嵯峨 公元(さが きんもと、1922年〈大正11年〉1月12… 嵯峨 公元(さが きんもと、1922年〈大正11年〉1月12日 - 1998年〈平成10年〉10月26日)は、日本の旧華族。嵯峨実勝の長男。母は浜口吉右衛門の娘・尚子。嵯峨家31代当主。長姉が愛新覚羅溥傑夫人の浩。妻は春陽堂書店社長・和田利彦の次女。 東京帝国大学を卒業して陸軍に入り、終戦時は陸軍少尉。1941年、杉並の邸宅を鈴木三郎助(味の素創業社長)に売却し、横浜市港北区日吉に移住する。 1961年に、長姉の浩が北京の夫・溥傑の元に帰ってから亡くなるまで支えた。父の跡を継いで第2代町田学園園長、町田学園第4代理事長を務める傍ら、姉を支えるために1964年に冷凍船株式会社を設立し、三国間貿易を始めた。
勘解由小路 資淳(かでのこうじ すけあつ、1922年〈大正1… 勘解由小路 資淳(かでのこうじ すけあつ、1922年〈大正11年〉1月4日 - 2019年〈平成31年〉2月2日)は、室町時代に栄えた日野家分家である烏丸家の分家に当たる勘解由小路家11代目の当主、子爵。山口県に在住し、日本一長い五文字の名字を持つ人物の一人であることでも知られていた。山形県山形市生まれ。 出生時の名は松村淳二。大分県知事や貴族院勅選議員を務めた松村義一の次男であり、戸籍上の父である勘解由小路資承は母方の祖父にあたる。4歳で資承の養嗣子となり、資淳に改名し、勘解由小路家11代目当主となった。 母の松村好子(まつむら いつこ)は子爵勘解由小路資承の長女であり、副島種臣の外孫でもあった。
朝香 千賀子(あさか ちかこ、1921年〈大正10年〉5月3… 朝香 千賀子(あさか ちかこ、1921年〈大正10年〉5月3日 - 1952年〈昭和27年〉12月6日)は、日本の旧皇族。元華族。朝香宮鳩彦王の第1王子・孚彦王の妃。旧名は、藤堂 千賀子(とうどう ちかこ)。父は、伯爵藤堂高紹。母は、真田幸民伯爵令嬢・信子。皇籍離脱前の身位は王妃で、皇室典範における敬称は殿下。皇族時代の名は、孚彦王妃 千賀子(たかひこおうひ ちかこ)であった。 1938年(昭和13年)12月16日、朝香宮鳩彦王の長男・孚彦王と結婚。その後、冨久子女王、誠彦王、美仍子女王の1男2女をもうける。1947年(昭和22年)10月14日、皇室典範第11条1項により夫・孚彦王や家族と共に皇籍を離脱し、以後は「朝香 千賀子(あさか ちかこ)」と名乗る。
粟田 彰常(あわた あきつね、1920年〈大正9年〉5月13… 粟田 彰常(あわた あきつね、1920年〈大正9年〉5月13日 - 2006年〈平成18年〉8月30日)は、日本の皇族、華族、陸軍軍人。陸軍大将東久邇宮稔彦王の第3王子。母は、明治天皇第9皇女・聡子内親王。兄に盛厚王、師正王、弟に俊彦王がいる。階級は陸軍大尉、勲等は勲一等旭日桐花大綬章、爵位は侯爵。皇族時代は、彰常王(あきつねおう)と称された。 1920年(大正9年)5月13日、 東久邇宮稔彦王と同妃聡子内親王の第3男男子として生まれる。1940年(昭和15年)5月13日に皇族議員として貴族院議員となり、同年9月陸軍士官学校(54期)を卒業する。翌月の10月25日願による臣籍降下が認められ、昭和天皇から粟田の氏を賜り、侯爵の爵位を授けられ華族に列せられ貴族院議員の資格が消滅。
宇治 家彦(うじ いえひこ、1920年〈大正9年〉3月17日… 宇治 家彦(うじ いえひこ、1920年〈大正9年〉3月17日 - 2008年〈平成20年〉10月24日)は、日本の華族、皇族、海軍軍人(皇族軍人)。階級は海軍技術大尉。多嘉王第2王子。皇族時代の名と身位は家彦王。1942年(昭和17年)に臣籍降下し、宇治伯爵家当主となる。 1920年(大正9年)3月17日午後5時35分、久邇宮家の多嘉王と同妃静子の第2男子として誕生。御七夜の3月23日に「家彦」と命名された。兄の宮賀彦王は早世しており、実質的な長男として育つ。1937年(昭和12年)に父と死別。父の多嘉王は久邇宮家本家とは独立していたものの、宮号は賜っていなかったため、家彦王は宮家の当主の地位を継承していない。
前田 正昭(まえだ まさあき、1920年(大正9年)1月22… 前田 正昭(まえだ まさあき、1920年(大正9年)1月22日 - 2008年(平成20年)9月8日)は、昭和期の華族(男爵)。別名直昭。 前田土佐守家第12代当主前田政雄の子として生まれる。1943年5月1日、祖父の死去に伴い男爵を襲爵した。 日本大学旧工学部機械科を卒業し日本曹達に入った。その後、前田土佐守家が所蔵する文化財を金沢市に寄付し前田土佐守家資料館設立に寄与した。また、2002年から2006年まで同館初代館長を務めた。
大給 湛子(おぎゅう きよこ、1919年(大正8年)8月2日… 大給 湛子(おぎゅう きよこ、1919年(大正8年)8月2日 - 2019年(令和元年)8月1日)は、日本の元皇族。朝香宮鳩彦王第2王女子。旧名は湛子女王。兄に孚彦王・正彦王、姉に紀久子女王がいる。大給義龍伯爵夫人。明治天皇の孫世代では最後の存命者であった。
