岩野 泡鳴(いわの ほうめい、1873年(明治6年)1月20… 岩野 泡鳴(いわの ほうめい、1873年(明治6年)1月20日 - 1920年(大正9年)5月9日)は、明治・大正期の日本の小説家・詩人。本名は岩野美衛(よしえ)。新体詩人から自然主義作家に転身し、「神秘的半獣主義」を主張。代表作に『耽溺』など。他の筆名は白滴子、阿波寺鳴門左衛門。乱脈な女性関係でも知られる。 名東県津名郡洲本馬場町(現・兵庫県洲本市海岸通2丁目)出身。明治学院、仙台神学校(現在の東北学院)、専修学校(現在の専修大学)に学ぶ。当時、神田神保町の専修学校では法律学と経済学を修め、1891年(明治24年)に卒業した。彼が満足に学校を終えたのは専修学校だけであり、卒業後、彼は志を転じ文学に向かう。
杉本 鉞子(すぎもと えつこ、1873年(明治6年) - 1… 杉本 鉞子(すぎもと えつこ、1873年(明治6年) - 1950年(昭和25年)6月20日)は、日本の作家。大正末期に出版した英語による著書『A Daughter of the Samurai(武士の娘)』により、アメリカでの日本人初のベストセラー作家となる。コロンビア大学の初の日本人講師でもある。 1873年(明治6年)、旧越後長岡藩の家老、稲垣茂光(平助)の六女として新潟県古志郡長岡(現長岡市)に生まれる。名前の「鉞」は、まさかりのこと。強い精神を持った武士の娘として育ってほしいという願いから命名された。尼僧になる子として育てられたため、生け花や裁縫といった女子教育のほかに、漢籍も教育された。
岡本 綺堂(おかもと きどう、1872年11月15日〈明治5… 岡本 綺堂(おかもと きどう、1872年11月15日〈明治5年10月15日〉 - 1939年〈昭和14年〉3月1日)は、日本の小説家、劇作家。本名は岡本 敬二(おかもと けいじ)。別号に狂綺堂、鬼菫、甲字楼など。新歌舞伎の作者として知られ、また著名な作品として小説「半七捕物帳」などがある。帝国芸術院会員。 養子の岡本経一は、出版社「青蛙房」の創業者で、社名は綺堂の作品「青蛙堂鬼談」に由来している。 元徳川幕府御家人で維新後にイギリス公使館に書記として 勤めていた敬之助(後に純(きよし)、号は半渓)の長男として東京高輪の泉岳寺の近くに生まれる。1873年、公使館の麹町移転とともに飯田町をへて麹町元園町に移って育つ。
岡 鬼太郎(おか おにたろう、明治5年8月1日(1872年9… 岡 鬼太郎(おか おにたろう、明治5年8月1日(1872年9月3日) - 1943年(昭和18年)10月29日)は、日本の劇評家、歌舞伎作家(脚本家)、演出家、著述家。本名嘉太郎(よしたろう)。号は鬼吟(きぎん)。 東京生まれで、父岡嘉知は旧佐賀藩士。東京府尋常中学を経て、慶應義塾大学卒業。1893年に時事新報に入社、1895年報知新聞に移り、鬼太郎の名で厳しい劇評(歌舞伎)を書く。岡本綺堂と親しく、その影響で花柳小説や戯曲も書いた。ほか二六新報などの新聞記者もつとめた。 1908年記者をやめ、永井荷風とともに二代目市川左團次の演劇革新運動に加わる。かたわらで、戯曲の創作、辛口の批評で人気を集め『鬼言冗語』などの歌舞伎関係の批評随筆を多く残した。
島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日〈明治5… 島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日〈明治5年2月17日〉 - 1943年8月22日)は、日本の詩人・小説家。本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。筑摩県木曾の中山道馬籠(現在の岐阜県中津川市馬籠)生まれ。帝国芸術院会員。次男は画家の島崎鶏二、三男は同じく画家の島崎蓊助。 『文学界』に参界し、ロマン主義に際した詩人として『若菜集』などを出版する。さらに、主な活動事項を小説に転じたのち、『破戒』や『春』などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、父である島崎正樹をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などが存在する。
篠原 温亭(しのはら おんてい、1872年3月9日(明治5年… 篠原 温亭(しのはら おんてい、1872年3月9日(明治5年2月1日) - 1926年(大正15年)9月2日)は、俳人、小説家。 1872年(明治5年)、熊本県宇土郡宇土町(現・宇土市)に生まれる。本名は英喜。別号に松濤、家巣など。父親は漢学塾長。京都本願寺文学寮(現・龍谷大学)に学んだのち上京し、徳富蘇峰が主宰する「國民新聞」に勤め活躍した。 その傍ら、ホトトギス同人となり、正岡子規、高浜虚子らに俳句を学んだ。温厚な人柄で、人望があった。1922年(大正11年)、俳誌「土上(どじょう)」を嶋田青峰らと共に刊行した。俳句は「温籍高雅」の作風で、虚子編「新歳時記」には27句が採用されている。1926年(大正15年)、55歳で脳溢血により没した。
