横山 章(よこやま あきら、1874年(明治7年)1月13日… 横山 章(よこやま あきら、1874年(明治7年)1月13日 - 1938年(昭和13年)4月14日)は、日本の政治家・衆議院議員(公友倶楽部)、貴族院議員、石川県多額納税者、資産家、実業家。温泉電軌、横山鉱業部、ボルネオ護謨各社長。共同生命保険、金沢電気瓦斯各取締役。尾小屋鉱山監査役。金沢倉庫相談役。金沢商業会議所会頭。族籍は石川県士族。 加賀八家横山氏一門で、石川県士族の横山隆興(11代当主横山隆章三男)の長男。金沢市生まれ。1895年、東京物理学校を卒業。以来専ら自家経営の鉱業に従事し、1906年、満韓巡遊の途に上り親しく鉱業を視察する。1912年、金沢市で開催された第2回帝国菓子飴大品評会会長に就任する。
赤星 陸治(あかほし りくじ、1874年1月9日- 1942… 赤星 陸治(あかほし りくじ、1874年1月9日- 1942年3月28日)は、日本の実業家。三菱財閥に入社し、小岩井農場場長、三菱地所社長・会長などを務めた。熊本県八代郡鏡町上鏡(現在の八代市鏡町上鏡)出身。法科大学(現在の東京大学法学部)卒業。 熊本県八代郡の豪農・下山群太の二男として生まれてすぐ熊本藩士・赤星五郞八の養子となる。旧制五高を経て東京帝国大学法科大学政治科卒業後、三菱財閥に入社。小岩井農場が岩崎家によって直接経営されるようになった際に同農場の場長に抜擢され、1916年まで場長を務めた。当時小岩井農場は多額の累積赤字を抱えており、従業員の待遇は非常に悪かった。陸治は農場のオーナーであった岩崎久弥の全面的な支持のもと、従業員の給料を引き上げ、日用品を安く提供し、借金の返済の相談に応じるなど数々の待遇改善策を打ち出した。
長峰 与一(ながみね よいち、1874年1月8日 - 193… 長峰 与一(ながみね よいち、1874年1月8日 - 1931年4月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 現在の宮崎県宮崎市で生まれた。1894年(明治27年)宮崎県尋常中学校(現 宮崎県立宮崎大宮高等学校)を第1回生として卒業。旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科を中退し、アメリカのテキサスに留学し農業を学ぶ。その後、中国に渡り、天津に在留し、肥料製造及び販売業に従事し、その傍ら倉庫業を経営し、天津商工銀行取締役となる。また、天津居留民団行政委員会議員、同議長、天津日本人商業会議所評議員を歴任する。 1917年(大正6年)第13回衆議院議員総選挙において宮崎県区から立憲政友会公認で立候補して初当選した。
香取 秀真(かとり ほつま、1874年1月1日 - 1954… 香取 秀真(かとり ほつま、1874年1月1日 - 1954年1月31日)は日本の鋳金工芸作家、歌人である。学問としての金工史を確立し、研究者としても優れた。日本における美術の工芸家として初の文化勲章を受章。東京美術学校(現在の東京藝術大学)教授、芸術院会員。 帝室博物館(現在の東京国立博物館)技芸員、国宝保存会常務委員、文化財審議会専門委員などを歴任。秀真は雅号で、本名は秀治郎。金工の人間国宝である香取正彦は長男。 千葉県印旛郡船穂村(現在の印西市)に生まれるも、5歳で佐倉の麻賀多神社の宮司、郡司秀綱の養子となる。一時両親のもとに帰るが、7歳からの10年間を佐倉で過ごす。佐倉周辺は遺跡や古い寺院が多く、秀真は、幼い頃から古代への関心を抱いていた。
岡田 文次(おかだ ぶんじ、1874年〈明治7年〉1月1日 … 岡田 文次(おかだ ぶんじ、1874年〈明治7年〉1月1日 - 1943年〈昭和18年〉7月23日)は、日本の内務官僚、政治家、実業家。官選栃木県知事、樺太庁長官、警視総監、貴族院議員。旧姓・浜田。 山形県出身。米沢市関東町にて餌差(足軽階級)であった浜田長之助の長男として生まれ、岡田義質の養子となる。米沢尋常中学興譲館を経て、1898年7月、東京帝国大学法科大学撰科を卒業。同年12月、文官高等試験に合格し、内務属となり警保局に配属された。 1899年5月、沖縄県参事官兼臨時沖縄県土地整理事務局事務官に就任。以後、山梨県警察部長、千葉県警察部長、新潟県事務官・第四部長、警視庁第二部長、同官房主事などを歴任。
成毛 基雄(なるげ もとお、1874年(明治7年)1月1日 … 成毛 基雄(なるげ もとお、1874年(明治7年)1月1日 - 1950年(昭和25年)2月20日)は、日本の内務官僚。内閣拓殖局長、官選奈良県知事。 1874年(明治7年)1月、成毛勝蔵の長男として千葉県香取郡高岡村に生まれる。帝国大学農科大学乙科、東京専門学校英語政治科(現早稲田大学政治経済学部)、和仏法律学校(現法政大学)法律科(1901年(明治34年))を卒業する。 1905年(明治38年)11月に高等文官試験行政科に合格して、大蔵省に入省し内務省に転じた。宮城県玉造郡長、富山県事務官・警察部長、秋田県・熊本県・兵庫県の警察部長、埼玉県・兵庫県・愛知県の内務部長を歴任する。 1922年(大正11年)に奈良県知事に就任し、1927年(昭和2年)に内閣拓殖局長に就任する。
