岩崎 與八郎(いわさき よはちろう、1902年(明治35年)… 岩崎 與八郎(いわさき よはちろう、1902年(明治35年)5月1日 - 1993年(平成5年)12月28日)は、鹿児島県の実業家で、岩崎産業グループの創業者である。岩崎与八郎と表記されている場合もある。 1902年(明治35年)5月1日、当時の鹿児島県囎唹郡岩川村(岩川町、大隅町を経て現在の曽於市の一部)に、父斎藤斉(さいとうひとし)と母岩崎たねの間に生まれる。父は宮崎県西諸県郡小林村(現在の小林市)出身の人物で、岩川の種畜場に来て働いているうちに岩崎たねと結婚したが、酒飲みであることをたねの両親に嫌われて與八郎誕生後まもなく離縁され、與八郎は岩崎姓で育つことになった。父親は、與八郎が小学生のうちに死去している。
樫山 純三(かしやま じゅんぞう、1901年9月21日 - … 樫山 純三(かしやま じゅんぞう、1901年9月21日 - 1986年6月1日)は、日本の実業家でオンワード樫山の創業者。また、競走馬の生産者や馬主としても知られる。 純三は競走馬のオーナー(馬主)としても有名でありみずからオンワード牧場を創設し、オーナーブリーダーとして数々の名馬を世に送り出した。また、ハードツービートで日本人で初めてフランスダービー(ジョッケクルブ賞)を勝利した国際的ホースマンでもあった。勝負服の服色は日本国内・国外ともに「黒、青袖」を使用。 純三の死後、夫人の樫山ハルが競馬事業を引き継いだ。牧場は2012年まで運営された。 樫山奨学財団30周年記念事業の一環として創設された学術賞。
吉田 五郎(よしだ ごろう、1900年 - 1993年)は、… 吉田 五郎(よしだ ごろう、1900年 - 1993年)は、日本の技術者で、キヤノンのルーツである精機光学研究所の創業者。 広島県福山市出身。小学生からカメラを分解し組み立てるというカメラ少年で、これが病みつきになり福山中学(現・福山誠之館高校)を学業半ばにして1917年上京。機械知識を生かして光学精密機械の輸入商社に出入りしたのが切っ掛けで映画の世界に入り、映写機関係の仕事に身を託した。この期の技術習得が実を結び、昭和の初めには映写機の修理、改良の域を脱し、製作にも手を伸ばしていた。日本初の本格的なトーキー映画といわれる『マダムと女房』(1931年)で使われた土橋式の録音機は土橋武夫・土橋晴夫兄弟の製作した物であるが、再生機は吉田が中国の上海で買って来た物が使われたという。
間宮 精一(まみや せいいち、1899年(明治32年)1月1… 間宮 精一(まみや せいいち、1899年(明治32年)1月17日 - 1989年(昭和64年)1月6日)は日本の発明家、カメラ設計者で、マミヤ光機製作所(後マミヤ光機株式会社を経て現マミヤ・オーピー)の創業者。 父は事業家兼発明家の間宮勝三郎で静岡県伊豆の国市大仁で木屋呉服店等様々なビジネスを営んでいた。木屋は「まみや宝くじたばこ店」(木屋間宮商店)として間宮勝三郎の末裔で鈴木貫太郎総理の縁戚者[要出典]により営業が続いている[いつまで?]。発明家でもあり生涯に計算機や金庫で30件程特許や実用新案を登録している。1919年(大正8年)間宮式金庫を発明し、同年間宮堂を創業しその事業に専念するようになった。
加藤 清二郎(かとう せいじろう、1898年4月8日 - 1… 加藤 清二郎(かとう せいじろう、1898年4月8日 - 1982年9月24日)は、レストラン聚楽の創業者で、昭和時代に飲食業で成功した実業家。小さな洋食店から、第二次世界大戦までに数十店舗を抱える一大チェーングループに育て、「食堂王」とまで呼ばれた。 新潟県中蒲原郡白根町(現・新潟市南区)の商人の子として生まれる。小学校卒業後、新潟市の海産物屋「島二」に丁稚奉公に出る。実業雑誌を愛読し、安田善次郎の「学問より実地が大切」を拠り所に、3年間奉公する。年季を終えたあと志願兵となり、2年ののち除隊。相場に手を出して失敗し、親族・縁者に迷惑をかける。肩身の狭い実家住まいをしているとき、樺太の軍事占領によりひと儲けした商人が出ていることを知り、親に金を借りて24歳で樺太に渡ったものの、商機を逃し、当地で軍役夫となる。
