高祖 保(こうそ たもつ、1910年〈明治43年〉5月4日 … 高祖 保(こうそ たもつ、1910年〈明治43年〉5月4日 - 1945年〈昭和20年〉1月8日)は、日本の詩人。 1910年(明治43年)5月4日、岡山県邑久郡牛窓町(現:瀬戸内市)の素封家に生まれる。 1919年(大正8年)、前年の父の死去を機に分家し、母の実家がある滋賀県犬上郡彦根町(現:彦根市)の外馬場に移り住む。 彦根尋常高等小学校(現:彦根市立城東小学校)を卒業。 1928年(昭和3年)、滋賀県立彦根中学校(現:滋賀県立彦根東高等学校)を卒業。 1930年(昭和5年)12月、金沢の第九連隊第一中隊に、幹部候補生として入隊。 1932年(昭和7年)、母と別居し、國學院大学附属高等師範部に入学。
川口 敏男(かわぐち としお、1910年(明治43年)5月3… 川口 敏男(かわぐち としお、1910年(明治43年)5月3日 - 1989年(平成元年)7月16日)は日本の詩人。 1910年(明治43年)5月3日に兵庫県で生まれる。1942年(昭和17年)に法政大学文学部英文学科を卒業する。 17歳ごろから詩作を始め、百田宗治に師事して『椎の木』の同人となる。1935年(昭和10年)に『木欒』を主宰し、1937年(昭和12年)に阪本越郎らと『純粋詩』を創刊する。 1989年(平成元年)7月16日に死去、79歳。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
森玉 美雄(もりたま よしお、1910年4月19日 - 19… 森玉 美雄(もりたま よしお、1910年4月19日 - 1943年4月8日)は、日本の小説家、詩人。兵庫県加古郡天満村(現・稲美町)出身。織田作之助が編集長格の雑誌「大阪文学」で見出された小説家。 短編小説『おふくの家出』(雑誌「大阪文学」2巻4号に発表)が第15回芥川賞推薦候補になる。活躍し始めてすぐの昭和18年4月8日に、結核のため32歳で死去。 1910年(明治43年)4月19日、大百姓の森玉柳祐の次男として生れる。母はえい。本名は作男。1911年(明治44年)に長女豊江、1916年(大正5年)に三女善枝が生れる。天満村立天満尋常小学校(現・稲美町立天満小学校)から兵庫県立小野中学校(現・兵庫県立小野高等学校)を経て、神戸高等商船学校(現・神戸大学海洋政策科学部)機関科に入学。
北原 三男(きたはら かずお、1910年〈明治43年〉3月2… 北原 三男(きたはら かずお、1910年〈明治43年〉3月28日 - 1993年〈平成5年〉)は、台湾総督府官僚、鹿児島県職員、また夏目 漠(なつめ ばく)の筆名で日本の詩人、文筆家。鹿児島県職員としては、人事分野や社会福祉行政に携わった他、文化振興にも尽力し、鹿児島県文化センター初代館長を務めた。 鹿児島県鹿児島市に生まれる。旧制の鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1930年(昭和5年)第七高等学校造士館文科(甲類)を卒業。1933年(昭和8年)10月高等試験行政科に合格し、翌年3月に東京帝国大学法学部法律学科を卒業する。1936年(昭和11年)台湾拓殖に入社し、1939年(昭和14年)に台湾総督府属となる。
高森 文夫(たかもり ふみお、1910年1月20日 - 19… 高森 文夫(たかもり ふみお、1910年1月20日 - 1998年6月2日)は、宮崎県生まれの詩人、政治家。 中原中也と親交が深かったことで知られる。旧制成城高等学校時代に後輩の吉田秀和と同居を始め、吉田のフランス語の家庭教師だった中也と知り合った。当時高森は21歳、中也は24歳だった。高森は同人誌「白痴群」などで発表されていた中也の詩をすでに読んでいたため、二人はすぐに仲良くなり、1932年5月には京都・奈良を二人で旅行。8月には山口県に帰省中だった中也を高森が訪問した後に二人で高森の実家の宮崎へと向かい、そのまま九州旅行をした。中也の死後も積極的に回想などを綴り、研究にも協力した。中也が藁の上で寝転んでいる有名な写真は、中也が宮崎を訪れた際に高森の手で撮影されたものである。
李 燦(リ チャン、리찬、日本名:青葉薫、1910年1月15… 李 燦(リ チャン、리찬、日本名:青葉薫、1910年1月15日 - 1974年1月14日)は、「金日成将軍の歌 (김일성 장군의 노래)」の作詞などによって知られる朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の詩人。 咸鏡南道北青郡出身。京城第二高等普通学校(後の景福高等学校(朝鮮語版))を卒業し、日本の立教大学と早稲田大学に学んだ。この当時に、林和などと知り合い、社会主義系の文学運動に加わった。 1931年の冬至に結成された朝鮮プロレタリア芸術家同盟 (KAPF) に加わり、中央委員として活動した。1932年に検挙されて、約2年間、投獄の苦難を体験し、以後は故郷である北清に戻り、詩集を発表した。KAPFの活動をしていた初期には、現実参加的な叙述詩を書いたが、服役後に刊行した詩集『待望 (대망)』(1937年)、『焚香 (분향)』(1938年)、『望洋 (망양)』(1940年)には虚無的な情緒で、弱気な知識人としての苦悩を告白する内容が入っている。
