多田 留治(ただ とめじ、1907年7月8日 - 1991年… 多田 留治(ただ とめじ、1907年7月8日 - 1991年7月5日)は、昭和時代の社会運動家。日本共産党名誉幹部会委員。 兵庫県加古郡高砂町鍵町(現高砂市)生まれ。1922年高等小学校卒業後、三菱製紙高砂工場に就職。1924年10月同工場の労働組合高砂工友会の結成に参加、翌年のストライキでは指導者として活動。1928年高砂消費組合の結成に参加。同年5月組合同盟播州連合会の結成で常任執行委員。1929年10月日本共産党に入党。1930年1月日本共産青年同盟(共青)中央委員長・アジプロ部長となり上京、同年2月河原崎長十郎宅で検挙、懲役8年。1940年満期服役後、太平洋戦争勃発に伴う行政措置により、1943年再検挙。
小畑 達夫(おばた たつお、1907年7月7日 - 1933… 小畑 達夫(おばた たつお、1907年7月7日 - 1933年12月24日、満26歳没)は、日本の社会運動家である。日本共産党の党員。1933年(昭和8年)、共産党内で宮本顕治、袴田里見らにより「特高警察のスパイ」の容疑をかけられ、査問を受けていた最中に死亡した(日本共産党スパイ査問事件)。宮本や袴田はこれにより、治安維持法違反のほか、不法監禁致死罪および銃刀法違反の罪に問われた。 1907年(明治40年)、秋田県北秋田郡二井田村(現大館市)に教員の長男として生まれた。母を幼少時に亡くし、父は小学校5年生のときに死亡、実母の妹イクに育てられた。秋田県立大館中学校に進学。伯父に大杉栄の弟子がいて、影響を受け在学中から公然と天皇制を批判していた。
片山 武夫(かたやま たけお、1907年(明治40年)6月2… 片山 武夫(かたやま たけお、1907年(明治40年)6月25日 - 1979年(昭和54年)4月20日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。 福井県今立郡鯖江町(現鯖江市)出身。生家は織物業を営んでいたが5歳の時に破産し一家で上京した。働きながら独学し、1924年(大正13年)東京市神田区の電機学校(現東京電機大学)電気科を卒業した。 1924年、東京電燈に入社し、横浜支店に配属された。1945年(昭和20年)11月、関東配電労働組合の結成に従事。1946年(昭和21年)5月、関東配電労組中央執行委員に就任。日本電気産業労働組合協議会(電産)関東地方本部副委員長であった1949年(昭和24年)10月、電産の退職金闘争の際に電産本部が要求を下回る内容で妥結したことに抗議して同副委員長を辞職した。
中道 益平 (なかみち ますへい、1907年5月29日 - … 中道 益平 (なかみち ますへい、1907年5月29日 - 1978年5月18日)は、日本の障害者福祉活動家。光道園創設者。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
福永 操(ふくなが みさお、1907年5月8日‐1991年1… 福永 操(ふくなが みさお、1907年5月8日‐1991年1月11日)は、日本の社会運動家、著述家。兵庫県出身。東京女子大学中退。旧姓は波多野、是枝。 1907年、大浦事件の裁判長を務めた波多野高吉と高等女学校教師はまの間に生まれた。1924年、北海道庁立札幌高等女学校(現北海道札幌北高等学校)を卒業し、東京女子大学英語専攻部に入学。在学中に社会科学研究会を結成し、女子学生運動を指導した。 1927年日本共産党に入党後、『無産者新聞』編集長だった是枝恭二と結婚。翌年、三・一五事件で検挙された。1934年2月、治安維持法再犯として起訴され、服役した。 戦後は1955年に日本共産党復党後、地域活動に従事する傍ら、思想研究や運動史研究を行った。
安井 郁(やすい かおる、1907年4月25日 - 1980… 安井 郁(やすい かおる、1907年4月25日 - 1980年3月2日)は、日本の国際法学者、平和運動家。法政大学名誉教授、国際法学会幹事長、原水爆禁止日本協議会(原水協)初代議長。 大阪府門真市出身。大阪市立生魂小学校時代の同級生に作曲家の服部良一がいた。 国際法専攻。戦前期はモーゲンソーの影響を受ける。第二次世界大戦中には東京帝国大学法学部教授として、田畑茂二郎(京都帝大)とともに、「大東亜国際法」を提唱した。しかしこのことをもって1947年占領軍により戦争協力とみなされ、1948年に東大を公職追放となる。神奈川大学教授を経て法政大学教授に就任した。 1954年3月1日のビキニ水爆実験による第五福竜丸被爆事件を契機に、同年5月9日、東京都杉並区の婦人団体、福祉協議会、PTA、労組など39人は「原水爆禁止署名運動杉並協議会」を結成した。
守屋 典郎(もりや ふみお、1907年3月12日 - 199… 守屋 典郎(もりや ふみお、1907年3月12日 - 1996年7月17日)は、日本の弁護士、左翼活動家、経済学者。 東京出身。本籍・岡山県小田郡矢掛町。父は第11・12代岡山市長、衆議院議員の守屋松之助。妻としの兄は同志社大学名誉教授の和田洋一 (文学研究者)。1929年東京帝国大学法学部卒。在学中新人会に加入。1930年弁護士開業。1932年日本共産党に入る。野呂栄太郎、平野義太郎らの指導で経済学を研究、講座派の一員として野口八郎の筆名で活動。1933年検挙され投獄。1934年倉敷絹織に入り法律問題の仕事に従事。1938年人民戦線事件などで検挙、投獄される。1940年出獄して大日本紡績連合会に入り、綿スフ統制会から繊維統制会価格課長。
