吉富 朝次郎(よしとみ あさじろう、1868年3月10日(慶… 吉富 朝次郎(よしとみ あさじろう、1868年3月10日(慶応4年2月17日) - 1941年(昭和16年)8月4日)は、日本の洋画家である。岡山県における美術教育に尽力した。 良吉・飛佐の次男として、備中国(現・岡山県総社市田町)で生まれた。吉富家は昔「小寺屋」と称し、酒造業や刻み煙草商を営んでいたが、農業にも従事していた。総社市西宮本町の堀和平が神戸に行って外人から油絵の技法を習得して帰り、自宅のアトリエでさかんに製作しているのを見よう見まねで自分も画くようになった。この頃、総社市門田の満谷国四郎は、堀和平と甥・叔父の間柄であったので、しばしば遊びに来て、6歳年上の朝次郎に兄事していた。その後、朝次郎が一時浅尾小学校(現総社市門田)で代用教員を務めた頃、国四郎は彼の教え子であった。
千坂 智次郎(ちさか ちじろう、1868年3月8日(慶応4年… 千坂 智次郎(ちさか ちじろう、1868年3月8日(慶応4年2月15日)- 1936年(昭和11年)2月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 米沢藩士・千坂高雅の二男として生まれる。米沢中学校、攻玉社を経て、明治20年(1887年)7月に海軍兵学校(14期)を卒業し、同22年(1889年)9月に海軍少尉任官。練習艦「館山」分隊長などを経て、日清戦争では「扶桑」分隊長として出征した。 練習艦「満珠」航海長、「高雄」航海長、「須磨」航海長、皇族(有栖川宮威仁親王)付武官、「松島」航海長、「八雲」回航委員、同航海長、「夕霧」艦長などを歴任。日露戦争には「初瀬」航海長として出征したが、明治37年(1904年)5月に乗艦が触雷により沈没した。
渡邊 龍夫(わたなべ たつお、1868年3月7日〈慶応4年2… 渡邊 龍夫(わたなべ たつお、1868年3月7日〈慶応4年2月14日〉 - 1927年〈昭和2年〉4月28日)は、明治後期から大正にかけて活動した愛知県名古屋市の政治家・実業家である。政界では名古屋市会議員や愛知県会議員、実業界では大手電力会社大同電力の取締役などを務めた。 慶応4年2月14日(明治元年、新暦:1868年3月7日)、愛知県士族・渡邊永豊の長男として生まれた。1893年(明治26年)に家を継ぐ。学業は中央大学を卒業した。 役員録や人名録によると、1900年(明治33年)時点では大阪生命保険株式会社名古屋出張所長、1908年(明治41年)時点ではガラス商、1913年(大正2年)時点では木材防腐剤商として働いていたとある。
祝 辰巳(いわい たつみ、1868年3月5日〈慶応4年2月3… 祝 辰巳(いわい たつみ、1868年3月5日〈慶応4年2月3日〉- 1908年〈明治41年〉5月25日)は、日本の台湾総督府・大蔵官僚。台湾総督府民政長官。位階および勲等は正四位・勲二等。 出羽国村山郡(現:山形県上山市)で上山藩士の子として生まれる。1892年(明治25年)、帝国大学法科大学を卒業。同年10月、大蔵省試補となり、大臣官房第二課に配属された。以後、主計局勤務、沖縄県収税部長・収税長を歴任。 1896年(明治29年)、台湾総督府に転じ、民政局財務部調査課長兼関税課長に就任。その後、財務局主計課長、財務局長事務取扱、民政部財務局長、兼専売局長、民政局殖産局長などを歴任。 1906年(明治39年)11月、民政長官に就任し、現職で死去した。
新海 竹太郎(しんかい たけたろう、慶応4年2月10日(18… 新海 竹太郎(しんかい たけたろう、慶応4年2月10日(1868年3月3日) - 昭和2年(1927年)3月12日)は、現在の山形県山形市生まれの彫刻家。息子に画家の新海覚雄がいる。 仏師の長男に生まれる。初めは軍人を志し、1888年近衛騎兵大隊に入営。士官候補生試験に失敗し失意の日々を送っていたが、手遊びで作った馬の木彫が隊内で評判を呼び、上官だった北白川宮能久の薦めもあり、彫刻家志望に転じた。1891年の除隊後、後藤貞行に師事。後藤は当時、高村光雲のもとで楠木正成像の原型の制作に当たっており、その助手を務めた。また浅井忠にデッサン、小倉惣次郎に塑造を学んだ。1896年に軍より北白川宮能久親王騎馬銅像の制作依頼を受け、1899年に原型を完成させた(翌年鋳造、1902年に設置)。
鶴田 賢次(つるた けんじ、1868年3月1日(慶応4年2月… 鶴田 賢次(つるた けんじ、1868年3月1日(慶応4年2月8日) - 1918年(大正7年)6月10日)は、日本の物理学者。東京帝国大学教授。勲五等。理学博士。 ニコンの前身である東京計器製作所の光学計器部の設立にもかかわった、明治-大正期におけるガラス・光学レンズの第一人者で、三角型体温計の発明者。
