工藤 隆治(くどう りゅうじ、1878年(明治11年)8月5… 工藤 隆治(くどう りゅうじ、1878年(明治11年)8月5日 – 1966年(昭和41年)12月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。徳島市長。最終階級は海軍主計大佐。 徳島県麻植郡西尾村(現在の吉野川市)出身。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。海軍に入って、中主計、大主計、主計少監、主計中監、主計大佐と累進し、海軍省経理局第二課長・海軍大学校教官、広海軍工廠会計部長を歴任した。1924年(大正13年)、予備役編入。 1928年(昭和3年)、東京市主事・商工課長に就任。1932年(昭和7年)に品川区長となり、1936年(昭和11年)からは下谷区長を務めた。 1937年(昭和12年)、徳島市長に選出され、1941年(昭和16年)まで在任した。
大塚 武松(おおつか たけまつ、1878年8月2日-1946… 大塚 武松(おおつか たけまつ、1878年8月2日-1946年12月5日)は、日本の幕末史学者。 1878年、山口県岩国で生まれた。東京帝国大学文科大学史学科で学び、1903年に卒業。 1906年、東京大学史料編纂掛補助となり、まず外務省の『大日本外交文書』の編集に携わった。1911年に文部省維新史料編纂会常置委員となった。1917年に維新史料編纂会編纂官となり、『概観維新史』の執筆の中心となった。1927年、欧米留学を命じられた。1935年より東京高等師範学校教授を兼任。その他にも在任中には京都帝国大学、東京文理科大学などの講師を務めた。 1936年、『国体の本義』編纂委員となり、国史担当。1939年、『概観維新史』編述主任に就いた。
野州山 孝市(やしゅうざん こういち、1878年8月2日 -… 野州山 孝市(やしゅうざん こういち、1878年8月2日 - 1936年1月23日)は、現在の栃木県真岡市(旧芳賀郡)出身で尾上部屋、出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は直井 幸一。170cm、84kg。最高位は西前頭10枚目。 1897年1月初土俵(同期に玉椿憲太郎)、四股名は出身地の栃木県の旧国名の下野国(野州)より。1900年1月十両昇進。端整な顔立ちで女性に人気があり、1901年1月に入幕したが脱走。復帰後は相撲に精進していたが、1907年に再び脱走。常陸山谷右エ門が間に入って帰参を許されたのも束の間、5月に廃業した。 幕内5場所11勝19敗15休5分預 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。
家坂 幸三郎(いえさか こうさぶろう、1878年(明治11年… 家坂 幸三郎(いえさか こうさぶろう、1878年(明治11年)8月1日 - 1952年(昭和27年)10月24日)は、日本の医師。ハンセン病療養所である国立療養所宮古南静園、国立療養所沖縄愛楽園所長を務めた。クリスチャンで、現在でも宮古南静園に教会がある甦生会(よみがえりのかい)を結成した。 1878年、新潟県見附市に出生。早稲田大学の前身、東京専門学校、英語政治科卒業。外交官になりたかったが、既に医師になっていた五兄の勧めにより医学に進む。1906年に熊本医学専門学校を卒業後、同校実習病院、牧野研究所(東京)、芦屋町立病院(福岡県)に勤めた。1922年、沖縄県衛生技師としてマラリア予防に従事、1930年にアメリカの大学から沖縄県に「沖縄におけるらい事情」についての照会があったが、家坂が書いた報告書は高い評価をうけ、これを基にした論文で細菌学博士を贈られた。
4代目 内田 佐七(よんだいめ うちだ さしち、1878年〈… 4代目 内田 佐七(よんだいめ うちだ さしち、1878年〈明治11年〉7月30日 - 1969年〈昭和44年〉8月8日)は、愛知県知多郡内海(現在の南知多町)出身の実業家。南知多町名誉町民(第1号)。出生名は内田 佐太一(うちだ さだいち)。 1869年(明治2年)には2代目内田佐七によって、内田家の本宅(現在の尾州廻船内海船船主 内田家)が建てられている。1878年(明治11年)7月30日、愛知県知多郡内海字南側39番地にて出生した。父は3代目内田佐七、母はりつ。内田家の長男である。1883年(明治16年)には3代目内田佐七が30歳で早世したため、6歳の幼さで家督を相続し、4代目内田佐七を襲名した。
松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27… 松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。荒尾精の信奉者として、「日中提携」「アジア保全」の運動に生涯をかけたが、ポツダム宣言受諾後、「南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(B級戦犯)を受け、処刑された。
