鈴木 氏亨(すずき しこう、1885年〈明治18年〉10月4… 鈴木 氏亨(すずき しこう、1885年〈明治18年〉10月4日 – 1948年〈昭和23年〉1月15日)は、日本の新聞記者、編集者。菊池寛の秘書を務めたのち、1923年に創刊された月刊誌『文藝春秋』の編集に加わり、のちに文藝春秋社の専務取締役を務めた。 1885年(明治18年)10月4日、宮城県仙台市に生まれる。早稲田大学を卒業後、文芸誌『新小説』の記者として編集・執筆の道に入った。 1923年(大正12年)、菊池寛が創刊した『文藝春秋』に編集同人として参加。創刊号には「時代は移る」を寄稿している。以後、編集・経営の両面で同誌の発行体制を支え、専務取締役に就任した。 1948年(昭和23年)1月15日、長野県軽井沢の自宅にて死去。
小野 政方(おの まさかた、1885年(明治18年)8月3日… 小野 政方(おの まさかた、1885年(明治18年)8月3日 - 1945年(昭和20年)1月19日)は、日本の児童文学者・編集者。 妻は小説家の小野美智子。 山梨県東八代郡境川村(現:山梨県笛吹市)出身。山梨県師範学校を卒業後、八代尋常小学校に訓導として勤務した。その後、上京して巖谷小波に師事し、『少年世界』『少女世界』に童話を発表した。執筆活動初期には、故郷を流れる笛吹川にちなみ「小野小峡」の筆名を名乗った。1912年に山内秋生、竹貫佳水、蘆谷蘆村、大井冷光らと、日本初の児童文学団体である少年文学研究会を設立。1920年には、研究社『小学少女』の編集に当たっている。のちに、小川未明、楠山正雄、鹿島鳴秋、蘆谷蘆村、浜田廣介が創立準備をした童話作家協会に参画。
針重 敬喜(はりしげ けいき、1885年〈明治18年〉2月1… 針重 敬喜(はりしげ けいき、1885年〈明治18年〉2月1日 - 1952年〈昭和27年〉6月5日)は日本の編集者、アマチュアテニス選手。『武侠世界』などの雑誌で主筆を務め、また日本のテニスの普及・振興に尽力した。 山形県南置賜郡南原芳泉村(現・米沢市芳泉町)出身。父親の幸主は地元の名士で、住民から記念碑を建立されるほどであった。 米沢中学(現・山形県立米沢興譲館高等学校)を経て1903年(明治36年)に早稲田大学英文科に入学。早稲田を選んだのは坪内逍遥に憧れたためであった。また、庭球部に入部し、ここから本格的にテニスを始めることとなる。 早稲田大学卒業後、読売新聞、東京日日新聞を経て、1912年(明治45年)、押川春浪に請われて飛田穂洲と共に武侠世界社に入社。
楠山 正雄(くすやま まさお、1884年11月4日 - 19… 楠山 正雄(くすやま まさお、1884年11月4日 - 1950年11月26日)は、日本の演劇評論家、編集者、翻訳家、児童文学者。主に大正時代から昭和時代戦後初期にかけて活動した。 東京府京橋区新橋竹川町(現在の銀座)で、小売と卸売を兼業し、印刷業の写真画問屋も営む楠山秀太郎の子として生まれる。祖父で幕臣の楠山孝一郎は、同じく幕臣で編集者の成島柳北の兄にあたる。俳優・森繁久弥とも縁戚にあたる。 しかし3歳になった1886年2月15日、父秀太郎が急死。後に母親が再婚するが、再婚相手の起こした不祥事から会社が倒産して苦しい家計に追われることになり、親戚の家を盥回しにされるなど、多難な少年時代を送る。
島村 盛助(しまむら もりすけ、1884年8月9日 - 19… 島村 盛助(しまむら もりすけ、1884年8月9日 - 1952年4月22日)は、日本の英文学者、翻訳家、小説家、辞書編集者、教育者。号は苳三(とうぞう)。『岩波英和辞典』を刊行した。 1884年(明治17年)、埼玉県南埼玉郡百間中村(現:宮代町字中)村長の島村繁と、越谷の能楽師の家系の出身である津ねの夫妻の長男として生まれる。弟が2人、妹が4人いたという。 生家は江戸時代初期から百問中村の名主を務めた武士の家であった。盛助の曽祖父の貴英は1817年(天保8年)に俳諧結社多少庵の第4代庵主となり(号は鬼吉)、祖父の梅年、父の繁もその庵主を引き継いだ。父の繁は直心影流の免許皆伝を得て剣術道場を開いた剣術家でもあり、1906年(明治36年)には百間村の村長となった。
中山 泰昌(なかやま やすまさ/たいしょう、1884年(明治… 中山 泰昌(なかやま やすまさ/たいしょう、1884年(明治17年)3月27日 - 1958年(昭和33年)12月25日)は日本の編集者。本名は三郎、号は蕗峰。島根県津和野出身。日本組合基督教会神戸教会・金尾文淵堂に勤務した後、獅子吼書房・春秋社書店等を設立するなどして編集活動に従事し、『大系本』シリーズにより「大系」の語を定着させた。教会・出版関係者と幅広い関係を築き、田山花袋『蒲団』『縁』の題材ともなった永代静雄・岡田美知代の仲を取り持った。 1884年(明治17年)3月27日島根県鹿足郡鷲原村(津和野町鷲原)に旧津和野藩士斎藤善哉の三男として生まれた。幼少期は神代種亮・天野雉彦から文学の薫陶を受けた。
