松岡 颯人(まつおか はやと、2005年4月14日 - )は… 松岡 颯人(まつおか はやと、2005年4月14日 - )は、大分県杵築市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・大分トリニータ所属。ポジションはミッドフィールダー。 大分トリニータU-18在籍中の2022年、昨年に続いて天皇杯限定でトップチームに登録された。6月1日、天皇杯2回戦のFC神楽しまね戦で途中出場しトップチームデビューを果たした。9月2日に改めて2種登録選手として出場選手登録されリーグ戦も出場可能となったが、その後の公式戦出場機会は無かった。 2023年9月22日、来季からのトップチーム昇格決定が発表された。 ※2021年 2種登録選手としての公式戦出場は無し(背番号55) この項目は、サッカー選手に関連した書きかけの項目です。
阿部 海大(あべ かいと、1999年9月18日 - )は、大… 阿部 海大(あべ かいと、1999年9月18日 - )は、大分県杵築市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・ファジアーノ岡山所属。ポジションはディフェンダー(センターバック)。 漁師の家に生まれ、ドラゴンボールの孫悟空に憧れて空手を習っていた。鹿児島城西高校に決まりかけていたが翻意して中学卒業後に東福岡高校に入学し、同校サッカー部に入部するが、グロインペイン症候群や骨折に苦しむ。鹿児島城西の生駒仁とマッチアップするなど、高校2年次の全国高校サッカー選手権大会ではチームのベスト8進出に貢献した。高校3年次の全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会でも2回戦で青森山田高校に敗れたが主力として活躍した。岡山スカウトの西原誉志の目にとまり、2017年10月、ファジアーノ岡山に加入内定した。
永野 将司(ながの しょうじ、1993年3月2日 - )は、… 永野 将司(ながの しょうじ、1993年3月2日 - )は、大分県速見郡山香町(現:杵築市)出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 山香町立山香小学校(現在の杵築市立山香小学校)2年時に山香少年野球クラブで軟式野球を始めると、山香町立山香中学校(現在の杵築市立山香中学校)では投手として軟式野球部に所属した。 大分県立日出暘谷高等学校(現在の大分県立日出総合高等学校)への進学後は、右翼手兼2番手投手としてプレー。「3番・右翼手」として出場した3年夏の選手権大分大会では、国東高校との初戦で、チーム唯一の安打を放った。投手としても2番手で登板すると、3回1/3を投げて無失点で凌いだもののチームは敗退し、甲子園球場での全国大会とは縁がなかった。
あべ 由紀子(あべ ゆきこ、1981年2月19日 - )は、… あべ 由紀子(あべ ゆきこ、1981年2月19日 - )は、日本のタレント、歌手である。大分県杵築市(旧速見郡山香町)出身、O型。 スカイコーポレーションに所属していた。 全校生徒19人、同級生1人という山間の小学校で育つ。17歳の時に宇佐市で行われたNHKのど自慢に出場、酒井法子の「鏡のドレス」を手話つきで歌い合格。このとき「鼻血出そう」と言い、いつも冷静なギターの岩谷弘明さんから笑みがこぼれた。スターダストプロモーション預かりとなり「あべ由紀子」の芸名でタレント活動を行う。ライブドア主催のオーディションに合格し、アイドルグループ「Kaori@livedoor PHOENIX」のメンバーYukkoとして活動。
安藤 正彦(あんどう まさひこ、1980年7月7日 - )は… 安藤 正彦(あんどう まさひこ、1980年7月7日 - )は、大分県杵築市出身の元プロバスケットボール選手である。ポジションはポイントガード。168cm、63kg。 2005年 IBLSalem Stampedeの練習生になる。チームにはAND1のプロフェッサーも所属していた。シーズン途中にPortland Chinooksに移籍し、アジア人初のプレーヤーになる。 2006年2年目となったシーズン、IBLのCorolado Crossoverでプレー。 2007年3年目はIBLの強豪Lasvegas Starsでプレー。 東京都でストリートボールチームE.D.Sを結成し、国内最高レベルのトーナメントALLDAYの過去最大100チームのトーナメントで優勝。