上山 政夫 (うえやま まさお、1910年 下関市 山口県 … 上山 政夫 (うえやま まさお、1910年 下関市 山口県 日本 - 1988年 下関市 山口県 日本 )は日本のエスペラント詩人・作家。 世界エスペラント協会の文芸コンクール1位を含め、国内外のエスペラント文芸コンクールで受賞歴をもつ、日本のエスペラント文学における先駆者のひとり。宮本正男との活動によってエスペラント語の俳人としても知られる。 死後、太宰治『斜陽』の翻訳である『La Suno Sinkanta』が雑誌『Riveroj』に掲載された。彼は1964年から1980年まで刊行された文学雑誌『L'omnibuso』で林健をはじめとする若い作家たちを育て、次の世代に大きな影響を与えた。 世界エスペラント協会文芸コンクールの原作詩部門で1位になった日本人は1963年、1965年の宮本正男に次いで2人目。
清水 重道(しみず しげみち、1909年〈明治42年〉12月… 清水 重道(しみず しげみち、1909年〈明治42年〉12月14日 - 1958年〈昭和33年〉4月23日)は、日本の国文学者・詩人・作家・歌人。 東京生まれ。東京高等学校を経て、1932年(昭和7年)東京帝國大學文學部國文學科卒業。“非常に秀才だった”という。 1935年(昭和10年)『沙羅』を作詞。1936年(昭和11年)信時潔が独唱曲として歌曲集『沙羅』を発表。(発表時、清水27歳、信時49歳) 大學卒業後、岡崎師範学校、東京高等学校教授をへて、1943年(昭和18年) 東京音楽學校教授・文部省嘱託 となる。(昭和20年まで) 1945年(昭和20年)北海道第三師範学校(学芸大学)・旭川分校着任。
まど・みちお(1909年〈明治42年〉11月16日 - 20… まど・みちお(1909年〈明治42年〉11月16日 - 2014年〈平成26年〉2月28日)は、日本の詩人。作詞家。本名は石田 道雄(いしだ みちお)。25歳のときに北原白秋にその才能を認められた。詩作りは20代から始め、以来生涯にわたって詩を作り続けた。創作意欲の源は、政治・行政・教育・経済・戦争などに対する不満である。「ぞうさん」や「やぎさんゆうびん」などの、そのおおらかでユーモラスな作品は童謡としても親しまれている。表現の前に存在があるという意味で「存在の詩人」とも称された。 山口県都濃郡徳山町(のちの徳山市、現在の周南市)の生まれ。幼い頃に父が仕事の都合で台湾へ渡り、さらにまどが5歳の時に母がまどの兄と妹を連れて同地に移住したため4年ほどの間、祖父と2人での生活を送っている。
柴野 民三(しばの たみぞう、1909年11月4日 - 19… 柴野 民三(しばの たみぞう、1909年11月4日 - 1992年4月11日)は、日本の児童文学作家・詩人。 東京府東京市京橋区(現・東京都中央区)生まれ。日比谷小学校(現千代田区立麹町小学校)、錦城商業学校卒業。 1929年(昭和4年)、大橋図書館にに勤務し、児童図書室を担当する。『赤い鳥』などに投稿し北原白秋に師事。童謡誌「チチノキ」同人として詩作する。1932年(昭和7年)、有賀連らと「チクタク」を創刊。1935年(昭和10年)、私立大橋図書館を退職し、小川未明主宰『お話の木』創刊に際して編集に当たる。のち絵雑誌『コドモノヒカリ』などを編集、1942年から文筆業。 1992年4月11日、呼吸不全のため死去。
野田 宇太郎(のだ うたろう、1909年(明治42年)10月… 野田 宇太郎(のだ うたろう、1909年(明治42年)10月28日 - 1984年(昭和59年)7月20日)は、日本の詩人、文芸評論家、文芸誌編集長。三島由紀夫や幸田文を世に送り出した人物である。 福岡県三井郡立石村(現小郡市)出身。朝倉中学卒業後、第一早稲田高等学院英文科に入学するが、病気により中退。1930年(昭和5年)、久留米市で同人誌『街路樹』に参加して詩作を開始する。1933年(昭和8年)、詩集『北の部屋』を出版。1936年(昭和11年)、安西均や丸山豊らと同人誌『糧』を創刊。1940年(昭和15年)に上京し、小山書店に入社。その後第一書房、河出書房を経て、1944年(昭和19年)文芸誌『文藝』の編集長を務めた後、東京出版に入社。