平井 数馬(ひらい かずま、1878年7月26日 - 189… 平井 数馬(ひらい かずま、1878年7月26日 - 1896年1月1日)は、日本の台湾統治初期における教育者で、台湾での近代教育の先駆者の一人。熊本県出身。台湾での活動は短期間に終わったが、その間に台湾の教育制度の基礎を築く重要な役割を果たした。 現在の宇城市に生まれる。 済々黌を卒業。16歳で高等文官試験に合格し、1895年に台湾総督府の通訳官として台湾に赴任した。中国語に堪能だったとされる。 1895年の日本による台湾領有開始とともに、平井は台湾での教育事業に従事。台湾総督府民政局学務部において、台湾人への日本語教育と日本人への台湾土着言語学習の必要性を提唱し、相互理解と混和を目指す教育政策に携わった。
出淵 勝次(でぶち かつじ、1878年(明治11年)7月25… 出淵 勝次(でぶち かつじ、1878年(明治11年)7月25日 - 1947年(昭和22年)8月19日)は、日本の外交官、政治家。外務次官、在アメリカ合衆国日本大使、貴族院勅選議員、参議院議員。位階は正三位、勲等は勲一等。 岩手県第一大区一小区仁王村(現盛岡市梨木町)で旧盛岡藩藩士の次男として生まれる。旧制盛岡中学校(岩手県立盛岡第一高等学校の前身)卒、1902年旧制東京高等商業学校(一橋大学の前身)専門部貿易科卒業。同期に山中千之元国際連盟委任統治委員、高嶋菊次郎元中支那振興総裁、上田貞次郎元帝国学士院会員など。 1902年、外交官及び領事官試験に合格し外務省入省。京城在勤、ドイツ在勤、政務局第一課長を歴任。
原 澄治(はら すみじ、1878年7月23日 - 1968年… 原 澄治(はら すみじ、1878年7月23日 - 1968年1月4日)は、岡山県児島郡藤戸村(現在の倉敷市藤戸町)出身の実業家、地方政治家。旧姓は星島。号は彰邦。倉敷市名誉市民。 実業家として、倉敷紡績(クラボウ)専務、中国民報社(現在の山陽新聞社)役員を務め、大原孫三郎の右腕として実業界で活躍した。 1945年(昭和20年)に辞任するまで系列の奨農土地会長、倉敷絹織(現在のクラレ)取締役、中国信託社長、岡山合同貯蓄銀行頭取、中国銀行取締役などを兼任した。 また1912年(明治45年)から郡議、町議を務め、1918年(大正7年)から1924年(大正13年)までは倉敷町長も歴任した。 1913年(大正12年)に蔵書を寄贈し倉敷旭町小学校(後の倉敷東小学校)内に倉敷図書館を設立。
鈴木 久五郎(すずき きゅうごろう、1877年〈明治10年〉… 鈴木 久五郎(すずき きゅうごろう、1877年〈明治10年〉8月22日 - 1943年〈昭和18年〉8月16日)は、日本の株式相場師、政治家。衆議院議員(群馬県高崎市選出、当選1回)。通称「鈴久」。族籍は東京府平民。 埼玉県北葛飾郡八丁目村(現在の埼玉県春日部市八丁目)に生まれる。鈴木庄五郎の二男。東京専門学校(現在の早稲田大学)に学ぶ。 実兄の7代目兵右衛門が1897年(明治30年)、埼玉県南埼玉郡越ヶ谷町(現在の埼玉県越谷市)に鈴木銀行を設立し、1903年(明治36年)同銀行草加支店長となった。 海外の経済状態の視察中、香港から急遽帰国して株の買占めに着手し、日露戦争中に株売買で大儲けをし成金鈴木と話題を呼ぶ。
鳥潟 隆三(とりかた りゅうぞう、1877年明治10年)8月… 鳥潟 隆三(とりかた りゅうぞう、1877年明治10年)8月20日- 1952年(昭和27年)2月19日) 。医学博士。日本の生理学者。明治-昭和時代の外科医学者・免疫学者。 1877年、北海道函館市生まれ。幼名は隆一。その後、6歳まで父・鳥潟精一の故郷秋田県大館市花岡で過ごした。鳥潟家は慶長年間のころから続く旧家で、花岡村の肝煎を代々務める家柄であった。 6歳まで花岡で育ったのち、大分県で病院長だった叔父鳥潟恒吉・サイ夫妻の許で大分県立大分中学校を卒業。恒吉夫人が甥・息子らを引率して上京し、旧制第一高等学校に進学、卒業に当たり、狩野亨吉の勧めで京都帝国大学医科大学に入った。1904年、恩賜の銀時計を授与されて同大学医科大学を卒業した。
田中 不二(たなか ふじ、1877年(明治10年)8月20日… 田中 不二(たなか ふじ、1877年(明治10年)8月20日 - 1922年(大正11年)11月19日)は、日本の機械工学者。 東京出身。兄はカーバイド工業を開拓した藤山常一である。 1894年(明治27年)に田中林太郎の養子となった。正則尋常中学校、第一高等学校工科を経て、1901年(明治34年)に東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業した。同年7月に同学科の講師となった。同年11月に田中林太郎の娘の芳子と結婚した。 1902年(明治35年)に助教授となった。1904年(明治37年)に機械工学第一講座分担を命じられ、1906年に初の日本語による機械設計の教科書『機械設計及製圖』を同僚の内丸最一郎と共著で出版した。