田山 花袋(たやま かたい、1872年1月22日〈明治4年1… 田山 花袋(たやま かたい、1872年1月22日〈明治4年12月13日〉 - 1930年〈昭和5年〉5月13日)は、日本の小説家。本名、録弥()。群馬県(当時は栃木県)生まれ。 尾崎紅葉のもとで修行したが、後に国木田独歩、柳田國男らと交わる。『蒲団』『田舎教師』などの自然主義派の作品を発表し、その代表的な作家の一人。紀行文にも優れたものがある。 栃木県邑楽郡館林町(現在の群馬県館林市)に、田山鋿十郎・てつ夫妻の次男として誕生。田山家は代々の秋元藩士。父は1876年(明治9年)警視庁邏卒(らそつ、後の巡査)となり一家で上京するが、西南戦争の際に従軍して肥後飯田山麓の闘いで戦死したため、館林に戻る。
木村 曙(きむら あけぼの、"明治5年"3月3日("1872… 木村 曙(きむら あけぼの、"明治5年"3月3日("1872年"4月10日) - 明治23年(1890年)10月19日)は兵庫県出身の作家。本名、岡本ゑい(えい子、栄子)。 牛鍋チェーン店"いろは"の経営者木村荘平とその愛人(のち正妻)岡本政の娘として神戸市に生まれる。官立東京高等女学校(東京女子師範学校附属高等女学校/現:お茶の水女子大学附属中学校・附属高等学校)在学中、ヨーロッパで刺繍を学ぶことを望み、フランス語の学習に熱中。卒業後、文部省にフランス留学を命じられた女性から同行するよう誘われ、父荘平に留学の許可を求めたが許されず、母と共に浅草広小路の"いろは"第十支店に住み込んで帳場を担当。
国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4… 国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日)は、日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者。千葉県銚子生まれ、広島県広島市、山口県育ち。 幼名を亀吉、後に哲夫と改名した。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。田山花袋、柳田國男らと知り合い「独歩吟客」を発表。詩や小説を書き、次第に小説に専心した。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯(じゃがいも)」といった浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる。また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。
太田 玉茗(おおた ぎょくめい、1871年6月23日(明治4… 太田 玉茗(おおた ぎょくめい、1871年6月23日(明治4年5月6日) - 1927年(昭和2年)4月6日)は、日本の詩人、小説家。名は伊藤蔵三(のち太田玄綱から三村玄綱と改名)。僧職のかたわら叙情派詩人として知られ、初期新体詩詩人の一人。田山花袋の義兄にあたり、『田舎教師』の献辞に「この書を太田玉茗氏に呈す」とある。 武蔵国埼玉郡(埼玉県行田市)出身。1888年、曹洞専門本校大学林(現・駒澤大学)卒業。1894年7月に東京専門学校文学科卒業、同期に島村抱月、後藤宙外がいる。小学時代に、羽生市の建福寺住職・太田玄瞳の養子となり、12歳で僧籍に入る。1888年(明治21年)から「頴才新誌」に投稿をはじめ田山花袋を知り、雑誌「少年文庫」「文学界」各誌に新体詩をつぎつぎと発表して新体詩人として認められる。
沢田 撫松(さわだ ぶしょう、本名:沢田 忠次郎〈さわだ ち… 沢田 撫松(さわだ ぶしょう、本名:沢田 忠次郎〈さわだ ちゅうじろう/さわだ ただじろう〉、1871年6月18日〈明治4年5月1日〉 - 1927年〈昭和2年〉4月13日)は、明治から昭和にかけての小説家、新聞記者。 1871年6月18日(明治4年5月1日)、京都府に生まれた。二六新報、國民新聞、読売新聞などで約20年間、新聞記者を務めた。その中でも特に、司法記者として中央公論、婦人倶楽部、新小説などに犯罪事実をもとにした物語を執筆した。 1920年(大正9年)に『女の心・男の心』、1925年(大正14年)に『春宵島原巷譚』、1926年(大正15年)には『秋雨の宿』などの短編小説を執筆した。同年7月、週刊朝日にて『足にさはつた女』を執筆した。
西田 当百 (にしだ とうひゃく、1871年4月10日(明治… 西田 当百 (にしだ とうひゃく、1871年4月10日(明治4年2月21日) - 1944年6月30日)は、日本の俳人、川柳作家。本名、嘉吉。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