内田 博(うちだ ひろし、1909年10月9日 - 1982… 内田 博(うちだ ひろし、1909年10月9日 - 1982年2月25日)は、日本の詩人。福岡県三池郡大牟田町(現・大牟田市)出身。詩人で童話作家の内田麟太郎は長男。 本名は内田弘喜智。1909年、福岡県大牟田下里(現・大牟田市元町)に3男4女の次男として生まれる。1922年に大牟田町立第二尋常小学校(現・大牟田市立大牟田小学校)を卒業すると進学せず、書店の丁稚奉公や実兄の起こした会社で働いた。 19歳のときに石川啄木の影響で詩作を始める。1929年、処女詩「秋・風景詩」を地元紙に投稿して掲載され、その後も地元紙に「村山三郎」の筆名で投稿をおこなった。その後、1932年に日本プロレタリア作家同盟に加盟。
和田 徹三(わだ てつぞう、1909年(明治42年)8月4日… 和田 徹三(わだ てつぞう、1909年(明治42年)8月4日 - 1999年6月27日)は日本の詩人・英文学者。北海道余市町出身。小樽高等商業学校卒。龍木煌(たつき あきら)のペンネームを持つ。 北海道薬科大学教授をつとめ英語を教える傍ら、詩人として活動。1930年頃伊藤整と同時に百田宗治主催の「椎の木」に参加し、文学活動に専念する。英詩の翻訳(ハーバート・リードの研究者としての実績)からモダニズムへと変貌。1997年「湾」で和田自身が《「湾」を形而上詩の研究とと実作の場にしよう》という沢村光博の提案を受け、私は《長編形而上詩の実験作品を連載することにした。》と述べている。また1970年頃《沢村光博はカソリシズムとコミュニズムの結合を企てていたし、私は親鸞思想へ激しく傾斜していった。
伊藤 宝城(いとう ほうじょう、本名:伊藤 博、1909年6… 伊藤 宝城(いとう ほうじょう、本名:伊藤 博、1909年6月28日 - 1961年12月27日)は、日本の医師、詩人、版画家、彫刻家。 俳号は鉄庵。別名:ジョージ・ウーラン。戦後日本の抽象彫刻の先駆者の一人である。 弟に洋画家の伊藤彰、染色家の吉田たすくがいる。 1909年、鳥取県倉吉市広瀬町で病院を開業している伊藤琢郎・久代の子として八人兄弟の長男として大連で生まれる。1921年3月、明倫小学校卒業。1927年3月、県立倉吉中学校 (現在の鳥取県立倉吉東高等学校)卒業。1936年3月、私立岩手医学専門学校 (現・岩手医科大学)を卒業。同年4月、京都府立医科大学付属病院外科教室に入る。1940年2月に京都府立医大を退職し、中津川町立中津川病院(現・総合病院中津川市民病院)外科主任となる。
天野 忠(あまの ただし、1909年6月18日 - 1993… 天野 忠(あまの ただし、1909年6月18日 - 1993年10月28日)は、日本の詩人。 京都府京都市出身。京都第一商業学校卒。職を転々としつつ詩を書き、1935年5月に山前実治、北川桃雄、田中忠雄らと同人誌「リアル」を創刊。1937年8月に「リアル」同人の一部が治安維持法違反で検挙され、その後は逼塞。戦後は出版社勤務、古書店経営等を経て、奈良女子大学付属図書館に職を得る。コルボウ詩話会、近江詩人会等を拠点に活動、1954年の「重たい手」で注目される。1974年の『天野忠詩集』で無限賞、1982年には『私有地』で読売文学賞、1986年には『続天野忠詩集』で毎日出版文化賞を受賞した。1993年10月28日、京都の自宅において多臓器不全のため死去。
申 石艸(シン・ソクチョ、朝鮮語: 신석초、1909年6月4… 申 石艸(シン・ソクチョ、朝鮮語: 신석초、1909年6月4日 - 1975年3月8日)は、大韓民国の詩人、ジャーナリスト、ソラボル芸術大学校(現・中央大学校)の教授。 本名は申 応植(シン・ウンシク、신응식/申應植)。本貫は高霊申氏。 大韓帝国忠清南道舒川で下級郷班の家に1男3女の中の末子として生まれた。1929年に京城府で詩人として文壇に登場し、1931年には渡日し留学生として法政大学哲学科で学んだが、1935年に病気により中退し帰国した。鄭寅普の紹介で李陸史と知り合い、『翡翠断章』、『パラチュム序詞』、『ヘビ』、『剣舞娘』、『芭蕉』などの詩を李陸史を通して子午線、詩学、文章などに発表した。
清水 澄子(しみず すみこ、1909年5月1日 - 1925… 清水 澄子(しみず すみこ、1909年5月1日 - 1925年1月7日)は、長野県上田市出身の詩人。没後に発表された遺稿集『さゝやき』により知られる。
菊岡 久利(きくおか くり、1909年3月8日 - 1970… 菊岡 久利(きくおか くり、1909年3月8日 - 1970年4月22日)は、日本の作家、詩人。本名、高木陸奥男(みちのくお)。横光利一に師事する。