相賀 武夫(おうが たけお/おおが たけお、1897年4月2… 相賀 武夫(おうが たけお/おおが たけお、1897年4月2日 - 1938年8月12日)は、日本の出版事業家、小学館及び集英社の創業者。1932年(昭和7年)7月に相賀祥宏と改名している。長男は小学館第2代社長の相賀徹夫。孫は小学館第3代社長の相賀昌宏(徹夫の長男)。 岡山県都窪郡加茂村(現在の岡山市北区加茂)出身。1897年(明治30年)4月2日、庄屋を営む相賀虎右衛門の長男として生まれる。祖父の春治は村会議員を務め、私財を投げうって村の発展に尽くしていた。 父・虎右衛門の時代には生家が没落して貧しかったため、1910年(明治43年)3月に加茂尋常小学校(現・岡山市立加茂小学校)卒業後は書記見習として県立高松農学校(現・岡山県立高松農業高等学校)に書記見習として就職(後に書記代理へ昇進)。
鈴木 傳六(すずき でんろく、1896年〈明治29年〉7月2… 鈴木 傳六(すずき でんろく、1896年〈明治29年〉7月29日 - 1984年〈昭和59年〉5月28日)は、山形市にある菓子製造メーカーでん六の創業者。山形市議会議員や山形県議会議員を務めた。 1896年(明治29年)7月29日に山形県山形市上町に誕生。山形市立第二小学校卒業、山形県立山形中学校を中退。兄が始めた焼き麩づくりを手伝った。 1915年(大正4年)に近衛歩兵第2連隊入隊、師団の銃剣術大会で優勝した。陸軍上等兵となる。 1922年頃の26歳の時に妊娠していた妻を実家に預け単身上京し、神田の菓子種屋で働いた。関東大震災に遭遇し帰郷。 1924年(大正13年)11月山形市香澄町吹張に分家、菓子種「おこし」の製造販売で独立した。
山口 昇(やまぐち のぼる、1896年〈明治29年〉4月5日… 山口 昇(やまぐち のぼる、1896年〈明治29年〉4月5日 - 1976年〈昭和51年〉3月20日)は、日本の実業家であり、愛知県を主な販売エリアとする自動車ディーラー・愛知トヨタ自動車の創業者である。愛知県自動車配給社長、愛知トヨタ自動車社長・会長(初代)などを歴任した。 1896年(明治29年)、愛知県碧海郡新川町(現・碧南市)に生まれた。 1913年(大正2年)、慶應義塾商工学校に入学した。在学中は慶應普通部の野球部に所属し、腰本寿監督の下、投手・キャプテンとして1916年(大正5年)の第2回全国中等学校優勝野球大会に出場、投打に活躍し優勝に貢献した。この時のチームメイトには、エドウィン・ダンの三男である日米混血のジョン・ダン、ハワイ出身の日独混血の河野元彦などがいた。
戸上 信文(とがみ のぶふみ、1895年(明治28年)5月1… 戸上 信文(とがみ のぶふみ、1895年(明治28年)5月13日 - 1967年(昭和42年)8月9日)は、日本の技術者、実業家、経営者、戸上電機製作所創業者、日本タングステン創業者。 1895年(明治28年)熊本県に生まれる。電機学校(現・東京電機大学)卒業後、佐賀市の日本電機鉄工(製麺機の発明で知られる真崎照郷が設立した真崎鉄工場から製麺機以外の電気機械や高圧タービンポンプ部門を引き継いだ企業。社長は藤山雷太。真崎照郷も相談役に就任していた。)の技師時代に自動開閉器配電装置を開発したことで1919年(大正8年)に自動開閉器部を社内に設える事となり、これが戸上電機の源流となった。 1923年(大正12年)に交流電磁石実用化を契機に、1本の回線から昼間線と夜間線を自動的に切り替える「戸上式自動配線装置」と呼ばれる配電装置を考案した。
豊田 喜一郎(とよだ きいちろう、旧字体: 豐田喜一郞、18… 豊田 喜一郎(とよだ きいちろう、旧字体: 豐田喜一郞、1894年(明治27年)6月11日 - 1952年(昭和27年)3月27日)は、日本の経営者、技術者、トヨタ自動車創業者。位階は従五位。勲等は勲四等。豊田佐吉の長男。 トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)社長(第2代)、社団法人自動車技術会会長(第2代)などを歴任した。 豊田佐吉と佐原たみ(佐吉の妹の友人で最初の妻)の長男として生まれる。1892年(明治25年)から夫婦は東京市浅草外(当時の浅草区千束町)に住んでおり、里帰り出産のため静岡県敷知郡吉津村山口(現在の湖西市山口)で生まれるが、出生3か月のとき、貧困の中家庭を顧みることなく発明に没頭する夫に愛想を尽かした母親が家出したため祖父母の家で育つ。
