金田一 勝定(きんだいち かつさだ、1848年3月16日(弘… 金田一 勝定(きんだいち かつさだ、1848年3月16日(弘化5年2月12日) - 1920年(大正9年)12月31日)は、日本の実業家、和算家。 陸奥国岩手郡仁王村四ツ家町(現・岩手県盛岡市本町通二丁目)にて豪商「大豆屋」金田一伊門とリセの長男として生まれる。金田一京助は勝定の妹やすの子。金田一國士の養父。 1868年(慶応4年)、戊辰戦争鹿角口の戦いに従軍して足を負傷した。明治から大正初期の岩手県内実業界で盛岡銀行頭取、盛岡電気株式会社、岩手軽便鉄道株式会社など多くの企業を創立して社長となり、金田一財閥と呼ばれるまでに成長させ、県会議員、盛岡市会議員を務めた。勝定は幼少より学問を好み、盛岡和算に通じた最後の人で、和算書の収集に努力し、多大な費用をかけて和算家の阿部家、鬼柳家の蔵書を購入し、1912年(明治45年)、松原正固の蔵書とともに東北大学に寄贈した。
小野田 元熈(おのだ もとひろ、1848年3月15日(弘化5… 小野田 元熈(おのだ もとひろ、1848年3月15日(弘化5年2月11日) - 1919年(大正8年)6月12日)は、幕末の館林藩士、明治から大正期の警察・内務官僚、政治家。官選県知事、貴族院議員、錦鶏間祗候。旧姓・藤野、幼名・貞治。 館林藩下士・藤野逸平の二男として生まれ、同藩の小野田安兵衛の養子となる。館林藩では、徒士格大納戸役、家老付日記役心得、藩内監察、少属などを歴任。 明治4年11月(1871年末頃)、東京府取締組羅卒小頭となり、さらに司法省少警部となり1873年2月に退官。1874年1月、警視庁少警部として再度、警察官となる。1877年2月、内務省警視局三等大警部兼陸軍歩兵中尉として、別働第3旅団第1大隊副官として西南戦争に従軍した。
吉村 寅太郎(よしむら とらたろう、弘化5年2月5日(184… 吉村 寅太郎(よしむら とらたろう、弘化5年2月5日(1848年3月9日) - 大正6年(1917年)1月14日)は、日本の教育者。 但馬国豊岡(兵庫県豊岡市)出身。1869年(明治2年)から4年間慶應義塾で英学を学んだ。1873年(明治6年)、文部省に出仕し、広島外国語学校校長、広島英語学校長、広島県英学校長、広島県師範学校校長、広島県医学校長、広島県博物館長などを務めた。1879年(明治12年)からは文部一等属、文部省御用掛、同権少書記官、太政官御用掛、文部省視学官、同参事官を歴任。1887年(明治20年)、第二高等中学校(のち第二高等学校)校長に就任した。1897年(明治30年)に退官した後は、成女学校を創設し、校長に就任した。
園田 孝吉(そのだ こうきち、弘化5年1月19日(1848年… 園田 孝吉(そのだ こうきち、弘化5年1月19日(1848年2月23日) - 大正12年(1923年)9月1日)は、日本の外交官、実業家。男爵。 1848年、薩摩藩士・宮内健吉の長男として大隅国太良村(現・鹿児島県伊佐市)に生まれる。藩内のお家騒動(平佐崩れ)により父親が処罰を受けたため、同藩士・園田沢右衛門の養子となる。鹿児島の洋学校「開成所」で、有島武らとともに英学を学ぶ。維新後は大学南校に学んだ後、1871年10月に外務省に出仕。翌1874年から約15年もの間、外交官としてイギリスに派遣された。1879年には一旦帰国し、卿補付書記心得として井上馨外務大臣の秘書となり、井上の紹介で富永銈子と結婚。
福井 直吉(ふくい なおきち、1848年2月19日(弘化5年… 福井 直吉(ふくい なおきち、1848年2月19日(弘化5年1月15日)- 1917年(大正6年)11月13日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 相模国大住郡小嶺村(現神奈川県平塚市)で、素封家・名主、福井源兵衛の長男として生まれる。宮崎拡堂の成器塾で漢学を修めた。 小嶺村総代人、神奈川県第二十二大区議員、神奈川県会議員、同常置委員、同議長などを務め、板垣退助に共鳴し自由民権運動に加わり民選議院設立運動に尽力した。1892年2月、第2回衆議院議員総選挙に神奈川県第六区から出馬して当選。さらに第3回総選挙でも再選され、衆議院議員を連続二期務めた。議員在任中、治水対策に取り組んだ。 衆議院議員当選後に実業界に入り、神奈川県農工銀行頭取、江ノ島電気鉄道取締役、東亜火災保険監査役などを務めた。
5代 大針 徳兵衛(德兵衞、おおばり とくべえ、1847年3… 5代 大針 徳兵衛(德兵衞、おおばり とくべえ、1847年3月17日(弘化4年2月1日)- 1908年(明治41年)8月11日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、福井県坂井郡雄島村長。幼名・長之助。 越前国坂井郡安島浦(福井県坂井郡安島浦、雄島村安島、三国町安島を経て現坂井市三国町安島)で、回漕業・4代大針徳兵衛の長男として生まれた。明治のはじめに5代徳兵衛を襲名した。回漕業を営む。 里正、組合総代、敦賀県第53大区小2区戸長、第14大区23小区戸長、浦役人、学務委員、所得税調査委員などを務めた。1889年(明治22年)5月、雄島村会議員となり、1890年(明治23年)2月、雄島村長に就任し、安島道の改修に尽力した。