花山院 親忠(かさんのいん ちかただ、1918年〈大正7年〉… 花山院 親忠(かさんのいん ちかただ、1918年〈大正7年〉8月3日 - 1994年〈平成6年〉2月28日)は、日本の華族、神職。花山院家36代目当主。佐賀県立三養基高等学校校長、春日大社宮司を歴任した。 1986年当時、奈良県神社庁常任理事、神社本庁評議員、奈良県教育委員会委員であった。 大正7年(1918年)8月3日、花山院親家の長男として、東京府に生まれる。 大正13年(1924年)3月11日に父の親家が薨去すると、7月15日、6歳で家督を継承し襲爵した。第二開成中学校を経て、昭和12年(1937年)、國學院大學国文学科に入学。武田祐吉や折口信夫に学び、『御湯殿上日記』を研究した。 昭和16年(1941年)、國學院大學国文学科を卒業。
二条 恭仁子(にじょう くにこ、1917年(大正6年)5月1… 二条 恭仁子(にじょう くにこ、1917年(大正6年)5月18日 - 2002年(平成14年)7月6日)は、日本の元皇族、元華族夫人。皇族時代の名と身位は恭仁子女王。 1917年(大正6年)5月18日午後4時、久邇宮家の多嘉王と同妃静子の第3女子として誕生。御七夜の5月24日に「恭仁子」と命名された。京都府立京都第一高等女学校卒業。1938年(昭和13年)12月9日、五摂家のひとつ二条弼基公爵への降嫁の勅許が下りた。1939年(昭和14年)3月23日、婚姻に先立ち勲二等宝冠章を受章する。同年4月2日、二条弼基に降嫁した。
北白川 祥子(きたしらかわ さちこ、1916年〈大正5年〉8… 北白川 祥子(きたしらかわ さちこ、1916年〈大正5年〉8月26日 - 2015年〈平成27年〉1月21日)は、日本の旧皇族、宮内庁女官長。北白川宮永久王の妃。旧名は、徳川 祥子(とくがわ さちこ)。皇族時代の身位は王妃で、皇室典範における敬称は殿下。 男爵徳川義恕と妻・寛子(津軽承昭伯爵令嬢)の二女として誕生した。姉は幼少期に夭折し、兄妹の唯一の女子として愛情を受けて育った。長兄の徳川義寛は昭和天皇の侍従長。次兄の津軽義孝は常陸宮妃華子の父に当たる。 東京女子高等師範学校を卒業後は、花嫁修業をする。1934年(昭和9年)6月19日、婚約が内定したことが、非公式に発表された。この際、祥子の人となりは「明朗な典型的近代女性」かつ「お茶の水時代にお伴もつれずにお獨りで毎日電車で通学されたほど平民的な方」と報じられた。
三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう、1915年〈大… 三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう、1915年〈大正4年〉12月2日 - 2016年〈平成28年〉10月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人、歴史学者(古代オリエント史)。三笠宮家初代当主。御称号は澄宮(すみのみや)、お印は若杉(わかすぎ)。身位は親王。敬称は殿下。勲等は大勲位。最終階級は陸軍少佐。第126代・今上天皇(徳仁)の大叔父。大正天皇と貞明皇后の第4皇子。昭和天皇は兄(長兄)、第125代天皇・現上皇の明仁は甥。現在の皇族には彼の孫が3人おり3人共女子である(息子3人は死去。娘2人と孫2人は皇籍離脱)。 1915年(大正4年)12月2日、大正天皇と貞明皇后の第四男子として誕生。3人の兄(昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王)は明治生まれ即ち父である大正天皇がまだ皇太子であった時にその男子として生まれ、早くから「皇孫御殿」に引き取られて養育された。
村井 長正(むらい ながまさ、1915年(大正4年)7月30… 村井 長正(むらい ながまさ、1915年(大正4年)7月30日 - 1997年(平成9年)5月29日)は、昭和期の侍従、華族(男爵)。加賀八家村井家第13代当主。 加賀藩重臣村井家第12代当主、村井長八郎男爵の子として金沢市に生まれる。1945年(昭和20年)12月15日、父の死去に伴い男爵を襲爵した。 東京帝国大学文学部を卒業。1940年(昭和15年)5月に東宮傅育官となり、東宮侍従。1947年(昭和22年)、故博恭王一年祭に際して皇后宮使の役を務めた。その後、侍従職侍従、皇子傅育官等を歴任した。1965年(昭和40年)、宮内庁を退官し日本大学で倫理学の教鞭をとった。 1997年(平成9年)5月29日未明、自宅において就寝中火災に遭い死去した。
勝 芳孝(かつ よしたか、1915年5月5日 - 没年不詳)… 勝 芳孝(かつ よしたか、1915年5月5日 - 没年不詳)は、日本の華族、実業家。新興製作所代表取締役社長、伯爵。徳川慶喜の孫および勝海舟の曾孫であり、勝家第3代当主。 1915年(大正4年)5月、父・勝精(徳川精、徳川慶喜の十男)と母・勝伊代(勝小鹿の長女)の長男として生まれる。 学習院を経て、立教大学経済学部を卒業。 1941年(昭和16年)に出征し、ラバウルの陸軍部隊にいて終戦を迎える。一時戦死したとの誤報も流れた中、赤坂・氷川の邸宅も空襲で焼かれた。わずかに土蔵が残ったものの、これも戦後のどさくさの中で、伯爵家の執事の三太夫に持ち出され、散逸したものが多いという。名刀や名剣の類は、進駐軍のアメリカ軍人らに持ち出された。
