野田 清(のだ きよし、1887年(明治20年)7月6日 -… 野田 清(のだ きよし、1887年(明治20年)7月6日 - 1974年(昭和49年)3月29日)は、日本の海軍軍人。大本営海軍報道部長。階級は海軍中将。北海道出身。 北海道出身。旧制函館中学校卒業。海軍兵学校35期。席次は172人中40番。同期生に近藤信竹、高須四郎、野村直邦がいる。「浅間」分隊長として第一次世界大戦に出征した。野田は海軍大学校乙種、砲術学校高等科を修了した砲術専攻士官で、のちに戦艦「鹿島」砲術長を務めている。皇太子裕仁親王の欧州訪問の供奉艦「鹿島」の分隊長として渡欧した際は、海軍士官に芸術の素養が必要であるとの報告書を提出した。帰国後海大甲種17期を卒業。 佐官時代は艦隊では第三艦隊、第二艦隊の各参謀や軽巡洋艦「鬼怒」副長、軍政では軍務局局員兼教育本部員、海軍省副官兼大臣秘書官、臨時調査課長、軍令では海大戦略教官、軍令部第二課長(後任は南雲忠一)などを歴任した。
池ノ上 賢吉(いけのうえ けんきち、1887年(明治20年)… 池ノ上 賢吉(いけのうえ けんきち、1887年(明治20年)6月16日 - 1975年(昭和50年)7月22日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県、のちの大口市(現伊佐市)で生まれた。陸軍士官学校第21期卒業。1935年(昭和10年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に関東軍司令部附となり、旅順工科大学に配属され、1936年(昭和11年)8月に第1独立守備隊司令部附に転じたが、旅順工科大学配属が続いた。1937年(昭和12年)8月2日に関東軍司令部附となり、12月28日に福岡連隊区司令官に就任した。 1939年(昭和14年)8月1日に陸軍少将進級と同時に留守第4師団司令部附となり、1940年(昭和15年)8月に独立混成第9旅団長に就任。
岩下 保太郎(いわした やすたろう、1887年〈明治20年〉… 岩下 保太郎(いわした やすたろう、1887年〈明治20年〉6月10日 - 1937年〈昭和12年〉2月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 大分県大分市出身。大分中学校より海軍兵学校第37期入校。入校成績順位は180名中第17位、卒業成績順位は179名中第3位。 妻は山屋他人海軍大将の長女ハツ。長女・春子は中村亀三郎海軍中将の長男・元夫の妻。 岩下は軍令部第1部在勤中に次期新型艦建造に関して、中村良三や中澤佑、富岡定俊などと共に、高速戦艦型ではなく巡洋戦艦型を主張したが、大艦巨砲主義に支配された首脳部に受け入れられず、少数意見として否定された。しかし太平洋戦争における戦闘の推移を概観すれば、巡洋戦艦ならば重巡洋艦や航空母艦との洋上機動作戦行動が可能であったことから、結果的には岩下側の主張が正しかった事になる。
加藤 泊治郎(かとう はくじろう、1887年(明治20年)6… 加藤 泊治郎(かとう はくじろう、1887年(明治20年)6月8日 - 1951年(昭和26年)2月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓、三隅。 山口県出身。三隅熊五郎の五男として生れ、加藤家の養子となる。山口中学校を経て、明治43年(1910年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、砲兵少尉に任官し、長崎重砲大隊付となる。大正5年(1916年)8月、兵科を憲兵科に移し憲兵中尉となり、憲兵練習所で学んだ。以後、名古屋憲兵、青島憲兵、豊橋憲兵、浜松憲兵、姫路憲兵、京都憲兵、台湾憲兵隊、牛込憲兵の各分隊長を歴任。昭和5年(1930年)8月、憲兵司令部員となり、さらに中国政府応聘、憲兵司令部第3課長、麹町憲兵分隊長、宇都宮・延吉・奉天の各憲兵隊長、関東憲兵隊司令部総務部長、東京憲兵隊長などを経て、昭和15年(1940年)8月、陸軍少将に進級した。
桑原 四郎(くわはら しろう、1887年(明治20年)6月4… 桑原 四郎(くわはら しろう、1887年(明治20年)6月4日 - 1966年(昭和41年)4月22日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 岐阜県出身。1907年(明治40年)5月31日に陸軍士官学校(19期)を卒業し、同年12月26日に工兵少尉に任ぜられ、工兵第九大隊付となる。1910年(明治43年)11月30日に工兵中尉に昇進し、1911年(明治44年)11月27日に陸軍砲工学校(17期)高等科を優等で卒業。更に員外学生として在学し、1917年(大正6年)8月6日には工兵大尉に昇進。ヴェルサイユ条約の締結に軍関係者として携わり、1920年(大正9年)9月13日付で、国際連盟陸、海、空軍問題常設諮問委員会帝国空軍代表者随員を仰せつけられる。
