、日本最初の本学的なジャーナリスト教育組織としての新聞学院(1932年 - 1942年)を創設して学院長を務めた。 山口県玖珂郡玖珂町(後の岩国市の一部)に生まれる。商人の家の長男であったが、父親の投資の失敗で家は没落したという。 郷里にいた頃から、下関の新聞社に寄稿するなどしていたが、1901年に単身で大阪へ移り住み、泰西学館に学びながら、大阪万朝報社の校閲の仕事などを経験した。 山根は、泰西学館卒業後に徒歩で上京し、皿洗いなどしながら学資を確保1907年に中央大学法学部を1期生として卒業、奥田義人の推薦を得て『時事新報』記者となり、1910年に『中央新聞』へ移って、程なくして社会部長を務め、1914年には『国民新聞』へと転じた。
森田 政義(もりた まさよし、明治17年(1884年)9月2… 森田 政義(もりた まさよし、明治17年(1884年)9月29日 - 昭和14年(1939年)3月21日)は、日本の弁護士、政治家。元衆議院議員(立憲政友会)。大阪府平民。実業家・タレント大屋政子の父。 熊本県の森田實政の弟。 大正3年(1914年)明治大学法科を卒業。弁護士試験合格。大正9年(1920年)分家する。大正13年(1924年)から衆議院議員を6期務め、立憲政友会総務となった。昭和4年(1929年)12月、選挙法違反により衆議院議員を退職。翌昭和5年(1930年)の第17回総選挙で復帰。昭和12年(1937年)の第20回総選挙で落選するが、翌昭和13年(1938年)同じ選挙区の西尾末広が議会から除名されたため、繰り上げ当選となる。
尾高 亀蔵(すえたか かめぞう、1884年(明治17年)9月… 尾高 亀蔵(すえたか かめぞう、1884年(明治17年)9月28日 - 1953年(昭和28年)8月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・大谷。 佐賀県出身。農業・大谷平治の二男として生まれ、尾高家の養子となる。唐津中学校を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(16期)を卒業する。同期には岡村寧次・土肥原賢二・板垣征四郎・安藤利吉ら陸軍大将がいる。同年11月、歩兵少尉に任官し歩兵第13連隊付となる。日露戦争に出征後、陸士生徒隊付、歩兵第13連隊中隊長などを経て、1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)を卒業した。 陸軍歩兵学校教官、関東兵站参謀、教育総監部付、教育総監部課員などを歴任し、1923年(大正12年)8月、第14師団参謀となる。
杉村 陽太郎(すぎむらようたろう 1884年(明治17年)9… 杉村 陽太郎(すぎむらようたろう 1884年(明治17年)9月28日 - 1939年(昭和14年)3月24日)は、大正、昭和の外交官、IOC委員。
宮地 茂秋(みやじ しげあき、1884年(明治17年)9月2… 宮地 茂秋(みやじ しげあき、1884年(明治17年)9月28日 - 1977年(昭和52年))は、明治・大正・昭和の実業家。日本セメント株式会社常務取締役、京阪電気鉄道株式会社監査役、呉軍港土地株式会社取締役、セメント連合会会長。自由民権活動家・宮地茂春の長男。坂本龍馬・板垣退助両家の血統を引く人物。妻は福岡孝弟の孫娘。 明治17年(1884年)9月28日、自由民権活動家・宮地茂春の長男として高知県土佐郡潮江村(現・高知市)に生まれる。母は、板垣退助の二女・軍子。 宮地家は、土佐藩白札郷士の家柄で、宮地茂秋は、板垣退助の孫であり、また坂本龍馬の曾祖父・山本伴蔵信敬の血縁子孫にあたる。祖父・宮地茂樹(甚蔵・自然)は、北越戦争に従軍して功を上げた。
細江 逸記(ほそえ いっき、1884年9月28日 - 194… 細江 逸記(ほそえ いっき、1884年9月28日 - 1947年3月11日)は、日本の英語学者。 三重県出身。東京外国語学校英語科卒。東京外国語学校講師、大阪高等商業学校教授、1931年大阪商科大学教授。1936年「ヂヨーヂエリオツトの作品に用いられたる英国中部地方言の研究」で京都帝国大学文学博士。
石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年〈明治17年〉9月… 石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年〈明治17年〉9月25日 - 1973年〈昭和48年〉4月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家、教育者(立正大学学長)。階級は陸軍少尉(陸軍在籍時)。位階は従二位。勲等は勲一等。 大蔵大臣(第50代)、通商産業大臣(第10・11・12代)、内閣総理大臣(第55代)、郵政大臣(第9代)などを歴任した。総理大臣在任期間は65日であり、日本国憲法下では羽田孜の64日に次いで2番目に短く、日本の憲政史上でも3番目の短さである。 早稲田大学から法学の名誉博士(Doctor of Laws)を贈られた(1957年10月20日授与)。 「明治国家のミリタリズム、インペリアリズムは世界の趨勢であったとしても、見落とされてはならないのがデモクラシーの醸成である。
橋口 行彦(はしぐち ゆきひこ、1883年10月22日 - … 橋口 行彦(はしぐち ゆきひこ、1883年10月22日 - 1963年7月28日)は日本の政治家、鉄道技師・官僚。鹿児島県串木野市初代市長、鉄道大臣官房研究所所長。 鹿児島県生まれ、串木野市(現いちき串木野市)出身。1907年7月第七高等学校造士館第二部(工科志望)卒業。1912年7月に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、鉄道院(後に鉄道省と改称)に入って技手となり、1918年11月技師に昇進。1923年8月から1925年10月に鉄道省在外研究員として欧米留学。1935年6月、鉄道省監督局技術課長となる。1936年7月15日、鉄道大臣官房研究所(現鉄道総合技術研究所)所長に就任。在任中の1937年2月、国際鉄道会議日本政府代表委員としてフランス出張。