篠原 新三(しのはら しんぞう、1889年〈明治22年〉7月… 篠原 新三(しのはら しんぞう、1889年〈明治22年〉7月9日 - 1966年〈昭和41年〉4月13日)は日本の画家・水彩画家である。水彩画の普及と信州での美術の発展に多大に貢献した。 長野県上水内郡芹田村(現・長野市中御所)に資産家である篠原勝之助の三男として生まれる。長野商業学校(現・長野商業高等学校)在学中、長野師範学校で開催された水彩画研究会に参加。河野通勢、草川信を知り、共に絵画グループを結成する。 卒業後上京し、日本水彩画会研究所に入り、日本水彩画の父・大下藤次郎の指導を受ける。大正元年(1911年)太平洋画会会員となり、大正2年(1913年)丸山晩霞ら総勢37名と日本水彩画会を創立。
足立 源一郎(あだち げんいちろう、1889年〈明治22年〉… 足立 源一郎(あだち げんいちろう、1889年〈明治22年〉7月8日 - 1973年〈昭和48年〉3月31日)は、日本の画家、作家、登山家。山岳作家として国内外に足跡を残し、『滝谷ドームの北壁』『北穂高岳南峰』など、数々の名作を世に送り出した。 大阪府大阪市南船場生まれ。1905年に京都市立美術工芸学校(現:京都市立芸術大学)に入学し、翌年からは京都岡崎に新設された関西美術院にも通って浅井忠や鹿子木孟郎の指導を受けた。 1907年に上京して太平洋画会研究所に入る。さらに柚木久太の勧めで1914年から渡欧。1914年〜1918年、1923年〜1926年の7年のパリへの渡欧を経て画家としての基礎を学ぶ。
中島 陟(なかじま のぼる、1889年7月 - 1958年2… 中島 陟(なかじま のぼる、1889年7月 - 1958年2月)は、日本の実業家・都市計画家。多摩湖鉄道株式会社常務、駿豆鉄道、箱根土地各株式会社取締役歴任。堤康次郎の正妻川崎文の妹婿。兵庫県生まれ。 明治22年(1889年)兵庫県出石郡に生まれる。 1907年から東京物理学校(現東京理科大学)、及び日英義塾で2年間ずつ学ぶ。 大正3年(1914年)宮内省帝室林野管理局に勤務。大正8年(1919年)宮内省御料野境界査定官吏。 大正9年(1920年)東京外国語学校(現東京外国語大学)専修科独逸語部入学。大正10年(1921年)攻玉社工学校で講師を勤める。大正11年3月大学を卒業。箱根土地株式会社に入社し、堤康次郎と西武グループの形成を図る。
片多 徳郎(かたた とくろう、明治22年(1889年)6月2… 片多 徳郎(かたた とくろう、明治22年(1889年)6月24日 - 昭和9年(1934年)4月27日)は、大分県出身の洋画家である。 大分県西国東郡高田町(現・豊後高田市)生まれ。 明治45年(1912年)、東京美術学校卒業。文展第3回に『夜の自画像』、第4回に『黄菊白菊』、第5回に『或る人の母』を出品した。第10回出品の『婦女沐浴』と第11回出品の『伎女舞踏図』は、当時では珍しい伝統的な題材と復古的な重厚な色彩とが異色で、以後、帝展における日本化された洋画の代表者と目され、大正7年(1918年)『花下美人』、大正8年(1919年)『霹靂』、昭和4年(1929年)『秋果図』、昭和7年(1932年)『秋果一枝』を帝展に出品した。
上野山 清貢(うえのやま きよつぐ、1889年6月9日 - … 上野山 清貢(うえのやま きよつぐ、1889年6月9日 - 1960年1月1日)は、日本の画家。俳優の上野山功一は長男。素木しづとの一人娘、茂登山櫻子の子に、茂登山東一郎(画家)、茂登山清文(視覚文化研究者、元放送大学客員教授/元名古屋芸術大学特任教授/元名古屋大学教授)がいる。 北海道札幌郡江別村(現・江別市)生まれ。北海道師範学校図画専科(現北海道教育大学)修了。 小学校代用教員として図画などを教え、同志と「エルム画会」を結成。その後、画家を志して1911年(明治44年)に上京した。太平洋画会研究所に学び、黒田清輝、岡田三郎助に教えを受ける。1915年(大正4年)に作家・素木しづと結婚。1917年しづが死去し悲嘆に暮れる。
佐藤 哲三郎(さとう てつさぶろう、1889年〈明治22年〉… 佐藤 哲三郎(さとう てつさぶろう、1889年〈明治22年〉5月5日 - 1958年〈昭和33年〉12月31日)は、日本の洋画家。 新潟県新潟市寄居町(現 新潟市中央区寄居町)の教育者・佐藤荘松の三男として出生。 1907年(明治40年)3月に新潟中学校を卒業、1912年(明治45年)3月に東京美術学校西洋画科を卒業。 1912年(大正元年)10月の第6回文展で『化粧』により三等賞を受賞、1913年(大正2年)4月の第3回東京勧業展覧会で『紅き燈』により二等賞を受賞。 二科会の創立会員となるが、文展、帝展にも出品し続けた。 1920年(大正9年)3月に東京美術学校の同期の萬鉄五郎、神津港人、熊岡美彦、片多徳郎、斎藤素巌らと14人で美術団体の四十年社を結成、1929年(昭和4年)2月に青山熊治らと第一美術協会を創立。
