吉川 清一(よしかわ せいいち、1902年10月20日 - … 吉川 清一(よしかわ せいいち、1902年10月20日 - 1990年9月20日)は日本の実業家。清水建設元社長。長野県松本市生まれ。
長野県 松本市:248人
吉川 清一(よしかわ せいいち、1902年10月20日 - … 吉川 清一(よしかわ せいいち、1902年10月20日 - 1990年9月20日)は日本の実業家。清水建設元社長。長野県松本市生まれ。
胡桃沢 源人(くるみさわ げんじん、1902年(明治35年)… 胡桃沢 源人(くるみさわ げんじん、1902年(明治35年)8月6日 - 1992年(平成4年)3月23日)は、日本の洋画家である。本名は源市。 長野県松本市の生まれ。矢野橋村が設立した大阪美術学校に入学し、在学中の1928年(昭和3年)に自身の作品が帝展に初入選される。1929年(昭和4年)に卒業後は、斎藤与里の門人となった。1935年(昭和10年)には東光会の会員となり、1941年(昭和16年)及び翌1942年(昭和17年)には2年連続で新文展に出品され特選となる。 その後は大阪美術学校の後輩だった日本画家の融紅鸞と結婚し、1964年(昭和39年)には浪速芸術大学(現在の大阪芸術大学)の教授となり、会員だった東光会の理事長や大阪市立美術研究所の講師も務めた。
栗原 美能留(くりはら みのる、1902年(明治35年)7月… 栗原 美能留(くりはら みのる、1902年(明治35年)7月31日 - 1997年(平成9年)4月24日)は、日本の内務官僚。官選高知県知事。
和合 恒男(わごう つねお、1901年(明治34年)5月10… 和合 恒男(わごう つねお、1901年(明治34年)5月10日 - 1941年(昭和16年)5月16日)は、日本の農本主義者で、長野県東筑摩郡波多村(現松本市)に農本主義に基づく学校をつくった。
岡 正雄(おか まさお、1898年(明治31年)6月5日 -… 岡 正雄(おか まさお、1898年(明治31年)6月5日 - 1982年(昭和57年)12月5日)は、日本の民族学者。戦中戦後を通じて日本の民族学・文化人類学を主導した。兄は民族学や考古学、山岳書の名著を多数出版した岡書院店主の岡茂雄。息子に文化人類学者の岡千曲。
橋爪 檳榔子(はしづめ びんろうじ、1897年8月17日 -… 橋爪 檳榔子(はしづめ びんろうじ、1897年8月17日 - 1963年11月8日)は、日本の医師、薬学者、日本における医療評論家の先駆者とされる。本名は恵(めぐみ)。男性。 長野県松本市出身。弟に橋爪健、橋爪克巳(1903-1983)がいる。1922年東京帝国大学医学部薬学科卒、1927年千葉医科大学卒。三共製薬社員、別府化学薬品代表、日本薬学会編集主任。川端康成の友人。
宮坂 勝(みやさか まさる、1895年1月1日 - 1953… 宮坂 勝(みやさか まさる、1895年1月1日 - 1953年4月10日)は、明治から昭和にかけての洋画家。
岡 茂雄(おか しげお、1894年(明治27年)7月27日 … 岡 茂雄(おか しげお、1894年(明治27年)7月27日 - 1989年(平成元年)9月21日)は、日本の編集者、書店主、陸軍軍人。大正から昭和初頭の日本に於いて、民族・民俗学や考古学専門の書店「岡書院」、山岳書専門の「梓書房」を創業、経営。民族学・考古学から山岳・自然関係の名著を、短期間ながら多数出版した。 学術史上の名著となる多くの書籍、雑誌を世に送り出した。南方熊楠を最初に見出し、鳥居龍蔵や新村出の著作を出版するなど、岩波書店と並ぶ良心的な出版人として知られた。 長野県東筑摩郡松本町(現・松本市)生まれ。陸軍中央幼年学校から陸軍士官学校(28期)を経て1916年(大正5年)12月26日に歩兵第60連隊附の歩兵少尉となった。
青木 誠四郎(あおき せいしろう、1894年3月15日-19… 青木 誠四郎(あおき せいしろう、1894年3月15日-1956年12月9日)は、日本の児童・教育心理学者。