中山 龍次(なかやま りゅうじ、1874年(明治7年)1月1… 中山 龍次(なかやま りゅうじ、1874年(明治7年)1月1日 - 1962年(昭和32年)6月29日)は、日本の逓信官僚。新潟県十日町市長。 新潟県中魚沼郡十日町村(現在の十日町市)出身。1892年(明治25年)、東京郵便電信学校を卒業。逓信技手に任じられ、東京郵便電信学校教授、通信技師、逓信技師を歴任した。イギリス・ドイツ留学後、1913年(大正2年)から在官のまま中華民国交通部顧問を務めた。 1928年(昭和3年)に退官した後は日本放送協会関東支部常務理事となり、1934年(昭和9年)からは日本放送協会常務理事・業務局長となった。1937年(昭和12年)に退任した後は、1938年(昭和13年)から電気通信協会初代会長を務めた。
大沢 豊子(おおさわ とよこ、1873年(明治6年)12月3… 大沢 豊子(おおさわ とよこ、1873年(明治6年)12月31日 - 1937年(昭和12年)6月15日)は、明治から昭和にかけての速記者、ジャーナリスト。群馬県館林市生まれ。生涯で三度職業を変え、それぞれの分野を女性の職業とする先鞭をつけた。 旧館林藩士であった父大沢師容、母やをの長女として生まれる。小学校を卒業後の1888年(明治21年)、15歳で東京に出て、遠縁であった佃与次郎の速記塾に入り、2年間速記を学んだ。 翌1889年(明治21年)、講演速記として業務を始め、7月、大日本婦人衛生学会の講演会の速記を初めて担当。同年の12月9日には、設立3年目であった婦人矯風会が主催した廃娼演説会で、同門の中村たま子と共に植木枝盛らの演説を速記した。
小島 烏水(こじま うすい、1873年12月29日-1948… 小島 烏水(こじま うすい、1873年12月29日-1948年12月13日)は、日本の登山家、随筆家、文芸批評家、浮世絵や西洋版画の収集家・研究家。本名は小島 久太。 1873年(明治6年)香川県高松生まれ。横浜商業学校卒業。横浜正金銀行に入行。銀行は定年まで勤め、シアトル支店長などを歴任。 横浜商業学校時代に友人と雑誌『学燈』を編集するなど、早くから文筆に興味を持つ。銀行に入ってから、1896年に出した『一葉女史』により評論家として世に注目される。 また、登山家としても知られ、1897年立川から甲府の昇仙峡まで徒歩で青梅街道を歩く、1899年休暇に浅間山 - 木曽へ山旅するなど、旅を趣味とした。
星 一(ほし はじめ、1873年(明治6年)12月25日 -… 星 一(ほし はじめ、1873年(明治6年)12月25日 - 1951年(昭和26年)1月19日)は、福島県いわき市出身の実業家・政治家。略称、ホシピン。SF作家星新一の父。写真植字機を開発した石井茂吉と森澤信夫が出会うきっかけとなった星製薬を築いた。また、星薬科大学の創立者。
松井 元興(まつい もとおき、1873年12月25日 - 1… 松井 元興(まつい もとおき、1873年12月25日 - 1947年5月24日)は、日本の物理化学者。京都帝国大学総長、立命館大学学長、日本物理化学研究会初代会長。
本多 正復(ほんだ まさもと、明治6年(1873年)12月2… 本多 正復(ほんだ まさもと、明治6年(1873年)12月23日 - 昭和9年(1934年)4月9日)は、日本の華族(子爵)。平戸藩主松浦詮の六男。初名は松浦復。長尾藩主本多正憲の娘・純子の婿養子となり名を改める。子に房子、本多正震、稲葉正弘(稲葉正顕養子)、恒子(田中真茂妻)。 学習院高等科を卒業。宮内省に入り、東宮侍従、掌典次長を歴任、その後宮中顧問官を務めた。大正15年(1926年)7月に養父が隠居し家督を継ぐ。昭和9年、62歳で没した。墓所は青山霊園(1イ20-23)で、藩主の墓所を浅草徳本寺や谷中霊園から改葬している。
滝 精一(たき せいいち、1873年(明治6年)12月23日… 滝 精一(たき せいいち、1873年(明治6年)12月23日 - 1945年(昭和20年)5月17日)は、日本の美術史家。東京帝国大学教授。 東京生まれ。滝和亭の長男。号は拙庵。東京帝国大学哲学科卒、1914年、母校の文学部に美術史学講座が開設された際に初代教授となり、昭和9年(1934年)の退官まで日本美術史と中国絵画史を講じた。1925年帝国学士院会員。1927年文学部長。大阪朝日新聞客員、東方文化学院理事長、会長を務め、『国華』の編集に携わる。1940年朝日文化賞受賞。 かつて滝に新聞学講座開設を阻止された小野秀雄の恨みを買い、没後、小野の回想録で憎悪に満ちた批判を受けた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