木幡 行(こわた つよし、1887年6月2日 - 1977年… 木幡 行(こわた つよし、1887年6月2日 - 1977年8月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。福島県出身。従四位勲三等功四級。 1887年(明治20年)6月2日に福島県標葉郡両竹村で木幡清茂の次男として生まれる。木幡家は代々相馬中村藩の藩士であったが没落し、極貧の少年時代を過ごした。7、8歳の頃に日清戦争が勃発し、出征や凱旋などを見聞きしていた木幡は、将来軍人になることを密かに決意する。しかし、家は困窮して学費を出せる状況ではなかったために「学費は一切親に頼らぬ。教科書は必ず筆写する。」ことを心に誓い、福島県立第四中学校に入学し、入学から卒業まで特待生を続け、傍らに新聞配達などをして学費を稼いだ。
飯塚 国五郎(國五郎、いいづか くにごろう、1887年〈明治… 飯塚 国五郎(國五郎、いいづか くにごろう、1887年〈明治20年〉5月25日 - 1938年〈昭和13年〉9月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 群馬県北甘楽郡富岡町(現・富岡市)出身。農業・飯塚理八の長男として生まれる。富岡中学校(現群馬県立富岡高等学校)を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第66連隊付となる。 1919年(大正8年)11月から1920年(大正9年)11月までシベリア出兵に従軍し、ニコリスク・ウスリースキー(現・ウスリースク)付近の戦闘で戦功を挙げ、功五級金鵄勲章を受章した。1920年8月、歩兵大尉に昇進し歩兵第66連隊中隊長に就任。
野口 正義(のぐち まさよし、1887年(明治20年)5月1… 野口 正義(のぐち まさよし、1887年(明治20年)5月17日 - 1968年(昭和43年)4月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 茨城県出身。1908年(明治41年)5月27日に陸軍士官学校(20期)を卒業し、同年12月25日に工兵少尉に任ぜられ、工兵第七大隊付となる。1911年(明治44年)12月26日に工兵中尉に昇進し、1912年(明治44年)11月27日に陸軍砲工学校(18期)高等科を卒業。更に員外学生として在学し、1916年(大正5年)7月10日には東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。 1918年(大正7年)7月29日に工兵大尉に昇進し陸軍技術審査部付となる。その後、長らく陸軍技術本部部員に在籍し、在任中の1924年(大正13年)3月15日工兵少佐に、1928年(昭和3年)3月24日工兵中佐に、1932年(昭和7年)8月8日に工兵大佐に昇進。
岡田 偆一(おかだ しゅんいち、1887年(明治20年)5月… 岡田 偆一(おかだ しゅんいち、1887年(明治20年)5月10日〈1886年生とも〉- 1943年(昭和18年)12月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。位階および勲等は従四位・勲三等。 平民出身で初めて宮家(高松宮)付の武官となった人物。 広島県芦品郡駅家町大字服部本郷(現在の福山市)の屋号観音堂の、岡田馳次郎・アサの次男として生まれる。品治高等小学校2年を修了後、広島県第二中学校(後の誠之館)に入学する。1904年(明治37年)、19歳の時に広島県立福山中学校(誠之館)を卒業する。1907年(明治40年)、22歳の時に海軍兵学校を第35期生として卒業する。1909年(明治42年)、24歳の時に海軍大学を第16期生として卒業。
武井 大助(たけい だいすけ、1887年(明治20年)4月2… 武井 大助(たけい だいすけ、1887年(明治20年)4月25日 - 1972年(昭和47年)3月30日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍主計中将。昭和産業・安田銀行・文化放送の社長を務めた。1940年勲一等旭日大綬章受章。 現在の茨城県土浦市田村町で、武井松太郎の三男として生まれる。旧制土浦中学校(茨城県立土浦第一高等学校の前身)卒業後、明治37年(1904年)7月、東京高等商業学校予科(一橋大学の前身)に入学し、翌月、海軍主計学生となる。一橋では福田徳三に師事し千駄ヶ谷の福田邸での読書会にも参加した。しかし、緒方竹虎らとともに申酉事件のリーダーとしての責任をとり専攻部へは進まず、明治42年(1909年)に本科卒業後、海軍少主計に任官し海軍経理学校乙種で学ぶ。
高田 六郎(たかた ろくろう、1887年(明治20年)4月7… 高田 六郎(たかた ろくろう、1887年(明治20年)4月7日 - 1943年(昭和18年)4月18日)は、日本の海軍軍人、医師。最終階級は海軍軍医中将。 1887年(明治20年)、茨城県に生まれる。旧制水戸中学を経て、1912年(大正元年)9月、千葉医学専門学校に入る。在学中海軍軍医学生になる。1916年(大正5年)5月、卒業。海軍少軍医となり、海軍軍医学校で乙種学生として学ぶ。 横須賀工廠医務部員、大井、球磨の各軍医長となり、呉病院、呉工廠勤務、1937年(昭和12年)海軍軍医大佐に進み、海軍兵学校軍医長兼教官となる。翌年支那方面艦隊兼第三艦隊軍医長に就任。広工廠医務部長、1940年(昭和15年)には呉病院第二部長兼消毒部長兼教官となり、1942年(昭和17年)10月には第一部長も兼務した。
