島田 茂(しまだ しげる、1885年9月22日 - 1953… 島田 茂(しまだ しげる、1885年9月22日 - 1953年9月26日)は、昭和時代の日本の大蔵省官僚。台湾銀行頭取。 岡山県出身。旧制津山中学校卒業。東京帝国大学卒業後、大蔵省入省。書記官、特別銀行課長等を経て、1927年に台湾銀行頭取となり、昭和金融恐慌で休業に陥った同行の再建にあたった。1934年に帝人事件で逮捕され辞職した。
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島田 茂(しまだ しげる、1885年9月22日 - 1953… 島田 茂(しまだ しげる、1885年9月22日 - 1953年9月26日)は、昭和時代の日本の大蔵省官僚。台湾銀行頭取。 岡山県出身。旧制津山中学校卒業。東京帝国大学卒業後、大蔵省入省。書記官、特別銀行課長等を経て、1927年に台湾銀行頭取となり、昭和金融恐慌で休業に陥った同行の再建にあたった。1934年に帝人事件で逮捕され辞職した。
船越 作一郎(ふなこし さくいちろう、1885年〈明治18年… 船越 作一郎(ふなこし さくいちろう、1885年〈明治18年〉9月20日 - 1967年〈昭和42年〉5月14日)は、日本の実業家、政治家、鳥取県多額納税者、地主。船越合名会社社主。日本クローム工業社長。鳥取県会議員(政友会系中立→中立)。 鳥取県米子市出身。船越熊治郎の長男。1909年、家督を相続する。1907年、早稲田大学専門部政経科を卒業。鉱山業に従事。また貸金業を営む。 1915年、鳥取県議に当選し、少壯團を組織。1925年9月に鳥取県立米子工業学校建築費金1千円を寄附したため1928年8月14日に褒状が下賜される。1927年、米子市議に当選。 『陰陽八郡郡勢一斑』によると、船越の人柄は「資性活達、荘重明敏で、義気に富む」という。
斎藤 茂八(齋藤 茂八、さいとう もはち、1885年〈明治1… 斎藤 茂八(齋藤 茂八、さいとう もはち、1885年〈明治18年〉9月18日 - 1964年〈昭和39年〉8月19日)は、日本の地方政治家、薬剤師、俳人。埼玉県熊谷町長・熊谷市長を務めた。位階は従六位。勲五等瑞宝章。 幼名は清治、俳号は「紫石」。 埼玉県大里郡熊谷町鎌倉町(現・熊谷市)で斎藤今助の長男として生まれた。実家は薬種商だった。 旧制埼玉県立熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校、1902年卒業)を経て、旧制千葉医学専門学校薬学科(現・千葉大学薬学部薬学科)を卒業し家業を継いだ。 1912年(明治45年)青年組織壬子倶楽部を結成し政治活動を始めた。1913年(大正2年)から熊谷町会議員に2期在任。
加藤 守道(かとう もりみち、1885年〈明治18年〉9月1… 加藤 守道(かとう もりみち、1885年〈明治18年〉9月17日 - 1960年〈昭和35年〉8月17日)は、愛知県豊川市長。東京市区長。基隆市尹。 新潟県新潟市出身。加藤久之助の二男。1906年(明治39年)、新潟県北辰館中学科を卒業し、1909年(明治42年)に文官普通試験に合格した。日本大学中退。新潟県中魚沼郡書記、同南蒲原郡書記、北海道庁長官官房勤務、岩手県九戸郡長、東磐井郡長、下閉伊支庁長を歴任。1928年(昭和3年)、基隆市尹に転じた。 退官後、東京市に入って中野区長、教育局庶務課長、神田区長、日本橋区長を歴任。退任後の1942年(昭和17年)から、川村女学院理事を務めた。1943年(昭和18年)、初代豊川市長に就任した。
豊田 実(とよだ みのる、1885年9月16日 - 1972… 豊田 実(とよだ みのる、1885年9月16日 - 1972年11月22日)は、英語学者、英文学者。
黒田 政一(くろだ まさいち、1885年(明治18年)9月1… 黒田 政一(くろだ まさいち、1885年(明治18年)9月13日 - 1975年(昭和50年)8月4日)は、明治から昭和時代前期の政治家、警察官。愛媛県松山市長、温泉郡三津浜町町長。 愛媛県和気郡新浜村(現・松山市新浜町)で生まれる。 1909年(明治42年)愛媛県巡査となり、1924年(大正13年)壬生川警察署長、1927年(昭和2年)宇和島警察署長、1929年(昭和4年)松山警察署長、1931年(昭和6年)県社寺兵事課長を歴任し、1935年(昭和10年)退職する。同年7月、松山市収入役に転じ、1939年(昭和14年)2月、三津浜町助役を経て、翌月同町長に就任する。さらに松山市との合併に伴い、1940年(昭和15年)10月、同市助役となり、1946年(昭和21年)3月29日に松山市長に就任。