横井 弘三(よこい ひろぞう/こうぞう、1889年〈明治22… 横井 弘三(よこい ひろぞう/こうぞう、1889年〈明治22年〉5月 - 1965年〈昭和40年〉10月11日)は、日本の洋画家。 戸籍名は「ひろぞう」だが、「こうぞう」と呼ばれることも多い。別名に銀河、釣月、耕雲など。丹念に描かれた素朴な印象の作品から、「日本のアンリ・ルソー」と呼ばれた。 長野県下伊那郡飯田町(現在の飯田市)に生まれ、3歳ごろ家族で上京し、東京下町で育った。私立大成中学校在学中から東京美術学校への進学を希望していたが、父の強硬な反対にあい断念、早稲田大学商学部に進む。 しかし、画家への夢を諦めることができず、2年で大学を中退して東京電燈に就職。独学で油絵を学ぶ。そして彗星の如く26歳で中央画壇に登場。
熊岡 美彦(くまおか よしひこ、1889年3月9日 - 19… 熊岡 美彦(くまおか よしひこ、1889年3月9日 - 1944年10月1日)は茨城県出身の洋画家。 石岡市生まれ。実家は製糸業を営む素封家。石岡第一尋常小学校在学中に地元の南画家・鬼沢小蘭に日本画を学ぶ。土浦中学校を経て、1909年東京美術学校西洋画科に入学し和田英作、藤島武二に師事する。同期の首席は萬鉄五郎。1913年同校卒。1926年、第1回帝国美術院賞を受賞する。同年フランスへ遊学。1929年帰国。1932年、斎藤与里らとともに東光会を結成。 1939年(昭和14年)4月、陸軍美術協会が発足するに当たり発起人の一人として名を連ねた。同年『珠江口掃海』『虎門要塞攻撃』を第5回海洋美術展に出品。
永田春水(ながた しゅんすい、1889年2月18日 - 19… 永田春水(ながた しゅんすい、1889年2月18日 - 1970年5月1日)は、日本画家。本名は永田良亮。 1889年(明治22年)2月18日、茨城県北相馬郡相馬町(現取手市藤代)に生れる。1907年、茨城県立龍ケ崎中学校(現 茨城県立竜ヶ崎第一高等学校・附属中学校)を卒業後、一家で上野池之端へ移る。荒木寛畝、寺崎広業、結城素明に師事。1913年に東京美術学校(現:東京藝術大学)日本画科を卒業後、国華社に入り古画研究に従事した。1920年に渡欧して仏画模写などに約1年間たずさわった。1924年の日華連合展では国賓として北京に招かれ、出品作は袁世凱中華民国大統領が買い上げた。第6回帝展出品作「花柘榴・立葵」はフィラデルフィア万博に出品され、同地美術館に収蔵。
平井 楳仙(ひらい ばいせん、1889年1月5日 - 196… 平井 楳仙(ひらい ばいせん、1889年1月5日 - 1969年8月30日)は、京都府京都市生まれの日本画家。帝国美術院展覧会審査委員。本名は平井秀三。 1906年(明治39年)に京都市立美術工芸学校絵画科卒業。1907年(明治40年)新古美術展四等受賞(夕月)第1回文展入選(宮苑の朝)。 1910年(明治43年)に京都市立美術工芸学校卒業生入江波光・榊原紫峰らによる研究会「桃花会」を結成し、翌年には、榊原紫峰・野長瀬晩花・星野空外ら京都大学文学研究者たちと「バトサヤ」を立ち上げる。文部省美術展覧会(初期文展・新文展)・帝国美術院展覧会に無鑑査出品を続け、戦後は後援会の楳推会を中心に活躍した。
橋浦 泰雄(はしうら やすお、1888年(明治21年)11月… 橋浦 泰雄(はしうら やすお、1888年(明治21年)11月30日 - 1979年(昭和54年)11月21日)は、日本の社会運動家、民俗学者、画家である。 鳥取県岩美郡大岩村(現在の岩美町)に生まれる。鳥取高等小学校(現在の鳥取市立久松小学校)卒業後、実家で経営していた養蚕業蚕や雑貨商売に携わった。後に実弟である橋浦時雄と共に片山潜らと親交を持ち、社会運動活動を始める。これによって1918年(大正9年)には弟と共に日本社会主義同盟の創設に携わるが、翌1919年(大正10年)に発生した第2回メーデーに関与したとして、約2か月間拘留される処分を受けた。 1923年(大正14年)には日本プロレタリア文芸連盟の結成にも携わり、その1928年(昭和3年)には日本プロレタリア美術家同盟となりその画家や委員長としての活動も始める。
鍋井 克之(なべい かつゆき、1888年8月18日 - 19… 鍋井 克之(なべい かつゆき、1888年8月18日 - 1969年1月11日)は、日本の洋画家。 大阪府出身。旧姓は田丸。東京美術学校卒。1915年「秋の連山」で二科賞。フランスなどに留学後、1923年二科会会員となり、1924年小出楢重、黒田重太郎らと大阪に信濃橋洋画研究所を設立。1947年二紀会の結成に参加。1950年「朝の勝浦港」などで芸術院賞受賞。1964年浪速芸術大学教授。宇野浩二と親しくその挿絵を多く描いた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
小林 和作(こばやし わさく、1888年8月14日 - 19… 小林 和作(こばやし わさく、1888年8月14日 - 1974年11月4日)は、日本の洋画家。主に風景画を手がけた。 1888年、山口県吉敷郡秋穂町(現・山口市)の裕福な地主の家に生まれる。生まれつき、吃音があった。1908年、京都市立美術工芸学校卒業。日本画家の川北霞峰に師事し、号を「霞村」とする。1910年、京都市立絵画専門学校(現 京都市立芸術大学)に入学。在学中、第4回文展に入選。1913年、同校を卒業。1918年頃、日本画から洋画に転向し、鹿子木孟郎の画塾に通う。1922年、上京して梅原龍三郎・中川一政・林武らの指導を受ける。1925年、第3回春陽会で春陽会賞を受賞。翌年も出品し、春陽会賞を受賞した。
