安田 徳太郎(やすだ とくたろう、1898年1月28日 - … 安田 徳太郎(やすだ とくたろう、1898年1月28日 - 1983年4月22日)は、日本の医師・歴史家。ゾルゲ事件に連座して執行猶予付きの有罪判決を受けた。 京都市生まれ。妹は高倉輝夫人。父の死後一家が伯母(山本宣治の母)の経営する旅館(宇治・花やしき浮舟園)に引き取られる。 1920年、京都帝国大学医学部に入学。在学中から従兄の山本宣治の産児制限運動に関わる。1930年、医学博士。さらに無産運動に関係し、医師としてこれを支援。 1933年、共産党シンパとして検挙された。1941年にはリヒャルト・ゾルゲらのゾルゲ諜報団に連座し逮捕、1942年に事件裁判で有罪判決(執行猶予付き)を受けた。 医師としてドイツ語に優れ、唯物論的科学思想史の研究を行い、ジークムント・フロイトの訳・解説は今日まで重版。
薄田 七郎(うすだ しちろう、1898年〈明治31年〉1月1… 薄田 七郎(うすだ しちろう、1898年〈明治31年〉1月12日 - 1983年〈昭和58年〉10月22日)は、日本の病理学者、厚生技官、医師。医学博士。台北帝国大学医学部病理学教室病理学第一講座第2代教授。 新潟県中蒲原郡木戸村大字鴉俣(現 新潟市東区山木戸)の医師・薄田敬勝の長男として出生。 1915年(大正4年)3月に新潟中学校を卒業、1919年(大正8年)7月に第二高等学校を卒業、1923年(大正12年)4月に東京帝国大学医学部医学科を卒業。 東京帝国大学医学部病理学教室に入室、1925年(大正14年)1月に泉橋慈善病院内科医員に就任、1926年(大正15年)4月に同病院病理解剖科医員に就任、1932年(昭和7年)11月に東京帝国大学から医学博士の学位を取得。
今牧 嘉雄(いままき よしお、1897年(明治30年)12月… 今牧 嘉雄(いままき よしお、1897年(明治30年)12月15日 - 1980年(昭和55年)5月17日)は、大正から昭和期の内科医、右翼活動家、政治家。衆議院議員、医学博士。 富山県射水郡新湊町(高岡市、新湊町、新湊市を経て現射水市)で生まれる。1920年(大正9年)長崎医学専門学校(のち長崎医科大学、現長崎大学)を卒業し、その後、京都帝国大学医学部で研究した。 別府市の朝見病院長を経て、1930年(昭和5年)東京市京橋区で開業した。大川周明の雑誌『満蒙』に執筆し、大川の治療を行ったことなどから神武会に加盟した。1936年(昭和11年)大日本青年党に加わり、その後、大日本赤誠会に改称。また、日本医師会理事、日本医療団評議員、富士工業社長などを務めた。
山下 秀之助(やました ひでのすけ、1897年11月29日 … 山下 秀之助(やました ひでのすけ、1897年11月29日 - 1974年4月4日)は、日本の医師・歌人。短歌雑誌『創作』の若山牧水、『潮音』の太田水穂に師事し、吉植庄亮主宰の『橄欖』を経て、1946年『原始林』(第2次)を札幌市で創刊。北海道の歌壇の基礎を築いた一人と評価され、戦前・戦後の北海道文壇・歌壇の指導的な存在であった。 1897年(明治30年)11月29日、鹿児島県鹿児島市東千石町に生まれる。鹿児島第一中学校、第七高等学校造士館を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学医学部を卒業。同年5月、北海道帝国大学医学部助手として北海道に移る。北大医学部講師、小樽病院を経て、移住四年後の1926年(大正15年)から国鉄傘下の札幌鉄道病院(現在のJR札幌病院)に勤務。