木村 久一(きむら きゅういち、1883年7月5日 - 19… 木村 久一(きむら きゅういち、1883年7月5日 - 1977年2月28日)は、日本の教育学者、百科事典編集者である。 山形県生まれ。1913年、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、麻布中学校、青山女学院、早稲田大学などの教壇に立った。早教育の提唱者であり、『早教育と天才』(木村久一 1917)の著がある。島中雄三を介して下中弥三郎を知り、1931年、請われて平凡社に入り、『世界大百科事典』の編集長に就いた。一説に、英単語の encyclopedia を「百科事典」と訳したのは木村である。同百科事典全28巻を完結させた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
岩谷 山梔子(いわや くちなし、1883年(明治16年)1月… 岩谷 山梔子(いわや くちなし、1883年(明治16年)1月30日 - 1944年(昭和19年)1月4日)は、日本の俳人、俳画家、編集者。別号に木丹亭、黙堂など。本名は健治。青森県出身。 1883年(明治16年)に青森県青森町(現・青森市)に生まれる。10代でカリエスに罹り療養する中で俳句を始め、地元の俳句会「不来会」に参加、20歳で高浜虚子の「ホトトギス」に入会、河東碧梧桐が選者をしていた新聞「日本」にも投句する。碧梧桐の行脚(第一次「三千里」)の際に碧梧桐と会い傾倒。碧梧桐は後に山梔子の句集『山梔子第一句集』の序文で「其の時分の山梔子は世間苦も人間苦も知らないやうなウブな、さうして田舎者の山だしな本質を丸出しにした言はば荒削りな書生だつた。
水谷 竹紫(みずたに ちくし、1882年(明治15年)10月… 水谷 竹紫(みずたに ちくし、1882年(明治15年)10月8日 - 1935年(昭和10年)9月14日)は日本の劇作家、演出家、編集者。第2次芸術座の中心人物として活動した。 女優の水谷八重子は義妹。 長崎県長崎区(現・長崎市)出身。岡山尋常中学(現・岡山県立朝日高等学校)、県立大村中学(現・長崎県立大村高等学校)を経て、1901年(明治34年)、東京専門学校(現・早稲田大学)予科に入学。本科では早稲田大学文学部哲学科。同級に詩人の相馬御風が居た。 1906年(明治39年)、早稲田大学を卒業し、姫路連隊に一年志願兵として入隊。翌年には神楽坂の名妓と結婚するが、この夫人の妹が後の水谷八重子である。
阿武 天風(あぶ てんぷう、1882年〈明治15年〉9月8日… 阿武 天風(あぶ てんぷう、1882年〈明治15年〉9月8日 - 1928年〈昭和3年〉6月22日)は、日本の海軍軍人、小説家、編集者。雑誌『冒険世界』の主筆を務めるなどして、冒険小説を多く発表した。代表作に『太陽は勝てり』など。 本名は阿武 信一(あんの しんいち)。別名義に「髭の少尉」、「虎髯大尉(こぜんたいい)」、「阿武激浪庵」、「怒濤庵少尉」、「黒面中尉」、「黒面魔人」などがある。ただし、これら別名義に関しては、河岡潮風など阿武の周囲の人物が用いていた場合もあり、これらの名義で執筆された文章の全てが阿武のものであるというわけではない。1928年(昭和3年)6月に、松野に改姓し松野 信一となる。
滝田 樗陰(たきた ちょいん、1882年〈明治15年〉6月2… 滝田 樗陰(たきた ちょいん、1882年〈明治15年〉6月28日 - 1925年〈大正14年〉10月27日)は大正期の雑誌編集者。本名は滝田 哲太郎。総合雑誌『中央公論』の編集長を務めた。 秋田県南秋田郡手形新町下丁(現・秋田市手形新栄町)生まれ。父・滝田以久治は秋田藩士の家系の出で、立憲民政党総裁等を務めた町田忠治の弟。厳格で教育熱心な父親に期待をかけて育てられた。秋田中学、第二高等学校を経て東京帝国大学文科大学英文科に進学、のち法科に転じる。在学中に近松秋江が主幹を務める『中央公論』で、ロンドン・タイムズ、デイリー・メール等外国の新聞雑誌類の翻訳アルバイトをするが、やがてその能力を認められ正式な編集者になり、大学はほとんど出席しなくなって中退した。