三浦 仙三郎(みうら せんざぶろう、1847年3月8日〈弘化… 三浦 仙三郎(みうら せんざぶろう、1847年3月8日〈弘化4年1月22日〉 - 1908年〈明治41年〉8月15日)は、日本の酒造家。1887年(明治20年)創案した軟水による酒醸造法「三浦式醸造法」は、天下の名酒広島酒発展の基礎を築いた。「吟醸酒の父」ともいわれる。また酒造りの傍ら、村会議員、三津町長および町会議員としても活躍した。 1847年(弘化4年)雑貨問屋を営む清水屋忠兵衛の長男として広島県賀茂郡三津村(現東広島市安芸津町三津)に生まれる。雑貨問屋を営んでいたが家督を弟に譲り、1876年(明治9年)酒造場を譲り受け酒造業を始め、1878年(明治11年)創業した。1898年(明治31年)、軟水に適した改良醸造法を考案し、同年「改醸法実践録」を発刊してその普及をはかった。
西村 甚右衛門(甚右衞門、にしむら じんうえもん、1847年… 西村 甚右衛門(甚右衞門、にしむら じんうえもん、1847年2月24日(弘化4年1月10日)- 1926年(大正15年)10月24日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 下総国海上郡成田村(千葉県海上郡成田村、旭町を経て現旭市)で、呉服商、醤油醸造業「成田屋」当主・西村醇治の二男として生まれた。鹿島の儒学者・吉川松浦に師事し漢学を修め、塾頭を務めた。 1879年(明治12年)3月、第1回千葉県会議員選挙で当選し、当時の議員半数改選の制度により再選されたが、日本の府県会は有名無実で自らの意思を貫徹することはできないとして、再任を辞退し1880年(明治13年)8月に議員を退任した。 その後、1881年(明治14年)同志と東京醤油会社を設立し、醤油の共同販売と品質向上を図り、また、1883年(明治16年)アムステルダムで開催された植民地博覧会(en:International Colonial and Export Exhibition)に出品するなど、醤油の海外への販路を開拓した。
伊庭 貞剛(いば ていごう、1847年2月19日(弘化4年1… 伊庭 貞剛(いば ていごう、1847年2月19日(弘化4年1月5日) - 1926年(大正15年)10月22日)は、近江国出身の明治時代の実業家、第2代住友総理事である。 「別子銅山中興の祖」と言われ、「東の足尾、西の別子」と言われた、住友新居浜精錬所の煙害問題の解決にあたった。植林など環境復元にも心血を注ぎ、企業の社会的責任の先駆者とも言われている。 近江源氏佐々木氏支流伊庭氏の一族である。 1847年(弘化4年)、近江国蒲生郡西宿村(現・滋賀県近江八幡市)に伯太藩代官伊庭正人の長男として、母、北脇田鶴子の実家で生まれ、7歳まで母方の実家で育つ。幼名は耕之助。 八幡町の児島一郎に剣道を、西川吉輔に国学を学んだ。
大寺 安純(おおでら やすずみ、1846年3月9日〈弘化3年… 大寺 安純(おおでら やすずみ、1846年3月9日〈弘化3年2月12日〉- 1895年〈明治28年〉2月9日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下(現:鹿児島県鹿児島市)で、薩摩藩士・大寺七郎の二男として生まれる。幼名は彌七。幼くして父を失う。 20歳にして造士館助教(授讀助)となった。 戊辰戦争従軍の後は陸軍にすすむ。1871年(明治4年)に陸軍少尉に任官して一番大隊分隊長、陸軍中尉として半小隊長、東京鎮台付などを経て、1874年(明治7年)2月から5月にかけて佐賀の乱に出征し、続いて台湾出兵に従軍した。 広島鎮台付、歩兵第12連隊付などを経て、陸軍戸山学校で学ぶ。
浮田 桂造(うきた けいぞう、1846年3月2日(弘化3年2… 浮田 桂造(うきた けいぞう、1846年3月2日(弘化3年2月5日)- 1927年(昭和2年)9月16日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、大阪商業会議所会頭。旧姓・梅咲。 大和国十市郡池之内村(奈良県磯城郡安倍村、桜井町を経て現桜井市)で梅咲善六の二男として生まれ、1870年(明治3年9月)五龍円の販売で知られた売薬卸小売業・先代浮田桂造の養子となり、1871年(明治4年)家督を相続し浮田桂造を襲名した。 1873年(明治6年)10月、南大組第6区安堂寺橋通4丁目戸長に就任。南大組第6区3等戸長、第2大区6小区3等戸長、第2大区4小区2等戸長兼5等学区取締、書籍館掛、中学校事務掛、学監などを歴任。
小林 やす(こばやし やす、1846年3月2日(弘化3年2月… 小林 やす(こばやし やす、1846年3月2日(弘化3年2月5日)? - 1964年(昭和39年)5月29日)は、長寿日本一とされていた山梨県大月市の女性。その長寿記録は老年学研究者団体ジェロントロジー・リサーチ・グループ (GRG) によって認定されていない。資料によっては「やそ」、「やと」という表記も見られるが、「やす」が正しい。 1846年(弘化3年)に山梨県東山梨郡平等村(現在の山梨市)の雨宮重右衛門の娘として出生。大月市役所保存の戸籍では妻(やすの母)は不詳で次女となっているが、山梨市役所保存の戸籍では妻:いえの子で長女であるとしている。また、養子の婿によると甲府勤番の武士であった福島某の孫で各地を養女として転々としたと言われている。
