笠原 洋子(かさはら ようこ、1945年8月4日 - )は、… 笠原 洋子(かさはら ようこ、1945年8月4日 - )は、日本の元女子バレーボール選手。 三重県津市出身。中学在学中に「なんとなく」バレーボールを始める。四日市高校在学中はインターハイなどで活躍した。 実業団チームである鐘紡四日市監督の水野崇光から声がかかり、同チームの児玉三代子や吉田節子に憧れていたこともあり入部を決意した。 1965年に全日本メンバーに初選出され、1968年のメキシコオリンピックにおいて銀メダル獲得に貢献した。ロサンゼルスオリンピック銅メダリストの杉山加代子は親戚。
木村 憲治(きむら けんじ、1945年7月19日 - )は、… 木村 憲治(きむら けんじ、1945年7月19日 - )は、日本の元男子バレーボール選手、指導者。第10代日本バレーボール協会会長、日本バレーボールリーグ機構元代表理事会長。 東京都世田谷区出身。目黒区立第十一中学校においてはエースアタッカーとして活躍し、東京都立目黒高等学校を経て、中央大学に進学。1967年のユニバーシアード東京大会に出場し、金メダル獲得に貢献。1968年に日本リーグの松下電器に入部。 1968年にバレーボール日本男子代表(全日本)に選出される。代表選手としてラトビア遠征で試合に出場した際に自分のスパイクが4本連続で相手のブロックに止められたため、交代させられた。その時に監督の松平康隆から「お前は(世界の中では)背が低いことが判ったか。
岩原 豊子(いわはら とよこ、現姓:和田、1945年5月11… 岩原 豊子(いわはら とよこ、現姓:和田、1945年5月11日 - )は、日本の元バレーボール選手、指導者。1968年メキシコオリンピック、1972年ミュンヘンオリンピックバレーボール女子銀メダリスト。 疎開先の母の実家(茨城県)で生まれ、東京都台東区育ち。バレーボール強豪校の中村高校に進学し、全日本総合選手権ベスト4などに貢献した。 1964年に実業団のヤシカに入部し、セッターに転向する。1967年に全日本メンバーに選出され、同年の世界選手権優勝、1968年のメキシコオリンピック準優勝などに貢献した。 国内では、1967年度の第1回日本リーグでベスト6およびレシーブ賞を獲得し、チーム準優勝に大きく貢献した。
篠崎 洋子(しのざき ようこ、現姓:田村、1945年1月29… 篠崎 洋子(しのざき ようこ、現姓:田村、1945年1月29日 - )は、日本の元女子バレーボール選手。1964年東京オリンピックバレーボール女子金メダリスト。 埼玉県大宮市(現さいたま市)出身。東京オリンピックメンバー選考会では、日紡貝塚のサブメンバーであることが評価されてメンバー入りが決定した。
岡野 昌弘(おかの まさひろ、1944年7月31日 - )は… 岡野 昌弘(おかの まさひろ、1944年7月31日 - )は、広島県呉市出身の元バレーボール選手。サントリー(現サントリーサンバーズ)初代監督。第4回から第11回Vリーグ実行委員長。 私立呉港高校時代からセッターとして活躍する。家庭の事情で大学進学を断念し1963年富士フイルムに入社。チームは1969年、実業団リーグに降格したが、主将として翌1970年、日本リーグ復帰に導いた。1973年、空前のバレーボール人気に目を付け、チームが創設されたサントリーへ新チーム作りを請われ移籍。選手の引き抜きでバレー界は大揺れしたが、初代監督兼選手として大古誠司らと共に奔走。自ら全国を駈けずり選手を集めるなどで1974年、全日本実業団大会優勝、翌1975年、結成2年目の超スピードでチームを日本リーグ入りさせた。
