山路 閑古(やまじ かんこ、1900年10月13日 - 19… 山路 閑古(やまじ かんこ、1900年10月13日 - 1977年4月10日)は、化学者、俳人、古川柳研究家。 静岡県鷹匠町(現・静岡市葵区)出身。本名は萩原時夫。1925年、東京帝国大学理学部化学科卒。川柳を阪井久良伎に、俳句を高浜虚子に、連句を根津芦丈に学び、古川柳を紹介した。1962年大磯鴫立庵十九世庵主。東京高等商船学校教授、共立女子大学教授(化学)、1971年定年。
佐伯 仁三郎(さえき じんざぶろう、明治33年(1900年)… 佐伯 仁三郎(さえき じんざぶろう、明治33年(1900年)9月27日 - 昭和49年(1974年)7月31日)は、日本の歌人、国文学者。文学博士。 祖父は儒学者正墻適処。兄は歌人佐伯新一郎。 鳥取県倉吉市仲ノ町に教育者佐伯元吉の三男として生まれた。 鳥取師範(現鳥取大学地域学部)、東京高等工業学校(現東京工業大学)を経て1937年早稲田大学文学部卒業。新聞記者や満州国官吏を歴任し、1960年「歴代和歌の詞に関する論文」で文学博士の学位を得る。 1926年歌誌『国民文学』に入社。「論の佐伯、作の新免(新免忠)」といわれ、『短歌雑誌』の歌壇批評で中央歌壇から注目された。 1935年歌誌『槻の木』に入社し窪田空穂に師事、戦後は歌誌『珊瑚礁』『樹木』同人、また『花冠』を主宰する傍ら多くの雑誌に短歌論を発表してその地位を不動のものとした。
今井 野菊(いまい のぎく、1900年〈明治33年〉 8月1… 今井 野菊(いまい のぎく、1900年〈明治33年〉 8月14日 - 1982年〈昭和57年〉10月6日)は、日本の郷土史家、歌人である。本名は今井 すみ江(いまい すみえ)。 長野県諏訪郡宮川村(現・茅野市宮川茅野)に生まれ、諏訪高等女学校(現・諏訪二葉高等学校)へ入学。女学校一年の時に『アララギ』へ入会し島木赤彦と森山汀川に師事。大正7年(1918年)に卒業し小学校の代用教員となり、その翌年(当時19歳)寒天問屋「地紙世(ちがみせ)」(現・地紙世商店)の今井平左衛門に嫁ぐ。池坊華道の教授でもあり、地元の人々が敬意を込めて「地紙世の先生」と呼んでいた。戦後、『旧宮川村誌(史)』の編纂に奮闘する傍ら諏訪大社及び諏訪地域の在地信仰(ミシャグジ、千鹿頭神、天白神 等)の研究を行い、踏査集成を広範囲に渡って行った。
石井 庄司(いしい しょうじ、1900年7月15日 - 20… 石井 庄司(いしい しょうじ、1900年7月15日 - 2000年10月5日)は、日本の国文学者、国語教育者、俳人。俳号は「桐陰」。 1900年、奈良県生駒郡で生まれた。1914年、奈良県立郡山中学校を卒業。1918年より郡山中学の英語教師であった原田浜人の指導で俳句を詠み始めた。1920年、東京高等師範学校に入学。東京高等師範学校入学と同時に大塚講話会に入り、児童文化の発展に貢献した。その活躍は「大塚講話会中興の祖」と評された。1924年に卒業して東京高等師範学校助教諭となったが、翌1925年、京都帝国大学文学部国文科に入学。1928年に卒業し、同大学大学院に進んだ。 1929年、東京女子高等師範学校教諭兼教授に就いた。
西東 三鬼(さいとう さんき、1900年(明治33年)5月1… 西東 三鬼(さいとう さんき、1900年(明治33年)5月15日 - 1962年(昭和37年)4月1日)は、岡山県出身の日本の俳人。本名・斎藤敬直(さいとう けいちょく)。歯科医として勤める傍ら30代で俳句をはじめ、伝統俳句から離れたモダンな感性を持つ俳句で新興俳句運動の中心人物の一人として活躍。戦後は「天狼」「雷光」などに参加し「断崖」を主宰。 岡山県苫田郡津山町大字南新座(現在の津山市南新座)、父・敬止、母・登勢の四男として生まれる。家は代々漢学者の家系。1906年、父死去、以後長兄の扶養を受ける。高等小学校時代は条虫にかかり虚弱であった。1918年には当時大流行したスペイン風邪で母が死去し、東京の長兄のもとへ移住。
中村 汀女(なかむら ていじょ、1900年(明治33年)4月… 中村 汀女(なかむら ていじょ、1900年(明治33年)4月11日 - 1988年(昭和63年)9月20日)は、日本の俳人。本名、破魔子(はまこ)。星野立子・橋本多佳子・三橋鷹女とともに4Tと呼ばれた、昭和を代表する女流俳人。 高浜虚子に師事。「ホトトギス婦人句会」で活躍。俳誌「風花」を創刊、主宰。女流俳人の第一人者として、ラジオ、テレビなどを通し、俳句を家庭婦人層へ普及させた。句集に『春雪』(1940年)、『紅白梅』(1968年)など。 熊本県出身。熊本県飽託郡画図村(現熊本市東区江津1丁目)に斉藤平四郎・テイの一人娘として生まれる。平四郎は地主で、村長も務めた。1912年(大正元年)、熊本県立高等女学校(現熊本県立第一高等学校)に入学。
