加田 克司(かだ かつじ、1931年3月18日 - 1996… 加田 克司(かだ かつじ、1931年3月18日 - 1996年8月24日)は、日本の囲碁棋士。大分県別府市出身、日本棋院所属、木谷實九段門下、九段。加納嘉徳、大平修三とともに戦後新三羽烏と言われた。堅実な碁風で、特に序盤に時間をかける長考で有名。また現代における詰碁創作の第一人者と評されていた。 中華民国青島市に生まれる。1945年4月に一家で祖父のいる天津に疎開。1946年3月に帰国し別府に住む。この年8月、中学3年の時に、神戸から別府を周遊した木谷實と五子局を打って勝ち、三子で負けるが、入門を認められ、木谷門下の戦後第1号として11月から内弟子となる。1947年初段。1948年二段。1950年三段。
井口 昭夫(いぐち あきお、1931年1月18日 - 200… 井口 昭夫(いぐち あきお、1931年1月18日 - 2008年5月8日)は、囲碁・将棋の観戦記者。兵庫県出身。 神戸市外国語大学卒業。1953年、毎日新聞社に入社。学芸部副部長、学芸部編集専門委員を経て、1982年編集委員。 将棋・囲碁担当記者として、約40年にわたって囲碁の本因坊戦、将棋の名人戦、王将戦の観戦記を書いた。 1989年、第一回将棋ペンクラブ大賞(新聞観戦記部門)を受賞。将棋ペンクラブ代表幹事(事務局長)。 2000年、大山康晴賞(第7回)を受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
大窪 一玄(おおくぼ いちげん、1929年(昭和4年)3月1… 大窪 一玄(おおくぼ いちげん、1929年(昭和4年)3月15日 - 2015年(平成27年)3月2日)は、日本の囲碁棋士。石川県出身、増淵辰子八段門下、日本棋院所属、九段。王座戦準優勝など。旧名幸雄。1999年現役引退。 石川県小松市に生まれる。1939年(昭和14年)増淵辰子に入門し、翌年院生。1944年初段。1946年に若手棋士の研究会「金曜会」参加。1948年大手合秋期2部優勝、同年藤沢庫之助を中心とした研究会「黎明会」参加。1949年五段。1950年大手合春期2部優勝。1953年青年棋士選手権戦2部優勝。1958年首相杯争奪高段者トーナメント優勝、七段。1963年十段戦敗者組決勝進出。
加納 嘉徳(かのう よしのり、1928年4月14日 - 19… 加納 嘉徳(かのう よしのり、1928年4月14日 - 1999年5月21日)は、日本の囲碁棋士。京都府出身、日本棋院所属、鈴木秀子五段門下、九段。日大国文科卒。本因坊戦リーグ4期など。大平修三、加田克司とともに、戦後新三羽烏と呼ばれた。日本棋院副理事長、幹事を歴任。 9歳の時に上京して、鈴木秀子に入門。1943年(昭和18年)入段。1948年(昭和23年)青年棋士選手権戦優勝。1952年(昭和27年)五段。1958年(昭和33年)本因坊戦リーグ入り(以後1964年(昭和39年)、1969年(昭和44年)、1970年(昭和45年)にリーグ入り)。1961年(昭和36年)第5期首相杯争奪戦優勝。1964年(昭和39年)八段。
伊藤 敬一(いとう けいいち、1928年2月27日 - 19… 伊藤 敬一(いとう けいいち、1928年2月27日 - 1992年7月22日)は、囲碁ライター。兵庫県出身。筆名=うえだひろし。 1951年、中央大学法学部卒業。在学中に囲碁部に在籍し、日本棋院に出入りし、1953年に囲碁ライターとなる。 雑誌「棋道」「囲碁クラブ」等に連載し、また十段戦、新人王戦の担当で、「週刊碁」「レッツ碁」に観戦記を執筆。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