菊池 楯衛(きくち たてえ、弘化3年2月2日(1846年2月… 菊池 楯衛(きくち たてえ、弘化3年2月2日(1846年2月27日) - 1918年〈大正7年〉4月8日)は、日本の果樹園芸家。「青森リンゴの先駆者」や「青森りんごの始祖」と呼ばれる。 現在の青森県弘前市鷹匠町出身。家は津軽藩の武家の成田瀧弥の次男として生まれ、菊地家の養子となった。実父は儒者の工藤他山の友人であった。明治2年(1869年)に津軽藩において山林取締役を命ぜられ、樹藝方を兼務し各地の山林の樹木植付に従事した。明治4年(1871年)に家屋建築用の材木配布方を命ぜられ明治6年(1873年)まで務めた。明治7年(1874年)には青森県山林調査係を命ぜられ、翌年中調査を結了した 明治8年(1875年)に内務省勧業寮から青森県庁を通じてリンゴやブドウなどの果樹苗の下付けを受けて洋種果樹の栽植に着手した。
広瀬 進一(ひろせ しんいち、1845年3月19日(弘化2年… 広瀬 進一(ひろせ しんいち、1845年3月19日(弘化2年2月12日)- 1904年(明治37年)7月29日)は、日本の法制官僚。官選秋田県知事。旧名・篤譲。 本籍・東京府。近江国犬上郡(後の日夏村字古屋、現:彦根市)で、浄土真宗・専精寺住職、広瀬天超の長男として生まれる。漢籍を学び、幕末には三条実美の知遇を得、諸藩の志士と交際した。廃藩置県後に上京し、1871年11月10日(明治4年9月28日)、正院十等出仕となる。 1874年9月、小野梓らが結成した啓蒙団体「共存同衆」に参加。1876年5月、法制局一等書記に就任。1880年9月、太政官権少書記官となる。以後、参事院議官補、法制局参事官、兼行政裁判所評定官などを歴任。
石黒 忠悳(いしぐろ ただのり、1845年3月18日〈弘化2… 石黒 忠悳(いしぐろ ただのり、1845年3月18日〈弘化2年2月11日〉- 1941年〈昭和16年〉4月26日)は、明治時代の日本陸軍軍医、日本赤十字社社長。茶人。草創期の軍医制度を確立した。爵位は子爵。 幼名は庸太郎(つねたろう)。父・平野順作良忠は幕府代官の手代になり、奥州(福島県)の梁川陣屋(戦国期の梁川城)に務めているときに庸太郎が生まれた。1856年2月に元服して忠恕(ただのり)を名乗り、平野庸太郎忠恕と称したが、やがて忠徳、後に忠悳と改めた(悳は徳の古字)。父母は早く亡くなり、天涯孤独となる。16歳のとき、父の姉が嫁いでいた越後国三島郡片貝村(今の新潟県小千谷市)の石黒家の養子になった。
二代目本間 金之助(ほんま きんのすけ、旧姓・山内、1845… 二代目本間 金之助(ほんま きんのすけ、旧姓・山内、1845年3月17日(弘化2年2月10日) - 1929年(昭和4年)1月14日)は、日本の政治家(貴族院議員)、秋田県多額納税者、実業家。第四十八銀行、秋田貯蓄銀行各頭取。北秋木材監査役。族籍は秋田県平民。勲四等。 出羽国雄勝郡(現・秋田県湯沢市)出身。山内三郎兵衛の三男。辻兵吉の兄。幼名は、山内由松。幼い頃より商才があった。戊辰の前後出て久保田城下(秋田市)に来て、独力雑貨を商い、多売薄利を主義として奮闘したため忽ち世間の信用を博した。1872年(明治5年)、本間金之助の養子となり、後家督を相続し、二代目金之助を襲名。 1892年(明治25年)以降秋田県実業調査会、同山林会、秋田市教育会等の役員を務めた。
梅ヶ谷 藤太郎(うめがたに とうたろう、1845年3月16日… 梅ヶ谷 藤太郎(うめがたに とうたろう、1845年3月16日(弘化2年2月9日) - 1928年(昭和3年)6月15日)は、筑前国上座郡志波村梅ヶ谷(現・福岡県朝倉市)出身で玉垣部屋(入門時は大坂相撲の湊部屋)に所属した大相撲力士。第15代横綱。本名は小江 藤太郎(おえ とうたろう)。 明治時代前期の角界の第一人者であり、「古今十傑」「明治以後の五大力士」等、相撲史上でも特筆される存在となっている。 1845年3月16日(弘化2年2月9日)に、筑前国上座郡志波村梅ヶ谷で生まれる。にわかには信じがたいが赤子の頃から石臼を引き摺るほどの怪童で、母乳や菓子より酒を欲しがったため、酒で育てられたという。
大島 貞益(おおしま さだます、弘化2年2月17日(1845… 大島 貞益(おおしま さだます、弘化2年2月17日(1845年3月14日) - 大正3年(1914年)10月19日)は明治時代の著作家(経済評論家)・翻訳家・教育者。号は「石華」。 日本におけるF・リストの紹介者および保護貿易論者として知られ、「日本のリスト」と称される。 但馬国養父郡大藪村(現兵庫県養父市大藪)で、大藪領主旗本小出英道の家臣、西洋兵学者・大島貞薫と敦子の三男に生まれる。幼名は益三郎。箕作麟祥の英学塾に学んだ後、慶応4年(1868年)7月に新政府の海軍省翻訳方に出仕し、以降文部省・統計寮・外務省などを転々とし明治11年(1878年)1月に外務省御用掛を免職となるまで翻訳業務に従事した。
