木村 作次郎(きむら さくじろう、明治5年7月5日(1872… 木村 作次郎(きむら さくじろう、明治5年7月5日(1872年8月8日) - 昭和23年(1948年)12月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 岐阜県安八郡大垣町(現在の大垣市)出身。上田甚助の長男として生まれ、木村家の婿養子となった。東京法学院(現在の中央大学)で学び、雑誌「濃州」を発刊した。のち日刊に改め、美濃新聞社、美濃大正新聞社の経営にあたった。大垣町会議員、安八郡会議員、大垣市会議員、大垣市会副議長、岐阜県会議員を歴任した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回・第20回でも再選された。
渋川 玄耳(しぶかわ げんじ、1872年6月3日(明治5年4… 渋川 玄耳(しぶかわ げんじ、1872年6月3日(明治5年4月28日) - 1926年(大正15年)4月9日)は、明治期に活躍したジャーナリスト、随筆家、俳人。佐賀県出身。本名渋川柳次郎。ほかに薮野椋十(やぶの むくじゅう)の筆名を用いる。 佐賀県杵島郡西川登村小田志(現武雄市西川登町小田志)出身。長崎商業を卒業後、法律家を志し上京。獨逸学協会中学校および國學院で学び、東京法学院(現中央大学)に進み卒業。高等文官試験に合格し、福島県いわき市平区裁判所の裁判官となる。その後、陸軍法務官として熊本県の第六師団に勤務。熊本時代には、夏目漱石を主宰に寺田寅彦、厨川千江らがおこした俳句結社紫溟吟社(しめいぎんしゃ)に参加。
寺崎 乙治郎(てらさき おとじろう、1872年4月8日〈旧暦… 寺崎 乙治郎(てらさき おとじろう、1872年4月8日〈旧暦明治5年3月1日〉 - 1937年〈昭和12年〉1月22日)は、日本のジャーナリスト、政治家。雅号は斗南(となん)。 合資会社静岡新報社での勤務を経て、株式合資会社静岡新報社主筆、静岡市会議員、静岡県会議員、静岡県会議長(第24代)などを歴任した。 静岡県出身のジャーナリストである。静岡新報社で主筆を務めるなど、地域の論壇で重きをなしていた。その傍らで、静岡市会議員や静岡県会議員など政治家としても活動した。 1872年(旧暦明治5年3月1日)、浜松県城東郡、のちの静岡県小笠郡佐束村に該当する地域で生まれた。 1901年(明治34年)2月1日に静岡新報社に入社した。
幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、1871年11月5日(明治… 幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、1871年11月5日(明治4年9月23日) - 1911年(明治44年)1月24日)は、明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者、無政府主義者である。
国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4… 国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日)は、日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者。千葉県銚子生まれ、広島県広島市、山口県育ち。 幼名を亀吉、後に哲夫と改名した。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。田山花袋、柳田國男らと知り合い「独歩吟客」を発表。詩や小説を書き、次第に小説に専心した。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯(じゃがいも)」といった浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる。また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。
山崎 伝之助(やまざき でんのすけ、明治4年6月8日(187… 山崎 伝之助(やまざき でんのすけ、明治4年6月8日(1871年7月25日) - 昭和16年(1941年)2月7日)は、衆議院議員(立憲民政党)、ジャーナリスト。 和歌山県有田郡糸我村(現在の有田市)出身。1900年(明治33年)に日本法律学校(現在の日本大学)を卒業した。帰郷後、南海公論社、ついで和歌山日日新聞社を創設し、社長に就任した。1915年(大正4年)からは和歌山県会議員を務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙でも再選された。
丸山 浪弥(まるやま なみや、1871年5月7日(明治4年3… 丸山 浪弥(まるやま なみや、1871年5月7日(明治4年3月18日) - 1944年(昭和19年)11月21日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。衆議院議員(2期)。 信濃国安曇郡、後の長野県南安曇郡三田村(現安曇野市)で、農業・丸山実太の二男として生まれる。1890年、明治法律学校を卒業。1896年3月、北海道庁に入庁し拓殖部に勤務。同年9月、のちの岩内町に転居し『岩内新報』を創刊した。 その後、札幌市会議員、北海道会議員、同参事会員、同副議長、同議長、北海道国防義会会長、胆振鉄道会社役員などを務めた。 1924年5月の第15回衆議院議員総選挙で北海道第12区から出馬し当選。以後、第18回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算2期務めた。
横山 源之助(よこやま げんのすけ、明治4年2月21日〈18… 横山 源之助(よこやま げんのすけ、明治4年2月21日〈1871年4月10日〉- 大正4年〈1915年〉6月3日)は、富山県中新川郡魚津町(現在の魚津市)出身のジャーナリスト。号は天涯茫々生。他に有磯逸郎・無膓・夢蝶・漂天痴童・樹下石上人といった筆名を用いた。 魚津の網元の家に私生児として生まれ、すぐに左官職人の横山伝兵衛の養子となる。1881年、魚津明理小学校を卒業後、商家(醤油醸造業)に住み込み奉公をしながら独学し、1885年に富山県立富山中学校に1期生として入学する。しかし2年生の時に中退、代言人(弁護士)を目指して上京し、英吉利法律学校(現在の中央大学)に学ぶ。その後、弁護士試験を数度にわたって受験するが合格できず、各地を放浪する。
中田 重治(なかだ じゅうじ、1870年11月20日(明治3… 中田 重治(なかだ じゅうじ、1870年11月20日(明治3年10月27日)- 1939年(昭和14年)9月24日)は、明治・大正・昭和初期にかけて活躍した日本の教会監督、大衆伝道者、巡回伝道者、福音使(牧師)、神学校(柏木聖書学院)教師・院長(校長)、宗教家、説教家、翻訳家、賛美歌作家、実業家、ジャーナリスト、神学者、日ユ同祖論者である。 明治時代のメソジスト派の牧師中田久吉は実兄、日本を代表する教会音楽家の中田羽後は次男、日本アライアンス教団の大江寛人、日本基督教団の議長辻宣道、同じく日本基督教団の牧師有馬式夫は孫である。 日本ホーリネス教会の創始者の一人で初代監督であり、日本ホーリネス教会を既存の五大教派(長老派、メソジスト派、会衆派、バプテスト派、ルーテル派)に並ぶ巨大組織に発展させた功労者。
円城寺 清(えんじょうじ きよし、1870年(明治3年)11… 円城寺 清(えんじょうじ きよし、1870年(明治3年)11月 - 1908年(明治41年)10月21日)は、日本のジャーナリスト。号は天山。 1870年11月、佐賀県小城郡晴田村(現小城市)に生まれる。1889年12月11日、東京専門学校邦語政治科に入学する。 1892年7月15日に卒業した後に、郵便報知新聞に入社する。1893年9月1日号の第109回から1894年10月13日号の第296回までの「大隈伯昔日譚」の筆録者に抜擢される。1894年、郵便報知新聞を辞める。 1898年5月、憲政党の組織に伴い、『憲政党党報』の編集を主宰する。憲政党の分裂後、『憲政本党党報』の主任記者及び発行兼編輯人となる。
巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6… 巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6月6日) - 1933年(昭和8年)9月5日)は、明治から大正にかけての作家、児童文学者、口演童話家、俳人、ドイツ文学者、ジャーナリスト。本名は季雄(すえお)。別号に漣山人、楽天居、大江小波等がある。 日本初の創作童話『こがね丸』(博文館、1891年)を発表して近代児童文学史を拓いた日本児童文学の先駆者と評される。 明治期に児童文芸作品を表す言葉として「お伽噺」を使用、自ら編集長を務めた「少年世界」「少女世界」「幼年世界」などの雑誌を通して日本中に児童文学を広めた。 個人による日本初児童叢書である『日本昔噺』(24編)、『日本お伽噺』(24編)、『世界お伽噺』(100編)などのシリーズを刊行、日本はもちろん世界中の伝承説話のリテリングを体系的に行った。
松本 君平(まつもと くんぺい、明治3年4月10日(1870… 松本 君平(まつもと くんぺい、明治3年4月10日(1870年5月10日) - 昭和19年(1944年)7月28日)は、静岡県出身のジャーナリスト、政治家、教育者、思想家。文学博士、衆議院議員。 妻は旧土佐藩士・岡内重俊の娘「壽(ひさ)」。 遠江国小笠郡中内田村(現:静岡県菊川市)の初代村長・松本丑太郎の二男として中内田村213番地に生まれる。幼名は貞次郎。母は木佐森茂助の三女「幸(こう)」。長じて岡田淡山の私塾・冀北学舎で国学・漢学・英語を3年間学んだ後、東京に遊学した。 1887年(明治20年)8月31日、名を「君平」と改める。 1890年(明治23年)9月11日、兄・栄太郎が廃嫡し、同月17日、静岡県佐野郡西郷村の松浦五平治の養子となって家を出た為、君平が惣領息子となる。