樺島 勝一(かばしま かついち、本名:椛島 勝一、1888年… 樺島 勝一(かばしま かついち、本名:椛島 勝一、1888年7月21日 - 1965年5月31日)は、日本の挿絵画家、漫画家。 長崎県諫早市出身。代表作に『正チャンの冒険』『敵中横断三百里』『亜細亜の曙』『吼える密林』など。精緻な画風から「ペン画の神様」と呼ばれた。 長崎県北高来郡諫早村(現:諫早市)に生まれる。4歳で鹿児島市へ転居し、鹿児島商業学校へ進学するも、生来の吃音のため商人には向かないと考え中退。上京して画業に入るが、貧しいため美術学校に通う事はかなわなかった。しかし、洋書の『ジオグラフィック・マガジン』のペン画を見て、独学で細密描写の技法を確立し、博文館の雑誌などで挿絵を描くようになる。
村上 華岳(むらかみ かがく、1888年〈明治21年〉7月3… 村上 華岳(むらかみ かがく、1888年〈明治21年〉7月3日 - 1939年〈昭和14年〉11月11日)は、大正~昭和期の日本画家。 1888年(明治21年)、大阪(北区松ケ枝町)に生まれる。本名は武田震一(のち村上震一)。甲州武田氏の末裔。家庭の事情により幼い頃に実父母のもとを離れ、叔母の嫁ぎ先である神戸の村上家に預けられて、神戸の小学校に通った。1901年(明治34年)、震一13歳の時には実父が死に、実母は再婚して行方知れずとなり、少年であった震一が武田家の家督を継ぐこととなった。3年後の1904年(明治37年)、武田家の廃家が許可され、震一は養父母の姓である「村上」を名乗ることとなる。父方の祖母は、日本初の感化院とされる「池上感化院」を自宅に設立した池上雪枝。
岡本 帰一(おかもと きいち、1888年6月12日 - 19… 岡本 帰一(おかもと きいち、1888年6月12日 - 1930年12月29日)は、童画家。兵庫県洲本に新聞社勤務の父・岡本甚吉と母・もとの長男として生まれ、東京で育った。1906年、東京市立第一中学校卒業。白馬会葵橋洋画研究所で油絵を学ぶ。1912年に岸田劉生や木村荘八らによって設立されたフュウザン会に創設メンバーとして参加。その後、童話雑誌「金の船(のちに「金の星」に改題)」、「コドモノクニ」に挿絵を描き始めた。1930年12月、腸チフスにより死去。弟子にまつやまふみお、岩岡とも枝、川島はるよらがいる。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
中村 清太郎(なかむら せいたろう、1888年4月30日 -… 中村 清太郎(なかむら せいたろう、1888年4月30日 - 1967年12月20日)は、日本の登山家、山岳画家。 川端玉章、岡田三郎助、藤島武二に師事した。 東京府浅草区出身。東京府立第三中学校(現東京都立両国高等学校)を経て、1911年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。実業家の加賀正太郎は中学・高商の同級生で友人。 近代登山の黎明期に北アルプスなどに登り、小島烏水らと赤石山脈の初縦走を行うなどした。針ノ木岳の命名者、クモマツマキチョウの発見者でもある。 また、本郷絵画研究所で絵画を学び、1936年には足立源一郎らと日本山岳画協会を設立した。1950年日本山岳会名誉会員。 晩年は日本登山史の執筆を行っていたが、1965年、図書館への行き帰りの際、タクシーに撥ねられ断筆となり、1967年に阿佐ヶ谷の自宅で死去した。
高畠 華宵(たかばたけ かしょう、1888年(明治21年)4… 高畠 華宵(たかばたけ かしょう、1888年(明治21年)4月6日 - 1966年(昭和41年)7月31日)は、日本の画家。本名、高畠幸吉。 愛媛県宇和島市裡町に生まれ、京都市立美術工芸学校日本画科卒業。大正から昭和初期にかけて、華宵の絵は当時の少年少女の間で絶大な人気を得た。宇和島市長・衆議院議員を務めた高畠亀太郎は、実兄。 1905年京都市立美術工芸学校を中退、1906年関西美術院に学び、上京して寺崎広業に師事した。当座は生活苦に喘いでいたが、1911年(明治44年)に「華宵」名義で発表した津村順天堂「中将湯」の広告画で一躍有名になる。アール・ヌーボーやユーゲントシュティール、特にオーブリー・ビアズリーの影響を受けたとされるシャープなペン画によるモダンな絵はそれまでの広告イラストとは一線を画したもので、世間の注目を集めた。
梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう、1888年〈明治21… 梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう、1888年〈明治21年〉3月9日 - 1986年〈昭和61年〉1月16日)は、日本の洋画家。京都府京都市下京区生まれ。はじめ龍三郎、1914年(大正3年)までは梅原 良三郎(うめはら りょうざぶろう)と名乗り、再び龍三郎と名乗った。 ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術・琳派・南画といった日本の伝統的な美術を自由奔放に取り入れ、絢爛な色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開。昭和の一時代を通じて日本洋画界の重鎮として君臨した。 京都府京都市下京区生まれ。生家は染物問屋だった。京都府立第二中学校(現・京都府立鳥羽高等学校)を中退し、伊藤快彦の画塾・鍾美会で学んだ後、浅井忠が主催する聖護院洋画研究所(現・関西美術院)に入った。
