小川 欽也(おがわ きんや、1934年12月28日 - 20… 小川 欽也(おがわ きんや、1934年12月28日 - 2024年12月10日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優、映画プロデューサーである。監督としての別名に三川 和久(みかわ かずひさ)、小川 卓寛(おかわ たかひろ)、小川 和久(おかわ かずひさ)、上田 光生(うえだ みつお)があり、俳優としては姿 良三(すがた りょうぞう)、脚本家としては水谷 一二三(みずたに ひふみ)と名乗る。成人映画の黎明期からの映画作家として知られ、異分野で活躍する山本晋也を除けば、成人映画の世界で長く現役として作品を発表し続けた人物であった。監督作は400本を超える。 1934年(昭和9年)12月28日、京都府京都市下京区烏丸通綾小路下ルに生まれる。
藤井 克彦(ふじい かつひこ、1934年12月20日 - 2… 藤井 克彦(ふじい かつひこ、1934年12月20日 - 2023年10月28日)は、日本の映画監督。広島県広島市平野町(現・中区)出身。 1945年8月6日の広島の原爆投下時は、広島市郊外の国民学校にいて被爆は免れたが、幼い目で"ピカドン"を目撃し、大きなショックを受ける。作品にはうかがえないが、原爆の切実な体験は創造行為のテーマとして結実できないか、という自問自答を持ち続けた。終戦後、東京自由が丘の本籍地へ移る。目黒区立緑ヶ丘小学校卒業後、新制中学校の第一期生として、目黒区立第十一中学校に入学。実家の近くにあった映画館「南風座」などで活劇ほかに親しむ。東京都立小山台高校~1958年慶應義塾大学文学部卒。
小山 幹夫(こやま みきお、1934年12月7日 - )は日… 小山 幹夫(こやま みきお、1934年12月7日 - )は日本の映画監督、テレビディレクター、舞台演出家、脚本家、日本映画監督協会会員。日本大学芸術学部映画科卒業、神奈川県茅ヶ崎市出身。福島県西白河郡矢吹町在住。 神奈川県茅ヶ崎市生まれ。神奈川県立湘南高等学校、日本大学芸術学部映画科を卒業。 1957年(昭和32年)東映東京撮影所の助監督として入社。関川秀雄、佐伯清、深作欣二らに師事。 1965年(昭和40年)東映東京撮影所・監督に昇進。初監督作品は藤田まこと主演映画『喜劇・一発かましたれ!』、キャッチコピー「昼はサラリーマン、夜はギャングのボス!腰抜け社員で笑わせて、恐いギャングでまた笑わせる、爆笑必至の底抜けコメディー!!」。
おおすみ 正秋(おおすみ まさあき、1934年11月26日 … おおすみ 正秋(おおすみ まさあき、1934年11月26日 - )は、日本の演出家、映画監督である。旧表記・本名は大隅 正秋(読みは同じ)。 兵庫県出身。東京工科大学大学院メディア学研究科メディア学専攻修士課程修了。東京工科大学片柳研究所クリエイティブアドバイザー。 1934年(昭和9年)、兵庫県芦屋市に生まれる。 兄とともに人形劇団「神戸人形芸術劇場」を主宰。人形劇の「ひとみ座」出身者の藤岡豊らが結成した東京ムービーに参加してからはアニメの演出を手がけるようになり、その初期に活躍した。 その後、日本テレビ動画の『アニメドキュメント ミュンヘンへの道』(1972年)、創映社の『ラ・セーヌの星』(1975年)や『ろぼっ子ビートン』(1976年 - 1977年)、NHK『子鹿物語』(1983年)、劇場用アニメ映画『走れメロス』(1992年)なども手がけた。
東 陽一(ひがし よういち、1934年11月14日 - 20… 東 陽一(ひがし よういち、1934年11月14日 - 2026年1月21日)は、日本の映画監督、脚本家。和歌山県紀美野町出身。早稲田大学第一文学部英文学科卒。 早稲田大学卒業後、岩波映画製作所に入社し、助監督として多く黒木和雄作品についたが、1962年、助監督のまま退社してフリーランスとなり、短編映画『A FACE』(1963年)で監督デビューした。長編第一作はさまざまな論議を呼んだドキュメンタリー作品『沖縄列島』(1969年)。つづく初の劇映画『やさしいにっぽん人』(1971年)で日本映画監督協会新人賞を受賞、劇映画三作目の『サード』(1978年)では第52回キネマ旬報ベストワン、第21回ブルーリボン賞作品賞、芸術選奨文部大臣新人賞などを受賞し、映画監督としての地歩を固めた。