渋谷 隆太郎(しぶや りゅうたろう、1887年4月5日 - … 渋谷 隆太郎(しぶや りゅうたろう、1887年4月5日 - 1973年4月8日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。最後の海軍艦政本部長を勤める。杉政人、上田宗重らと同様に機関科出身者として最初の海軍大将候補であった。 福井県出身。渋谷徳蔵の長男として生まれる。1910年4月、海軍機関学校(18期)を卒業。同年12月、海軍機関少尉任官。1916年12月、海軍大学校機関学生となり、1918年12月、戦艦「比叡」分隊長に着任。1919年12月から海軍大学校選科学生として学び、翌年12月、海軍艦政本部部員(第5部)となる。 1925年8月、横須賀海軍工廠造機部員となり、造兵監督官(米国出張)、舞鶴要港部部員などを経て、1930年12月、機関大佐に昇進し海軍艦政本部第4部部員となった。
塚原 二四三 (つかはら にしぞう、1887年(明治20年)… 塚原 二四三 (つかはら にしぞう、1887年(明治20年)4月3日 - 1966年(昭和41年)3月6日)は、日本の海軍軍人。海兵36期・海大18期。最終階級は海軍大将。日本海軍で最後に大将に昇進した二人の軍人の一人。 1887年4月3日、福井県で父・塚原開太郎と母・たけの(山梨県西八代郡高田村の青柳忠左衛門の長女)の五男として生まれる。名前の「二四三」は「明治二十年四月三日生まれ」であることに因む。 本籍は山梨県中巨摩郡三恵村(現南アルプス市)で 、父は郡議会議員を務めた。長兄の塚原竹麿は村議会議員や助役を務め、次兄の塚原甲麿は大日本国民中学会の講師、弟の塚原懿智三は満州鉄道技師となった。甲府中学を経て、1908年(明治41年)11月21日に海軍兵学校36期を20位の成績で卒業、少尉候補生となり、練習航海に出発。
三木 良英(みき よしひで、1887年(明治20年)3月31… 三木 良英(みき よしひで、1887年(明治20年)3月31日 - 1970年(昭和45年)2月18日)は、日本の陸軍軍人、内科医。最終階級は陸軍軍医中将。 兵庫県出身。三木駿三の長男として生まれる。姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)、第三高等学校を経て、1912年(明治45年)6月に東京帝国大学医科大学を卒業し、二等軍医に任官し歩兵第20連隊付となる。1913年(大正2年)8月、東京第二陸軍病院(現国立成育医療研究センター)付となる。1914年(大正3年)8月、東京帝大大学院に入学。1915年(大正4年)8月、一等軍医に昇進し、歩兵第71連隊付、青島病院付、スイス駐在を務め、1921年(大正10年)3月、三等軍医正に進級しドイツ駐在となる。
沢田 茂(さわだ しげる、1887年(明治20年)3月29日… 沢田 茂(さわだ しげる、1887年(明治20年)3月29日 - 1980年(昭和55年)12月1日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県高知郡鴨部村(現・高知市鴨部町)出身。農業・沢田栄之助の三男として生まれる。兄弟四人のうち、長男を除く三兄弟が陸軍将校となった。1899年(明治32年)4月に高知県立海南中学校に入校。同期は山下奉文で、永らく交友を結んだ。広島陸軍地方幼年学校を経て、1905年(明治38年)11月15日、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月26日、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第16連隊付となる。野戦砲兵第22連隊付などを経て、1910年(明治43年)11月26日、陸軍砲工学校高等科を卒業。
矢野 機(やの はかる、1887年3月27日 - 1992年… 矢野 機(やの はかる、1887年3月27日 - 1992年2月10日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887年〈明治20年〉3月… 南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887年〈明治20年〉3月25日 - 1944年〈昭和19年〉7月6日)は、日本の海軍軍人。海兵36期。太平洋戦争初期から中期にかけて第一航空艦隊および第三艦隊(南雲機動部隊)司令長官を務めた後、サイパンの戦いで自決。死後一階級特進により、最終階級は海軍大将。正三位勲一等功一級。 1887年3月25日、山形県南置賜郡米沢信夫町(現在の米沢市)で、郡役所書記の父・南雲周蔵と母・志んの次男として生まれる。6人兄弟姉の末子であった。父の周蔵は旧米沢藩士であり、藩では御扶持方(中士階級)でもあった。 米沢尋常中学興譲館を経て、1905年(明治38年)海軍兵学校36期に入校。
吉本 貞一(よしもと ていいち、1887年3月23日 - 1… 吉本 貞一(よしもと ていいち、1887年3月23日 - 1945年9月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
