西田 稔(にしだ みのる、1935年1月24日 - 1994… 西田 稔(にしだ みのる、1935年1月24日 - 1994年6月12日)は、京都府出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 立命館高校では平井嘉明と同期。エースとして1951年秋季近畿大会府予選準決勝に進むが、城南高に敗退。翌1952年夏の甲子園府予選は決勝で山城高に完封負け、甲子園には届かなかった。卒業後は立命館大学へ進学。関西六大学野球リーグでは1954年春季リーグで優勝を経験。当時の投の二本柱である西尾慈高、紀藤広光がプロ入りしたため、同年秋季リーグからエースとして活躍。しかし大学をで中退し、1956年に阪急ブレーブスへ入団。リーグ通算成績は29試合登板、11勝16敗であった。 1958年には26試合に登板し6勝をあげる。
永田 徹登(ながた てつと、1935年1月21日 - )は、… 永田 徹登(ながた てつと、1935年1月21日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手(投手)。
堀本 律雄(ほりもと りつお、1935年1月20日 - 20… 堀本 律雄(ほりもと りつお、1935年1月20日 - 2012年1月14日)は、大阪府大阪市出身のプロ野球選手(投手)、コーチ、解説者・評論家。 桃山学院高校では3年次の1952年、夏の大阪府大会で準決勝に進出するが、明星高に敗退。高校卒業後は1953年に立教大学へ入学するが、同期のエース東実や1年下の杉浦忠の陰に隠れ、あまり活躍の機会はなかった。専ら他校のエースを真似た練習台の投手であった。他の大学同期に矢頭高雄がおり、一年下に長嶋茂雄がいた。大学卒業後は1957年に日通浦和へ入社し、同年の都市対抗では3勝を挙げて決勝に進出。熊谷組の島津四郎と投げ合うも完封を喫するが、この大会の久慈賞を獲得。
小淵 泰輔(こぶち たいすけ、1935年1月9日 - 201… 小淵 泰輔(こぶち たいすけ、1935年1月9日 - 2011年4月1日)は、福岡県大牟田市出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ。 三池工業高校を卒業後の1954年に東洋高圧大牟田へ入社。1955年の都市対抗では中心打者として準々決勝に進み、全鐘紡に惜敗したものの首位打者賞を獲得。1956年の大会では濃人渉監督率いる日鉄二瀬に補強され3番打者として活躍し、打撃賞を得る。この時のチームメイトには古葉毅・吉田勝豊・江藤慎一がいた。同年の第2回世界野球大会に社会人野球日本代表として出場。 1957年に西鉄ライオンズへ入団し、同年から一軍に定着。仰木彬の控えではあったが、主に二塁手として49試合に先発出場。
人見 武雄(ひとみ たけお、1935年1月5日 - )は、滋… 人見 武雄(ひとみ たけお、1935年1月5日 - )は、滋賀県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 大津東高(現膳所高校)では、1952年夏の甲子園県予選決勝で瀬田高に敗退、京津大会には進めなかった。日本大学へ進学。東都大学野球リーグでは在学中に5回優勝。1年生の春季リーグからレギュラーとなり三塁手、遊撃手として活躍。1954年秋季リーグでは穴吹義雄に次ぐ打率.345を記録。1955年春季リーグで優勝に貢献、最高殊勲選手賞を獲得した。直後の全日本大学野球選手権大会では、決勝で明大の秋山登に完封され準優勝。翌1956年の同大会でも、同じく決勝で関大の村山実に抑えられ準優勝に終わった。リーグ通算98試合出場、364打数101安打、打率.277、3本塁打。
植村 義信(うえむら よしのぶ、1935年1月5日 - 20… 植村 義信(うえむら よしのぶ、1935年1月5日 - 2023年5月30日)は、兵庫県芦屋市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。 息子はフジテレビプロデューサーの植村義勝。 当時スポーツの花形であった野球をするのは男子のステータスの一つであり、植村もその波に乗っかった。ボール一つに不自由した時代でもあり、芦屋高校で野球部に入ると「白球を触るだけでうれしかった」という。ボール拾いの際に1球こっそり持ち帰り、裸電球の下、自宅そばの土壁に当てて投球練習をした。この積み重ねが豪速球とドロップを生み出し、その後の人生も変えていった。 杉谷和男(大映)の1学年下、本屋敷錦吾(阪急・阪神)の1学年上で、2年次の1951年夏から3回連続で甲子園に出場。