平石 洋介(ひらいし ようすけ、1980年4月23日 - )… 平石 洋介(ひらいし ようすけ、1980年4月23日 - )は、大分県杵築市出身の元プロ野球選手(外野手・内野手、左投左打)、プロ野球コーチ、野球解説者、野球評論家。 東北楽天ゴールデンイーグルスでプレーし、コーチを務めた後、球団史上初の生え抜き監督を2019年シーズンに務めた。その後福岡ソフトバンクホークスの一軍打撃コーチ,埼玉西武ライオンズのヘッド兼打撃戦略コーチを務めた。 杵築市立杵築小学校、八尾市立成法中学校卒業。小学校時代は「杵築臥牛少年野球クラブ」に入団。6年次に父親の知人から紹介されたボーイズリーグの強豪チーム「八尾フレンド」の入団テストに合格し、中学進学を期に大阪府八尾市へ移り住んだ。
大塚 健一郎(おおつか けんいちろう、1977年10月14日… 大塚 健一郎(おおつか けんいちろう、1977年10月14日 - )は、日本の元競輪選手。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第82期生。現役時代は日本競輪選手会大分支部所属、ホームバンクは別府競輪場。師匠は山田文俊(31期)。 大分県立日出暘谷高等学校在学中から自転車競技を行い、卒業後は競輪学校に第82期生として入学。同期には荒井崇博、兵藤一也らがいる。在校成績4位で卒業すると1999年4月11日に別府競輪場でデビューし、同日初勝利を挙げる。 以降は同県の先輩である小野俊之と共に大分の強豪としての名を上げていき、年に一度ほどGI・GIIの決勝に出走するほどの実力を発揮し続けた。 2002年に、GII共同通信社杯競輪の決勝進出し7着だった。
モリナオヤ(1973年2月22日 - )は、大分県出身のマル… モリナオヤ(1973年2月22日 - )は、大分県出身のマルチクリエイター、ミュージシャン、イラストレーター。株式会社 遊園地化計画 代表取締役。 幼少時は絵画・物語制作・歌などに没頭し、小学校の夏休みの課題では挿絵満載の小説を作るような少年であり、中学では文化祭で原作脚本の芝居を制作したり、休日は映画制作に没頭していた。高校では音楽制作も開始し、高校のデザイン科を卒業後に上京。 1997年にフリーランスアーティストとしてデビュー。同年に東京都の井の頭公園・表参道にて「七百屋」(アート露店)を出店し、メディアに取り上げられた。その後、露店で歌うオリジナルソングが注目されたことを機会に路上ライブを開始し、精力的に活動を拡大していった。
小原 正行(おはら まさゆき、1962年6月19日 - )は… 小原 正行(おはら まさゆき、1962年6月19日 - )は、日本の元プロ野球選手(投手)。 大分県立臼杵商業高等学校では、全国高等学校野球選手権に出場することができなかったが、地方大会でノーヒットノーランを記録するなど素材が高く評価された。 1980年のドラフト会議の3巡目で日本ハムファイターズ、阪神タイガース、読売ジャイアンツ、中日ドラゴンズの4球団の指名が競合。抽選により巨人が交渉権を獲得し、入団した。巨人では原辰徳、駒田徳広に続く指名だった。4球団競合はこの年のドラフトでは1巡目の原と並ぶ最多競合数だった。 ドラフト後の読売新聞(PR版臨時特集)では「九州一の速球王」「第二の稲尾和久」と紹介された。
田北 浩章(たきた ひろあき、1960年(昭和35年)8月1… 田北 浩章(たきた ひろあき、1960年(昭和35年)8月16日 - )は、日本の編集者、実業家。 株式会社東洋経済新報社代表取締役社長。 大分県杵築市出身。大分県立杵築高等学校(31回生)卒業。1984年(昭和59年)慶應義塾大学経済学部を卒業し、東洋経済新報社入社。建設、医薬、証券、機械などの産業記者、『オール投資』『週刊東洋経済』の編集部を経て、1999年(平成11年)『ベンチャークラブ』編集長、2002年(平成14年)『週刊東洋経済』副編集長、2005年(平成17年)『会社四季報』編集長、2007年(平成19年)第1編集局次長兼証券部長、2008年(平成20年)企業情報部長を歴任。 2011年(平成23年)取締役、2020年(令和2年)専務。
