渡邊 正清(わたなべ まさきよ、慶応2年9月9日(1866年… 渡邊 正清(わたなべ まさきよ、慶応2年9月9日(1866年10月17日) – 昭和3年(1928年)9月3日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、検事、弁護士。 1866年、長門国阿武郡萩町(現在の山口県萩市)に出生。1895年、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。同年に判事検事登用試験に合格し、司法官試補を経て、宇都宮地方裁判所・大分地方裁判所・福岡地方裁判所・大阪地方裁判所の検事を務めた。徳島地方裁判所の次席検事に昇進したが、1906年に退官し徳島市で弁護士を開業した。徳島市会議員、徳島毎日新聞社監査役、日本化学工業株式会社取締役等を歴任。 1927年の衆議院補欠選挙に憲政会より立候補して当選し、憲政会と政友本党が合同して立憲民政党が成立すると、徳島支部顧問となった。
小熊 幸一郎(おぐま こういちろう、1866年10月15日 … 小熊 幸一郎(おぐま こういちろう、1866年10月15日 - 1952年7月4日)は、日本の実業家。北洋漁業の近代化と函館の経済発展に貢献し、「函館の恩人」と呼ばれた。 越後国(現・新潟市)生まれ。8歳で養父母の小熊幸吉・タマ夫妻に引き取られる。1879年4月小学校卒業、翌1880年12月まで代用教員。1881年東京で丁稚奉公、その後新潟で海運業に従事。 1887年函館に渡り、廻船問屋に勤務。1895年独立して仲買店を開業。樺太、カムチャツカ、沿海州で漁業を展開し、母船式サケ・マス漁業を推進。函館の港湾改修や冷蔵施設の充実に尽力。 1918年(大正7年)、柳田藤吉が1901年に建設した赤レンガ倉庫群(柳田倉庫、後の弁天倉庫株式会社)を買収。
棚橋 寅五郎(たなはし とらごろう、1866年10月12日(… 棚橋 寅五郎(たなはし とらごろう、1866年10月12日(慶応2年9月4日)- 1955年(昭和30年)12月11日)は、日本の化学者、実業家である。 新潟に生まれる。後に東京帝国大学(現在の東京大学)応用化学科に所属し、ヨウ素の研究に尽き、特に海藻から抽出された医薬品用のヨードを生産した、ヨウ化カリウムの製造方法の研究によって有名となった。なおこの化合物は後にマッチ製造の原料にもなった。その後も硝酸カリウムや塩化カリウム、クロム酸塩等の研究や開発に携わり、同化合物を用いた肥料も開発した。またこの頃に工学博士を取得している。 1893年(明治26年)に卒業後は多くの企業の設立に携わり、1908年(明治41年)には日本化学工業の設立に携わった。
鳳凰 馬五郎(ほうおう うまごろう、1866年10月11日(… 鳳凰 馬五郎(ほうおう うまごろう、1866年10月11日(慶応2年9月3日) - 1907年(明治40年)5月4日)は、下総国千葉郡久々田村(現在の千葉県習志野市津田沼)出身で宮城野部屋(一時錦戸部屋に移籍)に所属した大相撲力士。本名は三代川 寅之助(後に宮城野姓)。最高位は大関。5代目年寄・宮城野を襲名。身長179cm、体重117kg。 1886年5月場所初土俵。1891年1月場所鳳に改名、1892年1月場所鳳凰に改名、1892年6月新十両、1893年1月入幕。1894年1月「鳳凰 馬五郎」に改名。1895年6月場所6日目、横綱・初代西ノ海嘉治郎との対戦で、西ノ海の寄りを土俵際で回り込み、逆に寄り切って軍配を受けたが西ノ海の師匠で当時権勢を揮っていた高砂が物言いをつけ預かりとなる。
氏家 丈吉(うじいえ じょうきち、旧姓・富樫、前名・吉郎、1… 氏家 丈吉(うじいえ じょうきち、旧姓・富樫、前名・吉郎、1866年10月5日〈慶応2年8月27日〉 - 1942年〈昭和17年〉8月8日)は、日本の政治家、実業家、資産家、宮城県多額納税者、地主。族籍は宮城県平民。 山形県東置賜郡屋代村字竹森(現・高畠町)出身。富樫六右衛門の二男。山形県立山形中学校を卒業。1888年、先代・丈吉の養子となり、1906年、家督を相続し前名・吉郎を改め襲名し、2代目丈吉となる。家業を継いだ。 「加登丈」と称し、金融業を営んだ。角田電気鉄道、角田製氷会社等の重役であった。角田製氷社長、東北冷蔵製氷、大日本水道水管各取締役などをつとめた。 明治末より角田町会議員、1915年より郡会議員であった。
得能 文(とくのう ぶん、1866年10月5日(慶応2年8月… 得能 文(とくのう ぶん、1866年10月5日(慶応2年8月27日) - 1945年(昭和20年)2月8日)は、日本の哲学者。 越中国(現富山県)生まれ。1892年東京大学文科大学哲学科選科修了。第四高等学校、東洋大学、日本大学、東京帝国大学講師、東京高等師範学校教授。1927年定年。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