久下 豊忠(くげ とよただ、明治3年4月8日(1870年5月… 久下 豊忠(くげ とよただ、明治3年4月8日(1870年5月8日) - 昭和12年(1937年)12月10日)は、日本の衆議院議員、ジャーナリスト。 紀伊国那賀郡上名手村(現在の和歌山県紀の川市)の三井家に生まれ、久下純菴の養子となった。英仏学舎、大阪英学舎に学ぶ。1893年(明治26年)、読売新聞社の記者となった。1897年(明治30年)、和歌山新報社に入り、主筆、社長を歴任した。1899年(明治32年)より和歌山県会議員を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
斯波 貞吉(しば ていきち、明治2年8月17日(1869年9… 斯波 貞吉(しば ていきち、明治2年8月17日(1869年9月22日) - 昭和14年(1939年)10月14日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、ジャーナリスト。 越前国福井に、藩士斯波有造の長男として生まれる。1891年(明治24年)にオックスフォード大学を卒業した後、東京帝国大学文科大学英文科に入り、1896年(明治29年)にその選科を卒業した。盛岡中学校と高輪中学校で教鞭をとり、さらに仏教大学(現在の龍谷大学)の教授を務めた。 1899年(明治32年)、黒岩涙香に招かれて「萬朝報」に入社した。当初は英文記者であったが、やがて編集局長、さらに主筆を務めた。特に普選運動には積極的に取り組んだ。
真渓 涙骨(またに るいこつ、1869年3月9日(明治2年1… 真渓 涙骨(またに るいこつ、1869年3月9日(明治2年1月27日) - 1956年(昭和31年)4月14日)は日本の宗教思想家、ジャーナリスト、宗教専門紙『中外日報』創刊者。 福井県敦賀市の浄土真宗本願寺派寺院に長男として生まれる。本名は正遵(しょうじゅん)。京都西本願寺の普通教校に16歳で入学するが間もなく退学し、学徳兼備の名僧として知られた博多万行寺の龍華教校で七里恒順に約3年師事。その後、各地を遍歴しながら文筆修行を積んだ。 1897年(明治30年)10月1日、仏教および宗教界の革新を志し、京都で超宗派の宗教新聞『教学報知』を創刊。1902年(明治35年)、報道範囲を拡大し『中外日報』と改題。
吉村 平造(よしむら へいぞう、1869年(明治2年) - … 吉村 平造(よしむら へいぞう、1869年(明治2年) - 1935年(昭和10年)7月23日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。号は胆南。 近江国坂田郡柏原村(現在の滋賀県米原市)出身。生家は中山道で代々脇本陣を営んでいた。明治法律学校(明治大学)卒業。大阪朝日新聞社の政治記者として、義和団事件や日露戦争の際に従軍記者として活躍した。保険会社重役などを経て、大阪市助役(1906年5月 - 1909年9月)、第11代広島市長(1915年1月22日 - 1916年12月25日)などを務めた。 市長退任後、久原本店勤務を経て、北日本鉱業専務を務めた。 息子に、フランス文学者の吉村正一郎や映画監督の吉村公三郎などがいる。
吉倉 汪聖(よしくら おうせい、1868年(明治元年)11月… 吉倉 汪聖(よしくら おうせい、1868年(明治元年)11月 - 1930年(昭和5年)12月30日)は、日本のジャーナリスト、アジア主義者、大陸浪人。 1868年(明治元年)、金沢藩士の子として生まれる。東京法学校(現・法政大学)を卒業し、民権運動に参加した後、朝鮮に渡る。釜山貿易新聞を経て、元山時事、遼東新報を創刊し、ジャーナリストとして活躍する。1895年(明治27年)に天佑侠団に加わり、1901年(明治33年)に内田良平らとともに黒龍会を創設する。内田の『露西亜論』は吉倉の執筆によるものといわれている。 詩人・評論家の北村透谷と交友があった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
長沢 別天(長澤、ながさわ べってん、1868年6月20日(… 長沢 別天(長澤、ながさわ べってん、1868年6月20日(慶応4年5月1日) - 1899年(明治32年)11月22日)は、明治時代の評論家、文芸評論家、ジャーナリスト。 山陽新報(現・山陽新聞)主筆、東京朝日新聞政治主任。本名、説。別名、別天樓主人、別天生、別有天地樓主人、半眼子、四六翁、坂東太郞、渺茫子、渺茫居士、渺茫生、金毛獅。 ジョン・ミルトンやジョージ・バイロンの評論を著し、エドガー・アラン・ポーの詩を日本に初めて紹介するなど英文学の普及に尽力。文芸に加えて日本関係論や政治思想など幅広い評論活動を行った。 常陸国(現・茨城県)生まれ。攻玉社を経て、築地の立教学校(現・立教大学)で学ぶ。
匹田 鋭吉(ひきた えいきち、1868年5月18日〈慶応4年… 匹田 鋭吉(ひきた えいきち、1868年5月18日〈慶応4年4月26日〉 – 1944年〈昭和19年〉11月9日)は、日本のジャーナリスト・政治家。立憲政友会所属の衆議院議員。 1868年5月18日、美濃国郡上郡八幡(現在の岐阜県郡上市)に於いて郡上藩士匹田重秋の長男として生まれる。1888年(明治21年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)政治経済科を卒業。読売新聞社の記者となった後、1902年(明治35年)に富山日報の主筆に招かれ、1910年(明治43年)からは九州日報の主筆となった。さらに北陸タイムス主筆に転じ、1913年(大正2年)からは岐阜日日新聞社の社長兼主筆を務めた。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