久木田 叶(くきた かのう、1868年2月29日(慶応4年2… 久木田 叶(くきた かのう、1868年2月29日(慶応4年2月7日)- 1963年(昭和38年)12月29日)は、明治から昭和前期の政治家。衆議院議員(1期)、枕崎市名誉市民。旧姓・鮫島。 薩摩国川辺郡鹿籠郷鹿籠村(南方郷鹿籠村、鹿児島県川辺郡南方郷鹿籠村、西鹿籠村、東南方村、枕崎町を経て現枕崎市西鹿籠)で、鮫島強右衛門の三男として生れ、久木田キヨの養子となり1884年(明治17年)家督を相続した。造士館を中退し、1892年(明治25年)東京法学院卒。農業を営む。 川辺郡会議員を務め、1903年(明治36年)鹿児島県会議員に選出され、1919年(大正8年)9月まで在任し、同参事会員も務めた。枕崎港の築港、枕崎高等女学校(現鹿児島県立枕崎高等学校)の開設などに尽力した。
佐藤 啓(さとう ひらく、1868年2月29日(慶応4年2月… 佐藤 啓(さとう ひらく、1868年2月29日(慶応4年2月7日) - 1941年(昭和16年)4月21日)は、戦前日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党→国民同盟)、山形県西山村長。 出羽国村山郡西山村(現在の山形県西村山郡西川町)に佐藤里治(衆議院議員)の子として生まれる。東京専門学校(現在の早稲田大学)政治科を卒業後、山形日報の経営にあたった。 西山村長、山形県会議員を経て、1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は6回を数えた。 その他、山形民報社長、羽陽銀行(山形銀行の前身の一つ)取締役、三山電気鉄道取締役を務めた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
高橋 辰次(たかはし たつじ、1868年2月27日(慶応4年… 高橋 辰次(たかはし たつじ、1868年2月27日(慶応4年2月5日) - 1959年(昭和34年)1月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 山形県出身。西置賜郡時庭村(現長井市)にて井上代造の長男として生まれる。1884年、山形県師範学校卒。高橋家に養嗣子として入る。小学校訓導、大塚村(現・川西町)議会議員、同村長、山形県会議員、同参事会員、地方森林会議員を務める。また、第百二十五銀行、置賜製糸(株)各取締役、宮内製糸(株)社長、山形信用購買販売利用組合連合会長となる。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において山形県郡部から立憲政友会公認で立候補してトップ当選する。1920年の第14回衆議院議員総選挙では山形4区から立候補して再選する。
村上 直次郎(むらかみ なおじろう、1868年2月26日(慶… 村上 直次郎(むらかみ なおじろう、1868年2月26日(慶応4年2月4日) - 1966年(昭和41年)9月17日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本の歴史学者。文学博士。帝国学士院会員、勲一等瑞宝章受章。日欧通交史、日本・東南アジア関係史の権威。 豊後玖珠(大分県玖珠町)出身。1878年(明治11年)から1884年(明治17年)の6年間を同志社英学校に学び、同余科(神学科)卒業後は東京府に移る。第一高等学校を経て1895年(明治28年)帝国大学文科大学史学科を卒業。その後東京帝国大学講師、東京外国語学校(現:東京外国語大学)校長、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)校長、台北帝国大学文政学部長、上智大学第4代学長などを歴任。
小泉 節子(こいずみ せつこ、慶応4年2月4日〈1868年2… 小泉 節子(こいずみ せつこ、慶応4年2月4日〈1868年2月26日〉- 昭和7年〈1932年〉2月18日)は、小泉八雲の妻。日本に関する八雲の著述を支えた。戸籍上の名前は小泉 セツだが、本人は節子の名を好んだ。 出雲松江藩の家臣小泉家の二女として生まれ、親戚の稲垣家の養女となる。子供の頃に稲垣家が没落して節子は11歳から生家の機織会社で織子として働いた。18歳の時に婿養子を迎えて結婚したが、夫は貧しさに耐えられず出奔し大阪に移る。22歳で正式に離婚し小泉家に復籍する。家計を支えるため松江の英語教師として赴任したラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)の家の住み込み女中となり、のちに結婚した。八雲の日本語の理解を助けるとともに、幼少時から物語が好きだったこともあって日本に関する八雲の著述を支えた。
松村 龍雄(まつむら たつお、1868年2月25日(慶応4年… 松村 龍雄(まつむら たつお、1868年2月25日(慶応4年2月3日) - 1932年7月18日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。