石田 友治(いしだ ともじ、1881年(明治14年)5月20… 石田 友治(いしだ ともじ、1881年(明治14年)5月20日 - 1942年(昭和17年)5月17日)は、日本の牧師、大正デモクラシーを代表する言論雑誌『第三帝国』の編集者。宗教家としても活躍した。望天と号す。 秋田県南秋田郡土崎港町(現・秋田市)生まれ。秋田中学中退後、聖学院神学校に入り、横手で牧師となったが、1年足らずでやめ、秋田魁新報社の記者となる。1912年(明治45年)に上京して『新公論』の編集にたずさわった。同年12月に第3次桂内閣が成立すると犬養毅や尾崎行雄を中心に第一次護憲運動が起こり、翌1913年(大正2年)1月25日には秋田県の県公園(いまの千秋公園)で秋田市青年会主催の憲政擁護の県民大会が開かれた時、この大会に参加している。
島中 雄三(しまなか ゆうぞう、1881年2月18日 - 1… 島中 雄三(しまなか ゆうぞう、1881年2月18日 - 1940年9月16日)は、日本の社会運動家・文芸評論家・編集者・翻訳家。 奈良県磯城郡三輪町(現桜井市)に生まれる。父雄碩(ゆうせき)、母棹枝(さおえ)の二男。5歳年下の弟に中央公論編集長を経て同社社長になった嶋中雄作(兄との混同を避け島中より嶋中に改姓した)がいる。 奈良県立畝傍中学(現奈良県立畝傍高等学校)卒業後、東京法学院(現中央大学)に学ぶが中退。 福島四郎の「婦女新聞」の記者(編集、校正助手)として働いた時期に、同じ編集部で机を並べた3歳年上の下中弥三郎と知り合い、以後無二の親友となる。下中は後に平凡社を創立、「大人名事典」を発行するが、その中の「島中雄三」の項目は、社長の下中自身が執筆したものだった。
押川 清(おしかわ きよし、1881年〈明治14年〉1月1日… 押川 清(おしかわ きよし、1881年〈明治14年〉1月1日 - 1944年〈昭和19年〉3月18日)は、日本のアマチュア野球選手、編集者、起業家。 早稲田大学野球部の三代目主将を務め、日本初のプロ野球チームである「日本運動協会」(芝浦協会)や、「名古屋軍」(中日ドラゴンズの前身)、「後楽園イーグルス」などの創設者としても知られる。 父は牧師で東北学院創設者でもある押川方義、兄は冒険小説家の押川春浪。長男は劇作家の押川昌一。 現在の宮城県仙台市出身(愛媛県松山市出身と書いてある資料もあるが、押川家は1880年から仙台在住である)。 仙台では1887年(明治20年)9月に、米国聖公会の宣教医であったフランク・ハレルが、第二高等中学校(後の旧制二高、現・東北大学)の教師の就任すると、ハレルは野球道具を持ち込み学生たちに野球を教え、仙台に野球が伝えられた。
藤原 喜一(ふじわら きいち、1880年〈明治13年〉12月… 藤原 喜一(ふじわら きいち、1880年〈明治13年〉12月17日 - 1990年〈平成2年〉3月6日)は、編集者、東洋美術史・中国書道史研究者。号は楚水(そすい)。書や漢詩に関する著書多数。男性長寿日本一だった(109歳)。 大分県西国東郡呉崎村(現:豊後高田市)生まれ。呉崎小学校教師を経て、1901年、関西法律学校を卒業後、明治法律学校で法律・経済学を学び、1904年、実業之日本社に入社。編集長、理事を務める。1928年、退社後は三省堂出版部顧問に。 戦後は東洋美術史、中国書道史の著述をする傍ら、駒澤大学、東京学芸大学、横浜国立大学で東洋美術史、中国書道史を講義。1961年、論文『中国書道史』で博士号(文学、駒澤大学)を取得。
石井 三郎(いしい さぶろう、1880年〈明治13年〉2月2… 石井 三郎(いしい さぶろう、1880年〈明治13年〉2月26日 - 1948年〈昭和23年〉3月25日)は、大正から昭和前期の剣道家、政治家、雑誌編集者。衆議院議員。 茨城県久慈郡、のちの久米村(金砂郷村、金砂郷町を経て現常陸太田市)で生まれる。1911(明治44年)に分家した。 中央大学で学び、銀行業に従事。大蔵省嘱託となり、狩猟調査委員を務めた。1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙に茨城県第4区から出馬して初当選。以後、第15回、第16回、第18回、第19回総選挙で再選され、衆議院議員に通算5期在任した。この間、齋藤内閣と岡田内閣の陸軍参与官などを務めた。1935年(昭和10年)には、昭和会の結党にも参加した。
小島 文八(こじま ぶんぱち、1879年(明治12年)12月… 小島 文八(こじま ぶんぱち、1879年(明治12年)12月14日 - 1937年(昭和12年)9月23日)は戦前日本の雑誌編集者、軍人、南洋開拓者。シャトーブリアン『哀調(フランス語版)』の訳者。 東京外国語学校でフランス文学を専攻し、卒業後『婦人界』主筆を務めた。日露戦争においては松山俘虜所に勤務、終戦後は職を転々とし、西沢島等の南洋事業に関わった。 1879年(明治12年)12月14日、静岡県静岡裏一番町に陸軍士官小島好問の子として生まれた。なお、生誕時父はフランスに留学していた。 1894年(明治27年)4月明治議会中学2年に編入、1896年(明治29年)4月父が呉に転任した頃塩谷青山塾に預けられ、そこから中学に通った。