永松 悟(ながまつ さとる、1953年11月24日 - )は… 永松 悟(ながまつ さとる、1953年11月24日 - )は、日本の政治家。大分県杵築市長(4期)。 大分県杵築市出身。大分県立杵築高等学校卒業。1976年(昭和51年)3月、同志社大学法学部卒業。1978年(昭和53年)10月、大分県庁の佐伯福祉事務所に入庁。こども・女性相談支援センター所長、福祉保健部長などを歴任。 2013年(平成25年)3月、大分県庁を退職。同年10月の杵築市長選挙に無投票で初当選した。2017年10月に無投票で再選。2021年10月の市長選挙では選挙戦となったが元市議の衛藤竜一郎を破り3選。2025年10月の市長選挙も選挙戦となり4選。 2020年(令和2年)2月6日、杵築市が財政危機に陥っていることから、2022年度を目標とした緊急財政対策を取りまとめた。
工藤 健(くどう けん、1940年9月12日 - )は、日本… 工藤 健(くどう けん、1940年9月12日 - )は、日本の実業家。元セブン-イレブン・ジャパン代表取締役社長。 大分県杵築市出身。大分県立四日市高等学校(現大分県立宇佐高等学校)を経て、東北大学法学部卒業後、いすゞ自動車入社。ミサワホームを経て、1976年ヨークセブン入社。1981年セブン-イレブン・ジャパン取締役オペレーション本部ゾーンマネジャー。1986年セブン-イレブン・ジャパン取締役商品部長。1989年セブン-イレブン・ジャパン常務取締役商品本部長。1994年セブン-イレブン・ジャパン専務取締役商品本部長。1997年セブン-イレブン・ジャパン代表取締役社長。2002年セブン-イレブン・ジャパン取締役副会長。
尾畠 春夫(おばた はるお、1939年〈昭和14年〉10月1… 尾畠 春夫(おばた はるお、1939年〈昭和14年〉10月12日 - )は、日本のボランティア活動家、元鮮魚商。大分県速見郡日出町在住。身長161cm、体重57kg。 1993年、登山道整備のボランティア活動を始めるが、経営していた鮮魚店の閉店後に活動を本格化させる。多くのボランティア活動の実績により数々の表彰を受け、後に緑綬褒章が授与された。2018年の行方不明児発見の手柄により、「スーパーボランティア」として一躍時の人となった。 大分県東国東郡安岐町(現:国東市安岐町)に生まれ、幼少時に現在の杵築市に引っ越し育つ。父は下駄職人であったが、履き物がゴム製品に変わる頃で、商売は順調ではなかった。
佐藤 精一(さとう せいいち、1932年9月10日 - )は… 佐藤 精一(さとう せいいち、1932年9月10日 - )は、日本のプロゴルファー。大分県杵築市出身。左利き右打ち。1955年プロ入り。我孫子ゴルフ倶楽部出身。プレーの早さから「早撃ちマック」との異名をとる。好物はあんぱんとハンバーガー。 現在、出演番組なし。 この項目は、ゴルフに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト ゴルフ)。
阿部 未喜男(あべ みきお、1919年〈大正8年〉12月2日… 阿部 未喜男(あべ みきお、1919年〈大正8年〉12月2日 - 2005年〈平成17年〉12月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期、日本社会党)を務めた。 大分県速見郡杵築町(現杵築市)出身。熊本逓信講習所卒。 全逓地方本部委員長を経て、1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙で旧大分県第2区から日本社会党公認で立候補し初当選。以降、当選7回。 社会党右派グループ「水曜会」の代表を務めた。1992年(平成4年)4月の春の叙勲で勲二等に叙され、旭日重光章を受章する。翌1993年(平成5年)、横光克彦に地盤を譲り、政界から引退する。政界引退後は横光の後援会会長を務めていた。 2005年(平成17年)12月7日、肝炎のため大分県別府市の病院で死去した。