島村 抱月(しまむら ほうげつ、1871年2月28日〈明治4… 島村 抱月(しまむら ほうげつ、1871年2月28日〈明治4年1月10日〉- 1918年〈大正7年〉11月5日)は、日本の文芸評論家、演出家、劇作家、小説家、詩人。新劇運動の先駆けの一人として知られる。旧姓は佐々山、本名は瀧太郎。 島根県那賀郡小国村(現・浜田市)に佐々山一平の長男として生まれる。実家は貧しく、小学校卒業後、苦学して浜田町裁判所書記となる。同裁判所検事・島村文耕から学資の援助を受け、上京。1891年(明治24年)に文耕の養子となる(後に文耕の姪と結婚)。 増田藤之助が塾主を務める日本英学院を経て、東京専門学校(現・早稲田大学)文学科で坪内逍遙、大西祝から文学、美学を学び、1894年(明治27年)に卒業。
堺 利彦(さかい としひこ、1871年1月15日(旧暦明治3… 堺 利彦(さかい としひこ、1871年1月15日(旧暦明治3年11月25日) - 1933年〈昭和8年〉1月23日)は、日本の社会主義者・思想家・歴史家・共産主義者・著述家・小説家。号は枯川、別名は、貝塚 渋六。 堺は没落士族の三男として、豊前国仲津郡長井手永大坂村松坂(現:福岡県京都郡みやこ町犀川大坂字松坂)に生まれる。旧制豊津中学校を首席で卒業して上京後、進学予備校であった共立学校にて受験英語を学んだのちに第一高等中学校に入学するが、学費を滞納して除籍処分される。除籍後は大阪や福岡で新聞記者や教員として勤めながら文学の世界で身を立てるべく、小説の執筆を始める。その後、同郷の末松謙澄の招待で東京に設けられた毛利家編輯所で「防長回天史」の編纂に従事し、同僚の山路愛山らと親交を深める。
中田 重治(なかだ じゅうじ、1870年11月20日(明治3… 中田 重治(なかだ じゅうじ、1870年11月20日(明治3年10月27日)- 1939年(昭和14年)9月24日)は、明治・大正・昭和初期にかけて活躍した日本の教会監督、大衆伝道者、巡回伝道者、福音使(牧師)、神学校(柏木聖書学院)教師・院長(校長)、宗教家、説教家、翻訳家、賛美歌作家、実業家、ジャーナリスト、神学者、日ユ同祖論者である。 明治時代のメソジスト派の牧師中田久吉は実兄、日本を代表する教会音楽家の中田羽後は次男、日本アライアンス教団の大江寛人、日本基督教団の議長辻宣道、同じく日本基督教団の牧師有馬式夫は孫である。 日本ホーリネス教会の創始者の一人で初代監督であり、日本ホーリネス教会を既存の五大教派(長老派、メソジスト派、会衆派、バプテスト派、ルーテル派)に並ぶ巨大組織に発展させた功労者。
菊池 幽芳(きくち ゆうほう、明治3年10月27日(グレゴリ… 菊池 幽芳(きくち ゆうほう、明治3年10月27日(グレゴリオ暦 1870年12月18日) - 1947年7月21日)は、日本の小説家。本名は菊池 清(きくち きよし)。大阪毎日新聞社取締役を歴任した。 常陸国水戸長者町(現在の茨城県水戸市)に生まれる。弟に英文学者の戸沢正保がいる。 1888年、茨城県尋常中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を卒業、同県北相馬郡取手(現在の同県取手市)の取手高等小学校(現在の取手市立取手小学校)の教師となる。 21歳を迎える1891年に小学校を退職、大阪毎日新聞社に入社する。同年、宇田川文海、丸岡九華らと大阪文藝会を興し、文芸雑誌『大阪文藝』を創刊する。翌1892年、『大阪文藝』誌上に、小説『鴬宿梅』を発表してデビューする。
巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6… 巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6月6日) - 1933年(昭和8年)9月5日)は、明治から大正にかけての作家、児童文学者、口演童話家、俳人、ドイツ文学者、ジャーナリスト。本名は季雄(すえお)。別号に漣山人、楽天居、大江小波等がある。 日本初の創作童話『こがね丸』(博文館、1891年)を発表して近代児童文学史を拓いた日本児童文学の先駆者と評される。 明治期に児童文芸作品を表す言葉として「お伽噺」を使用、自ら編集長を務めた「少年世界」「少女世界」「幼年世界」などの雑誌を通して日本中に児童文学を広めた。 個人による日本初児童叢書である『日本昔噺』(24編)、『日本お伽噺』(24編)、『世界お伽噺』(100編)などのシリーズを刊行、日本はもちろん世界中の伝承説話のリテリングを体系的に行った。
巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6… 巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6月6日) - 1933年(昭和8年)9月5日)は、明治から大正にかけての作家、児童文学者、俳人。本名は季雄(すえお)。別号に漣山人(さざなみ さんじん)、楽天居、隔恋坊、大江小波がある。