日高 亀市(ひだか かめいち、1845年3月11日(弘化2年… 日高 亀市(ひだか かめいち、1845年3月11日(弘化2年2月4日) - 1917年(大正6年)10月23日)は、明治期の日本の実業家、漁業技術改良者。明治期の日本水産業界に革命を起こし、巨万の富を築くとともに地域社会に貢献した功績が讃えられ、「ブリ大尽」と呼ばれた。 1845年3月11日(弘化2年2月4日)、日向国臼杵郡赤水村(現在の宮崎県延岡市赤水)の網元、日高喜右衛門為康の四男として生まれる(日高家は、寛永年間に紀伊国から日向国細島に移住した日高為明の末裔といわれる)。当時の赤水村近辺はイワシやアジを中心に漁業が盛んであったうえ、イワシを追ったブリの大群も押し寄せる良港であり、その様子は海面が赤みを帯びるほどだったという。
星野 長太郎(ほしの ちょうたろう、弘化2年2月3日(184… 星野 長太郎(ほしの ちょうたろう、弘化2年2月3日(1845年3月10日) - 明治41年(1908年)11月27日)は、日本の実業家・政治家。衆議院議員当選1回(当初は甲辰倶楽部で、後の大同倶楽部に所属)。農民出身であったが外国人居留地外商を介さず日本人による初の生糸直輸出を実現した。産業組合結成などにも取り組み、明治期における日本製生糸の品質向上と輸出の飛躍的拡大の先駆者となった。 上野国(現群馬県)勢多郡水沼村(後の黒保根村、現桐生市黒保根町)の農民であったが、明治初期に製糸業と生糸貿易の将来性に着目して、群馬県初の日本人の手による民間洋式器械製糸所を開設。実弟をニューヨークへ派遣し、市場開拓・販路を確保するなどして日本人による初の生糸直(じか)輸出を実現した。
堀江 佐吉(ほりえ さきち、弘化2年2月3日(1845年3月… 堀江 佐吉(ほりえ さきち、弘化2年2月3日(1845年3月10日) - 明治40年(1907年)8月18日)は、明治時代の青森県において洋風建築を多く手がけた大工棟梁である。青森県弘前市出身。 弘前の覚仙町の生まれ。祖父の代から弘前藩の御用大工で、父の伊兵衛も「お城大工」として知られた。弘前で初めて、また青森県でも最古ともいう洋風建築を手がけたといわれる棟梁の今常吉が佐吉の家の近くに洋風の個人邸宅を建設し始めたことがきっかけで現場に日参して技術を習得した。 1879年(明治12年)(35歳)に北海道に出稼ぎに渡ると函館の洋風建築の街並みに驚き、開拓使関係の工事に従事しながら洋風建築を見て回り、見取図を作って構造を研究した。
笹森 儀助(ささもり ぎすけ、弘化2年1月25日(1845年… 笹森 儀助(ささもり ぎすけ、弘化2年1月25日(1845年3月3日) - 大正4年(1915年)9月29日)は日本の探検家、政治家、実業家。当時の日本において辺境の地であり、その実態がほとんど分かっていなかった南西諸島や千島列島を調査した他、奄美大島の島司や第2代青森市長も務めている。 また、南西諸島調査の詳細な記録である著書『南嶋探験』は、柳田國男など後の民俗学者に大きな影響を与えた。 1845年(弘化2年)、陸奥国弘前在府町(現・青森県弘前市在府町)に、弘前藩士・笹森重吉の子として生まれる。藩校稽古館(現・東奥義塾高等学校)で学んだ後、弘前藩・青森県に勤め、中津軽郡長も務めるなどしたが、1881年(明治14年)に辞職。
中西 光三郎(なかにし みつさぶろう、弘化2年1月15日(1… 中西 光三郎(なかにし みつさぶろう、弘化2年1月15日(1845年2月21日) – 明治43年(1910年)7月10日)は、衆議院議員(立憲政友会)、貴族院多額納税者議員。 紀伊国那賀郡井ノ口村(現在の和歌山県紀の川市)の豪農の家に生まれた。1862年(文久2年)、父の跡を継いで庄屋となり、1872年(明治5年)に大区小区制が実施されると区長に就任した。1879年(明治12年)、県会制度が制定されると初代副議長に選出された(議長は濱口梧陵)。1881年(明治14年)、議長に就任。同年、木国同友会という政社を結成し、濱口会長のもと副会長に就いた。やがて松本鼎県令と対立し、松本は懐柔のため郡長就任をたびたび要請した。
関矢 孫左衛門(せきや まござえもん、1844年3月12日(… 関矢 孫左衛門(せきや まござえもん、1844年3月12日(弘化元年1月24日) - 1917年(大正6年)6月21日)は、明治時代の政治家、銀行家、実業家。衆議院議員(1期)。北海道開拓者。号・道菴、北海道人。 越後国刈羽郡新道村(新潟県刈羽郡日高村、高田村を経て、現柏崎市新道)出身。飯塚七十郎の子として生まれ、1858年(安政5年)魚沼郡並柳新田(新潟県北魚沼郡並柳村、下条村、広瀬村、広神村を経て現魚沼市)の関矢家の養子となった。戊辰戦争では居之隊に属して新政府軍とともに各地に転戦した。西南戦争にも従軍した。 1870年(明治3年)帰郷後、大区長に就任。のち三等警部、地租改正御用掛、北魚沼郡長兼南魚沼郡長を歴任する。