酒井 忠康(さかい ただやす、1915年〈大正4年〉4月24… 酒井 忠康(さかい ただやす、1915年〈大正4年〉4月24日 - 1967年〈昭和42年〉10月23日)は、日本の華族。正五位・子爵、旧松嶺藩主酒井家10代当主。
保科 光正(ほしな みつまさ、1914年(大正3年)10月7… 保科 光正(ほしな みつまさ、1914年(大正3年)10月7日 - 1945年(昭和20年)4月1日)は、昭和期戦前の外交官、華族。幼名・正虎。 子爵・保科正昭の長男として生まれる。幼名は正虎であったが、1934年(昭和9年)12月6日に光正に改名した。 東京高等学校を経て、1937年(昭和12年)東京帝国大学法学部を卒業。同年10月、高等試験外交科試験に合格し、外務省に入省して英国書記生に発令されて渡英した。 以後、外交官補、外交事務官を歴任。1942年(昭和17年)11月、大東亜省が設置され同事務官に転じた。支那事務局総務課在勤となり在支渉外事務を担当。大臣秘書官事務取扱、兼大臣秘書官も務めた。
佐竹 義栄(義榮、さたけ よしなが、1914年〈大正3年〉9… 佐竹 義栄(義榮、さたけ よしなが、1914年〈大正3年〉9月17日 - 1983年〈昭和58年〉12月6日)は、昭和期の華族。佐竹宗家35代当主。貴族院侯爵議員。位階は正五位。 華族・佐竹義春、兼子(九条道実長女)夫妻の長男として生まれる。1938年(昭和13年)、東北帝国大学法文学部(現・東北大学法学部、文学部、経済学部)を卒業。以後、保険院嘱託、企画院嘱託、技術院嘱託、技術院参技官を歴任。父の死去に伴い1944年(昭和19年)5月15日、侯爵を襲爵。同年9月17日、満30歳に達し貴族院侯爵議員に就任し、火曜会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 戦後は、子どもの家理事(埼玉県)、秋田県育英会理事長を務めた。
音羽 正彦(おとわ ただひこ、1914年〈大正3年〉1月5日… 音羽 正彦(おとわ ただひこ、1914年〈大正3年〉1月5日 - 1944年〈昭和19年〉2月6日)は、日本の皇族(朝香宮家)、華族、海軍軍人。クェゼリンの戦いにて戦死。最終階級は海軍少佐。栄典は正四位勲一等功四級侯爵。臣籍降下以前の皇族としての名と身位は正彦王(ただひこおう)、敬称は殿下。 1914年(大正3年)1月5日、朝香宮鳩彦王の第2王子として誕生。1934年(昭和9年)1月4日、貴族院皇族議員に就任。 学習院中等科卒業後、海軍兵学校入校。海軍兵学校生徒時代に宿営した広島県西条で、保存用の畳の上に寝てくれと地元民に頼まれた際には「ぼくは国民のデコレーションではないよ」と述べたという。 1936年(昭和11年)4月1日、海軍兵学校第62期卒業。
東園 佐和子(ひがしぞの さわこ、1913年〈大正2年〉10… 東園 佐和子(ひがしぞの さわこ、1913年〈大正2年〉10月21日 - 2001年〈平成13年〉7月1日)は、日本の元皇族。北白川宮成久王と同妃房子内親王の第2王女子。東園基文子爵の妻。旧名は、佐和子女王(さわこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。兄に北白川宮永久王、姉に立花美年子(美年子女王)、妹に徳川多恵子(多恵子女王)がいる。明治天皇の孫にあたる。 1913年(大正2年)10月21日、北白川宮成久王とその妃で明治天皇の第7皇女子である房子内親王との間に第2王女子として生まれた。1923年(大正12年)4月1日、父宮成久王がパリ郊外で事故死し、母宮房子内親王も重傷を負う。
河辺 三郎(かわべ さぶろう、旧字体: 河邊 三郞、1913… 河辺 三郎(かわべ さぶろう、旧字体: 河邊 三郞、1913年〈大正2年〉7月24日 - 没年不詳)は、日本の華族(男爵)、神職。 大正2年(1913年)7月24日、河辺博長の三男として、東京都に生まれる。 昭和5年(1930年)4月4日に父博長が帰幽すると、同年7月1日に17歳で家督を継承、男爵となった。昭和11年(1936年)國學院大學付属神道部を卒業すると、同年大洗磯前神社・酒列磯前神社主典に就任、昭和15年(1940年)には伊豆山神社主典に転じた。昭和18年(1943年)からは実業界にて活躍した。昭和23年(1948年)3月28日には長男慶三郎が誕生した。 昭和37年(1962年)、下鴨神社禰宜に就任した。
佐野 禮子(さの あやこ、1913年〈大正2年〉7月4日 -… 佐野 禮子(さの あやこ、1913年〈大正2年〉7月4日 - 2003年〈平成15年〉9月3日 )は日本の元皇族。旧名は、禮子女王。竹田宮恒久王と同妃昌子内親王の第1王女子。兄は、竹田宮恒徳王。佐野常光(佐野常羽の養子。一条実輝の次男)の妻。 1934年(昭和9年)3月、佐野常羽(佐野常民の子)伯爵の継嗣常光と結婚。その後は常行(1935年生)、明子(1936年生)、常武(1942年生) 常具(1946年生)の3男1女に恵まれた。青山霊園にある墓誌によると、洗礼名はマリヤ。