宮崎 晃(みやざき あきら、1934年10月27日 - 20… 宮崎 晃(みやざき あきら、1934年10月27日 - 2018年11月25日)は、日本の映画監督、脚本家。東京市(現東京都)荒川区出身。 1934年、東京市荒川区日暮里に生まれる。東京都立北園高等学校を卒業後、出版社で働くかたわら新劇の演出家を志す。4年間の社会人生活の後、東京外国語大学ロシア語科へ入学。 1961年、大学卒業と同時に松竹大船撮影所の助監督試験に合格して入社。野村芳太郎や山田洋次の助監督を務める。山田作品の多くでは脚本も共同執筆、『男はつらいよ』シリーズにも第2~6作、第11作に参加した。1971年、「泣いてたまるか」で監督デビュー。1975年、戯曲『青い鳥』をベースにした『想い出のかたすみに』監督。
三保 敬太郎(みほ けいたろう、1934年10月17日 - … 三保 敬太郎(みほ けいたろう、1934年10月17日 - 1986年5月16日)は、東京都出身の作曲家、編曲家、ジャズピアニスト、レーシングドライバー、俳優、映画監督。 妻はボーカリストの宮崎正子。 鮎川義介の懐刀で満州重工業開発理事や日本コロムビア社長などを歴任した三保幹太郎の息子。高校時代から、ピアニストの守安祥太郎に師事し、在学中の1950年に「クール・ノーツ」でプロデビュー。慶應義塾大学卒業後は、トミー・パーマー・オーケストラなどでピアニストとして活動。1959年4月、前田憲男、山屋清と「モダンジャズ3人の会」を結成。同年『モグラの唄』で芸術祭奨励賞受賞。1961年、日本ジャズ界の作・編曲分野に大きく貢献し、2度目の芸術祭奨励賞を受賞。
梅沢 薫(うめざわ かおる、1934年9月10日 - 199… 梅沢 薫(うめざわ かおる、1934年9月10日 - 1998年12月26日)は、日本の映画監督、脚本家である。元俳優。1966年(昭和41年) - 1979年(昭和54年)の一時期、東元 薫(とうもと かおる)と名のったことがある。その初期には東本 薫とクレジットされた作品もあり、1972年(昭和47年) - 1974年(昭和49年)の一時期黒木 剛(くろき ごう)の名で監督、小泉 大介(こいずみ だいすけ)の名で脚本を書いたこともある。 1934年(昭和9年)9月10日、新潟県高田市(現在の同県上越市)に生まれる。 長じて東京に移り早稲田大学に進学したが、中途退学する。当初は俳優を志しており、日本文化協会(NBK)という劇団に所属、同劇団には野上正義(1940年 - 2010年)らがいた。
降旗 康男(ふるはた やすお、1934年8月19日 - )は… 降旗 康男(ふるはた やすお、1934年8月19日 - )は、日本の映画監督である。長野県松本市出身。
中島 貞夫(なかじま さだお、1934年(昭和9年)8月8日… 中島 貞夫(なかじま さだお、1934年(昭和9年)8月8日 - )は、日本の映画監督・脚本家。
山内 鉄也(やまのうち てつや、1934年7月20日 - 2… 山内 鉄也(やまのうち てつや、1934年7月20日 - 2010年4月2日)は、映画監督、テレビ演出家、脚本家。広島県広島市生まれ。テレビ時代劇『水戸黄門』『大岡越前』のメイン監督。 叔父は時代小説作家の白井喬二。少年時代はずっと映画が大好きで、中学生の時から映画界に入りたいと思っていた。広島市立舟入高等学校から中央大学経済学部に進み1957年に卒業し、東映に入社。時代劇が好きだったことから京都行きを希望し、京都撮影所の助監督となり、内田吐夢監督作品『大菩薩峠』(1957年)を皮切りに、伊藤大輔、松田定次、マキノ雅弘、加藤泰、工藤栄一監督らの時代劇に就く。またマキノの東映版・次郎長三国志シリーズ4作品の共同脚本も手がけた。
加藤 彰(かとう あきら、1934年5月9日 - 2011年… 加藤 彰(かとう あきら、1934年5月9日 - 2011年4月8日)は日本の映画監督。 東京都立小石川高等学校、日本大学藝術学部映画学科卒業。後に、日活の社長になる根本悌二は小石川高校の同級生。日活に入社し中平康に師事する。日活ロマンポルノの全盛期を支えた監督の一人である。その後はテレビドラマを中心に活動していた。
山本 邦彦(やまもと くにひこ、1934年4月18日 - )… 山本 邦彦(やまもと くにひこ、1934年4月18日 - )は日本の映画監督、脚本家。
渡辺 邦彦(わたなべ くにひこ、1934年3月17日 - 2… 渡辺 邦彦(わたなべ くにひこ、1934年3月17日 - 2017年3月28日)は日本の映画監督。京都府京都市出身。