石塚 三郎(いしづか さぶろう、明治10年(1877年)8月… 石塚 三郎(いしづか さぶろう、明治10年(1877年)8月15日 - 昭和33年(1958年)11月23日)は、日本の政治家・歯学者。衆議院議員(2期)。新潟県平民。 西武グループの総帥堤義明の祖父にあたる。 新潟県蒲原郡、のちの北蒲原郡安田村(安田町を経て現阿賀野市保田)に生まれた。地元の小学校に通いながら、父親が仕えている山林地主の旗野家(『大日本地名辞書』の編者で日本歴史地理学の先達、早稲田大学教授文学博士吉田東伍の生家)に奉公し、吉田東伍の実兄旗野餘太郎から英語、漢文、測量法などを学んだ。 1893年旗野餘太郎の命により医師の資格取得を目指して上京。神田猿楽町の大成学館国語伝習所の事務見習いとして働きながら学んだ。
太刀山 峯右エ門(たちやま みねえもん、1877年8月15日… 太刀山 峯右エ門(たちやま みねえもん、1877年8月15日 - 1941年4月3日)は、現在の富山県富山市吉作(出生時は石川県婦負郡吉作村)出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。第22代横綱。本名は老本 弥次郎(おいもと やじろう)。 1877年に呉羽丘陵の近くの、農業の傍ら製茶業、豆腐業を営む老本治助の次男として生まれた。秀業小学校(現・富山市立呉羽小学校)卒業とされている。老本家の茶は品評会で常に一等で、幼い頃から茶葉の手揉みを手伝っていたことから怪力が付き、これによって針のごとく鋭い優良品を生み出し、茶の品評会では必ず優勝したという。兵役検査での優秀な成績が評判になり、友綱が貴重な逸材として欲しがったが本人は相撲に興味が無く、実家も長男を早く失っているので猛反対された。
冨家 政市(ふけ まさいち、1877年(明治10年)8月14… 冨家 政市(ふけ まさいち、1877年(明治10年)8月14日 - 1945年(昭和20年)9月28日[要出典])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。高松市長。 香川県、現在の高松市出身。香川県尋常中学校卒を経て、1898年(明治31年)11月25日、陸軍士官学校(10期)を卒業。1899年(明治32年)6月27日、陸軍工兵少尉に任官し、1924年(大正13年)2月4日に陸軍少将に至った。その間、陸軍士官学校教官、第3軍兵站電信隊長、工兵第5大隊中隊長、陸軍砲工学校教官、教育総監部工兵監部員、陸軍大学校教官、鉄道連隊附工兵第19大隊長、同第13大隊長を歴任した。少将としては対馬要塞司令官、陸軍科学研究所第1部長を務めた。
植田 平太郎(うえた へいたろう、1877年〈明治10年〉8… 植田 平太郎(うえた へいたろう、1877年〈明治10年〉8月14日 - 1949年〈昭和24年〉7月25日)は、日本の剣道家。流派は天真正伝神道流剣術、無双神伝英信流抜刀術、無双神伝抜刀術兵法。称号は大日本武徳会剣道範士、居合術教士。 昭和天覧試合3回出場。大日本武徳会香川支部、香川県警察部、高松監獄署、高松高等商業学校、高松商業学校、高松第一中学校の剣道師範を務めた。 愛媛県香川郡池西村(現香川県高松市)生まれ。父与佐衛門は天真正伝神道流剣術に堪能で、農業のかたわら自宅に道場を開いていた。平太郎は14歳から与佐衛門に天真正伝神道流剣術を学び、30歳のとき皆伝を授かった。また、16歳から叔父の酒井親時に宅間当流柔術を学んだ。
安倍 仲雄(あべ なかお、1877年(明治10年)8月1日 … 安倍 仲雄(あべ なかお、1877年(明治10年)8月1日 - 1942年(昭和17年)2月5日)は日本の内科医。医学博士。 秋田県北秋田郡阿仁前田村出身。医師安倍全庵の長男として生まれる。 秋田師範学校附属小学校、秋田尋常中学校、第四高等学校を出た後、1902年(明治35年)京都帝国大学医科大学を卒業。そのまま大学院で学び、同大学助手、助教授を務めた。 京都市衛生技師を経て1909年(明治42年)には満洲に渡り南満州鉄道医長に就任。数々の論文を著し、1910年(明治43年)医学博士の学位を得、1911年(明治44年)南満医学堂教授となる。 1912年(明治45年)から1914年(大正3年)までアメリカ、イギリス、ドイツ、オランダ、ベルギー、フランス、スイス、イタリア、オーストリア等の欧米諸国に遊学し、医療・衛生事情を巡察。
西田 博太郎(にしだ ひろたろう、1877年8月1日 - 1… 西田 博太郎(にしだ ひろたろう、1877年8月1日 - 1953年1月26日)は、日本の染色学者。 東京府東京市下谷(現・東京都台東区)出身。父の転任で島根県松江市に転居し、松江中学校でラフカディオ・ハーン(小泉八雲)に英語を習う。山口高等学校を経て1901年東京帝国大学工科大学応用化学科卒業。1903年からイギリス・ドイツに留学し、マンチェスターの高等工芸学校、フランクフルトの染料会社、ミュールハウゼンの化学専門学校で染色化学を研究し、1905年8月に帰国。 名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)教授を経て、1909年に日本セルロイド人造絹株式会社(現ダイセル)に工務部長として入社、網干工場において人造絹糸(レーヨン)製造の研究に当たった。