三条 実春(三條 實春、さんじょう さねはる、1913年〈大… 三条 実春(三條 實春、さんじょう さねはる、1913年〈大正2年〉3月2日 - 1990年〈平成2年〉6月30日)は、日本の神職、華族。貴族院公爵議員。 父三条公輝、母多栄子(毛利元敏女)の長男として生まれる。1938年、東京帝国大学文学部を卒業。 1938年、厚生省体力局企画課嘱託となる。以後、厚生省人口局管理課嘱託、同研究所人口民族部嘱託を務め、この間、応召を受け陸軍中尉となった。父の死去に伴い1945年12月15日、公爵を襲爵して貴族院公爵議員に就任し、1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。 戦後、春日大社宮司、平安神宮宮司を務めた。 実行 - 公教 - 実房 - 公房 - 実親 - 公親 - 実重 - 公茂 - 実忠 - 公忠 - 実冬 - 公冬 - 実量 - 公敦 - 実香 - 公頼 - 実教 - 実綱 - 公広 - 実秀 - 公富 - 実治 - 公兼 - 公充 - 実顕 - 季晴 - 実起 - 公修 - 実万 - 公睦 - 実美 - 公美 - 実憲 - 公輝 - 実春 - 公隆 - 実久
德川 慶光(とくがわ よしみつ、1913年(大正2年)2月6… 德川 慶光(とくがわ よしみつ、1913年(大正2年)2月6日 - 1993年(平成5年)2月6日)は、日本の官僚、政治家、陸軍軍人、華族(公爵)。江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の孫。通称は「けいこう」。新字体で徳川 慶光とも表記される。 1913年(大正2年)2月6日、公爵徳川慶久と有栖川宮威仁親王の第二王女・實枝子の長男として東京府東京市小石川区第六天町(現:東京都文京区小日向)の屋敷で生まれた。お印は雁。赤ん坊の頃、祖父・慶喜の膝に抱かれ、おもらしをしたことがある。 1922年(大正11年)に父が急死したため、10歳で襲爵。伯父の侯爵・池田仲博が後見人となった。学習院から東京帝国大学文学部支那哲学科に進んで中国哲学を専攻し、卒業後は宮内省図書寮に勤務した。
岩倉 靖子(いわくら やすこ、1913年(大正2年)1月17… 岩倉 靖子(いわくら やすこ、1913年(大正2年)1月17日 - 1933年(昭和8年)12月21日)は、日本の華族。岩倉公爵家出身。 共産主義に傾倒して検挙・起訴され(赤化華族事件)、保釈中に自殺した。 1913年(大正2年)1月17日、岩倉具張公爵の三女として誕生。元勲岩倉具視は曾祖父にあたる。 翌1914年に具張が金銭スキャンダルで隠居・愛人とともに失踪し兄具栄が襲爵、一家は世間の好奇の目を避けて一時、当時東京郊外であった猿楽町の西郷豊二家(西郷従道の六男、母櫻子の実家)に移り住む。この時期、大叔母にあたる森寛子の影響を受け、一家そろってキリスト教に入信する。靖子も教会に毎週通っていたが、洗礼は受けなかった。
伏見 博英(ふしみ ひろひで、1912年〈大正元年〉10月4… 伏見 博英(ふしみ ひろひで、1912年〈大正元年〉10月4日 - 1943年〈昭和18年〉8月21日)は、日本の皇族、華族、海軍軍人。第二次世界大戦時に太平洋戦線で戦死。最終階級は海軍少佐。爵位は伯爵。臣籍降下以前の名は博英王(ひろひでおう)。 1912年10月4日に誕生。伏見宮博恭王の第4王子。香淳皇后(昭和天皇后)の再従弟にあたる。 海軍兵学校(第62期)卒業。同期に同じく戦死した皇族軍人の音羽正彦少佐など。 最上級生のときは、ノーブルな雰囲気ながらも下級生が何かヘマをやろうものなら「待て! 貴様!」と鉄拳をふるう、やや御気性の荒っぽい宮様だったという。 1932年(昭和7年)10月3日、貴族院皇族議員に就任。
三浦 矢一(みうら やいち、1912年(大正元年)9月7日 … 三浦 矢一(みうら やいち、1912年(大正元年)9月7日 - 2005年(平成17年)3月29日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 華族・三浦松二郎の長男として生まれる。父の死去に伴い、1931年(昭和6年)10月7日、子爵を襲爵した。 1936年(昭和11年)中央大学法学部を卒業。同年、南満州鉄道に入社。大陸鉄道従事員援護会でも勤務した。 1946年(昭和21年)8月22日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
鳥尾 鶴代(とりお つるよ、1912年5月25日 - 199… 鳥尾 鶴代(とりお つるよ、1912年5月25日 - 1991年12月27日)は、日本の子爵・鳥尾敬光の妻。旧姓下條(げじょう)。のち鳥尾佳代、鳥尾多江と名乗った。美貌と社交術に長け、マダム鳥尾としてマスコミを賑わせた。下条正雄の孫。 日本画家で貴族院議員の祖父・下條桂谷(正雄)の末子・小四郎の娘として、祖父の持つ東京市麹町区(現在の東京都千代田区)の豪邸で生まれ贅沢に育つ。母方祖父は津田出。1919年、女子学習院初等科に入学。平民出身のため華族の生徒からいじめられた。祖父が亡くなったことで麹町の家は嗣子の伯父のものとなり、1923年3月、鶴代一家は神奈川県大磯の祖父の別荘に転居。派手な都会暮らしに慣れた父は帝国ホテルにも部屋を借り、鶴代も1年ほどホテルから通学、その後一家は、麹町の伯父宅2階を借りるなど転居を繰り返し、最終的に隠田(現・原宿)に落ち着く。