壇上 春清(だんじょう はるきよ、1909年(明治42年)2… 壇上 春清(だんじょう はるきよ、1909年(明治42年)2月27日 - 1979年(昭和54年)9月13日)は、和歌山県田辺市出身の童謡詩人。本名は春之助。別号を芳花、青華。 金子みすゞや島田忠夫の童謡集を出版したことでも知られる。 第16回久留島武彦賞を受賞。 1924年(大正13年)頃より童謡を書き始め、『赤い鳥』『童話』『金の船』(のち金の星と改題)などの雑誌に作品を発表する。 同志社高等商業学校を卒業後、1974年(昭和49年)まで外務省に勤務する。 その間、1970年(昭和45年)に季節の窓詩舎から『金子みすず童謡集 繭と墓』を発行した。同書のあとがきには「下関の商品館から投稿していた」という記述があり、これが後に金子みすゞが再発見される大きな手がかりとなった。
坂村真民(さかむら しんみん、1909年1月6日 - 200… 坂村真民(さかむら しんみん、1909年1月6日 - 2006年12月11日)は、日本の仏教詩人。本名昂(たかし)。一遍の生き方に共感し、「癒やしの詩人」と言われる。 熊本県玉名郡府本村(現 荒尾市)生まれ。熊本県立玉名中学校を経て、1931年に神宮皇學館を卒業。1934年朝鮮に教員として渡り、1945年に引き揚げ。1946年、愛媛県三瓶町の私立第二山下高等女学校教諭に着任。1950年、個人雑誌「ペルソナ」を創刊して、従来創作していた短歌から離れる。1953年、尼僧・杉村春苔に出会い、大きな影響を受ける。1962年、森信三の教示を受けて、自らの詩をつづった月刊詩誌「詩国」を創刊。1,200部を無料で配布した。
津村 信夫(つむら のぶお、1909年〈明治42年〉1月5日… 津村 信夫(つむら のぶお、1909年〈明治42年〉1月5日 - 1944年〈昭和19年〉6月27日)は、日本の詩人。兄は映画評論家の津村秀夫。 法学博士・津村秀松を父として、兵庫県神戸市葺合区に生まれる。官僚・小山健三は祖父。神戸一中を卒業して慶應義塾大学経済学部に入学し以後は東京に住む。慶大予科に在学中に肋膜炎にかかり、1927年(昭和2年)10月、鎌倉・坂ノ下の旅館海月楼に滞在して予後を養う。翌年3月にかけてしばしば訪れる。療養期間中に文学への素養を深めた。1930年(昭和5年)に白鳥省吾が主宰する文芸誌『地上楽園』の同人に加わり、それに詩作を発表するようになる。室生犀星に師事し、生涯にわたってその指導と愛顧を受ける。
大塚 徹(おおつか とおる、1908年(明治41年)12月8… 大塚 徹(おおつか とおる、1908年(明治41年)12月8日 - 1976年(昭和51年)12月2日)は、日本の詩人。 脊椎カリエスを患いながらも、叙情詩の発表を続け、播磨地域を中心とする多くの文学人に影響を与えた。また、ハーモニカ演奏や民謡、歌謡、学校歌の作詞等に多芸に活躍した。 兵庫県姫路市堺町で質屋を営む大塚捨次の三男として生まれる。母・まさは芸に秀で、若い頃の桂米朝、坂東大蔵らが出入りしていた。長兄が出奔し、次兄が早逝したため、時計古物商を営んで父母を養ったという。 旧制姫路中学3年在学時、飾磨港で水泳中に飛び込みをし、脊髄を損傷、3年間闘病する。その後脊髄カリエスも患い、一生疼痛と闘うこととなる。
山岡 勝人(やまおか かつと、1908年11月14日 - 1… 山岡 勝人(やまおか かつと、1908年11月14日 - 1998年10月12日)は、昭和時代日本の詩人、小説家、作詞家、劇作家。長野県出身。 1908年(明治41年)、長野県諏訪郡平野村(現在の岡谷市)湊に生まれる。旧制松本商業学校を卒業したのち、諏訪地域で小学校各校の教員を務める傍ら、伊藤松雄主宰の「町の劇場」運動に参加した。 1930年代後半からは文芸グループ「諏訪文学」に属し、小説を執筆する傍ら「山岡羊村」他の名義で懸賞歌謡への応募を始め、1941年(昭和16年)には大政翼賛会が制定した「大政翼賛の歌」で入選する。戦後は地域活動に徹し校歌や婦人会歌、音頭の作詞、新聞小説連載などの活動に従事した。
藤田 文江(ふじた ふみえ、1908年(明治41年)9月29… 藤田 文江(ふじた ふみえ、1908年(明治41年)9月29日 - 1933年 (昭和8年)4月24日)は、日本の詩人。ボードレールの影響を受けた耽美的な詩を書き、詩集に『夜の聲』がある。 1908年9月29日に鹿児島県大島郡名瀬村(現・奄美市)で生まれ、鹿児島市、台湾と転居し、14歳まで台湾で過ごす。台北第二高等女学校に入学。再び鹿児島に転居し、鹿児島県立第二高等女学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)に編入。1925年に鹿児島県立第二高等女学校を卒業。鹿児島女子師範学校(現・鹿児島大学教育学部)に進学、1926年に卒業し小学校教師になるが、病弱のため退職。その後鹿児島女子師範学校の専攻科に進学。