森脇 忠(もりわき ただし、1888年(明治21年)3月3日… 森脇 忠(もりわき ただし、1888年(明治21年)3月3日 - 1949年(昭和24年)10月13日)は、日本の洋画家である。 島根県に生まれ、東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学する。1914年(大正3年)に卒業後は同年に自身の作品が文展に初入選され、以後官展にも出品を続けた。1920年(大正9年)には第三高等学校(現在の京都大学)にて教鞭を執り、1941年(昭和16年)までその職にあたった。また勤務中の1920年および1922年(大正11年)には帝展に出品され特選となり、1924年(大正13年)には京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)の講師も務めた。 その後は中沢弘光に師事し、彼の作風に影響を受け室内や風景をシチュエーションとした裸婦画をよくし、油彩による日本風俗の表現を試みた作品の制作に携わる。
西岡 瑞穂(にしおか みずほ、1888年2月25日 - 19… 西岡 瑞穂(にしおか みずほ、1888年2月25日 - 1973年12月8日)は、日本の洋画家。 高知県安芸郡安田村(現・安田町)出身。高知県立第三中学校(現・高知県立安芸中学校・高等学校)、一年間の小学校代用教員を経て、1912年東京美術学校(現・東京芸術大学)図画師範科卒業。鹿児島県内の中学校教諭を経て、1913年長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)教諭。教え子に彫刻家清水多嘉示、洋画家高橋貞一郎がいる。長野県立諏訪高等女学校(現・長野県諏訪二葉高等学校)教諭。1919年長野県立野沢中学校(現・長野県野沢北高等学校)教諭。1920年旅順高等女学校教諭。1925年フランスへ留学。
小塚 義一郎(こづか ぎいちろう、1888年(明治21年) … 小塚 義一郎(こづか ぎいちろう、1888年(明治21年) - 1973年(昭和48年))は、日本の大正・昭和期の洋画家、版画家。師範学校、高等女学校で図画教師を務めた。洋画グループ「毒地社」を結成し山形の近代美術界を牽引した。 1888年(明治21年)、静岡県に生まれる。1907年(明治40年)、静岡県立静岡中学校卒業。1912年(明治45年)、東京美術学校図画師範科卒業。1916年、文部省図画講習会修了。 群馬県立高等女学校教諭を経て、1922年(大正11年)に山形県師範学校の図画教師となる。同時期に山形県立山形工業学校の図画教師となった為本自治雄と出会い、二人で山形に初めての公募洋画展を開催するため、旧制山形高等学校で文芸活動をしていた今泉篤男、山形県師範学校生の奈良村正史・逸見誠一・石澤健吉に呼びかけ、6名で洋画グループ「毒地社」を結成。
長崎 敏音(ながさき としお、1888年 - 不詳)は、日本… 長崎 敏音(ながさき としお、1888年 - 不詳)は、日本の土木技術者、都市計画家。 福井県に生まれる。1898年、工手学校土木科卒業後、福井県、つづいて千葉県に勤務した。1906年、東京市に移籍。月島や芝浦などの埋立事業と河川の改修工事に従事。また、工手学校の教授を務める。 1918年、内務省に都市計画課が設置された際、招請されて六大都市の都市計画に参画。1919年、都市計画実行に移すため、名古屋市土木課長に転出、第一期街路築造事業として六大幹線の計画を樹立し実施する。これは同市の新都市としての計画の噂失となった。 その後、呉市土木課長に転じ、呉港海陸連絡工事などにあたる。1923年には、豊橋市土木課長に招かれ、その後技師長、工務課長、水道部長を兼任、同市の土木、都市計画、営繕事業の推進に尽くした。
佐藤 耕方(さとう こうほう、1888年〈明治21年〉‐19… 佐藤 耕方(さとう こうほう、1888年〈明治21年〉‐1937年〈昭和12年〉5月28日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。本名は藤太郎。水野年方および尾形月耕の門人であった。 1888年、岩手県水沢(現・奥州市)に、文化年間から繁栄してきた太物商の5代目当主として生まれる。藤太郎の出生直後に母ハツは19歳で死去、一関から来た父は実家に戻ってしまい、戸籍上で祖父弥一と祖母ミノの子となった。しかし、祖父は小学校在学中に死去。小学校卒業後は呉服修業のため上京、奉公先の子守をしながら近所に住む水野年方宅の庭先において年方が絵を描くのを見ることが日課となり、その熱心さを買われて年方に入門する。