松井 如流(まつい じょりゅう、1900年〈明治33年〉3月… 松井 如流(まつい じょりゅう、1900年〈明治33年〉3月31日 - 1988年〈昭和63年〉1月16日)は、歌人、書家。 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)出身。旧姓は猿田。本名は郁次郎。橋田東聲に師事し、歌誌『覇王樹』に入り、1954年から同誌主宰。吉田苞竹に書を学び、隷書「杜少陵詩」で64年日本藝術院賞受賞。日展理事、大東文化大学教授。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
永田 耕衣(ながた こうい、1900年(明治33年)2月21… 永田 耕衣(ながた こうい、1900年(明治33年)2月21日 - 1997年(平成9年)8月25日)は、俳人。本名軍二(ぐんじ)。別号、田荷軒主人。禅的思想に導かれた独自の俳句理念に基づき句作。また諸芸に通じ書画にも個性を発揮、90歳を超えた最晩年に至るまで旺盛な創作活動を行った。
内藤 吐天(ないとう とてん、1900年2月5日 - 197… 内藤 吐天(ないとう とてん、1900年2月5日 - 1976年5月12日)は、岐阜県出身の俳人、薬学者。本名は多喜夫。別名に龍膽寺旻、別号に萱雨亭(けんうてい)がある。 岐阜県大垣市生まれ。東京帝国大学薬学科卒。のち名古屋市立大学薬学部長、名城大学薬学部教授などを歴任。岡山六高時代より志田素琴、大須賀乙字に俳句を学び、「獺祭」「草上」「東炎」などに関わる。1946年に「早蕨」を創刊・主宰。「野薊にぴしりぴしりと夕立来ぬ」「あたたかな案山子を抱いて捨てにゆく」など、格調の高い句風で知られたが、晩年はより自由な作風になった。句集に『落葉松』『雨滴声』『早蕨』『鳴海抄』『点心』『臘八』など。また詩を日夏耿之介に師事し、海外の小説や詩集の翻訳もある。
住谷 三郎(すみや さぶろう、1900年〈明治33年〉1月1… 住谷 三郎(すみや さぶろう、1900年〈明治33年〉1月10日 - 1967年〈昭和42年〉1月21日)は歌人。 1900年(明治33年)1月10日、群馬県群馬郡大字東国分(現高崎市東国分町)生まれ。父友太は村長も務めた開明的な養蚕農業家、母なんの姪は土屋文明に嫁いだ。キリスト教牧師・漢詩人・英文学者の住谷天来を叔父に、元同志社総長・経済学者住谷悦治を兄にもつ。前橋中学校入学後、先輩萩原朔太郎や隣村棟高出身の山村暮鳥の活躍に刺激されて文芸に関心を持ち、同級生萩原恭次郎らを識って親交を結び、作歌への情熱を高め、角田蒼穂とともに文芸誌への投歌を始め、中学4年のとき「日本少年」「青年文壇」「秀才文壇」「文章世界」などに短歌を投稿、入選を重ね、同級の千輝春彦・高橋紅二との合作歌集『揺籃(ようらん)』(1917)を発行。
森本 治吉(もりもと じきち、1900年1月10日 - 19… 森本 治吉(もりもと じきち、1900年1月10日 - 1977年1月12日)は、日本の歌人・国文学者。学位は、文学博士。二松学舎大学名誉教授。歌人の槇弥生子は子の妻。歌人の森本平は孫。 1900年(明治33年)、熊本県熊本市新町に生まれる。1920年(大正9年)、第五高等学校在学中に短歌雑誌「白路」を創刊、この年「アララギ」に入会。「白路」の名は当時第五高等学校の教授であった高木市之助の命名という。1923年(大正12年)、東京帝国大学文科へ進学し、佐佐木信綱、久松潜一、高木市之助に学ぶ。1946年(昭和21年)「白路」を復刊し社主となる。1929年(昭和4年)二松学舎専門学校教授となり、のち二松学舎大学教授となる。
湊 楊一郎(みなと よういちろう、1900年(明治33年)1… 湊 楊一郎(みなと よういちろう、1900年(明治33年)1月1日 - 2002年(平成14年)1月2日)は、俳人。新興俳句運動の理論的支柱として知られる。本名は久々湊 与一郎(くくみなと よいちろう)。 北海道小樽市生まれ。中央大学法学部卒業。大学在学中は山岳部に所属していた。 1929年(昭和4年)、司法試験に合格。弁護士のかたわら、1931年(昭和6年)、松原地蔵尊らと俳誌「句と評論」を創刊。戦後は、「俳句評論」「羊歯」などを経て、「再会」を創刊。 1946年(昭和21年)、栗林一石路、石橋辰之助、東京三(秋元不死男)、富澤赤黄男らとともに、民主主義日本文化の確立発展をめざし、新俳句人連盟を設立。
筏井 嘉一(いかだい かいち、1899年(明治32年)12月… 筏井 嘉一(いかだい かいち、1899年(明治32年)12月28日 - 1971年(昭和46年)4月21日)は、富山県高岡市桐木町出身の歌人。父は俳人の筏井竹の門で、長男として生まれた。 高岡中学校を卒業。詩人、童謡作家、歌人である北原白秋の『桐の花』に感銘を受け、1914年(大正3年)に巡礼詩社および短歌雑誌『日光』に入会、白秋に師事する。1921年(大正10年)に上京し、音楽専科の小学校教師として働く。 白秋門下としては珍しく昭和初期のモダニズム短歌運動に同調し、1928年(昭和3年)、歌人の坪野哲久、前川佐美雄らと共に新興歌人連盟を結成。また、村野次郎主宰の歌誌『香蘭』の選者を担当した。1935年(昭和9年)、白秋が創刊した『多磨』に参加を乞われたが辞退。