柳 致環(りゅう ちかん、1908年陰暦7月14日‐1967… 柳 致環(りゅう ちかん、1908年陰暦7月14日‐1967年2月13日)は、朝鮮の詩人。号は青馬。柳は死と虚無を前にして人間の存在と意味を探し求めた。「詩人になった動機はなんだと問われたら、ためらうことなく恋愛であると答える」と述べた柳の詩は、恋愛の末に結婚した妻、権在順に宛てた恋文であった。 1908年陰暦7月14日、慶尚南道忠武市太平洞に生まれる。父は晋州柳氏の柳煖秀、母は密陽朴氏の朴又守。八人兄妹の次男。父の柳煖秀は巨済の屯徳面芳下里の儒学者であり、母の実家は裕福な密陽朴氏であったため、柳は幼い頃から私塾で漢学を学ぶことができた。1918年、柳が10歳のとき、統営普通学校に入学する。この頃、後に妻となる権在順と親しくなる。
安原 喜弘(やすはら よしひろ、1908年(明治41年)5月… 安原 喜弘(やすはら よしひろ、1908年(明治41年)5月19日 - 1992年(平成4年)11月4日)は、日本の詩人、歌人。中原中也との親交が深く、多くの書簡を交わした人物として知られる。 1908年(明治41年)東京市芝区生まれ、その後目黒で育った。旧制成城第二中学校(1926年に旧制成城高等学校となる)に進み、そこで加藤英倫、富永次郎、古谷綱武などと知り合う。また、高校在学中の1928年(昭和3年)秋に、同じく学友である大岡昇平の紹介で中原中也と知り合った。後に大岡、中原らとともに同人誌『白痴群』を共同で企画し、1929年(昭和4年)4月に創刊した。また、同時期に京都帝国大学文学部哲学科へ入学し、京都市左京区百万遍にある京都アパートメントに転居する。
大野 百合子(おおの ゆりこ、1908年〈明治41年〉4月2… 大野 百合子(おおの ゆりこ、1908年〈明治41年〉4月24日 - 1938年〈昭和13年〉9月26日)は、日本の詩人。才能に恵まれながらも早世した女流詩人とされる。 1908年(明治41年)4月24日、北海道余市町で誕生した。1917年(大正6年)に小樽区に転居。小樽高等女学校(後の北海道小樽桜陽高等学校)に入学したが、病気により中退。上京して洋裁を学び、1926年(大正15年)に小樽洋服裁縫女学院を設立した。1932年(昭和7年)の解院までに、約200人の卒業生を送り出した。 20歳代から、詩作に本格的に取り組み、文学雑誌『新短歌時代』『詩歌建築』などに詩を投稿した。詩人の宮崎丈二に認められたことで、宮崎に師事し、1931年(昭和6年)、同人誌『河』に参加した。
桜井 勝美(さくらい かつみ、1908年2月20日 - 19… 桜井 勝美(さくらい かつみ、1908年2月20日 - 1995年7月24日)は、日本の詩人、文芸評論家。 北海道出身。日本大学文学部卒。北川冬彦の『麺麭』同人となり、ネオリアリズム詩運動に参加。1954年詩集『ボタンについて』で第4回H氏賞受賞。1955年時間賞、1966年詩集『葱の精神性』で北川冬彦賞受賞。1977年には、郷里の士別市から士別市文化賞を受賞した。
宗 武志(そう たけゆき、1908年〈明治41年〉2月16日… 宗 武志(そう たけゆき、1908年〈明治41年〉2月16日 - 1985年〈昭和60年〉4月22日)は、日本の英語学者、詩人、華族。爵位は伯爵。旧姓は黒田(くろだ)。麗澤大学名誉教授。李王家徳恵翁主の夫。宗氏第37代当主。 貴族院議員、麗澤大学学監、学校法人廣池学園常務理事などを歴任した。 東京府東京市四谷区伝馬町新一丁目(現在の東京都新宿区四谷二丁目)にて、父・黒田和志(よりゆき、対馬府中藩藩主宗義和六男)、母・鏻子(れいこ、黒田直和の娘)の末子(四男)として生まれる。母の実家である黒田家は上総久留里藩の旧藩主の家柄。父和志は対馬藩の旧藩主宗重正の実弟で貴族院議員を務めていた。1934年にエチオピア帝国皇帝ハイレ・セラシエ1世の甥アラヤ・アベベ皇太子が日本人妻(貴族)を公募した際、妃候補として手を挙げた黒田雅子は武志の姪にあたる。
西川 満(にしかわ みつる、1908年2月12日 - 199… 西川 満(にしかわ みつる、1908年2月12日 - 1999年2月24日)は日本の装幀家、小説家、詩人。長男は経済学者の西川潤。 福島県会津若松市生まれ。父親の仕事の関係で、3歳で台湾に渡る。台北一中を経て、早稲田大学仏文科へ進学、吉江喬松に師事。卒論のテーマはアルチュール・ランボー。1933年に卒業して台湾日日新報に就職。『台湾風土記』(1939年)、『華麗島』(1939年)、『文芸台湾』(1940年)などを創刊。敗戦後の1946年、日本に引き揚げる。1947年、小説「会真記」で第1回夏目漱石賞の佳作に入選。 台湾の真理大学に蔵書2万冊余りを寄贈した。占星術もやり、天中殺の占いを得意とした。
おの ちゅうこう(1908年〈明治41年〉2月2日 - 19… おの ちゅうこう(1908年〈明治41年〉2月2日 - 1990年〈平成2年〉6月25日)は、日本の児童文学作家、詩人。 群馬県利根郡白沢村(現・沼田市)出身。本名・小野 忠孝(おの ただよし)。 旧制沼田中学校(現・群馬県立沼田高等学校)から群馬師範学校(現・群馬大学教育学部)に進み卒業。5ヶ月間高崎連隊へ入営。 はじめは『少年倶楽部』などへ作文や詩を投稿していた。小学校教員として勤務するも辞職して文筆の道へ身を投じた。草野心平とは友人として交流を持った。河井酔茗に師事。 日本児童文芸家協会顧問、日本ペンクラブ会員、日本文芸家協会員、日本詩人クラブ会員。100冊を超える著作を残した。酒を愛したことから酒にまつわるエピソードも多い。