船越 逸平(ふなこし いっぺい、1885年〈明治18年〉9月… 船越 逸平(ふなこし いっぺい、1885年〈明治18年〉9月12日 - 没年不詳)は、日本の実業家。家業である石灰製造業を継いだのち、富岡無尽株式会社の初代社長となった。徳島県那賀郡富岡町出身。旧名・幸平。 1918年富岡無尽合資会社代表社員に就任し、1936年5月24日に株式会社へと組織変更された富岡無尽株式会社の初代社長に就任。 就任から3ヶ月後の8月23日代表取締役を退任。二代目社長として石灰業者として最大の事業規模を持つ樫野恒太郎が富岡無尽株式会社の経営を立て直した。 その後、町会議員や徳島相互銀行社長、徳島空港ビル株式会社取締役会長を歴任した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
飯田 精太郎(いいだ せいたろう、1885年(明治17年)9… 飯田 精太郎(いいだ せいたろう、1885年(明治17年)9月8日 - 1952年(昭和27年)3月7日)は、明治末から昭和前期の鉄道技術者、政治家、華族。貴族院男爵議員、参議院議員。 山口県出身。陸軍士官・飯田俊助、マサ夫妻の長男として生まれる。1907年(明治40年)京都帝国大学理工科大学電気工学科を卒業。父・俊助の死去に伴い、1914年(大正3年)4月23日、家督を相続し男爵を襲爵した。 1908年(明治41年)臨時台湾工事部嘱託に就任。以後、臨時台湾工事部技師、鉄道技師、鉄道省新橋電力事務所長、同東京電気事務所長、同電気局長、運輸通信次官、技術院参与、鉄道電気工業 (株) 相談役、鉄道電化協会会長、鉄道会議議員、工作機械製造事業委員会委員、帝都高速度交通営団評議員、産業設備評価中央委員会委員などを務めた。
2代目神田 松鯉(かんだ しょうり、1885年(明治18年)… 2代目神田 松鯉(かんだ しょうり、1885年(明治18年)9月8日 - 1967年(昭和42年)4月22日)は、明治時代から昭和時代にかけて活躍した講談師。本名、玉川悦太郎。初代神田松鯉の子。 東京港区芝源助町に生まれた後、京橋五郎兵衛町に転居。1895年、父の門下として高座に上がり、神田悦山を名乗る。1905年から神田小伯山を名乗り、1921年、2代目神田松鯉を襲名。1965年、勲五等双光旭日章受章。 道楽者として有名であり、講談の途中に駄洒落を入れるのが特徴だった。阿部主計は「単調でダラダラと粘った口調のリズムや、抑揚も立体感もない退屈な演技」と評した。6代目三遊亭圓生は「なぜ落語家にならなかったのか」と惜しんだ。
斎藤 与里(さいとう より、1885年(明治18年)9月7日… 斎藤 与里(さいとう より、1885年(明治18年)9月7日-1959年(昭和34年)5月3日)は、大正・昭和期の洋画家、美術評論家。
池田 大伍(いけだ だいご、1885年(明治18年)9月6日… 池田 大伍(いけだ だいご、1885年(明治18年)9月6日 - 1942年(昭和17年)1月8日)は、歌舞伎の劇作家、劇評家、翻訳家。甥は池田弥三郎。 池田鉸三郎・乃婦の次男に生まれた。家は幕末から続く銀座の天ぷら屋「天金」で、兄が金太郎、本人の幼名が銀次郎だった。1891年から私塾の鍋町小学校に通い、公立の麹町小学校を卒業した。その後商工中学を経て、1907年早稲田大学英文科を卒業した。東京毎日新聞の劇評を2年書いた後、1911年(明治44年)、坪内逍遙らの文芸協会の演芸主事となった。1913年(大正2年)の文芸協会解散後は、東儀鉄笛・土肥春曙らと劇団「無名会」を組織し、翌1914年、第一作『滝口時頼』を上演した。
大屋 敦(おおや あつし、明治18年(1885年)9月5日 … 大屋 敦(おおや あつし、明治18年(1885年)9月5日 - 昭和45年(1970年)8月18日)は、日本の実業家。元住友化学工業社長。
鈴木 文治(すずき ぶんじ、男性、1885年(明治18年)9… 鈴木 文治(すずき ぶんじ、男性、1885年(明治18年)9月4日 - 1946年(昭和21年)3月12日)は、大正から昭和期の政治家、労働運動家。友愛会創始者。日本の労働運動の草分け的存在といわれる。 宮城県栗原郡金成村(現・栗原市)の旧家鈴木益治の長男として生まれる。10歳の頃に父親とともにキリスト教に入信。宮城県尋常中学校志田郡立分校(現・宮城県古川高等学校)を卒業後、旧制山口高等学校に入学。中学卒業前後に家業が傾き、高校時代苦学するなかで、在野のキリスト教伝道師本間俊平の影響により、社会問題に目覚めていく。東京帝国大学法科大学政治学科に入学後は、同郷の先輩である吉野作造とともに、海老名弾正率いる組合派の本郷教会に所属する。