松村 勝美(まつむら かつみ、現姓:千葉、1944年3月8日… 松村 勝美(まつむら かつみ、現姓:千葉、1944年3月8日 - )は、日本の元女子バレーボール選手。金メダリスト。 大阪府八尾市出身。校内バレーボール大会で優勝したのが教師の目に留まり、中学2年からバレーボールを始める。3年次には激戦区大阪の府内大会で3位を経験する。この時に会場に来ていた小島孝治四天王寺高校監督(当時)に誘われて四天王寺高校に入学する。 四天王寺高校在学中は国体やインターハイで全国優勝4回に貢献した。1962年に日紡貝塚に入社。1964年東京オリンピックでは金メダル、1972年ミュンヘンオリンピックでは主将として銀メダルを獲得した。この時に発した「金メダルだけが欲しかった。銀メダルはいらない」は同オリンピックを象徴する言葉となった。
白神 守(しらがみ まもる、1944年2月28日 - 201… 白神 守(しらがみ まもる、1944年2月28日 - 2014年3月)は、日本の男子バレーボール選手、指導者。 台湾出身[要出典]。千葉県印旛郡育ち。県立船橋高校から中央大学を経て、1966年に日本鋼管男子バレーボール部に入部。1968年メキシコオリンピックに出場し銀メダリストを獲得した。 国内では、第3回日本リーグにおいてチームの優勝に大きく貢献し、MVP・ベスト6・スパイク賞を獲得した。 現役引退後は、同チームのコーチを経て、1980年度は監督を務めた。
猫田 勝敏(ねこだ かつとし、1944年2月1日 - 198… 猫田 勝敏(ねこだ かつとし、1944年2月1日 - 1983年9月4日)は、日本の元男子バレーボール選手。広島県広島市安佐南区古市(旧・安佐郡古市町)出身。 1964年東京オリンピックから1976年モントリオールオリンピックまで、4大会連続でオリンピック出場(日本のバレー男子選手で最多)を果たし、金・銀・銅の3個のメダルを獲得、「世界一のセッター」と称された。また、そのトスの正確さから、当時世に知られ始めたばかりのコンピュータから名を取って「日本のコンピュータ猫田」とも呼ばれた。 情報誌『imidas2001』(集英社)の「20世紀を創った人々550」では、バレーボールの分野で前田豊、大松博文と並んで3人のうちの1人に数えられた。
磯辺 サタ(いそべ さた、結婚後の姓は丸山、1943年12月… 磯辺 サタ(いそべ さた、結婚後の姓は丸山、1943年12月19日 - 2016年12月18日)は、日本の元女子バレーボール選手。1964年東京オリンピック金メダリスト。東洋の魔女のメンバー。 幼少の頃に両親を亡くし、千葉県香取郡神崎町にある叔母の家で育つ。神崎町立神崎中学校時代に学級担任に勧められてバレーボールを始める。卒業後、一時日紡貝塚(のちのユニチカ・フェニックス)に籍を置いたが、翌年四天王寺高校に入学した。高校卒業後、再び日紡貝塚に入社。 1964年東京オリンピックでは日本代表チームの最年少メンバーとして出場し、「東洋の魔女」の主力メンバーとして、決勝戦で宿敵であるソ連に勝利し、金メダルを獲得した。
本田 憲子(ほんだ のりこ、1943年11月21日 - )は… 本田 憲子(ほんだ のりこ、1943年11月21日 - )は、日本の元女子バレーボール選手。金メダリスト。 愛知県春日井市出身。母親は元バスケットボール選手、長兄はバレーボール選手、次弟は野球選手というスポーツ一家に生まれる。 名古屋市立桜台高校在学中、1960年全国高校バレーボール大会(徳島県)でベスト8を経験し、1964年東京オリンピック強化選手に選ばれる。卒業後、日紡貝塚に入社し、大松博文の指導を受ける。 1962年世界選手権( ソビエト連邦:モスクワ開催)で金メダルを獲得した。1964年東京オリンピック後の「新生ニチボー」で活動。1965年ブラジルバレーボール連盟主催 南米大会(サンパウロ開催)に全日本チームとして招待され優勝。