竪山 利忠(たてやま としただ、1907年1月15日-199… 竪山 利忠(たてやま としただ、1907年1月15日-1993年12月6日)は、日本の労働運動家・社会学者(労働社会学)。創価大学名誉教授・拓殖大学元教授。戦前は社会主義運動から日本共産党で活動し、転向後は寧ろ反共・右派の労働運動の理論家となった。電機労連委員長から民間連合会長になった竪山利文は弟。 鹿児島県谷山村(現・鹿児島市の一部)松崎に生まれる。1924年3月、鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業。1926年3月に第七高等学校造士館 (旧制)文科を卒業し、同4月に東京帝国大学経済学部経済学科入学。帝大入学と同時に新人会に入り、浜松日本楽器大争議に派遣される。新人会幹事長を経て日本共産青年同盟に加盟。
渡辺 惣蔵(惣藏、わたなべ そうぞう、1907年(明治40年… 渡辺 惣蔵(惣藏、わたなべ そうぞう、1907年(明治40年)1月15日 - 1985年(昭和60年)1月25日)は、日本の社会運動家、政治家。衆議院議員。 北海道札幌郡札幌村大字苗穂村(現:札幌市東区苗穂町)で生まれる。小学校卒業後、農業をしながら通信教育で学び、1929年、日本大学専門部政治科を卒業。 日大在学中から無産政党運動に加わる。1932年、武蔵野館争議など多くの映画争議を指導した。全国大衆党中央委員、労農大衆党中央委員、社会大衆党中央委員、同中央青年隊長、全国労働組合同盟中央委員・出版部長、全国映画劇場従業員組合書記長、豊島区会議員などを歴任。1938年、人民戦線事件で検挙され一年半にわたり拘留された。
鈴木 壽(すずき ひとし、1907年(明治40年)1月14日… 鈴木 壽(すずき ひとし、1907年(明治40年)1月14日 – 1970年(昭和45年)8月30日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(3期)。 秋田県南秋田郡北浦町(現男鹿市北浦)で生まれる。1926年(大正15年)秋田県師範学校を卒業し、さらに同校専攻科を1933年(昭和8年)に卒業した。1926年に小学校教員となり、1946年(昭和21年)高清水小学校長、1947年(昭和22年)高清水中学校長に就任。1946年、秋田県教職員組合が結成され初代委員長に就任し4期在任した。 1947年、秋田県議会議員に当選して連続3期在任した。1956年(昭和31年)7月の第4回参議院議員通常選挙に秋田県地方区から日本社会党公認で出馬して初当選。
西里 龍夫(にしさと たつお、1907年 - 1987年)は… 西里 龍夫(にしさと たつお、1907年 - 1987年)は、日本の社会主義運動家。戦後は日本共産党熊本県委員長を務めた。 熊本県出身。東亜同文書院大学に26期生として入学。在学中、「日支闘争同盟」を結成し、海軍陸戦隊に反戦ビラをまく事件を起こした。安斎庫治、中西功らとともに反戦運動を行う。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
頭山 秀三(とうやま ひでぞう 1907年 - 1952年)… 頭山 秀三(とうやま ひでぞう 1907年 - 1952年)は、日本の右翼活動家。 頭山満の三男。東京農業大学卒業。1931年に天行会を創設して会長となる。1932年に古賀清志、中村義雄から計画を打ち明けられ、五・一五事件に後援していた。児玉誉士夫らと共に暗殺計画を企てていたことから検挙され、禁固3年となる。1940年には大森曹玄らと日本主義青年会議を結成。大政翼賛会参与にもなる。1952年より街頭で演説会を行っていたが、1か月で交通事故で死去。三島由紀夫の小説のモデルにもなる。 1945年8月20日に放送のNHKの放送原稿を執筆する。そこでは日本にたった1つ不足していたことは、負けた国というのはどれほど苦しくて恥ずかしいかということを少しも知らなかったことであるとする。
山田 国広(やまだ くにひろ、1907年 - 1987年12… 山田 国広(やまだ くにひろ、1907年 - 1987年12月27日)は、左翼の政治運動家。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)生まれ。1924年長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒。永明小学校代用教員。 日本共産党に入り、1933年検挙(長野県教員赤化事件)。34年下獄。36年釈放。1937年上京、思想犯保護団体帝国更新会に入り、のちその事務員となる。 1942年頃から東京の目黒、蒲田などの町工場の徒弟教育の仕事に従事、戦時中はそれらの工場舎監、青年学校の事務をとる。44年諏訪に疎開し工場に勤務、敗戦を迎える。 46年から61年まで民主化運動に従事。党内闘争で共産党を除名され、文筆をもって訴える。