網野 鉦一(あみの しょういち、1934年1月30日 - 2… 網野 鉦一(あみの しょういち、1934年1月30日 - 2006年1月17日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、養成学校経営者である。網野映画株式会社、網野学園株式会社代表。日本映画監督協会物故会員。 1934年(昭和9年)1月30日、千葉県に生まれる。 1952年(昭和27年)3月、千葉県立長生高等学校を卒業、その後1956年(昭和31年)、満22歳のときに脚本家になった。日本映画監督協会公式ウェブサイトの網野の項目には、その6年後の1962年(昭和37年)に「新東宝映画演出部入社」と記載されているが、新東宝は前年1961年(昭和36年)8月31日に倒産しており、製作部門はその年の11月15日に切り離されて、ニッポン・アートフィルム・カンパニー(NAC)になっており、同年に同社が「新東宝」の名で製作したものは、2月11日公開の『俺が裁くんだ』(監督橋田寿久年、配給日活)、6月3日公開の『悲しみはいつも母に』(監督中川信夫、配給大映)の2作のみで、現在の新東宝映画の前身である新東宝興業が映画を製作するのは1963年(昭和38年)6月22日に公開された『日本残酷物語』(監督中川信夫・小森白・高橋典)を待つことになる。
折田 至(おりた いたる、1934年1月3日 - 2006年… 折田 至(おりた いたる、1934年1月3日 - 2006年9月27日)は、映画監督、演出家、テレビプロデューサー、UFO研究家、発明家。アイデア開発研究所代表、発明協会会員。鹿児島県鹿児島市出身。千葉大学工学部工業化学科(写真映画専攻)卒業。 1958年に東映に入社し、助監督として配属された東映京都撮影所を経て、1965年より東映東京制作所に所属する。『丸出だめ夫』・『悪魔くん』・仮面ライダーシリーズなど、特撮テレビドラマの監督として活躍した後、1978年には東映テレビ事業部プロデューサーに昇進し、スーパー戦隊シリーズの『バトルフィーバーJ』からはプロデューサーとして東映キャラクター路線を支える。
大津 幸四郎(おおつ こうしろう、1934年 - 2014年… 大津 幸四郎(おおつ こうしろう、1934年 - 2014年11月28日)は、日本の映画監督、撮影監督である。 1934年、静岡県に生まれる。1958年、静岡大学文理学部を卒業し、岩波映画製作所に入社。1963年、同社を退社し、フリーランスのキャメラマンに転身。土本典昭や小川紳介の監督によるドキュメンタリー映画で撮影を手がけた。2014年、代島治彦との共同監督による『三里塚に生きる』が公開される。 2014年11月28日午前0時9分、肺がんのため東京都足立区内の病院で死去。80歳没。
諏訪 淳(すわ あつし、1933年12月23日 - 没年不明… 諏訪 淳(すわ あつし、1933年12月23日 - 没年不明)は、日本の映画監督。 長野県諏訪郡下諏訪町出身。実家は代々教師の多い家系。中学時代から演劇に興味を持ち、脚本を書いて仲間と舞台作品を発表。長野県諏訪清陵高等学校時代は映画鑑賞して友人と語り合った。東京芸術大学を経て、成城大学経済学部在学中に演劇部に所属、映画美術助手として水谷浩、下河原友雄に師事。美術では限界があり、大監督の作品に満足できなくなり、監督を目指すようになり、契約助監督となる。1959年同大学卒業後、岩波映画製作所入社。羽仁進、羽田澄子らの助監督を務める。1965年『道程』で初監督。1995年同社社長に就任。その後、岩波映像販売社長、岩波映像会長を務める。
吉松 安弘(よしまつ やすひろ、1933年11月24日 - … 吉松 安弘(よしまつ やすひろ、1933年11月24日 - )は日本の映画監督、脚本家。元帝京大学教授。専門は表象文化、比較民俗学。 1933年に東京都で生まれる。1957年に東京大学教育学部を卒業後、東宝撮影所に助監督として入社する。黒澤明などのもとで下積みをした後、1973年に東宝を映画監督として契約し退社した。そして、映画『さえてるやつら』を発表し監督デビューする。1976年には文化庁芸術家在外研修員としてニューヨーク大学などに留学した。また、脚本家、ノンフィクション作家としても著作を発表する。後に帝京大学短期大学情報ビジネス学科教授として教育・研究に従事し、日本映画監督協会理事などを歴任した。
須藤 久(すどう ひさし、1933年10月18日 - 201… 須藤 久(すどう ひさし、1933年10月18日 - 2017年1月2日)は、日本の映画監督、脚本家、映画評論家、思想評論家。 ドキュメンタリー映画や思想や生き方についての評論集の著作を数多く輩出している。 大阪府生まれ、幼少期に山口県下関市に移住、戦時中に川棚温泉に疎開後、再び下関市に戻り旧制豊浦中学に入学、学校制度の変更後山口県立豊浦高等学校在学中、新聞部に所属、山口県秋吉台でおこなわれた1泊2日の反戦・平和キャンプ集会に参加、県警警備部刑事の撮影した写真によって参加が学校に明るみに出て、反省文を提出すれば無期停学にするという学校の処分を、何もやましい事がないのに反省文は出せないと拒否し、強制退学となる。