小田 勝(おだ まさる、1897年(明治30年)11月19日… 小田 勝(おだ まさる、1897年(明治30年)11月19日 - 没年不明)は、日本の医師。山口病院院長。医学士。外祖父は第6代広島市長の小田貫一。妹の和子は岸田正記の妻。 小田得一の長男として広島県佐伯郡廿日市町で生まれる。生家は医師として三代続く家であり、父・得一は、大阪医学校(現・大阪大学医学部)出身で内科、眼科を開業した。得一は、広島県の医学界において腕利きの一人として名声があり、長年に渡って県医師会理事に挙げられるほど逸材であった。 1925年(大正14年)、慶應義塾大学医学部を卒業し、同大学産婦人科教室に入り、3年間研究に没頭する。1928年(昭和3年)、山口病院初代院長・山口卓治の死亡により院長を承継し、山口病院院長に就任。
内村 祐之(うちむら ゆうし、1897年(明治30年)11月… 内村 祐之(うちむら ゆうし、1897年(明治30年)11月12日 - 1980年(昭和55年)9月17日)は、日本の医学者、精神科医。専攻は臨床精神医学、神経病理学。東京大学名誉教授、日本学士院会員。プロ野球コミッショナー。 キリスト教思想家として著名な内村鑑三を父、内村の4度目の妻内村静子を母として、東京府に誕生する。 獨逸学協会学校中等部から第一高等学校(医科)を経て、東京帝国大学に進む。一高野球部と草創期の東大野球部でも活躍し、特に一高時代の1918年、同校の野球投手として三高(京都)、学習院のほか、早稲田と慶應義塾を久しぶりに撃破するなど、15年ぶりに事実上の全国制覇を果たした。学生野球界で、当時隆盛を極めた左腕投手としてその名を馳せた。
中野 操(なかの みさお、1897年10月30日 - 198… 中野 操(なかの みさお、1897年10月30日 - 1986年3月21日)は、日本の医師、医史学者、陸軍軍医。 京都府出身、京都府立医専卒。 1938年杏林温古会を設立、大阪赤十字病院に勤務後、周防町、阿倍野晴明通で開業した。戦後に大阪で開業した。 『増補医事年表』を編纂し、機関誌『医譚』を発行するなど、大阪の医学史研究につとめた。 中野は、1552年(天文21年)の『黄素妙論』や室町時代に遡る医学書、日本最古のオランダ文法書で蘭方医新宮涼庭(1787年 - 1854年)が写した1733年の『セウユリルスフラーカコンスト』、江戸時代大阪の医事年表など、日本医史学の比類ない歴史資料を蔵書しており、これらは2012年に13,461点が一括で大阪市の指定有形文化財となった。
三田 良蔵(みた りょうぞう、1897年 <明治30年> 8… 三田 良蔵(みた りょうぞう、1897年 <明治30年> 8月20日 - 1970年 <昭和45年> 6月2日)は、日本の経営者、医学博士。参天製薬社長を務めた。位階は正五位。 大阪府大阪市出身。1919年に千葉医学専門学校薬学科を卒業。島商店での勤務を経て、1936年には参天堂に転じ、1940年には社長に就任し、1952年には三田製薬社長も兼任。 1960年10月に藍綬褒章を受章し、1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。。 1970年6月2日脳血栓のために死去。72歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
橋爪 檳榔子(はしづめ びんろうじ、1897年8月17日 -… 橋爪 檳榔子(はしづめ びんろうじ、1897年8月17日 - 1963年11月8日)は、日本の医師、薬学者、日本における医療評論家の先駆者とされる。本名は恵(めぐみ)。男性。 長野県松本市出身。弟に橋爪健、橋爪克巳(1903-1983)がいる。1922年東京帝国大学医学部薬学科卒、1927年千葉医科大学卒。三共製薬社員、別府化学薬品代表、日本薬学会編集主任。川端康成の友人。