三橋 鷹女(みつはし たかじょ、1899年12月24日 - … 三橋 鷹女(みつはし たかじょ、1899年12月24日 - 1972年4月7日)は、千葉県出身の俳人。本名・たか子。幼名・文子。旧号・東文恵。原石鼎、小野蕪子に師事。戦後、新興俳句系の「俳句評論」等に関わる。口語を駆使した奔放な作風を開拓し、昭和期に活躍した代表的な女性俳人として中村汀女・星野立子・橋本多佳子とともに四Tと呼ばれた。 成田町(現成田市)に、助役として町の発展に貢献した三橋重郎兵衛の末子として生まれる。江戸時代後期の歌人神山魚貫と姻戚関係にある三橋家は代々和歌を嗜んでおり、鷹女は色紙や短冊や扇面などが貼り並べられた屏風を眺めながら育った。 1916年、成田高等女学校(現・成田高等学校)を卒業後、上京して次兄・慶次郎の元に寄寓。
伊東 月草(いとう げっそう、1899年(明治32年)12月… 伊東 月草(いとう げっそう、1899年(明治32年)12月17日 - 1946年(昭和21年)12月4日)は、長野県出身の日本の俳人。本名は秀治(ひでじ)。 1899年(明治32年)長野県上伊那郡藤沢村 (現在の伊那市)に生まれる。16歳から俳句を始め、大須賀乙字に師事、乙字の死後は同じ乙字門下の吉田冬葉が立ち上げた「獺祭」に参加、1928年に独立し「草上」を主宰する。 満州事変、日中戦争を機に新体制運動に傾倒、大野林火との戦火想望俳句論争を皮切りに、俳句報国のための団体を結成すべしと全国の主要俳人、結社に「この昭和維新に際会して、新体制に協力しないやうな非国民はあるまい」と檄文を送り、『俳句研究』を中心に論陣を張った。
棚橋 影草(たなはし えいそう、1899年12月1日 - 1… 棚橋 影草(たなはし えいそう、1899年12月1日 - 1970年9月9日)は、日本の俳人、医学者。福岡県福岡市出身。本名は棚橋陽吉。 1918年福岡県立中学修猷館を経て、九州帝国大学医学部を卒業し、同大医学部教授に就任。貝の血液研究でも知られる。 昭和の初めから、吉岡禅寺洞に師事し、俳誌「天の川」幹部同人となり、新興俳句の隆盛期に評論などで活躍した。一時横山白虹の後を継ぎ「天の川」を編集している。1938年以後目を病み、句作から離れた。
大山 澄太(おおやま すみた、1899年(明治32年)10月… 大山 澄太(おおやま すみた、1899年(明治32年)10月21日 - 1994年(平成6年)9月26日)は、日本の宗教家、俳人。 岡山県井原市出身。大阪貿易語学校(現・開明中学校・高等学校)卒業後、逓信省に入省し、逓信講習所教官、逓信事務官、内閣情報局嘱託、満州国郵政局講師などを務める。戦後愛媛県で著述、社会教育をおこなう。「大耕」主宰。1963年、愛媛県教育文化賞を受賞。種田山頭火の顕彰にも努めた。
佐藤 一村(さとう いっそん、明治32年(1899年)10月… 佐藤 一村(さとう いっそん、明治32年(1899年)10月18日 - 1991年11月、本名: 佐藤 武市(さとう たけいち))は、日本の銀行員、大学教員、俳人である。ホトトギスの同人であった。 明治32年、青森市に生まれる。弘前中学校に通う。大正9年に小樽高等商業学校を卒業した後、太平洋戦争終結による解体まで台湾銀行に勤める。台南勤務、スラバヤへの駐在を経て、蘇州支店長、漢口支店長を歴任する。佐藤は武漢での勤務は「文字どうりの滅私奉公の四年であった」と振り返っている。戦後は日本に引き揚げ、GHQ大阪軍政部の技術顧問となった。後に大阪工業高等専門学校および大阪工業大学短期大学部で講師を務めた。
安部 三代治(あべ みよじ、1899年〈明治32年〉10月1… 安部 三代治(あべ みよじ、1899年〈明治32年〉10月1日 - 1973年〈昭和48年〉)は、日本の俳人、実業家。号は東水。 鳥取県西伯郡車尾村(現・米子市車尾)出身。安部亀次郎の三男。1914年、高等小学校を卒業し、坂口平兵衛本店に勤務する。1920年、坂口合名会社に入社し、理事・支配人となる。 島根水産、三光冷蔵、米子交通各社長、坂口木材、山陰石油、日ノ丸総本社、日ノ丸自動車、大同木材工業、山陰スバル各取締役、米子電車軌道、米子林産各監査役、鳥取県経営者協会副会長、鳥取県地方労働委員会委員、米子市危険物保安協会会長などをつとめた。 趣味は読書、旅行、俳句。宗教は曹洞宗。住所は米子市久米町。
奥田 雀草(おくだ じゃくそう、1899年7月29日 - 1… 奥田 雀草(おくだ じゃくそう、1899年7月29日 - 1988年12月13日)は、日本の俳人・俳画家。本名は奥田 哲良(おくだ てつろう)。 雀草の句碑は上の12基。この他、洲本市“文学の森” に蜷川虎三、夫人・奥田雅子の句にそれぞれ雀草が絵をつけた合同句碑2基がある。