富田 温一郎(とみた おんいちろう、1887年〈明治20年〉… 富田 温一郎(とみた おんいちろう、1887年〈明治20年〉10月21日 - 1954年〈昭和29年〉7月15日)は、日本の洋画家。雅号は温信。 石川県金沢区中主馬町(現 金沢市菊川)の旧加賀藩藩士・富田信貫の長男として出生。 5、6歳の頃、父の富田信貫が石油事業を行うため新潟県に移住、中蒲原郡金津村・新津町(現 新潟市秋葉区)や新潟市下大川前通2ノ町(現 新潟市中央区)などに居住。 1906年(明治39年)3月に新潟中学校を卒業、1911年(明治44年)3月に東京美術学校西洋画科を卒業。 帝国劇場の背景を描く仕事の傍ら油彩画の制作を続け、1912年(明治45年)の第1回光風会展で『顏』と『藥』により最高賞の今村奨励賞を受賞、1914年(大正3年)の第8回文展で『大學校庭の初夏』が初入選、1920年(大正9年)の第2回帝展で『母の肖像』が特選、1922年(大正11年)の平和記念東京博覧会で『河口』により二等賞を受賞、1928年(昭和3年)の第9回帝展で『子供とその母』が特選。
小出 楢重(こいで ならしげ、1887年〈明治20年〉10月… 小出 楢重(こいで ならしげ、1887年〈明治20年〉10月13日 - 1931年〈昭和6年〉2月13日)は、日本の洋画家。大正から昭和初期に活躍した。 1887年(明治20年)、大阪府大阪市南区長堀橋筋一丁目(現在の中央区東心斎橋)に生まれる。小学校から中学時代にかけて渡辺祥益に日本画の手ほどきを受ける。1907年(明治40年)、東京美術学校(現在の東京藝術大学)西洋画科を受験したものの不合格、日本画科への編入を許されて入学する。下村観山の指導を受けるが、のち洋画に転向。1919年東京藝術大学の西洋画家で、和田英作、藤島武二らに師事。(大正8年)、二科展出品作の『Nの家族』で樗牛賞を受ける。翌年は『少女お梅の像』が二科賞を受賞。
児島 喜久雄(こじま きくお、兒島 喜久雄、1887年〈明治… 児島 喜久雄(こじま きくお、兒島 喜久雄、1887年〈明治20年〉10月10日 - 1950年〈昭和25年〉7月5日)は、白樺派の画家、美学・美術史の研究者。特にレオナルド・ダ・ヴィンチの研究により知られている。東北帝国大学助教授を経て、東京帝国大学・東京大学教授。 1887年(明治20年)、東京府四谷区舟町(現在の東京都新宿区舟町)で児島益謙の五男として出生。学習院初等科在学中より里見弴と親しく、1903年、16歳の時に画家の三宅克己に入門。1908年、里見らの回覧雑誌『麦』に参加。第一高等学校在学時には、岩元禎の指導も受けた。 1909年、東京帝国大学文科大学文学科に入学。哲学科で美学を専攻した。
吉田 ふじを(よしだ ふじを、1887年10月5日 - 19… 吉田 ふじを(よしだ ふじを、1887年10月5日 - 1987年5月1日)は、日本の洋画家。吉田博の妻であり、夫婦ともに洋画家である。 洋画家である吉田嘉三郎と、その妻の吉田るい(英語版)の三女。小学生の頃に上京し、11歳で小山正太郎の画塾不同舎に入門。当時はまだ義兄であった吉田博とともに1903年にアメリカへ渡り、ともに展覧会を開いたことでアメリカ各地で高評価を得た。1907年に文展に入選している。帰国後は、文展や太平洋画会、日本初の女性による洋画団体「朱葉会」などで活躍し、朱葉会では名誉会長を務めた。戦後には油彩画や木版画なども描き、花を題材とした作品などを生み出した。2002年、府中市美術館で「吉田ふじを展」が開催され、翌年には福岡市美術館でも同じ展覧会名の展覧会が開かれた。
入江 波光(いりえ はこう、1887年9月26日 - 194… 入江 波光(いりえ はこう、1887年9月26日 - 1948年6月9日)は、日本画家。 本名幾治郎。京都市上京区に生まれる。1913年(大正2年)京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校研究科で竹内栖鳳らに師事し修了。1915年(大正4年)同窓生であった岡本神草、甲斐荘楠音や玉村方久斗らと前衛的日本画研究集団「密栗会」の結成に参加。1918年(大正7年)母校絵画専門学校の助教授に就任し古画の模写にあたる。この年国画創作協会展に『降魔』を出品して国画賞を受賞、翌年同人に推された。1922年に京都府の命で菊池契月らとともに外遊。1928年(昭和3年)国画創作協会日本画部解散後は画壇を離れ、後進の育成と再び模写に打ち込んだ。
服部 亮英(はっとり りょうえい、1887年9月26日 - … 服部 亮英(はっとり りょうえい、1887年9月26日 - 1955年9月28日)は、日本の洋画家、漫画家である。本来は洋画家であるものの、岡本一平らと東京漫画会で活躍した漫画家として、または、似顔絵画家としてむしろ知られている。三重県の真宗高田派慈教寺の長男として生まれるが、東京美術学校を卒業したのちには東京都大田区の馬込に住み、今でいう馬込文士村在住の芸術家とも交流があった。 仏教学者の服部正明は息子。
堅山 南風(かたやま なんぷう、1887年〈明治20年〉9月… 堅山 南風(かたやま なんぷう、1887年〈明治20年〉9月12日 - 1980年〈昭和55年〉12月30日)は、熊本県熊本市出身の日本画家。本名は堅山 熊次。 横山大観に認められ、院展、日展などで活躍した。花鳥画、特に鯉を中心とする秀逸な魚類を描いた。1914年(大正3年)の日本芸術院再興にも加わり、同芸術院常務理事、日展参事などを務めた。ほか、熊本市名誉市民、文化功労者、文化勲章受章者であり、大正から昭和にかけての日本画界を支える中核だった。代表作に「白雨」。 1887年9月12日、熊本県熊本市に三男として生まれる。1888年に母を、1893年に父をと早くに父母を失い、以後祖父によって養育された。