山本 迪夫(やまもと みちお、1933年7月6日 - 200… 山本 迪夫(やまもと みちお、1933年7月6日 - 2004年8月23日)は、日本の映画監督。 新潟県長岡市出身。新潟県立長岡高等学校を経て早稲田大学卒業後、1956年に東宝に入社。岡本喜八の助監督を多く務め、1966年に『遊撃戦』でテレビドラマ監督としてデビュー。1969年には三橋達也主演のアクション映画『野獣の復活』で劇場用映画を初監督する。女性スリラー映画を得意とした。 代表作は、『幽霊屋敷の恐怖 血を吸う人形』(1970年)、『呪いの館 血を吸う眼』(1971年)、『血を吸う薔薇』(1974年)の3本からなる血を吸うシリーズ。日本の風土に吸血鬼ならびにヨーロッパのゴシック的ムードを大胆に導入し、さらに演出もハマー・フィルムを思わせるショッカー演出で、日本のホラー映画史でもひときわ異彩を放つものになっている。
小泉 修吉(こいずみ しゅうきち、1933年6月7日 - 2… 小泉 修吉(こいずみ しゅうきち、1933年6月7日 - 2014年11月12日)は、ドキュメンタリー映画監督、プロデューサー。 ドキュメンタリー映像制作会社「グループ現代」元・代表取締役会長。神奈川県横浜市生まれ。 「民族文化映像研究所」取締役事務局長。「環境テレビトラスト日本委員会(TVEジャパン)」委員長。 父は、映画監督・記録映画作家の上村修吉。義妹は、滋賀県環境生活協同組合理事長、NPO法人「菜の花プロジェクトネットワーク」代表の藤井絢子(ふじい あやこ)。 早稲田大学文学部ロシア文学科卒業。上野耕三の「記録映画社」を経て、フリーのドキュメンタリー映画ディレクターとなる。 レイチェル・カーソンの『沈黙の春』 に啓発され、1967年、農村医学の先駆者である、長野県の佐久総合病院の若月俊一院長の協力を得て、自主制作映画『農薬禍』を制作・演出。
林 功(はやし いさお、1933年5月28日 - 没年不明)… 林 功(はやし いさお、1933年5月28日 - 没年不明)は日本の映画監督、映画プロデューサー、俳優。 東京都出身。1956年、早稲田大学教育学部卒業。大仁東映と日活で働いている間、多くのコメディ、犯罪、冒険と歴史を題材とした作品を撮った。また、各映画に出演し、中平康、鈴木清順、舛田利雄、鍛冶昇などの他の監督と協力した。 時期は不明だが会員である日本映画監督協会公式サイトでは物故者となっている。
伊丹 十三(いたみ じゅうぞう、1933年5月15日 - 1… 伊丹 十三(いたみ じゅうぞう、1933年5月15日 - 1997年12月20日)は、日本の映画監督・俳優・脚本家・エッセイスト。本名は池内 義弘(いけうち よしひろ)。雑誌編集長・商業デザイナー・イラストレーター・CMプランナー・ドキュメンタリー映像作家としても活動し、料理通としても知られた。 監督デビューは51歳と遅咲きだったが、それまでに表現手段を追究する職を多数経験し、その集大成として映画に挑戦し、ヒットメーカーとなった。 1984年の監督デビュー作である『お葬式』からいきなり数々の映画賞を獲得するなど絶賛を浴びた。その後、『タンポポ』『マルサの女』『マルサの女2』『あげまん』『ミンボーの女』『大病人』『スーパーの女』『マルタイの女』などを演出し、いずれも大ヒットを記録した。
真船 禎(まふね ただし、1933年2月27日 - )は、日… 真船 禎(まふね ただし、1933年2月27日 - )は、日本の映画監督、演出家。「真船企画」代表、日本映画監督協会会員。東京都出身。妻はラジオ東京放送劇団に所属していた堀内敬子。 劇作家真船豊の息子として、東京都に生まれる。小児結核を患ったことで、小学校2年生から神奈川県茅ヶ崎市の児童養護施設「白十字会林間学校」に入寮し、施設内の小学校に通った。終戦・小学校卒業後は自由学園に入学。高校1年生まで同様の寮生活をして通学し、残りの高校生活を関東学院で過ごした。この間の生活環境はキリスト教関係者に囲まれていたが、当時は信者になっていなかった。 早稲田大学文学部演劇科を卒業後TBSに入社、「おかあさん」で演出デビュー。