松本 義一郎(まつもと よしいちろう、1877年〈明治10年… 松本 義一郎(まつもと よしいちろう、1877年〈明治10年〉8月1日 - 没年不詳)は、明治初期から昭和初期にかけて活動した実業家。松本家第8代当主。掛川葛布商会会長。掛川銀行取締役。 松本家は江戸時代中期から掛川城下で「松屋」の屋号で葛布の販売を行っていた商家であった。松本家は19世紀には掛川藩から御用達に任じられ、帯刀と苗字の使用が許されていた。 松本義一郎は第7代松本家当主松本文治の婿養子として城東郡の名家であった黒田家(黒田源五郎3男)から1879年(明治12年)2月に入籍していた。しかし、文治が39歳の若さで亡くなると、1881年(明治14年)11月松本家当主となった。1882年(明治15年)、義一郎は城内農学社に製糸工場(資本金1万円)の設立の話が持ち上がると、6名の上位出資者に名を連ねて、豊田郡深見村の分社にも出資した。
河井 道(かわいみち、1877年7月29日 - 1953年2… 河井 道(かわいみち、1877年7月29日 - 1953年2月11日)は、日本の女性教育者。元日本YWCA同盟総幹事、恵泉女学園の創立者。クリスチャン。世界恐慌から第二次世界大戦に到る中で平和主義を掲げ、戦後に昭和天皇への戦争犯罪訴追が回避された動きにも大きく関わった。三重県宇治山田市(現伊勢市)出身。
武石 弘三郎(たけいし こうざぶろう、1877年(明治10年… 武石 弘三郎(たけいし こうざぶろう、1877年(明治10年)7月28日 - 1963年(昭和38年)5月11日)は日本近代の彫刻家。政財界や各界の著名人の銅像を数多く手がけた。 新潟県南蒲原郡中之島村の庄屋の家に生まれる。東京美術学校塑像科で長沼守敬に学び、1901年(明治34年)卒業。ベルギーに8年間滞在し、その間にブリュセル国立美術学校に学んだ。 1909年(明治42年)帰国。同郷の石黒忠悳の知遇を得て、その関係で松本順・石黒忠悳像や森鴎外像の制作を手がけた。 文部省展覧会、帝国美術院展覧会に出品。明治末から昭和戦前期にかけて数多くの人物像を制作した。また、早稲田大学理工学部建築学科の講師を務め、多くの建築家を育てた。
久田 吉之助(ひさだ きちのすけ、1877年〈明治10年〉7… 久田 吉之助(ひさだ きちのすけ、1877年〈明治10年〉7月24日 - 1918年〈大正7年〉11月24日)は、日本の陶工。タイル・西洋瓦・テラコッタを製造した、日本近代建築陶材の先駆者のひとり。 愛知県知多郡西浦町(現常滑市)の裕福な海運業者の家に生まれる。 建築陶材の製造を志し、自宅の表庭に小窯を築造し、2年間、寝食を忘れて建築資材の改良を研究した。「生命までもなくしてもとうてい世に売り出すようなものはできないから、今日限りやめるように」との忠告にも耳をかさず、窯資料機械器具の改良、工場の拡張を重ね、1904年(明治37年)、遂に平瓦(タイル)の特許を得るに至った。 赤煉瓦が主流だった日本の洋風建築でも、白色煉瓦や貼付化粧煉瓦、擬石軒蛇腹、装飾テラコッタなど、多様な建築材料が使われ始めていた。
吉澤 義則(よしざわ よしのり、1876年8月22日 - 1… 吉澤 義則(よしざわ よしのり、1876年8月22日 - 1954年11月5日)は、日本の国語学者、国文学者、歌人。
大崎 清作(おおさき せいさく、1876年(明治9年)8月2… 大崎 清作(おおさき せいさく、1876年(明治9年)8月22日 - 1957年(昭和32年)11月23日)は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・村松。 山梨県巨摩郡南湖村(中巨摩郡南湖村、甲西町東南湖を経て現南アルプス市東南湖)で、村松泰造の二男として生まれる。上京して1899年(明治32年)陸軍砲兵工科学校(のち陸軍兵器学校)を卒業。日露戦争に従軍し、陸軍砲兵上等工長に進んで除隊した。 小石川白山で貸家業などを営む大崎家に奉公してその才幹を認められ、1907年(明治40年)4月、先代・大崎としの入夫となり家督を相続した。小石川貯蓄銀行取締役、春日銀行取締役、江戸川青果社長、共済商工社長、大正製材社長、東洋製氷社長などを務めた。