吉田 茂(よしだ しげる、1885年〈明治18年〉9月2日 … 吉田 茂(よしだ しげる、1885年〈明治18年〉9月2日 - 1954年〈昭和29年〉12月9日)は、昭和時代の内務官僚、政治家。貴族院議員。 岡田内閣の内閣書記官長、米内内閣と小磯内閣で閣僚を務めた。「新官僚」。戦後、神社本庁設立に関わる。同時期に公職追放にあう。 同時代の外務官僚で、戦後に内閣総理大臣を務めた吉田茂は同姓同名の別人。(#同姓同名参照) 大分県臼杵町海添(現在の臼杵市)生まれ。大分県士族・吉田亀次郎の長男。父親の亀次郎が二十三銀行(大分銀行の前進)に勤めた関係で大分に移り、ついで日本銀行に勤務する事になり、東京に移り住み、旧制東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)、第一高等学校を経て、1911年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。
渡辺 孫一郎(わたなべ まごいちろう、1885年〈明治18年… 渡辺 孫一郎(わたなべ まごいちろう、1885年〈明治18年〉9月1日 - 1955年〈昭和30年〉6月12日)は、明治から昭和時代にかけての日本の数学者。専門は解析学および確率論で、「確率」という用語の普及に寄与した。 渡辺藤太の長男として栃木県下都賀郡木村(のち赤津村、現在の栃木市都賀町木)に生まれる。実家は酒造業であるという。栃木中学校を経て、1908年(明治41年)東京帝国大学理学部数学科卒業。 1911年(明治44年)、第八高等学校数学教授となる。八高では視察にきた林鶴一から講義を酷評されたため、心配した校長が付近の中学校に出張させ、本人も真面目に講義法を見学したが、一向に変化がなかったという。
吉岡 信敬(よしおか しんけい/のぶよし、1885年〈明治1… 吉岡 信敬(よしおか しんけい/のぶよし、1885年〈明治18年〉9月1日 - 1940年〈昭和15年〉12月7日)は、日本の応援団員、新聞記者。早稲田大学の応援隊長として「虎鬚彌次将軍」の通称で知られ、当時は乃木希典、葦原金次郎と並んで「三大将軍」と呼ばれたほどの人気者だった。 なお、名前の正式な読みは「のぶよし」であるが、一般的には「しんけい」と呼ばれており、また本人もそう称していた。 吉岡信敬は1885年(明治18年)9月1日、父・吉岡湖一郎、母・サヨの三男として生まれた。 出生は山口県萩城下河添村説と東京府小石川区(現・東京都文京区)説があり、正確なところは分かっていない。ただ、吉岡家はもともと萩に住んでいたが信敬が小学校に上がる頃には小石川に住んでいた、ということは確かである。
菊沢 季麿(きくざわ すえまろ、1885年(明治18年)9月… 菊沢 季麿(きくざわ すえまろ、1885年(明治18年)9月1日 - 1936年(昭和11年)11月20日)は、日本の文部官僚。旧制浦和高等学校校長。 滋賀県に華房誓因の四男として生まれ、菊沢保孝の養子となった。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。鳥取県理事官、東北帝国大学事務官、文部事務官、同書記官・東京帝国大学書記官兼秘書官、文部省宗教局長・大臣官房秘書課長を歴任した後、浦和高等学校校長となった。
荒井 陸男(あらい ろくお、1885年9月1日 - 1972… 荒井 陸男(あらい ろくお、1885年9月1日 - 1972年7月6日)は、日本の洋画家。代表作に明治神宮絵画館の壁画『水師営の会見』。 1885年(明治18年)、幕末の元海軍奉行、荒井郁之助の六男として東京、芝区で生れる。旧制麻布中学校、日本中学校、同志社などで学ぶが、画家へのあこがれが強く1909年(明治42年)イギリスへ渡りロンドンの美術学校に学ぶ。 1914年(大正3年)、第一次世界大戦の海軍従軍画家として海洋画を描く。これを機会に戦争画を描く機会が増え第一人者となる。1928年(昭和3年)『旅順開城、乃木大将とステッセル会見の図』(明治神宮絵画館所蔵)完成。1938年(昭和13年)、オーストラリアに取材に出掛け、翌年までに第一次世界大戦中にインド洋で行われた日英協同作戦の様子『軍艦伊吹、豪州ニュージランド軍隊護衛』を描く。
三好 英之(みよし ひでゆき、旧名栄次郎、明治18年(188… 三好 英之(みよし ひでゆき、旧名栄次郎、明治18年(1885年)8月29日 - 昭和31年(1956年)2月14日)は、日本の実業家、政治家。元衆議院議員、参議院議員。元国務大臣北海道開発庁長官。鳥取県米子市名誉市民。三好家第10代当主。鳥取県平民。 大正13年(1924年)衆議院議員に初当選し、戦前に6回の当選を重ねた。地元振興の貢献としては、山陰鉄道開通記念の博覧会に尽力したのをはじめ、山陰実業銀行を設立、戦後はラジオ山陰(現山陰放送)の開局に携わるなど調整能力、行動力は抜群であった。家系は清和源氏、小笠原氏の支流・三好氏。 米子道笑町の商家に生まれる。三好常次郎の次男。 県立第二中学校(現米子東高校)、東京の京華中学を経て明治39年(1906年)に早稲田大学政治経済科を卒業。