中村 徹雄(なかむら てつお、1911年(明治44年)12月… 中村 徹雄(なかむら てつお、1911年(明治44年)12月28日 - 1975年(昭和50年)7月5日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員。 鉄道院技師・中村謙一の長男として生まれる。父の死去に伴い、1943年(昭和18年)4月1日、男爵を襲爵した。 1937年(昭和12年)東京帝国大学経済学部を卒業。同年、浅野物産に入社した。 1946年(昭和21年)6月29日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。墓所は多磨霊園。
宣仁親王妃 喜久子(のぶひとしんのうひ きくこ、1911年〈… 宣仁親王妃 喜久子(のぶひとしんのうひ きくこ、1911年〈明治44年〉12月26日 - 2004年〈平成16年〉12月18日)は、日本の皇族。元華族。高松宮宣仁親王の妃。 旧名、徳川 喜久子(とくがわ きくこ)。徳川慶久公爵令嬢。母は有栖川宮威仁親王の第2王女・實枝子女王。身位は親王妃。お印は初めが亀(かめ)、結婚後は撫子(なでしこ)。 1912年(明治45年)4月12日、両親に連れられ舞子別邸(兵庫県)で静養中の祖父有栖川宮威仁親王の元を訪れると、威仁親王は当時唯一の孫である喜久子を「喜久女、喜久女」と呼び可愛がったため、慰子妃の勧めで、夫妻はそのまま喜久子を舞子別邸に預けて帰京した。 1913年(大正2年)6月22日、病状が重篤となった威仁親王の元に宮内大臣渡辺千秋伯爵が派遣され、大正天皇第3皇男子の宣仁親王(当時8歳)に「高松宮」の称号を与えて有栖川宮家の祭祀を継承させる内諭が伝達された。
井上 勝英(いのうえ かつひで、1911年〈明治44年〉12… 井上 勝英(いのうえ かつひで、1911年〈明治44年〉12月26日 - 1997年〈平成9年〉10月7日)は、昭和期の農林官僚、政治家、華族。貴族院子爵議員。 海軍士官・井上勝純の長男として生まれる。父の死去に伴い、1939年1月16日、子爵を襲爵した。 1937年(昭和12年)3月、東京帝国大学農学部農業経済学科を卒業。1939年(昭和14年)東京高等農林学校(現東京農工大学)助教授に就任。以後、農商事務官、農林事務官、総力戦研究所第二期研究生、南京日本大使館嘱託、農商大臣秘書官事務取扱、農村更生協会主事、日本農業研究所研究員補などを務めた。 1946年(昭和21年)6月28日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
冷泉 為臣(れいぜい ためおみ、1911年〈明治44年〉5月… 冷泉 為臣(れいぜい ためおみ、1911年〈明治44年〉5月7日 ‐ 1944年〈昭和19年〉8月31日)は、日本の華族、歌人。また、上冷泉家23代当主。父は冷泉為紀伯爵、母は水無瀬忠輔子爵の娘恭子。 祖父、父が宮中で御歌所参候を務めた影響からか、歌学を学ぶため國學院大學文学部に進学。卒業論文では藤原俊成をテーマとした。大学卒業後は陸軍に応召。1936年(昭和11年)4月21日、京都在住華族総代として昭和天皇に拝謁する。 太平洋戦争により中国湖南省邵陽県磨石舗にて戦死したため、妹の冷泉布美子の夫冷泉為任が婿養子として跡を継ぐ。
立花 美年子(たちばな みねこ、1911年〈明治44年〉5月… 立花 美年子(たちばな みねこ、1911年〈明治44年〉5月6日 - 1970年〈昭和45年〉4月10日)は、日本の元皇族。北白川宮成久王と同妃房子内親王の第1王女子。立花種勝の妻。旧名は、美年子女王(みねこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。兄に北白川宮永久王、妹に東園佐和子(佐和子女王)と徳川多恵子(多恵子女王)がいる。明治天皇の孫にあたる。 1911年(明治44年)5月6日、北白川宮成久王とその妃で明治天皇の第7皇女子である房子内親王との間に第1王女子として生まれた。 学生時代の学習院初等科から女子学習院(現在の学習院女子中・高等科)においては、高松宮妃喜久子と同級で仲が良かったという。
榊原 政春(さかきばら まさはる、1911年(明治44年)3… 榊原 政春(さかきばら まさはる、1911年(明治44年)3月15日 - 2002年(平成14年)12月11日)は、昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 後に子爵・榊原政敬の養子となる榊原政和の二男として生まれる。父の死去に伴い、1927年(昭和2年)3月1日、子爵を襲爵した。 1935年(昭和10年)東京帝国大学法学部を卒業。その後、同学部研究室で国際政治学を研究。1936年、台湾拓殖に入社。1938年(昭和13年)に召集され野砲兵第1連隊に入隊。1940年(昭和15年)陸軍少尉に任官し、1941年(昭和16年)南方軍司令部付となり、1942年(昭和17年)陸軍中尉に昇進。南方軍では、報道部、軍政部員として勤務し、日本陸軍占領地をくまなく視察した。