雪下 勝美(ゆきした かつみ、1887年〈明治20年〉3月1… 雪下 勝美(ゆきした かつみ、1887年〈明治20年〉3月12日 - 1967年〈昭和42年〉5月27日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争時にアルゼンチン大使館附武官兼チリ公使館附武官を務めた海軍少将である。 福島県出身。会津中学四年修了で海軍兵学校に進む。1908年(明治41年)11月21日卒業(36期)。ハンモックナンバー4番。同期に沢本頼雄、南雲忠一、塚原二四三、佐藤市郎らがいる。海大甲種学生(17期)の同期生は豊田貞次郎、沢本頼雄、高橋伊望らである。 雪下は航海科専攻の士官で海軍大学校(以下「海大」)乙種学生を経て海大専修学生(航海術)を首席で卒業した。少佐に昇進後、皇太子裕仁親王の欧州訪問のお召艦となった「香取」航海長として渡欧した。
阿南 惟幾(あなみ これちか、1887年〈明治20年〉2月2… 阿南 惟幾(あなみ これちか、1887年〈明治20年〉2月21日 - 1945年〈昭和20年〉8月15日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級。1945年(昭和20年)4月に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任。大東亜戦争(太平洋戦争)末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府で本土決戦への戦争継続を主張したが、昭和天皇の聖断によるポツダム宣言受諾が決定され、同年8月15日に割腹自決。日本の内閣制度発足後、現職閣僚が自殺したのはこれが初めてであった。 侍従武官、陸軍省兵務局長、人事局長、第109師団長、陸軍次官、第11軍司令官、第2方面軍司令官、陸軍航空総監部兼航空本部長、陸軍大臣を歴任。その人柄・人格には定評があり、昭和天皇からは信頼され、陸軍大学校同期の石原莞爾も認めるほどであった。
新見 政一(にいみ まさいち、1887年〈明治20年〉2月1… 新見 政一(にいみ まさいち、1887年〈明治20年〉2月14日 - 1993年〈平成5年〉4月2日)は、日本の海軍軍人、戦史研究家。最終階級は海軍中将。 広島県広島市安佐北区出身。農業・醤油製造業の新見千五郎の二男として誕生。妻の澄子は小林躋造海軍大将の妹。旧制広島県立忠海中学校より海軍兵学校第36期入校。席次は入校時200名中35番、卒業時191名中14番。同期生の水戸春造海軍中将は中学同窓でもある。新見は海軍砲術学校高等科を修了し、同校教官を務めた砲術専攻士官であり、またオックスフォード大学で国際法を学んだ日本海軍有数の知英派である。 駐英武官補佐官在任中に第一次世界大戦の戦史研究を行い、帰国後『海軍中央軍令機関整備ノ意見書』および『持久戦ニ関スル意見書』を当局に提出した。
井上 三郎(いのうえ さぶろう、1887年(明治20年)2月… 井上 三郎(いのうえ さぶろう、1887年(明治20年)2月6日 - 1959年(昭和34年)6月4日)は、日本陸軍の軍人、最終階級は陸軍少将。貴族院議員。侯爵。桂太郎の次男。井上馨は義理の祖父に当たる。
馬越 喜七(まこし きしち、1887年〈明治20年〉2月1日… 馬越 喜七(まこし きしち、1887年〈明治20年〉2月1日 - 1930年〈昭和5年〉9月20日)は、日本の海軍軍人。海軍航空草創期の搭乗員の一人であり、海軍初期国産機の製作に携わった。最終階級は海軍中佐。 愛媛県に生まれる。大洲中学校を経て1909年(明治42年)11月19日海軍兵学校(37期)を卒業、1911年(明治44年)2月27日海軍少尉任官。1912年(大正元年)中尉任官、1914年(大正3年)3月海軍航空術研究委員会練習将校(3期生)。同年の青島攻囲戦では水上機母艦若宮飛行隊に所属した。 帰国後は飛行高度・滞空時間の記録を樹て、海軍初期の国産機開発・生産に携わった。1916年(大正5年)12月1日大尉、1922年(大正11年)少佐、1927年(昭和2年)11月29日中佐に昇任したが、病を得て1930年(昭和5年)1月15日に予備役に編入され、同年9月20日に没した。
太田 泰治(おおた たいじ、1887年1月25日 - 196… 太田 泰治(おおた たいじ、1887年1月25日 - 1960年2月12日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 岡山県出身。太田吉三郎の二男として生れる。岡山津山中学校を経て、1909年11月、海軍兵学校(37期)を卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。1916年12月、海軍砲術学校高等科を卒業し、以後、「薩摩」「浅間」「扶桑」の各分隊長、「澤風」砲術長、東郷平八郎元帥付副官、「三日月」「初雪」の各駆逐艦長、横須賀鎮守府参謀、海軍省軍務局員などを経て、1926年6月から翌年1月にかけて欧米に出張した。 人事局員(第1課)、「加古」「榛名」の各副長、運送艦「洲埼」・「大井」・「浅間」の各艦長、軍務局第2課長などを歴任し、1936年12月、海軍少将に進級した。