吉田 喜重 (よしだ よししげ、1933年2月16日 - 2… 吉田 喜重 (よしだ よししげ、1933年2月16日 - 2022年12月8日)は、日本の映画監督、小説家。名は「きじゅう」と音読みされることが多い。 福井県福井市佐佳枝下町で生まれる。1945年に順化小学校を卒業後、旧制の県立福井中学に入学。同年8月、福井大空襲で家が焼失する。1947年春に一家で東京へ転居し、田園調布の自宅から都立城南中学に通う。同校は吉田の在学中、学制改革により城南高校となる。この頃、フランス語を習うためアテネ・フランセへ通い、フランス映画をよく観ていた。また、NHKラジオに詩を投稿して賞金を貰ったり、演劇部には入らなかったが、自作の演劇脚本を文化祭で上演するなど、高校時代から映画、演劇への強い関心を示していた。
千葉 茂樹(ちば しげき、1933年2月12日 - )は、日… 千葉 茂樹(ちば しげき、1933年2月12日 - )は、日本の映画監督、脚本家、教育者。市民グループ「地球家族の会」代表、日本映画学校校長、日本映画大学特任教授。キリスト教徒。川崎市のみやまえ映像コンクール審査委員長。 1933年2月12日、福島県福島市に9人兄妹の次男として生まれる[1]。福島県立福島高等学校卒業。高校時代は元総務官僚で川崎市長を務めた阿部孝夫と同窓。福島大学経済学部に入学し、役場で働きながらの学生生活を送る。仕事の合間に訪れた映画館で黒澤明監督の「生きる」を観た影響で映画監督を目指すことを決意。福島大学から日本大学へ編入をし、1956年に日本大学芸術学部映画学科を卒業。 大学卒業時に応募をした「新人シナリオコンクール」で入賞(千葉は最年少入賞、受賞者6人の中には既に助監督として働いていた深作欣二もいた。
恩地 日出夫(おんち ひでお、1933年1月23日 - 20… 恩地 日出夫(おんち ひでお、1933年1月23日 - 2022年1月20日)は、日本の映画監督である。2005年、旭日小綬章受章。 東京市(現世田谷区)に生まれる。長野県、山形県への学童疎開を経験した後、東京都立千歳高等学校(現・東京都立芦花高等学校)卒業。慶應義塾大学経済学部卒業後、東宝に入社。森谷司郎、木下亮が同期。 堀川弘通監督の助監督を経て、1960年、27歳で監督に昇進、東宝ヌーベルバーグとも呼ばれた『若い狼』で監督デビュー。続いて、団令子主演で作品を発表するが、「観念的」「難解」と評される。ブランクの後、内藤洋子売り出しのための『あこがれ』を制作。そのみずみずしい映像感覚は評判となる。
澤田 幸弘(さわだ ゆきひろ、1933年1月15日 - 20… 澤田 幸弘(さわだ ゆきひろ、1933年1月15日 - 2022年9月21日)は、日本の映画監督。 神奈川県横浜市出身。1956年、中央大学経済学部卒業。 横浜市立横浜商業高等学校卒業後、1年間の銀行勤務を経て中央大学経済学部に入学。在学中の三年時には東京児童劇団に裏方として参加。卒業後の1956年、日活に入社。鈴木清順、斎藤武市らに師事し、長い間の助監督を経て、1970年、渡哲也主演映画『斬り込み』で監督デビューした。 長谷部安春、小澤啓一、藤田敏八らとともに日活ニューアクション路線を大きく支えた。日活がロマンポルノ製作をメインにしてからも、松田優作主演『あばよダチ公』、『高校大パニック』などの一般向け映画から、福祉・家族向け映画も手掛け、1974年の『ともだち』は翌年のベオグラード国際児童映画祭にてグランプリ(ユニセフ大賞)を受賞した。
小澤 啓一(おざわ けいいち、1933年1月5日 - )は日… 小澤 啓一(おざわ けいいち、1933年1月5日 - )は日本の映画監督。鹿児島県川辺郡川辺町平山(現・南九州市)出身。本籍は山口県萩市であった。 三歳で父の転任により台湾へ移住、大戦後に日本へ引き上げた。鹿児島県立川辺高等学校を経て早稲田大学第一文学部在学中、遠縁の田中龍夫の伝手で小國英雄のシナリオ工房に通う。卒業後の1956年に日活に入社、川島雄三、井上梅次らの助監督を務めた後は、主に舛田利雄に師事、舛田の映画製作に大きく影響されたという。 1968年、『大幹部 無頼』で監督デビュー。以降「無頼」シリーズとしてヒットさせ、渡哲也主演作品を最も多く(計10作品)メガホンを取り、長谷部安春・澤田幸弘らとともに「日活ニュー・アクション路線」の旗手として活躍。
佐藤 純彌(さとう じゅんや、1932年11月6日 - )は… 佐藤 純彌(さとう じゅんや、1932年11月6日 - )は、日本の映画監督、脚本家。かつては、佐藤 純弥の表記も用いられた。