税所 篤満(さいしょ あつみつ、1911年2月28日 - 1… 税所 篤満(さいしょ あつみつ、1911年2月28日 - 1966年6月22日)は、日本の華族、実業家。子爵、トヨタ自動車(元・トヨタ自動車販売)役員、監査役、トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)総務部長、東京トヨペット株式会社常務取締役。薩南三傑の一人である税所篤の曾孫であり、税所家第4代当主。 1911年(明治44年)、税所篤秀(貴族院議員)の長男として生まれる。曾祖父は西郷隆盛、大久保利通と共に薩南三傑と呼ばれた薩摩藩士の税所篤。 1936年(昭和11年)、立教大学経済学部経済学科を卒業。大学卒業後、トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)に勤務し、総務部長を務める。 1958年(昭和33年)、トヨタ自動車販売(現・トヨタ自動車)役員に就任し、監査役を務めた。
東園 基文(ひがしその もとふみ、1911年〈明治44年〉1… 東園 基文(ひがしその もとふみ、1911年〈明治44年〉1月28日 - 2007年〈平成19年〉4月12日)は、日本の華族、宮内官僚。東園家14代当主。初名は伊達 宗文。 東園基光子爵の相続人となる。1934年(昭和9年)9月19日、家督を継承し、子爵を襲爵した。戦後は、宮内庁掌典長や神社本庁統理などを務めた。 伊達邦宗伯爵三男として宮城県仙台市に生まれる。学習院を経て北海道帝国大学農学部に進学した。同大学では馬術部に所属し、1931年に出場した第3回全日本学生馬術選手権大会で優勝したほか、第2代主将を務めた。 1934年大学を卒業し、東宮傅育官任官。同年大日本帝国陸軍騎兵少尉。1940年皇后宮事務官。
田中 龍夫(たなか たつお、1910年〈明治43年〉9月20… 田中 龍夫(たなか たつお、1910年〈明治43年〉9月20日 - 1998年〈平成10年〉3月30日)は、日本の政治家、華族(男爵)。正三位勲一等。首相を務めた田中義一の長男。 戦後間もなく貴族院議員、山口県知事を務め、のち自由民主党に所属し衆議院議員、通商産業大臣、文部大臣を歴任した。福田派の幹部として重きをなし、岸派以来の福田赳夫側近として行動を共にした。また長らく「日本海外移住家族会連合会」の会長を務め、世界各地の日系移民とその家族の支援に尽力した。 1910年(明治43年)9月20日 、陸軍軍人・田中義一の長男として山口県萩市に生まれる。暁星中学校から一浪を経て浦和高等学校(現・埼玉大学)に進学し、東京帝国大学法学部政治学科に入学。
二条 弼基(にじょう たねもと、1910年〈明治43年〉6月… 二条 弼基(にじょう たねもと、1910年〈明治43年〉6月19日 - 1985年〈昭和60年〉8月28日)は、日本の工学者、政治家、華族。貴族院公爵議員、工学博士。 東京府出身。男爵・二条正麿の三男として生まれ、二条家第28代当主・二条厚基の死後、相続争いが起こる中で、弼基の聡明さが認められて養子となる。 1930年(昭和5年)9月1日、公爵を襲爵。1934年(昭和9年)、東北帝国大学理学部地質科を卒業し、さらに1937年(昭和12年)に同大学工学部電気科を卒業。同年、逓信省電気試験所に入所し研究員となり、1939年(昭和14年)、逓信技師に任官。 1940年(昭和15年)6月19日、満30歳に達し貴族院公爵議員に就任し、火曜会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
大隈 信幸(おおくま のぶゆき、1910年5月20日 - 2… 大隈 信幸(おおくま のぶゆき、1910年5月20日 - 2004年2月28日)は、日本の政治家、外交官、華族(侯爵)。 貴族院議員、参議院議員(1期)、コロンビア駐箚特命全権大使、ガーナ駐箚特命全権大使などを歴任した。 東京帝国大学の経済学部に入学し、1935年に卒業した。1947年、父である大隈信常の死去にともない、爵位を襲爵し侯爵となった。 1947年2月に貴族院議員に就任したが、日本国憲法施行により貴族院が廃止されたため、3か月弱で貴族院議員としての地位を失った。また、同年4月に行われた第1回参議院議員通常選挙に全国区から立候補し、当選を果たした。参議院では民主クラブに所属した。任期満了まで2か月あまりを残し、1953年4月に議員を辞職した。
雍仁親王妃勢津子(やすひとしんのうひ せつこ、1909年〈明… 雍仁親王妃勢津子(やすひとしんのうひ せつこ、1909年〈明治42年〉9月9日 - 1995年〈平成7年〉8月25日)は、日本の皇族。秩父宮雍仁親王の妃。旧名は松平節子(まつだいら せつこ)。身位は親王妃。お印は菊(きく)。 旧会津藩主・松平容保の六男で外交官の松平恆雄の長女。母は鍋島直大(侯爵、佐賀藩11代藩主)の娘・信子。 父の任地イギリスのロンドンで生まれる。生後数か月で帰国し、その後北京、天津、ワシントンの領事館・大使館で少女期を過ごす。1925年(大正14年)に渡米し、米国ワシントンD.C.のフレンドスクール(現シドウェル・フレンズ・スクール)で学び卒業。いわゆる帰国子女で、英語に堪能なだけでなく、外国人を前にした英語のスピーチはお手のものだったという。