海野 普吉(うんの しんきち、1885年(明治18年)8月2… 海野 普吉(うんの しんきち、1885年(明治18年)8月29日 - 1968年(昭和43年)7月6日)は、昭和戦前・戦後の社会派、自由人権派の弁護士。 多くの思想裁判・政治裁判の弁護をする。戦後は社会運動も行う。戦後初の最高裁判事も受けず、親友の片山哲内閣の法務大臣も受けず、一貫して在野の弁護士であることを貫く。
山井 基清(やまのい もときよ、1885年8月29日 - 1… 山井 基清(やまのい もときよ、1885年8月29日 - 1970年12月8日)は、日本の雅楽師、ヴァイオリニスト、ヴィオリスト、作曲家、音楽教師。 山井基万(もとかず)の三男として生まれる。1898年より宮内省式部職雅楽部楽生となり、式部職雇音楽教師ヴィルヘルム・ドゥブラヴチッチ(1901年に来日)、安藤幸、アウグスト・ユンケルにヴァイオリンを師事する。楽生として左舞、笛、箏、ヴァイオリン、ヴィオラを担当した。1908年に東京音楽学校器楽科を卒業し、同年に式部職楽部楽手、1909年に楽師となる。1922年に長男の山井清雄(すみお)が生まれる。1922年に芝忠重とともにドイツに留学して1924年に帰国。
中谷 秀(なかたに しゅう、1885年(明治18年)8月29… 中谷 秀(なかたに しゅう、1885年(明治18年)8月29日 - 1973年(昭和48年)9月11日)は、日本の内務官僚。官選鳥取県知事。 島根県那賀郡渡津村(江津町を経て現江津市)出身。中谷初十郎の四男として生まれる。1913年(大正2年)に明治大学法科を卒業し、高等文官試験に合格。愛媛県属、愛媛県理事官、山口県理事官、長崎県理事官、奈良県警察部長、富山県警察部長、石川県内務部長、岩手県内務部長、愛知県内務部長などを歴任。1934年(昭和9年)に第28代鳥取県知事に就任し、室戸台風復興に尽力した。1936年(昭和11年)、退官。退官後は出雲電気株式会社専務、同副社長に就任した。のち全国購買販売組合連合会専務理事、農村科学研究所所長、日本澱粉株式会社監査役、東洋組網工業株式会社顧問、大隈鉄工所株式会社顧問を務めた。
村岡 吾一(むらおか ごいち、1885年(明治18年)8月2… 村岡 吾一(むらおか ごいち、1885年(明治18年)8月28日 - 1952年(昭和27年)1月2日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 山口県大島郡蒲野村(現在の周防大島町)出身。村役場に勤務の後、1906年(明治39年)に裁判所書記試験に合格した。1907年(明治40年)に日本大学を卒業した後は、通信手や東京地方裁判所書記を務めるかたわら、日本大学高等専攻科に在籍した。1910年(明治43年)、弁護士試験に合格し、江木衷の事務所に勤務した。その後、下関市に事務所を開き、後には山口弁護士会長に選出された。下関市会議員、同議長、山口県会議員を歴任。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
武原 熊吉(たけはら くまきち、1885年8月26日 - 1… 武原 熊吉(たけはら くまきち、1885年8月26日 - 1957年4月19日)は、日本の化学者。 青森県青森市出身。1908年東京帝国大学理科大学化学科卒。1909年東北帝国大学農学部教授、1920年東京高等師範学校教授、1949年東京教育大学教授、1950年定年退官、名誉教授。1943年日本化学会会長。
六代目 尾上 菊五郎(おのえ きくごろう、1885年〈明治1… 六代目 尾上 菊五郎(おのえ きくごろう、1885年〈明治18年〉8月26日 - 1949年〈昭和24年〉7月10日)は大正・昭和時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四つ輪。俳名に三朝がある。本名は寺島 幸三(てらしま こうぞう)。 初代中村吉右衛門とともに、いわゆる「菊吉時代」の全盛期を築いた。歌舞伎界で単に六代目(ろくだいめ)と言うと、通常はこの六代目尾上菊五郎のことを指す。 五代目尾上菊五郎の長男。母は元柳橋の芸者で権妻の秋田ぎん。実弟に六代目坂東彦三郎、義兄に六代目尾上梅幸がいる。 辞世の句は「まだ足らぬ 踊りおどりて あの世まで」。 立役も女形もこなしたが、殊に九代目市川團十郎に仕込まれたこともあり、『藤娘』の藤の精や『京鹿子娘道成寺』の白拍子花子などの娘役の舞踊を得意としていた。