井上 剣花坊(いのうえ けんかぼう、明治3年6月3日(187… 井上 剣花坊(いのうえ けんかぼう、明治3年6月3日(1870年7月1日) - 昭和9年(1934年)9月11日)は、日本の川柳作家。幼名は七郎、のちに幸一。 明治3年(1870年)6月3日、山口県萩に生まれた。家系は毛利家に仕えていたが、廃藩後に没落、父栄祐は1891年に、不遇のうちに亡くなった。 独学で小学校代用教員となり、のちに山口県の新聞社『鳳陽新報』(のち『長周日報』、その後防長新聞に併合されて消滅)に就職して新聞記者となった。同じ頃山県トメと結婚し、3人の子供を授かるも、トメは3人目出産後の予後が悪く、1898年に他界。なお井上はその3年後の1901年に遠縁の岡ノブと再婚、2人の子供をもうけた。
松居 松葉(まつい しょうよう、1870年3月19日(明治3… 松居 松葉(まつい しょうよう、1870年3月19日(明治3年2月18日) - 1933年(昭和8年)7月14日)は、劇作家、演出家、小説家、翻訳家。別号に、松翁・駿河町人・大久保二八など。 父真房・母鶴子の長男として、陸前国塩釜(現・宮城県塩竈市)に生まれた。幼名は雄児、2歳のときに真玄(まさはる)と改めた。養子だった父は、1876年生家に戻り、真玄は親戚に預けられた。母は再婚した。 1877年(明治10年)(7歳)、宮城県師範学校付属小学校に入り、1880年、宮城県尋常中学校に進んだが、経済的事情から1883年中退して、丁稚奉公に出た。 1887年(17歳)上京して専修学校に、次いで国民英学会に学び、1889年卒業した。
福田 笑迎(ふくだ しょうげい、1869年10月18日 - … 福田 笑迎(ふくだ しょうげい、1869年10月18日 - 1909年)は、日本の画家、著作家である。 出羽国五十目村(後の秋田県五城目町)の甚助・いへの第二子で長男として生まれる。生家は肝煎などの村役人を務めてきた旧家で、代々薬種商を営み、地主でもあった。幼名は貞助。幼少の頃より文才・画才に秀でて、当初は「瑞稲(ずいとう)」の号を用いて絵を描いていた。12歳のころに名を禎輔と改め、14歳ころからは笑迎の号を名乗っている。 生家が裕福な旧家であったため多くの書画を所有しており、就学前からそれらに親しんだ笑迎は、みずからも絵筆を走らせるようになっていた。師匠はなく、生家所蔵の書画を手本にした独学であったことから、作風には文人画、狩野派、浮世絵の画風が入り交じった独特のものになっている。
木下 尚江(きのした なおえ、1869年10月12日(明治2… 木下 尚江(きのした なおえ、1869年10月12日(明治2年9月8日)- 1937年(昭和12年)11月5日)は、日本の社会運動家、作家。尚江は本名。 信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩に代々仕えた下級武士であった木下廉左衛門秀勝の子として生まれる。生来病弱で、5歳の時には重い熱病を患い生死の間をさまよった。父は1876年(明治7年)には巡査となっている。開智学校に入学し、啓蒙主義教育を受ける。1877年に松本で自由民権運動が始まり、祖母に連れられて演説会を聞いていた。また在学中には福沢諭吉『学問のすゝめ』を読んで感動する。1881年に長野県中学校松本支校入学。この頃オリバー・クロムウェルを知って革命を意識、また飯田事件の被告が裁判所に送られる姿を見て怒りを覚える。
江見 水蔭(えみ すいいん、明治2年8月12日(1869年9… 江見 水蔭(えみ すいいん、明治2年8月12日(1869年9月17日) - 昭和9年(1934年)11月3日)は、岡山市生まれの小説家、翻訳家、編集者、冒険家。本名:忠功(ただかつ)。 文学作品を皮切りに、通俗小説、推理小説、冒険小説、探検記など多岐に渡る分野に作品を残し、硯友社、博文館など数々の出版社で雑誌の編集発行に関わった。代表作に小説『女房殺し』、『地底探検記』、随筆『自己中心明治文壇史』、翻案戯曲『正劇 室鷲郎』など。 江見忠功は岡山の一番町一番屋敷に生れた。父の鋭馬は水蔭が幼少の頃死去。1881年、叔父の水原久雄の勧めで軍人を志して上京したが、次第に文学に惹かれるようになり、15歳のときに軍人を諦める。
大橋 乙羽(おおはし おとわ、1869年7月12日〈明治2年… 大橋 乙羽(おおはし おとわ、1869年7月12日〈明治2年6月4日〉 - 1901年〈明治34年〉6月1日)は、日本の小説家、編集者。本名は又太郎、旧姓は渡部。羽前国米沢(現・山形県米沢市)生まれ。 硯友社に入り『こぼれ松葉』『露小袖』などを執筆。のち博文館主人大橋佐平の娘婿・養子となり、博文館に入社。樋口一葉を商業誌デビューさせたほか、尾崎紅葉、巖谷小波らを担当し、日本の近代文学における編集者の先駆けであった。著書に小説などをまとめた『花鳥集』『若菜籠』、紀行文集『千山万水』など。 明治2年(1869年)6月4日、羽前国米沢の立町二ツ橋畔に生れた。父は渡部治兵衛、母はかつといい、旅館「音羽屋」を営んでいた。