川井 清一郎(かわい せいいちろう、1894年3月6日 - … 川井 清一郎(かわい せいいちろう、1894年3月6日 - 1930年5月17日)は、日本の教育者。大正自由教育運動への弾圧事件である川井訓導事件の当事者として知られる。 長野県東筑摩郡松本町(現・松本市)生まれ。父は旧松本藩士であったが幼い頃に亡くなり、小学校准教員であった母のもとで育つ。長野県師範学校を卒業し、小学校勤務を経た後、広島高等師範学校学校教育学科に学び、1920年に松本女子師範附属小学校の訓導となる。1924年9月5日、いわゆる川井訓導事件により休職を命じられ、退職願により退職。その後、旧制中学校教師の資格を取るため広島高等師範学校研究科で再度学び、広島県内の女学校の教頭などを務める。
吉沢 清次郎(よしざわ せいじろう、1893年2月6日 - … 吉沢 清次郎(よしざわ せいじろう、1893年2月6日 - 1978年4月2日)は、日本の外交官。
細見 惟雄(ほそみ これお、1892年(明治25年)4月9日… 細見 惟雄(ほそみ これお、1892年(明治25年)4月9日 - 1963年(昭和38年)8月10日)は、日本陸軍の軍人。陸士25期。最終階級は陸軍中将。
竹内 良三郎(たけうち りょうざぶろう、1891年(明治24… 竹内 良三郎(たけうち りょうざぶろう、1891年(明治24年)11月24日 - 1984年(昭和59年)11月1日)は、松商学園短期大学第3代学長。 法学者、経済学者として長く大学教員の職にあったが、「学究というよりは行政官として活躍」したと評されている。 長野県松本市生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、第四高等学校を経て、東京帝国大学法科大学政治学科に進み、1917年に卒業、宝田石油に入社し、1919年に日本製粉に転職した。 1920年に第五高等学校教授となり、教員として法制・経済を講じるとともに、生徒監兼舎監となった。当時は、校友会誌『龍南』に小説などを寄稿したこともあった。 1927年に東京帝国大学農学部助教授となり、1928年には学生主事、1929年の学生課新設に際して初代の学生課長となって、滝川事件前後の左翼学生の処分などに対処した。
鈴木 雅次(すずき まさつぐ、1889年3月6日 - 198… 鈴木 雅次(すずき まさつぐ、1889年3月6日 - 1987年5月28日)は、日本の土木工学者、内務官僚。元日本大学教授。土木工学・港湾工学の研究に業績を上げる。1927年工学博士(九州帝国大学)。 長野県松本市生まれ。1908年旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)卒業、1911年第八高等学校卒業、1914年九州帝国大学土木工学科卒業。1914年内務省に入り、鉄道技師、土木局技術課長、内務技監を務める。 1930年日本大学旧工学部教授、1944年土木学会会長。1945年内務省を退官し、日本発送電の技術顧問となる。1947年から東京大学講師を兼任、1952年日本大学国土総合開発研究所長。1964年港湾審議会長、チリ津波対策審議会長、1968年日本港湾協会長などを歴任。
草間 良男(くさま よしお、1888年4月3日 - 1968… 草間 良男(くさま よしお、1888年4月3日 - 1968年2月18日)は、日本の医学者。 長野県松本市に生まれる。1905年に渡米、1916年スタンフォード大学理学部、1920年同医学部を卒業し帰国。その間シカゴ大学で生理学、病理学を研究する。1921年慶應義塾大学衛生学教室に入り、1927年に助教授に就任。再渡米し、ロックフェラー財団奨学生としてジョンズ・ホプキンズ大学公衆衛生学課程修了。1929年に帰国し、1930年慶應義塾大学教授に就任。第二次世界大戦後GHQに協力して、インターン制度の導入等、医療制度・医学教育の改革に尽力した。1940年慶應義塾大学医学部予防歯科学研究所所長、1955年から1959年まで同大医学部長に就任。
清水光美(しみず みつみ、1888年(明治21年)3月16日… 清水光美(しみず みつみ、1888年(明治21年)3月16日 - 1971年(昭和46年)5月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
増田 正宗(ますだ せいそう、1885年 - 1966年)は… 増田 正宗(ますだ せいそう、1885年 - 1966年)は、明治から昭和にかけての日本画家、本名は久太郎。実業家の増田通二の父。