高野 价司(たかの かいし、1935年1月1日 - )は、群… 高野 价司(たかの かいし、1935年1月1日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手(外野手)。 桐生工業高校では1952年、3年生の時に背番号10の控えながら、エース島津四郎を擁し、春の選抜に出場。2回戦(初戦)で豊橋時習館高を降し準々決勝に進むが、鳴尾高の中田昌宏に延長12回サヨナラ完封負けを喫する。同年夏の甲子園予選でも北関東大会準決勝に進出するが、豊田泰光、加倉井実のいた水戸商に惜敗。 卒業後は立教大学へ進学するが中退し、1955年に大映スターズへ入団。1年目の開幕直後から左翼手として起用され、チャンスメーカーとして活躍。同年は81試合に先発出場を果たす。翌1956年も準レギュラーとして起用されるが、その後は出場機会が減り、1958年限りで引退した。
河野 旭輝(こうの あきてる、1935年1月1日 - 201… 河野 旭輝(こうの あきてる、1935年1月1日 - 2014年1月25日)は、和歌山県和歌山市出身のプロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ・監督。 1956年に年間85盗塁を記録し、当時の日本記録を樹立。同年の最多盗塁死29はその後破られていない。セ・パ両リーグで盗塁王を獲得した唯一の人物である。 大阪府で生まれるも、戦争中に疎開で和歌山県へ引っ越した。 和歌山工業から野球部ができたばかりの松下電器に入社。主に一塁手、遊撃手としてプレーし更に投手としてマウンドに立つこともあった。1953年の都市対抗にチームとしての初出場を果たす。 1954年に阪急ブレーブスへ入団し、1年目の同年は開幕から二塁手に抜擢され定位置を獲得。
島田 雄二(しまだ ゆうじ、1935年1月1日 - )は、熊… 島田 雄二(しまだ ゆうじ、1935年1月1日 - )は、熊本県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。
川崎 孝(かわさき たかし、1935年 - )は、和歌山県和… 川崎 孝(かわさき たかし、1935年 - )は、和歌山県和歌山市出身の元アマチュア野球選手・指導者である。ポジションは外野手。 県立和歌山商業高校では主将を務めた。卒業後には関西学院大学に入学し、そこでも主将を務め、関西大学の村山実や立教大学の長嶋茂雄と対戦したことがあった。 大学卒業後は1958年に三菱重工業に入社する。1969年から三菱重工神戸の監督を務め、翌年の都市対抗野球では、チームを準優勝に導いた。 一旦、社業に戻った後に、1982年から1984年までに再び監督を務めた。 その後は、日本野球連盟の常任理事、センバツ高校野球の選考委員、兵庫県野球連盟会長等を歴任した。 またその一方で、日本放送協会で高校野球解説者を務めた。
喰田 孝一(しょくた こういち、1935年/1936年 - … 喰田 孝一(しょくた こういち、1935年/1936年 - )は、日本の高校野球指導者。長く福岡県立東筑高等学校野球部監督を務めた。
鈴木 三好(すずき みよし、1935年 - 2019年9月2… 鈴木 三好(すずき みよし、1935年 - 2019年9月27日)は、神奈川県藤沢市出身の元アマチュア野球選手、監督である。ポジションは投手。 藤嶺藤沢高等学校、法政大学を経て、神奈川大学に転校する。大学卒業後は、社会人野球のリッカーに入団する。現役時代は下手投げの投手として活躍した。 1959年から1998年までに神奈川大学の監督を務め、神奈川大学野球リーグでは40回のリーグ優勝を遂げ、日米大学野球日本代表のコーチも務めた。
山下 登(やました のぼる、1934年12月28日 - 19… 山下 登(やました のぼる、1934年12月28日 - 1976年7月16日)は、兵庫県出身のプロ野球選手(投手)。近鉄、南海に在籍した。
村井 保雄(むらい やすお、1934年12月22日 - )は… 村井 保雄(むらい やすお、1934年12月22日 - )は、日本の元高等学校・大学野球選手、および高等学校・大学野球の指導者(監督)である。