岩村 俊武(いわむら としたけ、1866年10月5日(慶応2… 岩村 俊武(いわむら としたけ、1866年10月5日(慶応2年8月27日) - 1943年(昭和18年)11月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。団次郎が幼名だが成人後も長らくこの名前で通した。一時教通と名乗り大正4年(1915年)に俊武と改名。 慶応2年(1866年)、土佐国幡多郡宿毛(現・高知県宿毛市)に岩村通俊の次男として生まれた。明治20年(1887年)7月、海軍兵学校(14期)を卒業。明治22年(1889年)9月、海軍少尉任官。日清戦争、日露戦争に出征。特に水雷戦術に長じていた。日露戦争では第3艦隊参謀として出征し、その職のまま旅順要塞を攻略する第3軍に連絡将校として派遣され(途中で第1艦隊参謀に異動)、旅順開城委員の海軍代表として名を連ねた。
堀 三太郎(ほり さんたろう、1866年10月2日(慶応2年… 堀 三太郎(ほり さんたろう、1866年10月2日(慶応2年8月24日)- 1958年(昭和33年)7月19日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・瓜生。筑豊の五大炭鉱主と称された。 筑前国鞍手郡、のちの福岡県鞍手郡直方町新町(現直方市)で、醤油醸造業・瓜生幾次の長男として生まれる。小学校の課程を修了すると私塾で漢文学、数学を修めた。1886年(明治19年)8月、先代亡堀甚四郎の養子となり死跡を相続した。 1889年(明治22年)小竹町の御徳炭鉱の経営を始め、付近の海軍鉱区の払下げを受け、当時、直鞍地区随一の炭鉱に発展した。さらに本洞(直方)、若瀬(中間)、平山(嘉穂)、中津川(田川)、篠栗(篠栗)の各炭鉱を買収し、堀鉱業を設立し代表取締役となる。
山田 宗有(やまだ そうゆう、本名:山田寅次郎、慶応2年8月… 山田 宗有(やまだ そうゆう、本名:山田寅次郎、慶応2年8月23日〈1866年10月1日〉 - 昭和32年〈1957年〉2月13日)は、実業家、茶人。 茶道宗徧流の第8世家元であるが、家元継承以前の山田 寅次郎(やまだとらじろう)の名で実業界でも活躍した。明治25年(1892年)にエルトゥールル号遭難事件の義捐金を届けにオスマン帝国(後のトルコ)に渡って以来、日本とトルコの交流に深く関わった人物としても知られる。 宗有(寅次郎)は、幕末の慶応2年(1866年)に沼田藩用人・中村雄左衛門(莞爾)の次男として沼田藩の江戸上屋敷で生まれた。中村家は曽祖父の代から家老職を務めていた。8歳まで沼田で生活し、明治維新後に上京した。
李家 隆介(りのいえ たかすけ、1866年9月30日(慶応2… 李家 隆介(りのいえ たかすけ、1866年9月30日(慶応2年8月22日)- 1933年(昭和8年)7月23日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、錦鶏間祗候、下関市長。 長州藩御典医・李家隆彦の長男として京都で生まれる。京都府中学校、神田共立学校、大学予備門、第一高等中学校を経て、1890年7月、帝国大学法科大学政治科を卒業。1891年4月、内閣試補となり、同年7月、内務省に転じ内務試補となった。 以後、大分県・富山県の各参事官、岡山県・神奈川県の各書記官などを歴任。 1902年12月、富山県知事に就任。以後、石川県知事、静岡県知事、長崎県知事を歴任。1917年3月、長崎県知事を辞任し退官。同年12月15日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。
長 晴登(ちょう はると、1866年9月30日(慶応2年8月… 長 晴登(ちょう はると、1866年9月30日(慶応2年8月22日) - 1916年(大正5年)8月25日)は、日本の政治家、衆議院議員(3期)。 山形県東置賜郡赤湯村(現在の南陽市)出身。1880年に米沢中学(興譲館)を卒業し上京。中村正直の同人社、ついで慶應義塾大学で学ぶ。 1886年に中学校と師範学校の教師免許を取得し郷里に帰るが、教員にはならず、高名な宗教家である北畠道龍に師事して宗教学を学び、師と共に各地に布教活動を行った。 1891年に重野謙次郎、戸狩権之助らと山形自由クラブを結成。1892年に東置賜郡会議員、ついで1895年に山形県議会議員となる。のち立憲政友会に参加。 実業界では、1894年に赤湯町に設立された金融会社の監査役に就任。
平山 松治(ひらやま まつじ、1866年9月28日(慶応2年… 平山 松治(ひらやま まつじ、1866年9月28日(慶応2年8月20日) - 1925年(大正14年)7月23日)は、日本の薬学者。正四位勲三等。薬学博士。大阪衛生試験所長。富山薬学専門学校校長。族籍は大阪府士族。 美濃国(現岐阜県)出身。平山耕雲の長男。1890年、帝国大学医科大学薬学科を卒業、薬学士の称号を得た。京都府医学校教諭、衛生試験所技師等を歴任。1904年、大阪衛生試験所長となる。大阪市東区石町に居住。 1913年5月、薬学博士の学位を授与される。1921年、富山薬学専門学校長となる。富山市鹿島町に居住。1925年7月23日死去。享年60。遺族宅は東京市駒沢町上馬(現世田谷区上馬)。