曽我 鍛(そが きたう/きとう、1879年(明治12年)7月… 曽我 鍛(そが きたう/きとう、1879年(明治12年)7月15日 - 1959年(昭和34年)12月28日)は、日本の編集者、作家、記者。通称はきたえ。号は正堂、黄塔、鬼塔、青銅散士など。 1879年7月15日、愛媛県西宇和郡布喜川村(現在の西予市三瓶町鴫山)に生まれる。1901年旧制松山中学校卒業、1905年7月早稲田大学文学部卒業。同年9月に帝国大学史料編纂係となる。1906年帝国大学編纂係を依願退職、同年3月に三井家史料編纂の嘱託となる。1911年、病気療養のため三井家史料編纂嘱託を依願退職、帰郷する。帰郷後、療養中に双岩村の委嘱により村誌編集にあたる。 1913年4月、伊予日々新聞(柳原極堂経営)の主筆となる。
栗原 彦三郎(くりはら ひこさぶろう、1879年(明治12年… 栗原 彦三郎(くりはら ひこさぶろう、1879年(明治12年)3月25日 - 1954年(昭和29年)5月5日)は、明治から昭和前期の雑誌編集者、政治家、刀匠。衆議院議員。号・昭秀、晃南。 栃木県安蘇郡閑馬村(新合村、田沼町を経て現佐野市 閑馬町)で、大百姓・栗原喜蔵の二男として生まれる。田中正造から薫陶を受けた。1891年(明治24年)正造に伴われて上京。青山学院中学部で学び、在学中の1896年(明治29年)12月、津田仙を足尾銅山に案内したり、東京で演説会を開催するなど足尾鉱毒事件の解決に尽力した。その後、早稲田大学、日本大学で学んだ。 1917年(大正6年)中外新論社の経営に参画して社長に就任し、『中外新論』を刊行。
林 滝野(はやし たきの、1877年(明治10年) - 19… 林 滝野(はやし たきの、1877年(明治10年) - 1966年(昭和41年)4月3日)は、山口県佐波郡徳地町(現在の山口市徳地)出身の雑誌編集者。雑誌「明星」の初期の編集発行人。与謝野鉄幹、正富汪洋の妻。 1877年(明治10年)、山口県佐波郡徳地町(現在の山口市徳地伊賀地新田)にある旧家に生まれた。父親は林小太郎。私立徳山女学校の在学中には教員だった与謝野鉄幹に処女を捧げ、教師と女生徒の間の恋愛関係に陥った。年配者が多かった徳山女学校の教員の中で、鉄幹は数少ない若手教員だった。滝野は16歳だった1893年(明治26年)に徳山女学校を卒業している。 林小太郎は鉄幹が林家の養子になるなら結婚を認めるつもりだったが、田舎住まいなどまっぴらごめんの鉄幹は小太郎の申し出を拒否。
押川 春浪(おしかわ しゅんろう、1876年3月21日 - … 押川 春浪(おしかわ しゅんろう、1876年3月21日 - 1914年11月16日)は、日本の作家(冒険小説、SF、武侠小説)、編集者。愛媛県松山市出身、本名は方存(まさあり)。冒険小説のジャンルを定着させ、雑誌『冒険世界』『武侠世界』で主筆を務めて多くの後進の作家、画家育成に尽力した。 松山市生まれ。父は牧師でNHK朝の連続テレビ小説『はね駒』の主人公の恩師・松浪毅のモデルとなった押川方義。弟押川清は日本のプロ野球創始者として知られる。 生後8か月で、新潟で伝道を行っていた父に母とともに呼び寄せられる。1878年(明治11年)、1879年(明治12年)と続いた新潟大火のため、方義は伝道地を仙台に移し、同行。
喜安 璡太郎(きやす しんたろう、1876年(明治9年)1月… 喜安 璡太郎(きやす しんたろう、1876年(明治9年)1月10日 - 1955年(昭和30年)12月22日)は戦前日本の英語教育者、雑誌編集者。新潟県立高田中学校教諭、早稲田実業学校教員。長年『英語青年』編集を引き受け、引退後は「河畔通信」「鵠沼通信」を連載した。 1876年(明治9年)1月10日愛媛県伊予郡恵久美村(松前町恵久美)の豪農の長男として生まれた。早く父を喪い、教育熱心な母の下、近所の和尚に四書五経を学んだ。地元の小学校に通い、1886年(明治19年)米湊村の高等小学校に編入した。 伯母宅に預けられて松山高等小学校に転校し、『文学之栞』編集に参加した。1889年(明治22年)私立伊予尋常中学校に進学し、1892年(明治25年)卒業した。