山田 安民(やまだ やすたみ、前名・卯之吉、1868年2月2… 山田 安民(やまだ やすたみ、前名・卯之吉、1868年2月23日(慶応4年2月1日) - 1943年(昭和18年)4月13日)は、日本の実業家、薬剤師。族籍は奈良県平民。ロート製薬の創業者。私立奈良盲唖学校開設者。奈良県における障害児教育の先駆者。 姓は山田姓ではなく津村姓と異なってはいるが、津村重舎(津村順天堂創業者)、津村岩吉(津村敬天堂経営)は実弟。長男は山田輝郎(ロート製薬初代社長)。孫は山田安邦(元会長、輝郎の長男)、山田安廣(現・取締役兼アンズコーポレーション社長、輝郎の五男)。曾孫は山田邦雄(現・会長、安邦の長男)。 大和国宇陀郡池上村(のち奈良県宇陀郡伊那佐村池上、現・奈良県宇陀市)で、農家の父・安二郎と母・ナカの長男・卯之吉として生まれる。
尾竹 越堂(おたけ えつどう、1868年2月21日(慶応4年… 尾竹 越堂(おたけ えつどう、1868年2月21日(慶応4年1月28日) - 1931年(昭和6年)12月3日)は、明治から昭和期にかけての浮世絵師・日本画家。 多くの文献が誤っているが、姓の読みは「ODAKE(おだけ)」ではなく、「OTAKE(おたけ)」と濁らないのが正しい。 画号を国一(富山時代)、国弌、観月(大阪時代)とも称す。紺屋を営む尾竹倉松の長男として慶応4年1月28日(1868年2月21日)、越後国白根町(現在の新潟県新潟市)に生まれる。本名熊太郎。幼少のとき東京に出て四代目歌川国政に浮世絵を学んだと伝わる。明治18年(1885年)ごろから国雪と号して『新潟新聞』に挿絵を描き、明治22年(1889年)に富山に移ると、売薬版画、新聞挿絵、絵馬、押絵の下絵などを描いた。
丸山 豊治郎(まるやま とよじろう、慶応4年1月27日(18… 丸山 豊治郎(まるやま とよじろう、慶応4年1月27日(1868年2月20日) - 昭和8年(1933年)7月18日)は、衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。親戚は衆議院議員 大滝伝十郎、貴族院議員 大竹貫一。 越後国頸城郡武士村(現在の新潟県上越市)出身。慶應義塾に入学するが、徴兵により歩兵第16連隊に配属された。除隊後も日清戦争の際には補充員召集により従軍した。 その後、菅原村長、中頸城郡会議員、同参事会員を歴任した。また「高田日報」を創刊し、社長に就任した。 1912年、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で3期務めた。
岩崎 一高(いわさき かずたか、慶応3年2月15日(1867… 岩崎 一高(いわさき かずたか、慶応3年2月15日(1867年3月20日) - 昭和19年(1944年)3月22日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、松山市長。 伊予国松山に伊予松山藩士岩崎一正の子として生まれる。1886年(明治19年)、専修学校(現在の専修大学)を卒業。卒業後は松山に戻って、海南新聞社の経営に加わり、自由民権思想の普及に尽力した。 1919年(大正8年)、衆議院補欠選挙に出馬し、当選。翌年の総選挙には落選したものの、1923年(大正12年)に松山市長に選出された。さらに道後湯之町長を務め、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に当選した。 その他、松山高等商業学校(現在の松山大学)の理事を務めた。
小山 忠雄(おやま / こやま ただお、慶応3年2月15日(… 小山 忠雄(おやま / こやま ただお、慶応3年2月15日(1867年3月20日) - 昭和17年(1942年)2月16日)は、日本の教育者。号は自得。 出羽国平鹿郡横手(現在の秋田県横手市)出身。東京に遊学して、共立学校で英学・漢学を学んだ。1889年(明治22年)、秋田県師範学校を卒業して、小学校訓導を務めた。その後、東京高等師範学校文科に入り、1893年(明治26年)に卒業した。秋田県師範学校教諭、同附属小学校主事、青森県師範学校教諭を務めた。1902年(明治35年)、秋田県立横手中学校校長に就任し、翌年に秋田県立大館中学校校長に転じた。1907年(明治40年)、秋田師範学校校長となり、1912年(明治45年)に北海道札幌師範学校校長に転じた。
豊田 佐吉(とよだ さきち、1867年3月19日(慶応3年2… 豊田 佐吉(とよだ さきち、1867年3月19日(慶応3年2月14日) - 1930年(昭和5年)10月30日)は、日本の発明家・実業家。トヨタグループの創始者。 豊田式木鉄混製力織機(豊田式汽力織機)、無停止杼換式自動織機(G型自動織機)をはじめとして、生涯で発明特許84件、外国特許13件、実用新案35件を発明した。豊田紡織(現 トヨタ紡織)、豊田紡織廠、豊田自動織機製作所(現 豊田自動織機)を創業した。 慶応3年2月14日(1867年3月19日)、遠江国敷知郡山口村(現在の静岡県湖西市山口)に生まれた。父は豊田伊吉、母はゑいであり、佐吉は3男1女の長男だった。山口村は三河吉田藩領であり、豊田家は伊吉が百姓のかたわら大工で生計を立てていた。