尾上 柴舟(おのえ さいしゅう 1876年〈明治9年〉8月2… 尾上 柴舟(おのえ さいしゅう 1876年〈明治9年〉8月20日 - 1957年(昭和32年)1月13日)は、日本の詩人・歌人・書家・国文学者。文学博士。帝国芸術院会員。勲二等瑞宝章受章者。旧名は北郷八郎。 岡山県苫田郡津山町(現・津山市)出身。本名は尾上八郎。元津山藩士・北郷直衛の三男として生まれ、同藩士・尾上動の養子となった。津山小学校高等科を卒業の後、父の転勤で兵庫県龍野(現・たつの市)に移住する。東京府尋常中学、一高を経て、東京帝国大学文科大学に進み1901年に卒業。哲学館(現・東洋大学)講師、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)講師・教授(1905年–)、高等官6等に叙せられて「第6臨時教員養成所」の教授を兼ねる(1906年–1907年度)。
蕨真一郎(わらび しんいちろう、1876年〈明治9年〉8月2… 蕨真一郎(わらび しんいちろう、1876年〈明治9年〉8月20日 - 1922年〈大正11年〉10月14日)は、日本の歌人・造林家。号は蕨真(けっしん)、礎山(そざん)。 上総国武射郡埴谷村(現在の千葉県山武市)出身。五代続く林業家で、県内有数の大山林地主であった。 東金の漢学者・吉井宗元の漢学塾「南総斯文学会」に学ぶ。1901年(明治34年)、同じ武射郡出身で友人であった伊藤左千夫の紹介により、正岡子規の門下生となる。子規没後の1903年(明治36年)、根岸短歌会の機関誌『馬酔木』の編集委員となる。真一郎は『馬酔木』創刊にあたっての有力な経済的支援者だった。1906年(明治42年)に埴岡短歌会を設立し、地元歌人の作品を『馬酔木』上で紹介するようになった。
茨木 清次郎(いばらき せいじろう、1876年(明治9年)8… 茨木 清次郎(いばらき せいじろう、1876年(明治9年)8月19日 - 1955年(昭和30年)3月15日)は、日本の文部官僚。教育者。 石川県出身。旧制第四高等学校を経て、1899年(明治32年)に東京帝国大学文科大学英文科を卒業。翌年四高教授となり、イギリス留学の後、1908年(明治41年)から文部省視学官・図書審査官となり、1913年(大正2年)からは督学官を務めた。1917年(大正6年)、東京音楽学校校長となり、東京外国語学校校長、旧制松本高等学校校長、東京女子高等師範学校校長、旧制浦和高等学校校長を歴任した。 1935年(昭和10年)に退官し、1937年(昭和12年)からは竹田宮附別当を務めた。
福原 俊丸(ふくばら としまる、1876年〈明治9年〉8月1… 福原 俊丸(ふくばら としまる、1876年〈明治9年〉8月18日 - 1959年〈昭和34年〉2月1日)は、日本の華族(男爵)。貴族院議員。旧宇部領主福原家第27代当主。
松林 桂月(まつばやし けいげつ、1876年8月18日 - … 松林 桂月(まつばやし けいげつ、1876年8月18日 - 1963年5月22日)は、日本画家。山口県萩市生まれ。元の姓は伊藤、本名は篤。字は子敬。別号に香外、玉江漁人。妻の松林雪貞(せってい)も日本画家。 「最後の文人画家」とも評され、渡辺崋山や椿椿山ら崋椿系の流れをくむ精緻で謹直な描写を基礎に、近代の写生画の流行を十分に取り込みながら、そこに漢籍、漢詩の素養に裏付けされた品格の高い作風を特色とする。 萩市中渡(現・山田)出身。尋常小学校卒業後、地元の素封家・瀧口吉良の援助を受けて上京。1894年野口幽谷に師事。南画の表現に新たな世界を開拓し、南画界の重鎮と言われる。官展の中心画家で、1906年日本南宗画会を結成。
野手 耐(ので たえる、1876年(明治9年)8月17日 -… 野手 耐(ので たえる、1876年(明治9年)8月17日 - 1945年(昭和20年)8月6日)は、日本の朝鮮総督府・内務官僚、弁護士。官選県知事、同志社高等商業学校長。
加茂 正雄(かも まさお、1876年(明治9年)8月15日 … 加茂 正雄(かも まさお、1876年(明治9年)8月15日 - 1960年(昭和35年)8月29日)は日本の工学者。東京帝国大学名誉教授。1929年東京での万国工業会議組織委員長、日本機械学会会長などの要職を歴任、国際的にも知られた。 1876年(明治9年)8月15日、愛媛県松山市榎町に愛媛県士族の加茂寬正の三男として生まれる。幼少の頃より器物玩具の製作に才を発揮し、伊予尋常中学校、第三高等中学校、第二高等学校 (旧制)を経て、1895年に東京帝国大学機械工学科に入学、1896年、1897年は特待生に選出され、在学中より逓信省官船局船舶検査と造船工事の監督補助に携わる。1898年(明治31年)に同校を卒業し、大学院で船用機関学を研究し、東京帝国大学工科大学助教授に就任。
市瀬 泰一(いちのせ たいいち、1876年(明治9年)8月1… 市瀬 泰一(いちのせ たいいち、1876年(明治9年)8月14日 - 1950年(昭和25年))は、日本の実業家、政治家。長野県飯田市長。初名は市瀬 俊太郎。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)生まれ。明治20年代から家業の飯田水引(元結)の製造販売業を承継。全国各地への出張販売に当たった後、1913年(大正2年)飯田に元結の原紙会社を設立した。1930年(昭和5年)家督を相続し世襲名の泰一を名乗った。 下伊那郡会議員、飯田町会議員を経て、1937年(昭和12年)飯田市会議員となり、初代議長を務めた。1939年(昭和14年)11月、飯田市長に推挙された。在任中は日中戦争下で、飯田銀座商店街商業組合での栄養食の共同炊事の実現、食糧増産のための野菜の種子無償配布、飯田百七銀行・信産銀行・伊那銀行の統合による飯田銀行の設立などを実現させた。