久保田 治(くぼた おさむ、1934年12月19日 - )は… 久保田 治(くぼた おさむ、1934年12月19日 - )は、愛知県豊川市出身の元プロ野球選手(投手)、プロ野球審判員。
高倉 照幸(たかくら てるゆき、1934年12月8日 - )… 高倉 照幸(たかくら てるゆき、1934年12月8日 - )は、熊本県熊本市出身の元プロ野球選手(外野手)。
荻 孝雄(おぎ たかお、1934年12月6日 - 2014年… 荻 孝雄(おぎ たかお、1934年12月6日 - 2014年12月)は、福岡県久留米市出身のプロ野球選手。
田中 守(たなか まもる、1934年12月1日 - 2004… 田中 守(たなか まもる、1934年12月1日 - 2004年5月18日)は、兵庫県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。1956年から1958年の登録名は岸上 守。野球選手の田中力は息子。
西村 貞朗(にしむら さだあき、1934年11月25日 - … 西村 貞朗(にしむら さだあき、1934年11月25日 - 2015年8月3日)は、香川県仲多度郡琴平町出身のプロ野球選手(投手)、野球解説者、実業家。 史上5人目の完全試合達成者。 琴平高校ではエースとして活躍。1951年、2年生の時に秋季四国大会県予選決勝に進み、高松一高の荒井健と投げ合うが完封を喫する。翌1952年夏は県予選決勝で高松一高を降し優勝、北四国大会に進出するが八幡浜高に敗退。春夏とも甲子園出場はならなかった。 1953年に西鉄ライオンズに入団。同期入団に豊田泰光、高倉照幸、河村久文がいる。また、同郷の中西太がいたためチームにすぐ溶け込むことができた。 本格派右腕として期待され、開幕直後から先発として起用されるが、結果を残せず同年は2勝に終わる。
岡本 教平(おかもと きょうへい、1934年11月21日 -… 岡本 教平(おかもと きょうへい、1934年11月21日 - 没年不明)は、静岡県掛川市出身のプロ野球選手。
蓜島 久美(はいじま ひさみ、1934年11月20日 - 2… 蓜島 久美(はいじま ひさみ、1934年11月20日 - 2022年6月28日[要出典])は、埼玉県出身の元プロ野球選手(捕手)。 埼玉県立大宮高等学校から1953年に南海ホークスに入団。強肩強打の捕手として期待されたが、筒井敬三、松井淳がいたため1955年まででわずか3試合の出場に留まり、1年後輩の野村克也が1956年に正捕手の座を掴むと1959年までの4年間で2試合しか出場できなかった。1960年途中に大洋ホエールズへ移籍。南海在籍時代は1本も安打を打てなかったが、翌1961年に唯一の安打を打っている。1962年限り引退した。 1962年9月22日の中日ドラゴンズ戦は三原脩監督が7人もの当て馬(偵察オーダー)を起用した試合であるが、蓜島は「4番・遊撃」で出場し、試合開始とともに桑田武と交代した。
寺田 陽介(てらだ ようすけ、1934年11月19日 - )… 寺田 陽介(てらだ ようすけ、1934年11月19日 - )は、福岡県福岡市出身の元プロ野球選手(一塁手)。右投右打。 博多工業から濃人渉が監督を務める日鉄二瀬に進む。1954年から2年連続で都市対抗野球大会に出場。1955年の大会では東洋高圧大牟田に補強され、日立製作所との1回戦で決勝本塁打を放つなど活躍。準々決勝で全鐘紡に敗退するが好打者として注目を集める。この時のチームメートに小淵泰輔がいた。 1956年に南海ホークスに入団。入団に当たっては地元の西鉄ライオンズとの間で激しい争奪戦があり、西鉄が投手の島原幸雄を獲得の見返りに日鉄に譲渡するという噂まで流れたほどであった[要出典]。当時、南海の監督であった鶴岡一人は、守備はよい一方で、「穴が多く、いい投手にかかると打てないという欠点」があり、期待ほどの実績はあげられなかったと評しているものの、南海が400フィート打線と称していた打線の担い手の一人と位置づけられていた。