藤堂 高成(とうどう たかしげ、1867年3月17日(慶応3… 藤堂 高成(とうどう たかしげ、1867年3月17日(慶応3年2月12日)- 1930年(昭和5年)10月23日)は、明治から昭和初期の華族、政治家。男爵、旧名張領主名張藤堂家(藤堂宮内家)第12代。幼名は憲丸。 山城国京都で竹内治則の二男として生まれた。1876年(明治9年)2月、旧名張領主の名張藤堂家当主・藤堂高節の養子となり、1893年(明治26年)家督を相続。1914年(大正3年)9月28日、高成に改名した。 國學院で学ぶ。1894年(明治27年)神宮皇學館の舎監兼助教授に就任。1906年(明治39年)9月17日、男爵を叙爵。1910年(明治43年)6月に小栗常太郎らと設立した興業貯金株式会社では取締役社長を務めた。
中野 逍遥(なかの しょうよう、慶応3年2月11日(1867… 中野 逍遥(なかの しょうよう、慶応3年2月11日(1867年3月16日) - 明治27年(1894年)11月16日)は日本の漢詩人。本名は重太郎。字(あざな)は威卿。別号に狂骨子など 1867年(慶応3年)2月21日、伊予国宇和島賀古町(現・愛媛県宇和島市)に生まれ、1899年(明治2年)第一高等中学校本科一部(文科)第二年(三之組)に進級した。同級生に夏目漱石や正岡子規がいた。1894年(明治17年)11月16日午前9時、東京の山龍堂病院で死去した。享年28歳。没後の1895年(明治28年)11月16日、『逍遙遺稿』(正外二編)と題して500部発行された。巻末雑録には大和田建樹・正岡子規・佐々木信綱らの追悼文を載せた。
柳原 極堂(やなぎはら きょくどう、慶応3年2月11日(18… 柳原 極堂(やなぎはら きょくどう、慶応3年2月11日(1867年3月16日)- 昭和32年(1957年)10月7日)は愛媛県出身の俳人である。
足立 鍬太郎(あだち くわたろう、慶応3年2月10日(186… 足立 鍬太郎(あだち くわたろう、慶応3年2月10日(1867年3月15日) - 昭和7年(1932年)11月18日)は、日本の教育者、郷土史家。 出雲国松江鍛冶(現島根県松江市)出身。1884年島根県師範学校卒業。島根県内小学校の訓導となり、1885年校長に就任。1894年新潟県尋常中学校助教諭。1906年長野県立飯山中学校初代校長。1911年長野県立諏訪中学校校長。1912年静岡県賀茂郡立豆陽学校校長。1921年島田高等女学校校長。静岡県の郷土史を研究し、静岡県史蹟名勝天然記念物調査委員、静岡市史編纂主事、静岡県史編纂主事を務める。次男は文部官僚の井上赳。
土井 助三郎(どい すけさぶろう、慶応3年2月6日(1867… 土井 助三郎(どい すけさぶろう、慶応3年2月6日(1867年3月11日) - 大正14年(1925年)2月15日)は、日本の化学者。教育者。 1867年東京府生まれ。1887年(明治20年)、東京帝国大学理科大学応用化学科を卒業。1889年(明治22年)より山口高等中学校教諭となり、1899年(明治32年)からは石川県工業学校校長を務めた。1903年(明治36年)より応用科学研究のためイギリス・フランス・ドイツに留学した。帰国後の1905年(明治38年)からは名古屋高等工業学校校長に就任した。さらに1918年(大正7年)からは大阪工業高等学校校長に転じた。
村松 山寿(むらまつ さんじゅ、1867年3月10日(慶応3… 村松 山寿(むらまつ さんじゅ、1867年3月10日(慶応3年2月5日) - 1937年(昭和12年)10月18日)は、衆議院議員(立憲同志会→憲政会)、弁護士。村松亀一郎の従兄弟。 陸奥国登米郡西郡村(現在の宮城県登米市)出身。1888年(明治21年)よりアメリカ合衆国に留学し、ミシガン州立大学法学部を卒業した。帰国後、第二高等学校の講師となったが、辞して1894年(明治27年)から仙台市に弁護士事務所を開いた。1901年(明治34年)にはシャムとイギリスの弁護士資格を取得し、バンコクに事務所を開いた。帰国後は東京や仙台で弁護士の業務に従事した。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
久保 彦太郎(くぼ ひこたろう、1867年3月9日(慶應3年… 久保 彦太郎(くぼ ひこたろう、1867年3月9日(慶應3年2月4日)- 1938年(昭和13年)7月10日)は、明治から大正期の農業経営者、政治家。衆議院議員、香川県会議長、香川県木田郡古高松村長。 讃岐国山田郡、のちの香川県山田郡古高松村(木田郡古高松村を経て現高松市古高松)で生まれる。1891年(明治24年)東京専門学校(現早稲田大学)を卒業した。農業を営む。 古高松村長を務めた。香川県会議員に選出され同参事会員も務めた。1903年(明治36年)10月、同議長に就任し1905年(明治38年)9月まで在任した。 井上甚太郎の死去に伴い1905年9月に実施された第9回衆議院議員総選挙香川県郡部補欠選挙で当選し、立憲政友会に所属して衆議院議員に1期在任した。
