加倉井 実(かくらい みのる、1934年6月29日 - 19… 加倉井 実(かくらい みのる、1934年6月29日 - 1998年6月23日)は、茨城県水戸市出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 水戸商業高校では高校同期の豊田泰光らとともにクリーンアップを組み、一塁手・三番打者として活躍、控え投手としても起用される。1951年秋季関東大会県予選は決勝で竜ヶ崎一高に敗退。1952年の春季関東大会では準決勝に進み、エース衆樹資宏を擁する湘南高と延長15回の熱戦の末にサヨナラ負けを喫する。同年の夏の甲子園に出場。1回戦で都留高のエース矢頭高雄を打ち崩し2回戦に進むが、成田高に敗退。この試合ではエース高畑正盛(富士重工)をリリーフして甲子園初登板を果たす。 1953年に読売ジャイアンツへ入団。
田代 照勝(たしろ てるかつ、1934年6月27日 - 20… 田代 照勝(たしろ てるかつ、1934年6月27日 - 2003年10月8日)は、岡山県出身のプロ野球選手、プロ野球審判員。ポジションは投手。
矢頭 高雄(やとう たかお、1934年6月25日 - 200… 矢頭 高雄(やとう たかお、1934年6月25日 - 2003年3月9日)は、日本のプロ野球選手(外野手、三塁手)。 山梨県大月市出身。都留高校では、1952年の夏の甲子園にエースとして出場。この時にバッテリーを組んだのは、1歳年下で、後に投手として大阪タイガースに入団し、新人王になった西村一孔であった。この甲子園では、1回戦で豊田泰光を擁する水戸商に敗れた。 高校卒業後は立教大学へ進学し野手へ転向。東京六大学野球リーグでは1953年春季リーグで優勝を経験するが、その後は明大、早大に圧倒され優勝には届かなかった。4年生時には主将を務めた。大学同期に東実、堀本律雄、1年下に長嶋茂雄、杉浦忠らがいる。
増本 一郎(ますもと いちろう、1934年6月16日 - )… 増本 一郎(ますもと いちろう、1934年6月16日 - )は、山口県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。
石田 泰三(いしだ やすぞう、1934年6月11日 - )は… 石田 泰三(いしだ やすぞう、1934年6月11日 - )は、福岡県豊前市出身の元プロ野球選手(内野手)。
若杉 輝明(わかすぎ てるあき、1934年6月10日 - )… 若杉 輝明(わかすぎ てるあき、1934年6月10日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(投手)。 日大三高ではエースとして活躍。1951年夏の甲子園都予選で準決勝に進むが、荏原高に敗退。同年の秋季東京大会で優勝し、高校地区代表大会に関東代表として出場。準決勝では土佐高の池上武雄(慶大-四国銀行)と投げ合い完封勝ち。決勝でも橋本力を打の主軸とする函館西高を降し優勝。3年生時の1952年には春夏の甲子園に出場。春の選抜は2回戦(初戦)で太田正男、河津憲一がいた長崎商に敗退。夏の選手権は準々決勝に進み、またも長崎商と対戦。太田との投手戦になるが、延長11回の末に0-1で敗れた。同年秋の東北3県国体にも出場。
佐藤 良一(さとう りょういち、1934年6月8日 - 20… 佐藤 良一(さとう りょういち、1934年6月8日 - 2016年11月3日)は、岩手県盛岡市出身のプロ野球選手。 盛岡工業高校から日本石油を経て1955年に近鉄パールスへ入団。 1958年に退団し、盛岡鉄道管理局でプレーを続けた。後に監督になり、宮城建設でも監督を務めた。 2016年11月3日に死去。
瀬野 浄(せの きよし、1934年5月23日 - 2008年… 瀬野 浄(せの きよし、1934年5月23日 - 2008年2月17日)は、広島県出身のプロ野球選手。 呉阿賀高校から岡山鉄道管理局を経て、1955年に国鉄スワローズへ入団。1957年に引退。