西本 健次郎(にしもと けんじろう、1866年9月26日(慶… 西本 健次郎(にしもと けんじろう、1866年9月26日(慶応2年8月18日)- 1950年(昭和25年)6月)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・松永。 尾張国海西郡松島中島村(岐阜県海西郡松島中島村、海津郡東江村、海津町を経て現海津市)で、尾張藩士、普請奉行・松永林三郎の息子として生まれる。廃藩置県後に一家離散し、1877年(明治10年)名古屋の呉服商に奉公したが、将来は家業であった土木業での成功を願っていた。 1885年(明治18年)和歌山県和歌山区(現和歌山市)の土木建築業・西本用助の元で働き、見込まれて1893年(明治26年)9月15日、西本家の入夫となり家督を相続した。
黒川 義太郎(くろかわ よしたろう、1866年9月24日(慶… 黒川 義太郎(くろかわ よしたろう、1866年9月24日(慶応2年8月16日) - 1935年(昭和10年)9月20日)は日本の獣医、動物園長。 1866年安房国北三原村(現・千葉県南房総市)生まれ、ただし「自然誌古典文庫創始号(近藤, 1988)」によれば、「慶応2年(1866)8.16江戸番町に生れる」となっている。1892年7月、帝国大学農科大学獣医学科乙科(実科)を卒業し、同年7月15日、帝室博物館天産部付属上野動物園に採用され、上野動物園最初の選任獣医師となる。1907年3月に石川千代松動物園監督のもとでキリンが導入され、動物園の年間入園者が初めて100万人を突破する大変な人気となるが、キリン購入の経緯が上層部に報告されていなかったらしく、この問題で初代動物園監督であった石川千代松は同年5月15日に上野動物園を辞任する。
木下 義之(きのした よしゆき、1866年9月24日〈慶応2… 木下 義之(きのした よしゆき、1866年9月24日〈慶応2年8月16日〉 - 1923年〈大正12年〉6月9日)は、日本の政治家、衆議院議員(鳥取市選出、当選1回)、地主。旧姓は足羽。族籍は鳥取県士族。 伯耆国日野郡二部村(のち鳥取県日野郡溝口町二部、現・伯耆町)出身。士族・足羽純亭の六男。1889年、木下家に養子入りする。鳥取市会議員、同議長、鳥取県会議員、同参事会員、鳥取県農工銀行取締役となる。 鳥取電燈創立の際に監査役となり、のちに取締役となる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において鳥取市選挙区から立憲政友会公認で立候補して当選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
粕谷 義三(かすや ぎぞう、1866年9月23日〈慶応2年8… 粕谷 義三(かすや ぎぞう、1866年9月23日〈慶応2年8月15日〉- 1930年〈昭和5年〉5月4日)は、明治から昭和期の政治家。号は竹堂。旧姓・橋本。 武蔵国入間郡上藤沢村(現在の埼玉県入間市)の地主・橋本要作の長男として生まれる。1879年(明治12年)に上京して漢学と洋学を修め、一時川越にあった郡役所の書記となるが、1886年(明治19年)にアメリカに留学、サンフランシスコで一時邦字新聞社に務めた後、ミシガン大学に入学、1890年(明治23年)に法学士を得て帰国して、自由新聞の主筆となる。翌年2月、同じ入間郡豊岡町の粕谷圭助の養子となり、翌月兄佳太郞の跡を相続。 1892年(明治25年)に埼玉県会議員に当選して県会副議長を務め、1898年(明治31年)の第5回衆議院議員総選挙に埼玉県第2区から自由党候補として出馬して初当選、以後憲政党・立憲政友会に移りながら通算10回当選を果たした。
大見嵜 八之助(おおみさき はちのすけ、1866年9月23日… 大見嵜 八之助(おおみさき はちのすけ、1866年9月23日(慶応2年8月15日) - 1939年10月9日)は、現在の千葉県大網白里市四天木出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は原 夘三郎(旧姓斎藤)。6代阿武松。174cm、83kg。最高位は東前頭2枚目。紫雲竜吉之助の伯父。 1887年1月序ノ口、1893年1月十両昇進。十両を1場所で通過し、1894年1月入幕を果たした。この時の四股名は玉竜。以来1903年1月の引退まで三役には昇進できなかったが幕内上位をキープした。1899年5月新進の関脇梅ノ谷、1901年5月にも大関梅ノ谷に勝利。引退後は阿武松を襲名し独立。甥の紫雲竜などを育成。勝負検査役を長年務め、1939年年寄として73歳で没。
金久保 万吉(萬吉、かなくぼ まんきち、1865年10月23… 金久保 万吉(萬吉、かなくぼ まんきち、1865年10月23日〈慶応元年9月4日〉- 1938年〈昭和13年〉4月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。 武蔵国埼玉郡荻島村(現埼玉県羽生市北荻島)で金久保浅右衛門の2男として生まれ、1898年(明治31年)7月に家督を相続した。 1888年(明治21年)7月、陸軍士官学校旧10期を卒業し、陸軍歩兵少尉任官。1893年(明治26年)11月、陸軍大学校(12期)に入学。日清戦争勃発のため1894年(明治27年)7月、陸大を退校し第2軍に属して出征。1896年(明治29年)2月、陸大に復学し1897年(明治30年)12月に卒業して陸軍戸山学校に配属された。