草鹿 丁卯次郎(くさか ちょうじろう、1867年3月7日(慶… 草鹿 丁卯次郎(くさか ちょうじろう、1867年3月7日(慶応3年2月2日) - 1931年(昭和6年)4月24日)は、日本の学者、実業家。現在の石川県加賀市大聖寺出身。加賀国大聖寺藩藩医(禄高:150石)・草鹿泰冲(蓮浦)の次男。兄は草鹿甲子太郎(衆議院議員、弁護士、神戸日華実業協会理事長)。子息については後節を参照。 大聖寺小学校(現・加賀市立錦城小学校)を経て、金沢一中を[要検証 – ノート]卒業。1884年(明治17年)に東京外国語学校(現・東京外国語大学)を卒業し、翌年東京にて学習院助教授を務めたがその後ドイツに留学、1887年(明治20年)に留学先のイェーナ大学を卒業し、哲学の学位を取得している。
野津 左馬之助(のつ さまのすけ、1867年3月4日(慶応3… 野津 左馬之助(のつ さまのすけ、1867年3月4日(慶応3年1月28日) - 1943年2月17日)は、明治 - 昭和期の日本の郷土史家。『島根県史』編纂委員。「前方後方墳」の命名者。号は「天籟」。幼名は馬之助。 島根県島根郡東持田村(現・松江市東持田町)に生まれる。11歳時に左馬之助に改名した。 1888年(明治21年)、島根県尋常師範学校を卒業後、美濃郡で尋常小学校の訓導となった。以後、島根県尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校、1897年着任)、長野県立長野中学校(現・長野県長野高等学校、1899年着任)、島根県第三中学校(在職中に島根県杵築中学校に改称、現・島根県立大社高等学校、1904年着任)で勤務し、1910年(明治43年)に教職を退いた。
嘉悦 孝(かえつ たか、慶応3年1月26日(1867年3月2… 嘉悦 孝(かえつ たか、慶応3年1月26日(1867年3月2日) - 昭和24年(1949年)2月5日)は、熊本県熊本市本山町出身の女性教育者。明治36年に日本初の女子商業教育校、私立日本女子商業学校を創立。嘉悦学園創立者。孝子とも。 孝の父である嘉悦氏房は熊本藩の儒学者、横井小楠の教えを受けていた。孝は幼いころから父を通して学問を学び、実学思想を身に付けていった。彼女が女子の経済的自立に関して考えるに至った経緯として、父である嘉悦氏房が経営していた緑川製紙場で女工として働いていたということがある。成長してからは東京の成立学舎女子部で学び、教育への理解を深めていった。卒業後、同校にて教鞭を取り、日本女子教育会講師などを務めた後の明治36年(1903年)、私立日本女子商業学校を創立した。
安住 伊三郎(あずみ いさぶろう、1867年2月27日〈慶應… 安住 伊三郎(あずみ いさぶろう、1867年2月27日〈慶應3年1月23日〉 - 1949年〈昭和24年〉8月31日)は、日本の実業家。安住大薬房社長。タイ王国名誉領事。幼名は猪之助。 鳥取県八頭郡那岐村大字奥本(現・智頭町)出身。安住文四郎の二男。家が貧しかったため縄をない、自ら学資をつくる。 1897年、兄瀧蔵方より分れて一家を創立する。岡山県真島郡落合町の酒造家・木村良江に養われる。13歳の頃、鳳鳴社という塾に入り、進昇山に就き、漢籍を学ぶ。 1888年、22歳の頃に大阪の安東久次郎の薬舗の店員となり、5年後自ら独立して売薬業を営む。1893年、幼名猪之助に因む猪印のノミ取粉と安住蚊取り線香の製造販売を創める。
菊池 謙二郎(きくち けんじろう、1867年2月23日(慶応… 菊池 謙二郎(きくち けんじろう、1867年2月23日(慶応3年1月19日) - 1945年(昭和20年)2月3日)は、日本の教育者、歴史研究者。号は仙湖。正岡子規、秋山真之、夏目漱石らとの交友、藤田東湖を中心とした水戸学の研究で知られ、衆議院議員も務めた。
中村 十作(なかむら じゅうさく、慶応3年1月18日(186… 中村 十作(なかむら じゅうさく、慶応3年1月18日(1867年2月22日) - 昭和18年(1943年)1月22日)は、越後国頸城郡稲増村(現在の新潟県上越市板倉区稲増)出身の宮古島における人頭税廃止に尽力した人物。 生家は代々庄屋をつとめる家系であった。東京専門学校(現在の早稲田大学)中退後に海軍へと入隊し、1892年(明治25年)真珠養殖の事業を始めようと宮古島へと渡った。しかし、宮古島の島民たちは琉球王国の時代から続く重い人頭税に苦しみ、貧困を強いられていた。これを見かねた中村は精糖業技師として同じく宮古島を訪れていた城間正安とともに当時の沖縄県知事であった奈良原繁に人頭税の廃止を訴えた。