石川 緑(いしかわ みどり、本名:伊藤 緑郎(いとう ろくろ… 石川 緑(いしかわ みどり、本名:伊藤 緑郎(いとう ろくろう)、1934年5月10日 - 2004年4月20日)は、愛知県豊川市出身のプロ野球選手。愛称は「ミドリ」。
大塚 安則(おおつか やすのり、1934年5月8日 - 19… 大塚 安則(おおつか やすのり、1934年5月8日 - 1991年6月3日)は、香川県三豊郡詫間町出身のプロ野球選手(投手)。 高瀬高校から1953年に西鉄ライオンズへ入団。 1955年に大映スターズへ移籍。同年開催されたイースタン・リーグのオールスターゲームにも出場した。1956年に引退。
平井 嘉明(ひらい よしあき、1934年5月6日 - )は、… 平井 嘉明(ひらい よしあき、1934年5月6日 - )は、京都府出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手(主に遊撃手)。 立命館高校では西田稔と同期。1951年秋季近畿大会府予選準決勝に進むが、城南高に敗退。翌1952年夏の甲子園府予選は決勝で山城高に完封負け、甲子園には届かなかった。1953年に卒業後関西大学へ進学し野球部所属。 関西六大学野球リーグでは在学中2回優勝。4回生となった1956年、同期のエース法元英明と1年下の中西勝己投手が中退しプロ入り後、2年生エース村山実が好投し全日本大学野球選手権大会に出場、決勝で島津四郎や人見武雄らのいた日大を降し選手権初優勝を飾る。東京六大学以外の大学としては初の優勝であった。
坂本 盛明(さかもと もりあき、1934年5月5日 - 19… 坂本 盛明(さかもと もりあき、1934年5月5日 - 1987年11月3日)は、熊本県出身のプロ野球選手。
権藤 正利(ごんどう まさとし、1934年5月1日 - )は… 権藤 正利(ごんどう まさとし、1934年5月1日 - )は、佐賀県出身の元プロ野球選手(投手)。
鵜飼 昭雪(うかい あきゆき、1934年4月25日 - )は… 鵜飼 昭雪(うかい あきゆき、1934年4月25日 - )は、愛知県出身の元プロ野球選手。
古川 啓三(ふるかわ けいぞう、1934年4月25日 - 1… 古川 啓三(ふるかわ けいぞう、1934年4月25日 - 1984年10月6日)は岡山県倉敷市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。
佐々木 重徳(ささき しげのり、1934年4月21日 - )… 佐々木 重徳(ささき しげのり、1934年4月21日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手。右投右打で、ポジションは二塁手。
衆樹 資宏(もろき すけひろ、1934年4月19日 - 19… 衆樹 資宏(もろき すけひろ、1934年4月19日 - 1999年6月25日)は、神奈川県藤沢市出身のプロ野球選手(外野手)。 湘南高校では2年生の時、エースとして1951年春の選抜に出場したが、1回戦で長崎西高に0-1で敗れた。1年上のチームメートには、遊撃手の佐々木信也がいた。翌1952年春季関東大会では準々決勝から3試合連続延長戦でサヨナラ勝ち、決勝で宇都宮高を下し優勝を飾った。同年夏の甲子園県予選でもエース、4番打者として決勝に進出するが小坂佳隆らのいた法政二高に敗れた。 卒業後は慶應義塾大学に入学し、野手に転向する。東京六大学野球リーグでは1955年春季リーグで戦後初の三冠王となり、同年の第2回アジア野球選手権大会日本代表(東京六大学リーグ選抜チーム)に選出された。
久保山 誠(くぼやま まこと、1934年4月15日 - 20… 久保山 誠(くぼやま まこと、1934年4月15日 - 2022年7月17日)は、佐賀県三養基郡基山町出身のプロ野球選手(捕手)・監督。 鳥栖工業高校卒業後の1953年に西鉄ライオンズへ入団し、2年目の1954年に初出場。リーグ優勝した1956年には自己最多の59試合出場で4本塁打を放ち、巨人との日本シリーズでは7戦中2戦に3番手としてマスクを被る。三原脩監督のポスト日比野強化の構想により、和田博実・田辺義三と正捕手の座を競い合ったが、結局は同年がキャリアハイとなった。1960年には阪急ブレーブスへ移籍するが、1年で退団。 退団後は阪急のチームメイトであった藤木孝二と共に電気化学工業へ入社し、引退後は監督に就任。