秋山 徳雄(あきやま とくお、1906年(明治39年)12月… 秋山 徳雄(あきやま とくお、1906年(明治39年)12月22日 - 1979年(昭和54年)3月1日)は、昭和期の労働運動家、政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 神奈川県三浦郡、のちの横須賀市で秋山清平の長男として生まれる。1924年(大正13年)横須賀市立実業補習学校を卒業した。 横須賀海軍工廠員として勤務。その後、横須賀市吏員、川崎市吏員を歴任。社会民衆党、社会大衆党に入党した。労働運動に加わり、全日本自治団体労働組合(自治労)特別執行委員、横須賀市労連顧問などを務めた。 1947年(昭和22年)神奈川県議会議員に選出された。日本社会党清掃特別委員会事務局長、同選挙制度対策特別委員会事務局長、地方公営企業対策特別委員会事務局長、地方公務員定年制反対特別委員会事務局長、同神奈川県連副会長、同横須賀支部長などを務めた。
竹中英太郎(たけなか えいたろう 1906年(明治39年)1… 竹中英太郎(たけなか えいたろう 1906年(明治39年)12月18日 - 1988年4月8日)は、日本の挿絵画家、労働運動家、実業家。 長男は評論家の竹中労。『琉球共和国』、『仮面を剥ぐ』、『左右を斬る』、『浪人街 天明餓鬼草紙』などの労の著作や、労が制作したレコードのジャケットなどの装画を数多く手掛けた。次女の金子紫は「竹中英太郎記念館」館長。 福岡県福岡市上名島(現・福岡市中央区大名)の没落士族の家庭に生まれる。心臓逆位症で心臓が右、十二指腸が左にある珍しい体の持ち主であったと竹中労は伝えているが、金子紫はこの説を否定している。1歳で父を亡くし、極貧の中で育つ。11歳で熊本に移住。熊本中学夜間部に学びつつ警察で給仕として働いている時、押収された社会主義関係の文書を読んで社会主義者となる。
叶沢 清介(かのうざわ せいすけ、1906年12月12日 -… 叶沢 清介(かのうざわ せいすけ、1906年12月12日 - 2000年6月26日)は、福島県出身の図書館員。第3代県立長野図書館長(1949年-1965年)。 1929年(昭和4年)に文部省図書館講習所を卒業し、同年に県立長野図書館の司書となる。乙部泉三郎のもとで開館の準備にあたり、県立長野図書館は同年9月に開館している。1934年(昭和9年)には栃木県教育会図書館の司書となり、1935年(昭和10年)の新館の開館準備にあたったが、新館の開館3か月前に日本赤十字社図書館の主任となっている。1938年(昭和13年)には日本大学高等師範部国語漢文科を卒業している。1942年(昭和17年)には内閣技術院科学資料課参技官となった。
肥田 次郎(ひだ じろう、1906年(明治39年)9月28日… 肥田 次郎(ひだ じろう、1906年(明治39年)9月28日 - 1974年(昭和49年)5月10日)は、大正から昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。岡山県高梁市出身。 1906年(明治39年)岡山県川上郡成羽町(現:高梁市)で貧しい小作農家に生れる。地元の吹屋小学校を卒業後、八百屋、呉服屋、食堂などで働き大阪市へ移住する。 1921年(大正10年)ころ初めてメーデーに参加。1922年(大正11年)南海鉄道(後の南海電気鉄道)に電気工夫として入社。電気労働組合に加入。独学でアナキズムを学んだ。1923年(大正12年)大阪英語学校初等科で学び、徴兵され陸軍伍長で除隊。南海鉄道技師となる。 戦後、南海電鉄労働組合執行委員長、日本私鉄労働組合関西地方連合会執行委員長、大阪地方交通運輸労働組合協議会議長、大阪府地方労働委員、同あっせん委員などを務めた。
藤田 卯一郎(ふじた ういちろう、1906年9月20日 - … 藤田 卯一郎(ふじた ういちろう、1906年9月20日 - 1968年7月8日)は、日本のヤクザ、右翼活動家。松葉会の設立者で初代会長。茨城県水戸市出身。旧制水戸中学校卒業。 若年期には不退の軍治、晩年は殿さま軍治、よかろう軍治と呼ばれた。 旧制水戸中学校を卒業すると、上京し、退役海軍中将・高橋邦之介の書生となった。高橋邦之介は大和民労会の後援者だった。 昭和7年(1932年)春、関根組組長・関根賢の子分となった。 昭和20年(1945年)の終戦直後、藤田は兄弟分・益戸克己の口利きで、佐藤栄助(後の松葉会二代目、四代目)を舎弟とした。さらに、佐藤栄助は関根賢から盃を貰って関根組の若衆となった。 昭和22年(1947年)7月8日、関根組は恐喝容疑で手入れを受けた。
岩崎 盈子(いわさき えいこ、1906年7月19日 - 19… 岩崎 盈子(いわさき えいこ、1906年7月19日 - 1935年5月14日)は、日本の社会活動家、フェミニスト、評論家である。 日本女子大学校卒業後、大阪府庁の社会課に委託職員として勤める。日本共産党の秘密党員であった川上貫一は上司であり、その影響で岩崎も日本共産党に秘密入党して社会運動に携わりつつ、女性や児童についての評論活動を行った。1933年、昭和8年大阪共産党大検挙事件で治安維持法の容疑で逮捕、1935年5月に結核に罹患して病死した。享年29歳。病死する直前に評論集「婦人と児童の問題」を刊行した。岩崎の評論集は1995年に久山社から再版されている。友人に松本員枝がいる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