戸田 華子(とだ はなこ、1909年〈明治42年〉6月30日… 戸田 華子(とだ はなこ、1909年〈明治42年〉6月30日 - 2003年〈平成15年〉5月10日)は、日本の元皇族、元華族夫人。閑院宮載仁親王の第5女子。母は、三条実美公爵令嬢・智恵子。旧名は、華子女王(はなこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。皇籍離脱後の名は、「華頂 華子(かちょう はなこ)」から「竹村 華子」を経て、「戸田 華子」。旧皇族の離婚第1号。 1909年(明治42年)6月30日 、閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第5女子(第7子/末子)として、神奈川県小田原市の閑院宮御別邸で誕生した。 1926年(大正15年)12月13日に侯爵華頂博信と結婚し、「華頂 華子(かちょう はなこ)」となり、2男1女をもうける。
甘露寺 忠長(かんろじ ただなが、1909年〈明治42年〉4… 甘露寺 忠長(かんろじ ただなが、1909年〈明治42年〉4月29日 - 1937年〈昭和12年〉3月24日)は、明治時代から昭和時代にかけての華族。伯爵甘露寺受長の嗣子。位階は従五位。 1909年(明治42年)4月29日、甘露寺受長の長男として誕生する。母は北白川宮能久親王第一王女の満子女王。姉に績子、壽子がいる。 1929年(昭和4年)5月15日、20歳で従五位に叙爵された。 1930年(昭和5年)3月28日、旧制学習院高等科文科丙類を卒業した。同年4月3日、京都帝国大学経済学部に入学した。 1933年(昭和8年)3月30日、学士試験に合格したことにより京都帝国大学を卒業した。 1937年(昭和12年)3月24日、卒去した。
壬生 基泰(みぶ もとやす、1909年〈明治42年〉1月2日… 壬生 基泰(みぶ もとやす、1909年〈明治42年〉1月2日 - 1979年〈昭和54年〉5月14日)は、日本の政治家、華族。貴族院伯爵議員。位階は従四位。勲等は勲六等。 陸軍軍人・壬生基義の長男として生まれる。父の死去に伴い1936年(昭和11年)12月15日、伯爵を襲爵した。 1932年(昭和7年)東京帝国大学文学部を卒業。1935年(昭和10年)陸軍騎兵少尉に任官。騎兵第1連隊留守隊付、陸軍兵器本部付兼陸軍省整備局付、軍需省軍需官、商工省嘱託などを歴任。陸軍騎兵大尉に昇進して退官した。その後、大建産業嘱託、鉄鋼統制会勤務などを務めた。 1946年(昭和21年)6月27日、貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
前田 利民(まえだ としたみ、1908年(明治41年)12月… 前田 利民(まえだ としたみ、1908年(明治41年)12月8日 - 1983年(昭和58年)3月2日)は、昭和期の華族(子爵)。 七日市前田家第13代当主前田利定子爵の子として生まれる。1944年11月1日、父の死去に伴い子爵を襲爵した。 日本大学経済学部を卒業後、安田銀行、高崎板紙などに勤務した。1983年死去、家督は従甥の史貞が継いだ。
大炊御門 経輝(おおいのみかど つねてる、旧字体: 大炊御門… 大炊御門 経輝(おおいのみかど つねてる、旧字体: 大炊御門 經輝、1908年〈明治41年〉9月24日 - 没年不詳)は、日本の華族(侯爵)。貴族院侯爵議員、理学博士。 侯爵・大炊御門幾麿と保木江んの息子(庶子)として生まれる。父の死去に伴い、1919年11月21日に侯爵を襲爵。1933年、京都帝国大学理学部を卒業し、さらに同大学院を修了。のちに理学博士号を授与された。1938年9月23日、満30歳となり貴族院侯爵議員に就任し、火曜会に所属して1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。 1935年以降、東京科学博物館嘱託、海軍省軍需局嘱託、帝国石油社員などを務めた。 宗教は仏教。住所は東京豊島区池袋。
松浦 董子(まつら ただこ / しげこ、1908年(明治41… 松浦 董子(まつら ただこ / しげこ、1908年(明治41年)7月12日 - 1989年(平成元年)1月22日)は、日本の旧華族。父は旧平戸藩第12代藩主松浦詮伯爵の次男で分家の松浦靖(まつら はかる)子爵、陸軍中佐で大正天皇の侍従を務めた人物。母は久我通久侯爵の次女・節子(さだこ)。戦後凋落しながらも自尊心を守り続けたことで知られ、その生き方は死とともにマスコミで大きく取りあげられた。 1925年(大正14年)、女子学習院卒業。1928年(昭和3年)、久邇宮邦彦王の次男で帝国陸軍中尉だった久邇邦久侯爵と見合い結婚する。邦久には離婚歴があり董子は後妻だった。夫妻は渋谷宮益坂の1万坪の豪邸に住まい、使用人に囲まれた生活を送る。