天川 三蔵(三藏、あまかわ さんぞう、1844年3月5日(弘… 天川 三蔵(三藏、あまかわ さんぞう、1844年3月5日(弘化元年1月17日) - 1916年(大正5年)12月25日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 摂津国、のちの大阪府大阪市北区中之島常安町(現中之島)で生まれた。 1883年(明治16年)西区仲之町会議員に当選。以後、連合町会議長、西区会議員、同区会議長を務めた。1894年(明治27年)日清戦争の澎湖列島占領の混成支隊に従軍した。 1895年(明治28年)大阪市会議員に当選。以後、大阪築港期成会委員、所得税調査委員長、憲政党大阪支部常議員、大阪築港商議員、大阪運河 (株) 顧問、大阪瓦斯顧問などに在任。1899年(明治32年)大阪府会議員に選出され、同参事会員も務めた。
香川松石(かがわ しょうせき、弘化元年1月15日(1844年… 香川松石(かがわ しょうせき、弘化元年1月15日(1844年3月3日) - 明治44年(1911年)9月28日)は、学校で用いられる書道の教科書を記した書道家。千葉師範学校(現在の千葉大学教育学部)教諭。通称、香川熊蔵。
内藤 伝右衛門(ないとう でんえもん、1844年3月2日(天… 内藤 伝右衛門(ないとう でんえもん、1844年3月2日(天保15年1月14日)- 1906年(明治39年)11月18日)は、日本の実業家。峡中新聞(現在の山梨日日新聞)創業者。 山梨県東山梨郡八幡北村(現山梨市)出身。幼名・猪之甫。実父は手塚仙一。養父は甲府で商家「藤屋」を営んでいた初代内藤伝右衛門、養母は女子教育の先駆者の内藤萬春。 10代半ばに初代伝右衛門が他界し家業を継ぎ2代目伝右衛門を襲名した。1862年(慶応2年)平田国学(篤胤)の殿堂気吹堂に入門する。1872年(明治5年)7月1日、 県令土肥実匡の指示、篤胤門下で初代中巨摩郡長の三枝七内の資金援助により峡中新聞(山梨日日新聞)を創刊した。
先代塩田 忠左衛門(しおた ちゅうざえもん、旧字体: 鹽田 … 先代塩田 忠左衛門(しおた ちゅうざえもん、旧字体: 鹽田 忠左衞門、1843年2月27日〈天保14年1月29日〉 - 1925年〈大正14年〉9月23日)は、日本の政治家、実業家、資産家、大地主、香川県多額納税者。衆議院議員(香川県第五区選出、当選1回)。西讃銀行取締役。族籍は香川県平民。 讃岐国三野郡仁尾村(現・香川県三豊市)に生まれた。忠左衛門の長男。早くから家庭の薫陶を受け、また金光寺信元に就いて漢籍を修めた。商業を営んだ。 1874年、三野郡仁尾村学務委員となり、それ以来仁尾村会議員、三野豊田郡地位等級会議員、香川県会議員、仁尾村勧業世話係、仁尾村第六聯合会長、仁尾村家の浦聯合会議員、仁尾尋常小学校建築委員長、仁尾村長等の各公職に就任。
瓜生 寅(うりゅう はじめ/はじむ、1842年2月24日(天… 瓜生 寅(うりゅう はじめ/はじむ、1842年2月24日(天保13年1月15日)- 1913年(大正2年)2月23日)は、幕末から明治時代の官僚、教育者、英学者、実業家である。別称は寅(とら)、通称は三寅、号は梅村・六合魁民、幼名は乕作。本姓は多部。海援隊士・瓜生震(雷吉)の兄。 日本の近代教育の起源となる1872年(明治5年)の「学制」起草者の一人で、故郷福井藩の英学教育にも大きな足跡を残した。大阪理学校(現・京都大学)校長、初代神戸税関長、日本鉄道会社幹事などの要職も歴任し、実業家としても活躍した。ホーム・リンガー商会と協同で下関に設立した「瓜生商会」は、三菱・三井の両財閥の石炭輸出の主要な仲介業者となった。
千坂 高雅(ちさか たかまさ、天保12年閏1月19日(184… 千坂 高雅(ちさか たかまさ、天保12年閏1月19日(1841年3月11日)- 大正元年(1912年)12月3日)は、日本の官僚・政治家・実業家。陸軍中佐、錦鶏間祗候。幼名は與市、戊辰戦争中は太郎左衛門、喜遯斉。 出羽国米沢藩家老の家に生まれ、英国留学後内務省に勤務。西南戦争に陸軍中佐として出征した後、石川県令、内務大書記官、岡山県令および県知事を歴任し、明治27年に依願免本官後には貴族院の勅撰議員に就任した。 天保12年(1841年)、米沢藩家老千坂高明の長男として米沢城下の桂町(現松が岬3丁目)に生まれた。千坂家は上級家臣の侍組に属しており、代々国家老や江戸家老などの藩の重職を務めた名門だった。
渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(184… 渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」ともいわれる。理化学研究所の創設者でもある。
渡辺 信(わたなべ まこと、天保11年2月1日(1840年3… 渡辺 信(わたなべ まこと、天保11年2月1日(1840年3月4日) - 明治44年(1911年)12月13日)は、明治時代の素封家、政治家、実業家、蔵書家。号は青洲(せいしゅう)。市川大門村(現在の市川三郷町)の自宅内に青洲文庫という私立図書館を設立した。 甲斐国島上条村(現・甲斐市島上条)の小田切五郎右衛門の三男、小田切五三郎として生まれる。万延元年(1860年)、甲斐国西八代郡市川大門村の豪農・豪商渡辺寿の次女ふじのの婿養子となり、名を信(まこと)に改める。1871年(明治4年)家督を相続する。 1877年(明治10年)、甲州葡萄の主要生産地である八代郡祝村(甲州市勝沼町)で、雨宮広光を社長として大日本山梨葡萄酒会社が発足し、渡辺は藤村紫朗・栗原信近・若尾逸平・初鹿野市右衛門らとともに株主の一人となっている。