中村 千代松(なかむら ちよまつ、1867年2月19日(慶応… 中村 千代松(なかむら ちよまつ、1867年2月19日(慶応3年1月15日) - 1941年(昭和16年)8月4日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)、ジャーナリスト。号は木公 出羽国(秋田県)平鹿郡阿気村(大雄村を経て現横手市)の奥山家に生まれた。明治29年11月中村宗興の二女ノブに入夫婚姻。内藤湖南、畑山呂泣らと明治18年秋田県師範学校を卒業後、秋田市内で教鞭をとる。博文館編集部員、忠愛新報編集長、教育報知主筆、明治新聞主筆、報知新聞記者、秋田魁新報主筆を経て、1913年(大正2年)より秋田新聞社社長を務めた。 1915年、第12回衆議院議員総選挙に出馬して、当選を果たした。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
西郷 四郎(さいごう しろう、1866年3月20日(慶応2年… 西郷 四郎(さいごう しろう、1866年3月20日(慶応2年2月4日) - 1922年(大正11年)12月22日)は、明治時代の柔道家。講道館四天王の一人。富田常雄の小説『姿三四郎』のモデル。
森田 卓爾(もりた たくじ、慶応2年2月1日(1866年3月… 森田 卓爾(もりた たくじ、慶応2年2月1日(1866年3月17日) - 昭和3年(1928年)4月13日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)。弁護士。森田俊佐久の弟。 安芸国高田郡根野村(現在の広島県安芸高田市)出身。最初慶應義塾に入学したが、東京専門学校(現在の早稲田大学)に移り、1886年(明治19年)に卒業した。翌年、代言人試験に合格し、東京にて開業。1889年(明治22年)に広島市に事務所を移し、広島弁護士会長にたびたび選ばれた。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第8回、第9回でも再選を果たした。
山本 玄峰(やまもと げんぽう、慶応2年1月28日〈1866… 山本 玄峰(やまもと げんぽう、慶応2年1月28日〈1866年3月14日〉 - 昭和36年〈1961年〉6月3日)は、日本の禅僧。道号は玄峰、法諱は宜詮、宜雄。室号は般若窟。俗姓は岡本、後に山本。和歌山県本宮町生まれ。龍澤僧堂師家(僧堂を開単)、瑞泉僧堂師家(僧堂を開単)、21代妙心寺派管長、圓福僧堂家を歴任する(年代順)。 生涯を通して、四国八十八箇所遍路を最晩年まで続け17回に達した。昭和において多くの著名人が参禅に訪れた静岡県三島市の龍沢寺の住職として有名。鈴木貫太郎に終戦を勧め、戦後も象徴天皇制を鋭く示唆する。遺言により葬儀はなかった。世寿96歳。 1866年(慶応2年)3月14日和歌山県東牟婁郡四村(現・田辺市本宮町)の湯の峰温泉の旅館・芳野屋(現・あづまや旅館)で生まれた。
中西 六三郎(なかにし ろくさぶろう、慶応2年1月27日(1… 中西 六三郎(なかにし ろくさぶろう、慶応2年1月27日(1866年3月13日) - 昭和5年(1930年)2月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党→無所属)、弁護士。 京都に中西新左衛門の長男として生まれる。大阪府立中学校(現大阪府立北野高等学校)、ついで神戸法律学校を卒業。裁判所書記を経て、1887年(明治20年)に判検事登用試験に合格。判事試補として福井始審裁判所に配属された後、1889年(明治22年)に判事となって、敦賀治安裁判所、増毛治安裁判所、札幌地方裁判所で勤務した。1891年(明治24年)、官を辞して札幌で弁護士を開業し、1894年(明治27年)には札幌弁護士会長に選出された。
原 撫松(はら ぶしょう、慶応2年1月27日(1866年3月… 原 撫松(はら ぶしょう、慶応2年1月27日(1866年3月13日) - 大正元年(1912年)10月27日)は、明治期の洋画家。今日、知名度は高いとはいえないが、明治期において本格的な油彩技法を修得した最も優れた画家の一人とされ、肖像画を得意とした。 岡山市出石村で、岡山藩士原金兵衛久則の長男として生まれる。幼名は熊之介、のち改め熊三郎、1883年(明治16年)からは熊太郎を名乗る。父・久則は岡山藩の御融通方に勤務し、後に第二十二国立銀行創設に加わった。1879年(明治12年)化成小学校卒業後は進学せず、当時岡山にいた洋画家多賀清光と平野雄也に就いて、主に水彩画を習う。1881年(明治14年)3月に京都府画学校に入学し、小山三造、田村宗立に洋画を学ぶ。
田辺 郷左衛門(田邊 郷左衛門、たなべ ごうざえもん、前名・… 田辺 郷左衛門(田邊 郷左衛門、たなべ ごうざえもん、前名・榮重郎、1866年3月11日〈慶應2年1月25日〉 - 没年不明)は、日本の政治家(神奈川県会議員、横浜市会議員)、会社重役、神奈川県多額納税者、地主、神奈川県教員互助会理事。族籍は神奈川県平民。田辺家19代目である。 神奈川県久良岐郡中村出身。先代・郷左衛門の二男。神奈川師範卒業。1886年、家督を相続し、前名・榮重郎を改め襲名する。貸地業を営む。 横浜市会議員、神奈川県会議員、同参事会員に挙げられる。戸塚銀行、横浜植木、横浜農薬各取締役などをつとめる。1937年、退隠する。 教育界と農村産業の革新等に尽力する。宗教は真言宗。趣味は碁、将棋、読書、旅行。