鮫島 慶彦(さめしま けいひこ、1865年10月23日(慶応… 鮫島 慶彦(さめしま けいひこ、1865年10月23日(慶応元年9月4日) - 1928年(昭和3年)10月4日)は、日本の政治家、実業家。鹿児島県会議員。衆議院議員(鹿児島県郡部選出、当選1回)。南薩鉄道社長。万瀬水力電気、鹿児島火山灰珪藻土、薩摩製糸、南薩林業各取締役。族籍は鹿児島県士族。 慶応元年、薩摩国加世田生まれ。鹿児島県士族・鮫島郷兵衛の二男。先代次右衛門の養子となり1875年、家督を相続する。 東京の二松学舎で漢学を学ぶ。帰郷後、村議、鹿児島県会議員をへて、立憲政友会県支部長となり、1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙で当選し衆議院議員を1期つとめる。 1912年(明治45年)南薩鉄道を創立し、社長をつとめる。
石坂 美那子(いしざか みなこ、1865年10月18日〈慶応… 石坂 美那子(いしざか みなこ、1865年10月18日〈慶応元年8月29日〉 - 1942年〈昭和17年〉4月10日)は、明治から昭和にかけての日本の中等教育の英語教員、キリスト教伝道者。多摩地方の自由民権運動指導者だった石坂昌孝の長女で、評論家の北村透谷の妻であったことで知られる。 本名は石阪 ミナ。美那子とも書く。苗字は「石阪」「石坂」「北村」とも表記され、文献によってゆれがある。 生涯の精神的なキリスト教に出会い入信し、女学校を卒業した翌年に透谷と結婚する。夫の死後は英語学習と伝道のため、34歳でアメリカに留学。1907年に帰国し、その後は東京府立豊島師範学校(現在の東京学芸大学)、東京府立品川高等女学校(後に東京府立第八高等女学校、現在の東京都立八潮高等学校)などの英語教師を72歳まで続けた。
小山 温(おやま あつし、慶応元年8月28日(1865年10… 小山 温(おやま あつし、慶応元年8月28日(1865年10月17日) - 昭和19年(1944年)2月9日)は、日本の司法官僚、判事、衆議院議員。法学博士。 三河国碧海郡小山村(愛知県碧海郡小山村、刈谷町を経て現刈谷市)出身。1890年、東京帝国大学法科大学法律学科卒業。東京地方裁判所判事、東京控訴院判事、東京控訴院部長、大審院判事を歴任した。1906年より法律取調委員。1907年、司法省監獄局長に就任し、1911年に司法省刑事局長に移った。1912年に司法次官に昇任し、1914年まで務めた。 次官退任後、1914年4月21日、錦鶏間祗候に任じられ、弁護士を開業した。1917年の第13回衆議院議員総選挙に愛知県郡部から立憲政友会の候補として出馬し、当選。
渡辺 龍聖(わたなべ りょうせい・わたなべ りゅうせい、18… 渡辺 龍聖(わたなべ りょうせい・わたなべ りゅうせい、1865年10月17日〈慶応元年8月28日〉 - 1944年〈昭和19年〉7月2日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の教育者、倫理学者。文学博士。号は乾甫。 越後国古志郡吉水村(現・新潟県長岡市)生まれ。 東京専門学校(現早稲田大学)を卒業、東京帝国大学文科大学(現東京大学文学部)で学び、アメリカのコーネル大学で哲学博士号取得(1892年・専攻は倫理学・哲学史・心理学)。 1898年6月高等師範学校附属音楽学校主事。1899年8月に東京音楽学校校長(現東京芸術大学)に就任。校長時代には瀧廉太郎を支えた。 1911年小樽高等商業学校初代校長(現小樽商科大学)に就任。
岩崎 久弥(いわさき ひさや、1865年10月14日〈慶応元… 岩崎 久弥(いわさき ひさや、1865年10月14日〈慶応元年8月25日〉 - 1955年〈昭和30年〉12月2日)は、日本の実業家。三菱財閥3代目総帥。正四位、男爵。 久弥は岩崎弥太郎・喜勢夫妻の長男として土佐国安芸郡井ノ口村(現・高知県安芸市)に生まれた。父・弥太郎は三菱財閥の創設者。明治8年に福澤諭吉の慶應義塾に幼稚舎から入塾。3年後に父が開設した三菱商業学校(明治義塾)に転じ、英語や簿記、法律、経済を学んだ。慶應義塾普通部を卒業後、明治19年に米国留学し、1888年(明治21年)にアメリカのペンシルベニア大学ウォートン・スクールに入学。 1891年(明治24年)に帰国後、副社長として三菱社に入り、1894年(明治27年)、三菱社の合資会社転換と共に、叔父・岩崎弥之助に代わって社長に就任。
岩垂 今朝吉(いわだれ けさきち、1865年10月10日 -… 岩垂 今朝吉(いわだれ けさきち、1865年10月10日 - 1917年7月16日)は日本の教育家。 信濃国諏訪郡小井川村(現・長野県岡谷市)生まれ。1887年長野県師範学校卒。高島小学校の訓導となる。素封家に篤志を依り、明治22年(1889年)諏訪郡育英会(後の諏訪郡実科中学校の前身母体)を創設。中学校設置の必要性を説き、諏訪中学(現諏訪清陵高等学校)教諭となった。また女子中等教育の必要性を説き、諏訪高等女学校(現諏訪二葉高等学校)の創設に尽力し、初代校長。生涯を通じ諏訪地域の教育普及に尽力した。大正5年(1916年)従七位に叙せられた。 この項目は、教育に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:教育)。