戸叶 薫雄(とかの よしお / しげお、1872年12月24… 戸叶 薫雄(とかの よしお / しげお、1872年12月24日(明治5年11月24日)- 1917年(大正6年)9月26日)は、明治後期から大正期の新聞編集者、実業家、政治家。衆議院議員。旧名・初五郎。田中正造の後継者と目された人物。 栃木県安蘇郡長谷場村(野上村長谷場、田沼町を経て現佐野市長谷場町)で、戸叶庄造の長男として生まれる。1885年(明治18年)2月、家督を相続し薫雄に改名した。栃木師範学校で学んだが教師と対立して退校。1896年(明治29年)自由民権思想の普及のため政治小説『想夫恋』を出版。1898年(明治31年)7月、東京法学院(前身英吉利法律学校、現中央大学)を卒業し、1899年(明治32年)7月、日本法律学校(現日本大学)を卒業した。
国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4… 国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日)は、日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者。千葉県銚子生まれ、広島県広島市、山口県育ち。 幼名を亀吉、後に哲夫と改名した。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。田山花袋、柳田國男らと知り合い「独歩吟客」を発表。詩や小説を書き、次第に小説に専心した。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯(じゃがいも)」といった浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる。また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。
江見 水蔭(えみ すいいん、明治2年8月12日(1869年9… 江見 水蔭(えみ すいいん、明治2年8月12日(1869年9月17日) - 昭和9年(1934年)11月3日)は、岡山市生まれの小説家、翻訳家、編集者、冒険家。本名:忠功(ただかつ)。 文学作品を皮切りに、通俗小説、推理小説、冒険小説、探検記など多岐に渡る分野に作品を残し、硯友社、博文館など数々の出版社で雑誌の編集発行に関わった。代表作に小説『女房殺し』、『地底探検記』、随筆『自己中心明治文壇史』、翻案戯曲『正劇 室鷲郎』など。 江見忠功は岡山の一番町一番屋敷に生れた。父の鋭馬は水蔭が幼少の頃死去。1881年、叔父の水原久雄の勧めで軍人を志して上京したが、次第に文学に惹かれるようになり、15歳のときに軍人を諦める。
大橋 乙羽(おおはし おとわ、1869年7月12日〈明治2年… 大橋 乙羽(おおはし おとわ、1869年7月12日〈明治2年6月4日〉 - 1901年〈明治34年〉6月1日)は、日本の小説家、編集者。本名は又太郎、旧姓は渡部。羽前国米沢(現・山形県米沢市)生まれ。 硯友社に入り『こぼれ松葉』『露小袖』などを執筆。のち博文館主人大橋佐平の娘婿・養子となり、博文館に入社。樋口一葉を商業誌デビューさせたほか、尾崎紅葉、巖谷小波らを担当し、日本の近代文学における編集者の先駆けであった。著書に小説などをまとめた『花鳥集』『若菜籠』、紀行文集『千山万水』など。 明治2年(1869年)6月4日、羽前国米沢の立町二ツ橋畔に生れた。父は渡部治兵衛、母はかつといい、旅館「音羽屋」を営んでいた。
水田 南陽(みずた なんよう、1869年1月(明治2年) -… 水田 南陽(みずた なんよう、1869年1月(明治2年) - 1958年1月3日(昭和33年))は、日本の翻訳家、小説家、編集者、新聞記者、実業家。日本へシャーロック・ホームズを紹介した先駆者。別名は、南陽 外史(なんよう がいし)。本名は、水田 栄雄(みずた ひでお)。 1869年1月、淡路国薦江(兵庫県)生まれ。大阪・川口の英和学舎(立教大学の前身の一つ)を経て、1890年、立教大学卒業。 ミッション・スクール(現立教大学)在学中の1889年、東京能弁学会に加入し、機関誌『能弁』にシェイクスピア劇の翻訳を掲載。東京能弁学会の幹事である大岡育造に認められ、『能弁』の編集に参加した。 1890年頃、大岡育造が経営していた中央新聞に入社し、同紙にエミール・ガボリオの『オルシヴァルの犯罪』を『大探偵』と題して訳出したのを始め、『夢中の玉』『珊瑚の徽章』などを次々発表した。