斎田 忠利(さいだ ただとし、1934年4月11日 - )は… 斎田 忠利(さいだ ただとし、1934年4月11日 - )は、プロ野球選手、審判人。元パシフィック・リーグ審判部長。東京都出身。
伊香 輝男(いこう てるお、1934年4月9日 - 2009… 伊香 輝男(いこう てるお、1934年4月9日 - 2009年6月1日)は、大阪府寝屋川市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ。 同志社香里高校ではエースとして活躍。同志社大学に進学し、2年生から一塁手、外野手も兼ねる。関西六大学野球リーグでは、中心打者として1955年春季リーグで優勝を経験。同年の全日本大学野球選手権大会では準決勝で日大に延長10回惜敗。リーグ通算72試合に出場し、243打数73安打、打率.300、1本塁打の成績を残した。大学同期に青木稔、国松彰(いずれも中退)がいる。 1957年に近鉄パールスへ入団。強肩好打の外野手と期待され、1年目から一軍に定着。2年目の1958年には主に中堅手として65試合に先発出場、翌1959年は主に左翼手として71試合に先発する。
伊東 一雄(いとう かずお、1934年4月7日 - 2002… 伊東 一雄(いとう かずお、1934年4月7日 - 2002年7月4日)は、日本の野球解説者、メジャーリーグ評論家。 「パンチョ伊東」の愛称・通称で広く知られた。 東京都豊島区西巣鴨に生まれ、小学生時は戦火を逃れるために千葉県市川市へ転居し、以後居住する。 子供時代から父親の影響で野球に親しみ、後楽園球場の東京巨人軍戦、神宮球場の大学野球に通いスコアカード記入などをした。1942年5月24日に後楽園球場の日本プロ野球史上最長の大洋軍対名古屋軍の延長28回戦や、1953年10月31日に大友工が日米野球でニューヨーク・ジャイアンツ相手に完投勝利を収めた試合も観戦した。 西巣鴨第四小、市川小、市川一中を経て、都立三高へ進学し、千葉大学文理学部を中退した。
森永 勝也(もりなが かつや、1934年4月5日 - 199… 森永 勝也(もりなが かつや、1934年4月5日 - 1993年12月7日)は、山口県柳井市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。息子は元俳優の森永健司。 1958年から1962年までの登録名は「森永 勝治」。 柳井商工ではエースとして活躍し、2年次の1951年に秋季中国大会県予選準決勝へ進むが、下関商に敗れる。3年次の1952年には夏の甲子園へ出場し、2回戦(初戦)でエース堀内庄を擁する松商学園に完封勝ち。準々決勝では、この大会に優勝した芦屋高の植村義信と投げ合うが、0-2と完封を喫する。 高校卒業後は1953年に専修大学へ進学し、外野手に転向。東都大学野球リーグでは、1年次の同年春季リーグからレギュラーになり在学中全試合に出場し、2度の優勝を経験。
三宅 秀史(みやけ ひでし、1934年4月5日 - )は、岡… 三宅 秀史(みやけ ひでし、1934年4月5日 - )は、岡山県出身の元プロ野球選手(内野手)。登録名は1966年から現役引退まで「三宅 伸和(-のぶかず)」、現役引退後は「三宅 培司」とした。
深沢 建彦(ふかさわ たけひこ、1934年4月3日 - ) … 深沢 建彦(ふかさわ たけひこ、1934年4月3日 - ) は、山梨県出身のプロ野球選手。ポジションは投手。 甲府一高を卒業し、国鉄スワローズの入団テストを受け、合格し入団した。背番号は43。1955年に背番号が21に変更。 1956年に現役を引退し、1957年に先輩の中村栄に引き連れられ小林勝己とともに富士重工太田に入団。同年夏には都市対抗野球に出場した。