斎藤 佐次郎(さいとう さじろう、1893年(明治26年)9… 斎藤 佐次郎(さいとう さじろう、1893年(明治26年)9月26日-1983年(昭和58年)12月11日)は、出版社金の星社の創業者。児童雑誌『金の船』(後『金の星』と改題)主宰者。 1893年(明治26年)父佐次郎(佐次郎と同名)の5男として生まれる。父親は人力車の防水幌や雨合羽の防水加工で財を成した。佐次郎が成人する前に両親と死別するが、父親の遺産により裕福な青年時代を送る。早稲田大学英文科卒業。在学中には坪内逍遥や島村抱月らの指導を受け、文学への道を志す。 1918年(大正7年)鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊したのに触発され、出版社キンノツノ社社長横山寿篤と児童雑誌創刊を決意。島崎藤村、若山牧水、西條八十、有島生馬らの賛同を得、さらに西條八十から野口雨情の紹介を受け、1919年(大正8年)11月、児童雑誌『金の船』を創刊、自ら執筆にも関わる。
岩井 盛次(いわい もりつぐ、1891年3月21日 - 19… 岩井 盛次(いわい もりつぐ、1891年3月21日 - 1974年3月20日)は、日本の実業家で、エコナックホールディングスの創業者でもある。 京都府京都市出身。1908年に京都市立第一商業学校を卒業した。1926年に日本レースを設立し、1942年に同社の社長に就任した。 近畿放送、京都銀行の各取締役などを歴任し、1965年4月に京都商工会議所会頭に就任した。1965年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1974年3月20日に腹部腫瘍のために死去。82歳没。
五藤 齊三(ごとう せいぞう、1891年1月31日 - 19… 五藤 齊三(ごとう せいぞう、1891年1月31日 - 1982年7月11日)は、日本の技術者・実業家で、天体望遠鏡やプラネタリウムなどの専門メーカー、五藤光学研究所の創業者。高知県生まれ。 父が司法官であったため、幼少時は宇和島市、高松市、大阪市と転居を繰り返した。 戦前の日本光学工業(現在のニコン)では、すでに小型の天体望遠鏡を製造しており、中学校や高等学校むけに販売していた。五藤はこれらの営業を担っていたが、その価格は、一般の学校で簡単に導入できるようなものではなく、販売は伸び悩んでいた。 また、当時(第一次世界大戦後)、ドイツから日本光学工業へ招聘されていた光学技術者から、「優れた光学機器を作れば必ず儲かる」とも聞かされた。
石原 広一郎(いしはら ひろいちろう、1890年(明治23年… 石原 広一郎(いしはら ひろいちろう、1890年(明治23年)1月26日 - 1970年(昭和45年)4月16日)は、日本の実業家で石原産業の創業者。 京都府京都市生まれ。1913年立命館大学法科専門部卒業。1916年にマレー半島に渡航し鉄鉱山の発見・開発に成功。東南アジア各地や日本国内での鉱山開発や、海運業へ事業を拡大した。1931年の満州事変勃発後、南進論提唱の好機が到来したとして日本に帰国し政治活動を展開、国家主義的団体神武会・明倫会を創立して世論を喚起し、二・二六事件では叛乱軍に資金を提供して逮捕された。戦後、A級戦犯容疑で巣鴨に拘禁されるも不起訴となり釈放された。 1890年(明治23年)京都府京都市に生まれる。