大橋 松二郎(おおはし まつじろう、明治元年4月13日(18… 大橋 松二郎(おおはし まつじろう、明治元年4月13日(1868年5月5日) - 大正9年(1920年)12月15日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→立憲同志会→憲政会)、ジャーナリスト。 越前国吉田郡円山西村(現在の福井県福井市)出身。1890年(明治23年)に『若越自由新聞』を創刊し、1894年(明治27年)には『若越新聞』と改題。後に『若越新聞』を政友会福井支部の機関紙とした。また農業においては馬耕の奨励や稲種改良に尽力した。福井県会議員、同参事会員、同議長を歴任した。その他、吉田郡農会長、吉田郡教育会長などを務めた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第12回衆議院議員総選挙でも再選された。
丸山 豊治郎(まるやま とよじろう、慶応4年1月27日(18… 丸山 豊治郎(まるやま とよじろう、慶応4年1月27日(1868年2月20日) - 昭和8年(1933年)7月18日)は、衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。親戚は衆議院議員 大滝伝十郎、貴族院議員 大竹貫一。 越後国頸城郡武士村(現在の新潟県上越市)出身。慶應義塾に入学するが、徴兵により歩兵第16連隊に配属された。除隊後も日清戦争の際には補充員召集により従軍した。 その後、菅原村長、中頸城郡会議員、同参事会員を歴任した。また「高田日報」を創刊し、社長に就任した。 1912年、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で3期務めた。
相島 勘次郎(あいしま かんじろう、慶応3年12月19日(1… 相島 勘次郎(あいしま かんじろう、慶応3年12月19日(1868年1月13日) - 昭和10年(1935年)4月4日)は、衆議院議員(立憲国民党)、ジャーナリスト。俳人としても活動し、虚吼と号した。 常陸国筑波郡小田村(現在の茨城県つくば市)出身。慶應義塾大学を卒業後、大阪毎日新聞社に入社。1900年(明治33年)から1902年(明治35年)までのアメリカ留学を経て、1906年(明治39年)に大阪毎日新聞社が東京に毎日電報社を創設すると副主幹となり、1911年(明治44年)に大阪毎日新聞社が東京日日新聞社を買収するとやはり副主幹として編集にあたった。 1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
高橋 光威(たかはし みつたけ、1868年1月13日〈慶応3… 高橋 光威(たかはし みつたけ、1868年1月13日〈慶応3年12月19日〉- 1932年〈昭和7年〉4月9日)は、日本のジャーナリスト、政治家。立憲政友会所属の衆議院議員として活動した。 慶応3年12月19日(1868年1月13日)、越後国蒲原郡菅谷村(現在の新潟県新発田市菅谷)において、父・幾左衛門と母・ヨシとの四男として生まれる。幼名は富吉。知人に同行して上京し、1884年(明治17年)に慶應義塾に入学するものの、生活に困窮するなどして卒業は1889年(明治22年)となる。 1890年(明治23年)に開設された慶應義塾の大学部(法律科)に再び入学。在学中は、洋書の翻訳などで生計を立てるほか、菊代と結婚する。
永松 達吾(ながまつ たつご、 1868年1月9日(慶応3年… 永松 達吾(ながまつ たつご、 1868年1月9日(慶応3年12月15日)- 没年不詳)は、明治期から大正期に活躍した日本の実業家、ジャーナリスト。玉川電気鉄道株式会社(現・東急株式会社)代表取締役、草津軽便鉄道創立委員総代、時事新報記者、西武軌道(後の都電杉並線)取締役、交詢社評議員。 豊前国宇佐郡、のちの駅館村(現大分県宇佐市)で永松貞民の長男として生まれた。大阪・英和学舎(現・立教大学)を経て、慶應義塾にて修学。 1891年(明治24年)、横浜の生糸問屋に勤務する傍ら『横浜蚕糸貿易事情』を出版。 その後、時事新報の記者となり、時事新報において『群馬県下の蚕業』などを執筆したのち、東京信託会社に務める。
菊池 武徳(きくち たけのり、1867年8月22日(慶応3年… 菊池 武徳(きくち たけのり、1867年8月22日(慶応3年7月23日) - 1946年(昭和21年)2月11日)は、ジャーナリスト、政治家。息子はジャズピアニストの菊池滋弥。 1887年(明治20年)4月に慶應義塾別科を卒業。ただちに『時事新報』の記者となり、1892年(明治25年)に『朝野新聞』に移りのちに社長。次いで雑誌『演芸画報』『新世紀』社長に就任し、自然主義派の小説家を排して村井弦斎の小説を掲載。1903年(明治36年)の第8回衆議院議員総選挙に青森県弘前市から出馬し、1915年(大正4年)まで、第10回総選挙を除き衆議院議員(4期)。 又新会の創立に参加し、代表幹事。のちに立憲政友会に移る。