木田川 奎彦(きたがわ ふみひこ / けいひこ、1873年(… 木田川 奎彦(きたがわ ふみひこ / けいひこ、1873年(明治6年)1月19日 - 1951年(昭和26年)3月30日)は、日本の会計検査院・内務官僚。官選奈良県知事、小樽市長。旧姓:桑名。 福井県坂井郡で桑名金五郎の三男として生まれ、木田川梅吉の養子となる。福井中学校を卒業。1900年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、農商務省に入省し農商務属となり鉱山局に配属された。 1901年1月、会計検査院に転じ検査官補に発令され第一部第二課勤務となる。以後、同院書記官兼検査官補などを務めた。1909年8月、内務省に転じ内務大臣秘書官兼内務省参事官に就任。以後、内務事務官、神奈川県港務部長、同内務部長などを歴任。
関戸 寅松(せきと とらまつ、1873年(明治6年)1月17… 関戸 寅松(せきと とらまつ、1873年(明治6年)1月17日 - 1945年(昭和20年)1月14日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会)。弁護士。 石川県能美郡金野村(現在の小松市)出身。1895年(明治28年)、東京専門学校行政科(現在の早稲田大学)を卒業。1897年(明治30年)、弁護士試験に合格。東京で弁護士を開業するが、後に静岡県に移り、1912年(大正元年)には小笠郡会議員に選ばれた。1914年(大正3年)、金沢市に事務所を開き、石川県会議員に選出された。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 1927年(昭和2年)より再び石川県会議員を務めた。
蜷川 新(にながわ あらた、1873年(明治6年)1月14日… 蜷川 新(にながわ あらた、1873年(明治6年)1月14日 - 1959年(昭和34年)8月17日)は日本の法学者、外交官、大学教授。専門は国際法。先祖は室町幕府に政所代を世襲した蜷川氏で、後に江戸幕府の旗本となった。格闘家の武蔵、TOMO兄弟は曾孫にあたる。 父は旗本蜷川親賢、母は林田藩主建部政醇の娘はつ子。旗本小栗忠順の義理の甥に当る。静岡県袖師(現在の静岡市清水区)で生まれる。生後すぐに父が死去したため、母の縁を頼って東京に移り住む。 1889年(明治22年)第一高等学校に入学。学友に渡辺千冬や鈴木梅太郎がいた。卒業後東京帝国大学の法科大学に進学し、有賀長雄のもとで国際法を専攻した。卒業後、同大学大学院に進学。
岩井 敬太郎(いわい けいたろう、1873年〈明治6年〉1月… 岩井 敬太郎(いわい けいたろう、1873年〈明治6年〉1月14日 - 1963年〈昭和38年〉12月)は、日本の内務官僚。福岡県大牟田市長。 長崎県に貞方定衛の三男として生まれ、岩井範一の養子となった。1900年(明治33年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。警視庁警部となり、1902年(明治35年)には同警視・小石川警察署長に昇進した。1905年(明治38年)からは韓国に渡り、韓国政府警務顧問補佐官、統監府書記官、韓国政府内部書記官などを務めた。 1910年(明治43年)より、宮崎県事務官・警察部長、静岡県事務官・警察部長、青森県内務部長、長崎県内務部長、神奈川県内務部長を歴任し、1918年(大正7年)に退官した。
桃澤 如水(ももざわ にょすい、1873年(明治6年)1月1… 桃澤 如水(ももざわ にょすい、1873年(明治6年)1月14日 - 1906年(明治39年)8月29日)は、歌人で日本画家。本名は桃澤 重治(ももざわ しげはる)、画名は如水(にょすい)または桃画史(とうがし)、歌名を茂春(もしゅん)といい、筆名を三六、三六軒、子脩(ししゅう)などと称した。その祖に江戸時代中期の歌人である桃澤夢宅がいる。 長野県伊那郡本郷村で、桃澤匡尊の次男として生まれる。桃澤家は古くから代々庄屋(名主)を務めており、何人も歌人を産んだ名家であった。1888年(明治21年)15歳で飯田の岡庭塾で、英語や漢籍、数学などを学んだ。ここで菱田春草と出会い、自分も画家になろうとするも、経済的な理由で上京の許しが出なかった。
河崎 助太郎(かわさき すけたろう、1873年(明治6年)1… 河崎 助太郎(かわさき すけたろう、1873年(明治6年)1月13日 - 1943年(昭和18年)2月21日)は、明治から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員。 岐阜県厚見郡富茂登村(岐阜市富茂登釜屋町を経て現:岐阜市大仏町)で、御寿司元(鮎寿司)・河崎喜久夫の長男として生まれ、1904年(明治37年)11月に家督を相続した。1889年(明治22年)神戸私立英学校を卒業した。 大阪に出て、毛織物類、羊毛、毛糸類の貿易及羊毛紡績業に従事。また、大阪地方裁判所商事調停委員、大阪織物同業組合長、日本輸出綿織物連合会大阪支部長、岐阜商工会議所会頭、大阪商業会議所議員、京都土地建物社長、日宝石油社長、日本毛糸紡績取締役社長、朝日毛糸紡績取締役社長、東洋毛織工業取締役社長、東洋毛糸紡績取締役社長、共同毛織取締役社長、日本整毛工業取締役社長、新興人絹取締役社長、河崎商事取締役社長、東華紡績取締役、島津製作所監査役などを務めた。