右城 暮石(うしろ ぼせき、1899年7月16日 - 199… 右城 暮石(うしろ ぼせき、1899年7月16日 - 1995年8月9日)は、日本の俳人。高知県出身。 長岡郡本山町字古田小字暮石(くれいし)に生まれる。本名は齊(いつき)で、俳号の暮石は出身地の小字の名に因む。 木能津尋常小学校から本山高等小学校に入り、1913年、中退し土佐電鉄に入社。1918年、社会運動家の岡本利吉の世話で、大阪電灯に入社。1920年、大阪朝日新聞社の俳句大会で松瀬青々を知り、青々の主宰誌「倦鳥」(けんちょう)に入会。1935年頃には古屋秀雄、細見綾子とともに「倦鳥」の若手三羽烏と呼ばれた。1938年大阪から奈良県に移住、晩年郷里へ戻るまで、奈良に住み、奈良を愛した。1946年「風」「青垣」同人。
及川 貞(おいかわ てい、1899年(明治32年)5月30日… 及川 貞(おいかわ てい、1899年(明治32年)5月30日 - 1993年(昭和61年)11月13日)は日本の女流俳人。旧姓は野並(のなみ)。 東京市麹町区(現千代田区)生まれで、幼い頃は麻布にて育つ。 1916年(大正5年)に東京府立第三高等女学校(現在の都立駒場高等学校)を卒業後、海軍将校、及川鉄五郎の元へ嫁ぐ。そして夫に随って、佐世保、呉、舞鶴などの軍港都市に転居を繰り返した。1932年(昭和7年)に息子の中学入学のために四谷に仮寓する。その翌年、神田で開かれた俳句会にて水原秋桜子の指導を受け、俳人として進むきっかけとなった。 後に『馬酔木』婦人句会を起こしたことで知られ、多くの優れた女流俳人を輩出した。
佐野 まもる(さの まもる、1899年(明治32年)5月10… 佐野 まもる(さの まもる、1899年(明治32年)5月10日 - 1984年(昭和59年)7月14日)は、日本の俳人。 徳島県徳島市出身。旧制徳島中学(現徳島県立城南高等学校)卒業。 徳島県徳島市に生まれ、旧制徳島中学を卒業後は専売局へ奉職し、1955年(昭和30年)に高知支局長として勤めたのを最後に退職。 仕事の傍ら俳句をしており、1922年(大正11年)から始めた。1933年(昭和8年)に「馬酔木」同人。1956年(昭和31年)に「海郷」創刊、主宰。 現在は板野郡上板町大山寺(四国別格二十霊場1番札所)に句碑が建てられている。
中西 其十(なかにし きじゅう、1899年(明治32年)4月… 中西 其十(なかにし きじゅう、1899年(明治32年)4月21日 - 1922年(大正11年)1月18日)は、京都府出身の俳人。京大三高俳句会設立会員、「京鹿子」創刊同人。本名、喜重郎。 京都府船井郡檜山村(ひのきやまむら)字八田第三番戸(現・船井郡京丹波町八田)に生まれる。父母の名は現在のところ不明。 1916年(大正5年)、同志社中学3年に中途編入。中学では小西米太という親友を得、島崎藤村の詩や古人の俳句について語り合い、また、芝居や浄瑠璃へも共に行った。 1919年(大正8年)3月、同志社中学校卒業。米太と共に、本格的に俳句を書き始める。当初の俳号は喜郎や西郎、坡十など。三高入学後に其十と名乗った。
金沢 治(かなざわ おさめ、1899年(明治32年)2月14… 金沢 治(かなざわ おさめ、1899年(明治32年)2月14日 - 1981年(昭和56年)5月12日)は日本の歌人、郷土史家、方言研究家。飯田義資(1894-1973)・一宮松次(1897-1972)と共に徳島県郷土史研究の三大長老の1人とされる。徳島県郷土資料専門調査員を務めた。 1899年2月14日、徳島県美馬郡半田町(現:つるぎ町)に金沢与平の長男として生まれる。 1918年3月、徳島県師範学校本科第一部を卒業する。 1923年4月、上京し国学院大学高等師範部に入学する。在学中は折口信夫に師事する。 1926年、国学院大学高等師範部を卒業し、神奈川県立商工高等学校に就職する。 1927年、帰郷し徳島県立徳島中学校に転任する。
神崎 縷々(かんざき るる、 明治32年(1899年)2月1… 神崎 縷々(かんざき るる、 明治32年(1899年)2月11日 - 昭和11年(1936年)2月28日)は、日本の俳人。本名は神崎 主計。 福岡県宗像郡神興村津丸(現・福津市)生まれ。旧制小倉中学校(現・福岡県立小倉高等学校)を経て、1922年東京高等商業学校(現・一橋大学)本科卒業。吉岡禅寺洞に師事した。 藤本ビルブローカー銀行、久原商事、貝島商事を経て、1932年、小倉市京町に火薬商の神崎商店を設立し、同社支配人に就任。ジー・ワインベルゲン商会小倉支店長も務めていたが、1936年に37歳で死去した。 井筒屋設立者の神崎慶次郎元小倉市長は叔父で養父。倉田主税元日立製作所社長は兄。倉田興人元三井鉱山社長は弟。