尼子 四郎(あまこ しろう、慶應元年(1865年)- 昭和5… 尼子 四郎(あまこ しろう、慶應元年(1865年)- 昭和5年(1930年)7月7日)は、日本の医学者、出版・編集者。字は信久、石筍と号す。 1865年、安芸国山県郡戸河内村本郷(現在の広島県安芸太田町)生まれ。家系は尼子氏の流れを組み、代々庄屋をつとめた。しかし維新の社会的変動で庄屋職の父は没落、母は四郎出産後死亡し、不遇な環境で育った。 12、3歳の頃、広島に出て漢学を学ぶ。1887年、広島医学校(現・広島大学医学部)を首席で卒業。同級に富士川游ら。一年研修の後1888年、新設された東京帝国大学医科大学選科・青山内科に入った。しかし1890年、腸チフスに罹って中退。離京して島根県益田市で静養した後、郷里・戸河内村や山口県下松市で開業するが、カリエスに罹患するなどで医院を畳み、再び東京に出る。
安孫子 久太郎(あびこ きゅうたろう、1864年7月26日〈… 安孫子 久太郎(あびこ きゅうたろう、1864年7月26日〈元治元年6月23日〉 - 1936年〈昭和11年〉5月31日)は、アメリカ合衆国で活動した日本人起業家かつ新聞編集者である。日米新聞社長。 1864年(元治元年)に、のちの新潟県北蒲原郡水原町字外城(現阿賀野市)で、小林徳四郎、いし子の長男として生まれた。母が出産の際に死亡したため、母方の祖父(安孫子彦一郎)方に引き取られ、15歳年上の叔父安孫子石太郎の弟として養育される。家業の蝋燭、紙の販売を手伝わされ、荷車に品々を積んで、近隣の村々を売りに歩く。水原在町中に英人宣教師パームからキリスト教的薫陶を受けた。 1882年(明治15年)、宇尾野藤八、佐藤文二と新潟を出奔する。
坪谷 善四郎(つぼや ぜんしろう、文久2年2月26日(186… 坪谷 善四郎(つぼや ぜんしろう、文久2年2月26日(1862年3月26日) - 昭和24年(1949年)3月24日)は日本の出版人、編集者、政治家。号は水哉(すいさい)。 1862年、越後国南蒲原郡加茂(現・新潟県加茂市)に生まれる。東京専門学校(現・早稲田大学)邦語政治科在学中、博文館に入社。編集局長を経て1918年取締役就任。1895年には雑誌『太陽』の創刊にあたり初代主筆、編集主幹としてこれに従事した。政治家としては1901年以来7期にわたって東京市会議員を務め、1907年開館の東京市立図書館(現・日比谷図書文化館)建設につくした。1917年、大橋図書館(現・三康図書館)館長。1918年、日本図書館協会会長。
井口 松之助(いのぐち まつのすけ、1853年〈嘉永6年〉 … 井口 松之助(いのぐち まつのすけ、1853年〈嘉永6年〉 - 没年不詳)は、日本の編集者である。 1853年(嘉永6年)近江国大津(現滋賀県大津市)に生まれた。 初め京都で書肆をやっていた須磨勘兵衛に雇われた後、京都の福井源次郎の書肆に転職した。その後、名古屋の紙久の養子となった。 1881年(明治14年)に上京した。 1886年(明治19年)に氷業を営んだが廃業し、同年10月に東京の京橋区南大工町で「魁眞棲」という社名で書籍業を始めた。 1889年(明治22年)同業者を勧誘して図書の競り市の第一回を挙行し、井口自身は販売人の振手を務めた。 1891年(明治24年)東京の神田錦町に移り書籍小売行を開始した。
花輪 えみ(はなわ えみ、1月7日 - )は、日本のコラムニ… 花輪 えみ(はなわ えみ、1月7日 - )は、日本のコラムニスト、ライター、編集者である。埼玉県草加市出身。早稲田大学卒業。血液型はO型。 幼少期から千葉県習志野市で過ごす。渋谷教育学園幕張高等学校を経て、早稲田大学文化構想学部(旧・早稲田大学第二文学部)を卒業。大学在学中に濠モナシュ大学への留学を経験している。 同じく大学在学中、女性向けサイトでの編集に従事。当時の編集長であり、師匠と仰ぐ東香名子と出会う。その後、同氏に勧められて複数のWEBメディアと業務委託契約を結び、ライター業を経験した。 大学卒業後に就職した製造小売業との兼業を経て、ライターとして活動。独立後は取材記事や、マンガ書評、美容等のコラムを執筆しながら、全国から累計2万人が受講する女性限定キャリアスクール「SHElikes(シーライクス)」のライターTAも兼任し、課題の添削に取り組んでいる。
中野 博之 は、日本の漫画編集者。集英社の漫画雑誌『週刊少年… 中野 博之 は、日本の漫画編集者。集英社の漫画雑誌『週刊少年ジャンプ』の第11代目編集長。
島田 牙城 は、京都府出身の俳人・編集者。日野草城の学生時代… 島田 牙城 は、京都府出身の俳人・編集者。日野草城の学生時代の句友で夭折した中西其十の再発見や、27歳で第二次大戦の戦火に斃れた俳人・平松小いとゞの再評価、「ゆきあひ」「桃柳」など日本文化に根ざしていながら歳時記に登録されていない季節の言葉に光を当てるなど、市井の研究者としての側面を見せながら、徹底取材による「俳」の体現、俳句作りを提唱している。