小倉 康臣(おぐら やすおみ、1889年11月29日 - 1… 小倉 康臣(おぐら やすおみ、1889年11月29日 - 1979年1月15日)は、ヤマト運輸創業者。東京都東京市京橋区数寄屋町二丁目(現・中央区銀座、数寄屋橋交差点付近)出身。 銀座の原料紙問屋「川善」の分家を経営していた両親(父・善兵衛、母・もと)の元で生まれ、8人目の三男であったことから八三郎と名付けられた(1930年2月に改名)。1902年3月の泰明小学校高等科2年卒業後は大手町の商工中学校に進学するも、川善の廃業により退学。長姉の嫁ぎ先で薪炭商を営む上田家の「山登屋」に預けられた。 東京外語学校の夜学で英語を学び、工場などで働いたのち、1914年5月25日(当時24歳)に手車による移動販売の「挽き八百屋」として独立し、京橋の大根河岸で野菜を仕入れ、銀座、新橋、芝、赤羽橋で売り歩いた。
津田 喜次郎(つだ きじろう、1888年7月11日 - 19… 津田 喜次郎(つだ きじろう、1888年7月11日 - 1959年)は、株式会社津田式ポンプ製作所の創業者であり、同社元社長、広島県立広島観音高等学校元PTA会長。紫綬褒章と紺綬褒章を受章。 明治21年(1888年)7月11日に広島県佐伯郡鹿川村に生まれる。その後、養子として親戚の津田氏に入籍した。 大正9年(1920年)10月、広島市広瀬町において、従来の手押しポンプを改良・考案し、合資会社・津田式ポンプ製作所を設立し「津田式ポンプ大臣號」と名付けたポンプの製造販売を行った。「菱形の中に大臣」の商標を使用した。 専売特許などを自身が持つ約30種以上の各種ポンプ製造に従事した。また地下水に含まれる塩分を薬品を用いずに完全に除去する機能を持つ浄水ポンプを発明、特許を取得した。
山岡 孫吉(やまおか まごきち、1888年(明治21年)3月… 山岡 孫吉(やまおか まごきち、1888年(明治21年)3月22日 - 1962年(昭和37年)3月8日)は、日本の実業家で、世界初の小型ディーゼルエンジンを開発したヤンマー(現・ヤンマーホールディングス)創業者。 産業用エンジンメーカー大手のヤンマー創業者。1888年(明治21年)滋賀県出身。尋常高等科卒業後、1903年(明治36年)3円60銭を手に持ち奉公に出、1905年(明治38年)大阪瓦斯工事人夫として仕事をしていた時にガスエンジンに出会い、技術を学ぶ。1906年(明治39年)独立し、1912年(明治45年)中古ガスエンジンブローカー業を開業し、1921年(大正10年)農業用小型石油エンジンメーカーとなり、ヤンマーを商標として用いた。
吉村 萬治郎(よしむら まんじろう、1886年(明治19年)… 吉村 萬治郎(よしむら まんじろう、1886年(明治19年)3月22日 - 1969年(昭和44年)5月23日)は、古河合名会社(古河財閥)副総帥、古河鉱業(現在の古河機械金属)社長、富士通信機製造(現在の富士通)創業者・初代社長。古河財閥創始者・古河市兵衛の大甥(兄弟姉妹の孫のこと)。 京都府生まれ。古河市兵衛の大甥であり、市兵衛の実兄(木村万治郎)の孫に当たる。父親は木村長兵衞。古河家親族の中川末吉らと共に財閥解体まで古河財閥の要職を歴任した。古河財閥総帥の古河虎之助は義兄(妻の兄)。
福岡 易之助(ふくおか やすのすけ、1885年9月28日 -… 福岡 易之助(ふくおか やすのすけ、1885年9月28日 - 1931年2月8日)は、白水社の創業者。現在の秋田県横手市(旧雄物川町福地)出身。俳号は雄川。 秋田県平鹿郡福地村深井(現・横手市雄物川町)の造り酒屋で、二百町歩の小作地に広大な山林を持つ素封家の長男として生まれる。旧制第三中学校(現秋田県立横手高等学校)から旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学仏文科を卒業した。 在学中に父が逝去したため、明治43年(1910年)の卒業後に帰郷し酒造業を継ぎ、農業振興にも力を入れる。大正3年(1914年)に郡会議員となるが、しがらみや因習に疲れ辞職。1917年、農業振興に見切りをつけ上京。 白水社を興してフランス文学の普及につとめる。