木村 義雄(きむら よしお、1897年(明治30年)8月16… 木村 義雄(きむら よしお、1897年(明治30年)8月16日 – 1988年(昭和63年)5月27日)は、日本の医師、政治家。 1897年、山口県大津郡仙崎町(現・長門市仙崎)に生まれる。1921年、岡山医学専門学校を卒業。 1937年に妻の従兄弟で当時の日置村長の安倍寛(安倍晋三の祖父)の勧めで大津郡日置村に産婦人科医院を開業。1946年に安倍が死去すると、安倍が出馬を予定していた第22回衆議院議員総選挙に、安倍の長男である安倍晋太郎が被選挙権を得るまでのつなぎ役として出馬し当選するも、戦時中に地元の大政翼賛会の幹部を務めた事により公職追放され、衆議院議員の地位を失う。 1965年から油谷町長を1期務め、1971年には勲四等瑞宝章を受章。
明石 嘉聞(あかし かもん、1897年8月15日 - 197… 明石 嘉聞(あかし かもん、1897年8月15日 - 1973年10月4日)は、日本の医師。医学博士。財団法人聖マリアンナ会、財団法人日本明星育英会、聖マリアンナ医科大学の創立者で理事長を務めた。 東京府に生まれる。生家はカトリック信者であった。1928年に京都府立医科大学を卒業。1929年に滋賀県八幡町(現・近江八幡市)で開業医となる。1941年には神奈川県川崎市に東横医院を開院する。 妹の志都香は渡米してニューヨークで修道女となっていたが、太平洋戦争中の1944年に死去。戦後届いた遺言に「キリスト教精神に基づく医療・教育・福祉事業」の実現を望む内容が記されていたことから、明石はそれを実行するべく1947年に聖マリアンナ会を設立した。
古澤 平作(こさわ へいさく、1897年7月16日 - 19… 古澤 平作(こさわ へいさく、1897年7月16日 - 1968年10月5日)は、日本の医学者、精神科医。東北帝国大学助教授。 日本に精神分析の技法を導入し日本独自の精神分析学を開拓し、力動的な臨床精神医学の基礎をつくることに貢献した。アカデミズムの世界に精神分析学をはじめて導入したのは東北帝大教授であった丸井清泰(1886‐1953)であったとされるが、正統的精神分析療法を習得しこれを広めたのは,丸井の門下であった古沢平作であった。 神奈川県厚木生まれ。旧制第二高等学校、東北帝国大学医学部を卒業。この頃、白内障で二年間の闘病生活を強いられ、右目を失明する。同精神科の丸井清泰の下で助教授を務めたが、丸井と衝突し、1932年-33年にかけてウィーン精神分析研究所に留学、ジークムント・フロイトに学ぶとともに、ステルバ(R.Sterba)の教育分析とフェダーンの指導を受けた。
島 薫(しま かおる、1897年〈明治30年〉7月2日 - … 島 薫(しま かおる、1897年〈明治30年〉7月2日 - 1977年〈昭和52年〉5月16日)は、日本の医師。広島市への原子爆弾投下の爆心地にある島病院初代院長。「広島外科会の父」。 安芸郡中野村(現広島市安芸区中野)出身。1916年(大正6年)旧制広島県立広島中学校(現広島国泰寺高校)卒業。同年度卒に永山忠則・深山静夫らがいる。 旧制大阪医科大学(現大阪大学医学部)へ進学、1924年(大正13年)卒業。岩永仁雄に師事した。その後、ドイツ・アメリカで留学・研修を続けた。 1933年(昭和8年)8月31日、広島市細工町29-2(現中区大手町1丁目5-25)に「島病院」を開院した。当時の開院挨拶状には「廣島郵便局東側に於いて外科病院を經營」「外科一般特に内臟外科の診療に從事」とある。
林 信雄(はやし のぶお、明治30年(1897年)4月8日 … 林 信雄(はやし のぶお、明治30年(1897年)4月8日 - 昭和39年(1964年)12月12日)は、日本の医学者、医学博士(千葉医科大学)。放射線による内科的診断・放射線医学の先駆者。従五位・勲四等・旭日小綬章。 山形県鶴岡市出身。