渡 正元(わたり まさもと、1839年3月8日(天保10年1… 渡 正元(わたり まさもと、1839年3月8日(天保10年1月23日 ) - 1924年(大正13年)1月29日)は、日本の官僚、政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、正三位・勲二等、錦鶏間祗候。旧姓・田中[3]、諱・正範、旧名・六之助、六之介[4]。安芸国(現広島県)出身。
大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日〈天保9… 大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日〈天保9年2月16日〉- 1922年〈大正11年〉1月10日)は、日本の政治家・教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。菅原姓。 参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)内務大臣(第26・28代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者(社主)。聖路加国際病院設立評議会会長。同志社社友。 通貨・円の制定、日本初の鉄道敷設、政党内閣制を基軸にした即時国会開設を主張するなど議会制推進。 東京専門学校(現・早稲田大学)を創設。官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注いだ。また、日本における女子高等教育の開拓者の1人であり、成瀬仁蔵と共に日本女子大学の創設に関わったほか、長崎の私塾でチャニング・ウィリアムズに師事して英学を学び、外交的素養を培った旧誼から、立教大学の発展を深く支援した。
谷 干城(たに たてき/たに かんじょう、天保8年2月12日… 谷 干城(たに たてき/たに かんじょう、天保8年2月12日〈1837年3月18日〉- 明治44年〈1911年〉5月13日)は、日本の武士(土佐藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍中将。栄典は正二位勲一等子爵。 幕末は、土佐藩の勤皇派として、乾退助(板垣退助)の片腕を為し、薩摩藩・小松帯刀、西郷隆盛らと「薩土討幕の密約」を締結する。戊辰戦争に際し、軍事の才能、智略に秀で最前線で戦った武将。熊本鎮台司令長官であった西南戦争においては、熊本城攻防戦の官軍指揮者として手腕を発揮し、更に武名を挙げた。第2代学習院院長。東京学士会院会員。 天保8年2月12日(1837年3月18日)、土佐藩に仕える儒学者・谷景井(萬七。
児島 惟謙(こじま これかた / こじま いけん、天保8年2… 児島 惟謙(こじま これかた / こじま いけん、天保8年2月1日〈1837年3月7日〉- 1908年〈明治41年〉7月1日)は、日本の裁判官・政治家。 後述する大津事件の際には、大審院長として司法権の政治部門からの独立を守り抜き、「護法の神様」などと高く評価された。後に貴族院議員、衆議院議員、錦鶏間祗候。 幼名は雅次郎、長じて五郎兵衛、あるいは謙蔵とも称した。「児島惟謙」は後述する脱藩を機に用い始めた仮の名で、児島はこれを終生用いた。名前は「これかた」「いけん」以外にも、「これかね」などとも呼ばれる。号は天赦、字は有終。 天保8年(1837年)に伊予国宇和島城下で宇和島藩士の金子惟彬(豊後佐伯氏の末)の次男として出生したが、幼くして生母と生別したり、里子に出されたり、父方の親戚が営む造酒屋で奉公したりと、安楽とはいえない幼少期を送った。
有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保… 有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保6年2月19日〈1835年3月17日〉- 明治28年〈1895年〉1月15日)は、江戸時代後期・明治時代の日本の皇族、政治家、軍人。雅号は初め泰山、後に霞堂。階級勲等功級は陸軍大将大勲位功二級。世襲親王家の有栖川宮第9代当主。 有栖川宮幟仁親王(霊元天皇玄孫)の第一王子で、幼名は歓宮(よしのみや)。生母は家女房の佐伯祐子。官職は任命順に、大宰帥、国事御用掛、政府総裁、明治政府総裁、東征大総督、兵部卿、福岡藩知事(後に県知事、県令)、元老院議官(後に議長)、鹿児島県逆徒征討総督、左大臣、陸軍参謀本部長、参謀総長、神宮祭主。 和宮親子内親王と婚約していたことで知られるが、徳川幕府の権力失墜に伴い、公武合体を余儀なくされた幕府が公武合体を国内外に誇示するための実績として和宮は降嫁し、徳川将軍第14代徳川家茂と結婚した。