坂口 静夫(さかぐち しずお、1887年1月17日 - 19… 坂口 静夫(さかぐち しずお、1887年1月17日 - 1947年3月23日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本藩士・坂口騏十郎の三男として生まれる。中学済々黌を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、陸軍少尉に任官。 1920年8月、歩兵第48連隊中隊長に就任し、陸軍兵器本廠員、陸士予科中隊長などを経て、1925年4月、近衛歩兵第3連隊付(東京府立第二中学校配属将校)となる。歩兵第27連隊付、第1師団司令部付、第7師団副官、歩兵第24連隊付、独立守備歩兵第9大隊長などを歴任し、1937年8月、陸軍大佐に昇進。 1937年11月、第16師団司令部付(第三高等学校配属将校)となり、歩兵第109連隊長を経て、1939年9月、陸軍少将に進級。
松田 竹太郎(まつだ たけたろう、1887年(明治20年)1… 松田 竹太郎(まつだ たけたろう、1887年(明治20年)1月16日 - 1944年(昭和19年)5月8日)は、日本の工学者・海軍軍人。最終階級は、海軍少将。 東京府立工業奨励館・東京商工奨励館館長などを歴任。
熊岡 譲(くまおか ゆずる、1887年(明治20年) - 1… 熊岡 譲(くまおか ゆずる、1887年(明治20年) - 1945年(昭和20年)6月16日)は、日本の海軍軍人。海軍潜水学校校長。潜水戦隊司令官を歴任。最終階級は海軍中将。 静岡県出身。静岡中学校を経て、1908年(明治41年)11月、海軍兵学校(36期)卒業。1910年1月、海軍少尉任官。1911年(明治44年)12月、海軍中尉、1913年(大正2年)12月、海軍大学校乙種学生、1914年(大正3年)12月、海軍大尉、1917年(大正6年)12月、海軍大学校入学(甲種学生)、1919年(大正8年)12月、海軍大学校甲種17期卒業・呂号第十三潜水艦艦長。1920年(大正9年)12月、海軍少佐、1924年(大正13年)12月、海軍中佐・第十四潜水隊司令、1929年(昭和4年)11月、海軍大佐、1935年(昭和10年)11月、海軍少将・海軍艦政本部第六部長、1936年(昭和11年)8月、第3潜水戦隊司令官、1937年(昭和12年)12月、第1潜水戦隊司令官、1938年(昭和13年)11月、海軍潜水学校校長。
蔭山 貞吉(かげやま さだきち、1886年〈明治19年〉12… 蔭山 貞吉(かげやま さだきち、1886年〈明治19年〉12月27日 - 1950年〈昭和25年〉6月13日)は、日本の政治家、陸軍軍人。衆議院議員(3期)。旧姓・橘。 大阪府川辺郡、のちの小田村(現尼崎市)の橘家に生まれ、1917年(大正6年)蔭山しな の養子となり、1918年(大正7年)家督を相続した。 1907年(明治40年)陸軍士官学校(19期)卒。卒業後、京都帝国大学に派遣され、政治、経済学を学ぶ。陸軍歩兵少佐に進み大阪歩兵第8連隊大隊長となり退官した。その後、全国土地区画整理組合顧問、三和特殊製鋼、阪神急行自動車、日ノ丸無尽各(株)重役、(株)日本造機所社長となる。 1928年の第16回衆議院議員総選挙において兵庫2区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが次点で落選。
喜多 誠一(きた せいいち、1886年〈明治19年〉12月2… 喜多 誠一(きた せいいち、1886年〈明治19年〉12月20日 - 1947年〈昭和22年〉8月7日)は、日本の陸軍軍人。陸士19期・陸大31期。最終階級は陸軍大将、栄典は正三位[要出典]勲一等功四級。 滋賀県出身。喜多三郎の子として生まれる。滋賀二中(現・滋賀県立膳所高等学校)を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第36連隊付となる。天津駐屯歩兵隊付などを経て、1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業した。 1920年(大正9年)2月、歩兵第68連隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員、参謀本部付(支那駐在)、歩兵第19連隊大隊長などを歴任。
徳川 圀順(とくがわ くにゆき、1886年(明治19年)12… 徳川 圀順(とくがわ くにゆき、1886年(明治19年)12月13日 - 1969年(昭和44年)11月17日)は、日本の華族、政治家、陸軍軍人。水戸徳川家第13代当主。貴族院議長、日本赤十字社社長を務める。階級は陸軍歩兵少尉、爵位は侯爵、のち公爵。徳川光圀以来編纂を続けていた歴史書『大日本史』を完成させる。字は子行、号は涛山、諡号は明公。
佐藤 脩(さとう おさむ、1886年(明治19年)12月5日… 佐藤 脩(さとう おさむ、1886年(明治19年)12月5日 - 1974年(昭和49年)12月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。日本海軍の中華民国専門家である。旧姓古川。 横浜市出身。本籍は青森県にあった。横浜一中を経て、海軍兵学校に首席入校。1907年(明治40年)卒業。席次は172人中26番。佐藤は海兵35期の一人である。1913年(大正2年)12月大尉へ進級し、「薩摩」分隊長。翌年海軍大学校(以下「海大」)専修学生を修了し、航海科専攻士官となる。佐藤は6艦で航海長を務めた。 1919年(大正8年)、海大甲種学生に入校(19期)。海大同期に草鹿任一、小沢治三郎がいる。1922年(大正12年)砲艦・「伏見」艦長となる(階級は少佐)。