緒方 孝男(おがた たかお、本名・佐藤孝男、1912年(大正… 緒方 孝男(おがた たかお、本名・佐藤孝男、1912年(大正元年)9月7日 - 1988年(昭和63年)11月4日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員(1期)。 大分県速見郡山浦村(山香町を経て現杵築市)で生まれる。1924年(大正13年)山香高等小学校を卒業した。 1934年(昭和9年)日本製鐵八幡製鉄所に工員として就職。戦後、八幡製鉄所労働組合運動に参画し、同労組執行委員、同副組合長、同三代組合長、日鉄労働組合連合会長などを務めたが、1950年(昭和25年)連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の追放処分(レッドパージ)を受けた。 1951年(昭和26年)労働組合の支援を受け福岡県議会議員に当選。
五代目 上村 吉彌(ごだいめ かみむら きちや、新字体:吉弥… 五代目 上村 吉彌(ごだいめ かみむら きちや、新字体:吉弥、明治42年 (1909年) 12月13日 - 平成4年 (1992年) 1月1日)は、歌舞伎役者。屋号は美吉屋。定紋は折敷型世の字。本名は遠島 直(とおじま すなお)。 小芝居から大歌舞伎に入り、上方歌舞伎の伝統を受継いだ女形や花車形を得意とした。 明治42年(1909年)大分県杵築市生まれ。3歳のころから当地の歌舞伎に子役で出演し、大正8年(1919年)には中村桂車一座に入り中村桂之助を名乗って福岡大博劇場に出る。各地の小芝居を勤めたのち、昭和8年(1933年)に二代目市川右團次に入門、市川右升を名乗る。昭和19年(1944年)以降は松竹専属となり、美貌の女形として知られるようになる。
木野 普見雄(きの ふみお、1907年12月18日 - 19… 木野 普見雄(きの ふみお、1907年12月18日 - 1970年9月27日)は、昭和時代前・中期に活動した日本の作曲家。 本名は木野 文男(読みは同じ)。大分県出身。 1907年(明治40年)、大分県速見郡杵築町(現在の杵築市)据場で木野政太の八男として生まれる。旧制中学校在学中から『大分詩人』誌へ詩を寄稿したのを始め文芸に造詣が深く、1934年(昭和9年)に大日本音楽協会が皇太子(明仁上皇)御降誕記念で作詞と作曲を懸賞募集した『吾等の日本』で作曲部門の二等に入賞する。この時に一等入選で採用されたのは広島高等師範学校教授で、戦後は木野と同じく原爆を題材とした楽曲を数多く手掛けた山本寿であった。
佐野 博(さの ひろし、1905年3月24日 - 1989年… 佐野 博(さの ひろし、1905年3月24日 - 1989年4月4日)は、日本の社会主義運動家、評論家。田中清玄とともに、いわゆる「武装共産党」時代の日本共産党(第二次共産党)の指導部を組織した。佐野学の甥で、共産党系演劇人で革命歌「インターナショナル」訳詞者の佐野碩、社会学者鶴見和子・哲学者鶴見俊輔姉弟は従妹弟にあたる。 1905年、大分県速見郡杵築町(現・杵築市)に生まれる。旧制第七高等学校在学中に、学生サークル「鶴鳴会(かくめいかい)」に参加。1923年(大正12年)9月、鹿児島港にソ連の船が入港した折に佐野を含む鶴鳴会のメンバー数人は手漕ぎのボートで接近、「インターナショナル」を歌って乗船を許され、身振り手振り(メンバーにはロシア語に通じたものがいなかった)で船長と意思疎通を図り、パンフレットなどを渡されて戻るという事件を起こす。
倉田 文人(くらた ふみんど、1905年1月25日 - 19… 倉田 文人(くらた ふみんど、1905年1月25日 - 1988年1月28日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。 1905年(明治38年)1月25日、大分県速見郡山香町(現在の同県杵築市山香町)に生まれる。 1929年(昭和4年)、日活太秦撮影所現代劇監督部に入社、木村次郎に師事、同年、木村の監督した『名なし鳥』に助監督としてクレジットされる。同撮影所の同部で、溝口健二や田坂具隆に師事する助監督の熊谷久虎と知り合う。1932年(昭和7年)、谷幹一主演の『とかく女と言ふものは』で監督に昇進した。 1934年(昭和9年)、新たに開所した日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に異動する。