山田 斂(やまだ おさむ、1865年10月8日(慶応元年8月… 山田 斂(やまだ おさむ、1865年10月8日(慶応元年8月19日)- 1941年(昭和16年)12月20日)は、日本の地主、農政家、政治家。貴族院多額納税者議員。 越前国坂井郡一本田村(福井県坂井郡丸岡町を経て現坂井市)で、豪農・山田穣の長男として生まれた。1888年(明治21年)明治法律学校(現明治大学)卒業。父の死去に伴い1892年(明治25年)家督を相続した。 1892年、高椋村会議員に選出され、坂井郡会議員も務めた。1897年(明治30年)に福井県会議員に就任したが1期で引退した。1918年(大正7年)9月29日、貴族院多額納税者議員に就任し、農政懇談会幹事として議員立法の農会法(大正11年4月12日法律第40号)の成立に尽力した。
和田 万吉(わだ まんきち、慶応元年8月18日(1865年1… 和田 万吉(わだ まんきち、慶応元年8月18日(1865年10月7日) - 昭和9年(1934年)11月21日)は、明治から昭和にかけての国文学者・図書館学者・書誌学者。今沢慈海と並んで日本に本格的な図書館学を導入した人物として知られている。美濃国大垣出身。 大垣藩士和田為助の子として、大垣城城下町の東長町に生まれる。明治23年(1890年)に東京帝国大学国文科を卒業して東京帝国大学付属図書館大学に奉職する。明治25年(1892年)から4年間は学習院教授を兼ねる。明治29年(1896年)に東京帝国大学助教授兼附属図書館司書官となり、翌明治30年(1897年)に図書館長に昇進、以後27年間にわたって館長を務めた。
河波 荒次郎(かわなみ あらじろう、1865年10月7日(慶… 河波 荒次郎(かわなみ あらじろう、1865年10月7日(慶応元年8月18日)- 1932年(昭和7年)2月21日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員。「玄洋社式の豪傑」と呼ばれた。 筑前国御笠郡山田村、のちの福岡県筑紫郡大野村(現大野城市)で、地主・河波宗五郎の長男として生まれる。1885年(明治18年)家督を相続した。1888年(明治21年)東京専門学校邦語政治科を卒業した。農業を営み、玄洋社社員であった。 大野村会議員、筑紫郡会議員、同議長、雑餉隈郵便電信局長(現博多南郵便局)などを務め、1903年(明治36年)福岡県会議員に選出された。1905年(明治38年)九州日報社副社長に就任した。
小北 寅之助(こきた とらのすけ、1865年10月7日(慶応… 小北 寅之助(こきた とらのすけ、1865年10月7日(慶応元年8月18日)- 1932年(昭和7年)8月26日)は、日本の牧師である。 丹波の南桑田郡千代川村今津(現在の京都府亀岡市)に小北忠蔵とその妻のふじ子の子として生まれる。1883年(明治16年)に京都に出て後に同志社英学校に入学し山本覚馬から法学等を学び、また後に覚馬の影響を受け受洗しキリスト教徒となる。1890年(明治23年)に同学校を卒業後は、同年創立したばかりの熊本の八代教会を経て1896年(明治29年)には再度京都に戻り同地の丹後教会に赴任する。 1909年(明治42年)には北海道に渡り、名寄で天塩教会(名寄教会)の設立に携わり同地でキリスト教の伝道にあたった。
村上 紋四郎(むらかみ もんしろう、慶応元年8月15日(18… 村上 紋四郎(むらかみ もんしろう、慶応元年8月15日(1865年10月4日) - 昭和20年(1945年)1月21日)は日本の政治家。愛媛県漁業組合長、宮窪村初代村長、県会議員、今治市長、衆議院議員。 元最高検察庁次長検事村上常太郎は長男。政治家村上誠一郎は曾孫。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
大場 竹次郎(おおば たけじろう、1865年10月4日(慶応… 大場 竹次郎(おおば たけじろう、1865年10月4日(慶応元年8月15日)- 1932年(昭和7年)12月15日)は、明治から大正期の政治家。衆議院議員。 美濃国安八郡、のちの岐阜県安八郡南平野村(現大垣市、神戸町)で生まれる。滋賀県師範学校を卒業し、小学校訓導を務めた。一年志願兵として陸軍に入隊し、歩兵少尉に任官し日清戦争に従軍して歩兵中尉に進んだ。日露戦争に参戦し歩兵大尉に進み、中隊長として旅順攻囲戦に従軍した。 政界では安八郡会議員、岐阜県農会議員、岐阜県会議員、同参事会員、大垣輪中水害予防組合議員などを務め、地主と小作人間の調整、農村改良などに尽力した。1915年(大正4年)3月、第12回衆議院議員総選挙に岐阜県郡部から立憲同志会所属で出馬して当選し、その後憲政会に所属し衆議院議員に1期在任した。