小熊 捍(おぐま まもる、1885年8月24日 - 1971… 小熊 捍(おぐま まもる、1885年8月24日 - 1971年9月10日)は、日本の昆虫学者、遺伝学者(農学博士)。 東京府出身。中学時代に松村松年に刺激を受け、1903年、東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)から札幌農学校に進学。1911年、東北帝国大学農科大学農学科(現・北海道大学農学部)を卒業し、農業生物学教室教員となる。1922年から2年間、イギリス・ドイツ・ベルギーへと留学。1929年、八田三郎教授の定年退職に伴い、北海道帝国大学農学部動物学昆虫学養蚕学第一講座教授となる。翌1930年、同大学に新設された理学部動物学科教授に移動し、第一講座の後任には犬飼哲夫が就任した。トンボの研究の権威として知られた。
若山 牧水(わかやま ぼくすい、1885年(明治18年)8月… 若山 牧水(わかやま ぼくすい、1885年(明治18年)8月24日 - 1928年(昭和3年)9月17日)は、戦前日本の歌人。本名・繁(しげる)。 宮崎県東臼杵郡坪谷村(現・日向市)の医師・若山立蔵の長男として生まれる。1899年(明治32年)宮崎県立延岡中学校に入学。短歌と俳句を始める。 18歳のとき、号を牧水とする。由来は「当時最も愛していたものの名二つをつなぎ合わせたものである。牧はまき、すなわち母の名である。水はこの(生家の周りにある)渓や雨やから来たものであった」 1904年(明治37年)早稲田大学に入学。同級生の北原射水(後の白秋)、中林蘇水と親交を厚くし、「早稲田の三水」と呼ばれる。
鹿野 澄(かの きよし、明治18年(1885年)8月23日 … 鹿野 澄(かの きよし、明治18年(1885年)8月23日 - 昭和34年(1959年)1月11日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍主計中将。 米子中学(現在の米子東高校)を経て明治41年(1908年)5月、陸軍経理学校(2期)を優等で卒業。 昭和6年(1931年)8月、陸軍一等主計正(大佐相当官)に昇進し陸軍造兵廠会計部長に就任。昭和9年(1934年)6月、第1師団経理部長となる。千住製絨所長心得を経て、昭和11年(1936年)8月、陸軍主計監(少将相当官)に進級し千住製絨所長に就任。同年12月、糧秣本廠長に転じ、経理学校付を経て、昭和14年(1939年)8月、被服本廠長に就任。同年10月、陸軍主計中将に進んだ。
横田 小人大(よこた ことを、1885年(明治18年)8月2… 横田 小人大(よこた ことを、1885年(明治18年)8月23日 - ?)は、日本の発明家。 広島県佐伯郡古田村(現在の広島市の一部)出身。父の範四郎は、古田村の村長をしていた。1913年(大正2年)7月に東京帝国大学農科大学農芸化学科に入学し、1916年(大正5年)7月10日に卒業した。 1927年(昭和2年)2月3日に「劣等燐礦石の利用に就いて」という論文を提出し、農学博士の学位が授与された。 ラサ工業の常務及び宮古製煉所の所長を務めた。他に京都大学農学部の講師や、関西硫酸販売会社の取締役、東洋人造肥料株式会社、共益産業株式会社、大阪晒粉株式会社、大阪製煉株式会社などの顧問を務めた。
石橋 正彦(いしばし まさひこ、1884年〈明治17年〉9月… 石橋 正彦(いしばし まさひこ、1884年〈明治17年〉9月22日 - 没年不明)は、日本の政治家、会社役員、島根県多額納税者。島根県簸川郡平田町長。島根県会議員。 島根県楯縫郡平田町(のちの簸川郡平田町、平田市、現・出雲市)の人・石橋孫八の四男。1907年、第五高等学校第一部英法科を卒業。1911年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。農業を営み、会社重役である。 1914年、農会長に推される。1915年、家督を相続する。1919年、簸川郡会議員に当選する。1921年、平田町会議員となる。1922年、島根県会議員に当選する。一畑電気鉄道監査役、産業組合中央会島根県支部長、島根県農会副会長をつとめる。
有田 八郎(ありた はちろう、旧字体: 有田 八郞、 188… 有田 八郎(ありた はちろう、旧字体: 有田 八郞、 1884年〈明治17年〉9月21日 - 1965年〈昭和40年〉3月4日)は、日本の外交官、政治家。貴族院議員(勅選)、衆議院議員(1期)。号は澤農。旧姓山本。新潟県平民。 新潟県佐渡郡真野村(現佐渡市真野)出身。山本家に生まれ、有田家の養子となった。早稲田中学校、第一高等学校を経て、1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学独法科卒業、外務省入省。 外務省ではアジア局長、オーストリア公使、外務次官、ベルギー大使、中華民国大使などを務める。1936年(昭和11年)、廣田内閣の外務大臣として初入閣。1938年(昭和13年)2月10日に貴族院議員に勅撰。