本多 嘉一郎(ほんだ かいちろう、1903年(明治36年)8… 本多 嘉一郎(ほんだ かいちろう、1903年(明治36年)8月23日 - 1980年(昭和55年)5月15日)は、日本の映画人、地方政治家。第4代調布市長を1962年(昭和37年)から1978年(昭和53年)までの4期16年にわたり務めた。 1903年(明治36年)、大分県(現在の杵築市)に生まれる。 20代の頃の本多は、東亜キネマ京都撮影所(等持院撮影所)の撮影部に在籍し、1930年(昭和5年)久保義郎監督、岡田静江主演の無声映画『一度はすべての女に』の撮影技師などを務めた。 1931年、東亜キネマの経営不振から同社の業務を代行するために発足した東活映画社に移籍した。京都の映画会社である東活映画社が、1932年(昭和7年)に東京地区に撮影所を新設しようとした際、東京へ調査に派遣したのが本多であった。
豊田 隈雄(とよだ くまお、1901年(明治34年)12月1… 豊田 隈雄(とよだ くまお、1901年(明治34年)12月13日 - 1995年(平成7年)2月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 大分県杵築市出身。旧制大分県立宇佐中学校より海軍兵学校第51期入校。席次は入校時293名中146番、卒業時255名中84番。海軍大学校は首席卒業。 戦後、復員庁第二復員局に勤める。在職中は極東国際軍事裁判の対策に携わる。 日中戦争当時には台湾からの中攻による渡洋爆撃を考案、自ら搭乗してこれを指揮し、金鵄勲章を拝受している。しかしこの時の賞金1万円はついに支払われず、戦後佐藤首相より金杯を受けたのみで、請求権を放棄させられたという。戦場にあっては勇猛果敢な航空参謀、海軍武官補佐官としては、誠実かつ有能な外交官であった。
都甲 徠(とごう きたる、1899年(明治32年)9月3日 … 都甲 徠(とごう きたる、1899年(明治32年)9月3日 - 1991年(平成3年)2月17日)は、日本の陸軍軍人。陸士33期卒(歩兵)。最終階級は陸軍少将。 大分県速見郡山香町(現:杵築市)出身。農業・都甲喜佐久の三男として生まれる。宇佐中学校(現大分県立宇佐高等学校)卒業を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第64連隊付となる。1932年(昭和7年)11月、陸軍大学校(44期)を卒業した。 1932年(昭和7年)12月、歩兵第37連隊中隊長に就任。1933年(昭和8年)12月、参謀本部付勤務(支那課)となり、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員、北京・太原・長沙駐在)、中国駐在を務め、1936年(昭和11年)8月、歩兵少佐に進級。
後藤 正志(ごとう まさし、1896年〈明治29年〉3月12… 後藤 正志(ごとう まさし、1896年〈明治29年〉3月12日 - 1929年〈昭和4年〉7月4日)は大分県出身の技師であり飛行家。1929年にアメリカ西海岸から欧州を経て日本まで、三大陸横断飛行を計画したが、ロッキー山脈越えに失敗し墜落死した。 大分県西国東郡田原村下沓掛(現杵築市)で後藤武利の長男として生まれ、幼少期に母を亡くす。父の意向もあり、南部高等小学校を出ると教員養成の私立学校である習説校で学んだ。正志は数学に強く、機械類を好んだという。父は病を得ながらも白鬚田原神社の前に日用品店を開いたが経営は上手くいかず、金銭的に厳しい状況が続いた。 習説校を卒業した正志は立石にある馬上金山の機械部に入る。
八坂 善一郎(やさか ぜんいちろう、1895年(明治28年)… 八坂 善一郎(やさか ぜんいちろう、1895年(明治28年)1月23日 - 1980年(昭和55年)8月29日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、初代大分県旧杵築市長。 大分県速見郡八坂村大字日野(現杵築市)で、大分県会議長を務めた八坂三治の長男として生まれる。早稲田大学政治経済科で学んだが、中国大陸に心惹かれ中退して満州に渡った。1927年(昭和2年)政治家を目ざして帰郷。 1933年(昭和8年)八坂村会議員に選出された。別府自動車社長に就任し、1939年(昭和14年)大分県会議員となる。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で大分県全県区から日本進歩党公認で出馬して当選し、その後、民主党に所属し衆議院議員に1期在任した。