南 新助(みなみ しんすけ、1885年(明治18年) - 1… 南 新助(みなみ しんすけ、1885年(明治18年) - 1972年(昭和47年))は、日本最初の旅行会社の創業者。日本の団体旅行、企画旅行の草分け。 滋賀県栗太郡草津町(現 草津市)生まれ。東海道本線敷設の際、路線と草津駅建設の用地を無償提供するなど尽力した父が1889年(明治22年)、草津駅構内でただ一人国鉄立売営業権を与えられていたため、うばがもちや弁当の販売を家業としていた。その傍らそれに飽き足らず、「何か汽車を使って新しいことができないか」と日々考え続けていた。 南はある時、400人以上であれば汽車賃が半額になるということを知り、1905年(明治38年)旅行斡旋業の日本旅行会(今の日本旅行)を創業し、高野山参拝、伊勢神宮参拝を企画し実行した。
森 矗昶(もり のぶてる、1884年〈明治17年〉10月21… 森 矗昶(もり のぶてる、1884年〈明治17年〉10月21日 - 1941年〈昭和16年〉3月1日)は、日本の実業家、森コンツェルンの創業者、衆議院議員(3期)。位階は従五位勲四等。 弟は元衆議院議員の岩瀬亮。息子に政治家の森曉(長男)、森清(四男)、森美秀(五男)、娘婿に安西正夫(長女・満江の夫)、三木武夫(次女・睦子の夫)、田中覚(三女・三重子の夫)がいる。孫に森英介(五男・美秀の息子)、安西孝之(長女・満江の息子)、高橋紀世子(次女・睦子の娘)、松崎哲久(三女・三重子の息子)がいる。 少年時代から実学で知識と技術を体得し、時にヤマカンとよばれる事業に対する嗅覚によって化学工業の先達となった叩き上げの実業家であった。
岩波 茂雄(いわなみ しげお、1881年〈明治14年〉8月2… 岩波 茂雄(いわなみ しげお、1881年〈明治14年〉8月27日 - 1946年〈昭和21年〉4月25日)は、日本の出版人、岩波書店創業者。貴族院多額納税者議員。 次男の岩波雄二郎は岩波書店・二代目社長。孫の岩波律子は岩波ホール支配人。次女小百合は岩波書店会長の小林勇の妻。 長野県諏訪郡中洲村(現在の諏訪市中洲)の農家に生まれる。父義質は村の助役をしていた。 尋常小学校、高等小学校をへて、1895年(明治28年)に旧制諏訪実科中学校(現・諏訪清陵高)に進むも、在学中に父が病死し、戸主となる。母を助け農業をしていたが1899年に上京し、杉浦重剛を慕い、日本中学に入学。母が学資を仕送りしてくれた。ある時母親が上京すると茂雄は東京見物をさせようと思うも母は用事が済むとさっさと帰郷してしまった。
岩崎 俊弥(いわさき としや、明治14年(1881年)1月2… 岩崎 俊弥(いわさき としや、明治14年(1881年)1月28日 - 昭和5年(1930年)10月16日)は日本の実業家で、旭硝子の創業者。
下中 弥三郎(しもなか やさぶろう、1878年6月12日 -… 下中 弥三郎(しもなか やさぶろう、1878年6月12日 - 1961年2月21日)は、平凡社の創業者、教員組合の創始者、また労働運動や農民運動の指導者。下中芳岳ともいう。 1878年6月12日、兵庫県多紀郡今田村(現・丹波篠山市)に生まれ、幼くして父を亡くし陶工となる。1898年、神戸市雲中小学校の代用教員となり、小学校準教員検定試験に合格。1902年に上京、『児童新聞』や『婦女新聞』の編輯に携わる。1910年に中等教員検定試験教育科に合格し、1911年 - 1918年、埼玉県師範学校の嘱託教師となる。1919年(大正8年)、啓明会を結成(翌1920年に日本教員組合啓明会と改称)。学習権、教育委員会制度、教員組合結成の促進を要求した「教育改造の四綱領」を発表。
北畠 安五郎(きたばたけ やすごろう、 1875年〈明治8年… 北畠 安五郎(きたばたけ やすごろう、 1875年〈明治8年〉9月 - 1933年〈昭和8年〉)は、明治から昭和期の実業家、日本エナメル株式会社(現・タカラスタンダード)創業者。旧姓、河合。兄は、佐藤達次郎(初代東京医学専門学校長・第3代順天堂医院長・初代順天堂医科大学長)。 1875年(明治8年)9月、河合貞輔の三男として、東京府で生まれる。後に北畠市郎右衞門の養子となる。 その後、立教専修学校(現・立教大学)で修学。1906年(明治39年)、東京帝国大学医科大学薬学科を卒業。 卒業した後、ドイツに留学し、そこでホーローに出会う。 日本に帰国後、西欧の製品に劣らないホーロー製品をつくろうと、1912年(明治45年)5月、日本エナメル株式会社(現・タカラスタンダード)を設立。