宇賀田 為吉(うがた ためきち、1897年3月25日 - 1… 宇賀田 為吉(うがた ためきち、1897年3月25日 - 1999年2月28日)は、日本の医師、たばこ研究家、江戸版本蒐集家。 埼玉県加須市出身。東京帝国大学医学部卒、1928年「パラメチウム発育の生化学的研究」で医学博士。沖電気工業診療所長。大槻玄沢『蔫録(えんろく)』の調査研究が終生のテーマで、室号を「蔫々堂文庫」と称した。江戸時代の版本の蒐集家でもあり、そのコレクションは、たばこと塩の博物館に寄贈されている。101歳で死去。
鈴木 一司(すずき いちじ、1897年(明治30年)2月28… 鈴木 一司(すずき いちじ、1897年(明治30年)2月28日 - 1997年(平成9年)3月24日)は、大正から昭和期の獣医師、政治家。参議院議員(1期)。 茨城県多賀郡高萩村(松原町、高萩町大字高萩を経て現高萩市)で生まれる。1916年(大正5年)青森県畜産学校(現青森県立三本木農業高等学校)を卒業した。 高萩町会議員、茨城県獣医師協会長などを務めた。1947年(昭和22年)茨城県会議員に選出され5期在任。県議会では、農地委員長、議会運営委員長、副議長、議長(2期)、行政機構調査特別委員長、農業基本問題調査特別委員長、原子力開発特別委員長を歴任した。その他、茨城県教育委員、県監査委員なども務めた。
高橋 新次郎(たかはし しんじろう、1897年(明治30年)… 高橋 新次郎(たかはし しんじろう、1897年(明治30年)2月4日 - 1973年(昭和48年)10月5日)は、日本の歯学者、歯科医師、矯正歯科医。埼玉県出身。 東京高等歯科医学校(現・東京医科歯科大学)矯正歯科学教室教授、東京医科歯科大学教授、東京医科歯科大学歯学部長、東京医科歯科大学附属病院院長、東京医科歯科大学附属歯科技工士学校長を歴任。日本矯正歯科学会会長、国際歯科研究学会日本部会会長も務めた。 息子は植物学者の高橋信孝、孫は内分泌学者の高橋伸一郎。
若松 有次郎(わかまつ ゆうじろう、1897年(明治30年)… 若松 有次郎(わかまつ ゆうじろう、1897年(明治30年)2月1日 - 1977年(昭和52年)3月23日)は、日本の陸軍軍人、獣医師。最終階級は陸軍獣医少将。旧姓・池田。 香川県出身。農業・池田仲三郎の息子として生まれ、官吏・若松八郎の養子となる。慶應義塾普通部、第七高等学校造士館を経て、1922年(大正11年)4月、東京帝国大学農学部獣医学科を卒業。同年7月、二等獣医に任官し騎兵第13連隊付となる。1924年(大正13年)11月、サガレン州派遣軍軍政部付となり、電信第1連隊付を経て、1926年(大正15年)3月、一等獣医に昇進し騎兵第12連隊付となる。 1928年(昭和3年)4月、東京大学伝染病研究所員に就任し、陸軍士官学校付兼馬術教官、ドイツ駐在、陸軍獣医学校防疫学教官を務め、1934年(昭和9年)8月、三等獣医正に進級した。
黒川 利雄(くろかわ としお、1897年〈明治30年〉1月1… 黒川 利雄(くろかわ としお、1897年〈明治30年〉1月15日 - 1988年〈昭和63年〉2月21日)は、日本の内科学者、医学博士。東北大学医学部教授・学部長、同大学第10代総長。専門は内科学、消化器病学、臨床放射線学、特に消化管のレントゲン診断学。財団法人宮城県対がん協会を設立、日本初のがん集団検診(胃がん)を行った。正三位。勲一等瑞宝章。勲一等旭日大綬章。文化勲章受賞、文化功労者。日本学士院長。仙台市名誉市民。東京都名誉都民。北海道三笠市出身。東京で死去、享年91。子息に黒川雄二。 1897年1月15日、北海道空知郡三笠山村大字幾春別(現:三笠市幾春別町2丁目)で、福井県人黒川利三吉と熊本県人母ツネの5男3女の長男として誕生。