前田 利建(まえだ としたつ、1908年(明治41年)3月1… 前田 利建(まえだ としたつ、1908年(明治41年)3月17日 - 1989年(平成元年)9月19日)は、日本の宮内官僚、華族(侯爵)。旧加賀藩前田家第17代当主。 第16代当主・前田利為の長男で、母は渼子(前田利嗣長女)。父の戦死に伴い1943年(昭和18年)1月15日、家督を継承し侯爵を襲爵。同日、貴族院侯爵議員に就任し、火曜会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 1934年(昭和9年)東京帝国大学文学部を卒業した。1936年(昭和11年)宮内省に入省し式部官兼主猟官に就任。以後、兼内大臣秘書官、帝室博物館嘱託、臨時内大臣府御用掛なども務めた。 1947年(昭和22年)10月29日、金沢市に昭和天皇の戦後巡幸が行われた際には、前田家の成巽閣が宿泊所となった。
宗 武志(そう たけゆき、1908年〈明治41年〉2月16日… 宗 武志(そう たけゆき、1908年〈明治41年〉2月16日 - 1985年〈昭和60年〉4月22日)は、日本の英語学者、詩人、華族。爵位は伯爵。旧姓は黒田(くろだ)。麗澤大学名誉教授。李王家徳恵翁主の夫。宗氏第37代当主。 貴族院議員、麗澤大学学監、学校法人廣池学園常務理事などを歴任した。 東京府東京市四谷区伝馬町新一丁目(現在の東京都新宿区四谷二丁目)にて、父・黒田和志(よりゆき、対馬府中藩藩主宗義和六男)、母・鏻子(れいこ、黒田直和の娘)の末子(四男)として生まれる。母の実家である黒田家は上総久留里藩の旧藩主の家柄。父和志は対馬藩の旧藩主宗重正の実弟で貴族院議員を務めていた。1934年にエチオピア帝国皇帝ハイレ・セラシエ1世の甥アラヤ・アベベ皇太子が日本人妻(貴族)を公募した際、妃候補として手を挙げた黒田雅子は武志の姪にあたる。
桂 広太郎(廣太郎、かつら こうたろう / ひろたろう、19… 桂 広太郎(廣太郎、かつら こうたろう / ひろたろう、1908年(明治41年)1月17日 - 2002年(平成14年)1月21日)は、日本の実業家、薬学者、華族。貴族院公爵議員、薬学博士。 東京市で桂与一(桂太郎長男)、てい(新田忠純二女)夫妻の長男として生まれる。祖父・桂太郎の死去に伴い1913年11月28日、公爵を襲爵。1938年1月16日、満30歳に達し貴族院公爵議員に就任。火曜会に所属して1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。 1931年、東京帝国大学医学部薬学科を卒業。同年、同薬学科副手となる。その後、国民体力審議会委員、内閣委員、厚生省委員、国土計画審議会委員などを務めた。 1948年、桂化学研究所を設立し社長に就任。
鍋島 直泰(なべしま なおやす、1907年〈明治40年〉10… 鍋島 直泰(なべしま なおやす、1907年〈明治40年〉10月3日 - 1981年〈昭和56年〉4月1日)は、日本の宮内官僚、政治家、華族(侯爵)。旧佐賀藩鍋島家第13代当主。貴族院議員。 12代当主・直映の嫡男で、母は黒田長知の次女・禎子。学習院を経て、1931年(昭和6年)東京帝国大学文学部を卒業。1933年(昭和8年)宮内省に入省し、式部官兼主猟官に就任。 父の死去に伴い、1943年(昭和18年)12月28日に家督を相続し侯爵を襲爵。同日、貴族院侯爵議員に就任し、火曜会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院の廃止まで在任した。 式部官を務めていたこともあり、1949年(昭和24年)、昭和天皇の戦後巡幸が佐賀市内で行われた際には、御泊所となった楊柳亭で拝謁する機会を得ている。
伊東 祐淳(いとう すけあつ、1907年(明治40年)9月3… 伊東 祐淳(いとう すけあつ、1907年(明治40年)9月30日 - 1990年(平成2年)5月6日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 東京府出身。子爵・伊東祐弘の長男として生まれる。父の死去に伴い、1932年(昭和7年)1月15日に子爵を襲爵した。1936年(昭和11年)京都帝国大学経済学部卒業。同年、日興木材(宮城県)相談役に就任。 1946年(昭和21年)8月22日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 古美術に精通し、数冊の書籍を出版した。また、渋谷区松濤の自宅を高級マンションとして開発して戦後も事業家として成功を収めた。
三宅 直胖(みやけ なおひろ、1907年(明治40年)9月7… 三宅 直胖(みやけ なおひろ、1907年(明治40年)9月7日 - 没年不詳)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・鍋島。 旧小城藩主の系統で子爵の主猟官・鍋島直庸の二男として生まれ、陸軍大佐(騎兵)で子爵の三宅忠強の養子となる。養父が実兄の鳥居忠一子爵夫妻と共に京王線に衝突した自動車事故で死去したことにより、1939年(昭和14年)2月15日、子爵を襲爵した。 1932年(昭和7年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業。1934年(昭和9年)富士写真フイルムに入社。その後、飛島組などで勤務した。 1946年(昭和21年)6月28日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した