榊原章二(さかきばら しょうじ、1926年(大正15年)1月… 榊原章二(さかきばら しょうじ、1926年(大正15年)1月2日 - 2008年(平成20年)4月28日)は、日本の囲碁棋士。愛知県豊橋市出身、村島誼紀名誉九段門下、日本棋院所属、九段。首相杯争奪高段者トーナメント優勝など。 1936年福田正義に入門、1937年村島誼紀に入門。1944年入段。1946年、青年棋士の研究機関「敲玉会」に参加、大手合後期第二部優勝、三段。1955年五段。1956年大手合第一部優勝、六段。1961年首相杯戦準優勝。1963年首相杯戦優勝。1964年第4期旧名人リーグ入り、首相杯戦準優勝。1965年第21期本因坊リーグ入り。1972年九段。1973年28期、1975年30期本因坊リーグ入り。
梶原 武雄(かじわら たけお、1923年(大正12年)2月2… 梶原 武雄(かじわら たけお、1923年(大正12年)2月25日 - 2009年(平成21年)11月28日) は、囲碁の棋士。新潟県佐渡市出身、日本棋院所属、九段、関山利一九段門下。優れた大局観と石の形にこだわる求道的な姿勢、及び若手棋士への薫陶で囲碁界に大きな影響を与え、また多くの新定石も生み出した。抉るような厳しい棋風は「ドリル攻め」「ヤスリ攻め」「部分感覚天下一品」と呼ばれ恐れられた。武田みさを五段は姉。 新潟県佐渡郡畑野村(現:佐渡市畑野)に、商家の七人兄弟の長男として生まれる。父は碁好きで、姉みさをが父の中学の同級生で棋正社の藤原七司に習っていた影響で碁を覚えた。父の仕事の関係で一家で上京。
杉内 雅男(すぎうち まさお、大正9年(1920年)10月2… 杉内 雅男(すぎうち まさお、大正9年(1920年)10月20日 - 平成29年(2017年)11月21日)は、囲碁棋士。宮崎県出身、日本棋院所属、井上一郎五段門下。主な実績はタイトル獲得2回(日本棋院早碁名人戦優勝、囲碁選手権戦優勝)、本因坊挑戦2回など。常に囲碁一筋であることから「囲碁の神様」と呼ばれた。夫人は杉内寿子九段。 昭和12年(1937年)に入段してから平成29年(2017年)に死去するまでの現役棋士生活は80年を超え、97歳の最年長現役棋士(当時)として最終対局を打ったのは死去の19日前であった。90歳を超えても打ち分けに近い年間成績を維持し、死去した2017年にも2勝を挙げるなど、その実力は最後まで健在であった。
北村 文男(きたむら ふみお、1920年10月4日 - 19… 北村 文男(きたむら ふみお、1920年10月4日 - 1993年1月14日)は、将棋棋士、囲碁棋士。三重県鈴鹿市出身。将棋では板谷四郎九段門下。日本将棋連盟棋士番号76。囲碁では関西棋院中部総本部所属のプロ三段、伊神肇六段(関西棋院中部総本部代表)門下。 現代の棋士制度上での、唯一の、囲碁・将棋双方のプロ棋士であった。 早稲田大学卒業後、教員の傍ら、1948年10月の第2回全日本アマチュア将棋名人戦で三重県代表として出場し優勝。1950年の第4回では西日本代表(西名人)となり全国準優勝。 その後、1956年に奨励会初段試験に合格し同年奨励会「予備クラス」に入り、当時順位戦から陥落して「予備クラス」入りしていた浅沼一、後に棋士となる木村嘉孝・内藤國雄・佐伯昌優・伊達康夫らを相手に、内藤に1敗のみの11勝1敗の成績で1期で昇段を決め、翌1957年に四段昇段。