川上 凉花(かわかみ りょうか、1887年9月 - 1921… 川上 凉花(かわかみ りょうか、1887年9月 - 1921年5月5日)は明治・大正期の日本の画家。本名は川上乙次郎。 東京府東京市本郷区本郷(現・東京都文京区本郷)に生まれる。1906年に太平洋画会研究所に入る。1907年に岸田劉生や川村信雄とともに紫紅会を結成し、美術回覧雑誌『紫紅』の編輯にたずさわる。1910年に川村信雄・萬鐵五郎・三並花弟・松村巽らと雑草会を結成し、本郷教会で展覧会を催す。1911年、二六新報の美術記者となる。1912年、フュウザン会に出品。1914年から中野で大森商二(熊本県山鹿町出身、東大中退の洋画家)と自炊生活をはじめ、この年から木炭による風景画を描く。1915年、東中野にアトリエを構え、越後・佐渡に旅行する。
郷原 古統(ごうばら ことう、1887年8月8日 - 196… 郷原 古統(ごうばら ことう、1887年8月8日 - 1965年4月6日)は、日本統治時代の台湾で活躍した日本の画家、美術教育者。本名は郷原藤一郎。 長野県東筑摩郡広丘村(現塩尻市)出身。堀江家に生まれ、伯父で広丘村村長の郷原保三郎の養子となる。母方の従兄弟に歌人の太田水穂がいた。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)を経て、1907年に東京美術学校日本画科に首席入学し、図画師範科に転じて寺崎広業に師事し、1910年に卒業。京都で美術教師として教壇に立った後、1917年に台湾に渡り、旧制台中中学校に赴任する。1927年に設立された台湾美術展覧会で創立委員や審査員を務めた。1932年に「栴檀社」を主宰し、多くの門弟を育成した。
榊原 紫峰(さかきばら しほう、1887年〈明治20年〉8月… 榊原 紫峰(さかきばら しほう、1887年〈明治20年〉8月8日 - 1971年〈昭和46年〉1月7日)は、京都市出身の日本画家。本名は安造。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
小絲 源太郎(こいと げんたろう、新字体:小糸 源太郎、18… 小絲 源太郎(こいと げんたろう、新字体:小糸 源太郎、1887年〈明治20年〉7月13日 - 1978年〈昭和53年〉2月6日)は、洋画家、版画家。東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)生まれ。 小絲源四郎、はなの長男として生まれる。生家は東京市下谷区上野元黒門町20番地(現在の東京都台東区)にあった料理屋で、「揚出し」の名で知られた。1904年(明治37年)に東京の神田中学校を卒業、白馬会の展覧会で藤島武二の「蝶」を見て感動、画家を志す。翌春、藤島の指導する白馬会駒込研究所に入り、デッサンを学ぶ。 1911年(明治42年)に東京美術学校金工科卒業、同年西洋画科に転入するが中退。在学中の1910年(明治43年)、文展に入選。
中村 彝(なかむら つね、1887年〈明治20年〉7月3日 … 中村 彝(なかむら つね、1887年〈明治20年〉7月3日 - 1924年〈大正13年〉12月24日)は、明治の終わりから大正期の洋画家。 1988年、茨城県近代美術館敷地内に下落合にあった中村のアトリエを新築復元した「中村彝アトリエ」が創設された。 なお、1968年(昭和43年)にザ・ヒロサワ・シティ会館(水戸市千波町)入口に有志らで組織する中村彝会が「中村彝君像」(堀進二作)を建立したが、2025年(令和7年)1月6日に県近代美術館敷地内の「中村彝アトリエ」近くに移設されることとなった。 2013年(平成25年)新宿区下落合に残るアトリエ跡が復元され、「新宿区立中村彝アトリエ記念館」としてオープンした。
山脇 敏子(やまわき としこ、本名:山脇 トシコ、1887年… 山脇 敏子(やまわき としこ、本名:山脇 トシコ、1887年〈明治20年〉6月14日 - 1960年〈昭和35年〉11月2日)は、日本の洋画家、服飾手芸家、研究家。教育者、山脇洋裁学院(現・山脇美術専門学校)創設者。日本の服飾デザイナー先駆者。 立体裁断や実寸による独自の割り出し法を広め、手芸や編物の分野でも欧州の新しい傾向をいち早く紹介、昭和初期のモガモードを創るなど戦後ファッションをリードした。また戦前・戦後を通じ多くの後進も育て、雑誌・テレビなどでも活躍し手芸・服飾、礼儀作法関係本を多数遺した。 洋裁店「アザレ」は、1964年に南青山骨董通りのアタリー(athalie)へ引き継がれ、現在に至る。