阿波野 青畝(あわの せいほ、1899年(明治32年)2月1… 阿波野 青畝(あわの せいほ、1899年(明治32年)2月10日 - 1992年(平成4年)12月22日)は、奈良県出身の日本の俳人。本名は敏雄。旧姓・橋本。原田浜人、高浜虚子に師事。昭和初期に山口誓子、高野素十、水原秋桜子ととも「ホトトギスの四S」と称された。「かつらぎ」主宰。 市井の生活を材に、鷹揚な表現で自在な句境を構築した。古典を素地にした叙情性も特徴。句集に『万両』(1931年)、『除夜』(1986年)など。 奈良県高市郡高取町に橋本長治・かね夫妻の4男として生まれる。父は八木銀行高取支店長で士族の家系。幼少の時に耳を患い難聴となる。1913年、奈良県立畝傍中学校(現・奈良県立畝傍高等学校)に入学。
山谷 太郎(やまや たろう、1899年(明治32年)2月 -… 山谷 太郎(やまや たろう、1899年(明治32年)2月 - 1952年(昭和27年))は、日本の実業家、俳人。日新書院取締役。脚本家・演出家の倉本聰の父。俳号は春潮。 山谷徳治郎の長男として岡山県津山市に生まれる。第六高等学校及び東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、日清製粉に入社。その後、父が経営する日新医学社に入り、その経営に当たる傍ら月刊雑誌『科学ペン』を主宰した。のち日新医学社社長を経て、自ら日新書院を創業、同社社長ののち取締役。 終戦後、善福寺 (杉並区)にあった三百坪の自宅を進駐軍に接収され、事業も傾いた。晩年は借金に追われ、52歳の若さで没した。 趣味は俳句・鳥・気象・柔道、宗教はキリスト教。
五十嵐 播水(いがらし ばんすい、1899年1月10日 - … 五十嵐 播水(いがらし ばんすい、1899年1月10日 - 2000年4月23日)は、日本の俳人、内科医。本名は久雄(ひさお)。兵庫県出身。 姫路市鍛冶町に生まれる。野里尋常小学校、姫路中学校、第三高等学校を経て、1923年京都帝国大学医学部卒業。卒業後に松尾内科勤務を経て、神戸市立中央市民病院に勤務。同病院の副院長・院長を1959年まで務める。1961年に神戸市生田区で五十嵐内科を開業、1993年まで医師として務めた。 大学在学中の1920年より句作をはじめ、京大三高俳句会で高浜虚子と出会い師事する。1922年、「京鹿子」同人。1930年、山本梅史の跡を継いで「九年母」選者。1932年、「ホトトギス」同人。
鈴木 恭一(すずき きょういち、1898年(明治31年)12… 鈴木 恭一(すずき きょういち、1898年(明治31年)12月29日 - 1987年(昭和62年)7月29日)は、大正末から昭和期の逓信官僚、政治家、俳人。参議院議員(2期)。俳号は鈴木杏一(きょういち)。 神奈川県出身。鈴木彦八の二男として生まれる。京華中学校(現京華中学高等学校)、第一高等学校を経て、1924年(大正13年)11月、高等試験行政科試験に合格した。1925年(大正14年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 同年4月、逓信省に入省し通信局書記に任官。以後、郵務局勤務、通信事務官・伏見郵便局長、大逓局経理課長、大臣官房保健課勤務、逓信省事務官などを歴任し、1935年(昭和10年)7月から1936年(昭和11年)8月まで米国に出張した。
大悟法 利雄(だいごぼう としお、1898年12月23日 -… 大悟法 利雄(だいごぼう としお、1898年12月23日 - 1990年11月26日)は、日本の歌人。 大分県中津市出身。中津中学校卒業。地元で代用教員をした後、大阪や大連に住んだ。1918年、若山牧水の歌誌『創作』に参加。1922年に静岡県沼津市の牧水宅を訪ね、以降、1928年に牧水が没するまで助手を務めた。そののち改造社に勤務し、大橋松平と「新万葉集」「短歌研究」を編集。1946年、『新道』を創刊、『創作』と合流し選者となった。 牧水の高弟として多数の研究書を執筆し、沼津市若山牧水記念館の初代館長も務めた。 1937年、『東京日日新聞』紙上で萩原朔太郎に短歌を酷評された際に、引用間違いなどを指摘して抗議し、謝罪文を送られている。
相生垣 瓜人(あいおいがき かじん、1898年(明治31年)… 相生垣 瓜人(あいおいがき かじん、1898年(明治31年)8月14日- 1985年(昭和60年)2月7日)は、俳人。本名・貫二。 兵庫県加古郡高砂町(現・高砂市)に生まれる。1920年、東京美術学校製版科を卒業。同年に浜松工業学校(現在の静岡県立浜松工業高等学校)に図案科教員として赴任。1928年より「ホトトギス」に、1930年より水原秋桜子の「馬酔木」、阿波野青畝の「かつらぎ」に投句。1933年、秋桜子の「ホトトギス」離反に従い「馬酔木」に所属、同年「馬酔木」同人。1937年「馬酔木」の「新葉抄」選者を任される。 戦中、6年ほど句作を中断したのち、1947年「あやめ」に参加。1948年復刊した「馬酔木」への投句を再開。