朝倉 菊衛(あさくら きくえ、1867年8月18日(慶応3年… 朝倉 菊衛(あさくら きくえ、1867年8月18日(慶応3年7月19日) - 1922年7月1日)は、岡山県小田郡矢掛町出身の実業家、ジャーナリスト。 小田郡矢掛町で生まれる。若い頃は教員をしていた。 1888年、上京し、山縣内閣の機関として設立された時事通信社へ入社する。 1893年、独立して帝国通信社を設立し、常務取締役として経営に携わった。 また、池田寅治郎らと中央生命保険会社を設立した。 1922年7月1日死去。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
鈴木 天眼(すずき てんがん、慶応3年7月8日(1867年8… 鈴木 天眼(すずき てんがん、慶応3年7月8日(1867年8月7日) - 大正15年(1926年)12月10日)は、福島県二本松出身で、明治後期から大正時代にかけて活動したジャーナリスト。東京で『二六新報』主筆を務めた後、長崎で『東洋日の出新聞』を創刊、社長兼主筆として活躍した。衆議院議員1期。天眼は号、本名は力(ちから)。生涯にわたって軍国主義反対、人権・平和尊重の論陣を貫いた。中国の辛亥革命を熱烈に応援し、革命成就後に来日した孫文から長崎の自宅に感謝の訪問を受けた。従来、黒龍会『東亜先覚志士記伝』の記述などから天眼も国家主義者、大陸進出論者であると誤解されてきたが、東洋日の出新聞の論説を調査した結果、実際はそれとは正反対の思想の持ち主で、国家主義を否定し、個人の自由と権利を尊重する、当時としては稀に見るリベラルな主張を展開していたことが判明した。
中村 千代松(なかむら ちよまつ、1867年2月19日(慶応… 中村 千代松(なかむら ちよまつ、1867年2月19日(慶応3年1月15日) - 1941年(昭和16年)8月4日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)、ジャーナリスト。号は木公 出羽国(秋田県)平鹿郡阿気村(大雄村を経て現横手市)の奥山家に生まれた。明治29年11月中村宗興の二女ノブに入夫婚姻。内藤湖南、畑山呂泣らと明治18年秋田県師範学校を卒業後、秋田市内で教鞭をとる。博文館編集部員、忠愛新報編集長、教育報知主筆、明治新聞主筆、報知新聞記者、秋田魁新報主筆を経て、1913年(大正2年)より秋田新聞社社長を務めた。 1915年、第12回衆議院議員総選挙に出馬して、当選を果たした。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
佐藤東華(さとう とうか、1867年(慶應3年)- 1923… 佐藤東華(さとう とうか、1867年(慶應3年)- 1923年(大正12年)12月16日)は、明治・大正時代のジャーナリスト。本名は佐藤敬吉(さとうけいきち)。 猊鼻渓(岩手県一関市東山町)の観光地開発に携わった佐藤猊巌(さとうげいがん)の実弟。1916年(大正5年)「磐井(いわい)の名勝」を出版、猊鼻渓の項あり。仙臺風藻(せんだいふうそう)1912年(大正元年)9月27日出版によると、慶應3年 丁卯 生まれで、中陸新聞、仙臺新聞、秋田魁新報などの記者として従事中と記載がある。後に北海道に移住した。また、「胆振公論」(いぶりこうろん)という雑誌を発行していた。生前に、3冊の書籍を出版している。大正12年12月16日に没す。
玉井 喜作(たまい きさく、慶応2年5月18日(1866年6… 玉井 喜作(たまい きさく、慶応2年5月18日(1866年6月30日) - 1906年(明治39年)9月25日)は、日本のジャーナリスト、教育家、冒険家。札幌農学校でドイツ語教授を務めた後にシベリアを単身横断してドイツに渡り、月刊誌『東亜(Ost-Asien)』を刊行するなどジャーナリストとして活動した。また、在留日本人の面倒をよくみたことから「私設公使」の異名をとった。 周防国光井村(現・山口県光市光井)で「銘酒玉川」を醸造していた造り酒屋に生まれる。 山口黒城塾、広島県中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て、上京し獨逸学協会学校(現・獨協中学校・高等学校)に通う。同時に、遠い親戚で幼い頃から兄のように慕っていた原田貞介(後に工学博士。
安藤 和風(あんどう はるかぜ、慶応2年1月12日(1866… 安藤 和風(あんどう はるかぜ、慶応2年1月12日(1866年2月26日) - 昭和11年(1936年)12月26日)は、日本のジャーナリスト、マスメディア経営者、俳人、郷土史研究家。通名および俳号は「和風」をそのまま音読みして「わふう」。秋田県の地方紙「秋田魁新報」の事業拡大に貢献し、秋田魁新報社三大柱石の一人と称された。「魁の安藤か、安藤の魁か」と言われるほど、新聞記者としての名声を全国にとどろかせた。 俳号・雅号として他に、柳外、夢蝶、時雨庵、大蕗軒、白松子、太平山人、城南陰士、自適庵、布々木園、蝶々、松陰舎、松庵など十数以上を用いていた。 秋田藩士安藤和亭(通名は和市)、イクの長男として生まれる。