伊予本 桃市(いよもと ももいち、1919年(大正8年) -… 伊予本 桃市(いよもと ももいち、1919年(大正8年) - 1974年(昭和49年)9月)は、日本の囲碁棋士。広島県出身、瀬越憲作門下、日本棋院所属、名誉八段。日本棋院中央会館の経営に携わり、国際囲碁協会を設立。会館の運営を巡って訴訟となり、日本棋院から退隠した。 広島県生口島に生まれる。1933年(昭和8年)瀬越憲作に入門。1935年初段。大手合で1941年前期、1943年前期第二部優勝。1952年五段。1954年六段。 1954年丸の内に日本棋院中央会館(館長岩本薫)が設立され、棋院と独立した中央会館運営委員会が運営に当たることとなると、運営委員となって運営に専念し、同年11月に開館となる。
星野紀(ほしの とし、1918年(大正7年)5月13日 - … 星野紀(ほしの とし、1918年(大正7年)5月13日 - 1991年(平成3年)2月12日 )は、囲碁の棋士。山梨県出身、竹田逸子四段門下、日本棋院所属、九段。 大月市に生まれる。1932年に中学を中退して上京し竹田逸子に入門し、1934年に入段。1938年に召集され、騎兵として1939年にノモンハンで重傷を負い入院、続いて青森県の連隊に配属されるが上官を殴って重営倉入りとなり、紀元節で恩赦になった。1942年二段。 1950年大手合後期第三部優勝、三段。1951年四段。1953年五段。1956年六段。1962年七段。1966年首相杯争奪高段者トーナメントに優勝。1969年八段。1970年本因坊戦リーグ入り。
半田 道玄(はんだ どうげん、大正4年(1915年)10月2… 半田 道玄(はんだ どうげん、大正4年(1915年)10月25日 - 昭和49年(1974年)4月13日)は、囲碁の棋士。広島県出身、鈴木為次郎名誉九段門下、日本棋院から関西棋院所属、九段。旧名は早巳。十段戦優勝、本因坊挑戦など。求道的な姿勢と、殿様碁とも言われた独特のゆったりした棋風で知られる。 広島県向島津部田生まれ、4歳で因島に移る。小学校入学頃に囲碁を覚え、1924年9歳で鈴木為次郎に入門するが、1か月で帰郷。1930年に大阪に移り、久保松勝喜代の研究会に参加するようになる。1934年入段し東京の大手合に参加。この頃、兄弟子の関山利一や、その弟子の梶原武雄らと研鑽する。1942年五段。1946年の第4期本因坊戦では予選を勝ち抜いて最終トーナメントに進出、初戦で藤沢庫之助八段に勝つが、2回戦で林有太郎七段に敗れる。
二十二世本因坊秀格(にじゅうにせいほんいぼう しゅうかく、1… 二十二世本因坊秀格(にじゅうにせいほんいぼう しゅうかく、1915年9月21日 - 1986年11月26日)本名:高川格(たかがわ かく)は、日本の囲碁棋士。本因坊戦9連覇の功績により名誉本因坊として高川秀格(たかがわ しゅうかく)と号し、後に二十二世本因坊を贈られる。和歌山県出身、光原伊太郎名誉八段門下。本因坊位の他にも、名人、十段等タイトル多数の、昭和を代表する名棋士の一人。「流水不争先」を信条とし、平明流とも言われる、合理的で大局観に明るい棋風。 和歌山県田辺町(現在の田辺市)生まれ。6歳頃に父の影響で碁を覚え、1925年に9歳で棋士を目指して上京し日本棋院に通うが、事情により2か月で帰郷する。