山岸 紀郎(やまぎし のりお、1943年2月11日 - 20… 山岸 紀郎(やまぎし のりお、1943年2月11日 - 2011年7月15日)は、日本の元バレーボール審判員、日本バレーボール協会専務理事、初代Vリーグ機構代表理事(会長)。 日本体育大学出身。日本人として初めて国際バレーボール連盟のFIVB公認レフリーとなり、1986年の世界選手権の男子決勝の主審を務めたほか、1988年と1992年のオリンピックでも国際審判団の一員として参加した。 一方日本国内では、1995年4月より日本バレーボール協会の理事、専務理事や日本バレーボールリーグ機構の代表理事(会長)などを歴任した。また日本におけるビーチバレー生みの親とも言われ、1996年のアトランタオリンピックではビーチバレー日本男子代表監督を務めた。
藤本 佑子(ふじもと ゆうこ、現姓:内田、1943年1月14… 藤本 佑子(ふじもと ゆうこ、現姓:内田、1943年1月14日 - )は、日本の元女子バレーボール選手。
吉田 節子(よしだ せつこ、1942年11月4日 - 201… 吉田 節子(よしだ せつこ、1942年11月4日 - 2014年10月26日)は、日本の元バレーボール選手。1968年メキシコオリンピックバレーボール女子銀メダリスト。 愛知県出身。両親と6人兄姉妹のスポーツ一家に生まれ、中学1年次よりバレーボールを始める。 強豪校の豊橋東高等学校を経て、実業団の鐘紡四日市に入部。 1962年に全日本メンバーに選出され、アジア大会に出場した。1965年に再び全日本メンバーとなり主将を担う。同年、世界の最優秀選手に選出された。1967年の世界選手権金メダル、1968年のメキシコオリンピックではコーチ兼主将として銀メダル獲得に貢献した。 2014年10月26日、卵巣がんのため死去。
中村 祐造(なかむら ゆうぞう、1942年4月24日 - 2… 中村 祐造(なかむら ゆうぞう、1942年4月24日 - 2010年7月20日)は、日本の元男子バレーボール選手、元バレーボール日本男子代表監督。現役時代は、渾身のドライブサーブと熱血プレーでチームを引っ張った。 1942年4月24日、兵庫県姫路市出身。 兵庫県立姫路工業大学附属高等学校(現・兵庫県立姫路工業高等学校)から八幡製鐵に入社。同社所属のバレーボール選手としてプレーした。 オリンピックには第18回東京大会、第20回ミュンヘン大会の2回出場。特にミュンヘン大会では日本代表主将としてチームを支え、準決勝のブルガリア戦に途中出場してセットカウント0-2と追い込まれた状況から逆転勝ちを呼び込む立役者のひとりとなるなど、日本の金メダル獲得に力を尽くした。
森山 輝久(もりやま てるひさ、 1942年3月17日 - … 森山 輝久(もりやま てるひさ、 1942年3月17日 - )は、日本の元バレーボール選手。元バレーボール全日本選手。 広島県出身。崇徳高等学校3年の時、ジャンプ力のある強打のエースアタッカー兼主将として国体優勝。1960年、中央大学1年時の、第1回日ソ対抗バレーで全日本に初選出された。その後も6人制へ切り替え期の全日本選手として1962年第5回世界選手権(モスクワ)、第4回ジャカルタアジア競技大会(金メダル)などで活躍した。中大4年時には大学王者の勢いで当時の最強チーム・日本鋼管を天皇杯(全日本総合選手権)で破って日本一となるなど中大黄金期の礎を創った。中大を卒業し入団した松下電器(現・大阪ブルテオン)でも1964年、チームの全日本都市対抗、全日本総合、国体、全日本実業団の国内4大タイトル独占の原動力となった。
松村 好子(まつむら よしこ、女性、現姓・神田、1941年1… 松村 好子(まつむら よしこ、女性、現姓・神田、1941年12月9日 - )は、日本の元バレーボール選手。1964年東京オリンピックバレーボール女子金メダリスト。 大阪府出身。守口市立庭窪中学校でバレーを始め、四天王寺高等学校卒業後に、日紡貝塚に入社した。ポジションはレシーバー。現役時代の身長は169cm。東京オリンピック後に引退。