本田 増次郎(ほんだ ますじろう、1866年1月15日〈慶応… 本田 増次郎(ほんだ ますじろう、1866年1月15日〈慶応2年11月29日〉 - 1925年〈大正14年〉11月25日)は、明治・大正期の英語教育者、イギリス文学者、ジャーナリスト、民間外交家。柔道3段。 美作国久米北条郡上打穴里村(現・岡山県久米郡美咲町打穴里)にて、農家の本田杢蔵・やゑの3男として生まれる。村の小学校(2006年3月廃校)を卒業後、医学を志し岡山県福渡の医師吉岡寛斎(吉岡弘毅の兄)のもとで2年修業した後、上京。 高木兼寛の紹介で、井上馨外務大臣の主治医などをしていた愛宕下田村町の医師松岡勇記の薬局生となる。高木らが設立した海軍軍医学校への進学を志し、試験に必要な英語を習得するため三田英語学校に通ったが、1883年より柔道を習えば無料で英語を学べることから神田神保町にあった嘉納治五郎の英語学校・弘文館に在籍し、講道館で柔道を学んだ。
吉植 庄一郎(よしうえ しょういちろう、1865年10月27… 吉植 庄一郎(よしうえ しょういちろう、1865年10月27日(慶応元年9月8日) - 1943年(昭和18年)3月10日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲政友会)、ジャーナリスト。子は歌人・衆議院議員の吉植庄亮。義弟に弘前高等学校校長を務めた鈴木信太郎がいる。 下総国印旛郡、のちの千葉県印旛郡埜原村(本埜村を経て現印西市)出身。北海道に渡り開墾に従事したが、北海道時事新聞社を興し、社長に就任した。やがて他の新聞との合併で北海タイムス新聞社が成立すると、理事を務めた。 1904年(明治37年)、第9回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、当選回数は9回を数えた。1917年(大正6年)4月、第13回総選挙で当選したが、衆議院議員選挙訴訟の結果、安房郡での選挙が無効となり、同年12月8日、千葉県知事により鵜澤總明・木村政次郎・関和知・津田毅一・鵜沢宇八・柏原文太郎・磯野敬・加瀬禧逸・土屋清三郎と共に当選証書が取消され議員を退職し、同月に実施された再選挙で当選した。
有田 温三(ありた おんぞう、1865年10月2日〈慶応元年… 有田 温三(ありた おんぞう、1865年10月2日〈慶応元年8月13日〉 - 1927年〈昭和2年〉2月27日)は、日本のジャーナリスト、政治家。衆議院議員(当選2回)。族籍は広島県平民。 安芸国賀茂郡西高屋村(現在の広島県東広島市)出身。有田久の二男。生家は代々農業を営む。京都本願寺普通教校を経て、1888年に東京専門学校(現早稲田大学)邦語政治科を卒業。山陽新報記者となり、後に安芸津新報主筆に転じ、さらに大阪朝日新聞に入って広島支局長を務めた。 1903年(明治36年)、広島県会議員に当選し、県参事会員及び地方森林会議員も務めた。1907年(明治40年)に広島市会議員に当選、下水道創立に尽力した。
西村 天囚(にしむら てんしゅう、1865年9月12日(慶応… 西村 天囚(にしむら てんしゅう、1865年9月12日(慶応元年7月23日) - 1924年(大正13年)7月29日)は、日本のジャーナリスト。本名は時彦(ときつね)、で、天囚は号。他に碩園(せきえん)とも名乗った。字は子駿。大阪朝日新聞主筆で、コラム「天声人語」の名付け親である。 江戸時代に大坂につくられた学問所「懐徳堂」の復興にも尽力し、漢籍など天囚の旧蔵所が「碩園記念文庫」として保存されている。 祖先に西村織部丞時貫がいる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
五十嵐 光彰(いがらし みつあき、 1865年9月2日(慶応… 五十嵐 光彰(いがらし みつあき、 1865年9月2日(慶応元年7月13日)- 1913年〈大正2年〉4月24日)は、明治時代に活躍した日本の実業家、ジャーナリスト、官吏。東京通信社社長・主幹(第2代)、警保局(現・警察庁)警部。 豊後国速見郡杵築(現大分県杵築市)で杵築藩士五十嵐光彬の二男として生まれ、1890年(明治23年)4月に家督を相続した。 大阪の英和学舎(現・立教大学)で学ぶ。テオドシウス・ティングによって、先の聖テモテ学校を復興して、1879年(明治12年)に開校された英和学舎は、1887年(明治20年)に東京の立教大学校と合併して閉校するまでのおよそ8年の間に、聖職者に元田作之進、近重利澄、小林彦五郎、実業家に大塚惟明、寺岡踏正(旧・平井忠介)、的場松太郎、山根虎二郎、五十嵐光彰、土屋元作、教育者に松村松年、土生靑(土生青)、栃谷六三郎、新聞記者に水田栄雄(水田南陽)、永松達吾、粟屋関一、医師に深澤鑒十郎(深澤鑑十郎)、官吏に久芳直介など、多くの名士を輩出した。