松原 亨 は、日本の雑誌編集者。
渡辺 肇 は、昭和期の新聞編集者、政治家。衆議院議員。
苅田 昌(かんだ さかえ)は、日本の実業家、新聞編集者、大学… 苅田 昌(かんだ さかえ)は、日本の実業家、新聞編集者、大学関係者。岡山大学監事などを務める。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
平 格彦(たいら まさひこ)は、日本のファッションコラムニス… 平 格彦(たいら まさひこ)は、日本のファッションコラムニスト、編集者。 ”自分らしい着こなし”をメディアで発信し、着こなし工学を提唱。 明治大学大学院時代にマーケティングを専攻。卒業後に日之出出版に入社。広告部でライターとして関わりながら『FINEBOYS』編集部を経て独立。 ライティングとマーケティングの両方をこなし、外部メディアや企業のコンセプト設定のコンサルタントとしても活動する。 60以上の様々なメディアに関わってきた。特にファッションに関しては20年以上携わっている。今まで培ったファッション業界の経験と心理的、脳科学的な観点から“着こなし工学”を提唱している。 メンサ会員であり、野菜ソムリエの資格も持つ。
ひみつのはぐ(himitsunohugとも表記。2月7日 –… ひみつのはぐ(himitsunohugとも表記。2月7日 – )は、日本のミュージシャン、アートディレクター、編集者。daisies records主宰。 主に音楽以外の作品から影響を受けており、カトリーヌ・ドヌーヴなどが出演するフランス映画のほか、ソフィア・コッポラ、ヤン・シュヴァンクマイエル、岩井俊二などの映像作品を好む。また、チェコ映画『ひなぎく』への思い入れが強く、レーベル名にもdaisiesという言葉が使われている。 写真家では、Tim Walker、SAGA SIG、蜷川実花、稲岡亜里子、佐内正史などを敬愛している。 Merry Projectとは、「笑顔は世界共通のコミュニケーション」を合言葉に1999年からアートディレクター・水谷孝次によって始められたコミュニケーションアートプロジェクト。
井澤 泰(いざわ やすし)は、日本の編集者、ジャーナリスト、… 井澤 泰(いざわ やすし)は、日本の編集者、ジャーナリスト、篠原出版新社元社長。家族構成は、妻、娘、息子。東京都武蔵野市に生まれ、朝日新聞社に勤務する父親の影響を強く受けて育つ。1969年に東京都立三鷹高等学校を卒業。1973年に東京経済大学経済学部を卒業。大学では、大原慧社会政策ゼミ、社会科学研究会に所属。幼少のころは病弱であり外出することが少なかったが、中学生の頃から父親の影響を受け、積極的に学生運動に参加する。現在でも政治信念を曲げることなく、編集者・ジャーナリストの立場からさまざまな公の場で特に日本の医療制度に関して情報発信・発言をしている。 大学卒業後、複数の出版社に勤務する。そのうちの一社であるほるぷ出版に入社後、しばらくして自身でも起業し、編集者およびライターとして活躍する。
平井四郎(ひらい しろう)は三省堂の編集者。1923年(大正… 平井四郎(ひらい しろう)は三省堂の編集者。1923年(大正12年)に入社、三省堂編修所の編修所長、出版部長、常務を経て、成城大学教授となった。 1946年(昭和21年)、平井編「会話便覧米兵との話方」を出版。終戦直後に簡易な英会話集が多くの版元から出版されたが、これもそのひとつ。この時期の商品としてはヒットした。 出版部長時代に、見坊豪紀に明解国語辞典の編纂を依頼し、また、金田一春彦に明解古語辞典の編纂を依頼した。
米山 淳(よねやま あつし)は、日本の雑誌編集者。1963年… 米山 淳(よねやま あつし)は、日本の雑誌編集者。1963年1月27日生まれ。現職は、光文社の女性向け月刊ファッション雑誌VERY副編集長。 神奈川県立厚木高等学校を経て、早稲田大学を卒業。光文社に入社。光文社ではCLASSY、週刊宝石やBRIOの編集や企画広告を担当後、今尾朝子編集長の下でVERY副編集長に就任。毎号多彩な人物に取材しているほか、名物企画の編集を担当。
竹熊 健太郎 は、日本の編集者・ライター、漫画原作者である。… 竹熊 健太郎 は、日本の編集者・ライター、漫画原作者である。本人による肩書きは「編集家」。東京都世田谷区出身。神奈川県大和市在住。『アルバイトニュース』でペンネーム・細石巌(さざれいしいわを)を使用していたことがある。