小畑 正治(こばた まさはる、1934年4月3日 - 202… 小畑 正治(こばた まさはる、1934年4月3日 - 2025年1月22日)は、広島県呉市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 呉三津田高校では、1951年の春の甲子園に出場。1回戦で明治高校と対戦するが、11回延長の末1-4で敗れた。高校の先輩に広岡達朗、1学年下には実業家の碓井優がいる。 1951年に呉市出身で南海ホークスの監督であった鶴岡一人が視察に訪れ、スカウトされるが、もともと大学進学を志望しており、プロ野球界へ進むつもりがなかった。しかし、大日本帝国海軍であった父親が退役し、健康状態も悪く働くことが困難な状態で、経済的に大学進学を断念、両親や兄姉を金銭面で支えるため、悩んだ末に、卒業後の予定を繰り上げ、高校を中退し、南海ホークスに入団することにした。
山岸 静馬(やまぎし しずま、1934年4月2日 - 199… 山岸 静馬(やまぎし しずま、1934年4月2日 - 1990年10月4日)は、長野県上水内郡信州新町出身のプロ野球選手。 長野北高校から1954年に高橋ユニオンズへ入団。ヴィクトル・スタルヒンがプロ最後の先発登板となった1955年10月7日の試合では先発捕手として出場した。 1956年に球団が吸収合併されたため1957年は大映ユニオンズ所属となり同年に退団。退団後は電電信越でプレーし都市対抗野球大会にも出場した。
後藤 修(ごとう おさむ、1934年4月1日 - 2019年… 後藤 修(ごとう おさむ、1934年4月1日 - 2019年9月10日)は、静岡県出身のプロ野球選手(投手)・ゴルフコーチ。 現役時代は日本プロ野球史上最多の8球団を渡り歩いたジャーニーマンで、移動型民族になぞらえて「ジプシー後藤」「ジプシーの修」と呼ばれた。 磐田南高校時代は全く無名の存在であったが、アマチュア時代からトレーニング方法について手紙でやりとりをしていた新田恭一が松竹ロビンス監督に就任した関係で、1952年に松竹へ入団。 前述のとおり、松竹(1952年)を皮切りに、大洋松竹ロビンス(1953年 - 1954年)→東映フライヤーズ(1955年)→大映スターズ(1956年)→読売ジャイアンツ(1957年 - 1958年)→近鉄バファロー(1959年 - 1960年)→南海ホークス(1961年 - 1962年)→西鉄ライオンズ(1963年)と8球団に所属。
中野 健一(なかの けんいち、1934年3月21日 - )は… 中野 健一(なかの けんいち、1934年3月21日 - )は、毎日オリオンズ に在籍したプロ野球選手(内野手)。 法政一高では1951年春季東京大会で準決勝に進むが、沖山光利のいた明治高に敗退。同年夏の甲子園都予選では3回戦で成城高に惜敗。卒業後は法政大学に進学。東京六大学野球リーグでは優勝に届かなかったが、遊撃手として活躍。1955年秋季リーグでは打率.383で首位打者を獲得、ベストナインにも選出された。大学同期に長谷川繁雄がいる。 卒業後は 日本石油に入社。1956年の都市対抗では一番打者としてエース藤田元司を擁し決勝に進出。熊谷組を降しチームを優勝に導く。この時のチームメートに花井悠らがいる。
籠尾 良雄(かごお よしお、1934年3月10日 ‐ 200… 籠尾 良雄(かごお よしお、1934年3月10日 ‐ 2002年11月23日)は、日本の高校野球指導者。高知県出身。 高知県宇佐町(現在の土佐市)生まれ。土佐中学校・高等学校に進学。高校では野球部に入らず、溝淵峯夫監督からコーチ術を学び、休日に帰郷して宇佐中学校で教えていた。早稲田大学教育学部でも野球部に入らず森茂雄監督にコーチ術を学び、宇佐中学校野球部監督として指導していた。当時の教え子に片田謙二、横山小次郎、有藤通世、浜村孝、山下司、井本隆がいる。卒業後は帰郷して中学校教師となり、1963年に高知市立高知商業高等学校教諭に転じたが、野球部の部長しか空きがないため1学期で退職、母校の土佐高校教諭に転じた。