髙橋 俊人(たかはし としんど、1898年8月4日 - 19… 髙橋 俊人(たかはし としんど、1898年8月4日 - 1976年1月13日)は日本の歌人、郷土史家。 神奈川県藤沢生まれ。東洋大学専門部倫理学東洋文学科卒業。埼玉県(浦和中学校)、三重県(桑名中学校、津高等女学校、富田中学校)、東京都(山脇学園)、神奈川県(藤沢中学校・高等学校)などの中学校・高等学校の教諭を歴任。 大正末年、若山牧水の短歌結社「創作」に参加。一方、1928年、埼玉県立浦和中学校の学生とともに「菁藻」を創刊(1942年「創作」に合併)、加藤克巳、常見千香夫らを育てた。 1952年には藤沢市を拠点に、平井啓朔、河口一紀らと「まゆみ」を創刊。そのかたわら、藤沢市の依嘱により郷土史研究に従事。
藤森 朋夫(ふじもり ともお、1898年7月18日 - 19… 藤森 朋夫(ふじもり ともお、1898年7月18日 - 1969年8月29日)は、日本の歌人、国文学者。 長野県諏訪郡四賀村(現・諏訪市四賀)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1925年に東京高等師範学校卒業、1929年東北帝国大学文学部国文科卒業。陸軍大学教授となる。戦時中は群馬県に疎開した。 1923年「アララギ」に加わり、島木赤彦、斎藤茂吉に師事。『万葉集』を中心とした上代文学を研究。1956年から1961年まで『茂吉研究』を発行。日本大学教授、東京女子大学教授、1964年定年退任、名誉教授。 この項目は、文学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJライトノベル)。
太田 辨次郎 (弁次郎)(おおた べんじろう、1898年4月… 太田 辨次郎 (弁次郎)(おおた べんじろう、1898年4月27日 - 1981年〈昭和56年〉11月11日)は、日本の実業家、歌人。 四代目太田清蔵のニ男として、福岡県に生まれる。実兄は五代目太田清蔵。1917年福岡県立中学修猷館、1921年7月第五高等学校経済科を経て、1924年7月東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。 卒業後、博多湾鉄道汽船に入社し、副支配人となる。1926年6月、第一徴兵保険(東邦生命保険の前身)に転じ、取締役経理部長、1946年4月専務、1954年6月副社長を経て、1961年5月、兄五代目太田清蔵から引き継ぎ、東邦生命保険社長に就任。1977年6月同会長となる。九州勧業、箱根カントリー倶楽部、芝パークホテル、帝国ホテル、西日本鉄道の取締役も務めた。
横光 利一(よこみつ りいち、1898年〈明治31年〉3月1… 横光 利一(よこみつ りいち、1898年〈明治31年〉3月17日 - 1947年〈昭和22年〉12月30日)は、日本の小説家・俳人・評論家。本名は漢字表記同じで「よこみつ としかず」。 菊池寛に師事し、川端康成と共に新感覚派として大正から昭和にかけて活躍した。『日輪』と『蠅』で鮮烈なデビューを果たし、『機械』は日本のモダニズム文学の頂点とも絶賛され、また形式主義(英語版)文学論争を展開し『純粋小説論』を発表するなど評論活動も行い、長編『旅愁』では西洋と東洋の文明の対立について書くなど多彩な表現を行った。1935年(昭和10年)前後には「文学の神様」と呼ばれ、志賀直哉以来の「小説の神様」とも称された。
中原 綾子(なかはら あやこ、1898年2月17日 - 19… 中原 綾子(なかはら あやこ、1898年2月17日 - 1969年8月24日)は、大正時代から昭和時代にかけての女流歌人。 旧柳河藩士であった曽我祐保の次女として、父の任地・長崎に生まれる。父の転任に従って大阪・神戸・朝鮮へと移るが、主として東京に在住する。1915年(大正4年)に東洋高等女学校を卒業後、作歌を始めていたが1918年(大正7年)から与謝野晶子に師事し、新詩社同人としてその歌を『明星』に発表するようになる。同じく『明星』に参加していた高村光太郎と親交があり、統合失調症を病んだ妻・智恵子の自宅療養と介護に忙殺され疲弊した光太郎は、度々中原へ手紙を送っている 。 1929年(昭和4年)6月、吉井勇・秦豊吉らとともに文芸誌『相聞』(後に『スバル』と改称)を公刊、詩や戯曲を発表する。
山下 秀之助(やました ひでのすけ、1897年11月29日 … 山下 秀之助(やました ひでのすけ、1897年11月29日 - 1974年4月4日)は、日本の医師・歌人。短歌雑誌『創作』の若山牧水、『潮音』の太田水穂に師事し、吉植庄亮主宰の『橄欖』を経て、1946年『原始林』(第2次)を札幌市で創刊。北海道の歌壇の基礎を築いた一人と評価され、戦前・戦後の北海道文壇・歌壇の指導的な存在であった。 1897年(明治30年)11月29日、鹿児島県鹿児島市東千石町に生まれる。鹿児島第一中学校、第七高等学校造士館を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学医学部を卒業。同年5月、北海道帝国大学医学部助手として北海道に移る。北大医学部講師、小樽病院を経て、移住四年後の1926年(大正15年)から国鉄傘下の札幌鉄道病院(現在のJR札幌病院)に勤務。