小池 九一(こいけ きゅういち、明治11年(1878年1月2… 小池 九一(こいけ きゅういち、明治11年(1878年1月24日) - 昭和30年(1955年)12月5日)は、明治から昭和時代の社会事業家。大正7年(1918年11月30日)私立感化教育機関札幌報恩学園創立。少年教護と障害児救済につくした。 長野県筑摩郡松本(現松本市)の商家の長男として生まれる。小学に入学後すぐに、父が米相場に手を出し家が破産。その後間もなく母と父も亡くなり10歳の時より紙問屋に年期丁稚奉公に入る。この時より慈善貯金を始め公共慈善の為に70回以上も支出した。23歳の時13年奉公した奉公先を辞め、1900年(明治33年)に小池家再興のため新天地、北海道函館区の地を踏む。同年空知支庁長・山田有斌が身元引受人となり空知支庁に採用される。
一條 成美(いちじょう せいび/なるみ、男性、1877年9月… 一條 成美(いちじょう せいび/なるみ、男性、1877年9月25日 - 1911年3月16日)は、明治時代の日本の画家。
堀江 久勝(ほりえ ひさかつ、1877年(明治10年)1月 … 堀江 久勝(ほりえ ひさかつ、1877年(明治10年)1月 - 没年不明)は、広島高等学校教授。族籍は長野県士族。 長野県士族・堀江久次の二男。松本市生まれ。1927年、家督を相続。1904年、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。茨城県立太田中学校教諭、秋田鉱山専門学校教授同生徒監、山形高等学校教授等を歴任。 1922年、倫理及び教育研究のため独英に留学し、1924年、広島高等学校教授に任ぜられ1932年、退官する。趣味は文学、絵画、園芸。宗教は仏教。住所は広島市白島九軒町、東京市世田谷区玉川等々力町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
河原 操子(かわはら みさおこ、1875年6月6日 - 19… 河原 操子(かわはら みさおこ、1875年6月6日 - 1945年3月7日)は、日本の女子教育者。婚氏は一宮。日本人女性として初めて中国の女子教育に携った先駆者と評される一方、日露戦争時の対露特別任務隊を支援したことからスパイとも評される。 筑摩県筑摩郡松本北深志町(現・長野県松本市)に旧松本藩士・河原忠の長女として生まれる。長野県師範学校女子部を卒業後、2年間附属小学校の教員として勤める。1895年東京女子高等師範学校に入学するも、翌年肋膜炎により中退する。1899年、長野高等女学校(現 長野西高等学校)に奉職する。1990年長野に来た下田歌子を訪ねたのをきっかけに、下田の推薦で、横浜で中国人が経営していた在日清国人教育機関「大同学校」の教師となる。
川島 浪速(かわしま なにわ、慶応元年12月7日(1866年… 川島 浪速(かわしま なにわ、慶応元年12月7日(1866年1月23日) - 昭和24年(1949年)6月14日)は、日本の大陸浪人。満蒙独立運動の先駆者として知られる。 信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩士川島良顕と、その妻・栄子の長男として生まれる。出生時には父親が長州征討のため大坂に出陣中であったため、「浪速」と命名された。明治8年(1875年)に一家で東京に移住。その後、東京外国語学校に入学し中国語を学ぶ。明治19年(1886年)に同校を退学、同年に上海に渡航し、中国各地を見聞する。明治22年(1889年)、病を得て帰国。 明治27年(1894年)、日清戦争が勃発すると、陸軍通訳官として従軍、中国大陸から台湾に転戦する。
河野 齢蔵(こうの れいぞう、元治2年2月8日(1865年3… 河野 齢蔵(こうの れいぞう、元治2年2月8日(1865年3月5日) - 昭和14年(1939年)4月3日)は高山植物学の権威、教育家、山岳写真家の草分け。河野常吉は実兄、著述家の河野義行は孫娘の夫にあたる。 信濃国安曇郡犬飼新田村(現長野県松本市島内)に庄屋を務めた河野通重の四男として生まれる。1889年長野師範学校卒業。上水内学校訓導を命ぜられ、1890年に大町小学校長となる。 1897年長野師範教諭、同年長野高等女学校教諭、1902年下伊那高等女学校教諭などを経て、1906年長野県諏訪高等女学校、長野県松本女子師範学校などの教頭、1913年上伊那農学校校長、1916年長野高等女学校校長、1922年諏訪高等女学校校長などを歴任した。