酒井 通温(さかい みちはる、1912年(大正元年)9月23… 酒井 通温(さかい みちはる、1912年(大正元年)9月23日)- 1997年(平成9年)1月2日)は、日本の囲碁棋士。三宅一夫七段門下、日本棋院所属、九段。本名保一。王冠戦優勝2回、本因坊戦リーグ入りなど。日本棋院中部総本部に所属、棋士会長を長く務めるなど、中京碁界の重鎮としてその隆盛に貢献した。酒井四兄弟の康雄、利雄、義允の長兄。酒井栄男七段は実子。 愛知県岡崎市に生まれる。1924年に名古屋在住の三宅一夫に入門。1927年入段。1932年四段。1940年五段。1948年、日本棋院東海支部から改称した東海本部に所属し、第5期本因坊戦の関西予選五段級に出場、炭野武司、窪内秀知、瀬川良雄、染谷一雄と連勝して「東海の鬼」と呼ばれた。
染谷 一雄(そめたに かずお、1912年(大正元年)9月19… 染谷 一雄(そめたに かずお、1912年(大正元年)9月19日 - 1980年(昭和55年)11月30日)は、日本の囲碁棋士。滋賀県出身、久保松勝喜代名誉九段門下、日本棋院関西総本部所属、九段。第4期本因坊戦最終予選ベスト4など。重厚で力戦型の棋風。 滋賀県神崎郡(現・東近江市)に生まれる。父は京都から無医村の永源寺町に派遣されて住み着いていた医師で、囲碁好きだった。9歳の時に片足が不自由になったため、父は体が不自由でも成功できる道のある囲碁を熱心に教えるようになった。京都で腕を磨き、1926年に久保松勝喜代に入門。1927年初段。1932年大手合春期乙組優勝、三段。1939年四段。その後も1941年まで内弟子を続け、久保松門の塾頭格として後輩を指導した。
鯛中 新(たいなか しん、1911年(明治44年)11月30… 鯛中 新(たいなか しん、1911年(明治44年)11月30日 - 1992年(平成4年)8月20日)は、日本の囲碁棋士。兵庫県出身、久保松勝喜代名誉九段門下、日本棋院、関西棋院に所属、九段。関西棋院早碁名人戦、関西棋院選手権戦優勝など。じっくりした棋風。 神戸市に生まれる。旧制神戸一中卒業。1927年に久保松勝喜代に入門。1929年初段。1942年五段。1946年六段。1950年の関西棋院設立に参加。以後関西棋院では橋本宇太郎八段に次ぐ六段として重鎮として活躍し、同年の日本棋院との東西対抗戦では杉内雅男に勝ち。続く勝ち抜き戦では副将として出場したが梶原武雄に敗れた。 1951年七段、第7期本因坊戦リーグ入りし、4勝2敗となって5人による同率決戦に進むが、1回戦で高川格に敗退。
三堀 将(みほり しょう、1910年2月14日 - 1996… 三堀 将(みほり しょう、1910年2月14日 - 1996年10月7日)は、日本のジャーナリスト、囲碁観戦記者、囲碁ライター。読売新聞社新聞監査委員長、報知新聞社副社長を歴任。 神奈川県出身。本名は将(ただし)。他の筆名は丘目山人(おかめ-さんじん)。 旧制静岡高等学校卒業。東京帝国大学経済学部卒業。1932年、読売新聞社に入社して囲碁担当となる。1938年から3年間、覆面子(4代目)の名で囲碁観戦記を執筆。呉清源対木谷実の「打ち込み十番碁」を取材するなど活躍。 戦後、出版部長、特信部長、新聞監査委員長などを経て1963年、報知新聞副社長。 1967年に辞任してフリーの囲碁ライターとして読売新聞社主催の棋聖戦などで健筆を振るい、囲碁界のご意見番的存在だった。