佐藤 純彌(さとう じゅんや、1932年〈昭和7年〉11月6… 佐藤 純彌(さとう じゅんや、1932年〈昭和7年〉11月6日 - 2019年〈平成31年〉2月9日)は、日本の映画監督・脚本家。別名義は佐藤 純弥。幅広いジャンルを手掛け、莫大な予算と豪華なスタッフ・キャストを使用した作品を多数製作したことから“ミスター超大作”の異名で呼ばれる。 東京都出身。太平洋戦争時は、山形県鶴岡市の祖父と叔父の元へ縁故疎開した。当時は勤皇少年で、「自分は二十歳まで生きられていない」と思っていたという。 東京都立第一中学校在学中に学制改革を経て日比谷高校を卒業。その後東京大学に進学し、文学部を卒業した。 1956年に東映へ入社し、東映東京撮影所の映画スタッフとしてキャリアを積む。
石田 勝心(いしだ かつむね、1932年(昭和7年)10月2… 石田 勝心(いしだ かつむね、1932年(昭和7年)10月20日 - 2012年(平成24年)2月2日)は日本の映画監督。東京都駒込動坂町出身。 東京都立両国高等学校から東京芸術大学芸術学部美術学科に入学。1957年、卒業と同時に東宝撮影所の製作係に入社。当初は編集者を務めていたが、助監督に転向。1970年『喜劇 頑張れ!日本男児』で監督デビュー。 センチメンタリズムあふれる喜劇やホームドラマを得意としたが、東宝の主流分野ではないこともあり、後年はパニック映画、アクションものも手がけている。テレビ作品も多く手掛けた。 2012年2月2日、肺炎のため死去。79歳没。
橘 祐典(たちばな ゆうてん、本名:橘裕彦(たちばな ひろひ… 橘 祐典(たちばな ゆうてん、本名:橘裕彦(たちばな ひろひこ)、1932年10月17日 - 2010年9月22日)は、日本の映画監督。『どぶ川学級』や『にんげんをかえせ』、『東京大空襲 ガラスのうさぎ』をはじめ、反戦・労働運動を軸に社会派作品を手掛けたことで知られる。日本共産党員であった。 1932年10月17日、東京市牛込(現・東京都新宿区牛込)の出版業を営む家庭に生まれる。幼少時より映画好きが高じ、東京都立新宿高等学校を経て今井正、山本薩夫両監督の下に助監督として入り、以後独立系プロダクションを転々とする。初監督作品は1956年三井芸術プロの記録映画『働く少年のねがい』。1966年には青銅プロ設立に加わる。
出目 昌伸(でめ まさのぶ、1932年10月2日 - 201… 出目 昌伸(でめ まさのぶ、1932年10月2日 - 2016年3月13日)は、日本の映画監督。滋賀県八日市市(現:東近江市)出身。滋賀県立八日市高等学校、早稲田大学文学部卒業。 1957年に東宝入社。黒澤明、松林宗恵、堀川弘通、古澤憲吾らの助監督を務め、1968年、内藤洋子主演の『年ごろ』で監督に昇進。その後、『俺たちの荒野』『その人は女教師』など、それまでの東宝青春映画とは一線を画す作品を監督する。 東宝退社後の1980年代中盤からは、東映で吉永小百合主演による『天国の駅』『玄海つれづれ節』、織田裕二、仲村トオル、風間トオルら若手スターによる反戦映画『きけ、わだつみの声』、岩下志麻と吉永小百合の2大女優初競演が話題となった『霧の子午線』など、大作映画を次々と手がける。
西村 潔(にしむら きよし、1932年9月7日 - 1993… 西村 潔(にしむら きよし、1932年9月7日 - 1993年11月17日)は、日本の映画監督。東京都立川市出身。一橋大学卒業。俳優としても数本の出演作品を持つ。 東京都立立川高等学校に通い、在日米軍の横田飛行場でアルバイトをしながら映画浸りの日々を送った後、一橋大学へ入学。同級生の石原慎太郎を誘い、同人誌『一橋文藝』を復刻する。 1956年、大学を卒業後、東宝へ入社。千葉泰樹・黒澤明・堀川弘通・成瀬巳喜男・本多猪四郎・川島雄三・須川栄三・古澤憲吾・恩地日出夫らの助監督を経て、1969年、密室の人間群像を緊迫したサスペンスとして描いた黒沢年男主演のアクションスリラー『死ぬにはまだ早い』で監督に昇進。
山際 永三(やまぎわ えいぞう、1932年7月22日 - )… 山際 永三(やまぎわ えいぞう、1932年7月22日 - )は、日本の映画監督、演出家、評論家。石井輝男プロダクション代表、日本映画監督協会常務理事。兵庫県神戸市出身。
青島 幸男(あおしま ゆきお、1932年〈昭和7年〉7月17… 青島 幸男(あおしま ゆきお、1932年〈昭和7年〉7月17日 - 2006年〈平成18年〉12月20日)は、日本の政治家、小説家、作詞家、タレント、テレビ司会者、俳優、放送作家、映画監督、歌手。位階は正四位。 参議院議員(5期)、第二院クラブ代表(初代・第5代)、東京都知事(第13代)等を歴任した。 テレビ業界で当初は放送作家として成功し、高度成長期を歌った「スーダラ節」を作詞する。クレージーキャッツ主演の映画はもとより、『若大将シリーズ』などでも映画の主題歌を作詞した。主演したドラマ『いじわるばあさん』では国民的キャラクターとして定着し、小説を執筆すれば処女作『人間万事塞翁が丙午』が直木賞を受賞するなど、多才の人として知られ、「超マルチタレント」と呼ばれた。