宇都宮 則綱(うつのみや のりつな、1889年(明治22年)… 宇都宮 則綱(うつのみや のりつな、1889年(明治22年)5月1日 - 1973年(昭和48年)5月31日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 大分県速見郡八坂村(現杵築市)で、酒造業の家に生まれる。大分県農学校(のち大分県立三重農業高等学校となり閉校)を卒業。 速見郡朝日村(現別府市)の兄が経営していた酒店を引き継ぐ。油屋熊八、梅田凡平らと別府宣伝協会を結成して全国に別府を宣伝した。豊洋水産取締役会長、鬼山地獄社長なども務めた。 1924年(大正13年)別府市会議員に選出され同議長にも就任。1943年(昭和18年)全国市会議長会(現全国市議会議長会)会長に就任。1935年(昭和10年)大分県会議員となり1期在任した。
藤波 収(ふじなみ おさむ、1888年〈明治21年〉2月27… 藤波 収(ふじなみ おさむ、1888年〈明治21年〉2月27日 - 1972年〈昭和47年〉10月18日)は、大正から昭和にかけて活動した実業家。主として電気事業に関係した。 元は電気技術者。戦前期の大手電力会社大同電力で常務取締役まで昇進し、日本発送電理事、関東配電副社長を経て戦後は北海道電力社長・会長、電源開発総裁を務めた。大分県出身。 藤波収は1888年(明治21年)2月27日、藤波久文の六男として大分県速見郡杵築村(現・杵築市)に生まれた。生家は杵築城の旧城下町の一角である北台にあり、藤波家は父久文の代まで杵築藩士であった。収は男子6人・女子4人の兄弟姉妹の末子で、23歳年上の長兄に司法官となり大審院判事などを歴任した藤波元雄、一つ上の兄に陸軍の軍医となり軍医総監を務めた藤波正がいる。
堀 悌吉(ほり ていきち、1883年〈明治16年〉8月16日… 堀 悌吉(ほり ていきち、1883年〈明治16年〉8月16日 - 1959年〈昭和34年〉5月12日)は、日本の海軍軍人、実業家。日本飛行機 社長、大日本兵器社長、浦賀船渠(現:住友重機械工業)社長を歴任した。 海軍兵学校32期首席・海軍大学校16期次席。海軍軍人としての最終階級は海軍中将。海軍の現役を退いた後の1941年(昭和16年)に、法制局長官(現:内閣法制局長官)に擬されたが、辞退した。大分県杵築市出身。 天下の秀才を集める海軍兵学校の同期生たちをして「神様の傑作の一つ堀の頭脳」 と畏敬せしめる程の、桁外れの英才であった。 からの信頼が厚く、山本権兵衛(兵2期)・加藤友三郎(兵7期)の系譜を継ぐ人物として、いずれ海軍大臣に就任することが確実視されていた。
中根 中(なかね なか、1870年 - 1954年)は、日本… 中根 中(なかね なか、1870年 - 1954年)は、日本人の黒人運動指導者、または日本の対米諜報員。黒龍会の会員でもあった。第二次世界大戦以前のアメリカで主に活動した。アメリカ当局には、サトカタまたはサトハタ・タカハシ(Satohata Takahashi)などという名前でマークされていた。 現在の大分県杵築市に生まれる。関西学院に進学し、後にキリスト教徒となる。若い頃は浪費癖がひどく、教会も除名された。日本の妻の他に愛人もいたといわれる。大借金を残してカナダへ渡り、白人女性と結婚する。後にアメリカのタコマに移住するが、もとからの浪費癖が災いして生活が破綻し、再び借金を残して失踪する。 1932年に白人に比して差別され不利な立場にある有色人種を糾合する組織として東方世界平和運動(英語版)がシカゴで結成されると中根もこれに加わり、翌1933年にデトロイトへ移り黒人街で活動を始める。
河合 操(かわい みさお、1864年10月26日〈元治元年9… 河合 操(かわい みさお、1864年10月26日〈元治元年9月26日〉- 1941年〈昭和16年〉10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。 杵築藩士、河合盛益の二男として生れる。1879年(明治12年)11月、陸軍教導団に入り工兵軍曹を経て、1886年(明治19年)6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、陸軍少尉任官。1892年(明治25年)12月、陸軍大学校(8期)を卒業した。台湾総督府参謀として1895年(明治28年)8月から1897年(明治30年)2月まで台湾に出征した。その後、陸大教官、ドイツ駐在、大本営参謀などを歴任。 日露戦争では、満州軍参謀として出征し、遼陽会戦後に第4軍参謀、さらに第3軍参謀副長となった。