川上 眉山(かわかみ びざん、1869年4月16日(明治2年… 川上 眉山(かわかみ びざん、1869年4月16日(明治2年3月5日)- 1908年(明治41年)6月15日)は、明治時代の小説家。大阪生まれ。本名亮、別号に煙波山人。
三宅 花圃(みやけ かほ、1869年2月4日(明治元年12月… 三宅 花圃(みやけ かほ、1869年2月4日(明治元年12月23日) - 1943年(昭和18年)7月18日)は、明治時代の小説家、歌人。著書『藪の鶯』は、明治以降に女性によって書かれた初の小説。 姓は田辺、本名は竜子。花圃と号す。本所番場町に住む旧幕臣で元老院議員の父・田辺太一、母・己巳子(きみこ)の長女に生まれる。戸籍では10月5日生まれ。竜子は8歳で麹町小学校に入学したが、その後、跡見花蹊の跡見女学校に学び、ついで桜井女学校、明治女学校と次々と学校を変ったのち、最後に、森有礼の理想によって女子の最高学府として設立された一つ橋の東京高等女学校(現・お茶の水女子大学)専修科に入学、1889年(明治22年)に卒業した。
賀古 残夢(かこ ざんむ、1869年1月13日 - 1938… 賀古 残夢(かこ ざんむ、1869年1月13日 - 1938年3月21日)は、日本の映画監督、演出家、小説家。本名は賀古 保五郎(かこ やすごろう)。 日本映画界最古参の監督の一人。新派の座付作家を経て創設されたばかりの松竹蒲田撮影所に入社。新派調の悲劇映画を多く撮ったが、その一方で映画研究にも余念がなく、松竹映画の基礎固めに寄与した。門下生に牛原虚彦、池田義信らがいる。妻は女優の中川芳江、義妹に小松みどりがいる。 1869年1月13日(明治元年12月1日)、石川県金沢市に生まれる。ニコライ神学校卒。 若くして島崎藤村、馬場孤蝶らと雑誌『文学界』に参加し、新体詩や小説などを発表する。残夢はその時以来のペンネームである。
水田 南陽(みずた なんよう、1869年1月(明治2年) -… 水田 南陽(みずた なんよう、1869年1月(明治2年) - 1958年1月3日(昭和33年))は、日本の翻訳家、小説家、編集者、新聞記者、実業家。日本へシャーロック・ホームズを紹介した先駆者。別名は、南陽 外史(なんよう がいし)。本名は、水田 栄雄(みずた ひでお)。 1869年1月、淡路国薦江(兵庫県)生まれ。大阪・川口の英和学舎(立教大学の前身の一つ)を経て、1890年、立教大学卒業。 ミッション・スクール(現立教大学)在学中の1889年、東京能弁学会に加入し、機関誌『能弁』にシェイクスピア劇の翻訳を掲載。東京能弁学会の幹事である大岡育造に認められ、『能弁』の編集に参加した。 1890年頃、大岡育造が経営していた中央新聞に入社し、同紙にエミール・ガボリオの『オルシヴァルの犯罪』を『大探偵』と題して訳出したのを始め、『夢中の玉』『珊瑚の徽章』などを次々発表した。
笹尾 鉄三郎(ささお てつさぶろう、慶応4年8月15日(18… 笹尾 鉄三郎(ささお てつさぶろう、慶応4年8月15日(1868年9月30日) - 大正3年(1914年)12月30日)は日本のキリスト教の大衆伝道者、牧師、神学校教師、宗教家、讃美歌作家。 淀橋教会初代牧師、聖書学校(柏木聖書学院)初代院長。 1868年8月15日 伊勢安濃郡古河村(後の新町、現在の三重県津市)に、代々庄屋の家柄である父・藤堂藩の郡奉行伊藤篤之助、母・そうの5人兄弟の末子(三男)として誕生。 幼少期に父を亡くす。兄、七左衛門が後見人になる。その土地に中学校がなかったので伊藤家が土地を寄付して、鉄三郎のために中学を創設する。中学時代には肺炎を患い生死をさまよう。 1886年(明治19年)に津中学を卒業後する。
山田 美妙(やまだ びみょう、1868年8月25日(慶応4年… 山田 美妙(やまだ びみょう、1868年8月25日(慶応4年7月8日) - 1910年(明治43年)10月24日)は、日本の小説家・詩人・評論家。言文一致体および新体詩運動の先駆者として知られる。二世曲亭主人、美妙斎、美妙子、樵耕蛙船、飛影などの号も用いた。
本田 美禅(ほんだ びぜん、慶応4年5月20日(1868年7… 本田 美禅(ほんだ びぜん、慶応4年5月20日(1868年7月9日) - 昭和21年(1946年)3月29日)は、日本の小説家。本名は本田 浜太郎。 信濃国伊那郡山村(現長野県飯田市)生まれ。明治維新後、一家で上京。貧困により小学校を中退して丁稚奉公し、1881年砲兵工廠の職工となる。1887年砲兵工廠の火工科を卒業して熊本の第6師団野戦砲兵隊付へ赴任。「熊本忠愛新報」へ投稿するうちに認められ、1891年には同社に文芸記者として入社した。日清戦争の従軍記者をした後、1897年に内藤湖南に招かれて「台湾日報」の編集者となる。1905年「大阪新報」に「日本丸」が入選したのを機に作家生活に入り、結核の療養生活をしながら多くの大衆小説を大手新聞社やキングなどに掲載した。