河辺 正三(かわべ まさかず、1886年(明治19年)12月… 河辺 正三(かわべ まさかず、1886年(明治19年)12月5日 - 1965年(昭和40年)3月2日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。 1886年(明治19年)12月、富山県礪波郡苗加村(東礪波郡東野尻村、砺波町を経て現砺波市)に河辺純三の三男として生まれる。終戦時の参謀次長河辺虎四郎中将(陸士24期、陸大33期優等)、瀧田俊吾軍医大佐は実弟である。1905年(明治38年)に正三、虎四郎兄弟は陸軍士官学校、名古屋陸軍幼年学校に合格している。兄弟は草鞋ばきでそれぞれの受験地金沢までの往復を共にした。 旧制高岡中学校を経て、陸軍士官学校(19期)、陸軍大学校(27期優等)卒業。 1907年(明治40年)12月26日、歩兵少尉に任官して 石川県野田村に駐屯していた歩兵第35聯隊附から軍歴をはじめて以降、主要な経歴として名古屋歩兵第6連隊長、教育総監部第一課長、支那駐屯歩兵旅団長、第3軍司令官、支那派遣軍総参謀長、緬甸方面軍司令官、中部軍司令官、航空総軍司令官、第1総軍司令官、第1復員司令官を歴任した。
上月 良夫(こうづき よしお、1886年11月7日 - 19… 上月 良夫(こうづき よしお、1886年11月7日 - 1971年4月3日)は、日本の陸軍軍人、陸軍中将。熊本県出身。陸士21期、陸大29期。
木下 敏(きのした はやし、1886年(明治19年)11月5… 木下 敏(きのした はやし、1886年(明治19年)11月5日 - 1969年(昭和44年)10月26日)は、日本陸軍の軍人。陸士20期、陸大29期(優等)。栄典は従三位勲一等。最終階級は陸軍中将。 旧和歌山藩士・木下文次郎の長男として生まれる。和歌山中学、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1908年(明治41年)5月、陸軍士官学校(20期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第8連隊附となる。1917年(大正6年)11月、陸軍大学校(29期)を優等で卒業した。 1918年(大正7年)7月、陸士附となり、陸士教官、フランス駐在、陸軍歩兵学校教官を歴任。1923年(大正12年)8月、歩兵少佐に昇進。
井上 貞衛(いのうえ さだえ、1886年(明治19年)11月… 井上 貞衛(いのうえ さだえ、1886年(明治19年)11月5日 - 1961年(昭和36年)10月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本県出身、本籍は高知県。熊本県警部・井上作郎の三男として生れる。中学済々黌を中退、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1908年5月、陸軍士官学校(20期)を卒業、同年12月、歩兵少尉に任官し、歩兵第53連隊付となった。 歩兵第44連隊中隊長としてシベリア出兵に参加。同連隊大隊副官、第11師団司令部付、同師団副官、歩兵第12連隊大隊長、歩兵第10旅団副官、横浜高等工業学校配属将校、独立守備歩兵第3大隊長、歩兵第5連隊長などを経て、1939年3月、陸軍少将に進級。
関 亀治(せき かめはる、1886年(明治19年)11月3日… 関 亀治(せき かめはる、1886年(明治19年)11月3日 - 1969年(昭和44年)4月5日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 兵庫県出身。柏原中学校を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となる。陸士生徒隊付などを経て、1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。 参謀本部付勤務、参謀本部員(兵站班)、陸軍兵器本廠付、アメリカ駐在、兵器本廠付、陸軍省整備局課員などを歴任し、1927年(昭和2年)7月、歩兵中佐に進級。1929年(昭和4年)12月、兵器本廠付に発令され陸大専攻学生となった。
佐藤 正四郎(さとう せいしろう、1886年(明治19年)1… 佐藤 正四郎(さとう せいしろう、1886年(明治19年)10月25日 - 1958年(昭和33年)7月7日)は、日本の海軍軍人。二・二六事件において、東京に出動した海軍陸戦隊の指揮官を務めた。最終階級は海軍少将である。 新潟県出身。長岡中学から海軍兵学校に進む。病気のため留年し、37期生として卒業した。席次は179人中172番。同期生に井上成美、草鹿任一、小澤治三郎らがいる。 尉官時代は「三笠」、「日進」、「春風」、「明石」、「朝日」、「榛名」乗組。大尉進級後「生駒」分隊長、「伊勢」艤装員、「陸奥」副砲長、「大井」砲術長の艦船勤務の他、海軍砲術学校及び海軍水雷学校普通科学生を修了した。 少佐に昇進後、「長良」、「日向」及び「長門」の各砲術長、「榛名」及び「赤城」の各副長。