竹村 奈良一(たけむら ならいち、1906年6月27日 - … 竹村 奈良一(たけむら ならいち、1906年6月27日 - 1978年11月17日)は、日本の政治家、農民運動家。衆議院議員(日本共産党公認、1期)、日農統一派総本部書記長などを歴任。 奈良県高市郡金橋村(現・橿原市)出身。青年時代より農民運動に関わり、1929年に全農奈良県連争議部長に就任。1931年には、同県生駒郡片桐村満願寺での小作争議に連座した廉で検挙、懲役2ヶ月・執行猶予3年の判決を受ける。その後、全農が方針転換したことに伴い日本農民連盟へ移籍。 戦後は日本農民組合奈良県支部書記長に就任するが、1949年に組合が分裂した際は容共の統一派に属し、常任中央委員を経て書記長となる。この間1949年の衆院選に奈良県全県区から出馬し初当選。
足立 一平(あだち いっぺい、1906年6月26日 - 19… 足立 一平(あだち いっぺい、1906年6月26日 - 1957年11月27日)は、日本の教育者、政治活動家。岩津農商学校(現・愛知県立岩津高等学校)の創立者として知られる。 愛知県額田郡広幡町(現・岡崎市)に生まれる。岡崎市立広幡尋常高等小学校、愛知県岡崎中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)、大阪外国語学校ドイツ語科を卒業。文部省在外研究員としてドイツに留学。ベルリン大学卒業後、ソビエト連邦、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、スウェーデン、中華民国などを視察した。また、フランスのニースで開かれた国際新教育会議に日本代表として出席した。 1933年(昭和8年)に帰国し、神戸高等商船学校教授に就任。
鄭 甲柱(チョン・ガプチュ、朝鮮語: 정갑주、1906年6月… 鄭 甲柱(チョン・ガプチュ、朝鮮語: 정갑주、1906年6月26日または6月27日 - 1963年9月8日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の校長、警察署長、政治家。第3代韓国国会議員。 号は南荷(ナマ、남하)。 慶尚南道泗川郡(現・泗川市)出身。三千浦公立普通学校(現・三千浦初等学校(朝鮮語版))、普成専門学校法科、中央大学法学部卒。日本統治時代は朝鮮学生研究会幹部、新幹会学生部長、光州学生事件普専学生代表、国際学生友交会朝鮮学生代表、東京朝鮮キリスト教青年会理事、東京留学生英語会会長を歴任した。光復後は韓国民主党中央執行委員、東莱韓国キリスト教青年会理事、国際韓国反共会韓国代表、学校法人普興義塾傘下の三千浦中学校・三千浦高等学校・三千浦女子中学校・三千浦女子高等学校の校長、大田警察署長、清州警察署長、警察専門学校教授、泗川教育会会長、三千浦水利組合創立委員長、財団法人普興義塾初代校長・理事長・終身名誉校長、自由党所属の国会議員を務めた。
小酒井 義男(こざかい よしお、1906年〈明治39年〉3月… 小酒井 義男(こざかい よしお、1906年〈明治39年〉3月21日 - 1993年〈平成5年〉6月21日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(3期)。 岐阜県郡上郡八幡町(現郡上市)出身。1918年(大正7年)八幡町尋常小学校を卒業した。 1927年(昭和2年)美濃電気軌道(現名古屋鉄道)に入社。1945年(昭和20年)名古屋鉄道労働組合の結成に参画し同執行委員長となる。1947年(昭和22年)日本私鉄労働組合総連合会(私鉄総連)中央執行副委員長に就任。日本労働組合総同盟(総同盟)愛知県連会長なども務めた。 1946年(昭和21年)日本社会党に入党し、同党岐阜県連会長などを歴任。1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で全国区に社会党公認で出馬して当選し、以後、第4回、第6回通常選挙で再選され、参議院議員に連続3期在任した。
田中 清玄(たなか せいげん、1906年〈明治39年〉3月5… 田中 清玄(たなか せいげん、1906年〈明治39年〉3月5日 - 1993年〈平成5年〉12月10日)は、日本の実業家、政治活動家、CIA協力者。フィクサーともいわれる。 戦前期の非合法時代の日本共産党(第二次共産党)中央委員長。転向後は政治活動家となり、戦後は実業家として三幸建設工業株式会社社長、光祥建設株式会社社長をつとめる。ロイズ保険の会員でもあり、日本人でロイズの会員になれたのは、田中と南方哲也(元長崎県立大学教授。南方熊楠の大甥)のみと言われている。モンペルラン・ソサイエティー会員。1993年12月10日、脳梗塞で死去した。 資金を得た田中は、党の武装化を進め、川崎武装メーデー、東京市電争議の際における幹部暗殺計画、車庫放火事件、中央メーデー暴動化、小銃弾薬類の略奪計画など数多くの暴動を既遂未遂した。
上廣 哲彦(うえひろ てつひこ、本名:上廣 三郎、1906年… 上廣 哲彦(うえひろ てつひこ、本名:上廣 三郎、1906年(明治39年)3月2日 - 1972年(昭和47年)10月6日)は、日本の社会運動家。実践倫理宏正会の創立者。栄典は従四位、勲三等旭日中綬章。 1906年3月、広島県山県郡豊平町(現:北広島町)に生まれる。 広島市で育ち、旧制中学卒業後、鉄工所や日本貯蓄銀行(現在のりそな銀行)などに勤務。1923年頃死線を彷徨う大病をし、その中から人生の目的と使命を悟る。 この後、人生の生き方についての哲学的な考察を深め、ひとのみち教団など様々な団体の遍歴をした。 1943年、三菱工作機械広島製作所(後の三菱重工業広島祇園工場)に入社し、社員教育を行う訓育課勤務していた時の1945年8月6日、アメリカ軍の広島市への原子爆弾投下により、爆心地から1.6キロの国鉄横川駅構内で被爆した。