服部 茂次(はっとり しげじ、1934年11月17日 - 1… 服部 茂次(はっとり しげじ、1934年11月17日 - 1967年7月)は、埼玉県北埼玉郡北河原村出身のプロ野球選手。 埼玉県立熊谷高等学校では1951年、2年生の時にエースとして夏の甲子園に出場。準決勝では西山和良のいた県和歌山商を相手にノーヒットノーランを達成。しかし決勝は平安高に前半で大量失点、その後は平安のエース清水宏員を打ち崩せず、4-7で敗れ準優勝に終わる。この時のチームメートに一塁手の田岡利久(大映スターズ)がいた。翌1952年は病を得て登板できず、活躍の場はなかった。 1954年に洋松ロビンスへ入団。4月21日に巨人を相手に初先発を果たすが、同年は4敗と結果を残せなかった。しかし1955年には開幕3試合目から先発陣の一角として活躍、2完封を含む5勝を記録する。
杉尾 富美雄(すぎお ふみお、1934年11月9日 - 20… 杉尾 富美雄(すぎお ふみお、1934年11月9日 - 2002年11月23日)は、日本のプロ野球選手。昭和中期に活躍した。
森本 達幸(もりもと たつゆき、1934年11月6日 - )… 森本 達幸(もりもと たつゆき、1934年11月6日 - )は、日本の高校野球指導者。47年間(連続)、奈良県立郡山高等学校の野球部監督を務めたことで知られる。現役時代は投手。左利き。
川本 徳三(かわもと とくぞう、1934年10月24日 - … 川本 徳三(かわもと とくぞう、1934年10月24日 - )は、広島県広島市出身の元プロ野球選手(投手)。 基町高校では1951年、2年生エースとして広島県大会でチーム初のベスト4まで進出した。この年に広島カープ後援会が川本に目を付け、左投手不足のチーム事情もあって、広島に入団させるため勧誘した。高校2年生と言うこともあって何度も入団を拒否していたが、3年次の1952年には自宅近くで電器店を営む後援会役員に石本秀一監督の所へ連れて行かれた。尾道西高グラウンドの紅白戦に呼ばれ、前年の県大会で投げ合い、すでに広島へ入団していた大田垣喜夫の投げている姿を見た。石本から「入ってやってみんか」と言われ、開幕6日前の1952年3月15日、ついに入団を決意した。
坂上 惇(さかがみ あつし、1934年10月22日 - 20… 坂上 惇(さかがみ あつし、1934年10月22日 - 2019年6月29日)は、熊本県玉名郡玉名町出身のプロ野球選手(投手)。 玉名高校から1952年に西鉄ライオンズへ入団。 1954年シーズンにはローテーションに入り、7勝を挙げた。 1955年シーズン途中に大映スターズへ移籍。1957年に引退。 引退後、「坂上式バッティングマシン」を発案。知人で発明家だった河辺忠夫に相談して開発したもので、当時、自動式の打撃練習マシンは国内外にはなく、試作機を試した中西太や、長嶋茂雄も驚いたという。 そして旧交があった中澤会長のお墨付きをもらい、西鉄ライオンズや巨人軍など8球団が次々に導入。販売を手がける坂上は一躍、時の人となった。
伊川 義則(いかわ よしのり、1934年10月8日 - )は… 伊川 義則(いかわ よしのり、1934年10月8日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手。 大阪東高校から近畿大学を経て、1957年に近鉄パールスへ入団。1958年に引退。
藤尾 茂(ふじお しげる、1934年〈昭和9年〉10月8日 … 藤尾 茂(ふじお しげる、1934年〈昭和9年〉10月8日 - 2022年〈令和4年〉10月8日)は、兵庫県西宮市出身のプロ野球選手(捕手、外野手)。 兵庫県西宮市の代々歯科医を開業する家の男3人兄弟の末っ子として生まれる。長兄は小児科医、次兄は歯科医で、父親は藤尾を外科医にする希望を持っていたという。実家は甲子園球場から徒歩20分ほどの場所にあり、球場の声援が家まで聞こえたが、藤尾自身は小学生の頃から巨人ファンであった。 小学校時代から中田昌宏とバッテリーを組み、1950年に鳴尾高に揃って入学。1951年の春の選抜では六番打者、三塁手として出場。決勝に進出するが鳴門高に9回サヨナラ逆転負けを喫した。
高山 邦男(たかやま くにお、1934年10月7日 - )は… 高山 邦男(たかやま くにお、1934年10月7日 - )は、長野県長野市出身の元プロ野球選手。 松代高校から1953年に名古屋ドラゴンズへ入団。1956年に退団し、長野鉄道管理局に入社した。
伊奈 努(いな つとむ、1934年10月1日 - 1984年… 伊奈 努(いな つとむ、1934年10月1日 - 1984年9月1日)は、愛知県宝飯郡御津町(現:豊川市)出身のプロ野球選手。1953年から1956年の登録名は伊奈 勉(読み同じ)。