冨士原 清一(ふじわら せいいち、1908年〈明治41年〉1… 冨士原 清一(ふじわら せいいち、1908年〈明治41年〉1月10日 - 1944年〈昭和19年〉9月18日)は、日本の詩人・翻訳家・編集者。戦前期日本のシュルレアリスムを代表する詩人。 1908年(明治41年)1月10日、大阪府に生まれる。1926年(大正15年)、大阪府立北野中学校を卒業、法政大学予科に入学。1934年(昭和9年)に法政大学法文学部文学科(仏文専攻)を卒業。卒業後は一時大阪に帰るが、1937年(昭和12年)に友人である春山行夫が編輯長を務める第一書房編輯部に勤務。1942年(昭和17年)11月に日本放送協会に転職、かけもちで太平洋協会調査局に勤務する。太平洋戦争で召集され、1944年(昭和19年)9月18日、朝鮮木浦沖にて戦没。
泉 漾太郎(いずみ ようたろう、1908年1月5日-1996… 泉 漾太郎(いずみ ようたろう、1908年1月5日-1996年10月23日)は、日本の詩人・作家。栃木県文化協会会長を務めた。 栃木県塩原温泉郷の一つである福渡温泉の旅館・和泉屋の後継ぎとして生まれ、のち14代目主人となる。本名・田代太平。 大田原中学(現栃木県立大田原高等学校)在学中に、全国中学生文芸コンクールに応募したところ、1位入選となり、そのときの審査委員長が野口雨情だった縁から、生涯雨情に師事して詩を書いた。 竹久夢二とは親友であり、山岡荘八は義兄弟の仲であった。旅館には、山岡が命名した『竜胆(りんどう)の間』という部屋もあった。旅館に逗留した新鷹会の時代小説作家たちとも交わった。のち小説も書く。
岩瀬 正雄(いわせ まさお、1907年11月27日 - 20… 岩瀬 正雄(いわせ まさお、1907年11月27日 - 2003年5月18日)は、愛知県豊橋市出身の詩人。 愛知県豊橋市岩田町に生まれた。名古屋電気学校を中退している。17歳から詩作を行い、1928年(昭和3年)に上京した。高村光太郎の知偶を得て、1929年(昭和3年)に高村や草野心平らと新詩人会を結成。1932年(昭和7年)に初の詩集『悲劇』を発表した。『日本未来派』を経て『オルフェ』同人。1932年頃には豊橋市に帰郷して社会教育活動を始め、豊橋勤労少年会主事、豊橋連合青年団主事を務めたのちに、1945年(昭和20年)に豊橋市役所に就職した。1954年(昭和29年)に『炎天の楽器』で第3回中部日本詩人賞詩人賞を受賞。
野田 理一(のだ りいち、1907年11月10日 - 198… 野田 理一(のだ りいち、1907年11月10日 - 1987年2月22日)は、日本の詩人、美術評論家、随筆家。三重県津市出身。 戦前より詩作、また海外美術の鑑識眼も醸成していた。荒地同人。大正時代生まれがほとんどの同人の内で年長であった。自らの人生は語らず、作品のみを残す。美術評論では早くからジョン・ケージ、フンデルトヴァッサー、ルーチョ・フォンタナなどを紹介する。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
緒方 昇(おがた のぼる、1907年(明治40年)10月3日… 緒方 昇(おがた のぼる、1907年(明治40年)10月3日 - 1985年(昭和60年)11月19日)は、詩人。 熊本県出身。支那学者緒方南溟の次男。早稲田大学専門部政経部卒業。アナーキストとして大杉栄の労働運動社、黒色青年連盟に属し、詩作を行う。1929年東京日日新聞に入社。33年シナ留学生となり、敗戦まで日本と中国を往復する。35年逸見猶吉の勧めで草野心平の『歴程』に参加する。 戦後は毎日新聞論説委員、『毎日グラフ』編集長、編集局理事などを務めた。1947年高見順、菊岡久利らと『日本未来派』を創刊した。71年『魚仏詩集』で読売文学賞受賞。 釣りのエッセイもある。
逸見 猶吉(へんみ ゆうきち、1907年9月9日 - 194… 逸見 猶吉(へんみ ゆうきち、1907年9月9日 - 1946年5月17日)は日本の詩人、童話作家。本名は大野四郎。画家としては、士路と号する。新聞記者の和田日出吉は兄、その妻の木暮実千代は兄嫁にあたる。また、弟の大野五郎は画家。 詩は寡作。没後1966年に編まれた定本詩集には初期詩篇を含めて78作。『詩と詩論』、『文藝汎論』、『歴程』などの雑誌に寄稿する。『歴程』創刊時の同人の1人である。 1907年、茨城県猿島郡古河町(現・古河市)に生まれる。祖父と父は、ともに足尾銅山鉱毒事件対策の渡良瀬遊水地用地として強制廃村になった栃木県下都賀郡谷中村で村長を務めていた。1908年、東京府北豊島郡岩渕町(現・東京都北区)に移住[要出典]。