町田 行彦(まちだ ゆきひこ、1934年3月8日 - 202… 町田 行彦(まちだ ゆきひこ、1934年3月8日 - 2025年9月22日)は、長野県長野市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ・監督。 長野北高校では、2年生次の1950年夏の甲子園予選信越大会決勝に進むが、松商学園に敗退し甲子園出場を逸する。同年の秋季北信越大会では優勝を飾るが、翌1951年春の選抜には選出されなかった。高校通算36本塁打。高校同期に松橋慶喜、1年下に山岸静馬がいた。 1952年に国鉄スワローズへ入団。入団後まもなく強肩を見込まれて、本来の守備位置である三塁手から外野手にコンバートされた。1953年には開幕から右翼手として起用され、7月には杉浦清に代わり初の四番打者も経験。1954年には初の規定打席(29位、打率.250)に達する。
田岡 利久(たおか としひさ、1934年2月15日 - )は… 田岡 利久(たおか としひさ、1934年2月15日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手。 埼玉県立熊谷高等学校では3年生の時に4番一塁手として第33回夏の甲子園に出場。決勝まで進出するが、平安高校に敗れて準優勝。 プロ野球では一年目から試合に出場し、ヒット、得点、四球を上げるなどの活躍をした。 1952年に大映スターズへ入団。1954年に退団した。
和田 勇(わだ いさむ、1934年2月6日 - )は、毎日オ… 和田 勇(わだ いさむ、1934年2月6日 - )は、毎日オリオンズに在籍したプロ野球選手(投手)。 1952年7月16日に西鉄対毎日戦で発生した暴動事件(平和台事件)で、事件が起きた時に毎日側の投手として登板していた。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
秋山 登(あきやま のぼる、1934年2月3日 - 2000… 秋山 登(あきやま のぼる、1934年2月3日 - 2000年8月12日)は、岡山県岡山市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。
酒井 敏明(さかい としあき、1934年1月12日 - 20… 酒井 敏明(さかい としあき、1934年1月12日 - 2007年8月15日)は三重県桑名市出身のプロ野球選手、新聞記者。現役時代のポジションは捕手。 三重県立桑名高等学校から早稲田大学に進学。東京六大学野球リーグでは在学中3回優勝。1年下のエース木村保とバッテリーを組む。4年生時の1955年秋季リーグでは、長嶋茂雄(立大)らと共にベストナイン(捕手)にも選ばれた。同年12月にフィリピンで行われたアジア・アマチュア野球選手権日本代表(東京六大学リーグ選抜チーム)に選出され、木村、長嶋、森徹(早大)、佐々木信也(慶大)らとともに全勝優勝に貢献。リーグ通算58試合出場、160打数33安打、打率.206、0本塁打。
小川 健太郎(おがわ けんたろう、1934年1月12日 - … 小川 健太郎(おがわ けんたろう、1934年1月12日 - 1995年10月8日)は、福岡県久留米市出身の元プロ野球選手(投手)。 現役時代は1964年から1970年まで中日ドラゴンズに所属し、1967年には29勝を挙げて最多勝利のタイトルを獲得、沢村賞を受賞するなど、アンダースローの好投手として活躍した。また1967年から1970年まで4年連続で開幕投手を務めたが、これは1996年時点で球団最長となる連続開幕投手記録だった。王貞治(読売ジャイアンツ)に対して腕を背中から繰り出す「背面投げ」を行った投手としても知られる。しかし1970年、球界を震撼させた八百長事件である「黒い霧事件」への関与が疑われ、オートレース八百長に関与したとして逮捕される。
松橋 慶季(まつはし よしき、旧名:義喜(よしき)、秀康(ひ… 松橋 慶季(まつはし よしき、旧名:義喜(よしき)、秀康(ひでやす)、1934年1月10日 - 2015年2月22日)は、長野県長野市出身のプロ野球選手(捕手)、プロ野球審判員。 長野県長野北高等学校では2年生の時、捕手として1950年夏の甲子園予選信越大会決勝に進むが、松商学園に敗退し甲子園出場を逸する。松商学園の控え捕手は吉沢岳男であった。同年の秋季北信越大会では優勝を飾るが、翌年春の選抜の出場校には選出されなかった。高校同期に三塁手の町田行彦、1年下に控え捕手の山岸静馬がいた。 1952年に阪急ブレーブスに入団するが、翌1953年に国鉄スワローズに移籍。阪急から国鉄に移籍したのは、郷里に母を一人残した中、長野県から遠い西宮市でプレーするのを好まなかったからである。