松原 地蔵尊(まつばら じぞうそん、 本名:重造、 明治30… 松原 地蔵尊(まつばら じぞうそん、 本名:重造、 明治30年(1897年)10月10日 - 昭和48年(1973年)10月7日)は、日本の俳人。 富山県氷見郡阿尾村(現・氷見市)阿尾生まれ。学生時代からホトトギスに投句し、1917年樺太庁中学校卒業。1920年小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)卒業。1923年東京商科大学(現・一橋大学)卒業。 新興俳句運動の俳人として活動した。また、小池銀行営業部長、小池証券取締役、山一証券大阪支店長、山一証券取締役、山一証券監査役幹事長、小柳証券参与等を歴任した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
小口 太郎(おぐち たろう、1897年(明治30年)8月30… 小口 太郎(おぐち たろう、1897年(明治30年)8月30日 - 1924年(大正13年)5月16日)は、日本の科学者、歌人。第三高等学校、東京帝国大学理学部物理学科卒業後、同大学航空研究所入所。大学在学中に電信電話に関する発明をし、日本を始め諸外国に特許申請をし、許可を得ている。 科学者以外の彼を有名にしたのは、「琵琶湖周航の歌」の作詞者としてである。1917年、三高ボート部員として琵琶湖周航中、故郷諏訪湖に思いを馳せながら詩情豊かに作詞した「琵琶湖周航の歌」は、吉田千秋(新潟県出身、歴史地理学者吉田東伍の次男)の「ひつじぐさ」の原曲により現在まで広く歌われ続けている。この二人はお互いを知らず、それぞれ26歳と24歳で死去している。
川端 茅舎(かわばた ぼうしゃ、1897年〈明治30年〉8月… 川端 茅舎(かわばた ぼうしゃ、1897年〈明治30年〉8月17日 - 1941年〈昭和16年〉7月17日)は、東京都出身の日本の俳人。本名は信一(のぶかず)。別号に遊牧の民・俵屋春光。日本画家の川端龍子は異母兄。 当初は画家を志し岸田劉生に師事したが、病のために断念し俳句に転向、高浜虚子に師事して「ホトトギス」に拠る。画家の眼を生かし写生に徹しつつも格調の高い句を物し、松本たかし、中村草田男などと共に「四S」以降の「ホトトギス」の代表的俳人として活躍した。 東京市日本橋蛎殻町で生まれ、腹違いの兄である龍子とともに育てられる。父信吉は紀州藩の下級武士、母は信吉の弟が経営する病院の看護婦。父は弟の病院で手伝いとして働いていたが、その後煙草の小売商を始める。
中河 幹子(なかがわ みきこ、1897年7月30日 - 19… 中河 幹子(なかがわ みきこ、1897年7月30日 - 1980年10月26日)は、日本の国文学者、歌人。中河与一の妻。旧姓は林。 香川県坂出市生まれ。実家は紙問屋林卯吉。香川県立丸亀高等女学校を経て津田英学塾卒。在学中の1920年に中河与一と結婚をする。女性文芸誌『ごぎやう』を創刊し、後に短歌誌『をだまき』と改め主宰となる。門下に高瀬一誌、蒔田さくら子らがいる。共立女子大学教授を務め、共立女子学園歌の作詞も手がけている。 妹の林寿枝子は、初代メイ牛山に師事した美容家で、雑誌で美容指南や対談などもした。
風間 直得(かざま なおえ、1897年(明治30年)7月7日… 風間 直得(かざま なおえ、1897年(明治30年)7月7日 - 没年不明)は、日本の俳人。本名は山本 直得。別号に南鳳江。河東碧梧桐門下でルビ俳句の提唱者として知られる。東京都出身。 1897年に東京都日本橋区浜町(現在の中央区日本橋)で生まれる。若くして俳句の道を志し、新傾向俳句を提唱していた河東碧梧桐の元へ投句、1917年(大正6年)に碧梧桐の正式な門人となる。以降は一貫して新傾向俳句と、そこから発展した自由律俳句を詠む。碧梧桐主宰の海紅を経て、海紅の東京同人を中心に1924年(大正13年)東京俳三昧を立ち上げ、直得が代表となる。この前年の1923年(大正12年)、師の碧梧桐も海紅を中塚一碧楼に譲り、新たに『碧』を主宰、1925年(大正14年)に東京俳三昧と碧が合流する形で『三昧』を創刊した。