小平 浪平(おだいら なみへい、1874年1月15日 - 1… 小平 浪平(おだいら なみへい、1874年1月15日 - 1951年10月5日)は、日本の技術者・実業家で、株式会社日立製作所の創業者である。 東京帝国大学工科大学電気工学科(現・東京大学工学部)を卒業し、日立製作所専務取締役や同社の初代取締役社長などを歴任した。 1910年には、国産初の5馬力誘導電動機(モーター)を完成させた。 小平は1874年1月15日、小平惣八、チヨの次男として栃木県下都賀郡家中村大字合戦場(現・栃木市都賀町合戦場)に生まれる。合戦場小学校(後に栃木小学校に転校)、栃木高等小学校を経て上京、東京英語学校を卒業。第一高等中学校を受験するも失敗し、その間に父が多額の借金を遺して病没。
川上 善兵衛(かわかみ ぜんべえ、1868年4月2日(慶応4… 川上 善兵衛(かわかみ ぜんべえ、1868年4月2日(慶応4年3月10日) - 1944年5月21日)は、新潟県上越市の岩の原葡萄園の創業者であり、「日本のワインの父」「日本のぶどうの父」「日本のワインぶどうの父」と呼ばれる。 岩の原ワインは、現在でも代表的な国産ワインとして人気が高い。
上野 房之助(うえの ふさのすけ、1861年2月23日〈文久… 上野 房之助(うえの ふさのすけ、1861年2月23日〈文久元年1月14日〉 - 没年不明)は、日本の商人(呉服商)、栃木県多額納税者、上野百貨店創業者。 茨城県新治郡土浦町(現・土浦市)出身。奥井久助の弟、大津順三郎の兄。栃木県宇都宮の上野家の3代目松次郎の長女カネの入夫となる。宇都宮市泉町本家の隣りに呉服太物商を開業する。「油屋呉服店」と称する。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は栃木県宇都宮市本郷町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
阪田 恒四郎(さかた つねしろう、安政4年(1857年)7月… 阪田 恒四郎(さかた つねしろう、安政4年(1857年)7月 - 昭和19年(1944年)3月5日)は、日本の実業家、サカタインクス創業者。俳人。大中寅二は女婿、阪田寛夫は孫、大浦みずきは曾孫にあたる。 阪田家は、代々紺屋の屋号で安芸国忠海(現在の広島県竹原市忠海)で海運業を営んでいた。恒四郎の父・林助は少年期に大坂へ出て幕府御用商の銅精錬所に奉公。恒四郎は大坂で生まれるが文久元年(1861年)、父の帰郷と共に4歳から広島忠海で育つ。23歳で広島県豊田郡役所に書記として採用される。恒四郎の次男・阪田素夫(阪田寛夫の父)他、のちに家業を継ぐ五男のうちの3人はいずれも忠海生まれ。明治28年(1895年)退職して広島市で銀行員となる。
亀井 万喜子(かめい まきこ、1855年4月22日(安政2年… 亀井 万喜子(かめい まきこ、1855年4月22日(安政2年3月6日) - 1927年3月24日)は、三省堂創業者。 江戸駿河台に生まれる。両親を幼くして亡くして明治維新となり、困窮を極めた。養子に亀井忠一を迎え、履物屋など、様々な商売を営んだが、1882年に神保町に移って始めた商売が古書店で、これが三省堂書店の礎となった。 当時、主に学生を相手に書籍を売り買いしていたが、ほとんどが洋書で、それはドイツ語や英語だった。万喜子も忠一もそれらを読むことができず、学生に騙され、高く買い、安く売ることが少なくなかった。そのため、万喜子はそれらを習うことにした。毎日、店を閉め、家事を終えてから出かけた。まず、ドイツ語、次に英語を身に付けた。