弘瀬 昌彦(ひろせ まさひこ、1934年1月9日 - )は高… 弘瀬 昌彦(ひろせ まさひこ、1934年1月9日 - )は高知県出身の元プロ野球選手。
島津 四郎(しまづ しろう、1934年 - )は、群馬県出身… 島津 四郎(しまづ しろう、1934年 - )は、群馬県出身のアマチュア野球選手。ポジションは投手。 桐生工業高等学校では、エースとして1952年の春の選抜に出場。2回戦(初戦)で豊橋時習館高を完封するが、準々決勝では鳴尾高の中田昌宏と互いに無失点で投げ合い、延長12回の末に0-1でサヨナラ負けを喫する。同年夏の甲子園予選でも北関東大会準決勝に進出するが、豊田泰光、加倉井実のいた水戸商に惜敗。高校同期に高野价司がいた。 日本大学へ進学。東都大学野球リーグでは在学中に5回優勝。1955年春季リーグで優勝に貢献し、同季の最優秀投手賞を獲得。直後の大学野球選手権は決勝に進み、明大の秋山登とのアンダースロー対決が話題となるが、0-1で完封され準優勝に終わる。
矢形 勝洋(やがた かつひろ、1934年 - 2016年1月… 矢形 勝洋(やがた かつひろ、1934年 - 2016年1月4日)は、日本のプロ野球選手(投手)。引退後、フロントに入り、阪急ブレーブス→オリックス・ブレーブスの球団取締役を務めた。
伊藤 芳明(いとう よしあき、1933年12月30日 - )… 伊藤 芳明(いとう よしあき、1933年12月30日 - )は、静岡県浜名郡北浜村貴布祢(現:浜松市浜名区)出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)・コーチ。 中学時代に野球を始めるが、肩が強く左投げだったため投手となる。興誠商業高校では2年生からエースとなり、3年次の1951年の夏の甲子園の静岡県予選の前には新聞に「ダークホース」と書かれたが、1回戦で静岡市立高校に0-1で敗れた。 1952年に中央大学へ進学すると、1年の春季から東都大学リーグで登板。2年次の1953年春季のリーグでは5勝を挙げて中央大学の全勝優勝に貢献する。同年の大学選手権でも勝ち上がるが、決勝で立大に敗れ準優勝となった。しかし、同年の夏場に背中の筋肉を痛める。
小山 恒三(こやま つねぞう、1933年12月20日 - 2… 小山 恒三(こやま つねぞう、1933年12月20日 - 2018年1月31日)は、長野県出身のプロ野球選手(投手)。 長野県小諸実業高等学校から東京鉄道管理局を経て、1952年に国鉄スワローズに入団。同年10月10日の対松竹ロビンス戦(西京極球場)に先発投手として一軍公式戦へのデビューを果たすと、完封で初勝利を挙げた。「スワローズの新人投手による一軍公式戦初登板での先発完封勝利」は球団史上初の快挙だが、小山に続く達成者は、東京ヤクルトスワローズ時代の2024年5月15日に松本健吾(トヨタ自動車出身の右投手)が対広島東洋カープ戦(松山坊っちゃんスタジアム)で記録するまで72年間現れなかった。 カーブやドロップなどの変化球を駆使していたものの、プロ野球投手としての実働年数はわずか2年で、1953年に現役を引退。
大橋 一郎(おおはし いちろう、1933年12月20日 - … 大橋 一郎(おおはし いちろう、1933年12月20日 - )は愛知県出身のプロ野球選手。
小武方 信一(こぶかた しんいち、1933年12月17日 -… 小武方 信一(こぶかた しんいち、1933年12月17日 - 2009年6月2日)は、元プロ野球選手。 1933年(昭和8年)12月17日、小武方寅次郎・テルの長男として、岩手県岩手郡大更村(現在の八幡平市大更)で出生。父・寅次郎は大更村村長を務めていたが昭和17年、急病のため死去 岩手高校では、エースとして1951年夏の甲子園予選奥羽大会に進むが、1回戦で七戸高に敗れる。卒業後は富士製鐵釜石に入社。1954年の都市対抗では、3完投勝利で準決勝に進み八幡製鐵の福嶋一雄と投げ合うが敗退。 1955年に南海ホークスへ入団。同年は15試合に登板し、4月5日に近鉄から初勝利を挙げるが、1956年限りで退団。