河野 常吉(こうの つねきち、1863年1月11日(文久2年… 河野 常吉(こうの つねきち、1863年1月11日(文久2年11月22日) - 1930年(昭和5年)9月3日)は、明治大正期の北海道史研究者。河野齢蔵は実弟、アイヌ研究者として名高い河野広道は子、また二女の道子は動物学者犬飼哲夫に嫁ぎ、河野本道は孫に当たる。 信濃国安曇郡犬飼新田村(現・長野県松本市)に河野通重の次男として生まれる。長野県師範学校松本支校を卒業後、1881年に上京し慶應義塾(現・慶應義塾大学)で2年間学んだ後、秋田県の小真木鉱山の分析主任となる。 郷里へもどって養蚕業に従事、『信陽日報』客員として活動、またこのころ自由民権運動にも関係していたといわれる。その後、長野県庁や東京中央気象台に勤務、この間の学歴・職歴のなかで、人文・自然科学の広範な教養を身につけている。
赤羽 萬次郎(あかばね まんじろう、1861年 - 1898… 赤羽 萬次郎(あかばね まんじろう、1861年 - 1898年)は、日本の新聞記者・自由民権派ジャーナリスト。北國新聞社初代社長・主筆。雅号は「痩鶴(そうかく)」。 1861年、信濃国松本にて、商家の次男として誕生。 18歳の時に地元の自由民権運動の政治結社「奨匡社」の設立に加わり、新聞・雑誌に政論を発表する。 1881年に上京、日本最初の日刊新聞である「東京横浜毎日新聞」の記者となる。社主が主催する演説団体「嚶鳴社」同人として各地を遊説。大隈重信の立憲改進党にも参加した。 1886年、金沢の改進党系の新聞「北陸新報」に主筆として招かれるも、5年後に社長が自由党系に身売りしたことに反発し退社。 1893年8月5日に「北國新聞社」を興し自ら社長・主筆となる。
西郷 吉義(さいごう よしみち、1855年12月15日(安政… 西郷 吉義(さいごう よしみち、1855年12月15日(安政2年11月7日) - 1927年(昭和2年)9月3日)は、明治期から大正期の医師、医学博士、陸軍軍医学校長、宮内省侍医・宮中顧問官を歴任する。正三位勲一等功四級。 信濃国松本城下に松本藩士・西郷眞諒の次男として生まれ幼名を早苗と称し、後に叔父の西郷元善の養子となる。祖先は松平康長に仕えた三河西郷氏。1882年(明治15年)東京大学医学部を卒業し、同期には青山胤通・猪子止戈之助・田代正等がいる。 卒業後、医学部准助教授(内科学)となった後、日本陸軍軍医となり陸軍一等軍医に任官し軍医学校教官(内科学担当)となった。1896年(明治29年)12月16日『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』編纂委員に任命され、また陸軍衛生会議議員に選ばれた。
小里 頼永(おり よりなが、安政2年5月1日(1855年6月… 小里 頼永(おり よりなが、安政2年5月1日(1855年6月14日) - 昭和16年(1941年)7月3日)は、長野県松本市出身の政治家。衆議院議員(自由党)、北海道空知支庁長、初代松本市長。号は雪洲、市隠。 松本藩士小里新五兵衛頼命の長男として江戸呉服橋の松本藩邸(松平丹波守の上屋敷。現在跡地は東京駅構内)で生まれる。9歳の時に松本に帰り、藩校崇教館で漢学を学んだ。廃藩置県後は開智学校英学課に学び、1875年(明治8年)8月30日、筑摩県師範学校を卒業。卒業後は筑摩県、のちに山梨県で訓導(小学校教員)を務めた。1878年(明治11年)3月27日、教職を辞する。自由民権運動が盛んになると、1879年(明治12年)に「要新聞」を発刊して自由民権を説いた。
上條 謹一郎(かみじょう きんいちろう、安政元年11月28日… 上條 謹一郎(かみじょう きんいちろう、安政元年11月28日(1855年1月16日) - 明治43年(1910年)9月19日)は、日本の政治家。 信濃国筑摩郡南新村(現長野県松本市)に、代々松本藩主戸田氏の御殿医(眼科)を務めた庄屋の長男として生まれ、漢学を武居用拙に学んだ。1875年上京して小石川同人社や学農社で英語や農学を修め、1879年帰郷した。 1889年町村制施行により東筑摩郡新村の初代村長となる。その後は郡会議員、長野県会議員を経て、1898年第5回衆議院議員総選挙に初当選、衆議院議員(立憲政友会)を2期務めた。 1899年には信濃民報社創設に尽力し、新村銀行を創設。1907年長野農工銀行取締役に就任した。