吉川 静夫(よしかわ しずお、1907年〈明治40年〉8月2… 吉川 静夫(よしかわ しずお、1907年〈明治40年〉8月28日 - 1999年〈平成11年〉4月10日)は、日本の作詞家、詩人。 北海道札幌市生まれ、帯広市出身。北海中学(現:北海高等学校)、駒澤大学卒業。小学校の校長を経て、1936年(昭和11年)にキングレコードの「追分月夜」で作詞家デビュー。戦時中はヒット作に恵まれなかったが、戦後の1946年(昭和11年)に岡晴夫「青春のパラダイス」で復活。その後はビクター専属となり、津村謙「流れの旅路」、三浦洸一「落葉しぐれ」、三沢あけみ「島のブルース」、青江三奈「長崎ブルース」「池袋の夜」、森進一「女のためいき」、竹山逸郎「熱き泪を」などのヒット作を生んだ。
安藤 一郎(あんどう いちろう、1907年〈明治40年〉8月… 安藤 一郎(あんどう いちろう、1907年〈明治40年〉8月10日 - 1972年〈昭和47年〉11月23日)は、日本の詩人、英文学者、翻訳家。 1928年東京外国語学校英語科卒業、東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)教師、1938年米沢高等工業学校講師、1939年助教授、1941年母校助教授、のち東京外国語大学教授、1971年定年退官。詩人、翻訳家として著述多く、日本現代詩人会会長を務めた。没後の1973年、『摩滅』で無限賞受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
野口 茂夫(のぐち しげお、1907年5月11日 - 199… 野口 茂夫(のぐち しげお、1907年5月11日 - 1993年)は、日本の児童詩人、教育者。 福島県小名浜(現いわき市)生まれ、茨城県平潟町育ち。1928年東京府立青山師範学校卒、29年同専攻科卒、詩人・大関五郎に師事。東京府北多摩郡砧小学校教師、滝野川小学校教諭。小砂丘忠義の『綴方生活』同人。1944年浅草区新堀国民学校教諭、集団疎開、敗戦ののち46年小島小学校教諭、日本作文の会創立に参加。中央区月島小学校長を最後に1968年定年退職。作文、児童詩の指導を行った。「のぐちしげお」とひらがなの筆名を用いた。
井上 靖(いのうえ やすし、1907年(明治40年)5月6日… 井上 靖(いのうえ やすし、1907年(明治40年)5月6日 - 1991年(平成3年)1月29日)は、日本の小説家・詩人。主な代表作は「闘牛」「氷壁」(現代小説)、「風林火山」(時代小説)、「天平の甍」「おろしや国酔夢譚」(歴史小説)、「敦煌」「楼蘭」(西域小説)、「あすなろ物語」「しろばんば」(自伝的小説)、「わが母の記」(私小説)など。1950年(昭和25年)「闘牛」で芥川賞を受賞、私小説・心境小説が主流だった敗戦後の日本文学に物語性を回復させ、昭和文学の方向性を大きく変えた戦後期を代表する作家のひとり。劣等感から来る孤独と人間の無常を、時間と空間を通した舞台と詩情あふれる文体・表現によって多彩な物語のなかに描き、高い評価を得た。
中原 中也(なかはら ちゅうや1907年〈明治40年〉4月2… 中原 中也(なかはら ちゅうや1907年〈明治40年〉4月29日 - 1937年〈昭和12年〉10月22日)は、日本の詩人・歌人・翻訳家。旧姓は柏村(かしむら)。 代々開業医である名家の長男として生まれ、跡取りとして医者になることを期待されていた。小学校時代は学業成績もよく神童とも呼ばれたが、8歳の時、弟が脳膜炎により病死したことで文学に目覚めた。中也は30歳の若さで死去したが、生涯で350篇以上の詩を残した。その一部は、結婚の翌年刊行した第1詩集『山羊の歌』および中也の死の翌年出版された第2詩集『在りし日の歌』に収録されている。訳詩では『ランボオ詩集』や、数は少ないがアンドレ・ジイドの作品などフランス人小説家の翻訳もしている。
山本 和夫(やまもと かずお、1907年〈明治40年〉4月2… 山本 和夫(やまもと かずお、1907年〈明治40年〉4月25日 - 1996年〈平成8年〉5月25日)は、日本の児童文学作家、詩人。妻は、児童文学作家で翻訳家の山本藤枝。ロシア児童文学の翻訳・研究家の松谷さやかはその子にあたる。 福井県遠敷郡松永村門前(現小浜市)で、山本文雄の長男として生まれる。旧制小浜中学校卒業。中学時代より詩作を始め、1926年(大正15年)東洋大学専門学部倫理学東洋文学科に入学、1929年(昭和4年)に卒業した。在学中に乾直恵、白井一二らと『白山詩人』同人となり赤松月船、勝承夫、大村主計と詩を発表し、処女詩集『仙人と人間との間』を創刊し活躍した。 1932年(昭和7年)三省堂編集部に勤めながら文学活動を続け、1935年(昭和10年)には同人誌『星座』に参加、同誌に連載した『国木田独歩ノート』で全国同人誌クラブ賞受賞。