沢村 繁太郎(さわむら しげたろう、旧字体: 澤村 繁太郎、… 沢村 繁太郎(さわむら しげたろう、旧字体: 澤村 繁太郎、1865年 - 1905年4月22日)は、日本の外交官、通訳官、教育者、実業家、ジャーナリスト。 台湾総督府調査諜報員、大日本帝国陸軍通訳官、照暗女学校(現・平安女学院)第4代校長。台湾総督府では厦門や上海から迅速かつ質の高い情報を届けるなど、外交官や諜報員として活躍し、勝海舟とも交流したほか、教育者として厦門東亜書院を設立した。その他、上海時報の記者や、実業家として横浜正金銀行北京支店副支配人を務めた。英語のほか、中国語の大家として知られた多言語話者である。 1865年、近江国彦根藩士、澤村益二郎の長男として生まれる。 1879年(明治12年)頃、東京・築地の立教学校(立教大学の前身校の一つ)で学ぶ。
松岡 好一(まつおか こういち、1865年 - 1921年6… 松岡 好一(まつおか こういち、1865年 - 1921年6月29日)は、日本のジャーナリスト。 信濃国安曇郡二木村(長野県安曇野市)生まれ。幼少時に両親を亡くし叔父に育てられた。伊那郡飯田町(同県飯田市)で漆器店に丁稚奉公した後、15歳で上京し榊原鍵吉に入門する。母方の従兄にあたる松沢求策の自由民権運動に従い、東洋自由新聞や八丈島での事業を手伝い、小笠原諸島で小学校の教諭となる。 その後、三菱高島炭鉱で働いた時の坑内労働者酷使の実情を、1888年に雑誌『日本人』に告発し大きな反響を呼んだが、犬養毅が『朝野新聞』でこれを否認したため論争となった。この頃、朝鮮から亡命中の金玉均とも交わった。 1891年、外務大臣榎本武揚の意を受け、日本の人口過多問題解決のため、南方移民推進政策を取り、軍艦「比叡」に乗組んで南洋を航海した。
森 肇(もり はじめ、1864年7月10日(元治元年6月7日… 森 肇(もり はじめ、1864年7月10日(元治元年6月7日) - 1927年(昭和2年)1月23日)は、日本のジャーナリスト、政治家、衆議院議員(3期)。弁護士。族籍は愛媛県士族。
高橋 秀臣(たかはし ひでおみ、1864年5月31日(元治元… 高橋 秀臣(たかはし ひでおみ、1864年5月31日(元治元年4月26日) - 1935年(昭和10年)11月14日)は、衆議院議員(立憲民政党)、ジャーナリスト。 西条藩士高橋村三郎の長男として、伊予国新居郡西条(現在の愛媛県西条市)に生まれた。明治法律学校(現在の明治大学)で法学・政治学を学んだ。卒業後、伊予市之川鉱山会社取締役を経て、「進歩党党報」記者、「憲政党党報」記者、北陸タイムス社社長兼主筆を歴任した。 神田区会議員、東京市会議員、同参事会員を務めた後、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。墓所は多磨霊園(18-1-35)。
村松 恒一郎(むらまつ こういちろう、元治元年4月24日(1… 村松 恒一郎(むらまつ こういちろう、元治元年4月24日(1864年5月29日) - 昭和15年(1940年)6月5日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→純正国民党→立憲民政党)、ジャーナリスト。 伊予国宇和島出身。宇和島藩士村松喜久造の長男。1884年(明治17年)に同人社を卒業後、高野山大学林で英学講師を務めた。その後、関西日報、国会新聞、中央新聞、東京朝日新聞、大阪朝日新聞などで記者を務めた。やがて雑誌「大国民」を創刊し、また日刊大東通信社の社長を務めた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。当選回数は5回(第10回、第11回、第13回、第16回、第17回にて当選)を数えた。
前川 虎造(まえかわ とらぞう、1864年4月9日(元治元年… 前川 虎造(まえかわ とらぞう、1864年4月9日(元治元年3月4日) - 1926年(大正15年)6月17日)は、衆議院議員(立憲国民党→革新倶楽部)、ジャーナリスト。族籍は和歌山県平民。 紀伊国那賀郡田中村(現在の和歌山県紀の川市)出身。前川彌兵衛の長男。 年少のころより政治に興味を持ち、自由民権運動に心酔した。1885年(明治18年)、那賀郡長児玉仲児の知遇を得て、郡書記となるが、児玉の欧化主義と合わず、2年で辞職した。その後、和歌山県会の書記となるが、児玉が県会議員に当選し、議長に就任したため辞職した。 官を辞した後は新聞記者となり、紀陽新報主筆を経て、大阪で立憲改進党機関紙の「東雲新聞」に入った。
毛里 保太郎(もうり やすたろう、文久4年2月6日(1864… 毛里 保太郎(もうり やすたろう、文久4年2月6日(1864年3月13日) - 昭和13年(1938年)5月13日)は、衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 豊前国築城郡角田村(現在の福岡県豊前市)出身。15歳で京都に遊学した後、中江兆民の門で学んだ。1888年(明治21年)より京都日報の記者となり、1891年(明治24年)には静岡大勢新聞の主筆となった。翌年、門司新報社を起こして社長・主筆を務めた。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で4期務めた。また門司市会議員、同参事会員も務めた。 革新官僚の毛里英於菟は次男。