山本 義司(やまもと よしじ、1934年9月30日 - 20… 山本 義司(やまもと よしじ、1934年9月30日 - 2004年8月24日)は、大阪府出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
足木 敏郎(あしき としろう、1934年9月27日 - )は… 足木 敏郎(あしき としろう、1934年9月27日 - )は、愛知県宝飯郡一宮村(現:豊川市)出身の元プロ野球選手。
木村 保(きむら たもつ、1934年9月24日 - 2005… 木村 保(きむら たもつ、1934年9月24日 - 2005年3月1日)は、大阪府出身のプロ野球選手(投手・外野手)・コーチ。
大木 護(おおき まもる、1934年9月15日 - )は、静… 大木 護(おおき まもる、1934年9月15日 - )は、静岡県出身の元プロ野球選手(外野手)。 富士高校から1954年に高橋ユニオンズへ入団。 1957年に球団吸収合併のため大映ユニオンズへ移籍し、同年引退。 長打力に期待されながら公式戦では1本も本塁打を打てなかったが、ユニオンズが解散する直前の東映フライヤーズとのオープン戦では本塁打を打っている。と同時にこれが非公式ではあるが「ユニオンズ最後の本塁打」であった。
国松 彰(くにまつ あきら、1934年9月14日 - )は、… 国松 彰(くにまつ あきら、1934年9月14日 - )は、元プロ野球選手(外野手)。現在は亀屋万年堂の代表取締役会長。
二宮 政昭(にのみや まさあき、1934年9月8日 - )は… 二宮 政昭(にのみや まさあき、1934年9月8日 - )は、愛媛県西宇和郡三瓶町(現:西予市)出身の元プロ野球選手(外野手)。 愛媛県立八幡浜高等学校から1953年に大映スターズへ入団。 1956年オフに大洋ホエールズへ移籍し、1958年に引退した。
桂本 和夫(かつらもと かずお、 1934年(昭和9年)9月… 桂本 和夫(かつらもと かずお、 1934年(昭和9年)9月5日 - 没年不明)は、北海道増毛町出身のアマチュアレスリング選手およびプロ野球選手。メルボルンオリンピック5位入賞。 北海道留萌支庁増毛郡増毛町に生まれる。 北海道増毛高等学校ではレスリングで活躍しながら、野球部でもエースを務める二足の草鞋を履いた。中央大学へ進学するとレスリング専念し、選手として力を付けた。増毛高-中央大のラインは松江喜久弥の時代から始まり、中大レスリング部黄金時代の屋台骨となり、メルボルンオリンピック金メダリストの池田三男やメルボルン・ローマ両オリンピック4位入賞の浅井正、そして佐藤義らとともに高校時代に全国優勝を経験した。
田村 満(たむら みつる、1934年8月28日 - )は、静… 田村 満(たむら みつる、1934年8月28日 - )は、静岡県出身の元プロ野球選手(投手)。 静岡県立富士高等学校から明治大学に進学するが、人間関係が原因で大学を中退。1954年に先輩の勧めで、新球団・高橋ユニオンズの春季キャンプにテスト生として参加し、実力を認められて高橋に入団した。 プロ2試合目の登板となった6月12日の対西鉄ライオンズ戦で8回表にプロ野球記録のイニング7与四球を記録した。この試合を最後に登板機会がないままシーズンを終了。シーズンオフに、球団から来期の契約を結ばない旨の通告を受けるが、投手コーチ・若林忠志の配慮により、2月にテストをするので、春季キャンプには参加するようにとの連絡を受ける。
北村 親夫(きたむら ちかお、1934年8月24日 - )は… 北村 親夫(きたむら ちかお、1934年8月24日 - )は、香川県出身の元プロ野球選手。 丸亀第一高校から1953年に阪急ブレーブスへ入団。1955年に引退。
鈴木 義文(すずき よしふみ、1934年8月15日 - )は… 鈴木 義文(すずき よしふみ、1934年8月15日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手。 土浦第三高校、全藤倉、東京ガスを経て1957年に中日ドラゴンズへ入団。1959年に退団した。
原田 信吉(はらだ しんきち、1934年8月15日 - )は… 原田 信吉(はらだ しんきち、1934年8月15日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。