緒方 武(おがた たけし、1873年〈明治6年〉1月12日 … 緒方 武(おがた たけし、1873年〈明治6年〉1月12日 - 1940年〈昭和15年〉6月4日)は、熊本県出身の日本の剣道家(教士)、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は、陸軍歩兵中尉(従七位勲六等)、元熊本県議会議員。 明治6年(1873年)1月12日、父清彦、母千伊の長男として熊本県西合志村梅屋敷(現合志市)に生まれる。 心通学舎(現・合志小学校)から済々黌で学び、東京師範学校に入る。剣道は新陰流(戸波派)宮川末五郎の相伝を受け、第十九代当主となる。 明治30年(1897年)から明治33年まで第五高等学校に奉職。同僚に夏目漱石がいる。 明治33年(1900年)三宅多留次と武徳祭にて柔道試合。 明治36年(1903年)より紫溟会から熊本県議会議員選挙に出馬、当選。
馬上 孝太郎(もうえ こうたろう、1873年(明治6年)1月… 馬上 孝太郎(もうえ こうたろう、1873年(明治6年)1月12日 - 1945年(昭和20年)5月25日)は、日本の教育者。 福島県出身。1899年(明治32年)、東京高等師範学校文科を卒業。秋田県師範学校教諭、東京高等師範学校舎監・教授、学習院教授、女子学習院教授・学生監を歴任。1924年(大正13年)より東京高等師範学校教授・附属中学校主事を務め、1941年(昭和16年)に退官した。 その他、茗渓会理事長、帝国教育会理事を務めた。 1945年(昭和20年)5月25日の空襲で戦災死した。墓所は多磨霊園。
岡田 栄(おかだ さかえ、1873年〈明治6年〉1月10日 … 岡田 栄(おかだ さかえ、1873年〈明治6年〉1月10日 - 1940年〈昭和15年〉7月19日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(立憲政友会)。位階は正七位。勲等は勲四等。 高知県高岡郡松葉川村(窪川町を経て現四万十町)生まれ。東京法学院(現在の中央大学)を卒業。判事検事登用試験・弁護士試験に合格。神戸地方裁判所判事、大阪地方裁判所判事を経て、関東総督府審理官、関東都督府法院判官を歴任し、韓国政府法務補佐官を務めた。その後、官を辞して弁護士を開業した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1918年(大正7年)の衆議院補欠選挙で再選された。 その他、北海道と朝鮮で農場を経営した。
福田 令寿(ふくだ れいじゅ、1873年1月10日 - 19… 福田 令寿(ふくだ れいじゅ、1873年1月10日 - 1973年8月7日)は、日本の医師。教育者。社会事業家。熊本市名誉市民。 ハンナ・リデルが創立したハンセン病病院回春病院はエダ・ハンナ・ライトの時代であったが、国の方針ですべての外国人はスパイだという目でみていた。経済的にも経営は困難であると評議員の福田令寿は閉鎖しようと発議した。福田は清算人代表となり、神戸に出かけシー・ビー・ケネス、上田穣、福田令寿で清算人会議を開いた。患者は九州療養所に引き取ってもらい、当座必要だろうというので九州療養所に6万円寄付、その外に土地建物は日本ライ予防協会(土地7,135.9坪、価格約7万円)を寄付した。後日細川家から土地を返してくれといわれたが、どうしようもなかった。
芦田 惠之助(あしだ えのすけ、1873年1月8日 - 19… 芦田 惠之助(あしだ えのすけ、1873年1月8日 - 1951年12月9日)は、明治から昭和を生きた教育者。兵庫県出身。 16歳で、故郷の竹田村の竹田簡易小学校の授業生という呼び名の教員になって、教職のスタートを切る。その後1898年、上京して、東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)訓導、樋口勘次郎に学び、綴り方教育を提唱。1902年、郷里に戻り、兵庫県姫路中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)の助教諭となり、ここで国語教育の実践を展開していく。 彼の立場は、今の言い方でいえば「自由作文」、当時は「随意選題」といった。これは同時代、ドイツのハンブルクを中心に展開された芸術教育運動の中の作文教育で提唱されたものとほとんど時を同じくしたものである。
上畠 益三郎(うえはた ますさぶろう、1873年(明治6年)… 上畠 益三郎(うえはた ますさぶろう、1873年(明治6年)1月7日 - 1938年(昭和13年)1月25日)は、日本の政治家、法律家、実業家。衆議院議員、弁護士、大阪株式取引所理事長、日本信託銀行取締役、法政大学監事を務めた。 大阪市生まれ。上畠又兵衛の二男として生まれた。 1891年(明治24年)に和仏法律学校(現法政大学)邦語法律科を卒業。その後、判事検事登用試験に合格し、徳島地方裁判所検事、大阪地方裁判所検事を経て弁護士になる。1920年(大正9年)に第14回衆議院議員総選挙に大阪府第2区から無所属で出馬し当選。当選後は庚申倶楽部に所属した。その後、大阪株式取引所理事長、日本信託銀行取締役に就任。