小那覇 舞天(おなは ぶーてん、1897年 - 1969年1… 小那覇 舞天(おなは ぶーてん、1897年 - 1969年1月25日)は沖縄県出身の演劇人、歯科医師である。本名・小那覇全孝。 国頭郡今帰仁間切(現在の今帰仁村)生まれ。旧制沖縄県立第二中学校(現・沖縄県立那覇高等学校)から旧制日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)を経て嘉手納で歯科医院を開業するかたわら、沖縄の伝統芸能の保存、普及に努め、また大衆演劇人として弟子の照屋林助とともに、占領下の焦土と化した沖縄で大きな人気を博し、沖縄のチャップリンと呼ばれた。
佐野 保(さの たもつ、1896年12月20日 - 1991… 佐野 保(さの たもつ、1896年12月20日 - 1991年1月23日)は、日本の医師。専門は小児科学。医学博士。主な業績に「栄養失調性くる病」「新生児肺炎ウイルス タイプ仙台」の研究報告がある。 香川県生まれ。 旧制第六高等学校を経て1923年に東京帝国大学医学部卒業。1926年、金沢医科大学(現金沢大学医学部)助教授に就任。1931年 - 1932年、ベルリン大学およびハイデルベルク大学へ留学。 1939年、東京大学医学部助教授。1944年、長崎医科大学(現長崎大学医学部)教授。1948年、東北大学医学部教授。1950年、東北大学医学部附属病院院長。1960年、同大学定年退官後、東北公済病院院長。
尹 日善(ユン・イルソン、いん にちぜん、1896年10月5… 尹 日善(ユン・イルソン、いん にちぜん、1896年10月5日 - 1987年6月22日)は、大韓民国の医師、教育者、医学者、大学教授。大韓民国学術院会長、ソウル大学校総長などを歴任した韓国医学界の泰斗。本貫は海平尹氏(朝鮮語版)、号は東湖(동호、ドンホ、とうこ)。日本姓、日本名は伊東 日善(いとう にちぜん)。 1896年10月5日、日本の東京府東京市にて、教育者の尹致旿(ko:윤치오)と李淑卿(이숙경、李敬淑とも)夫妻の長男として生まれる。 父の致旿は1884年の甲申政変で日本に避難した後一旦帰国、その後日本留学生監督に任命されるなど日本との往来が多い人物だった。1906年に大韓帝国に帰国し、父の職場近くにあった漢城府鋳洞(日本名日出町)の京城日出小学校に通った。
樋口 助弘(ひぐち すけひろ、1896年4月7日 - 195… 樋口 助弘(ひぐち すけひろ、1896年4月7日 - 1958年8月9日)は、放射線科医師。九州大学医学部講師。東京慈恵会医科大学教授。 日本で放射線が医療に利用されたはじめから、主としてエックス線の利用による診断、治療に関する研究に従事、その成果を数多くの論文に発表し、特に放射線障害の研究、放射線保護物質の研究を行い、1956年(昭和31年)文部省科学研究費による総合研究、特に「放射能の人体最大許容量の決定」については、研究班長としての取りまとめにあたるなど、多方面に大きな足跡を残した。 新潟県南魚沼郡湯沢町出身。新潟県立長岡中学校、第六高等学校卒業。1922年(大正11年)九州帝国大学医学部卒業。
蓮見 三郎(はすみ さぶろう、1896年1月23日 - 没年… 蓮見 三郎(はすみ さぶろう、1896年1月23日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手(中距離走)・指導者、歯科医師。1920年アントワープオリンピックに出場。名はのちに宏。 埼玉県北足立郡大砂土村(現在のさいたま市北区本郷町)出身。生家は素封家。明治39年に大砂土小学校を卒業、旧制浦和中学校(埼玉県立浦和高等学校の前身)を経て、日本歯科医学専門学校(日本歯科大学の前身)に進学した。 少年時代よりスポーツを愛好し、中距離走に秀でた成績を残した。日本歯科医専在学中に、1920年アントワープオリンピックに参加し、男子800メートル競走および1500メートル競走に出場した。日本国内のオリンピック予選会では800m走(2分05秒0)・1500m走(4分25秒0)の日本記録を残している。