岩田 英一(いわた えいいち、1906年〈明治39年〉2月1… 岩田 英一(いわた えいいち、1906年〈明治39年〉2月19日 - 1999年〈平成11年〉8月23日)は、労働運動家、政治家。 東京市牛込区矢来町(現東京都新宿区神楽坂)生まれ。市谷尋常小学校を経て、1917年4月早稲田実業学校に入学し、おもに理工系の科目を履修した。 卒業後、1924年7月に牛込区でラジオ商を開業し、のちソウル市の京城ラジオ商会や東京市大森区の日本真空管製作所に勤務した。 1926年12月、労働農民党に入党。1929年、日本共産青年同盟(共青)に加盟。同年5月の京浜合同労働組合結成の中心となり、前後して日本労働組合全国協議会(全協)のオルグとなった。同年11月、大山郁夫らの新労農党の結成に参加し、世田谷支部の実質的な責任者となった。
北原 泰作(きたはら たいさく、1906年(明治39年)1月… 北原 泰作(きたはら たいさく、1906年(明治39年)1月1日 - 1981年(昭和56年)1月3日)は、日本の部落解放運動家。戦前から部落解放運動を行っており、戦後の部落解放同盟結成時幹部であったが、戦後は全国水平社出身のメンバーらと共に部落解放同盟と対立した。 岐阜県稲葉郡黒野村大字黒野(現・岐阜市)の被差別部落の小作農の貧困家庭に生まれる。父は作蔵。母は琴。高等小学校卒業。 1925年、全水解放連盟に参加。1927年1月、大日本帝国陸軍二等卒として岐阜歩兵第68連隊に入営。同年11月19日、閲兵式にて軍隊内部の部落差別の存在と待遇の改善を昭和天皇に直訴し、逮捕される(天皇直訴事件)。請願令違反で11か月間、大阪衛戍刑務所で服役した後に陸軍教化隊へ編入。
小渕 千代(おぶち ちよ、1906年 - 1996年2月2日… 小渕 千代(おぶち ちよ、1906年 - 1996年2月2日)は、日本の実業家・政治運動家。吾妻三女傑の異名をとった。群馬県吾妻郡名久田村(現在の中之条町)出身。旧姓・関。「小渕ちよ」と称することもある。 佐藤裁縫専門学校(現在の高崎商科大学附属高等学校)卒業。鐘紡に入社、新町工場に勤務する。その後、小渕製糸所に入社する。1929年、小渕光平(のち衆議院議員)と結婚する。光山社役員として業務に従事する。1949年、夫の第24回衆議院議員総選挙出馬に伴い、運動員として奔走した。1952年の第25回衆議院議員総選挙で、公職選挙法違反により逮捕される。1958年の第28回衆議院議員総選挙でも公職選挙法違反で逮捕され、1か月間勾留された。
大倉 精一(おおくら せいいち、1905年(明治38年)12… 大倉 精一(おおくら せいいち、1905年(明治38年)12月15日 - 1974年(昭和49年)8月14日)は、日本の労働運動家、政治家。参議院議員。 三重県、現在の桑名市で生まれる。1931年、早稲田大学商学部を卒業した。名古屋運搬合資会社に入社後、1941年、会社統合により日本通運に移籍した。 戦後、全日通労働組合(全日通)中部地区書記長、同中央執行委員長、全交通副議長、中央労働基準委員、中央職業安定委員などを務めた。 1953年4月、第3回参議院議員通常選挙に全国区から社会党左派所属で出馬して当選したが、栃木県佐野市の投票所で候補者平林剛の所属政党名の誤記があったことにより、1954年9月24日、最高裁判所の上告審判決により佐野市での選挙が無効となり、大倉を含めた6名が失格した。
澁川 善助(しぶかわ ぜんすけ、1905年12月9日 - 1… 澁川 善助(しぶかわ ぜんすけ、1905年12月9日 - 1936年7月12日)は、日本の政治運動家。 福島県若松市七日町の海産物問屋に生まれた。会津中学校、仙台陸軍地方幼年学校を経て陸軍士官学校予科に進む。予科卒業時に「恩賜の銀時計」を贈られるほど成績優秀であったが、陸軍士官学校(39期)本科卒業目前に教官と衝突し退学となる。その後1928年(昭和3年)、明治大学専門部政治経済科に学び、国家主義運動にかかわる。明大卒業後の1932年(昭和7年)に、杉田省吾、西田税、福井幸、加藤春海等とともに維新同志会を結成した。1933年の救国埼玉青年挺身隊事件では取り調べを受けた。1935年には、渋川の拳銃が襲撃事件に使用された嫌疑で起訴されている。
伊井 弥四郎(いい やしろう、1905年(明治38年)11月… 伊井 弥四郎(いい やしろう、1905年(明治38年)11月14日 - 1971年(昭和46年)12月12日)は、日本の労働運動家。日本共産党中央委員、全官公庁共闘会議議長。 1905年(明治38年)11月14日、富山県富山市水橋町に生まれる。1926年(大正15年)に岩倉鉄道学校を卒業し、日本国有鉄道(国鉄・当時は鉄道省が管轄)に入る。その後、働きながら、1932年(昭和7年)に法政大学経済学部を卒業する。平塚駅、鶴見駅、東京駅の助役などを務める。第二次世界大戦後、国鉄労働組合の結成に参加、中央執行委員に就任する。 1946年(昭和21年)11月に全官公庁労組拡大共同闘争委員会(全官公庁共闘)が結成されると議長に就任し、産別会議議長・聴濤克巳とともに二・一ゼネストの最高責任者となる。