佐藤 熊治郎(さとう くまじろう、1873年(明治6年)1月… 佐藤 熊治郎(さとう くまじろう、1873年(明治6年)1月7日 - 1948年(昭和23年)9月7日)は、日本の教育者。 宮城県出身。1901年(明治34年)、東京高等師範学校文科教育学部を卒業し、北海道師範学校教諭・附属小学校主事となった。1906年(明治39年)、東京高等師範学校研究科を修了し、長野県師範学校教諭・主事に転じた。 1911年(明治44年)、広島高等師範学校教授・附属小学校主事に就任。1922年(大正11年)、教育学研究のためドイツ・イギリス・フランスに留学した。1936年(昭和11年)、退官。
石坂 友太郎(いしざか ともたろう、1873年(明治6年)1… 石坂 友太郎(いしざか ともたろう、1873年(明治6年)1月6日 - 1963年(昭和38年)4月29日)は、日本の医学者、九州帝国大学医学部教授。九州帝国大学名誉教授。ヘビ毒の研究で知られ、特にハブ毒の薬理学的研究については、1963年の時点で石坂以外には研究例がなかったと報告されている。 教育者であり政治家だった石坂専之介の長男として加賀国(現・石川県)で生まれる。 1891年9月、第四高等中学校予科に入学し、1894年7月に卒業すると、第一高等学校独逸専修科に進む。1897年7月に一高を卒業して東京帝国大学医科大学に入学した。 1901年12月に東京帝国大学医科大学を卒業した。卒業直後の1902年1月、薬物学教室の高橋順太郎教授のもとで助手として採用され、同2月に大学院に進んだ。
藤田 謙一(ふじた けんいち、1873年〈明治6年〉1月5日… 藤田 謙一(ふじた けんいち、1873年〈明治6年〉1月5日 - 1946年〈昭和21年〉3月12日)は、日本の実業家、政治家。日本商工会議所初代会頭、貴族院議員。 青森県弘前市に、武将明石全登の末裔で津軽藩士だった父明石永吉、母ともの次男として生まれる。5歳のときに、親戚の藤田正三郎の養子となり、藤田姓を名乗る。 東奥義塾を中退、1891年(明治24年)に上京し、東京・神田駿河台の明治法律学校(現在の明治大学)に入学する。法学博士・熊野敏三の書生になる。同学を卒業し、大蔵省(現在の財務省)に入省する。 1901年(明治34年)に大蔵省を辞し、翌1902年(明治35年)、「天狗煙草」で知られる岩谷松平の岩谷商会の支配人となる。
杉 栄三郎(すぎ えいざぶろう、1873年(明治6年)1月4… 杉 栄三郎(すぎ えいざぶろう、1873年(明治6年)1月4日 - 1965年(昭和40年)6月7日)は、日本の宮内官僚。帝室博物館総長。法学博士。 岡山県哲多郡矢神村(現在の新見市)出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。会計検査院に入ったが、1902年(明治35年)より清国の招聘で京師大学堂(北京大学の前身)教授となった。10年間在職したが、辛亥革命により帰国した。帰国後は会計検査院に戻り、検査官、第一部第三課長を務めた。その後、宮内省に移り、書記官、参事官、帝室林野局主事、図書頭、諸陵頭を歴任した。1932年(昭和7年)より帝室博物館総長を務めた。1938年(昭和13年)6月16日、大正天皇実録及び明治以前の天皇皇族実録編集関係者への行賞が行われる中、前図書頭であった渡部に賜金、賜品が授けられた。
小林 一三(こばやし いちぞう、1873年(明治6年)1月3… 小林 一三(こばやし いちぞう、1873年(明治6年)1月3日 - 1957年(昭和32年)1月25日)は、日本の実業家、政治家。阪急電鉄をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者。 鉄道を中心とした都市開発(不動産事業)、流通事業(百貨店・スーパーなど)、観光事業などを一体的に進め相乗効果を上げる私鉄経営モデルの原型を独自に作り上げ、後に全国の大手私鉄や民営化したJRがこの小林一三モデルを採用し、日本の鉄道会社の経営手法に大きな影響を与えた。これらの事業は後に阪急百貨店、宝塚歌劇団、東宝として阪急東宝グループを形成する。その過程で阪急沿線での六甲山麓の高級住宅地の開発、学校法人関西学院等の高等教育機関の誘致や温泉、遊園地、野球場など娯楽施設の整備を行い、日本最初の田園都市構想を実現した。
八代 國治(やしろ くにじ、1873年(明治6年)1月2日 … 八代 國治(やしろ くにじ、1873年(明治6年)1月2日 - 1924年(大正13年)4月2日)は、日本の明治・大正期の歴史学者。文学博士(1922年)。國學院大学教授等を歴任。長慶天皇在位の結論を出したことで知られる。帝国学士院恩賜賞受賞。勲六等瑞宝章追賜。東洋史学者・白鳥清は甥に当たる。 1873年、木更津県市原郡上高根村(現在の千葉県市原市上高根)の農家の鈴木吉蔵の次男に生まれる。 1895年、上京し國學院に入学。1897年に國學院を卒業後、東京帝国大学文科大学史料編纂掛に入り、鎌倉時代史料の研究にあたる。 1901年2月、八代房吉の婿養子に入り八代姓を名乗った。 1908年には最初の日本史辞典である『国史大辞典』の編纂を行った。