伊藤友恵(いとう ともえ、1907年(明治40年)12月10… 伊藤友恵(いとう ともえ、1907年(明治40年)12月10日 - 1987年(昭和62年)1月21日)は、囲碁の棋士。旧名は清子、旧姓は川田。栃木県出身、日本棋院所属、喜多文子名誉八段門下、七段。女流選手権戦5連覇を含む優勝7回など。力戦派で巴流、巴御前の異名を取った。 足利市に生まれる。1917年(大正6年)に方円社の喜多文子に入門。その後中央棋院に所属し、若手棋士の研究会六華会にも参加。1924年の日本棋院設立とともに初段となる。1927年秋期、1929年秋期、1930年秋期の大手合乙組優勝。1940年三段。1943年四段。1952年に第1期女流選手権戦で、決勝で武田みさおを破って優勝。翌年は挑戦者杉内寿子に敗れるが、1957年からは5連覇。
前田 陳爾(まえだ のぶあき、1907年〈明治40年〉11月… 前田 陳爾(まえだ のぶあき、1907年〈明治40年〉11月22日 - 1975年〈昭和50年〉7月3日)は、囲碁の棋士。兵庫県出身、日本棋院所属、九段、本因坊秀哉門下。詰碁創作の大家として知られ、「詰碁の神様」と称される。1947年囲碁新社結成。棋風は接近戦を得意とする力戦型で「攻めの前田」とも言われる。第1期王座戦準優勝、第1期最高位戦リーグ3位など。随筆での毒舌でも知られた。 兵庫県揖保郡新宮町(現たつの市)に生まれる。10歳頃に囲碁を始め、1920年に神戸に在住していた鳥居鍋次郎三段に師事、続いて久保松勝喜代五段に入門。1922年に久保松の推薦により、上京して本因坊秀哉の内弟子となる。中央棋院及び若手棋士の研究会である六華会に所属。
岩本 薫(いわもと かおる、1902年〈明治35年〉2月5日… 岩本 薫(いわもと かおる、1902年〈明治35年〉2月5日 - 1999年〈平成11年〉11月29日)は、大正・昭和の囲碁棋士。第3、4期本因坊で本因坊 薫和と号する。島根県益田市出身、広瀬平治郎八段門下。 中盤の戦いに強く、序盤はあちこちに散在する石が徐々に関連して相手に圧力をかけてくるところから「豆まき碁」と呼ばれた。 1945年の第3期本因坊戦での橋本昭宇本因坊との挑戦手合において、広島市郊外の五日市(現佐伯区五日市町)で行われた6番勝負の第2局は原爆下の対局として有名。1948年から日本棋院理事長、1954年から中央会館館長を歴任。囲碁の海外普及に尽力し、また私財を投じた岩本基金により、サンパウロ、アムステルダム、ニューヨーク、シアトルの囲碁会館設立に多大な貢献をした。
安永一(やすなが はじめ、1901年(明治34年)12月3日… 安永一(やすなが はじめ、1901年(明治34年)12月3日 - 1994年(平成6年)2月2日)は、アマチュアの囲碁棋士、囲碁評論家、ライター。兵庫県氷上郡出身。木谷実、呉清源と共著の『囲碁革命 新布石法』は特に有名。アマチュア棋士としても実力は一流で、中国流布石を創始したとも言われる。プロ棋士の育成もし、門下に小松英樹、谷口敏則、吉岡薫らがいる。
向井 一男(むかい かずお、1900年(明治33年)3月27… 向井 一男(むかい かずお、1900年(明治33年)3月27日 - 1969年(昭和44年)1月24日)は、日本の囲碁棋士。愛媛県出身、田坂信太郎門下、方円社、日本棋院所属、八段。1935年の全日本囲棋選手権大会優勝。晩年一時清純を名乗る。日本棋院棋士会長を務めた。 愛媛県越智郡伯方島に生まれる。1914年(大正3年)上京し、郷里に近い尾道出身で方円社の田坂信太郎に入門。1918年初段。1920年に若手棋士による六華会を設立。1924年三段時に日本棋院設立に参加し、1926年の院社対抗戦では4人抜き。この1926年から比叡山の修学院村に1年間籠る。 1935年四段時に本因坊戦の前哨戦である全日本囲棋選手権大会で、トーナメントを勝抜いて鈴木為次郎、呉清源とのリーグ戦出場。