島津 忠重(しまづ ただしげ、1886年〈明治19年〉10月… 島津 忠重(しまづ ただしげ、1886年〈明治19年〉10月20日 - 1968年〈昭和43年〉4月9日)は、日本の海軍軍人、貴族院議員。 島津氏第30代当主。島津忠義の四男であるが、兄たちの早世によりその嫡男(跡取り)となる。海軍少将正二位勲一等公爵。神号は「島津忠重命」。幼名は秀丸。 姉は邦彦王妃俔子で、香淳皇后の叔父にあたり、第125代天皇明仁の大叔父にあたる。 仙巌園で生まれ、幼少時代を過ごし、島津家庭尋常小学校(忠重とその兄弟が通うための学校)に通う。1898年(明治31年)2月1日、父・忠義の薨去により家督を相続し、公爵を襲爵する。叔父の島津珍彦が後見人となる。ほどなく鹿児島より上京し、学習院に編入学する。
小沢 治三郎(旧字体: 小澤 治三郞、おざわ じさぶろう、1… 小沢 治三郎(旧字体: 小澤 治三郞、おざわ じさぶろう、1886年(明治19年)10月2日 - 1966年(昭和41年)11月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海兵37期。第31代となる最後の連合艦隊司令長官を務めた。 1886年(明治19年)10月2日、宮崎県児湯郡高鍋町24で元高鍋藩士の小沢寅太郎とヤツの次男として生まれる。宮崎中学(現・県立宮崎大宮高校)に在学中、不良青年と争いになり柔道の投げ技で撃退したが、暴力沙汰として退学処分となる。陸軍軍人だった兄・宇一郎の上官・牛島貞雄から日露戦争の戦場満州より「過ちを改むるに憚ること勿れ」(論語 学而第一 8からの引用)の手紙を送られた事をきっかけに上京し、1905年に成城中学校へ転入した。
池田 水藻(いけだ みずも、1886年(明治19年)10月1… 池田 水藻(いけだ みずも、1886年(明治19年)10月1日 - 1967年(昭和46年)12月27日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県川辺郡平山村(川辺村平山、川辺町平山を経て、現在の南九州市川辺町平山)出身。陸軍士官学校第19期、陸軍大学校第30期卒業。1923年(大正12年)8月、陸軍歩兵少佐に進級し、同年9月時点で歩兵第30連隊大隊長の任にあった。1925年(大正14年)12月に第14師団参謀に転じ、1928年(昭和3年)3月8日に歩兵第63連隊附となり、松江高等学校に配属された。同年3月24日には陸軍歩兵中佐に進級し、1931年(昭和6年)3月には学校配属を解かれ、歩兵第63連隊附となり、1932年(昭和7年)5月に高崎連隊区司令官に着任し、6月には陸軍歩兵大佐に進級した。
近藤 信竹(こんどう のぶたけ、1886年(明治19年)9月… 近藤 信竹(こんどう のぶたけ、1886年(明治19年)9月25日 - 1953年(昭和28年)2月19日)は、日本の海軍軍人。海兵35期首席・海大17期。最終階級は海軍大将。 1886年9月25日、大阪府で近藤堅三の次男として生まれる。天王寺中学を経て、海兵35期。入校時の席次は114番、2年次は6番、3,4年次は首席。同期に高須四郎、野村直邦らがいる。1907年11月20日、35期を首席で卒業、少尉候補生となる。1908年12月25日、海軍少尉に任官。 1923年12月1日、海軍中佐に進級。1924年(大正13年)2月5日、東宮武官(侍従武官兼務)に任命され、翌日には摂政宮・皇太子(昭和天皇、当時23歳)と皇太子妃(香淳皇后)に謁見する。
南雲 親一郎(なぐも しんいちろう、1886年(明治19年)… 南雲 親一郎(なぐも しんいちろう、1886年(明治19年)9月19日 - 1963年(昭和38年)11月18日(22日とも))は、日本および満州国の陸軍軍人。陸士19期卒(歩兵)。日本陸軍では長く教育畑におり、満洲国軍でも陸軍軍官学校長を務めた。最終階級は陸軍少将、満州国軍中将。 1886年(明治19年)に山形県南置賜郡笹野村(現在の米沢市笹野)で南雲親吉の次男として生まれた。 米沢尋常中学興譲館を経て、1907年(明治40年)5月31日、陸軍士官学校第19期卒業。歩兵第32連隊より会津の歩兵第65連隊に転じたのち少尉任官。陸軍戸山学校、陸軍歩兵学校、陸士区隊長(27期担当)を経て1921年(大正10年)7月、久邇宮邦久王の訓育中隊長兼教育主任を担当。
千田 修二(せんだ しゅうじ、1886年(明治19年)9月1… 千田 修二(せんだ しゅうじ、1886年(明治19年)9月15日 - 1965年(昭和40年))は日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍少佐。西本組(後の三井建設、現三井住友建設)社長。 和歌山県那賀郡粉河町(現紀の川市)出身。1905年(明治38年)海軍兵学校入学、1908年(明治41年)卒業(36期)。結婚後に西本組に入社して本店勤務、京城支店長。 1933年(昭和8年)12月27日、朝鮮土木談合事件において京城地方法院から詐欺で懲役1年の実刑判決。1936年(昭和11年)2月17日、京城高等法院は上告棄却、確定。これにより後備役海軍少佐を失官、正六位を失位、勲四等及び大正三四年従軍記章/大正三年乃至九年戦役従軍記章戦捷記章、大礼記念章(大正/昭和)を褫奪された。