藤井 利誉(ふじい としたか、明治5年12月2日(1872年… 藤井 利誉(ふじい としたか、明治5年12月2日(1872年12月31日) - 昭和20年(1945年)12月30日)は、日本の教育者。 福島県出身。1901年(明治34年)、東京高等師範学校文科を卒業。福島県師範学校教諭、福井県師範学校教諭、東京女子高等師範学校教授・附属小学校主事を歴任。1916年(大正5年)、欧米諸国に留学。帰国後、東京女子高等師範学校附属高等女学校主事に任命された。1924年(大正13年)、東京市に転じ、教育局学務課長・視学課長、教育局長を歴任した。 1934年(昭和9年)に退官後も帝国教育会理事を務めた。
安西 直一(あんざい なおいち、明治5年12月2日(1872… 安西 直一(あんざい なおいち、明治5年12月2日(1872年12月31日) - 昭和28年(1953年)9月7日)は、日本の実業家、政治家。千葉県会議長。日本養鮑(名)社長。東京瓦斯会長を務めた安西浩は長男。昭和電工社長を務めた安西正夫は次男。孫に東京瓦斯相談役を務めた安西邦夫や実業家の安西孝之などがいる。 千葉県夷隅郡清海村(のち興津町、現勝浦市)出身。父・八郎兵衛は漁師だった。後に次男安西正夫と森矗昶長女の満江が結婚して安西家と森家は親族同士となるが、正夫・満江それぞれの祖父である八郎兵衛・森為吉両人とも、勝浦の有力な網元だった(安西浩#安西家も参照)。 二松學舍修業。日露役に従軍する。郡会議長、県参事会員同議長町長。
岡田 宇之助(おかだ うのすけ、1872年12月30日(明治… 岡田 宇之助(おかだ うのすけ、1872年12月30日(明治5年12月1日) - 1949年(昭和24年)10月17日)は、日本の内務官僚。官選県知事。旧姓・原。 兵庫県出身。原丈之助の弟として生まれ、岡田家の養子となる。第三高等学校を卒業。1896年、東京法学院(現・中央大学)を卒業。1897年12月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し内務属となる。 以後、島根県参事官、長野県参事官、同事務官・第一部長兼第三部長、愛媛県事務官、同内務部長などを歴任。 1912年12月、茨城県知事に就任。青柳橋の架橋、水海道分署新築、御大礼記念教育館建設、県道整備計画の策定などに尽力。1917年1月、佐賀県知事に転任。
筧 克彦(かけい かつひこ、1872年12月28日〈明治5年… 筧 克彦(かけい かつひこ、1872年12月28日〈明治5年11月28日〉 - 1961年〈昭和36年〉2月27日)は、日本の法学者、神道思想家。東京帝国大学法学部教授、國學院大學教授。従三位勲二等法学博士。長野県諏訪出身。 諏訪大社のある筑摩県諏訪郡上諏訪(現・長野県諏訪市)に旧諏訪藩士筧朴郎の長男として生まれる。東京府尋常中学校、第一高等学校を経て、帝国大学法科大学入学。1897年(明治30年)、帝国大学法科大学法律学科首席卒業、法科大学卒業生総代。同期生には美濃部達吉(政治学科)など。大学卒業後直ちに大学院に入り、翌1898年から6年間ドイツに留学して、オットー・フォン・ギールケ、アドルフ・フォン・ハルナック、ヴィルヘルム・ディルタイなどに師事した。
宮地 久寿馬(みやぢ くすま、1872年12月25日〈明治5… 宮地 久寿馬(みやぢ くすま、1872年12月25日〈明治5年11月25日〉 - 1945年9月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1872年(明治5年)、高知城下大川筋(現在の高知市)に生まれた。海南中学校(現在の高知県立高知小津高等学校)を経て、1894年(明治27年)7月、陸軍士官学校(5期)を卒業。同年9月、歩兵少尉に任官。1902年(明治35年)11月、陸軍大学校(16期)を卒業した。 堺連隊区司令官などを経て、1915年(大正4年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵第68連隊長に就任。1917年(大正6年)8月、第1師団参謀長となり、中支那派遣隊司令官に転じ、1919年(大正8年)4月、陸軍少将に進級。
戸叶 薫雄(とかの よしお / しげお、1872年12月24… 戸叶 薫雄(とかの よしお / しげお、1872年12月24日(明治5年11月24日)- 1917年(大正6年)9月26日)は、明治後期から大正期の新聞編集者、実業家、政治家。衆議院議員。旧名・初五郎。田中正造の後継者と目された人物。 栃木県安蘇郡長谷場村(野上村長谷場、田沼町を経て現佐野市長谷場町)で、戸叶庄造の長男として生まれる。1885年(明治18年)2月、家督を相続し薫雄に改名した。栃木師範学校で学んだが教師と対立して退校。1896年(明治29年)自由民権思想の普及のため政治小説『想夫恋』を出版。1898年(明治31年)7月、東京法学院(前身英吉利法律学校、現中央大学)を卒業し、1899年(明治32年)7月、日本法律学校(現日本大学)を卒業した。