伊藤 修(いとう おさむ、1855年(安政2年)-1920年… 伊藤 修(いとう おさむ、1855年(安政2年)-1920年(大正9年))は日本の弁護士。東京法学社(現・法政大学)の創立者の一人。 1855年(安政2年)、豊後国杵築藩士の子として生まれる。1877年(明治10年)に代言人試験に合格し、法学塾の「法律学舎」を開いていた元田直の下で幹事を務め、訴訟業務に従事する。 しかし1880年(明治13年)に元田と袂を分かち、同年4月金丸鉄、薩埵正邦らとともに神田区駿河台北甲賀町で東京法学社を設立する。同年12月、東京法学社が神田錦町に移転したころに元田との関係を修復する。その後も代言人業を続けたことはわかっているが詳細は不明である。 1920年(大正9年)に死去。
物集 高見(もずめ たかみ、弘化4年5月28日(1847年7… 物集 高見(もずめ たかみ、弘化4年5月28日(1847年7月10日) - 昭和3年(1928年)6月23日)は、明治から大正に活動した国学者。 豊後国速見郡杵築(現・大分県杵築市)に生まれる。父は国学者の物集高世で、高見はその二男三女の長男であった。幼名素太郎、後に善五郎と改める。鶯谷・菫園または埋書居士と号する。 少年時代、故郷で漢学と国学を修める。慶応元年(1866年)、長崎に出て蘭学を修める。慶応2年(1867年)に京都へ出て、玉松操に師事して国書を修める。 明治2年(1869年)に父と上京。明治3年(1870年)5月、平田銕胤の門に入り国学を修めたほか、神祇官職員の東条琴台に師事して漢学を修める。
元田 直(もとだ なおし、1834年4月13日(天保5年3月… 元田 直(もとだ なおし、1834年4月13日(天保5年3月5日) - 1916年(大正5年)3月4日)は、日本の儒学者・法学者・法律家・教育者。東京代言人組合(現・東京弁護士会)会長、東京府尋常師範学校校長、東京法学社(現・法政大学)の創立者の一人。 1834年(天保5年)、豊後国杵築藩(現在の大分県杵築市)に儒学者元田竹渓の長子として生まれる。維新の際に、藩主の嫡子松平親貴に従って京都に上り、参与広沢真臣に知遇を得て内国事務局書記に任ぜられる。度会府判事に就任し、度会府廃止後に太政官に入り、太政官記録取調掛に任ぜられ、箕作麟祥とともにフランス民法を審議する。 1874年(明治7年)に東京神田に法学塾の「法律学舎」を開設し、フランス法を講授する。
物集 高世(もずめ たかよ、文化14年2月1日〈1817年3… 物集 高世(もずめ たかよ、文化14年2月1日〈1817年3月18日〉 - 1883年〈明治16年〉1月2日)は豊後国出身の国学者。通称・丈右衛門、正策、正孝、真風とも称した。号は「葎屋」(むぐらのや)。 1817年(文化14年)、商家の次男として杵築藩に生まれた。物集家の祖先は山城国物集女(もずめ)村(現・京都府向日市物集女町)から出、のち大阪で金屋という屋号の豪商となったが、一族の一人が杵築に移り住み、物集女から物集に改姓したと伝えられる。金屋は杵築城下きっての豪商で、高世の弟・雄蔵が継いだが、のちに倒産した。 漢学を儒臣元田竹渓に、後に国学を定村直孝と直好に学び、平田篤胤の復古思想やその学風に共感して直接教えを受けた。
金丸 鉄(かなまる まがね、1852年(嘉永5年) - 19… 金丸 鉄(かなまる まがね、1852年(嘉永5年) - 1910年(明治43年))は、日本の法学者。フランス法の流れを汲む法律家で、法政大学創立者の一人。豊後国杵築藩出身。 法政大学の前身である東京法学社を設立した。金丸のほかに、同じ豊後国出身の伊藤修や薩埵正邦も設立に尽力した。 19歳の時に上京。東京法学社設立以前には、独力で出版社「時習社」を設立し、1877年8月11日、時習社の社長兼編集長として日本最初の法律専門雑誌『法律雑誌』を創刊した。この頃、郷里の先輩で浅草に法律学舎を開いていた元田直と親交を結び、薩埵正邦とも知り合った。 元田の助力を得て、元田のもとにいた代言人である伊藤修らとともに東京法学社を設立することになる。