天野 三郎(あまの さぶろう、1835年3月13日(天保6年… 天野 三郎(あまの さぶろう、1835年3月13日(天保6年2月15日)- 1930年(昭和5年)11月6日)は、幕末の加賀藩士、明治期の官僚、政治家。衆議院議員。旧姓・辻、字・参好山。 加賀国河北郡金沢(現石川県金沢市)で、加賀藩士の辻家に生まれる。藩校で学ぶ。藩学、小松修道館の文学助教となり、武芸の研鑽にも取り組んだ。明治3年2月(1870年3月)藩命により東京で仏式兵学を学び、明治4年(1971年)東京警備中の藩兵の指導を行う。その後、大阪兵学寮で学んだが病のため退学し、大阪府で洋学を修業した。 1873年、埼玉県に来県し、1874年、足立郡辻村(のち北足立郡六辻村、現さいたま市南区辻)の天野彦吉の養子となる。
足立 長重(あだち ながしげ、1835年3月11日〈天保6年… 足立 長重(あだち ながしげ、1835年3月11日〈天保6年2月13日〉 - 1913年〈大正2年〉10月15日)は、日本の政治家。鳥取県西伯郡外江村長(第4代)。 現在の鳥取県境港市出身。足立家の家長である。家業は醤油屋で、家号は川足立。1899年4月から1902年4月まで外江村長をつとめた。また小十一区東外江村中総代や外江村会議員をつとめた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3… 江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代後期の武士(佐賀藩士・権大参事)、明治時代の政治家、官吏、教育者。幼名は恒太郎、又蔵。諱は胤雄、胤風とも、号は南白または白南。朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら の たねお)。位階は贈正四位。 東征大総督府軍監、徴士、制度取調専務、左院副議長(初代)、文部大輔(初代)、司法卿(初代)、参議を歴任したが、明治六年政変で下野。佐賀の乱の首謀者として処刑された。 立法・行政・司法がそれぞれ独立する「三権分立」を推進し、日本近代司法体制の生みの親として「近代日本司法制度の父」と称される。
巖谷 一六(いわや いちろく、天保5年2月8日〈1834年3… 巖谷 一六(いわや いちろく、天保5年2月8日〈1834年3月17日〉 - 1905年〈明治38年〉7月12日)は、近江国(滋賀県)出身の書家、官僚、漢詩人。本名は修(しゅう)(幼名は辨治、ついで迂也)、字は誠卿。特に書家として名高く、一六(一六居士)はその号で、別号に迂堂・古梅・金粟道人などがある。日本近代児童文学の創始者と評される巖谷小波はその三男。 天保5年(1834年)、近江国甲賀郡水口(現在の滋賀県甲賀市)に生まれる。巌谷家は代々水口藩加藤家の侍医で、姓は正しくは「巖谷」と記す。ただしもとは「岩谷」で一六の時に字を改めたものである。 父玄通が天保10年(1839年)一六が6歳の時に亡くなり、家督を嗣ぐも幼少のため、しばらくして母利子とともに京都に赴き、同地で医術を三角棣園に、漢籍を皆川西園・家里松嶹に、書を安見氏に学んだ。
稲田 又左衛門(稻田 又左衞門、いなだ またざえもん、183… 稲田 又左衛門(稻田 又左衞門、いなだ またざえもん、1834年3月1日(天保5年1月21日)- 1910年(明治43年)3月3日)は、幕末の大村藩家老、明治期の政治家・銀行家。衆議院議員、長崎区長。諱・凞孚。通称・才八郎、東馬、又左衛門。 肥前国彼杵郡大村(現長崎県大村市)で、大村藩士の家に生まれ、19歳で同藩士・稲田中衛の養子となる。藩校五教館で学んだ。1854年(安政元年)中小姓に任じられた。以後、諸稽頭取、近習番頭、御用人、長崎御用懸、家老兼烈山隊参謀、吾往隊大隊長、大村藩権大参事などを歴任。藩主大村純熈を補佐した。 廃藩置県後、西彼杵郡大串村に転居した。第二中学大区取締、第十一大区区長、兼第十三大区区長を歴任。
海江田 信義(かいえだ のぶよし、1832年3月13日〈天保… 海江田 信義(かいえだ のぶよし、1832年3月13日〈天保3年2月11日〉 - 1906年〈明治39年〉10月27日)は、日本の政治家、官僚。通称は武次(たけじ)。幕末期は有村俊斎の名で活動した。雅号は黙声、静山、孤松。 天保3年(1832年)、薩摩藩士・有村仁左衛門の長男として高麗町に生まれた。幼名は太郎熊。11歳の時、島津斉興の茶頭に出仕して茶坊主となり、俊斎と称した。 はじめ東郷実明に示現流剣術を学び、次いで薬丸兼義に薬丸自顕流剣術を学んだ。薬丸自顕流の伝承では道場破りに来たものの大山綱良に敗れて入門したとなっているが、俊斎は当時わずか15歳であり、史実かどうかは不明。 嘉永2年(1849年)、薩摩藩の内紛(お由羅騒動)に巻き込まれた有村父子は一時藩を追われ家は貧困の極みに陥るが、嘉永4年(1851年)、新藩主・島津斉彬によって藩に復帰、このとき俊斉は西郷吉之助(のち西郷隆盛)、大久保正助(のち大久保利通)、伊地知龍右衛門(のち伊地知正治)、税所喜三左衛門(のち税所篤)、吉井仁左衛門(のち吉井友実)長沼嘉兵衛(早世)らと『近思録』を輪読する会、いわゆる「精忠組」を結成、幕政改革や日本の近代化を考えるようになった。