石井 鶴三(いしい つるぞう、1887年(明治20年)6月5… 石井 鶴三(いしい つるぞう、1887年(明治20年)6月5日 - 1973年(昭和48年)3月17日)は、日本の彫刻家、版画家、洋画家。 画家鈴木鵞湖の孫、画家石井鼎湖の三男、石井柏亭の弟として東京府下谷区仲御徒士町(現・台東区上野)に生まれる。洋画を不同舎にて小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、1905年創刊の雑誌『平旦』にウィリアム・ニコルソンの作品を模倣した自画自刻による木版画『虎』を掲載した。1910年に彫刻を学んで東京美術学校卒、1911年文展で「荒川岳」が入賞、1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品、二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞、明治の末年から山本鼎と交流を深め、創作版画の先駆者として知られるようになり、1918年、日本創作版画協会を結成、1919年、木版画『日本風景版画集』第9集(東京近郊)を、1920年、木版画『日本風景版画集』第10集(日本アルプス)を刊行した。
小村 雪岱(こむら せったい、明治20年(1887年)3月2… 小村 雪岱(こむら せったい、明治20年(1887年)3月22日 - 昭和15年(1940年)10月17日)は、大正から昭和初期の日本画家、版画家、挿絵画家、装幀家。 明治20年(1887年)、埼玉県川越市郭町に父小村繁門(しげかど)、母もんの長男として生まれる。本名は泰助。明治24年(1891年)に父が病没し、翌年母が小村家より離縁されたため、幼くして両親を失い、伯父の小村万吉に養育されることになった。明治33年(1900年)、坂戸尋常高等小学校を卒業した雪岱は、翌明治34年(1901年)、東京の神田神保町に住む叔母の家に寄宿し始めた。明治35年(1902年)、叔母の世話で、日本橋檜物町に住む外務省勤務の書家安並賢輔方で学僕となる。
秦 テルヲ(はだ てるを、明治20年(1887年)3月20日… 秦 テルヲ(はだ てるを、明治20年(1887年)3月20日 - 昭和20年(1945年)12月26日)は、明治から昭和にかけて活動した日本画家。本名、輝男。名前の読みについては、広島市内の秦姓はすべて静音で「はた」と読むというが、テルヲ自身は「はだ」と濁音で読ませた。 明治20年3月20日広島市に生まれる。幼少期に一家で京都市に移住するが、まもなく父が死去。貧困の中で明治37年京都市美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)図案科を卒業する。千總の輸出用ビロード工場に勤める傍ら、京都や神戸の貧困街や労働者の写生に励む。 明治42年、前衛的な日本画家たちの研究会と展覧会を目的に千種掃雲らによって結成された「丙午画会」に参加。
梶原 貫五(かじわら かんご、1887年3月6日 - 195… 梶原 貫五(かじわら かんご、1887年3月6日 - 1958年12月14日)は、日本の洋画家である。 福岡市出身。福岡県立中学修猷館を中退。1910年上京して東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝や藤島武二に師事する。在学中の1914年には東京大正博覧会に「化粧の後」を出品し受賞。同年の第3回光風会展に「女」を出品、1916年第4回光風会展では初入選を果たす。1916年3月東京美術学校を卒業。 1917年光風会第5回展に「裸体」で今村奨励賞を受賞、1928年光風会々友、1931年第18回展で光風会会員となる。 官展には、1916年第10回文部省美術展覧会(文展)に「縁陰」「窓際」が初入選となり、第11回文展「想韻」、文展の後身である帝国美術院展覧会(帝展)は、1922年第4回展「九月の日」を出品以来毎年出品し、第5回帝展「芽立ち頃」、第7回展「赤い日傘」などが主な作品である。
土田 麦僊う(つちだ ばくせん、 1887年(明治20年)2… 土田 麦僊う(つちだ ばくせん、 1887年(明治20年)2月9日 - 1936年(昭和11年)6月10日)は大正~昭和期の日本画家である。 明治20年(1887年)、新潟県佐渡郡新穂村(現佐渡市新穂)の農家の三男として生まれる。本名は金二。哲学者の土田杏村(茂)は弟である。明治37年(1904年)、竹内栖鳳に弟子入り。明治44年(1911年)、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)を卒業している。同年には小野竹喬らとともに前衛的な絵画運動の会である仮面会(ル・マスク)を結成。黒猫会に参加。文展には在学中の明治41年(1908年)から出品していた。この頃の作品にはゴーギャンの影響が見られる。
望月 桂(もちづき かつら、1887年(明治20)1月11日… 望月 桂(もちづき かつら、1887年(明治20)1月11日 - 1975年(昭和50)12月13日)は、アナキストの画家、デザイナー、漫画家である。漫画家としては筆名を犀川 凡太郎(さいかわ ぼんたろう)とする。