金井 清志(かない きよし、1852年9月12日〈嘉永5年7… 金井 清志(かない きよし、1852年9月12日〈嘉永5年7月29日〉 - 1933年〈昭和8年〉4月18日)は日本の政治家、実業家。位階は正七位。 信濃国安曇郡杏村(現長野県松本市)出身。金井磯衛の長男。1873年(明治6年)に梓村の副戸長に任命される。1880年(明治13年)4月、長野県会議員に南安曇郡選挙区の補欠として当選した。1882年(明治15年)12月から1884年(明治17年)1月まで第4代同県会副議長を務めた。その後、県内道路7路線を選定し開削工事を起工した。1883年(明治16年)下伊那郡長となり、翌1884年(明治17年)には激化事件の飯田事件が起きたが、暴発を未然に防いだ。
井上 信八(いのうえ しんぱち、1852年3月17日〈嘉永5… 井上 信八(いのうえ しんぱち、1852年3月17日〈嘉永5年2月21日〉 - 1922年〈大正11年〉7月9日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 信濃国筑摩郡笹賀村(のち東筑摩郡笹賀村、現・長野県松本市)出身。材木商を営み、町会議員、所得税調査委員、学務委員、高等小学校組合会議員等を務める。また、野口(合)業務担当社員、愛知農工銀行、熱田銀行、愛知燐寸各(株)取締役、愛知木材、中央煉瓦各(株)専務取締役、(株)鉄道車輪製造所取締役となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において愛知2区から無所属で立候補したが落選する。8月の第6回衆議院議員総選挙では日吉倶楽部から立候補して当選する。
浅井 洌(あさい れつ / きよし、嘉永2年10月10日(1… 浅井 洌(あさい れつ / きよし、嘉永2年10月10日(1849年11月24日) - 昭和13年(1938年)2月27日)は幕末期日本の武士(松本藩士)、明治から昭和初期にかけての教育者。若い時代には自由民権運動家としての活動があった。また、現在でも長野県で広く歌われている県歌「信濃の国」の作詞者として知られる。 旧制中学教員などをへて、1886年(明治19年)長野師範学校教諭となる。1899年(明治32年)『信濃教育会雑誌』に「信濃の国」を発表、北村季晴の作曲により県下で広く歌われるようになる。1918年(大正7年)に70歳で退職するまで長野師範教諭を務め、さらに嘱託として1926年(大正15年)6月まで40年間にわたって師範教育に尽くした。
市川 量造(いちかわ りょうぞう、1845年1月15日(弘化… 市川 量造(いちかわ りょうぞう、1845年1月15日(弘化元年12月8日) - 1908年(明治41年)2月15日)は、元長野県会議員、元信飛新聞社社長、啓蒙家。松本城が競売にかけられ落札されたが、買い戻した人物として知られる。幼名は泰之助。 信濃国筑摩郡松本城下の下横田町の名主の家に生まれ、明治維新後は南佐久郡郡長、戸長を務めた。幕末に江戸で学問を修めた後、松本に戻り『信飛新聞』を発行した(同紙は長野県初の日刊新聞)。 1872年(明治5年)、松本城が大蔵省によって競売にかけられ、天守閣が235両、付合物を合わせて計309両で落札された。落札者は天守閣を取り壊そうとしたが、量造は「城がなくなれば松本は骨抜きになる」と紙面で訴え、先祖伝来の蔵書を売るなどして金を工面し始める。
小松 彰(こまつ あきら、1842年4月19日(天保13年3… 小松 彰(こまつ あきら、1842年4月19日(天保13年3月9日) - 1888年(明治21年)3月25日)は明治時代の日本の実業家、官僚。旧松本藩士。通称・彰太郎、左右輔。号は雪巌。 久美浜県権知事兼生野県権知事、豊岡県令、東京株式取引所頭取を歴任した。 天保13年3月9日(1842年4月19日)、信濃国筑摩郡松本城下に松本藩医小松維貫(通称・齢司、坪井信道門弟)の子として生まれる。幼名は金八。藩学崇教館に学んだのち、安政5年(1858年)から藩命で江戸に遊学。塩谷宕陰の教えを受け、文久元年(1861年)には陽明学を学ぶため古賀謹堂に入門したが、父・維貫が江戸に赴任した文久2年(1862年)、家事を掌るべく帰藩した。