内田 魯庵(うちだ ろあん、1868年5月26日(慶応4年閏… 内田 魯庵(うちだ ろあん、1868年5月26日(慶応4年閏4月5日) - 1929年(昭和4年)6月29日)は、明治期の評論家、翻訳家、小説家。本名貢(みつぎ)。別号不知庵(ふちあん)、三文字屋金平(さんもんじやきんぴら)など。明治文壇を代表する批評家として知られ、旺盛な好奇心と広範な知識は文学を超えて、民族学や文明論的な拡がりを持った。江戸下谷車坂六軒町(現・東京都台東区)生まれ。洋画家内田巌は長男。孫(巌の娘)に翻訳家の内田莉莎子。 旧幕臣の子・貢(幼名・貢太郎)として下谷車坂三軒町に生まれる。父・正には7人の妻がおり、魯庵は最初の妻との子。はじめは政治・実業に関心を持ち、1882年(明治15年)に15歳で築地の立教学校(現立教大学)に入学して英語を学んだほか、東京専門学校(現早稲田大学)英語部などでも英語を学び、東京大学予備門にも入ったが、家が貧しく結局どこも中退し、文部省編輯局翻訳係であった叔父(継母の姉妹の夫)・井上勤のもとで下訳や編集の仕事をする。
斎藤 緑雨(さいとう りょくう 齋藤緑雨、1868年1月24… 斎藤 緑雨(さいとう りょくう 齋藤緑雨、1868年1月24日(慶応3年12月30日) - 1904年(明治37年)4月13日)は、明治時代の小説家、評論家。本名・賢(まさる)。「正直正太夫」をはじめ、「江東みどり」「登仙坊」など別名も多数ある。幸田露伴がつけたという戒名は「春暁院緑雨醒客」。
尾崎 紅葉(おざき こうよう、1868年1月10日(慶応3年… 尾崎 紅葉(おざき こうよう、1868年1月10日(慶応3年12月16日) - 1903年(明治36年)10月30日)は、日本の小説家。本名、徳太郎。「縁山」「半可通人」「十千万堂」「花紅治史」などの号も持つ。 帝国大学国文科中退。1885年(明治18年)、山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を発刊。『二人比丘尼色懺悔』で認められ、『伽羅枕』『多情多恨』などを書き、幸田露伴と並称され(紅露時代)、明治期の文壇に重きをなした。 泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など優れた門下生がいる。 俳人としても角田竹冷らとともに秋声会を興し、正岡子規と並んで新派と称された。 1868年1月10日(慶応3年12月16日)、江戸(現東京都)芝中門前町(現在の芝大門)に生まれる。
清水 紫琴(しみず しきん、1868年1月(慶応3年12月)… 清水 紫琴(しみず しきん、1868年1月(慶応3年12月)下旬 - 1933年(昭和8年)7月31日)は、明治期の女性作家、自由民権運動の女性活動家。出生届出は1868年1月。 出身地は岡山県、出生地は京都府。本名は清水豊子、筆名は生野ふみ子、つゆ子。戦前の興信録では名を「トヨ」としているものもある。 京都府立第一高等女学校卒。1885年(明治18年)、自由民権派の弁護士・岡崎晴正と結婚。晴正とともに自由民権運動に携わるが、晴正は結婚前から交際していた女性を紫琴と結婚後も妾として囲っていたため、1888年(明治21年)自由民権運動家でありながら晴正と異なり男女同権の立場を取っていた植木枝盛と出会い、その後は女権運動に携わるようになる。
幸田 露伴(こうだ ろはん、1867年8月22日(慶応3年7… 幸田 露伴(こうだ ろはん、1867年8月22日(慶応3年7月23日) - 1947年(昭和22年)7月30日)は、日本の小説家。本名は成行(しげゆき)。別号に蝸牛庵(かぎゅうあん)、笹のつゆ、雷音洞主、脱天子など多数。江戸(現東京都)下谷生れ。帝国学士院会員。帝国芸術院会員。第1回文化勲章受章。娘の幸田文も随筆家・小説家。高木卓の伯父。
石橋 思案(いしばし しあん、1867年7月3日(慶応3年6… 石橋 思案(いしばし しあん、1867年7月3日(慶応3年6月2日) – 1927年(昭和2年)1月28日)は、日本の小説家。本名、助三郎。横浜弁天町生れ。東京帝国大学中退。 尾崎紅葉らとともに硯友社を創設し「我楽多文庫」を発行。「乙女心」「わが恋」「京鹿子」などを発表したが振るわず、後に博文館に入社し、『文芸倶楽部』を編集した。「雨香」とも号し、また都々逸では「自劣亭」の号を用いて活躍した。 1867年(慶応3年)6月2日、横浜の弁天町に石橋政方の長男として生れる。父・政方は外務省官吏。祖父は長崎の通詞で、石橋助左衛門といった。幼少時に上京し神田に住む。お茶の水の師範学校附属小学校に通い、1878年(明治11年)、学習院に入学。
夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1… 夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。