徳富 斌(とくとみ たけし、1941年11月13日 - )は… 徳富 斌(とくとみ たけし、1941年11月13日 - )は、日本のバレーボール選手である。 山口県防府市出身。バレーボール全日本選手であり、1964年(昭和39年)の東京オリンピックのバレーボール競技では男子バレーで銅メダリストとなった。明治大学を経て、八幡製鐵バレー部(現・堺ブレイザーズ)に所属していた。
南 将之(みなみ まさゆき、1941年7月8日 - 2000… 南 将之(みなみ まさゆき、1941年7月8日 - 2000年4月7日)は、日本の元バレーボール選手(元全日本代表)・指導者。元バレーボール全日本男子代表監督。 福岡県福岡市出身。福岡市立当仁小学校出身。福岡大大濠高校卒業後、1960年旭化成に入社、バレーボール部に入部。196cmの大型スパイカーとして活躍した。1961年全日本代表初選出。オリンピックでは1964年東京五輪で銅メダル、1968年メキシコ五輪で銀メダルを獲得。 そして1972年ミュンヘン五輪では念願の金メダルを獲得。特に準決勝のブルガリア戦では、相手チームのエース・ズラタノフの活躍で先に2セットを奪われて、絶体絶命の状況で第3セット途中から出場し、ミュンヘンの奇跡として語り継がれる逆転勝利の立役者となった。
樋口 時彦(ひぐち ときひこ、1941年6月10日 - )は… 樋口 時彦(ひぐち ときひこ、1941年6月10日 - )は、神奈川県出身の元バレーボール選手。1964年東京オリンピックバレーボール男子銅メダリスト。法政二高を経て、法政大学卒業。
小瀬戸 俊昭(こせど としあき、1941年5月20日 - 2… 小瀬戸 俊昭(こせど としあき、1941年5月20日 - 2023年6月9日[要出典])は、日本の元バレーボール選手。帝人三原所属。オリンピック銅メダリスト。 現在の鹿児島市出身。谷山町立和田中学校(現鹿児島市立和田中学校)を経て、鹿児島県立谷山高等学校(現鹿児島県立鹿児島南高等学校)。帝人三原に入社してから、日本バレーボール協会理事の長崎重芳に素質を認められ、アジア大会、ヨーロッパ遠征、ソ連遠征と全日本チームに選抜される。1964年東京オリンピック男子バレーボールに出場し、チームとして銅メダル獲得。
渋木 綾乃(しぶき あやの、現在の姓は八重樫、1941年3月… 渋木 綾乃(しぶき あやの、現在の姓は八重樫、1941年3月29日 - )は、日本の元女子バレーボール選手。1964年東京オリンピックバレーボール女子金メダリスト。
井原 文之(いはら ふみゆき、1940年9月16日 - )は… 井原 文之(いはら ふみゆき、1940年9月16日 - )は、元日本男子バレーボール選手、バレーボール指導者。元富士フイルムの選手・監督。広島県佐伯郡三高村(現江田島市)出身。崇徳高等学校卒。身長167cm。 高校時代は崇徳高校の九人制のバック選手として活躍。レシーブの名手として知られた。1959年、当時は企業名もほとんど知られていなかった富士フイルムに入社。1964年の九人制全日本総合選手でチーム初優勝に貢献したが、会社が翌1965年度を最後に九人制をやめ、六人制一本に絞ったため167cmのレシーバーに出番はなく1966年引退。大卒のエースだった同期の小山勉部長が監督に就任するのとは対照的にバレー部を去り7年間工場勤務。
半田 百合子(はんだ ゆりこ、現姓:中島、1940年3月31… 半田 百合子(はんだ ゆりこ、現姓:中島、1940年3月31日 - )は、日本の元女子バレーボール選手。1964年東京オリンピックバレーボール女子金メダリスト。東洋の魔女 (Oriental Witches) の主力メンバー。 1940年(昭和15年)3月31日、栃木県宇都宮市大寛町に生まれる。 父の転勤により栃木県栃木市に転居し、栃木市立栃木南中学校でバレーボールを始めた。 栃木県立栃木女子高等学校時代は全く無名の選手だった。 高校卒業後、1958年に日紡(現・ユニチカ)に入社し、日紡東京で頭角を現し、日紡貝塚チームの大松博文に認められ、1959年11月に日紡貝塚チームに移籍する。 大松からの激しいしごき練習内容に「殺されそう」「もう辞めよう」と退部を申し入れながらも、大松からの慰留もあり最後までへこたれなかった。