窪田 畔夫(くぼた くろお、1838年12月5日(天保9年1… 窪田 畔夫(くぼた くろお、1838年12月5日(天保9年10月19日) - 1921年(大正10年)4月30日)は、長野県の政治家。本名は窪田重国、号は松門であった。 信濃国筑摩郡和田町村(天領、現在の松本市和田)に生まれ、青年期から寺子屋を開いて教育に従事した 1872年に開智学校の前身となった筑摩県学の開設を進め、また、市川量造らとともに、松本を拠点とした『信飛新聞』の創刊に参加した。以降、同紙や、1876年に改題した『松本新聞』の紙面で、自由民権運動の論陣を張った。 1879年には、北安曇郡の初代郡長となり、在任中の1883年には渡辺敏らとともに白馬岳に初登頂した。 1888年に長野県会議員、1892年には帝国議会衆議院議員となった。
岡村 宣温(おかむら のぶあつ、1835年 – 明治45年(… 岡村 宣温(おかむら のぶあつ、1835年 – 明治45年(1912年)1月15日)は、明治時代の日本の大日本帝国陸軍官吏・軍人。陸軍主計として会計・監督畑を歩み、日清戦争に出征した。最終官等は陸軍二等監督(中佐相当官)、位階は従五位、勲等は勲三等である。 岡村は信濃国東筑摩郡松本南深志町(現長野県松本市)の士族の出身である。明治7年(1874年)頃、中山信吉・中村宗則・浅田恭郷らとともに陸軍軍吏に任じられ、正七位を叙せられた。 同年、陸軍大尉として佐賀の乱に出征している。明治8年(1875年)には司契副に転じ、仙台鎮台司契課長を兼ね、さらに工兵第二方面本署監督課会計官を務めた。 明治10年(1877年)には二等司契に昇進し従六位となり、その後二等副監督に転じた。
酒井 愛菜(さかい えな、 12月29日 - )は、信越放送… 酒井 愛菜(さかい えな、 12月29日 - )は、信越放送 (SBC) のアナウンサー。美人。 長野県松本市出身。2025年春に信越放送に入社し、中途入社の山崎航(元福井放送)とともに同局のアナウンサーになる。
神田 正宏(かんだ まさひろ)は日本の漫画家、キャラクターデ… 神田 正宏(かんだ まさひろ)は日本の漫画家、キャラクターデザイナー。男性。長野県松本市出身。日本大学文理学部物理学科卒業。
西原 比呂志(にしはら ひろし)は、日本の画家、イラストレー… 西原 比呂志(にしはら ひろし)は、日本の画家、イラストレーター。
井出 安軌(いで やすのり)は、日本のアニメーション脚本家・… 井出 安軌(いで やすのり)は、日本のアニメーション脚本家・演出家・監督。長野県松本市出身。 代表作は『おねがい☆』シリーズ監督。 サンライズ制作から、AIC(アニメインターナショナルカンパニー)に演出として移籍。文化放送のラジオドラマ、ツインビーPARADISEの脚本などで頭角を表す。フリーに転身後『おねがい☆』シリーズ監督を務め、人気を博する。自身が関わる作品に於いて楽曲の作詞活動を行う事があり、『花右京メイド隊』(第1期)のOP主題歌は電波ソングとして知られ、同シリーズが原作のブラックさを敢えて消したのは、短期シリーズであった事に加えて井出監督の意向もあったとされる。他にも声優の後藤邑子の1stアルバムの楽曲の作詞提供も行っている。
伊藤 魔鬼(いとう まき、11月9日 - )は、日本のアニメ… 伊藤 魔鬼(いとう まき、11月9日 - )は、日本のアニメ監督、演出家、声優。長野県・松本市出身。旧名義はピエール伊東(ピエールいとう)で、2021年9月20日より現名義に改名した。また、佐々木喜朗名義での活動もある。低予算アニメを中心に、監督・脚本・作画・音響演出などを手掛けるほか、小説・絵本の執筆、舞台活動、CM演出など幅広い分野で活動している。
宮田 隆太郎(みやた りゅうたろう、7月26日 - )は、日… 宮田 隆太郎(みやた りゅうたろう、7月26日 - )は、日本の会社役員。ラジオ沖縄の執行役員(総務部長)で、同局の元アナウンサー。 長野県松本市出身。沖縄国際大学卒業。 大学を卒業後、2002年4月[要出典]にラジオ沖縄に入社。同期の新垣りえとともに同局のアナウンサーになる。 2020年6月末[要出典]に全ての担当番組を降板してアナウンス職を離れ、総務部へ異動した。2020年10月19日の『ティーサージ・パラダイス』内ニュースコーナーで、ニュース担当の同社取締役小磯誠が総務部長である旨の発言をした[出典無効]。したがって[独自研究?]、同年7月1日付で同職に就任したとされる[誰によって?]。偶然にも、同日はラジオ沖縄の開局60周年記念日でもあった。