後藤 宙外(ごとう ちゅうがい、1867年1月27日(慶応2… 後藤 宙外(ごとう ちゅうがい、1867年1月27日(慶応2年12月22日) - 1938年(昭和13年)6月12日)は、明治後期から昭和初期に活躍した小説家、評論家。本名寅之助。 後藤三郎右衛門、斎藤サダ(花館村の斎藤勘左衛門の妹)の次男として生まれる。宙外の家家は後藤家の惣家とされる。なお、戸籍上の誕生日は慶応2年12月22日だが、宙外自身は12月23日、12月24日の二様に記述している。後藤家は元豪族の旧家であったが、父の代に没落していた。1879年(明治12年)、遊学のため兄と上京するが明治19年(1886年)に帰郷。1889年(明治22年)再上京し、東京専門学校(現早稲田大学)専修英語科に入学。
丸岡 九華(まるおか きゅうか、本名:久之助、慶應2年3月2… 丸岡 九華(まるおか きゅうか、本名:久之助、慶應2年3月25日(1866年5月9日) - 昭和2年(1927年)7月9日)は、日本の詩人、小説家、実業家。 江戸青山生まれ。共立学校(現開成高等学校)、東京大学予備門を経て、1887年高等商業学校(現一橋大学)卒業。 在学中、尾崎紅葉らと硯友社創設に参画し、新体詩などを発表し、卒業後は文学を離れ、矢野二郎校長の勧めで教員となり、1892年からは県立神戸商業学校校長事務取扱を務めた。 のち、実業家に転じ、高田商会横浜支店長等を経て、独立し、イギリスのサン保険会社(英語版)の東京支店開設にあたり同支店支配人となり、同社の契約高や保険料収入を日本国内3位以内にまで育てた。
右田 寅彦(みぎた のぶひこ、慶応2年2月6日(1866年3… 右田 寅彦(みぎた のぶひこ、慶応2年2月6日(1866年3月22日) - 大正9年(1920年)1月11日)は大正時代の劇作家、歌舞伎狂言作者、小説家。 豊後国(現・大分県)臼杵に臼杵藩士の子に生まれる。右田年英の実弟。柳塢亭、矮亭主人と号す。明治10年代、11歳時には上京、三田英学校や漢学塾に学んだ後、高畠藍泉に師事する。めざまし新聞、都新聞において多くの戯曲の脚本、艶種(つやだね)や雑報などを執筆した。その後、東京朝日新聞に入社して主に小説を書いた。明治38年(1905年)には栗島狭衣らと文士劇の劇団、若葉会を結成する。明治42年(1909年)に帝国劇場が開場されるのに伴い、立作者となって多数の戯曲を執筆した。
石橋 忍月(いしばし にんげつ、慶応元年9月1日(グレゴリオ… 石橋 忍月(いしばし にんげつ、慶応元年9月1日(グレゴリオ暦1865年10月20日) - 1926年(大正15年)2月1日)は日本の文芸評論家、小説家、弁護士、政治家。本名は友吉。号は萩の門、気取半之丞、福洲学人など。三男は文芸評論家の山本健吉(本名・石橋貞吉)。 明治23年(1890年)、森鷗外の「舞姫」、「うたかたの記」等をめぐり鴎外と論争し評論の地位を高めた。しかし、壮年以降は文学からはなれ、長崎県の県会議員、弁護士として活動した。 帝大在学中からレッシング、ゲーテ、シラーなどに親しみ、文学への目を開き坪内逍遥の『妹と背鏡』、二葉亭四迷の『浮雲』などを論じた清新な筆触で認められた。
伊藤 左千夫(いとう さちお、本名:伊藤 幸次郎、1864年… 伊藤 左千夫(いとう さちお、本名:伊藤 幸次郎、1864年9月18日〈元治元年8月18日〉- 1913年〈大正2年〉7月30日)は、日本の歌人、小説家。明治期に活躍した。 明治法律学校(現・明治大学)で学ぶが、眼病のため中退し帰郷。再度上京し、1889年に牛乳搾取業を始めた。 短歌に関心をもったのは1893年頃で、正岡子規の『歌よみに与ふる書』に感動、1900年に門人となった。子規没後は、根岸短歌会の中心となり、「馬酔木」「アララギ」を創刊、アララギ派の基礎を作った。1905年には、純愛小説『野菊の墓』を発表、夏目漱石にも激賞された。 晩年には、感情の直接的表現と、熱情の奔流を主張する「叫び」の説を唱えた。
稲本 陽州(いなもと ようしゅう、本名:稲本治太郎、1864… 稲本 陽州(いなもと ようしゅう、本名:稲本治太郎、1864年(元治元年)6月25日 - 1947年(昭和23年)9月20日)は、教育者であり詩文作家である。特に漢文詩の世界では、関西に稲本陽洲ありと評判であった。現在の岡山県井原市出身。 1864年(元治元年)備中国後月郡山野上村(現在の岡山県井原市)の稲本重五郎の長男として生れる。幼い頃から岡山県議会議員の三村政太郎に漢学を学ぶ。地元の精徳尋常小学校を卒業し、教師証明書を受け15歳で精徳小学校の助教となった。1882年(明治15年)、19歳で岡山県小田郡星田小学校長となる。1886年(明治19年)には、日本の詩文作家における青年大家に挙げられ、全国でも名が知られていた。