谷田 絹子(たにだ きぬこ、現姓:井戸川、1939年9月19… 谷田 絹子(たにだ きぬこ、現姓:井戸川、1939年9月19日 - 2020年12月4日)は、日本の元女子バレーボール選手。1964年東京オリンピックバレーボール女子金メダリスト。東洋の魔女 (Oriental Witches) の主力メンバー。 大阪府出身。四天王寺高校時代に、中野尚子、藤森節子とともに高校生三羽烏と呼ばれた名選手。 一時怪我のため調子を落としたが猛練習で克服し、東洋の魔女のレギュラーとなった。キレのよいスパイクが特徴である。のちに、当時の猛練習、それを指導した監督・大松博文のことを回想している。 1964年、東京オリンピックのバレーボール競技において、エーススパイカーとして金メダル獲得に大いに貢献した。
菅原 貞敬(すがわら さだとし、 1939年2月18日 - … 菅原 貞敬(すがわら さだとし、 1939年2月18日 - )は、日本の元バレーボール選手、元全日本選手、指導者。 全日本ジュニア男子監督、ケニア女子代表監督、日立佐和リヴァーレ監督、シニアアドバイザーなど国内外で監督を歴任。 秋田県能代市出身。秋田県立能代高等学校を経て、1957年、東洋レーヨンに入社。東レ九鱗会の選手として活躍した。 1960年に全日本に初選出され、1964年東京五輪に出場し銅メダルを獲得した。 1968年に東レ九鱗会の監督に就任。1978年に全日本ジュニア男子監督に就任し、中垣内祐一、大竹秀之ら1990年代の全日本を牽引してきたバレーボール選手を育てた。 1995年10月にケニア女子代表監督に就任、同年ワールドカップ(11月開幕)ではケニアチームの指揮を執った。
市川 忠義(いちかわ ただよし、1937年5月23日 - )… 市川 忠義(いちかわ ただよし、1937年5月23日 - )は、日本の元バレーボール選手(日本代表)。 東京都出身[要出典]。明治大学卒業。 ポジションはセッター。 東京オリンピック日本代表(12名)の最終選考では、同じセッターの猫田勝敏・出町豊と最後まで、その座を争ったが、代表入りは果たせなかった。 この項目は、バレーボール関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Pバレーボール/PJバレーボール)。
宮本 恵美子(みやもと えみこ、現姓:寺山、1937年5月1… 宮本 恵美子(みやもと えみこ、現姓:寺山、1937年5月10日 - 2023年12月7日)は、日本の元女子バレーボール選手。1964年東京オリンピックバレーボール女子金メダリスト。東洋の魔女 (Oriental Witches) の主力メンバー。 和歌山県和歌山市出身。和歌山市立明和中学校時代に近畿大会で優勝。和歌山商業高校在学中にスカウトされて、実業団の日紡貝塚(当時)に入部。 入部当初は不器用なタイプで、アタックは強烈だがレシーブやトスがこなせず、「試合に出られなくても球拾いで頑張る」と自分に言い聞かせて、2年間控えにまわる。その姿を見続けてきた大松博文監督(当時)は「必ずモノになる」と確信したと述懐している。
斎藤 勝(さいとう まさる、1937年4月25日 - )は、… 斎藤 勝(さいとう まさる、1937年4月25日 - )は、日本のバレーボール指導者、アスレティックトレーナー、元バレーボール全日本男子監督。東海大学名誉教授。 東京都出身。東京都立目黒高等学校、日本体育大学体育学部体育学科を卒業後、教師となる。並行して、数々の中学、高校、大学でバレーボール部の監督として采配を振った。 1970年、第7回世界選手権で、全日本男子チームのトレーナーを務めた(当時は、東海大一高の監督で、日本協会科学技術研究員だった)。 1972年のミュンヘン五輪でも、同じく全日本男子チームのトレーナーを務め、松平康隆監督とともに、倒立歩行など、独自のトレーニング方法を考案した。 1984年、ロス五輪後に、全日本男子チームの監督に就任(当時は、東海大学体育学部教授で、同大学のバレーボール部監督)。