有田 温三(ありた おんぞう、1865年10月2日〈慶応元年… 有田 温三(ありた おんぞう、1865年10月2日〈慶応元年8月13日〉 - 1927年〈昭和2年〉2月27日)は、日本のジャーナリスト、政治家。衆議院議員(当選2回)。族籍は広島県平民。 安芸国賀茂郡西高屋村(現在の広島県東広島市)出身。有田久の二男。生家は代々農業を営む。京都本願寺普通教校を経て、1888年に東京専門学校(現早稲田大学)邦語政治科を卒業。山陽新報記者となり、後に安芸津新報主筆に転じ、さらに大阪朝日新聞に入って広島支局長を務めた。 1903年(明治36年)、広島県会議員に当選し、県参事会員及び地方森林会議員も務めた。1907年(明治40年)に広島市会議員に当選、下水道創立に尽力した。
久米 金弥(くめ きんや、慶応元年8月12日(1865年10… 久米 金弥(くめ きんや、慶応元年8月12日(1865年10月1日) - 昭和7年(1932年)5月6日)は、日本の内務官僚、逓信官僚、農商務官僚。 東京府士族久米美由の長男として生まれる。1884年(明治17年)、東京大学を卒業後、内務省に入る。書記官、参事官、社寺局長を歴任した。のち逓信省に移り、参事官、通信局長を務めた。さらに農商務省に移り、特許局長、山林局長、農商務次官を歴任した。 特許局長を務めていた1904年(明治37年)に農商務大臣清浦奎吾とともに「工業所有権保護協会」を創設し、常務委員長、副会長に就任した。工業所有権保護協会は1910年(明治43年)に「帝国発明協会」と改称したが、引き続き副会長を務めた。
木村 越後(きむら えちご、慶応元年8月11日(1865年9… 木村 越後(きむら えちご、慶応元年8月11日(1865年9月30日) - 大正11年(1922年)7月22日、本名:上田秋次郎(のち柳川正直と称す))は大坂相撲を代表する行司。現在の愛知県清須市出身。 実父は地元の相撲集団・愛知組の頭取・一力利三郎で、1871年に親の勧めで同郷の大坂相撲頭取・三保ヶ関喜八郎の部屋に入門。初名は木村秋次郎で1873年7月初土俵。しかし兄弟子の厳しい指導に耐えきれず、一時郷里に帰った。当時、東京相撲を脱退した初代高砂浦五郎が名古屋で改正組を結成、1875年にその一員となり、木村庄治郎とも名乗っていた。1878年5月、4年半余り対立していた高砂改正組は仲裁者の仲立ちで東京相撲と和解、復帰することになり、木村秋二郎(秋治郎)で同場所の別番付に記載された。
内田 康哉(うちだ こうさい / やすや、1865年9月29… 内田 康哉(うちだ こうさい / やすや、1865年9月29日〈慶応元年8月10日〉- 1936年〈昭和11年〉3月12日)は、日本の外交官、政治家。栄典は従一位勲一等伯爵。 明治・大正・昭和の3代にわたって外務大臣を務めた唯一の人物。戦前の日本を代表する外政家だが、その外交姿勢は時期によって揺れがあり、単純ではない。通算外相在職期間7年5か月は、現在に至るまで最長である。 熊本藩医・内田玄真と熊本士族黒田五左衛門長女ミカの子として肥後国八代郡竜北(現:熊本県八代郡氷川町)に生まれる。八代郡鏡町にあった名和童山の新川義塾などで学んだ後、同志社英学校に入学するも2年後に退学。東京帝国大学法科卒業後に外務省に入省し、ロンドン公使館勤務、清国北京公使館勤務中に一時、臨時代理公使・オーストリア公使兼スイス公使・アメリカ大使・ロシア大使などを歴任し、第4次伊藤内閣の外務次官を務めた。
野口 忠太郎(のぐち ちゅうたろう、1865年9月27日(慶… 野口 忠太郎(のぐち ちゅうたろう、1865年9月27日(慶応元年8月8日)- 1931年(昭和6年)2月24日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 筑後国三池郡横須村(現:福岡県大牟田市中町1丁目33番地)で、野口忠七、キワ夫妻の長男として生まれる。1882年(明治15年)橘陰校中学部を卒業。1883年(明治16年)9月14日に家督を相続した。 野田卯太郎、永江純一らの知遇を得て、1887年(明治20年)合資会社三池土木会社の創立に参画し事務担当者となり、1900年(明治33年)社長に就任した。その他、三池銀行監査役、大牟田瓦斯取締役、九州電灯鉄道取締役、東邦電力取締役、三池無尽取締役、大牟田無尽取締役、大東畜産工業取締役、三池肥筑物産社長などを務めた。
夏井 保四郎(なつい やすしろう、1864年10月19日(元… 夏井 保四郎(なつい やすしろう、1864年10月19日(元治元年9月19日)- 1933年(昭和8年)5月4日)は、日本の政治家、弁護士、実業家。衆議院議員(立憲政友会)、松山電気軌道・海南新聞社社長。 1864年(元治元年9月)、伊予国温泉郡坂本村(久谷村を経て現松山市)で正岡権平の三男に生まれる。1884年(明治17年)に愛媛県師範学校を卒業し、小学校に訓導として勤める。その後、上京し明治法律学校に入学するも、和仏法律学校(現・法政大学)に転じ1889年(明治22年)に卒業する。1890年(明治23年)に代言人試験に合格し、大阪で開業する。 1896年(明治29年)に帰郷し、松山市で開業する。
寺田 駒蔵(てらだ こまぞう、1864年10月19日〈元治元… 寺田 駒蔵(てらだ こまぞう、1864年10月19日〈元治元年9月19日〉 - 1929年〈昭和4年〉8月2日)は、日本の銀行家、政治家。大阪府中河内郡布忍村長。更池銀行専務取締役。族籍は大阪府平民。 河内国丹北郡向井村(のち大阪府中河内郡布忍村大字向井、現・松原市北新町)出身。寺田定太郎の長男。戸長、初代村長、郡会議員、村会議員、学務委員、常設委員等を歴任する。 住所は大阪府中河内郡布忍村大字向井(現・松原市北新町)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