河津 憲一(かわづ けんいち、1933年12月4日 - )は… 河津 憲一(かわづ けんいち、1933年12月4日 - )は長崎県長崎市出身の元プロ野球選手。1958年から1961年までは、河津 宏紀(-ひろき)。
岩岡 保宏(いわおか やすひろ、1933年11月17日 - … 岩岡 保宏(いわおか やすひろ、1933年11月17日 - )は、宮崎県児湯郡高鍋町出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 高鍋高校では1951年夏の甲子園予選東九州大会に進むが、1回戦で大分上野丘高に惜敗。高校同期に大学、プロ野球と行動を共にする黒木弘重がいた、卒業後は黒木とともに明治大学へ進学。東京六大学リーグではエース秋山登を擁し、1953年秋季リーグの戦後初優勝を含め、在学中に3度の優勝を経験。1954年、1955年の全日本大学野球選手権に連続優勝を飾る。1955年春季リーグではベストナイン(遊撃手)に選出された。同年の第2回アジア野球選手権大会日本代表として、日本チームの優勝に貢献。
神田 昌男(かんだ まさお、1933年11月8日 - )は、… 神田 昌男(かんだ まさお、1933年11月8日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手。 宇都宮工業高校では吉成武雄とバッテリーを組んで1950年夏と1951年春に甲子園出場。 1952年に大洋ホエールズへ吉成と共に入団。1958年に引退。 引退後は日立製作所で監督を務めた。
橋本 力(はしもと ちから、1933年〈昭和8年〉10月20… 橋本 力(はしもと ちから、1933年〈昭和8年〉10月20日 - 2017年〈平成29年〉10月11日)は、北海道出身のプロ野球選手、俳優。ポジションは外野手。OKエンターテイメント所属。 1952年(昭和27年)、函館西高校3年生時に第24回選抜高校野球大会へ出場。初戦でこの大会の優勝校となる静岡商業高校に1-0で敗れる。 1952年(昭和27年)、第34回高校野球選手権に出場。準々決勝で成田高校に延長15回の末4-1で敗れた。 1953年(昭和28年)、プロ野球国鉄スワローズへ入団予定だったが、恩人と敬愛する沼澤康一郎から囲い込みを受け、毎日オリオンズへ入団。 1957年(昭和32年)、外野手レギュラーを獲得。
浮州 重紀(うきす しげき、1933年10月20日 -202… 浮州 重紀(うきす しげき、1933年10月20日 -2025年8月14日 )は、愛知県出身の元プロ野球選手(投手)。 愛知県立挙母高等学校から1952年名古屋ドラゴンズに入団。10月5日の対松竹ロビンス戦(中日球場)で初登板完封勝利を挙げるが、これが唯一の勝利となった。1955年限りで引退。シュートが武器だった。
久保山 和夫(くぼやま かずお、1933年10月20日 - … 久保山 和夫(くぼやま かずお、1933年10月20日 - )は、佐賀県出身のプロ野球審判員。 佐賀県立鳥栖工業高等学校卒業後、立命館大学に入学。大学卒業後にパ・リーグ審判部に入局し、3000試合出場を達成するなど長らく活躍、1995年まで現役をつとめた。審判員袖番号は8(1977年初採用から1995年引退まで、8は1997年以降栁田昌夫がつけている)。日本シリーズ3回、オールスター6回出場しており、1970年代から1980年代を代表する名審判であった。 通算試合出場数は3190試合。 プロ野球を離れてからは少年野球の審判指導などで活躍。京都府K-Ball少年野球連盟の理事(審判部長)も務めた。
大原 博志(おおはら ひろし、1933年10月19日 - )… 大原 博志(おおはら ひろし、1933年10月19日 - )は、和歌山県出身の元プロ野球選手。 伊都高校から1952年に大阪タイガースへ入団。