西原 洋知(にしはら ひろとも、生年不明)は、日本の材料工学… 西原 洋知(にしはら ひろとも、生年不明)は、日本の材料工学者。東北大学材料科学高等研究所、東北大学多元物質科学研究所教授。専門は炭素材料学。長野県松本市出身。株式会社3DC 代表取締役CTOwww.3dc.co.jp
本多まつ江(ほんだ まつえ、1889年(明治22年)12月2… 本多まつ江(ほんだ まつえ、1889年(明治22年)12月25日 - 1969年(昭和44年)4月26日。教師であり、僧侶夫人、司法保護司、教誨師。晩年『死刑囚の母』と呼ばれた。旧姓は赤羽。
元川 悦子(もとかわ えつこ)、1967年 - )はフリーの… 元川 悦子(もとかわ えつこ)、1967年 - )はフリーのサッカージャーナリスト。長野県松本市出身。
金井 一世(かない いよ)は、日本のフリーアナウンサーで、元… 金井 一世(かない いよ)は、日本のフリーアナウンサーで、元南海放送、福井テレビジョン放送の女性アナウンサー。 長野県松本市出身。血液型はB型。青山学院大学卒業後の2009年、南海放送にアナウンサーとして入社。テレビの報道番組やラジオの生番組を担当したが1年で退社。 2011年2月、NHK前橋放送局に契約キャスターとして入局し、退社。その後、2016年5月に福井テレビに入社、2019年に退社。フリーとしてアナウンサースクール講師、『NHKひるまえほっと』のキャスター兼リポーターを務めている。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。
青木 孝安(あおき たかやす)は、日本の社会教育実践者。都市… 青木 孝安(あおき たかやす)は、日本の社会教育実践者。都市部の子どもが親元を離れ、自然豊かな農山村で生活する山村留学の生みの親。長野県松本市出身。 長野師範学校(現:信州大教育学部)を卒業し、旧上伊那郡高遠町と東京都で小中学校の教員を務めた。 そこでの体験から子どもの成長過程における自然体験の大切さを感じ、1968年に保護者らと任意団体「育てる会」をつくり、1969年には八坂村で短期の山村キャンプを始め、1976年から1年単位の山村留学を全国に先駆けて始め、県内外に広まった。
いのの(鈴木しげる/inono)は、日本の男性漫画家、イラス… いのの(鈴木しげる/inono)は、日本の男性漫画家、イラストレーター。長野県松本市出身、埼玉県上尾市在住。ロリ顔でありながら肉感的な絵柄と、美麗なカラー絵が特徴である。1990年代には成人向け漫画雑誌で、2000年以降は主に同人誌で活動している。2007年以降は非成人向け(いわゆる一般向け)作品を中心に手がけると表明している。第1回アフタヌーン四季賞(1987年春のコンテスト)佳作、第3回アフタヌーン四季賞(1987年秋のコンテスト)準入選、第37回ちばてつや賞佳作、出だしで勝負!新人賞2015大賞。 この項目は、漫画家・漫画原作者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:漫画/PJ漫画家)。
三溝 謹平(さみぞ きんぺい、1864年10月16日(元治元… 三溝 謹平(さみぞ きんぺい、1864年10月16日(元治元年9月24日)- 1931年(昭和6年)は、明治から大正期にかけて活動した日本の林業技師。農商務省山林局の林業技師を経て、愛知県林業技師として林野の改良や治山事業に携わった。 1864年10月16日(元治元年9月24日)、信濃国筑摩郡和田村(現・長野県松本市和田)に三溝與曾八の三男として生まれた。1890年(明治23年)7月、 帝国大学農科大学林学科乙科を卒業し、同年9月には帝国大学農科大学林学科選科に進学。1892年(明治25年)、農商務省に入省し、大阪大林区署に勤務。1894年(明治27年)には京都府農林学校教師を務めた。1900年(明治33年)、愛知県初の林業技師に任命。