永山 盛興(ながやま もりおき、1864年10月18日(元治… 永山 盛興(ながやま もりおき、1864年10月18日(元治元年9月18日) - 1924年(大正13年)12月4日)は、明治から大正期の官僚、政治家、華族。男爵、貴族院議員。 薩摩藩士・永山盛輝(のち男爵)の長男として出生。1891年(明治24年)明治法律学校(明治大学)を卒業。 1874年(明治7年)文部省に勤務し文部9等属を経て、逓信省鉄道書記に就任。父の死去に伴い1902年(明治35年)2月7日に男爵を襲爵。1918年(大正7年)7月10日に貴族院議員に就任し、1924年に死去するまで在任。61歳。
中山 佐七(なかやま さしち、1864年10月17日(元治元… 中山 佐七(なかやま さしち、1864年10月17日(元治元年9月17日) - 1943年(昭和18年)12月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 千葉県出身。1890年、東京法学院卒。大蔵省御用掛、逓信属兼鉄道会議書記、東京府農工銀行支配役、同頭取、全国農工銀行同盟会長、北海道採炭、玉川水道各(株)社長、横浜電気鉄道、東京薬品、横浜土地、金包里炭鉱各(株)監査役、横浜取引所理事、台湾炭鉱(株)取締役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において千葉1区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1943年死去。
川島 令次郎(かわしま れいじろう、1864年10月14日(… 川島 令次郎(かわしま れいじろう、1864年10月14日(元治元年9月14日) - 1947年(昭和22年)11月22日)は、日本海軍の軍人。海軍中将正三位勲一等功三級。宮中顧問官。
広川 広四郎(ひろかわ こうしろう、旧字体: 廣川 廣四郞、… 広川 広四郎(ひろかわ こうしろう、旧字体: 廣川 廣四郞、1864年10月13日〈元治元年9月13日〉 - 1896年〈明治29年〉10月22日)は、明治期の日本の鉄道技術者、自由民権運動家。 仙石貢らとともに東京市街高架鉄道(現在の山手線および京浜東北線の上野駅・浜松町駅間の高架線区間)および中央停車場(現在の東京駅)の計画、設計をおこなった。広川は計画設計作業従事中に倒れ、32歳で死去した。 越後国三島郡飯塚村(現在の新潟県長岡市飯塚)に、広川甚左衛門とちやの次男として生まれる。[要出典]父は小さい頃に死別し、母のもとで育てられる。1878年(明治11年)、長岡学校(現在の新潟県立長岡高等学校)に入学した。
松浦 与三郎(まつうら よさぶろう、1864年10月9日(元… 松浦 与三郎(まつうら よさぶろう、1864年10月9日(元治元年9月9日)- 1948年(昭和23年)3月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 日向国那珂郡、のちの宮崎県南那珂郡飫肥町(現日南市)で生まれた。1880年(明治13年)鹿児島師範学校速習科卒。シャム王国へ森林視察のため渡航する。また、中国各地を歴遊する。その後、満州営口及び大連で煉瓦工場を設立し、経営する。 1917年(大正6年)第13回衆議院議員総選挙において宮崎県から無所属で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1948年に死去した。
池田 菊苗(いけだ きくなえ、1864年10月8日(元治元年… 池田 菊苗(いけだ きくなえ、1864年10月8日(元治元年9月8日) - 1936年(昭和11年)5月3日)は、日本の化学者。学位は、理学博士(1902年)。東京帝国大学理学部化学科教授。「日本の十大発明」の一つといわれるうま味成分、L-グルタミン酸ナトリウムの発見者として知られる。 現在、世界中で広く普及しているうま味調味料の発見者で、その成分がL-グルタミン酸ナトリウムであることを解明した。幼少期より昆布のだしに関心を持ち、湯豆腐のだし汁昆布の研究に着手。妻である貞を夜、昆布を乾物屋に買いに走らせ1907年(1908年)に約38 kgの昆布から煮汁をとり、うま味の素であるL-グルタミン酸ナトリウム約30 gを得ることに成功。
岡田 正之(おかだ まさゆき、1864年10月5日(元治元年… 岡田 正之(おかだ まさゆき、1864年10月5日(元治元年9月5日) - 1927年(昭和2年)7月28日)は、日本の漢文学者、教育者。 1864年、越中国新川郡清水村(現・富山県富山市)にて富山藩士、岡田信之(呉陽)の長男として生まれる。18歳の時に上京し、重野成斎らに学んだ後、帝国大学に入学。 卒業後は陸軍大学校教授、学習院教授、東京帝国大学教授などを勤める。漢文や中国の歴史に通じ、大学で講義をする傍ら多数の書籍の著作、編纂に携わった。1926年には、御講始で漢書の進講も行った。同年学習院名誉教授となった。 主なものに『支那歴史』、『新定十八史略鈔』、『新制漢文讀本』、『越中史料』などがある。