長崎 守一(ながさき もりいち、1886年(明治19年)9月… 長崎 守一(ながさき もりいち、1886年(明治19年)9月12日 - 1968年(昭和43年)6月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。士候21期。阿部平輔陸軍中将、冨永信政陸軍大将、石原莞爾陸軍中将とは同期。栄典は従四位勲二等功四級。
加藤 保太郎(かとう やすたろう、明治19年(1886年)9… 加藤 保太郎(かとう やすたろう、明治19年(1886年)9月11日 - 昭和43年(1968年)8月19日)は大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 滋賀県犬上郡豊郷村四十九院の農家、加藤甚弥・ふさの次男に生まれ、苦学して彦根中学卒業後、陸軍軍人となる。陸士同期に石原莞爾、飯村穣、陸大同期に井出宣時、町尻量基、後宮淳、牟田口廉也らがいる。「先入主に陥らぬこと」を旨とし、一貫して英米との協調路線を説いた。
中島 鉄蔵(なかじま てつぞう、旧字体: 中島 鐵藏、188… 中島 鉄蔵(なかじま てつぞう、旧字体: 中島 鐵藏、1886年9月10日 - 1949年7月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は、陸軍中将。栄典は、従三位[要出典]勲一等功三級。 山形県米沢市木場町出身。1905年11月、陸軍士官学校(18期)を卒業、翌年3月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第29連隊附となる。1918年11月、陸軍大学校(30期、同じ山形県出身の石原莞爾と同期)を卒業した。 戦術研究に才覚を現し、1919年陸軍歩兵学校教官、1921年フランス駐在武官、1926年12月陸軍大学校兵学教官を歴任。1930年8月陸軍歩兵大佐に陞進、参謀本部戦史課長。1931年8月歩兵第77連隊長。1933年3月陸軍歩兵学校教導隊長、同年8月侍従武官。
磯谷 廉介(いそがい れんすけ、1886年〈明治19年〉9月… 磯谷 廉介(いそがい れんすけ、1886年〈明治19年〉9月3日 - 1967年〈昭和42年〉6月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争期に日本占領下の香港で総督を務めた。 兵庫県出身。旧篠山藩士・磯谷次郎の三男として生れる。私立尋常中学鳳鳴義塾、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(第16期)を卒業。同期に板垣征四郎・土肥原賢二がいる。翌月、歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となった。1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を卒業し歩兵第20連隊中隊長に就任。 1916年(大正5年)8月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付(広東駐在)、歩兵第13連隊付(広東駐在)、歩兵第13連隊大隊長を歴任し、1922年(大正11年)12月に帰国。
大川内 傳七(大川内 伝七、おおかわち でんしち、1886年… 大川内 傳七(大川内 伝七、おおかわち でんしち、1886年〈明治19年〉9月2日 - 1958年〈昭和33年〉2月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。佐賀県塩田町出身。 軍歌『比島決戦の歌』で「海に鉄血大川内」と歌われていることで知られる。 旧制佐賀県立鹿島中学校より海軍兵学校37期入校。大川内の奉職履歴で他の海軍将校と際立って異なるのは、自身を含め練習艦隊に4度参加していることである。 1936年(昭和11年)、上海の日本租界の警備にあたる上海海軍特別陸戦隊の司令官に就任。在職中の翌1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発した。国際都市である上海を重視する中国国民党軍は、上海駐留の日本軍が手薄な状態なのに乗じて攻撃をかけた(第二次上海事変)。
酒井 忠純(さかい ただひさ、1886年(明治19年)8月2… 酒井 忠純(さかい ただひさ、1886年(明治19年)8月25日 - 1964年(昭和39年)7月5日)は、昭和時代前期の銀行家、軍人、陸軍中尉・従七位、考古学研究家。荘内銀行初代頭取。庄内民俗学会会長、山形県文化財保護協会理事。幼名は徳太郎、号は松堂。 最後の藩主である酒井忠宝の長男として鶴岡郊外大宝寺村(現:鶴岡市)で生まれる。若い頃から考古学に興味を持ち、庄内各地を踏査し、史料収集につとめ、長年にわたり遺跡・遺物の調査と保存につとめた。その一方で、金融界でも活躍し、1939年(昭和14年)9月に菅實のあとを受け、六十七銀行頭取に就任し、41年4月には合併後の荘内銀行頭取に推され、44年10月まで在任し、48年10月までは会長を務めた。
国崎 登(くにさき のぼる、1886年(明治19年)8月20… 国崎 登(くにさき のぼる、1886年(明治19年)8月20日 - 1960年(昭和35年)11月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。