今井 つる女(いまい つるじょ、1897年6月16日 - 1… 今井 つる女(いまい つるじょ、1897年6月16日 - 1992年8月19日)は、俳人。本名は今井鶴(旧姓・池内)。父は高浜虚子の兄池内政夫で、つる女は虚子の姪にあたる。 愛媛県松山市生まれ。生後間もなく一家で上京するも4歳で父と死別し、池内政忠(虚子の長兄)の養女となる。1904年、尋常第一小学校(現 番町小学校)へ入学後、尋常第四小学校(現 東雲小学校)へ編入する。1914年、愛媛県立松山高等女学校(現 愛媛県立松山南高等学校)卒業。今井五郎との結婚を機に上京する。1920年頃から句作をはじめ、1928年『ホトトギス』夫人句会に参加する。1930年、星野立子の『玉藻』創刊に参加。1940年「ホトトギス」同人となる。
潮 みどり(うしお みどり、1897年6月12日 - 192… 潮 みどり(うしお みどり、1897年6月12日 - 1927年10月13日)は日本の歌人。本名は長谷川桐子。旧姓は太田。姉の若山喜志子も歌人。 長野県東筑摩郡広丘村(現塩尻市)生まれ。大正4年(1915年)三浦半島に療養中の姉・喜志子を見舞い、翌年まで滞在した。大正4年から歌作を始め、義兄の若山牧水に師事し、詩歌雑誌「創作」に作品を発表する。同7年(1918年)に上京し、翌年、喜志子・牧水夫妻の仲人により、牧水の弟子である長谷川銀作と結婚したが、同10年(1921年)ころから結核に罹患し、療養を続けながらも創作を続けたが、31歳で夭逝した。遺歌集に「潮みどり歌集」が刊行された。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
広野 三郎(ひろの さぶろう、1897年(明治30年)4月1… 広野 三郎(ひろの さぶろう、1897年(明治30年)4月10日 - 1968年(昭和43年)4月4日)は、歌人。 東京出身。國學院大學卒。1915年『アララギ』に入会し、島木赤彦、斎藤茂吉に師事。1926年東京帝国大学史料編纂所業務嘱託、1927年史料編纂官補、1946年事務官、1954年東京大学史料編纂所助手、1958年講師、1962年退官。歌人としては1950年『白埴』を創刊、1953年『草苑』と合同して『久木』を主宰。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
河本 緑石(かわもと ろくせき、本名:河本義行〈かわもと よ… 河本 緑石(かわもと ろくせき、本名:河本義行〈かわもと よしゆき〉、1897年〈明治30年〉3月21日 - 1933年〈昭和8年〉7月18日)は、日本の自由律俳句の俳人・詩人。『層雲』の荻原井泉水に師事した。鳥取県東伯郡社村(現・倉吉市)出身。 鳥取県東伯郡社村(現・倉吉市)に父定吉、母政野の次男として生まれる。長男が夭折したため跡取りとして育てられる。幼少期に従兄・河本謹一郎の感化を受けて俳句を作りはじめる。この頃の句は定型であったといわれているが現存しない。社尋常高等小学校(現・倉吉市立社小学校)卒業後、1911年4月に鳥取県立倉吉中学校(現・鳥取県立倉吉東高等学校)に入学。同校在学中に東郷湖横断競泳の記録を残している。
米山 久(よねやま ひさ、1897年(明治30年)1月17日… 米山 久(よねやま ひさ、1897年(明治30年)1月17日 - 1981年(昭和56年)2月9日)は、日本の政治家、歌人。石川県出身の婦人運動家。衆議院議員(1期)。本名は米山 久子。 石川県金沢市で生まれる。1914年、石川県立第一高等女学校(現・石川県立金沢二水高等学校)卒。市川房枝の婦人参政権運動に参加。大日本国防婦人会金沢地方本部理事、大日本婦人会石川県支部副支部長を務めた。 1946年4月10日、第22回衆議院議員総選挙石川県全県区に日本社会党から出馬し初当選、石川県初の女性国会議員となる。1947年4月25日、第23回衆議院議員総選挙に出馬し落選した。 日本仏教婦人連盟顧問となり、仏教婦人運動にも尽くした。
足立 直郎(あだち なおろう、1896年12月14日 - 1… 足立 直郎(あだち なおろう、1896年12月14日 - 1980年10月10日)は、歌人、劇作家、小説家。千葉県生まれ。本名・直太郎。別号・高梨直郎。早稲田大学文学部国文科卒。橋田東声の『珊瑚礁』に拠って歌人として出発、次第に戯曲、小説に手を染める。聚芳閣の経営者足立家に婿入りする。妻の養兄が足立欽一。
飯田 莫哀(いいだ ばくあい、1896年〈明治29年〉10月… 飯田 莫哀(いいだ ばくあい、1896年〈明治29年〉10月27日 - 1981年〈昭和56年〉6月2日)は日本の歌人。本名、飯田 昇。 1896年(明治29年)、神奈川県高座郡海老名村に生まれる。日本大学社会課中退後、法政大学、水難救済会、八雲書店等に勤務したのちに天弦社の代表となる。童謡歌手、女優の飯田ふさ江は娘。 作歌を始めたのは厚木中学校在学中であり、莫哀の雅号は旧制中学3年の頃に漢文を担当していた教師がつけたものである。1915年(大正4年)に前田夕暮の『詩歌』に参加した。詩歌の廃刊後は活動を休止するが、1922年(大正11年)『覇王樹』に参加し橋田東声に師事する。東声の死後は森園天涙の『珊瑚礁』に転じたが再び覇王樹に戻っている。