春山 作樹(はるやま さくき、1876年(明治9年)8月13… 春山 作樹(はるやま さくき、1876年(明治9年)8月13日 - 1935年(昭和10年)12月29日)は、日本の教育学者。東京帝国大学教授。文学博士。 旧姫路藩士春山弟彦の子として大阪市上町に生まれる。姫路中学を経て、1900年(明治33年)、東京帝国大学文科大学哲学科に入学。卒業後は、大学院に学んだ。1904年(明治37年)、広島高等師範学校教授に就任。1912年(明治45年)から1915年(大正4年)まで欧米に留学。帰国後の1919年(大正8年)、東京帝国大学文学部教授に就任し、翌年に文学博士号を受けた。 その他、第一高等学校講師、東京外国語学校講師を務めた。 1935年12月29日、脳溢血のため死去。
竹岡 陽一(たけおか よういち、1876年(明治9年)8月1… 竹岡 陽一(たけおか よういち、1876年(明治9年)8月13日 - 1966年(昭和41年)11月24日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の実業家。戦前期の大手電力会社東邦電力の第3代社長を務め、戦後は四国電力初代会長となった。大分県出身。 竹岡陽一は1876年8月13日、大分県・竹岡茂平の次男として生まれた。兄は大分県会議員や中津市長を務めた竹岡吉太郎。妹のカヅは松永安左エ門に嫁いでおり、松永は義弟にあたる(ただし松永の方が1875年生まれであり年長)。1902年(明治35年)、東京専門学校邦語政治科を卒業した。 実業界における経歴は義弟の松永とほとんど一緒であり、長年松永の補佐役であった。
当間 重慎(とうま じゅうしん、1876年(明治9年)8月1… 当間 重慎(とうま じゅうしん、1876年(明治9年)8月11日 - 1923年(大正12年)9月22日)は、戦前の沖縄県の政治家で初代那覇市長。 政治家の当間重剛・重民兄弟の父である。 明治9年(1876年・光緒2年)6月7日に琉球藩具志川間切(現沖縄県うるま市)で生まれた。明治16年(1883年)に那覇に移る。明治34年(1901年)に上京し、東京専門学校(現早稲田大学)に入学するが病気のため中退し、那覇に戻った。 那覇では琉球新報の記者になったが、まもなく退職し「沖縄毎日新聞」を創刊する。沖縄毎日新聞では、那覇住民の立場に立った論陣をはった。 明治42年(1909年)の沖縄県会発足に際して、議員に選出され政治家としての一歩を歩みだした。
小山 谷蔵(こやま たにぞう、1876年(明治9年)8月10… 小山 谷蔵(こやま たにぞう、1876年(明治9年)8月10日 – 1951年(昭和26年)1月1日)は、衆議院議員(立憲政友会→中正会→立憲民政党→国民同盟→立憲民政党)。外務政務次官、内務参与官、文部副参政官。 和歌山県西牟婁郡三栖村(現在の田辺市)出身。1898年(明治31年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)英語政治科を卒業。渡米して、コロンビア大学などで修士号と博士号を得た。帰国後、台湾総督府専売局で翻訳官を務めた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。当選回数は合計で8回を数えた。その間、第2次大隈内閣で文部副参政官を、第2次若槻内閣で内務参与官を、米内内閣で外務政務次官をそれぞれ務めた。
中村 税(なかむら みつぐ、明治9年(1876年)8月8日 … 中村 税(なかむら みつぐ、明治9年(1876年)8月8日 - 昭和40年(1965年)11月26日)は、日本の実業家。元小松製作所代表取締役社長。俳優の中村伸郎は養子。 宮城県遠田郡涌谷町出身。1902年東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、日本郵船に入社。日本郵船ロンドン支店長、猪苗代水力電気調度課長、東京電燈役員などを経て、戦後恐慌下で経営再建にあたるため、小松製作所專務取締役に招聘され、1934年から小松製作所社長。1946年から小松製作所会長。 俳優の中村伸郎は養子。
田中 太介(たなか たすけ、1876年8月7日 - 1963… 田中 太介(たなか たすけ、1876年8月7日 - 1963年2月)は、日本の実業家。近畿車輛の創業者。兵庫県出身。 1892年に大阪市立大学を中退し、家業の肥料雑貨に従事し、1918年10月には尼崎市に田中鉄工を設立し、1920年には田中車輛工場(のちの近畿車輛)社長に就任。1944年には会長に就任。 1937年、1939年、1946年の3度で紺綬褒章を受章。