木村 九兵衛(きむら くへえ、安政元年2月28日(1854年… 木村 九兵衛(きむら くへえ、安政元年2月28日(1854年3月26日) - 昭和8年(1933年)7月28日)は、日本の明治初頭から昭和にかけて活動した大地主、両羽農工銀行と荘内貯蓄銀行の創業者、電力会社役員、政治家。山形県田川郡水沢村(現:鶴岡市)出身、東京大学農学部卒。 伊藤知正の4男として田川郡水沢村(後の上郷村)に生まれ、民吉と名付けられる。明治18年(1985年)に矢馳村(のちの大泉村)の豪農である木村九兵衛の婿養子に入る。明治24年(1891年)に家督相続。九兵衛を襲名した。 耕地整理事業に取り組んでいた九兵衛は東大卒業後、耕作地の水不足を解消するためにドイツからドイツ製の15馬力の電動機を輸入し、石川島造船所(IHI)製のポンプと組み合わせた「電力揚水機」を設置した。
瀬木 博尚(せき ひろなお、嘉永5年10月6日〈1852年1… 瀬木 博尚(せき ひろなお、嘉永5年10月6日〈1852年11月17日〉 - 1939年〈昭和14年〉1月22日)は博報堂の創業者。富山県富山市桃井町出身。 富山藩士の瀬木博重の長男として生まれる。 富山の役人を経て、明治27年(1884年)に上京し、星亨の「めさまし新聞」に入社。 明治28年(1895年)10月に東京都日本橋本銀町に教育雑誌の広告取次店「博報堂」を開業。明治30年(1897年)、神田区末広町に移転。明治43年(1910年)、日刊『内外通信』を発刊、社名を「内外通信社」と改称する。なお、広告部門には「広告部博報堂」の名称を継続使用した。大正3年(1914年)、神田区錦町に移転。大正13年(1924年)、株式会社化し、初代取締役社長に就任。
大橋 佐平(おおはし さへい、1836年2月8日〈天保6年1… 大橋 佐平(おおはし さへい、1836年2月8日〈天保6年12月22日〉 - 1901年〈明治34年〉11月3日)は、明治時代の実業家で、博文館創業者。 妻の弟は東京堂創業者の高橋新一郎。三男(長男と次男は早逝)は博文館第2代館主の大橋新太郎、四男は東京堂第2代主人の大橋省吾。長女の婿は博文館支配人で小説家の大橋乙羽、三女の婿は共同印刷創業者の大橋光吉。 越後長岡の商家に生まれ、幼時より行動力と賢明さをそなえて期待された。また母の薫陶を受けて、仏教の信仰に厚く、僧にすることも親族の間で話し合われたという。 15歳のとき、真言宗の僧籍にある叔父を頼って上京し、九州から江戸を回る大旅行を経験して見聞を広め、長岡藩御用達の家業を守りつつ、幕末激動の時代を過ごした。
曽我 朋義(そが ともよし)は、 慶應義塾大学環境情報学部教… 曽我 朋義(そが ともよし)は、 慶應義塾大学環境情報学部教授、慶應義塾大学先端生命科学研究所教授、慶應義塾大学医学部教授(兼担)、ヒューマン・メタボローム・テクノロジーズ(株)創業者、理化学研究所植物科学研究センター客員主管研究員。工学博士。専門分野は、メタボローム解析、分析化学、がん代謝。
橋本 百蔵(はしもと ももぞう)は、日本の美術商、銀座の画廊… 橋本 百蔵(はしもと ももぞう)は、日本の美術商、銀座の画廊月光荘創業者、橋本兵蔵の子。月光荘社長。 副社長時代、1967年、印刷会社経営者の中村曜子(中村紘子の母)を月光荘の経営に引き込む。みずからは会長となり、曜子を社長とし、1970年代中期から画廊ビジネスや不動産業などを大きく展開し、政財界を巻き込んで一時期は成功した。銀座月光荘ビル地下1階に限定会員制アートクラブ「サロン・ド・クレール」を開設し、そのサロンには、松山茂助(サッポロビール社長)、小山五郎(三井銀行社長)、太田剛(東洋電機製造社長)、伍堂輝雄(日本航空常勤顧問)、北裏喜一郎(野村證券社長)、永野重雄(新日本製鐵会長)、武見太郎(日本医師会会長)、谷村裕(東京証券取引所理事長)、駒井健一郎(日立製作所会長)、渡辺省吾(日興証券会長)、斎藤英四郎(日本経団連会長)、岡田茂(三越社長)、金鍾泌(大韓民国国務総理)、松前重義(社会党衆議院議員)、千宗室(茶道裏千家家元)、三島由紀夫(作家)、浅利慶太(演出家)、相沢英之(自由民主党衆議院議員)、中曽根康弘(内閣総理大臣)、石田博英(自由民主党衆議院議員)、円城寺次郎(日本経済新聞社会長)、嘉門安雄(美術評論家、東京都現代美術館長)といった財界人や文化人が集まった。