日高 忠男(ひだか ただお、1896年(明治29年)1月6日… 日高 忠男(ひだか ただお、1896年(明治29年)1月6日 - 1974年(昭和49年)5月31日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員(当選1回)、医学博士。 島根県邑智郡、後の出羽村(瑞穂町を経て現邑南町)で生まれる。旧制島根県立杵築中学校、旧制第六高等学校を経て、1922年(大正11年)京都帝国大学医学部を卒業。その後、同大学院で研修し、1929年(昭和4年)医学博士を取得した。興仁会病院(浜田市)勤務、浜病院(新宮市)勤務を経て、1931年(昭和6年)松江市で日高医院を開業した。 1947年(昭和22年)島根県医師会長に就任。1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙に島根県全県区から自由党から立候補して3位で当選。
竹中 七郎(たけなか しちろう、1895年(明治28年)4月… 竹中 七郎(たけなか しちろう、1895年(明治28年)4月25日 - 1959年(昭和34年)7月23日)は、大正から昭和期の医師、政治家。参議院議員(1期)、愛知県碧海郡刈谷町長、刈谷市長。刈谷市名誉市民。 愛知県碧海郡刈谷町肴町(現刈谷市)で、紺屋業・竹中石松の長男として生まれる。1913年(大正2年)、愛知県立第二中学校(現愛知県立岡崎高等学校)卒業。1918年(大正7年)愛知県立医学専門学校(現名古屋大学医学部)を卒業した。同年、愛知県立愛知病院(現名古屋大学医学部附属病院)に勤務し、1921年(大正10年)耳鼻咽喉科病院を開業した。 1932年(昭和7年)刈谷町会議員に選出され、以後、刈谷町長、愛知県町村長会長、愛知県会議員などを務めた。
大久保 信(おおくぼ しん、1895年(明治28年)4月25… 大久保 信(おおくぼ しん、1895年(明治28年)4月25日 - 1944年(昭和19年)4月1日)は、日本の海軍軍人、医師。最終階級は海軍軍医少将。海軍乙事件により遭難、殉職。 1895年(明治28年)、神奈川県に生まれる。1917年(大正6年)に千葉医学専門学校に在学中のまま海軍軍医学生になる。翌1918年(大正7年)5月、卒業。海軍少軍医となり海軍軍医学校で乙種学生として学び、霧島乗組になる。その後、駒橋、迅鯨、磐手、高雄の軍医長などを歴任する。 1942年(昭和17年)に海軍省医務局第一課長に就任、同年12月に南東方面艦隊軍医長に就任した。 翌1943年(昭和18年)4月連合艦隊司令長官山本五十六らが乗った一式陸攻が敵戦闘機P-38に撃墜される事件があり(海軍甲事件)、大久保は山本らの検死に立ち会った。
尹 致旺(ユン・チワン、朝鮮語: 윤치왕、1895年2月17… 尹 致旺(ユン・チワン、朝鮮語: 윤치왕、1895年2月17日 - 1982年12月21日)は、韓国の産婦人科医師、軍医である。朝鮮戦争時、彼は軍医官として在職し軍医官を教育、育成した。尹雄烈の庶子であり政治家である尹致昊の異母弟。字は「聖雲」、号は「南圃」。日本名は「伊東致旺」。 1895年、漢城府生まれ。京都帝国大学で学び、1930年8月5日、京都帝国大学大学院で医学博士号を取得(産婦人科分野)。また、グラスゴー大学大学院 医学修士(産婦人科分野)。 1949年8月18日、陸軍本部医務監となる(~1953年9月5日)。。 1953年5月16日、少将に任ぜられる。1956年11月より、第2軍管区司令官。