守屋 善兵衛(もりや ぜんべえ、慶応2年1月25日(1866… 守屋 善兵衛(もりや ぜんべえ、慶応2年1月25日(1866年3月11日) - 昭和5年(1930年)12月10日)は、日本の実業家。幼名は、久太。父は、彌作。 備中国小田郡大井村東大戸2087番地(現在の岡山県笠岡市)に生まれる。1876年、祖父の名を継いで善兵衛と改名する。地元の学校に学ぶが1880年上京し、東京外国語学校(旧外語)および独逸学協会学校でドイツ学を学ぶ。1883年、東京に欧亜学館を設立する。 1885年からは政府各省の依頼により、種々のドイツ語文書を翻訳する。その後台湾総督府の後藤新平、児玉源太郎などの知遇を得、1898年、台湾日報社と台湾新報社を合併して台湾日々新報社を創立し、社長となる。
九鬼 紋七(くき もんしち、1866年3月10日(慶応2年1… 九鬼 紋七(くき もんしち、1866年3月10日(慶応2年1月24日) - 1928年(昭和3年)3月15日)は、三重県四日市市出身の政治家、また九鬼産業グループを経営する実業家。四日市電灯・三重人造肥料・四日市倉庫社長・東洋紡績取締役・四日市商工会議所副会頭等。四日市の政財界の指導者。四日市九鬼家当主で8代目九鬼紋七を襲名した。国政に進出して衆議院議員(1期)を務める。甥は四日市政財界の大御所であった九鬼紋十郎。家業を継いだ長男・徳三(9代目紋七)も衆議院議員を務めた(妻は外交官市河彦太郎の妹)。 1886年(慶応2年)1月に四日市の中納屋町69番地在住の大地主である四日市九鬼家に誕生する。四日市九鬼家は戦国時代から安土桃山時代に活躍した九鬼水軍の末裔である。
秋山 雅之介(あきやま まさのすけ、慶応2年1月23日(18… 秋山 雅之介(あきやま まさのすけ、慶応2年1月23日(1866年3月9日) - 昭和12年(1937年)4月11日)は、日本の官僚、法政大学学長。 広島藩の足軽秋山恂一の長男として生まれる。1890年(明治23年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。外務省に入り、イギリス公使館やロシア公使館で書記官として勤務した。しかし病により官を辞した後は、国際法を研究し法学博士の称号を得た。 和仏法律学校や明治法律学校で講師を務めていたが、日露戦争の直前に陸軍省参事官に任命され、さらに法制局参事官も兼ねた。国際法の顧問として尽力したのが寺内正毅陸軍大臣に認められ、後に朝鮮総督となった寺内の招きで朝鮮総督府参事官に就任した。
武藤 互三(むとう ごぞう、1866年3月9日(慶応2年1月… 武藤 互三(むとう ごぞう、1866年3月9日(慶応2年1月23日) - 1937年(昭和12年)1月20日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。実業家。銀行家。衆議院議員。岐阜県郡上郡八幡町長。 美濃国郡上郡八幡町(岐阜県郡上郡八幡町を経て現郡上市)出身。関谷楠平の三男、関谷貫三の弟として生まれ先代の武藤喜一郞の養子となり、1903年(明治36年)3月、家督を相続する。1880年(明治13年)鈴木重遠に漢学を学び、1886年(明治19年)岐阜県師範学校、1890年(明治23年)東京専門学校法律科卒業。生糸製造業を営んだ。 八幡町長、蚕糸業諮問会、中央種繭審査会各委員となる。また第百二十八銀行頭取、八幡町仏教慈善会長、県製糸同業組合長、製糸講習所長、大日本蚕糸会、帝国蚕糸会社各評議員、濃飛農工銀行取締役となるほか、大谷派本山講頭格に列せられ、同派本願寺会計評議員を歴任した。
山屋 他人(やまや たにん、慶応2年3月4日(1866年)4… 山屋 他人(やまや たにん、慶応2年3月4日(1866年)4月18日 - 昭和15年(1940年)9月10日)は、日本の海軍軍人。海軍大将。皇太子徳仁親王妃雅子は曾孫にあたる。
安藤 和風(あんどう はるかぜ、慶応2年1月12日(1866… 安藤 和風(あんどう はるかぜ、慶応2年1月12日(1866年2月26日) - 昭和11年(1936年)12月26日)は、日本のジャーナリスト、マスメディア経営者、俳人、郷土史研究家。通名および俳号は「和風」をそのまま音読みして「わふう」。秋田県の地方紙「秋田魁新報」の事業拡大に貢献し、秋田魁新報社三大柱石の一人と称された。「魁の安藤か、安藤の魁か」と言われるほど、新聞記者としての名声を全国にとどろかせた。 俳号・雅号として他に、柳外、夢蝶、時雨庵、大蕗軒、白松子、太平山人、城南陰士、自適庵、布々木園、蝶々、松陰舎、松庵など十数以上を用いていた。 秋田藩士安藤和亭(通名は和市)、イクの長男として生まれる。