宇留間 和基(うるま かずもと)は、日本のジャーナリスト、編… 宇留間 和基(うるま かずもと)は、日本のジャーナリスト、編集者。AERA創刊時から編集部に入り、同誌編集長や、初代朝日新聞出版代表取締役社長等を経て、J-CASTニュース編集長。 新潟県相川町(現佐渡市)出身。新潟県立佐渡高等学校を経て、1979年一橋大学社会学部卒業、毎日新聞社入社。その後朝日新聞社に移り、1988年にAERAが創刊されると同誌編集部に入る。 1992年朝日新聞東京社会部。1995年AERA副編集長。2003年から2006年までAERA編集長。朝日新聞社出版本部雑誌編集センター長、図書編集センター長、出版本部長を経て、2008年に朝日新聞出版が設立されると、同社代表取締役社長に就任。
石橋 和章(いしばし かずあき)は、日本の漫画編集者。『裏サ… 石橋 和章(いしばし かずあき)は、日本の漫画編集者。『裏サンデー』『マンガワン』の初代編集長。福井県出身。株式会社コミックルーム代表取締役社長。Zoo名義で漫画原作者としても活動する。 福井県立金津高等学校、同志社大学法学部法律学科卒業。2001年にエニックス入社し、その直後に「エニックスお家騒動」が起こる。ヤングガンガンなどの編集を担当し、2006年10月に退社。小学館に移籍する。 週刊少年サンデーでは、連載中の『マギ』(大高忍)の担当を務めているほかに、『神のみぞ知るセカイ』(若木民喜)の立ち上げ時に担当を務めた。また、神のみぞ知るセカイのアニメ第10話に声の出演もしている。 2012年4月、「掟破りの無料WEBマンガサイト」「脱獄型WEBコミックサイト」と題し、無料コミック配信サイト『裏サンデー』の立ち上げを行う。
松永 光弘 (まつなが みつひろ)は、日本の編集者。ただし松… 松永 光弘 (まつなが みつひろ)は、日本の編集者。ただし松永自身は編集者と名乗ることは多くなく、通常は「編集家」という肩書きを用いている。 大阪府出身。東大寺学園中学校・高等学校卒業。京都大学経済学部中退。 出版にとらわれない広義の「編集」の研究家および実践家であり、普遍性の高い定義の不在が編集という手法の普及の妨げになっていると主張する。編集を「組み合わせの中で価値や意味を引き出すこと」と定義し、企業のブランディングやコミュニケーション、サービス開発、教育事業、地域創生など、さまざまなシーンで「人、モノ、コトの編集」に取り組む他、情報の編集術や編集思考について企業や教育機関などで指導を行っている。
張 文環(ちょう ぶんかん)は台湾の小説家、文芸誌編集者。岡… 張 文環(ちょう ぶんかん)は台湾の小説家、文芸誌編集者。岡山中学校、東洋大学文学部卒。日本統治時代の台湾を代表する小説家である。 張文環の作品は台湾風土の取材に基づくリアリズムに依拠した重厚な作風が特徴である。代表作の『夜猿』は皇民奉公会の台湾文学賞を受賞している。また小説『閹鶏』は舞台脚本に改作され広く親しまれた。 黄得時(中国語版)、中山侑(中国語版)らと文芸誌『台湾文学(中国語版)』を創刊した。精力的な文筆活動は戦時下の台湾文壇に大きな影響を与えていたが、戦後は逼塞した政治環境により執筆活動を放棄している。 1975年、日本語で書かれた自伝的小説「地に這うもの」が東京・現代文化社にて出版。
倉林 里実(くらばやし さとみ)は、日本の編集者、文藝春秋『… 倉林 里実(くらばやし さとみ)は、日本の編集者、文藝春秋『CREA(クレア)』編集長、『CREA Traveller』編集長。 1987年、筑紫女学園高等学校卒業。1991年、立教大学経済学部経済学科卒業。大学卒業後、山一證券に入社し、国際金融部で勤務。 その後、アメリカ・ハーバード大学へ短期留学したのち、1994年に出版業界に転身。株式会社芝パーク出版『saita』編集長を務め、2008年より、文藝春秋に入社し、デスクとして『CREA』編集部に所属。 2010年、『CREA』編集長に就任。2013年より、『CREA Traveller』編集長を務める。
ヨシダプロ(本名非公開)は、日本のイラストレーター、漫画家、… ヨシダプロ(本名非公開)は、日本のイラストレーター、漫画家、ライター、編集者。
柳谷 杞一郎(やなぎたに きいちろう)は昭和32年(1957… 柳谷 杞一郎(やなぎたに きいちろう)は昭和32年(1957年)広島県生まれのプロ・カメラマン、編集者。修道中学校・修道高等学校卒。慶應義塾大学文学部卒。大学在学中からフリーライター、編集者の仕事をスタート。1980年株式会社シド・ファイナル・アーツを設立。1987年「エスクァイア日本版」編集者となりファッションフォト、ネーチャーフォト等を担当。タイアップ広告担当の副編集長を経て、1991年カメラマンとして独立。。東京写真学園代表も務める。