若松 賤子(わかまつ しずこ、1864年4月6日(元治元年3… 若松 賤子(わかまつ しずこ、1864年4月6日(元治元年3月1日) - 1896年(明治29年)2月10日)は、日本の教育家、翻訳家、作家。巌本善治の妻。別名に巌本嘉志子。バーネットの『小公子』の名訳で知られ、日本で初めて少年少女のためのキリスト教文学を紹介した。 1864年3月1日に、会津藩藩士松川勝次郎正義の長女として、会津藩城下の阿弥陀町(現・会津若松市宮町)に生まれた。本名は松川甲子(かし)であり、『甲子』の名は誕生年の干支に因む。 甲子が1歳のとき父正義は隠密となり、1868年(明治元年)の戊辰戦争は父不在の間、母と甲子と妹美也(0歳)だけで過酷な状況に耐えた。なお、甲子の母に関しては詳しいことは分かっていない。
二葉亭 四迷(ふたばてい しめい、元治元年2月28日〈186… 二葉亭 四迷(ふたばてい しめい、元治元年2月28日〈1864年4月4日〉- 明治42年〈1909年〉5月10日)は、日本の小説家、翻訳家。 本名は長谷川 辰之助(はせがわ たつのすけ)。筆名の由来は、処女作『浮雲』に対する卑下、特に坪内逍遥の名を借りて出版したことに対して、自身を「くたばって仕舞え」と罵ったことによる(異説あり)。文学に理解のなかった父に言われたというのは俗説である(『予が半生の懺悔』)。長谷川二葉亭とも呼ばれる。別の号に冷々亭主人、杏雨。 江戸市ヶ谷(現在の東京都新宿区市ヶ谷)。自筆履歴書によると、1883年2月1日から1885年12月25日まで、当時の専修学校(現在の専修大学)で学び、その後卒業した。
黒岩 涙香(くろいわ るいこう、文久2年9月29日〈1862… 黒岩 涙香(くろいわ るいこう、文久2年9月29日〈1862年11月20日〉- 大正9年〈1920年〉10月6日)は、日本の小説家、思想家、作家、翻訳家、ジャーナリスト。本名は黒岩 周六(くろいわ しゅうろく)。兄は黒岩四方之進。ペンネームの由来は、黒岩が愛読していた『紅涙香』に由来する。黒岩涙香のほか、香骨居士、涙香小史、冷眼士等、歯月生などの筆名を用いた。号は古概、民鉄、正調庵、黒岩大。執拗な取材を行うことから「マムシの周六」というあだ名がつけられた。翻訳家、作家、記者として活動し、『萬朝報』を創刊した。戒名は黒岩院周六涙香忠天居士。 土佐国安芸郡川北村大字前島(現在の高知県安芸市川北)で土佐藩郷士・黒岩市郎の子として生まれる。
嵯峨の屋 おむろ(さがのや おむろ、文久2年1月12日(18… 嵯峨の屋 おむろ(さがのや おむろ、文久2年1月12日(1862年3月1日) - 昭和22年(1947年)10月26日)は、日本の小説家、翻訳家、評論家、詩人。 嵯峨の屋 お室、矢崎 嵯峨の舎(屋)(やざき さがのや)、北邙散子(ほくぼうさんし)、探美(たんび)などの筆名もある。 本名・矢崎 鎮四郎(しんしろう) 曾孫は、俳優・モデルの岡本竜汰。 後の東京市日本橋区(現・東京都中央区)日本橋箱崎にあった下総関宿藩邸生まれ。父親が脱藩し彰義隊(卍隊)に加わったため、貧苦の生活を送る。 1876年、東京外国語学校(現東京外国語大学)露語科の給費生となる。二葉亭四迷とは同級生だった。 卒業後統計院に勤めるが官制に伴って失職、二葉亭四迷の紹介で坪内逍遥の門下生となる。
森 鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日〈1862年2月… 森 鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日〈1862年2月17日〉 - 大正11年〈1922年〉7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医(軍医総監=陸軍中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。 石見国津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町)出身。東京大学医学部卒業。大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。 帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。
半井 桃水(なからい とうすい、1861年1月12日(万延元… 半井 桃水(なからい とうすい、1861年1月12日(万延元年12月2日)- 1926年(大正15年)11月21日)は、日本の小説家。 本名は冽(「きよし」、または「れつ」)だが「洌」との表記もある。幼名は泉太郎(せんたろう)。 半井湛太郎・藤の4人弟妹の長男として対馬厳原藩、現在の長崎県対馬市厳原町に生まれる。父の仕事の関係で少年期は釜山で過ごす。家計を助けるため12歳から釜山で働き始めるが、英語を学ぶため日本へ戻され、進学する。1875年(明治8年)に上京して尺振八の共立学舎に学び、いくつかの新聞社を転々としたあと(1888年・明治21年)に東京朝日新聞の記者となり、朝鮮語が話せることから通信員として釜山に7年間駐在する。