斎藤 光正(さいとう こうせい、1932年〈昭和7年〉7月1… 斎藤 光正(さいとう こうせい、1932年〈昭和7年〉7月15日 - 2012年〈平成24年〉11月25日)は、日本の映画監督。 山口県下関市丸山町出身。映画界に入る前は小説家になりたいと思っていた。その後映画好きになり、大学在学中から松竹映配に勤務。一橋大学卒業後、1958年(昭和33年)に日活に入社し、今村昌平、浦山桐郎らの助監督を務める。1967年、吉永小百合主演映画『斜陽のおもかげ』で監督に昇進した。1971年(昭和46年)に退社後は、テレビ・映画・時代劇・現代劇を問わず幅広く活躍。TV『獄門島』で、舞台劇風な長回しなど凝った演出テクニックを発揮して角川春樹に注目され、以後はそのプロデュースによる劇場映画を多く手掛ける。
帯盛 迪彦(おびもり みちひこ、1932年5月3日 - 20… 帯盛 迪彦(おびもり みちひこ、1932年5月3日 - 2013年1月18日)は日本の映画監督、演出家。帶盛 迪彦、帯盛迪彦という表記も見られる。 1956年に慶應義塾大学文学部を卒業。 民芸映画社を経て、1957年に大映東京撮影所(現・角川大映撮影所)に入社。衣笠貞之助監督などに師事し、1968年に監督昇進。 1971年の大映倒産後は、(当初は大映テレビの作品を中心として)テレビドラマの演出で活躍した。2013年に敗血症で死去。親交があった大島渚が1月15日に死去してから体調を崩し、僅か3日後の急死であった。
藤原 智子(ふじわら ともこ、1932年4月25日 - 20… 藤原 智子(ふじわら ともこ、1932年4月25日 - 2018年6月19日)は、日本の映画監督・脚本家。 東京都出身。東京大学文学部では美術史を専攻していた。1955年、同大学を卒業後、記録映画監督を志し新理研映画に入社、ニュース映画制作に携わる。その後日本映画新社に移籍し、1960年に「オランウータンの知恵」でデビュー。一時期、子育てで現場を離れるが、1980年、47歳で復帰した。 1980年代に製作した能・歌舞伎などの複数の短編記録映画に対して、文部大臣賞・芸術作品賞などを受賞している。 さっぽろ映画祭やあいち国際女性映画祭などにゲストとして出演している。 2018年6月19日、特発性肺線維症のため死去。
辻井 康一(つじい やすかず、1932年4月5日 - )は、… 辻井 康一(つじい やすかず、1932年4月5日 - )は、日本の映画監督である。宝塚映画製作所(現在の宝塚映像)の社員監督として、テレビ映画をおもに撮ったことで知られる。 1932年(昭和7年)4月5日、大阪府中河内郡孔舎衙村(くさかむら、現在の同府東大阪市日下町)に生まれる。 1956年(昭和31年)、東京の早稲田大学法学部を卒業、関西に戻り、26歳になる1958年(昭和33年)、宝塚映画製作所に入社、久松静児、岡本喜八両監督に師事した。 1968年(昭和43年)、助監督経験を積み重ね、36歳のときに、のちにスキーヤーのバイブルと呼ばれる教育映画『スキー場は戦場ではない』で監督としてデビューした。
長谷部 安春(はせべ やすはる、男性、1932年(昭和7年)… 長谷部 安春(はせべ やすはる、男性、1932年(昭和7年)4月4日 - 2009年(平成21年)6月14日)は、日本の映画監督、演出家。東京府東京市出身。東京都立新宿高等学校、早稲田大学文学部仏文科卒業。作家のハセベバクシンオー、女優の長谷部香苗は実子。
大島 渚(おおしま なぎさ、1932年(昭和7年)3月31日… 大島 渚(おおしま なぎさ、1932年(昭和7年)3月31日 - 2013年(平成25年)1月15日)は、日本の映画監督、脚本家、演出家、著述家。フィクションだけでなくドキュメンタリーも制作した。 妹の大島瑛子は女優・プロデューサーで大島プロダクションの代表を務めた。美術監督の戸田重昌は瑛子の夫で義弟に当たる。妻は女優の小山明子、長男の大島武は東京工芸大学芸術学部教授、次男の大島新はドキュメンタリー作品監督。 1932年(昭和7年)3月31日、岡山県児島郡(当時)で生まれた。父方は長崎県対馬の出で、先祖は対馬藩士。母親は広島県呉市出身。父親は農林省の水産学者。仕事の関係で瀬戸内海を転々とし、カニやエビの研究をしていた。