千葉 胤成(ちば たねなり、1884年〈明治17年〉9月21… 千葉 胤成(ちば たねなり、1884年〈明治17年〉9月21日 - 1972年〈昭和47年〉3月18日)は、日本の心理学者。東北大学名誉教授。 1884年、宮城県生まれ。1909年、京都帝国大学文科大学心理学科を卒業。 1917年より京都帝国大学の助教授となり、ドイツのライプツィヒ大学に留学し、ヴィルヘルム・ヴントの心理学を研究。母校の京都帝国大学西田幾多郎のもとで1922年に文学博士号を取得。1923年より東北帝国大学文学部教授となり、心理学講座を開設した。大学では、佐武安太郎と同僚で、後の「ヴント文庫」を購入。雑誌Tohoku Psychologica Foliaの刊行も開始。1940年に建国大学教授を命じられ、満州国に渡った。
福元 岩吉(ふくもと いわきち、1884年(明治17年)9月… 福元 岩吉(ふくもと いわきち、1884年(明治17年)9月20日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。澎湖庁長。通称は康行。 鹿児島県鹿児島郡川上村(現・鹿児島市川上町)に生まれる。第七高等学校造士館を経て、1914年(大正3年)東京帝国大学経済学部を卒業し、翌年10月文官高等試験行政科試験に合格。直ちに官界に入り、茨城県工場官補、同県結城郡・真壁郡長、同県理事官を経て、1924年(大正13年)栃木県属に転じ、さらに翌年長野県書記官を経て、1927年(昭和2年)和歌山県書記官を拝命する。 ついで渡台し、1932年(昭和7年)台北州内務部長、1935年(昭和10年)澎湖庁長を経て、1936年(昭和11年)府事務官に転じ退官。
星野 あい(ほしの あい、明治17年(1884年)9月19日… 星野 あい(ほしの あい、明治17年(1884年)9月19日 - 昭和47年(1972年)12月5日)は、日本の教育者。女子英学塾(現:津田塾大学)卒業。ブリンマー大学B.A.。コロンビア大学M.A.(教育学)。 女子英学塾を創設した津田梅子の後継者として女子英学塾塾長(第2代)に就任し、津田英学塾塾長、津田塾専門学校校長、津田塾大学学長(初代)を務め、約30年間に渡って津田塾の運営を担った。 星野光多は兄。星野直樹(光多の子)は甥。 横浜に生まれた。父・母・兄弟は全てクリスチャンであり、あい本人もクリスチャンであった(あいの受洗は明治30年〈1897年〉)。群馬県沼田出身の父は、生糸の貿易を志して横浜に移住しており、その間にあいが生まれたが、事業がうまく行かずに一家で沼田に戻り、あいは沼田で育った。
村岡 典嗣(むらおか つねつぐ、1884年(明治17年)9月… 村岡 典嗣(むらおか つねつぐ、1884年(明治17年)9月18日 - 1946年(昭和21年)4月13日)は、日本の歴史学者。
久保 より江(くぼ よりえ、1884年(明治17年)9月17… 久保 より江(くぼ よりえ、1884年(明治17年)9月17日 - 1941年(昭和16年)5月11日)は、日本の俳人。 1884年(明治17年)、鉱山技師の父・宮本正良と母ヤスの長女として、愛媛県松山市に生まれる。1895年(明治28年)、松山時代の夏目漱石が下宿し、正岡子規が寄宿していた「愚陀仏庵」の持ち主がより江の母方の祖父・上野義方であったことから、当時12歳の少女であったより江は、若くして漱石や子規と面識を持ち、可愛がられたという。漱石の『吾輩は猫である』に登場する女学生・雪江は、より江をモデルにしたとされる。 1899年(明治32年)、上京。東京府立第二高等女学校を卒業後、医学博士の久保猪之吉と結婚し、福岡市に転居。
三代目 柳家つばめ(やなぎや つばめ、1884年〈明治17年… 三代目 柳家つばめ(やなぎや つばめ、1884年〈明治17年〉9月17日 - 1942年〈昭和17年〉2月15日)は落語家。本名∶宮尾 正造。息子は漫談家の宮尾たか志(宮尾すすむの師匠)。 生まれは群馬県伊勢崎の機織業「宮商」の若旦那。 30歳の時に一念発起で上京し、1913年1月に三代目柳家小さんに入門、前座名「小三太」。同年に人形町末広亭で初高座。さん三から1916年ころに歌太郎を名乗り旅回りに行く。1918年に「睦会」発足と共に帰京し五代目柳亭左楽門下に移籍。同年11月に東橋亭で柳家さくらで真打昇進披露を行った。 1928年7月に研成会で三代目柳家つばめ襲名。1940年に中風にかかり、2年後死去。
竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、1884年〈明治17年〉9月1… 竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、1884年〈明治17年〉9月16日 - 1934年〈昭和9年〉9月1日)は、日本の画家・詩人。本名は竹久 茂次郎(たけひさ もじろう)。 数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれた。大正ロマンを代表する画家で、「大正の浮世絵師」などと呼ばれたこともある。また、児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。文筆の分野でも、詩、歌謡、童話など創作しており、中でも、詩『宵待草』には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。また、多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けの一人ともいえる。
前田 房之助(まえだ ふさのすけ、1884年〈明治17年〉9… 前田 房之助(まえだ ふさのすけ、1884年〈明治17年〉9月15日 - 1965年〈昭和40年〉2月18日)は、日本の政治家、実業家。位階は従三位。 衆議院議員(8期)。 兵庫県武庫郡大社村生まれ。前田四郎兵衛の三男。先代の四郎兵衛は大社村長を務めた。1907年(明治40年)、神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業。1909年(明治42年)、家督を相続した。 武庫郡会議員、大社村長等に挙げられる。1924年(大正13年)の第15回総選挙に政友本党公認で立候補し初当選。1927年(昭和2年)に政友本党が憲政会と合同して立憲民政党を結党したため、前田も民政党に所属し同党の総務、政調会長を務めた。 西宮土地、宝塚尼崎電気鉄道各社長を務めた。
砂田 重政(すなだ しげまさ、1884年〈明治17年〉9月1… 砂田 重政(すなだ しげまさ、1884年〈明治17年〉9月15日 - 1957年〈昭和32年〉12月27日)は、日本の政治家。防衛庁長官(第4代)、衆議院議員(9期)、自由民主党総務会長(第2代)などを歴任した。 愛媛県今治市生まれ。父親は退役軍人で、家が貧しかったため役所の給仕として働き、18歳で上京。1904年(明治37年)東京法学院(現・中央大学)を卒業後、司法官補を経て、弁護士を開業する。1920年(大正9年)に立憲国民党から旧兵庫1区にて衆議院議員に初当選。以後当選9回。犬養毅に師事し、立憲国民党→革新倶楽部→立憲政友会と渡り歩く。犬養内閣にて農林政務次官に就任。犬養亡き後は、政務次官時代に大臣として仕えた山本悌二郎派に身を寄せる。
村上 常太郎(むらかみ じょうたろう、1884年〈明治17年… 村上 常太郎(むらかみ じょうたろう、1884年〈明治17年〉9月15日 - 1975年〈昭和50年〉3月)は日本の検察官、弁護士。元東京控訴院次席検事。政治家村上誠一郎の祖父。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
一宮 房治郎(いちのみや ふさじろう、1884年(明治17年… 一宮 房治郎(いちのみや ふさじろう、1884年(明治17年)9月12日 - 1948年(昭和23年)7月27日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党)、ジャーナリスト。 大分県速見郡豊岡町(現在の日出町)出身。1904年(明治37年)、東亜同文書院を卒業。北京で順天時報記者・大阪朝日新聞通信員を務めた後、奉天で盛京時報を創設し、主幹・主筆を務めた。その後は内地に戻り、大阪朝日新聞記者を務めた。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は7回を数えた。その間、高橋内閣で山本達雄農林大臣の秘書官を、濱口内閣で内務参与官を、第1次近衛内閣で海軍政務次官を務めた。
竹村 喜一(あるいは竹村 喜市、たけむら きいち、1884年… 竹村 喜一(あるいは竹村 喜市、たけむら きいち、1884年〈明治17年〉9月12日 - 1945年〈昭和20年〉)は、日本の土木建築請負業者。竹村工務店(現竹村コーポレーション)社長。 長野県上伊那郡中沢村(現駒ヶ根市)に生まれる。竹村彦重の三男。普通教育を卒えて父業の農業に従事したが、1902年に吉原組に入り、北海道の鉄道敷設工事に携わる。後に同組を辞して勝呂組に入り、各所の大小工事に従事する。 1906年、土木工事業の竹村組を構え、東京四谷区若葉(現新宿区若葉)で創業。鹿島組(現鹿島建設)函樽鉄道工事に従事。また労力請負業を営み、1912年、勝呂組下請けとして目黒海軍大薬庫への人夫を供給。