野口 多内(のぐち たない、1876年〈明治9年〉8月7日 … 野口 多内(のぐち たない、1876年〈明治9年〉8月7日 - 1949年)は、明治・大正・昭和の外交官・教育者・社会活動家。名は茂温、別号は三山。外務省留学生及び外交官として中国で各事案に対処し、後に奉天居留民会長として現地の顔役となった。 新潟県北蒲原郡佐々木村(現:新発田市)に生まれる。実家は代々里正の家柄で、農業を営みながらも士分待遇であったという。1892年(明治25年)に上京し、三島中洲の漢学塾・二松学舎で学びながら、早稲田東京専門学校でも法律・政治を修学した。1896年(明治29年)、二松学舎尋常科を卒業し、中等学校漢文教師の資格を得た。 まもなく野口は外務省留学生試験を受験し、1897年(明治30年)、在北京留学生を命じられ、中国語を修学する。
岡 八(おか わかつ、1876年(明治9年)8月4日 - 1… 岡 八(おか わかつ、1876年(明治9年)8月4日 - 1970年(昭和45年)12月2日)は、日本の政治家、弁護士、弁理士。衆議院議員(1期)。 三重県安濃郡神戸村(現津市)に奥田八郎の長男として生まれ、岡義之助の養子となった。1903年(明治36年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法官試補となった。1905年(明治38年)、大阪地方裁判所判事となるも、翌年に退官して弁護士を開業した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たしたが、野中事件で1913年(大正2年)5月9日、議員辞職、失脚。これにより同年8月4日、自らの請求で所属の大阪地方裁判所の弁護士名簿登録取消、同年9月23日に従七位返上を命じられる。
和田 尊義(わだ たかよし、1876年(明治9年)8月1日 … 和田 尊義(わだ たかよし、1876年(明治9年)8月1日 - 1910年(明治43年)10月17日)は、明治時代の政治家。衆議院議員。 和田治太郎義尚、藤の長男として土佐国長岡郡小蓮村(岡豊村小蓮を経て、現在の南国市)に生まれる。初代彦五郎から続く地元の資産家。1897年(明治30年)高知尋常中学校を卒業し、第三高等学校に入学するが、病気を理由に中退。1902年(明治35年)6月から1905年(明治38年)3月まで母校の高知県立第一中学校で教諭心得を務める。この間、テニス部、ボート部の指導に当たり、1904年(明治37年)には京都武徳会端艇競漕会で全国優勝を果たした。 その後、岡豊村教育兵事長、土佐農工銀行専務を経て、1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙に高知県郡部から出馬し当選するが、在任中に結核により没した。
山辺 常重(やまべ つねしげ、1876年〈明治9年〉8月1日… 山辺 常重(やまべ つねしげ、1876年〈明治9年〉8月1日 - 1944年〈昭和19年〉7月29日)は、日本の政治家。衆議院議員。 長野県小県郡神川村(現上田市)生まれ。中央大学法学部卒業、東京株式取引所の仲買人を経て、巴商会支配人のほか、東京実株代行、大雄山鉄道、日満モリス興業、妙高温泉土地、日本勧業中央屑物市場の各取締役、大原簿記学校理事などを歴任した。 大正9年(1920年)第14回衆議院議員総選挙に初当選し、民政党の相談役を務めた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
中村 天風(なかむら てんぷう、1876年7月30日 - 1… 中村 天風(なかむら てんぷう、1876年7月30日 - 1968年12月1日)は日本の思想家、実業家。日本初のヨーガ行者で、天風会を創始し心身統一法を広めた。本名は中村三郎(なかむらさぶろう)。
北 蓮蔵 (きた れんぞう、明治9年(1876年)7月29日… 北 蓮蔵 (きた れんぞう、明治9年(1876年)7月29日 - 昭和24年(1949年)12月21日)は、明治から昭和にかけて活動した洋画家。 岐阜県厚見郡北一色村(現在の岐阜市北一色)の香厳寺に、北淳心と房衛の次男として生まれる。幼少期には両親が読経を教えようとしても覚えず、絵ばかり描いていたという。1889年(明治22年)東京で女学校の教員をしていた姉を頼って上京、同郷の山本芳翠と合田清らによって設立された生巧館画塾に入る。蓮蔵は芳翠の書生をしていたと後に回想しており、また時に「芳翠二世」を名乗り、蓮蔵と芳翠を「親戚」とする同時代資料もある(真偽不明)ことから、両者は単なる画塾の師弟にとどまらない深い関係にあったようだ。