深沢 義守(ふかざわ よしもり、1905年10月1日 - 1… 深沢 義守(ふかざわ よしもり、1905年10月1日 - 1966年12月14日)は、日本の政治家、農民運動家。衆議院議員(日本共産党公認)を1期務めた。 山梨県南巨摩郡身延村(現・身延町)大野生まれ。日本大学在学中より山梨県内各地で農民運動に関わり、昭和初期以降、日本共産党の強い影響下にあった全国農民組合全国会議派県連書記長を務める事となる。 1930年には奥野田村(現・甲州市)の小作争議で主導的な役割を果たした他、翌年5月1日に行われた県初のメーデーでは中巨摩郡東部・東八代郡西部2地区の指導者として活躍。また、1930年3月1日発足の甲府消費組合では組合長も務めた。この間、治安維持法違反により検挙される事10数度を重ね、1933年に発生した山梨共産党事件に連座し投獄、2年間にわたる服役の後、郷里を離れた。
千葉 七郎(ちば しちろう、1905年(明治38年)9月27… 千葉 七郎(ちば しちろう、1905年(明治38年)9月27日 - 1987年(昭和62年)12月9日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。 岩手県東磐井郡千厩町(現一関市)出身。1920年(大正9年)千厩町立千厩尋常高等小学校高等科を卒業した。卒業後は地元で職業を転々とした後、上京し、大日本麦酒株式会社に就職。政治運動に関わるようになる。 その後、帰郷し、千厩町役場書記を務めた。1927年(昭和2年)労働農民党に入党し、農民運動に加わる。1932年(昭和7年)衆議院総選挙に関わったことを理由に町職員を免職される。免職後は東京日日新聞と河北新報の嘱託記者となる。1933年(昭和8年)千厩町会議員に選出され3期在任した。
金珖燮(キム・グァンソプ、朝鮮語: 김광섭、1905年9月2… 金珖燮(キム・グァンソプ、朝鮮語: 김광섭、1905年9月22日 - 1977年5月23日)は、日本統治時代の朝鮮と大韓民国の詩人、翻訳家、評論家、独立運動家。本貫は全州金氏。号は怡山(イサン、이산)。 死後、氏の精神と文学を称えるために1989年、怡山文学賞が作られ文学と知性社主管で施行されている。 咸鏡北道鏡城生まれ。鏡城公立普通学校を経て、1920年鏡城中央高等普通学校から転入し1924年に中東学校を卒業。同年、早稲田大学英語英文学科に入学し、1928年修了。1927年に同窓会誌に詩『蚊帳』を発表し、創作活動と文壇での活動を始めた。その後、中東学校の英語の教師を務め、1933年に劇芸術研究会に参加し、徐恒錫、咸大勲、毛允淑、盧天命らと知り合った。
菊川 君子(きくかわ きみこ、1905年(明治38年)9月1… 菊川 君子(きくかわ きみこ、1905年(明治38年)9月18日 - 1990年(平成2年)10月17日)は、日本の婦人運動家、政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・巽。 北海道亀田郡戸井村汐首(現函館市)で生まれる。1924年、函館大谷女学校を卒業した。 その後上京して、看護婦見習いなど多くの職業に従事し、社会運動に関わるようになった。全国婦人同盟、無産婦人同盟の結成に加わり、無産婦人同盟常任委員、同財務部長を務めた。1931年、中野区に中野組合病院の設立に尽力し、会計を担当した。 戦後、日本社会党の結党に加わる。1947年の衆院選に夫の菊川忠雄が旧東京4区から社会党公認で立候補し初当選した。君子は党の婦人部員として運動を推進し、婦人問題研究会常任理事、東京家庭裁判所調停委員を務めた。
片岡 文重(かたおか ふみえ、1905年(明治38年)9月1… 片岡 文重(かたおか ふみえ、1905年(明治38年)9月15日 - 2004年(平成16年)9月6日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 千葉県山武郡土気本郷町(土気町本郷を経て現千葉市緑区土気町)出身。1929年(昭和4年)日本大学専門部法律科を卒業した。 1924年(大正13年)鉄道省に入省し大井工場(現東京総合車両センター)に配属された。戦後、労働運動に加わり、国鉄新小岩工場(現川崎車両所)労組委員長、国鉄労働組合東京地方評議会議長、同本部書記長、全交通役員、全官公労役員などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で千葉県地方区に日本社会党公認で出馬して次点で落選。
伊藤 千代子(いとう ちよこ、1905年〈明治38年〉7月2… 伊藤 千代子(いとう ちよこ、1905年〈明治38年〉7月21日 - 1929年〈昭和4年〉9月24日)は、昭和初期の運動家。 長野県諏訪郡湖南村南真志野(現・諏訪市)の農家に生まれる。2歳で母と死別、9歳で亡母の実家・岩波家に移り養育される。諏訪高等女学校(現・長野県諏訪二葉高等学校)に進学、同校教諭(のち校長)で歌人の土屋文明から英語・国語・修身の授業を受ける。同校卒業後は諏訪郡の高島尋常高等小学校の代用教員となるが、1924年(大正13年)私立尚絅女学校(宮城県仙台市、現・尚絅学院中学校・高等学校)高等科英文予科を経て、翌年には東京女子大学英語専攻部2年に編入。同大学社会科学研究会で活躍。