池辺 三山(いけべ さんざん、1864年3月12日(文久4年… 池辺 三山(いけべ さんざん、1864年3月12日(文久4年2月5日)- 1912年(明治45年)2月28日)は、明治期の日本のジャーナリスト。本名は吉太郎、字は任道、諱は重遠、別号に鉄崑崙、無字庵主人、木生など。日本のジャーナリストの先駆けと言われ、陸羯南、徳富蘇峰とともに明治の三大記者と称された。 肥後国熊本(現熊本県熊本市)生まれ。父池辺吉十郎、母世喜の長男として生まれる。池辺家は禄二百石の熊本藩士で代々学者の家系だった。1872年(明治5年) 父池辺吉十郎と共に玉名市横島に一家転居。吉十郎は藩士として秀でた武人であり、西南戦争の時、熊本隊を率いて西郷隆盛軍に参加するが、1877年(明治10年)に処刑されるという非運に見舞われた。
米田 穣(よねだ みのる、文久4年1月12日(1864年2月… 米田 穣(よねだ みのる、文久4年1月12日(1864年2月19日) - 大正10年(1921年)12月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 加賀国石川郡松任町(現在の石川県白山市)出身。加能新聞社社長や大阪新報主幹を務めた。また松任町会議員を歴任した。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で4回の当選を重ねた。 1912年(大正元年)10月、松任町長に推されたがこれを辞退した。
井手 三郎(いで さぶろう、文久3年5月15日(1863年6… 井手 三郎(いで さぶろう、文久3年5月15日(1863年6月30日) - 昭和6年(1931年)11月16日)は、衆議院議員(中央倶楽部→立憲同志会→憲政会)、ジャーナリスト。 肥後国飽田郡中島村(現在の熊本県熊本市西区)出身。1887年(明治20年)、済々黌を卒業。中国語を学び、漢口や北京を巡った。日清戦争の際には大本営附となり、第一軍民政庁通訳官を務めた。戦後、海軍軍令部嘱託として北京・天津を視察した。 1897年(明治30年)、福州にて「漢字新報」を創刊。翌年、貴族院議長・公爵近衛篤麿が東亜同文会を創設すると、それに参加し、上海支部長に任命された。上海租界では漢字新聞「同文滬報」を発行、1904年(明治37年)7月には邦字新聞「上海日報」の経営を引き継いだ。
町田 忠治(まちだ ちゅうじ、文久3年3月30日(1863年… 町田 忠治(まちだ ちゅうじ、文久3年3月30日(1863年5月17日) - 昭和21年(1946年)11月12日)は、明治から昭和期の政治家、実業家、ジャーナリスト。 衆議院議員(当選10回)。立憲民政党・日本進歩党総裁、農林大臣・商工大臣・大蔵大臣(兼任)などを歴任したが最晩年は公職追放された。正三位勲一等。号は幾堂。愛称はノンキナトウサン。 出羽国秋田郡久保田城下の秋田保戸野八丁新田上丁(現秋田県秋田市保戸野八丁)に秋田藩士・町田伝治の四男として誕生。父伝治は3歳の時に亡くなったため、祖父町田平治と母シン子によって育てられた。大正期の『中央公論』編集長・滝田樗陰は甥にあたる。 1875年(明治8年)に叔母町田直の養子となり、家督を継いだ。
徳富 蘇峰(とくとみ そほう、1863年3月14日(文久3年… 徳富 蘇峰(とくとみ そほう、1863年3月14日(文久3年1月25日) - 1957年(昭和32年)11月2日)は、明治から昭和にかけての日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られる。
頭本 元貞(ずもと もとさだ、1863年1月23日〈文久2年… 頭本 元貞(ずもと もとさだ、1863年1月23日〈文久2年12月4日〉- 1943年〈昭和18年〉2月15日)は、日本のジャーナリスト、衆議院議員(1期)。英語力に秀で、伊藤博文や渋沢栄一といった実力者に重用され、長年にわたって国際的舞台で活躍するジャーナリストとなったほか、英語教育教材の開発者、代議士としても活動した。右翼的国家主義者と評されることが多い。 伯耆国(後の鳥取県日野郡黒坂村、黒坂町を経て現日野町)出身。鳥取県と愛知県の中学校に在籍した後、東京大学予備門を経て、1880年に札幌農学校に入学し、武信由太郎や志賀重昂らとともに4期生として学んだ。在学中にジュゼッペ・マッツィーニの文章に触れ、日本の国情を海外へ紹介することを自らの使命と決意したとされる。
黒岩 涙香(くろいわ るいこう、文久2年9月29日〈1862… 黒岩 涙香(くろいわ るいこう、文久2年9月29日〈1862年11月20日〉- 大正9年〈1920年〉10月6日)は、日本の小説家、思想家、作家、翻訳家、ジャーナリスト。本名は黒岩 周六(くろいわ しゅうろく)。兄は黒岩四方之進。ペンネームの由来は、黒岩が愛読していた『紅涙香』に由来する。黒岩涙香のほか、香骨居士、涙香小史、冷眼士等、歯月生などの筆名を用いた。号は古概、民鉄、正調庵、黒岩大。執拗な取材を行うことから「マムシの周六」というあだ名がつけられた。翻訳家、作家、記者として活動し、『萬朝報』を創刊した。戒名は黒岩院周六涙香忠天居士。 土佐国安芸郡川北村大字前島(現在の高知県安芸市川北)で土佐藩郷士・黒岩市郎の子として生まれる。