小山 勉(こやま つとむ、1936年7月26日 - 2012… 小山 勉(こやま つとむ、1936年7月26日 - 2012年7月2日 )は、日本の元バレーボール選手、指導者。1964年東京オリンピックバレーボール男子銅メダリスト。 香川県坂出市出身。坂出東部中学校から香川県立坂出商業高等学校に進学し、1953年の全日本高校選手権で攻守の要としてチームを全国優勝に導いた。関西学院大学でも全日本大学選手権制覇に貢献。 大学卒業後は実業団の富士フイルムに加入し、ここでもチームの全国制覇に貢献。全日本男子にも選出され、1964年の東京オリンピックでは銅メダル獲得に貢献。選手引退後は指導者に転じ、富士フイルム監督に就任。 1972年に松平康隆の後を引き継いで全日本男子監督に就任、モントリオールオリンピック日本代表チームを率いたが、準決勝でポーランドに敗れてオリンピック連覇を逸した。
船山 浩志(ふなやま ひろし、1935年1月16日 - 20… 船山 浩志(ふなやま ひろし、1935年1月16日 - 2016年9月7日)は、日本の元バレーボール選手、バレーボール指導者。 1935年1月16日、東京府出身。早稲田大学で選手としてプレーした後、1958年(昭和32年)に同大を卒業。 1960年(昭和35年)、ヤシカ本社バレーボール部創設と同時に監督に就任。 1966年(昭和41年)8月6日、第5回世界選手権兼第5回アジア大会全日本代表選手選考会の3日目に開催されたヤシカ - 日紡貝塚戦にて、船山が采配を揮うヤシカがセットカウント3-2で勝利を収め、日紡貝塚の公式戦連勝記録(258連勝)をストップする大金星を挙げた試合は日本バレーボール界の歴史に残る。
河西 昌枝(かさい まさえ、結婚後の姓は中村、1933年7月… 河西 昌枝(かさい まさえ、結婚後の姓は中村、1933年7月14日 - 2013年10月3日)は、日本の元女子バレーボール選手。東洋の魔女 (Oriental Witches) の主将。金メダリスト。 山梨県中巨摩郡(現在の南アルプス市)の出身。山梨県立巨摩高等学校卒業後、日紡に入社する。 河西は『東洋の魔女』の主将として1962年世界選手権優勝、1964年東京五輪でコーチ兼主将として優勝に大いに貢献した。ポジションはセッターで、長身を生かして前衛ではセンタープレーヤーも務めた。 1965年1月に日紡を退社。同年5月30日に当時の総理大臣である佐藤栄作の取り計らいで2歳年上の自衛官と結婚した。 選手のファンであった女優の淡島千景がオーナーとなって設立したバレーボールのクラブチーム「フジクラブ」にも参加、同クラブの中心選手として活躍した(フジクラブは国民体育大会バレーボール競技一般女子の部において、1965年、1966年と二連覇した。
加藤 明(かとう あきら、1933年1月3日 - 1982年… 加藤 明(かとう あきら、1933年1月3日 - 1982年3月20日)は、日本のバレーボール選手、バレーボール全日本選手、バレーボールペルー女子代表監督。 無名であったペルーのバレーボールチームを世界のトップレベルまで引き上げて、わずか3年で1968年のメキシコ五輪ではチームを4位入賞へと導いた。 神奈川県小田原市出身。慶應義塾大学法学部在学時からバレーボールの選手として活躍する。1955年に八幡製鉄に入社し、1960年に主将を務めた。1960年世界選手権に出場した後、現役を引退した。 1961年、加藤の大学の先輩で母校の監督をしていた松平康隆から加藤に「後任として監督をしないか」という誘いがあり、加藤はこれを引き受けた。