須山 計一(すやま けいいち、男性、1905年7月17日 -… 須山 計一(すやま けいいち、男性、1905年7月17日 - 1975年4月17日)は、漫画家、洋画家、美術評論家、漫画評論家、社会運動家。昭和初期のプロレタリア美術運動に参加。生前、日本における漫画評論の第一人者として知られた。生前は一水会、草炎会および日本美術会会員。別名義は宇野圭。 明治38年(1905年)、長野県下伊那郡鼎村(鼎町を経て、現・飯田市)に生まれる。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、昭和5年(1930年)、東京美術学校西洋画科卒業。『文章倶楽部』(新潮社)、『戦旗』(戦旗社)などに漫画を執筆。『無産者新聞』に漫画「アジ太プロ吉」を連載。 昭和6年、日本プロレタリア美術家同盟の中央委員および書記長に就任。
苅田アサノ(かんだ あさの、本名:堀江アサノ(ほりえアサノ)… 苅田アサノ(かんだ あさの、本名:堀江アサノ(ほりえアサノ)、1905年6月21日 - 1973年8月5日)は、日本の政治家、婦人運動家、著述家。元衆議院議員(日本共産党公認、1期)。夫は元日ソ協会副会長の堀江邑一。 岡山県津山町(現・津山市)生まれ。生家は代々地主の家系で、学生時代からロシア文学及び社会主義思想に傾倒し、日本女子大学国文科を卒業後の1931年、日本共産党に入る。入党以降財政面で支援を行うものの、1933年に治安維持法の疑いで検挙。転向の後1935年に出獄すると東洋経済新報社などを経て、1938年には郷里の岡山県に戻り西日本製紙に勤務する。 戦後は日本共産党に再入党し、1949年の衆院選に旧岡山1区から出馬し初当選を果たす。
山辺 健太郎(やまべ けんたろう、1905年5月20日 - … 山辺 健太郎(やまべ けんたろう、1905年5月20日 - 1977年4月16日)は、日本の歴史家、労働運動家。太平洋戦争後は日本共産党に所属した時期がある。「山健」の愛称で知られた。 ※脚注のないものは『社会主義運動半生記』[要ページ番号]より。 東京府本郷区(現・東京都文京区)に生まれる。1907年、別府に移る。別府市立北尋常小学校(のちに別府市立北小学校となり、2009年に別府市立別府中央小学校に統合)を卒業する。 1918年春、京城府(現・ソウル特別市)に移る。1919年1月に帰国し、4月から丸善大阪支店の見習店員となる。 1920年暮、大阪の白鹿足袋工場に入る。1921年5月、大阪の第1回メーデーに参加。
青木 恵一郎(あおき けいいちろう、1905年5月17日 -… 青木 恵一郎(あおき けいいちろう、1905年5月17日 - 1988年2月10日)は、日本の農民運動家、著作家。 長野県更級郡稲里村中氷鉋(現・長野市)生まれ。1925年旧制千葉高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)卒。日本農民組合東京出張所書記となり、木崎村小作争議などに参加。秋田県でも活躍し、1933年日農東京出張所長となる。その後、全農全国会議派の合法化運動をし、1939年中国に渡って中支那合作社幹事となる。戦後は日農の再建に加わり、1948年日本共産党に入党し、1949年離党。この間、長野県第1区 (中選挙区)から衆議院選に出馬(1947年日本社会党、1949年共産党)し、落選。1957年日農連合会を結成して、第一線から退き、林業経営研究所員、東京教育大学講師などを務め、農民運動史の研究に従事した。
黒田 秀俊(くろだ ひでとし、1905年4月15日-1989… 黒田 秀俊(くろだ ひでとし、1905年4月15日-1989年6月14日)は、日本のジャーナリスト、社会運動家。 静岡県下田市出身。明治大学政治経済学科中退、明治大学新聞高等研究科修了。 1938年中央公論社入社、42年南方派遣、のち「中央公論」編集長となり、44年横浜事件及び改造社、中央公論社解散に遭遇。 戦後は原水協事務局長、基地問題文化人懇談会事務局長、日本平和委員会常任理事などを務め、晩年は東京都中野区の教育委員準公選運動などに関わった。
八百板 正(やおいた ただし、1905年4月12日 - 20… 八百板 正(やおいた ただし、1905年4月12日 - 2004年4月23日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(11期)、参議院議員(2期)。日本社会党副委員長を歴任。 福島県伊達郡飯野村(飯野町を経て現福島市)に生まれる。福島中学校(現福島県立福島高等学校)を経て、早稲田大学専門部法科卒業。旧制中学の恩師だった阪本勝(後の衆議院議員、兵庫県知事)を頼り、安部磯雄らの日本フェビアン協会に参加。河上丈太郎、賀川豊彦、櫛田民蔵の知遇を得る。日本労農党、社会大衆党などに参加して無産政党運動をする。1929年に郷里に帰って東北新人会を結成、伊達郡を中心に小作争議を指導し度々投獄される。1933年に全国農民組合(全農)中央委員に選出。
佐野 博(さの ひろし、1905年3月24日 - 1989年… 佐野 博(さの ひろし、1905年3月24日 - 1989年4月4日)は、日本の社会主義運動家、評論家。田中清玄とともに、いわゆる「武装共産党」時代の日本共産党(第二次共産党)の指導部を組織した。佐野学の甥で、共産党系演劇人で革命歌「インターナショナル」訳詞者の佐野碩、社会学者鶴見和子・哲学者鶴見俊輔姉弟は従妹弟にあたる。 1905年、大分県速見郡杵築町(現・杵築市)に生まれる。旧制第七高等学校在学中に、学生サークル「鶴鳴会(かくめいかい)」に参加。1923年(大正12年)9月、鹿児島港にソ連の船が入港した折に佐野を含む鶴鳴会のメンバー数人は手漕ぎのボートで接近、「インターナショナル」を歌って乗船を許され、身振り手振り(メンバーにはロシア語に通じたものがいなかった)で船長と意思疎通を図り、パンフレットなどを渡されて戻るという事件を起こす。