小野田 千代太郎(おのだ ちよたろう、1896年(明治29年… 小野田 千代太郎(おのだ ちよたろう、1896年(明治29年)3月18日- 1944年(昭和19年)1月11日)は、日本の囲碁棋士。東京出身、方円社、日本棋院、棋正社などに所属、八段。院社対抗戦などで活躍し、強腕で鬼田強太郎の異名を取った。登山家としても著名。 東京京橋に金融業を営む父を持って生まれ、8歳頃から父が打っているのを見て碁を覚える。9歳の時には当時14歳の加藤信に七子で打ったといい、また本因坊秀栄、吉田菊子などに教えを受け、1907年12歳から方円社塾生となる。その後関星月発起で少年囲碁会が催された際に、坊門で2歳下の小岸壮二と対戦するが4連敗で先相先に打ち込まれ、次いで頭山満の計らいで数度の十番碁を打つが定先に打ち込まれた。
久保松 勝喜代(くぼまつ かつきよ、1894年(明治27年)… 久保松 勝喜代(くぼまつ かつきよ、1894年(明治27年)10月25日 - 1941年(昭和16年)12月15日)は、囲碁棋士。兵庫県出身。方円社、日本棋院に所属、名誉九段。昭和初期の関西囲碁界の重鎮であり、橋本宇太郎、木谷實らを弟子としながら東京に送り出した他、多くの棋士を育てた。「偉大なる素人」と呼ばれ、大模様の碁を得意とし、初手天元も研究した。連珠八段でもあり、久保松機山を名乗った。 尼崎市生まれ。5歳の時に父が打っているのを見て碁を覚える。6歳で父を亡くし、伯父の後見で育つ。特定の棋士に師事することはなく、ほとんど独学で棋力を磨いた。9歳の時に禅晶寺の碁会で泉秀節に九子で対局して勝ち、秀節は養子にすることを望んだが伯父が許さなかった。
瀬越 憲作(せごえ けんさく、1889年〈明治22年〉5月2… 瀬越 憲作(せごえ けんさく、1889年〈明治22年〉5月22日 - 1972年〈昭和47年〉7月27日)は、大正、昭和時代の囲碁棋士。広島県佐伯郡能美村(現広島県江田島市)出身。方円社、日本棋院などに所属、名誉九段。1946年から48年に日本棋院理事長を務めるなど、棋院運営や囲碁普及に大きく貢献した"日本棋院の父"。 父は県会議員も務めた家で次男として生まれた。育った能美島は昔から囲碁が盛んな土地柄。祖父が本因坊秀元から初段を受けるほどの碁好きで、5歳の時に眼病と耳を患っていた間に、祖父から碁の手ほどきを受け、中学校に入学した頃には、二、三段くらいの人とは互角に戦えるようになっていた。広島一中(現・広島県立国泰寺高校)では賀屋興宣らと同級だった。
鈴木為次郎(すずき ためじろう、1883年(明治16年)5月… 鈴木為次郎(すずき ためじろう、1883年(明治16年)5月24日 - 1960年(昭和35年)11月20日)は、囲碁の棋士。愛知県生まれ、巌崎健造門下、方円社、裨聖会、棋正社、日本棋院に所属、名誉九段。読みが深く粘り強い棋風で、長考派としても知られる。「旭将軍」の異名をとった。妻は鈴木秀子四段。
野沢竹朝(のざわ ちくちょう、1881年(明治14年) - … 野沢竹朝(のざわ ちくちょう、1881年(明治14年) - 1931年(昭和6年)1月)は、囲碁の棋士。島根県生まれ、本因坊秀栄門下、七段。「常勝将軍」の異名をとる。毒舌で知られ、本因坊家から破門、日本棋院と棋正社の院社対抗戦では棋正社として出場した。 元出雲藩士野沢助之進の三男として島根県松江市に生まれる。6歳から碁石を手にし、10歳頃には囲碁の神童と謳われ、独学ながら1892年に方円社に入塾し、大阪に移っては田淵米蔵に師事。1896年に父と名古屋に移ってからは二段格の本多七兵衛と交流し、この頃には高崎泰策に三子の力があった。1903年に本因坊秀栄に入門し、飛付き二段となる。同年に三段、1907年には四段となる。