清水 登之(しみず とし、1887年(明治20年)1月1日 … 清水 登之(しみず とし、1887年(明治20年)1月1日 - 1945年(昭和20年)12月7日)は、栃木県出身の画家。 栃木県下都賀郡国府村大字大塚(現・栃木市大塚町)で、清水藤十郎・ムラ夫妻の長男として生まれる。弟は東亜同文書院教授や外交官となった清水董三。(旧制)栃木県立栃木中学校から陸軍士官学校への進学を志し成城学校に転校。1906年に同校を卒業するも陸軍士官学校への受験に失敗し、翌年には単身アメリカ合衆国へ渡航する。暫くはシアトルで肉体労働に従事するが、1912年にオランダ人画家フォッコ・タダマが同地で開いていた画塾に入門した(同時期、洋画家の田中保や石垣栄太郎もここで学んでいる)。
小田嶋 十黄(おだじま じゅっこう、1887年 - 1978… 小田嶋 十黄(おだじま じゅっこう、1887年 - 1978年2月5日)は、東京市本郷区出身の日本の男性俳人、俳画家、洋画家。本名は小田嶋 義(おだじま よし)。別号に得魚洞。元社団法人現代俳画協会顧問。元パイロット万年筆顧問。 小学校卒業後、12歳で高尾山薬王院に入って僧となり、同寺の僧で俳誌「俳諧草紙」の主要俳人であった南南浪の勧めにより渡辺水巴に師事し俳句を学んだ。のち還俗し、洋画家を経て、俳句・俳画に専心するに至る。とりわけ俳画に独自の境地を拓いたことで知られ、現代俳画協会顧問、俳誌「南柯」顧問を務めるなど、斯界の発展に貢献した。著書に『俳画入門』『俳画への道』、句集に『ほそ道』などがある。
藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 - 1… 藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 - 1968年1月29日)は日本生まれの画家・彫刻家。戦前よりフランスのパリで活動、猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びたエコール・ド・パリの代表的な画家である。フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・フジタ(Léonard Foujita)。
横井 礼以(よこい れいじ、1886年〈明治19年〉10月1… 横井 礼以(よこい れいじ、1886年〈明治19年〉10月1日 - 1980年〈昭和55年〉6月22日)は、日本の画家。勲等は勲四等。名古屋造形芸術短期大学名誉教授、社団法人二紀会名誉会員。本名は横井 禮一(よこい れいいち)。当初は横井 禮市(よこい れいいち)との筆名を用いた。なお、本名の「禮一」、および、かつての筆名の「禮市」の「禮」は「礼」の旧字体であるため、横井 礼一(よこい れいいち)、横井 礼市(よこい れいいち)とも表記される。なお、筆名の「礼以」については新字体を用いている。 緑ヶ丘洋画研究所主宰、二科会参与、第二紀会委員、名古屋造形芸術短期大学造形芸術科教授などを歴任した。 愛知県海部郡弥富村(現弥富市)出身の洋画家である。
亀高 文子(かめたか ふみこ、1886年〈明治19年〉7月9… 亀高 文子(かめたか ふみこ、1886年〈明治19年〉7月9日 - 1977年〈昭和52年〉9月16日)は、明治 - 昭和時代の洋画家。 1886年(明治19年)に横浜で生まれた。 1902年(明治35年)女子美術学校洋画科に入学。 1907年(明治40年)女子美術大学卒業後、東京勧業博覧会に行き、満谷国四郎の作品に感銘を受け、師事する。その後太平洋画研究会にて、中村不折からデッサンを学ぶ。 1909年(明治42年)に第3回文展に初出品。その際に出品した「白かすり」が入選した。 1911年(明治44年)に第5回文展に「読書」を出品。こちらも入選した。 1913年(大正2年)に第7回文展に「離れゆく心」を出品。
花井 又太郎(はない またたろう、1886年7月6日 - 1… 花井 又太郎(はない またたろう、1886年7月6日 - 1974年12月7日)は、日本の都市計画家。土木技術者。愛知県宝飯郡赤坂村生まれ。 1913年(大正2年)東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。朝鮮総督府勤務の後、1920年から大阪市に転じ、都市計画部技術課長や大阪市地下鉄の初代建設事務所長を務める。 1931年(昭和6年)から懇願されて名古屋市土木部長に迎えられる。1939年には土木局長。1942年から終戦までは市助役を務めている(後任は田淵寿郎)。その間に名古屋駅前土地区画整理事業や東山公園開設、中川運河開削事業といった都市計画事業を推進するかたわら、都市計画地方委員会愛知委員会各種委員をつとめる。
岡本 一平(おかもと いっぺい、1886年〈明治19年〉6月… 岡本 一平(おかもと いっぺい、1886年〈明治19年〉6月11日 - 1948年〈昭和23年〉10月11日)は、日本の画家・漫画家・文筆家・仏教研究家。妻は歌人・小説家の岡本かの子。長男は芸術家の岡本太郎。 義弟(妹の夫)に洋画家の池部鈞がおり、甥は俳優の池部良。 津藩に仕えた儒学者、岡本安五郎の次男で書家の岡本可亭(本名:良信(喜信)、通称:竹二郎)と母・正の長男として北海道函館区汐見町に生まれる。東京・大手町の商工中学校から東京美術学校西洋画科に進学し、藤島武二に師事する。この時美校の同級生、中井金三の仲介で大貫カノ(岡本かの子)と知り合い、後に和田英作の媒酌で2人は結婚するが岡本家に受け入れられず、2人だけの新居を構えた。