上野 英三郎(うえの えいざぶろう、うえの ひでさぶろう、1… 上野 英三郎(うえの えいざぶろう、うえの ひでさぶろう、1872年1月19日〈明治4年12月10日〉 - 1925年〈大正14年〉5月21日)は、日本の農学者。農学博士。東京帝国大学教授。日本の農業土木、農業工学の創始者である。また東京都渋谷駅前に銅像が建つ忠犬ハチ公の飼い主としても知られる。 三重県一志郡本村(後の久居市、現在の津市久居元町)出身。上野六兵衛の三男。1887年(明治20年)に東京農林学校に入り、1890年(明治23年)に農科大学予科に編入され、1892年(明治25年)に同大学農学科に転じ、1895年(明治28年)7月、東京帝国大学農科大学を卒業する。農学士の称号を受け直に大学院に入り農業土木及び農具に関する事項を研究する。
神谷 卓男(かみや たくお、明治4年12月9日〈1872年1… 神谷 卓男(かみや たくお、明治4年12月9日〈1872年1月18日〉 - 1929年〈昭和4年〉10月22日)は、明治末期から昭和初期にかけての官僚・政治家である。名古屋市助役や衆議院議員、東邦電力常務取締役を務めた。京都府出身。 神谷卓男は、明治4年12月9日(新暦:1872年1月18日)、京都府与謝郡宮津町波路(現在の宮津市)に生まれた。父・広生は旧宮津藩士で明治維新後は地方自治に尽力した人物である。宮津小学校・天橋義塾・京都中学校を経て同志社に入り、1892年(明治25年)に同志社を卒業。1894年(明治27年)からはアメリカ合衆国へと留学し、スタンフォード大学およびコロンビア大学で学んだのち1900年(明治33年)に帰国した。
神津 藤平(こうづ とうへい、1872年1月15日〈明治4年… 神津 藤平(こうづ とうへい、1872年1月15日〈明治4年12月6日〉 - 1960年〈昭和35年〉10月11日)は、明治末期から昭和にかけて活動した日本の実業家である。長野県北佐久郡志賀村(現・佐久市)の豪農神津家の一族に生まれ、志賀村長や長野県会議員、六十三銀行(八十二長野銀行の前身)常務取締役を務めたのち1920年(大正9年)に河東鉄道、後の長野電鉄の初代社長に就任。以後40年にわたり長野電鉄社長を務め、その間志賀高原開発を主導した。 弟は地質学者の神津俶祐。孫に第80代内閣総理大臣の羽田孜がいる。 明治4年12月6日(新暦:1872年1月15日)、神津清三郎の次男として生まれた。出身地は長野県北佐久郡志賀村(現・佐久市)。
坂口 豊蔵(さかぐち とよぞう、1872年〈明治5年〉1月1… 坂口 豊蔵(さかぐち とよぞう、1872年〈明治5年〉1月13日 - 1930年〈昭和5年〉6月12日)は、日本の実業家。族籍は鳥取県平民。 鳥取県米子市尾高町の木綿問屋に生まれる。坂口平吉郎の五男。兄平兵衛の養子となり、1920年、家督を相続する。煙草元売捌・製糸業を営む。銀行会社の重役として知られる。 有限責任米子信用組合初代組合長、坂口合名会社代表社員、米子電車軌道、米子製鋼所、八頭木材各社長、米子銀行副頭取、山陰電気副社長、米子坩堝、山陰日日新聞各取締役、日本製絲、皆生温泉土地各監査役などをつとめる。 住所は鳥取県米子市尾高町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
三矢 重松(みつや しげまつ、明治4年11月29日(1872… 三矢 重松(みつや しげまつ、明治4年11月29日(1872年1月9日) - 大正12年(1923年)7月18日)は、日本の国語学者・国文学者。学位は文学博士。國學院大學教授。 折口信夫の師。弟に三矢宮松がいる。いわゆる「三矢文法」を築き、「最後の国学者」と呼ばれる壮烈な学風で知られる。 1872年(明治4年)1月9日、酒田県田川郡鶴岡大字二百人町(現・山形県鶴岡市)で生まれた。父・三矢維顕、母・町子の二男。実家は代々庄内藩に使えた士族の家で、祖父の静は藩校の典学を勤めた人物であった。1877年(明治10年)、鶴岡朝暘学校に入学。朝暘学校卒業後、西田川郡中学校を経て山形県尋常中学校に転入。在学中、中台直矢、角田俊次について漢学を学び、庄内英学会に加わって英語を身につけた。
石橋 重吉 (いしばし じゅうきち、1872年1月5日〈明治… 石橋 重吉 (いしばし じゅうきち、1872年1月5日〈明治4年11月25日〉 - 1953年〈昭和28年〉11月21日)は、日本の教育者。郷土史家。号は咬菜(こうさい)、豊洲、酔逃。 福井県今立郡粟田部(現・越前市)に生まれる。1887年真宗大谷派学場で英語、漢文、数学を学ぶ。1888年病に倒れ、福井中学の受験を断念し、郷里に戻り病床で独習する。1889年名古屋の小堀蓬髪の漢学塾に入門。1893年名古屋で嚶鳴塾を開き、塾師になる。講義の間には、書生のために炊事もし、近隣から食べ物をもらった際には牡丹餅を作って配った。愛読書はスマイルズの『自助論』。1896年、文部省教員検定試験に合格し、1896年福井中学で倫理と漢文を教える。