柴原 和(しばはら やわら、天保3年2月7日(1832年3月… 柴原 和(しばはら やわら、天保3年2月7日(1832年3月9日)- 明治38年(1905年)11月29日)は、幕末期播磨国龍野藩出身の志士。明治維新後は新政府に出仕して、初代の千葉県令や貴族院勅選議員などを務める。字は士節。幼名は宗吉、後に順治。雅号は靖盧・此木山。養子(甥)に翻訳家・弁護士の柴原亀二がいる。大槻磐渓、安井息軒、梁川星巌などに学ぶ。 龍野藩の下級武士柴原左五七の三男(6人兄弟)として生まれる。幼い頃に同藩士の梅原松之助の養子となるが、少壮気鋭の性格が養父の機嫌を損ねて離縁された。しかし、藩首脳はその才能を評価し、遊学を許されて江戸で大槻磐渓・安井息軒、京都で梁川星巌、大坂で落合雙石・後藤松陰、大和国で森田節斎に学んだ。
津田 出(つだ いずる、天保3年2月1日(1832年3月3日… 津田 出(つだ いずる、天保3年2月1日(1832年3月3日) - 明治38年(1905年)6月2日)は、幕末期から明治前期にかけて活躍した武士・官僚、陸軍軍人。官位は錦鶏間祗候陸軍少将従二位勲一等。通称は又太郎。号は芝山。 弟は初代和歌山県知事の正臣。 紀州藩士(300石)の津田信徳(三郎右衛門)の長男として現在の和歌山県和歌山市に生まれる。津田家は河内国交野郡津田城主楠木正儀の後裔であり、戦国期に紀州に移り、藩祖入国以前からの住人として、代々紀州藩に仕えていた。山林を多数所有する豪家でもあった。 蘭学・徂徠学を学び、藩の小姓業奥右筆組頭を勤めたが、幕末の藩内抗争に関係して幽閉される。 明治維新後に藩主徳川茂承より小姓頭・井田民男を介して和歌山藩大参事へと大抜擢される。
竹内 吟秋(たけのうち ぎんしゅう、天保2年2月5日(183… 竹内 吟秋(たけのうち ぎんしゅう、天保2年2月5日(1831年3月18日) - 1913年(大正2年)11月2日)は明治時代の陶芸家。通称は直輔、源三郎、諱は知雅、別号は節翁。青年期は武芸に励み、加賀大聖寺藩、石川県に出仕した後、九谷焼作陶に転じ、維新舎主、九谷陶器会社支配人、江沼郡九谷陶器同盟組合頭取、石川県工業学校陶磁科教諭を歴任した。弟浅井一毫も陶芸家。 天保2年(1831年)2月5日大聖寺藩士浅井長右衛門の長男として生まれた。天保9年(1838年)室田某に習字、天保10年(1839年)菅生石部神社大江某に読書を学んだ。 弘化2年(1845年)堀文錦、小島春晁に絵画、弘化3年(1846年)山田十助に真之神道流柔術、七尾篤忠に直心影流剣術を学び、師の没後田中有常に皆伝を受けた。
尾崎 忠治(おざき ただはる、天保2年2月2日(1831年3… 尾崎 忠治(おざき ただはる、天保2年2月2日(1831年3月15日) - 1905年(明治38年)10月16日)は、日本の武士、政治家。正二位勲一等男爵。 土佐国土佐郡高知城下(現高知県高知市)で土佐藩士・尾崎源之丞の次男として生まれ、奥宮慥斎に学ぶ。 維新後の明治3年(1870年)12月、刑部大解部に就任。翌年7月に刑部省が司法省と名を変え、司法大解部、同年10月に司法少判事、同8年(1875年)5月に長崎上等裁判所長心得、同17年(1884年)12月に東京控訴院長、同19年(1886年)8月には大審院長などの司法ポストを歴任した。同23年(1890年)8月に枢密顧問官。同33年(1900年)5月、男爵を授爵。
林遠里(はやし えんり、1831年3月8日(天保2年1月24… 林遠里(はやし えんり、1831年3月8日(天保2年1月24日(旧暦)) - 1906年(明治39年)1月30日)は、福岡県生まれの老農(篤農家)・農業技術指導者。私塾・興産社・勧農社の創始者としても知られる。
米倉 一平(よねくら いっぺい、1831年2月21日(天保2… 米倉 一平(よねくら いっぺい、1831年2月21日(天保2年1月9日) - 1904年(明治37年)6月1日)は、幕末の勤皇論者。明治時代の米穀商、実業家。 1831年(天保2年)正月9日、豊後国日田郡陣屋廻村(現在の大分県日田市)の農家米倉市右衛門の9男として生まれる。幼名は永一。幼少より優秀であったと言う。1842年11歳で父を失い、11月日田豆田町の商家草野忠右衛門家で奉公する。23歳となる1854年まで12年にわたり同家の奉公を続け、商業の知識を得た。暇を乞い実家に戻り、朝から晩まで行商を行い、独立する機会を窺った。 長州征伐の際、西国郡代の窪田鎮勝が幕府軍を助けるために小倉に出張すると、米倉は命を受けて小倉に向かい兵糧炊き出しを掌った。
広沢 安任(ひろさわ やすとう、文政13年2月2日(1830… 広沢 安任(ひろさわ やすとう、文政13年2月2日(1830年2月24日) - 明治24年(1891年)2月5日)は、江戸時代後期(幕末)から明治期の武士(会津藩藩士)、牧場主である。通称富次郎(とみじろう)。 広沢庄助の次男。文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保は京都守護職に任ぜられ、安任は先んじて上京し京都の情勢を探った。容保上京後は公用方に任ぜられ、公卿、諸藩士、新選組などと交流を持った。鳥羽・伏見の戦いの後、江戸そして会津に戻った容保らの立場を新政府に嘆願するため、江戸に残ったが新政府軍に投獄された。明治2年(1869年)に釈放されているが、これは親交のあった英国外交官アーネスト・サトウの進言があったと言われている。