兵頭 冽(ひょうどう ただし、1934年8月9日 - 201… 兵頭 冽(ひょうどう ただし、1934年8月9日 - 2013年8月)は、愛媛県出身のプロ野球選手。ポジションは内野手。 八幡浜高校時代に若林忠志のスカウトを受け、1953年に毎日オリオンズへ入団。毎日時代は2年間で25試合の出場に留まった。 1955年に同年より若林がコーチに就任したトンボユニオンズに移籍。長身を活かした力強スイングを評価され、春のキャンプでは主力級の扱いを受けた。しかし、兵頭は周囲の期待に応えられず一割台の打率に低迷した。なお、8月2日の毎日戦に「高校時代に投手をやっていたから」との理由で敗戦処理ながら投手として初登板し、無失点に抑える。この起用に対しては、兵頭本人も「まさか本当に登板するとは」と苦笑したという。
長坂 衛(ながさか まもる、1934年8月8日 - )は、静… 長坂 衛(ながさか まもる、1934年8月8日 - )は、静岡県出身のプロ野球選手(投手)。 1954年に西鉄ライオンズに入団。2年目の1955年に公式戦の開幕投手を務め、8月3日の近鉄戦でプロ初勝利を挙げた。1957年限りで現役を引退した。
福田 昌久(ふくだ まさひさ、1934年7月31日 - 19… 福田 昌久(ふくだ まさひさ、1934年7月31日 - 1988年11月29日)は、福島県いわき市出身のプロ野球選手(投手、外野手)・コーチ・監督、解説者。 磐城高校、常磐炭坑、専修大学を経て、1956年に南海ホークスへ投手として入団。3年目の1958年には外野手へ転向し、主に左腕対策として起用され、1960年には自己最多の6本塁打をマーク。1961年に27試合、1962年には10試合に先発出場を果たす。長打力と強肩が売りで、巨漢で怪力の福田は打撃練習こそ打球が凄まじく、タイヤを叩く打撃練習では軸のなる支柱を折ってしまったりするが、肝心の試合になると「扇風機」と仇名がつくほどカーブが全く打てなかった。
小山 正明(こやま まさあき、1934年7月28日 - 20… 小山 正明(こやま まさあき、1934年7月28日 - 2025年4月18日)は、兵庫県明石市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。 優れた制球力から「投げる精密機械」と称えられ、金田正一、米田哲也に次ぐ日本プロ野球歴代3位の320勝、同5位の290完投を記録した。通算無四球試合も鈴木啓示に次ぐ歴代2位。2001年に野球殿堂入り。 小山が通った高砂高校はもともと女学校で、小山の入学する1年前の1949年に男女共学となって野球部が設立されたばかりであり、野球では全く無名であった。小山は高校3年秋に進学を勧める父親を説得し、その父親のつてで大阪タイガースの入団テストを受ける。なお、小山の父が息子の入団テストを依頼する手紙を監督の松木謙治郎宛に書いたが、それが大変な達筆であったと松木は数十年後に回顧しており、小山本人からはたいした印象を受けなかったとされる。
江崎 照雄(えざき てるお、1934年7月21日 - 201… 江崎 照雄(えざき てるお、1934年7月21日 - 2016年2月19日)は、愛知県出身のプロ野球選手。ポジションは投手。
田所 善治郎(たどころ ぜんじろう、1934年7月17日 -… 田所 善治郎(たどころ ぜんじろう、1934年7月17日 - )は、静岡県焼津市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
東 実(あずま みのる、1934年7月17日 - )は、和歌… 東 実(あずま みのる、1934年7月17日 - )は、和歌山県海南市[1]出身の元プロ野球選手(投手)。
君野 健一(きみの けんいち、1934年7月10日 - )は… 君野 健一(きみの けんいち、1934年7月10日 - )は、滋賀県出身のプロ野球選手(一塁手、外野手)。右投右打。 滋賀県立瀬田高等学校では、エースとして1952年夏の甲子園予選京津大会決勝に進むが、山城高に敗退。 1953年に近鉄パールスへ入団し野手転向。1954年には8月から一塁手として起用され、11試合に先発出場を果たす。同年は1試合ながら四番打者も務めた。1955年はウエスタン・リーグで14打点を記録し、初代打点王に輝いた。1956年には武智修と併用され32試合、1957年には自己最多の51試合に先発する。しかしその後は故障もあって出場機会が減少、1958年限りで引退した。