三上 卓(みかみ たく/たかし、1905年〈明治38年〉3月… 三上 卓(みかみ たく/たかし、1905年〈明治38年〉3月22日 - 1971年〈昭和46年〉10月25日)は、日本の海軍軍人、政治活動家、国家主義者。最終階級は海軍中尉。号は大夢。 佐賀県出身。第二次世界大戦以前の五・一五事件、および戦後の三無事件の双方に参加した人物として知られる。『青年日本の歌』(昭和維新の歌)の作詞者。著名な弟子に野村秋介がいる。 佐賀県佐賀郡本庄村(現・佐賀市本庄町)出身。父は北鮮日日新聞社長の三上新。佐賀中学校在学中は野球部に所属しており、チームメートには伊丹安広(のち早大監督、野球殿堂入り)や山口猛彦(画家)、小林竜二郎(東京製綱社長)などがいた。1926年(大正15年)3月に海軍兵学校を卒業(54期)。
光村 甚助(みつむら じんすけ、1905年(明治38年)2月… 光村 甚助(みつむら じんすけ、1905年(明治38年)2月20日 - 1992年(平成4年)3月23日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 鹿児島県肝属郡牛根村、後の垂水市牛根境に生まれる。貧農の塩屋家の8人兄弟の五男。小学校卒業後、母校の小間使いとして働く。1919年(大正8年)鉄道員の求人に応募し、福岡県の折尾駅に勤務。1年半後に鉄道員を辞め、大阪の紡績会社で給仕として働きながら夜学に通う。その後、上京して新聞配達をしながら神田の予備校に通ったが、関東大震災被災のため大阪へ戻って、ガラス会社の職工となり、1925年(大正14年)関西大学専門部別科入学。さらに京阪商業学校(後の大阪府立守口高等学校、現大阪府立芦間高等学校)を経て、1931年(昭和6年)関西大学専門部法科を卒業した。
黄 斗淵(ファン・ドゥヨン、朝鮮語: 황두연/黃斗淵、190… 黄 斗淵(ファン・ドゥヨン、朝鮮語: 황두연/黃斗淵、1905年2月15日 - 1984年5月24日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、教育者、牧師、政治家。順天邑副邑長、制憲韓国国会議員を歴任した。 本貫は昌原黄氏。同じく1948年の初代総選挙に出馬した牧師・過渡立法議員の黄保翼は兄で、元国会議員・全羅南道知事の黄聖秀は甥である。キリスト教徒。日本名は黄原斗淵。 順天郡出身。全羅南道麗水郡南面金鰲島(朝鮮語版)出身の昌原黄氏の5兄弟の1人である。全州新興中学校を経て、日本大学専門部法科3年中退または卒業、日本聖経学校卒。中央神学校での研究を経て、高興永泉学校教員・校長、順天美信会病院・安力山病院庶務課長を務めた。
朴 済煥(パク・チェファン、朝鮮語: 박제환/朴濟煥、190… 朴 済煥(パク・チェファン、朝鮮語: 박제환/朴濟煥、1905年2月10日または2月11日 - 1995年3月23日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の公務員、政治家。第2・5代韓国国会議員、第17代農林部長官を歴任した。 本貫は竹山朴氏(朝鮮語版)。号は芝峰/芝峯。カトリック教徒。実業家の朴範植は息子、第12・14代国会議員の朴珪植(朝鮮語版)は甥。 京畿道富川市駅谷洞出身。1917年に水下公立普通学校に2学年編入したが、1919年の三・一運動の時にデモを主導したという理由で退学させられ、同年徽文高等普通学校に編入。1923年、徽文高4年修了し、同志社大学予科に入学した。日本留学中に新幹会京都支部長を務め、1929年同志社大学法学部経済学科を卒業した。
中地 熊造(なかち くまぞう、1905年2月10日 - 19… 中地 熊造(なかち くまぞう、1905年2月10日 - 1982年11月7日)は、昭和時代の労働運動家。全日本労働総同盟(同盟)初代会長。全日本海員組合組合長。 島根県海士郡海士村(現隠岐郡海士町)生まれ。1918年布施小学校高等科中退。1920年大阪に出て町工場で働いた後、1921年万世丸水夫見習を皮切りに海員生活に入る。1928年社会民衆党に入党。1933年日本海員組合に加盟。1934年日本海員組合革正同盟に加わり、1935年新日本海員組合結成に参加、大阪支部長。1945年8月海員組合創立準備会の設立を経て、同年10月全日本海員組合結成に参加。1946年8月から9月の人員整理反対闘争で主流派(右派)と中央闘争委員会派(左派)が対立し、右派の一員として実力で左派を排除。
神山 茂夫(かみやま しげお、1905年(明治38年)2月1… 神山 茂夫(かみやま しげお、1905年(明治38年)2月1日 - 1974年(昭和49年)7月8日)は、日本の左翼の革命運動家、共産主義者。衆議院議員(1期)。 山口県下関市伊崎町に生まれ、小学生のころ一家で台湾に転居し、1917年、台北城南小学校卒業。その後、父が夜警をしていた台湾銀行の給仕として働きながら夜間中学(私立(尾崎秀真経営)台北中学会)を終え、1919年、銀行員見習いとなる。 1921年、東京の成城中学3年生編入。「筋張っているのが気に食わぬ」と上級生杉浦に簿記棒で打擲されるも睨み返す。『赤旗』など社会主義文献を読み始め、学校自治会運動を通じ、革命運動に全生涯をかける決意をする。