西川 順之助(にしかわ じゅんのすけ、1932年〈昭和7年〉… 西川 順之助(にしかわ じゅんのすけ、1932年〈昭和7年〉8月19日 - 2024年〈令和6年〉3月15日)は、日本のバレーボール選手、新聞記者、実業家。三重県松阪市出身で、中日新聞社名古屋本社事業局長、取締役、常務を務め、2001年(平成13年)10月10日から2011年(平成23年)3月25日まで中日ドラゴンズ球団代表取締役社長を務めた。 早稲田大学に入学し、バレーボール部に入部し、6人制バレーボールの草分け的存在となる。1953年には、渡米チームのメンバーにも選ばれた。 大学卒業後の1957年(昭和32年)4月に中日新聞社へ入社し、主にスポーツ取材に携わる。バレーボール担当記者を長く務め、テレビ解説も担当した。
山田 重雄(やまだ しげお、1931年10月26日 - 19… 山田 重雄(やまだ しげお、1931年10月26日 - 1998年2月5日)は、静岡県清水市(現:静岡市清水区)出身のバレーボール指導者。バレーボール日本女子代表監督を務めた。旧姓は中村。 静岡県立藤枝東高等学校、東京教育大学卒業。大学在学中、八王子市で「山田の森」と言われる広大な土地を所有するも子供がいなかった山田義治・三枝子夫妻の養子となる。 大学卒業後に教員として赴任した東京都立三鷹高等学校の女子バレーボール部監督として生沼スミエ等を指導し、1963年の全国高等学校総合体育大会バレーボール競技大会で優勝。1964年、東京五輪の女子バレーボールで日本が優勝し、バレーボール人気が高まる中、1965年に日立武蔵の監督に転身。
松平 康隆(まつだいら やすたか、1930年1月22日 - … 松平 康隆(まつだいら やすたか、1930年1月22日 - 2011年12月31日)は、日本のバレーボール全日本選手。位階は正五位。 バレーボール全日本男子代表監督、日本バレーボール協会名誉顧問、アジアバレーボール連盟終身名誉会長、国際バレーボール連盟名誉副会長、日本オリンピック委員会名誉委員を歴任。 2008年3月から“心の東京革命”推進協議会(東京都青少年育成協会)会長を務めた。 1930年(昭和5年)1月22日、東京府東京市荏原区(現・東京都品川区) 出身。松平は旧加賀藩士で家老職をつとめ、幕末には数年間小松城代をつとめた松平大弐家の血を引く家系であった。 東京府立第二十二中学校から東京都立城南高等学校(現・東京都立六本木高等学校)に改称した時の城南一期生で、この時の同級生であり親交の深かった友人が大平透(声優・ナレーター)であった。
大松 博文(だいまつ ひろふみ、1921年2月12日 - 1… 大松 博文(だいまつ ひろふみ、1921年2月12日 - 1978年11月24日)は、日本のバレーボール指導者、政治家。参議院議員(1期)。香川県綾歌郡宇多津町出身。 ニチボー貝塚監督時代は、自ら育て上げた東洋の魔女を率いて、辞任までに175連勝を記録。1962年(昭和37年)、第4回女子世界選手権でソ連を破り優勝。国民的英雄として迎えられる。1964年東京オリンピックでは全日本女子を監督として金メダルに導く。「回転レシーブ」などを考案、その過酷な練習で「鬼の大松」ともいわれた。情報誌『imidas2001』(集英社)の「20世紀を創った人々550」では、バレーボールの分野で前田豊、猫田勝敏と並んで3人のうちの1人に数えられた。
前田 豊(まえだ ゆたか、1915年9月25日 - 1997… 前田 豊(まえだ ゆたか、1915年9月25日 - 1997年1月11日)は、日本のバレーボール選手(日本代表)、指導者。バレーボール日本男子代表監督、バレーボール日本女子代表初代監督、日本バレーボール協会副会長、国際バレーボール連盟(FIVB)副会長、アジアバレーボール連盟会長、日本体育協会理事、日本文化出版創業・社長など多くの要職に就き“バレー界の天皇”とも言われた。戦後日本のバレーボールの、国際舞台での活躍と底辺の広がり、両輪の発展に大きな役割を果たしたバレーボール指導者、日本のバレーボール育ての親。広島県佐伯郡廿日市町地御前(現廿日市市)出身。 全国家庭婦人バレーボール連盟(ママさんバレー)名誉会長を務めた前田琴子は妻、JOCマーケティング副委員長などを務めた元電通社員・前田実は長男、イトーヨーカドープリオール監督などを務めた前田健は三男。