沢田 節蔵(澤田 節蔵、さわだ せつぞう、1884年9月9日… 沢田 節蔵(澤田 節蔵、さわだ せつぞう、1884年9月9日 - 1976年7月4日)は、日本の外交官。
小泉 親彦(こいずみ ちかひこ、1884年(明治17年)9月… 小泉 親彦(こいずみ ちかひこ、1884年(明治17年)9月9日 - 1945年(昭和20年)9月13日)は、日本の政治家、陸軍軍医中将。
松山 省三(まつやま しょうぞう、旧姓・渡辺、1884年〈明… 松山 省三(まつやま しょうぞう、旧姓・渡辺、1884年〈明治17年〉9月8日 - 1970年〈昭和45年〉2月2日)は、日本の洋画家、カフェー・プランタンの経営者。 広島県広島市出身。渡辺又三郎の三男。日本中学校を経て東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画撰科に入学、1907年卒業(卒業時は渡辺姓。その後、弁護士・松山広居に養子入り)。 リベラリストだった省三は政治家になることを嫌がり、画家になるべく家族を連れて1909年上京。妻・英子は当時妊娠7ヵ月で、上京直後に生まれた長男が後の歌舞伎役者、河原崎国太郎である。1909年11月に小山内薫が主宰した自由劇場の公演で、他の美術学校関係者とともに背景画を担当したという。
佐藤 正(さとう まさし、1884年〈明治17年〉9月8日 … 佐藤 正(さとう まさし、1884年〈明治17年〉9月8日 - 1951年〈昭和26年〉1月12日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党、東京府第6区)、拓務参与官。教育者。実業家。勲等は勲四等。位階は正五位。 宮城県仙台市生まれ。1909年(明治42年)に早稲田大学文科哲学科を卒業し、翌年に同研究科を修了した。鉄道院総裁官房嘱託を経て、1912年(大正元年)から東北帝国大学講師や宮城県立工業学校講師を務め、1915年(大正4年)に早稲田大学学長秘書に転じ、1920年(大正9年)からは教育新聞社社長となり、さらに日本社会教育協会専務理事を務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し当選。
川北 正太郎(かわきた しょうたろう、1884年〈明治17年… 川北 正太郎(かわきた しょうたろう、1884年〈明治17年〉9月8日 - 1953年〈昭和28年〉7月19日)は、大正から昭和時代前期の政治家。京都府舞鶴市長、加佐郡中筋村長。 水鳥作蔵の二男として京都府舞鶴市に生まれる。京都師範学校を卒業し教職に就く。加佐郡中筋村助役を経て、1919年(大正8年)4月、同村長に就任。ついで加佐郡町村長会長、京都府会議員、郡農会長などを経て、1932年(昭和7年)10月、舞鶴町長となる。周辺町村との合併を推し進め、1938年(昭和13年)8月、市制施行とともに市長臨時代表者を務め、同年9月10日、舞鶴市長に就任した。東舞鶴市と合併して新たに舞鶴市が成立した後も市長を務めた。
西村 伊作(にしむら いさく、1884年(明治17年)9月6… 西村 伊作(にしむら いさく、1884年(明治17年)9月6日 - 1963年(昭和38年)2月11日)は、日本の教育者、実業家。文化学院の創立者としても知られる。大正、昭和を代表する、建築家、画家、陶芸家、詩人、生活文化研究家。奈良県吉野郡下北山村で山林業、材木商を営む資産家で北山銀行の大株主兼取締役、紀和索道会社取締役。 和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)出身。豪商の父・大石余平、母・ふゆのあいだに長男として誕生。弟に大石眞子(次男)、大石七分(三男)がおり、三兄弟の名は敬虔なクリスチャンであった父親が、聖書に登場するイサク(伊作)、マルコ(眞子)、スティーブン(七分)にちなんで名付けた(伊作自身は生涯無宗教であった)。
大倉 直介(おおくら なおすけ、1884年(明治17年)9月… 大倉 直介(おおくら なおすけ、1884年(明治17年)9月4日 - 1953年(昭和28年)[要出典])は、明治末から昭和期の建築技術者、実業家。大倉火災海上保険社長などを務めた。 東京府麻布区麻布市兵衛町(現東京都港区)で、旧新発田藩主・溝口直正の次男として生まれた。1910年7月、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、陸軍技師となる。1914年3月に退官した。 1914年、同郷の実業家・大倉喜八郎の妹みちの養子となり大倉に改姓。1915年、大倉組に入り会計部で勤務。1919年、大倉組ロンドン支店に異動。1922年、大倉商事保険部長に就任し、1926年、同監査役、1928年、大倉火災海上保険常務取締役を経て、1935年、同社長となり1943年頃まで在任。