村上 春太郎(むらかみ はるたろう、明治5年(1872年)1… 村上 春太郎(むらかみ はるたろう、明治5年(1872年)1月2日 - 昭和22年(1947年)6月10日)は、日本の天文学者、物理学者。 愛媛県越智郡東伯方村大字有津の庄屋、村上重吉の長男として生まれる。独学で数学、物理学、化学の高等教員資格検定を合格、教授免状を取得する。 同志社理科学校で教え、明治36年(1903年)9月に第七高等学校造士館に赴任し、物理学教授として教鞭を振るう傍ら、赤道儀を設置した望遠鏡を備えた天文台を建設。啓蒙書「天文学一夕話(島津源蔵、明治35年)」、「天文と地象(恒星社厚生閣、1944、1949)」および旧制高校の教科書「物理学原論」を著した。
会田 龍雄(あいだ たつお、明治4年11月21日(1872年… 会田 龍雄(あいだ たつお、明治4年11月21日(1872年1月1日) - 昭和32年(1957年)12月16日)は、日本の生物学者、遺伝学者。 1903年 - 1941年、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)教授。1932年、帝国学士院賞受賞。 京都市出身。1872年、有栖川宮家に剣客として仕えた勤王派の父(福島県、矢吹出身)と外科医の娘である母(京都市出身)のあいだに長男として生まれる。銅駝校(小学校)、京都府尋常中学校、第三高等学校を経て、帝国大学理科大学動物学教室に入学、飯島魁に師事。同教室を1896年卒業後、1898年、第五高等学校(熊本)教授。この時同僚に夏目漱石がいた。1903年実家のある京都に戻り、京都高等工芸学校教授。
三宅 利平(みやけ りへい、1872年1月1日(明治4年11… 三宅 利平(みやけ りへい、1872年1月1日(明治4年11月21日) - 1932年(昭和7年)3月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県多可郡、のちの日野村(現西脇市)で生まれた。1893年、同志社卒。酒造業を営む。加古川実業協会長、加古郡教育会長、京都同志社理事、全国酒造組合連合会評議員、兵庫県酒造組合連合会副会長、姫路米穀取引所理事、加古川銀行、日本綿布各(株)取締役、新宮軽便鉄道(株)社長、龍野電気鉄道(株)専務取締役を歴任する。また、加古郡議、同議長、加古川町長、兵庫県議、同参事会員、同副議長、同議長となる。 1928年の第16回衆議院議員総選挙において兵庫3区(当時)から立憲民政党公認で立候補してトップ当選した。
菱刈 隆(ひしかり たか、1871年12月27日(明治4年1… 菱刈 隆(ひしかり たか、1871年12月27日(明治4年11月16日) - 1952年(昭和27年)7月31日)は、日本陸軍の軍人、外交官。最終階級は陸軍大将。栄典は勲一等功五級。幼名、幸吉。
山下 芳太郎(やました よしたろう、1871年12月24日(… 山下 芳太郎(やました よしたろう、1871年12月24日(明治4年11月13日) - 1923年4月7日)は、日本の実業家、言語政策研究家、外交官である。 漢字は非能率的であると考え、改良カナ文字とカナ文字タイプライターの普及をめざした。遺書も墓もカタカナで書かれている。 山下興作の長男として愛媛県に生まれた。旧制高松中学校(後の香川県立高松高等学校)、旧制松山中学校(後の愛媛県立松山東高等学校)を経て、1892年7月に東京高等商業学校(後の一橋大学)を卒業した。1917年(大正6年)2月に家督を相続している。 1893年(明治26年)12月から外務省につとめ、領事館書記生および領事事務代理としてボンベイで、副領事としてリヨンおよびロンドンで働いた。
山田 宗美(やまだ そうび、1871年12月23日(明治4年… 山田 宗美(やまだ そうび、1871年12月23日(明治4年11月12日) - 1916年(大正5年)3月15日)は、石川県江沼郡大聖寺町鍛治町(現在の加賀市)出身の鍛金家。本名は山田長三郎。 1871年12月23日(明治4年11月12日)、石川県江沼郡大聖寺町鍛治町(現在の加賀市)の武具鍛冶師の家に生まれた。 父の山田宗光に象嵌や打出しの技術を学んだ後、1891年(明治24年)には一枚の薄い鉄板から立体の花瓶や置物を打出す独自の技術を編み出した。宗美は極めて高度な鉄打出しの技術を有しており、「宗美の先に宗美なく、宗美のあとに宗美なし」と言われた。美術史家の大村西崖は著書『東洋美術史』の中で「鎚起には加賀の山田長三郎宗美あり、自ら鉄を用いよく動物の全形を鎚起し空前の奇巧を示した」と記している。
小金井 喜美子(こがねい きみこ、明治3年11月29日(18… 小金井 喜美子(こがねい きみこ、明治3年11月29日(1871年1月19日) - 昭和31年(1956年)1月26日)は、近代日本の歌人・翻訳者。 近代詩の形成に多大な影響を与えた訳詩集『於母影』の共訳者として、紅一点で名を連ねるなど、女性文学者として明治期に若松賤子と並び称された歌人・随筆家である。夫は日本解剖学会初代会長などをつとめた小金井良精(良精は再婚)、長兄は文豪森鷗外、次兄は劇評家の三木竹二(森篤次郎)、孫の一人は作家の星新一。家族・知人などの回想記を多く著し、とりわけ鷗外と竹二に関する記述は、鷗外研究で重要な資料となっている。 1871年1月19日(明治3年11月29日)、石見国(現島根県)津和野で津和野藩医、森静泰(後年、静男と改名)と峰の間に長女として生まれた(本名キミ)。