長崎 重芳(ながさき しげよし、1914年 - 1997年)… 長崎 重芳(ながさき しげよし、1914年 - 1997年)は、日本のバレーボール選手、バレーボール指導者。元バレーボール全日本選手、元バレーボール日本男子代表監督。元日本バレーボール協会理事。 “重砲“と呼ばれた猛スパイクで、戦前最高の選手と謳われたバレーボーラー。“球神“とも“日本バレーの父“とも呼ばれた。広島県広島市出身。5寸9尺(約180センチ)、21貫(約80キロ)(中学4年時)。 広陵中学(現広陵高校)で野球をするつもりだったが、親の反対に遭い1927年、広島二中(現広島観音高校)に進学。陸上競技で大活躍したことで、排球部(バレーボール部)に勧誘された。多田徳雄下で黄金期を創った神戸高商(現神戸大学)の中心選手・高橋哲雄と鎔米二の指導を受け、中学上級生並みの体格と人並み外れた運動神経で、すぐに当時の9人制バレー、エースポジションである中衛左に入ると、2年時・14歳で早くも全日本候補となる。
稲山 壬子(いなやま じんし、1912年3月29日 - 19… 稲山 壬子(いなやま じんし、1912年3月29日 - 1996年4月18日)は、日本のバレーボール指導者。 埼玉県南埼玉郡宮代町出身。日本体育会体操学校(後の日本体育大学)を経て、1933年に東京千代田学園バレーボール部監督。1943年に久喜高等女学校(現久喜高校)バレーボール部監督に就任し、全国大会優勝4回を達成。同校をバレーボール名門校に導いた。 1962年に1964年東京オリンピック強化コーチに就任。同大会での金メダル獲得に陰ながら貢献した。 1969年に東京三洋電機バレー部監督に就任し、チームを日本リーグ昇格まで導いた。全く無名の新人だった前田悦智子を「三年以内に全日本のエースにする」と宣言し育成した。
高橋 哲雄(たかはし てつお、1906年(明治39年)8月1… 高橋 哲雄(たかはし てつお、1906年(明治39年)8月15日 - 1996年(平成8年)3月6日)は、広島県広島市出身の元日本のバレーボール選手、元バレーボール全日本選手。指導者、元日本バレーボール協会副理事長・名誉副会長。元大阪府バレーボール協会会長。広島高等師範附属中学校(現広島大学附属高校)~神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業(1928年)。「黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会」を創設する等、日本のバレーボールの草分け時代に、選手、指導者として、日本のバレーボール発展の礎を築いた。 多田徳雄監督下で日本バレーの草分けとなった神戸高商の中心選手として最強時代に貢献。在学中の1927年、当時唯一の国際大会だった極東選手権競技大会の第8回上海大会に神戸高商単独チームの主将として参加。
渡邊 真恵 は、日本の元女子バレーボール選手。
大友 愛 は、日本の元女子バレーボール選手。現在の戸籍名は秋… 大友 愛 は、日本の元女子バレーボール選手。現在の戸籍名は秋本 愛。
高橋 咲妃恵 は、日本の元女子バレーボール選手である。
早坂 梢依 は、日本の元女子バレーボール選手。
横田 紗椰香 は、日本の女子バレーボール選手である。
中田 紫乃 は、日本の元女子バレーボール選手。
佐藤 美弥 は、日本の元女子バレーボール選手。
佐藤 澪 は、日本の元女子バレーボール選手である。
宇賀神 みずき は、日本の元女子バレーボール選手である。
石田 瑞穂 は、日本の元女子バレーボール選手。