西 英太郎(にし えいたろう、元治元年9月3日(1864年1… 西 英太郎(にし えいたろう、元治元年9月3日(1864年10月3日) - 1930年(昭和5年)8月5日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会→立憲民政党)、実業家。 肥前国小城郡多久村(現在の佐賀県多久市)に、佐賀藩士西雅広の長男として生まれる。儒学者岡松甕谷に漢学を学んだ後、東京に出て中村正直の同人社で英学を学んだ。 小城郡会議員、佐賀県議会議員を経て、1914年(大正3年)の衆議院補欠選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は6回を数えた。 その他、佐賀県農工銀行頭取、唐津鉄道取締役、肥前電気鉄道取締役、唐津製鋼所取締役、佐賀毎日新聞社社長などを歴任した。
中山 伝蔵(なかやま でんぞう、1864年10月2日〈元治元… 中山 伝蔵(なかやま でんぞう、1864年10月2日〈元治元年9月2日〉 - 1932年〈昭和7年〉5月2日)は、日本の剣道家である。 武蔵の坂浜(現在の東京都稲城市)生まれ。四谷の真貝忠篤の道場で田宮流の奥伝をうける。その後稲城で道場伝喜館を開き、1932年(昭和7年)に死去するまで剣道術を伝授した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:スポーツ/PJ:スポーツ人物伝)。
阿部 彦吉(あべ ひこきち、元治元年9月2日(1864年10… 阿部 彦吉(あべ ひこきち、元治元年9月2日(1864年10月2日) - 昭和6年(1931年)10月9日)は、日本の発明家である。 現在の山形市六日町生まれ。生家は草履表商だったが、類焼で経営が悪化。幼少期に苦労するも、時計に興味を持ち18歳で上京。京橋の小林時計店に勤務し、技術体得の後20歳で帰郷した。山形市七日町に自ら時計店を開業。そのかたわら電気時計の研究発明に志した。まず単独式電気時計から発電機付きの無電池式電気時計に進み、その後、有電池式連絡時計となって完成を見た。特許は内外12件に及ぶ。 1915年に自動発電無電池阿部式親子時計を開発し特許を取得。県庁舎(現・文翔館)新築に際し時計工事を請け負い、1918年、時計塔の大時計を親に、無電池で庁内50余りの子時計を完成した。
岡部 次郎(おかべ じろう、元治元年8月30日(1864年9… 岡部 次郎(おかべ じろう、元治元年8月30日(1864年9月30日) - 大正14年(1925年)7月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→中正会→憲政会)。 信濃国佐久郡春日村(現在の長野県佐久市)出身。岡部弥門の二男。上田中学校(現在の長野県上田高等学校)で学んだ後、東京の同人社で英学を学んだ。1885年高橋是清の渡米に従い、その後、ハワイに渡って、ハワイ王国・ハワイ共和国の顧問を務めた。その後、アメリカ本土に戻って、カリフォルニア大学を卒業、さらにシカゴ大学で修士号を得た。また、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス、ハイデルベルク大学、パリ大学にも遊学した。 1899年、帰国して外務省翻訳官となった。
麓 純義(ふもと すみよし、元治3年8月28日(1864年9… 麓 純義(ふもと すみよし、元治3年8月28日(1864年9月28日) - 昭和10年(1935年)2月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)、那覇市長。 大隅国大島郡笠利村(現在の鹿児島県奄美市)出身。東京法学院(現在の中央大学)に入学し、在学中の1889年(明治22年)に代言人試験に合格した。翌年に東京法学院を卒業し、弁護士を開業するが、1892年(明治25年)に那覇地方裁判所が開庁すると、那覇に移って弁護士業務に従事した。 1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、第11回・第14回・第15回と4回当選を果たした。その間、1923年(大正12年)から1925年(大正14年)まで、那覇市長を務め、初等教育や社会教育に力を入れた。
古屋 恒次郎(ふるや つねじろう、1864年9月28日(元治… 古屋 恒次郎(ふるや つねじろう、1864年9月28日(元治元年8月28日) - 1912年(大正元年)10月25日)は、日本の薬学者、教育家。薬学博士。千葉医学専門学校教授。正五位勲五等。 石川県士族・古屋安左衛門の二男。1890年7月、帝国大学医科大学薬学科を卒業して薬学士の称号を得た。医科大学助手となった。京都府医学校教諭に任じ1897年12月、第一高等学校教授に任じ正七位に叙せられた。1912年9月、薬学博士の学位を授与された。住所は東京市本郷区駒込西片町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。