志田 義秀(しだ ぎしゅう、1876年7月27日 - 194… 志田 義秀(しだ ぎしゅう、1876年7月27日 - 1946年1月17日)は、日本の国文学者・俳人。学位は、文学博士(1937年)(学位論文「問題の点を主としたる芭蕉の伝記の研究」)。元東洋大学教授。連歌俳諧研究、説話研究、歌謡研究、辞典の編纂など、多方面に業績を残した。 富山県上新川郡出身。旧姓は藤井。俳号は素琴。富山中学校[要出典]、第四高等学校を経て[要出典]、1903年東京帝国大学文学部国文科卒。第六高等学校教授、1925年旧制成蹊高等学校教授、東洋大学教授。1937年「問題の点を主としたる芭蕉の伝記の研究」で文学博士の学位を取得。日本で初めて俳文学によって文学博士の学位を取得した[要出典]。
永田 秀次郎(ながた ひでじろう、1876年(明治9年)7月… 永田 秀次郎(ながた ひでじろう、1876年(明治9年)7月23日 - 1943年(昭和18年)9月17日)は、兵庫県三原郡長田村(現:南あわじ市倭文長田)出身の日本の官僚、政治家、俳人、随筆家。第18代官選三重県知事、第8代・第14代東京市長、第4代拓殖大学学長、貴族院勅選議員。廣田内閣の拓務大臣、阿部内閣の鉄道大臣を歴任。俳名・筆名は永田 青嵐(ながた せいらん)で、多くの著書や句集を残している。 長男は自由民主党衆議院議員の永田亮一。 初代倭文村村長を務めた永田実太郎の次男として出生。弟に京都市土木局長、横浜市電気局長を務めた永田兵三郎がいる。 三原高等小学校卒業後、進学校の1つだった姫路中学校を受験するが不合格となる。
山田 孝雄(やまだ よしお、1875年〈明治8年〉8月20日… 山田 孝雄(やまだ よしお、1875年〈明治8年〉8月20日 - 1958年〈昭和33年〉11月20日)は、日本の国語学者、国文学者、歴史学者。東北帝国大学教授を歴任。文化勲章受章。 独学の人として知られる。「契沖、真淵、宣長以来の国学の伝統に連なる最後の国学者」とも評される。 1873年、富山県富山市総曲輪(そうがわ)に於保多神社宮司山田方雄の次男として生れる。父は前田利保に歌を学んだ連歌の宗匠でもあった。履新小学校卒業。富山県尋常中学校を中退後、独学で小、中学校教員検定試験(文検)に合格。富山県内の小学校や兵庫、奈良、高知などの中学校で教員を務める。 1907年(明治40年)文部省国語調査委員会補助委員、1920年(大正9年)日本大学講師、1921年(大正10年)日本大学文学部国語科主任、1925年(大正14年)東北帝国大学講師、1927年(昭和2年)同教授に昇格。
今西 龍(いまにし りゅう、1875年〈明治8年〉8月15日… 今西 龍(いまにし りゅう、1875年〈明治8年〉8月15日 - 1932年〈昭和7年〉5月20日)は、日本の朝鮮史家、京都帝国大学教授。子は今西春秋。 1875年、岐阜県池田郡池田野新田(現:揖斐郡池田町)で生まれた。幼名は了哉。1903年、東京帝国大学文科大学史学科を卒業。 1906年より慶州など朝鮮半島ならびに中国東北部で考古学の調査を行い、1913年秥蝉県碑を発見。同1906年、京都帝国大学講師に就いた。1916年、助教授昇格。1922年、学位論文『Jusen部国考』を京都大学に提出して文学博士の学位を取得。 1922年から1924年まで北京に2年間の留学を命じられ、1926年に京城帝国大学・京都帝国大学兼任教授となった。
升田 憲元(ますだ のりもと、1875年(明治8年)8月15… 升田 憲元(ますだ のりもと、1875年(明治8年)8月15日 - 1949年(昭和24年)5月10日)は、日本の政治家、官僚、弁護士、陸軍軍人。衆議院議員(立憲民政党)。最終階級は陸軍大尉。 島根県飯石郡赤名村(現・飯石郡飯南町)に難波常八郎の子として生まれ、伯母升田きしの養子となった。1900年(明治33年)11月21日、陸軍士官学校(12期)を卒業し、1901年(明治34年)6月25日、歩兵少尉に任官。日露戦争への従軍を経て、陸軍大尉に累進した。1912年(明治45年)、京都帝国大学法科大学政治科を卒業し、1913年(大正2年)には法律科を卒業した。高等文官試験に合格し、陸軍省参事官、岐阜県不破郡長、同本巣郡長、国勢院事務官、同書記官、大蔵事務官、国勢院総裁秘書官を歴任し、1922年(大正11年)に退官して弁護士を開業した。
丸尾 晋(まるお すすむ、1875年《明治8年》8月12日 … 丸尾 晋(まるお すすむ、1875年《明治8年》8月12日 - 1921年《大正10年》9月8日)は、日本の医学者(眼科学)、医師。 東京帝国大学医科大学での勤務を経て、日本医学校講師、東京女医学校教授、復明館眼科医院院長、静岡県医師会会長などを歴任した。 浜松県出身の医学者、および、眼科医である。「日本の近代眼科の父」と称される河本重次郎の薫陶を受け、東京帝国大学の医科大学を経て日本医学校や東京女医学校で教鞭を執った。のちに復明館眼科医院の院長に就任し、静岡県を中心に分院や出張所を幅広く展開した。 1875年(明治8年)8月12日、浜松県城東郡池新田村にて生まれた。丸尾家は医業を家業としており、祖父である丸尾良益は腕のいい眼科医として知られていた。