井上 孝平(いのうえ こうへい、1877年(明治10年)11… 井上 孝平(いのうえ こうへい、1877年(明治10年)11月 - 1941年(昭和16年)2月11日)は、明治から昭和時代の囲碁棋士。埼玉県入間郡高麗村生まれ、方円社、本因坊秀哉門下に所属。六段。 幼少から囲碁をたしなみ、少年時代には入間の郡代小僧と称されて知られていた。17歳頃に方円社の巌崎健造に、見習い初段として岩佐銈とともに入門、それとともに本因坊秀栄にも教えを受けた。1900年に方円社より初段を認められる。同年に國學院大學を卒業し、文筆業を志し、脚本家や新聞記者を目指したが、その後は囲碁の道に進む。1905年から06年に関西地方を行脚して力を付け、帰京後に岩佐銈五段と三段格の手合で対局したところ、東京日日新聞への棋譜掲載にあたり三段免許を薦められ、本因坊秀元門下として三段を受けた。
広瀬 平治郎(ひろせ へいじろう、1865年10月31日〈慶… 広瀬 平治郎(ひろせ へいじろう、1865年10月31日〈慶応元年9月12日〉 - 1940年〈昭和15年〉5月16日)は、日本の囲碁棋士。方円社5代目社長、八段。 美作国苫田郡東苫田村(現・岡山県津山市)の農家に生まれる。幼時から学問に秀でており、12、3歳頃に父、兄の影響で碁を覚えてたちまち周りの者を上回る。兄弟が多く家が貧しかったため、17歳で大阪に出て地方新聞編集の職に就き、20歳で東京で農商務省に勤務し、女流棋士伊藤繁に付いて碁を学ぶ。1891年(明治24年)、26歳で囲碁専業に身を投じて方円社に入り、翌92年に初段を許された。1893年二段、1895年三段、1898年四段。方円社では『囲碁新報』『初学独習新報』など雑誌執筆、発行に務めて文才も謳われ、巌崎健造社長の元では副社長格として腕をふるった。
巌崎 健造(いわさき けんぞう、天保12年9月1日(1841… 巌崎 健造(いわさき けんぞう、天保12年9月1日(1841年10月15日) - 大正2年(1913年)10月2日)は、囲碁の棋士。武蔵国出身、9世安井算知門下、八段。元の名は海老沢健造。方円社3代目社長として、碁界のもう一方の本因坊秀栄とともに明治後半の囲碁界を取り仕切り発展に努めた。 多摩郡田無村(現・東京都西東京市)の旅人宿の次男に生まれ、幼名は鍋吉。父や親戚の影響で7歳の頃から囲碁を嗜んだ。家が零落したため8歳の時に新座郡新倉村東福寺に預けられ忍治となる。和尚実願の碁の相手をしていたが、実願は才能を見て太田雄蔵に弟子入りさせ、当時本因坊秀和に星目で打ち1目勝している。12歳の頃に実願が大病にかかった際には、近隣にて賭碁で薬代を稼いだともいう。
四宮 米蔵(しのみや よねぞう、1769年(明和6年) - … 四宮 米蔵(しのみや よねぞう、1769年(明和6年) - 1835年(天保6年)は、囲碁の棋士。淡路国津名郡上畑村(現兵庫県淡路市木曽上畑)出身。賭碁師として全国を遍歴し、阿波の米蔵の名を馳せた。後に本因坊門下、四段。晩年は一生軒無案を号す。跡目時代の本因坊丈和との十一番碁がある。 特に師に付くこともなく独学で碁を学び、享保・文政の頃に賭碁師として諸国を巡って三千両以上を稼ぎ、四、五段の力があるとも言われて、その名を知られていた。 1820年(文政3年)に阿波藩主阿波守蜂須賀斉昌の伴として初めて江戸へ出て、本因坊家に赴き手合を求めた。当主本因坊元丈は当時六段の跡目丈和と二子で対戦させ、米蔵9目負となる。