中野 嘉一(なかの かいち、1907年4月21日 - 199… 中野 嘉一(なかの かいち、1907年4月21日 - 1998年7月23日)は、日本の詩人、歌人、精神科医。 愛知県碧海郡高岡町堤村(現:豊田市)出身。刈谷中学校(現:愛知県立刈谷高等学校)、慶應義塾大学医学部卒。在学中から前田夕暮に師事して歌集を刊行する。1944年から45年は軍医としてヤップ州メレヨン島に駐留し過酷な状況を日記に記し戦後は詩歌を著した。 精神科医として、東京武蔵野病院で太宰治の主治医を務めた。新短歌運動、シュールレアリスム運動に加わり、1951年に詩誌『暦象』を創刊、主宰する。1952年に詩集『春の病歴』で第1回中部日本詩人賞、1976年に『前衛詩運動史の研究』で第9回日本詩人クラブ賞を受賞する。
金 起林(キム・ギリム、朝鮮語: 김기림、1907年4月5日… 金 起林(キム・ギリム、朝鮮語: 김기림、1907年4月5日 - 没年不詳)は、大韓民国の詩人、文学評論家。 本名は金 仁孫(キム・インソン、김인손)。幼名は金 寅孫(読み、ハングル同じ)。号は片石村(ピョンソクチョン、편석촌)。 咸鏡北道鶴城郡生まれ。普成高等普通学校(現・普成高等学校)を経て日本大学英文学科中退、東北帝国大学(現・東北大学)英文学科卒業。帰国後朝鮮日報学芸部記者を務め、朝鮮日報に『行け新しい生活で』を発表し、文壇に登場した。同紙には評論『詩の技術認識の現実など諸問題』を発表し、文学評論も行なった。 1933年、李箱、李孝石、趙容万、朴泰遠らとともに九人会を結成し、この頃より本格的に詩作を始め、1936年に詩集『気象図』を発表した。
丸山 三四子(まるやま みよこ、1907年〈明治40年〉3月… 丸山 三四子(まるやま みよこ、1907年〈明治40年〉3月4日 - 1995〈平成7年〉12月26日)は、詩人・丸山薫の妻。詩人としてまだ収入の乏しかった時期の丸山を、マネキンとしての仕事で支えた。昭和初期のマネキンの事情を綴った書籍『マネキン・ガール』の著者として知られる。旧姓は高井。 1907年、愛知県知多郡有松町(現・名古屋市)で誕生した。先進的な父の方針で、横浜の捜真女学校に入学後、家庭の事情で名古屋の金城女学校に転校した後、愛知県立第一高等女学校専攻科(現・愛知県立明和高等学校)を卒業した。 1927年(昭和2年)、丸山薫と結婚した。丸山薫が詩人としてまだ芽が出ていなかったため、働き口を捜して知人のもとを訪れたところ、三四子の働き口ならあるとして、東京マネキン倶楽部を紹介され、マネキンとなった。
赤木 健介(あかぎ けんすけ、1907年3月2日 - 198… 赤木 健介(あかぎ けんすけ、1907年3月2日 - 1989年11月7日)は、日本の詩人、歌人、編集者、歴史家。本名・赤羽 寿(あかばね ひさし)、別名・伊豆 公夫(いず きみお)。 青森市生まれ。九州帝国大学法文学部中退。姫路高等学校時代から『アララギ』に投稿、1928年の三・一五事件以来、左翼運動に挺身。1933年、検挙投獄。1935年、出獄ののち、渡辺順三らの『短歌評論』に参加。1932年、唯物論研究会に属し、日本共産党に入党するが、1938年、一斉検挙にあい、1944年に判決が下って下獄。この間、1940年に「在りし日の東洋詩人たち」で第4回透谷文学賞を受賞した。敗戦後、1945年10月に連合軍により解放される。
高見 順(たかみ じゅん、本名・高間芳雄、1907年1月30… 高見 順(たかみ じゅん、本名・高間芳雄、1907年1月30日 - 1965年8月17日)は、日本の小説家、詩人。
金 素雲(きん そうん、キム ソウン、1907年1月5日 -… 金 素雲(きん そうん、キム ソウン、1907年1月5日 - 1981年11月2日)は、韓国釜山出身の詩人。本名は金 教煥、筆名は鉄 甚平(てつ・じんぺい)。号は巣雲、三誤堂。詩人・作家の北原綴は息子。歌手の沢知恵は孫。
入江 好之(いりえ よしゆき、本名:入江 好行、1907年(… 入江 好之(いりえ よしゆき、本名:入江 好行、1907年(明治40年) - 1989年(平成元年))は、日本の詩人・児童文学作家・教育者・経営者。 北海道小樽市生まれ。1928年(昭和3年)旭川師範学校(現・北海道教育大学旭川校)卒業。 在学中に詩誌「北斗星」を創刊。旧制中学校教諭]しながら、作詩活動を続け、詩誌「青光」を創刊。1936年(昭和11年)に第一詩集「あしかび」を刊行。その後官憲の弾圧を受け、教職を辞職し、1943年(昭和18年)に満州国に渡る。満州国日本人中学校の教員をしていたが、終戦。シベリア抑留を経て、1949年(昭和24年)に帰国。 1956年(昭和31年)北海道詩人協会の設立に参画し、同協会事務局長に就任( - 1976年(昭和51年))。