河口 慧海(かわぐち えかい、1866年2月26日(慶応2年… 河口 慧海(かわぐち えかい、1866年2月26日(慶応2年1月12日) - 1945年(昭和20年)2月24日)は、日本の黄檗僧、仏教学者、探検家。幼名は定治郎。僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。チベット名はセーラブ・ギャムツォ。チベットでの通称はセライ・アムチー。 日本や中国の漢語仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来の教えの意味が分かる書物を求めて、梵語原典やチベット語訳仏典の入手を決意し、日本人として初めてチベットへの入国を果たした。その旅行記は英訳もされ、チベットの聖地伝説化に拍車をかけた。 『西蔵旅行記』『在家仏教』『正真仏教』をはじめとして数多くの著作を残し、慧文社から著作選集も出版されている。
藤原 元太郎(ふじわら もとたろう、1866年2月24日(慶… 藤原 元太郎(ふじわら もとたろう、1866年2月24日(慶應2年1月10日)- 1933年(昭和8年)3月6日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県児島郡八浜村長、同郡八浜町長。 備前国児島郡八浜村(岡山県小島郡玉井村、八浜村、八浜町を経て現玉野市)で、藤原久三郎の長男として生れ、1890年(明治23年)7月に家督を相続した。旧制岡山中学校(現:岡山県立岡山朝日高等学校)で学んだ。 玉井村(のち八浜村に改称)助役を経て、1892年(明治25年)10月、玉野村長に就任し、1925年(大正14年)2月まで連続して八浜村長、八浜町長を務めた。また、1898年(明治31年)岡山県会議員に選出され1915年(大正4年)3月まで在任し、1909年(明治42年)から1911年(明治44年)まで県会議長を務めた。
長與 稱吉(新字体:長与 称吉、ながよ しょうきち、慶応2年… 長與 稱吉(新字体:長与 称吉、ながよ しょうきち、慶応2年1月7日〈1866年2月21日〉 - 明治43年〈1910年〉9月5日)は、明治時代の医師。男爵。長與專齋の子。岳父に後藤象二郎。 内務省衛生局長:長與專齋の長男として、肥前国大村(現・長崎県大村市)に生まれる。1884年に東京帝国大学医科(現在の東京大学医学部)を中退して、7年間ドイツのミュンヘン大学、ヴュルツブルク大学医学部に私費留学する。このころ、現地の女性に子供を産ませるも、手切れ金を渡して解決する(その面倒を見たのが、衛生局で專齋の部下であり、ドイツ留学中の後藤新平だった)。 帰国後、1893年に開業。東京日本橋や麹町に胃腸病院を設立。
野沢 武之助(のざわ たけのすけ、旧字体: 野澤武之助 慶応… 野沢 武之助(のざわ たけのすけ、旧字体: 野澤武之助 慶応2年1月7日(1866年2月21日) - 昭和16年(1941年)8月1日)は、日本の衆議院議員(山下倶楽部)。国際法学者。 慶応2年1月7日(1866年2月21日)下野国芳賀郡下籠谷村(現在の栃木県真岡市)で野澤泰次郎の長男として生まれる。泰次郎は下野紡績株式会社や千住煉瓦株式会社を経営するほか、栃木県議会議員も務めた実業家である。その父の意向を受けて、品川弥二郎に従い織物研究のためドイツに留学し、1888年(明治21年)、ドイツのミュールハイム市工業学校を卒業する。しかし、経緯は不明であるが、スイスに渡り、1895年(明治28年)にジュネーヴ大学で法学を学び卒業する。
浅井 郁太郎(あさい いくたろう、慶応2年1月5日(1866… 浅井 郁太郎(あさい いくたろう、慶応2年1月5日(1866年2月19日) - 没年不詳)は、金沢出身の地質学及び鉱物学者であり教育者。従五位。 加賀藩士、浅井弘五郎の長男。1890年(明治23年)に東京帝国大学理科大学地質学科を卒業し、島根県中学校校長、札幌中学校校長、岐阜中学校校長を歴任した。1900年(明治33年)に足尾銅山技師、1902年(明治35年)に文部省図書審査官・視学官となり、1913年にはこれを辞して文部省嘱託となった。1907年(明治40年)に家督を相続。その他、東京高等工業学校講師、東京女子高等師範学校講師なども歴任している。 1920年(大正9年)に同郷の香村小録が再婚する際には夫婦で媒酌人を務めた。
副島 義一(そえじま ぎいち、慶応2年1月5日(1866年2… 副島 義一(そえじま ぎいち、慶応2年1月5日(1866年2月19日) - 昭和22年(1947年)1月27日)は、日本の衆議院議員、法学者。専門は憲法学で、天皇機関説を唱えた。 肥前国佐賀郡本庄村(現在の佐賀県佐賀市)出身。1894年(明治27年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、大学院に進んだ。さらにベルリン大学に留学し、1901年(明治33年)から1902年(明治34年)にかけて、渡辺廉吉に代わって東京高等商業学校(現一橋大学)で憲法を講じた。 1908年(明治41年)に法学博士の学位を受けた。早稲田大学で教授・評議員を務めるかたわら、辛亥革命の際には寺尾亨とともに南京の臨時政府の法律顧問に就任し、また1920年(大正9年)には第14回衆議院議員総選挙に出馬して当選を果たした。