櫻井 慎也(さくらい しんや)は、日本製工芸品のオンラインス… 櫻井 慎也(さくらい しんや)は、日本製工芸品のオンラインストアおよびショールームを運営する職人.com株式会社の創業者兼代表取締役。 富山県小矢部市出身[要出典]。8歳から15歳までをシンガポールで過ごし、2003年に同志社大学商学部を卒業する。高砂香料工業に10カ月勤めたのち起業した[要出典]。約130カ国を訪れている旅人でもある。
立原 圭(たちはら きよし)は、日本の実業家、株式会社RIC… 立原 圭(たちはら きよし)は、日本の実業家、株式会社RICE CLOUD代表取締役、株式会社ストラテジット(のちのGMO AIコネクト株式会社)の創業者である。 ERP導入支援、SaaS導入支援、業務改善コンサルティング分野で活動する。 複数のIT関連企業にて事業開発、営業、SaaS導入支援などに従事しており、2017年には、コグラフ株式会社においてNetSuite(英語版)事業部を立ち上げた。 ストラテジットでは、SaaS ERPの標準機能を活用した導入手法やアジャイル型導入に早期から取り組み、SaaS ERPの普及に関わった。 また、SaaSベンダー向けに他社SaaSとのAPI連携を支援する「Master Hub API Platform」を展開し、SaaS連携・iPaaS領域における先駆的な取り組みの一つとなった。
新井 直之(あらい なおゆき 1972年 - )は、日本バト… 新井 直之(あらい なおゆき 1972年 - )は、日本バトラー&コンシェルジュの創業者であり、超富裕層向けに特化した執事サービスを提供している。フォーブス誌のランキングに名を連ねる世界的大富豪や、日本国内外の資産家、企業創業家など、資産50億円を超える顧客層を中心にサービスを展開している。。 一般社団法人日本執事協会の代表理事を務め、一般社団法人日本執事協会付属 日本執事学校の校長も兼任。 日本バトラー&コンシェルジュ株式会社 代表取締役社長、執事、ビジネス書作家。東京都北区王子出身、硝子工事会社を経営する家の長男として生まれ、中学・高校時代はバドミントン部の部長を務める。 明治大学政治経済学部卒業後、株式会社CSK(現:SCSK株式会社)、EMCジャパン株式会社(現:デル・テクノロジーズ株式会社)、SAPジャパン株式会社、日本オラクル株式会社を経て、2008年より日本バトラー&コンシェルジュ株式会社創立に参画し、代表取締役社長に就任し、現在に至る。
川村 弘(かわむら ひろし、生没年不詳)は、日本の実業家、株… 川村 弘(かわむら ひろし、生没年不詳)は、日本の実業家、株式会社シャンソン化粧品創業者・元代表取締役社長、静岡信用金庫(現・しずおか焼津信用金庫)元理事長、信金中央金庫非常勤理事。 静岡県出身。外科医の息子として生まれる。 立教大学に入学し、1930年(昭和5年)、同大学商学部(現・経済学部、経営学部)を卒業。 その後、静岡信用金庫(現・しずおか焼津信用金庫)の理事長を務める。 終戦となり、誰もが貧しく化粧品などなかなか使うことができない時代の中、日本でも欧米の女性のように美しく化粧する平和で文化的な時代が来てほしいとの願いから、終戦翌年の1946年(昭和21年)に、竝美産業株式会社を創業し、化粧品の製造を開始。
渕ノ上 弘和(ふちのうえ ひろかず)は、日本の不動産コンサル… 渕ノ上 弘和(ふちのうえ ひろかず)は、日本の不動産コンサルタント、実業家、株式会社FFP創業者・代表取締役、コンドミニアム・アセットマネジメント株式会社創業者・最高戦略責任者(CSO)である。 マンションの資産価値評価に関する独自理論「CoAMer(カマー)理論」を提唱している。 立教大学法学部法学科を2000年に卒業。2004年に有限会社F・F・P(後の株式会社FFP)を設立し、不動産コンサルタントとしての活動を開始した。 2008年より住友不動産建物サービス株式会社、2013年より株式会社東急コミュニティーに在籍し、マンションの資産価値の維持・向上業務に従事した。 2018年、コンドミニアム・アセットマネジメント株式会社を創業し、代表取締役に就任。