松本 俊夫(まつもと としお、1932年3月26日 - 20… 松本 俊夫(まつもと としお、1932年3月26日 - 2017年4月12日)は、日本の映画監督、映像作家、映画理論家。元日本映像学会会長。愛知県名古屋市出身。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
手銭 弘喜(てぜに ひろよし、1932年3月22日 - 19… 手銭 弘喜(てぜに ひろよし、1932年3月22日 - 1993年6月24日)は、日本のテレビ演出家、映画監督。島根県簸川郡出身。 実家は、松江藩に300年仕えた十代あまりも続いている手錢家。長男であったが、実家は手銭記念館として保存されており、弟が後を継いでいる。 映画監督としては日活で基礎を身に着けた。早撮りの腕前が評価され、「暴れん坊将軍」や「太陽にほえろ!」をはじめテレビドラマ作品を中心に活躍したが、劇場映画を撮るチャンスになかなか恵まれず、晩年の「ファンキー・モンキー・ティーチャー」(1991年)が唯一の劇場映画作品となった。 孫は共同テレビジョン所属でドラマプロデューサーの手銭陸。
渋谷 昶子(しぶや のぶこ、1932年3月8日 - 2016… 渋谷 昶子(しぶや のぶこ、1932年3月8日 - 2016年2月1日)は、日本の映画監督、記録映画作家、ルポルタージュ作家。 1932年3月8日、関東州大連市に生まれる。本名、前畠昶子。両親は3月生まれにちなみ「春の陽のように日永にのんびりと成長するように」と日が永いという昶子と命名した。 大連弥生女学校1年在学のとき敗戦。2年間の棄民生活で人間形成の原点が形成される。 1947年に「最後の引き揚げ船」で帰国し、父親の出身地だった鹿児島県に移る。1951年、鹿児島県立鶴丸高等学校を卒業。 弁護士たらんと大志をいだいて中央大学法学部に入学。しかし、スクリプターに関心をもち、大学は3年で中退し、2年後にスクリプターになる。
新藤 孝衛(しんどう こうえ、1932年2月22日 - 20… 新藤 孝衛(しんどう こうえ、1932年2月22日 - 2020年8月10日)は、日本の実業家、映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。映画プロデューサーとしての名を新船 澄孝(あらふね すみたか)とし、1972年(昭和47年)、映画監督としての名を南雲 孝(なぐも たかし)と改名した。1969年(昭和44年)、学校法人川口ふたば幼稚園理事長。 1932年(昭和7年)2月22日、埼玉県北足立郡芝村大字柳崎(現在の同県川口市柳根町)に生まれる。祖父は芝村の村議を歴任、父はのちの川口市議会議長となる新藤勝衛である。新制の埼玉県川口市立川口高等学校(現在の埼玉県立川口高等学校)に入学、水泳部で活躍する。
柳瀬 観(やなせ のぞむ、1932年2月4日 - 2009年… 柳瀬 観(やなせ のぞむ、1932年2月4日 - 2009年2月21日)は日本の映画監督である。協同組合日本映画監督協会物故会員。 1932年4月4日、東京都大田区大井町に生まれる。中央大学杉並高等学校を経て、1954年、早稲田大学第一文学部演劇専修を卒業。日活撮影所に入社し、契約助監督となる。同時に、早稲田大学大学院文学研究科で映画を専攻(1956年中退)。日活では野口博志、佐伯清、阿部豊、井上梅次、堀池清、鈴木清順、に助監督としてつく。1963年、『探偵事務所23 銭と女に弱い男』で監督昇進。『北国の街』舟木一夫の主演映画を多く手掛ける。1965年、フリーとなる。『ハレンチ学園』『プレイガール』『プロフェッショナル』などテレビドラマの演出も多数。
藤田 敏八(ふじた としや、1932年1月16日 - 199… 藤田 敏八(ふじた としや、1932年1月16日 - 1997年8月29日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優。 朝鮮・平安北道平壌府(現:朝鮮民主主義人民共和国平壌直轄市)に生まれる。 朝鮮鉄道の社員だった父に従って朝鮮半島を転々と移り住むが、釜山で終戦を迎え、三重県四日市市に引き揚げる。中学に編入後、三重県立神戸高等学校に進学するも、四日市市馳出に戻り三重県立四日市高等学校を卒業。浪人生活を経て東京大学に入学し、文学部仏文科に進む。在学中に演劇に熱中し、俳優座養成所に第5期生として入所する。同期に平幹二朗がいる。 1955年、大学卒業とともに日活に入社。助監督として舛田利雄、蔵原惟繕らにつく。