河石 九二夫(かわいし くにお、1895年(明治28年)1月… 河石 九二夫(かわいし くにお、1895年(明治28年)1月17日 - 1973年(昭和48年)1月28日)は、日本の医師、医学者。 水泳選手で、1932年ロサンゼルスオリンピック銀メダリストの河石達吾は親戚に当たる。 1895年(明治28年)1月17日、現在の広島県江田島市大柿町大原に生まれる。 第一高等学校を経て東京帝国大学医学部に進み、1921年(大正10年)に大学を卒業。その後、愛知医科大学・名古屋医科大学斉藤外科の講師・助教授となる。1938年(昭和13年)には、台北帝国大学教授となり、河石外科教室を創設。1944年から1945年にかけて、医学部付属病院の第4代院長を務めた。 1949年(昭和24年)に日本に帰国し、広島医科大学教授、後に学長となる。
緒方 龍(おがた りゅう、1895年1月 - 1955年3月… 緒方 龍(おがた りゅう、1895年1月 - 1955年3月)は、日本、満洲国、朝鮮の医師。 緒方道平の四男として福岡市に生まれる。祖父は緒方郁蔵。医学者緒方大象、政治家緒方竹虎は兄。1914年福岡県立中学修猷館、1917年7月第五高等学校医科を経て、1921年7月京都帝国大学医学部を卒業。 満洲国の斉斉哈爾鉄道病院院長、朝鮮の清津赤十字病院院長を歴任。戦後、福岡市の在外同胞援護会救療部聖福病院の初代院長となり、引揚者の医療救護にあたった。在職中の1955年3月死去。
稲賀 幸(いなが こう、1894年(明治27年)12月13日… 稲賀 幸(いなが こう、1894年(明治27年)12月13日 - 1974年(昭和49年)10月)は日本の医師。元稲賀外科医院長。元鳥取県会議長稲賀龍二の孫。妹しげのは元郵政大臣手島栄の妻。鳥取県済生会境港総合病院院長稲賀潔の祖父。 鳥取県境港市上道町出身。 米子中学(現米子東高校)、京都の第三高等学校を経て大正10年(1921年)東大医学部卒業。東大外科教室勤務。 大正11年(1922年)順天堂医院レントゲン科兼務。 大正14年(1925年)米子病院外科部長。 昭和20年(1945年)米子医専教授。昭和23年(1948年)退官し上道に稲賀外科医院を開業。 西伯郡医師会長及び鳥取県医師会副会長、鳥取県西部医師会副会長、上道公民館長も歴職した。
笹川 久吾(ささがわ きゅうご、1894年〈明治27年〉9月… 笹川 久吾(ささがわ きゅうご、1894年〈明治27年〉9月5日 - 1968年〈昭和43年〉5月16日)は、日本の生理学者、医師。医学博士。京都大学名誉教授、日本生理学会特別会員、日本体力医学会名誉会員。日本鍼灸学会初代会長。 新潟県西蒲原郡金巻村大字大野町(現 新潟市西区大野町)出身。1914年(大正3年)3月に新潟中学校を卒業、1919年(大正8年)7月に第四高等学校を卒業、1923年(大正12年)6月に京都帝国大学医学部医学科を卒業。 1925年(大正14年)6月に京都帝国大学医学部生理学第二講座(担任:石川日出鶴丸教授)助手に就任、1928年(昭和3年)11月に大阪高等医学専門学校教授に就任、1929年(昭和4年)6月に京都帝国大学から医学博士号を取得。
前田 和三郎(まえだ わさぶろう、1894年〈明治27年〉7… 前田 和三郎(まえだ わさぶろう、1894年〈明治27年〉7月28日 - 1979年〈昭和54年〉8月17日)は、日本の整形外科医、医学博士、慶応義塾大学教授。 大阪市出身。1920年京都帝国大学医学部卒。卒業後は同大学の副手となる。1922年に助手となり、翌年同大学院に入り、1925年学位を受け、講師となる。1926年熊本医大(現・熊本大学医学部)教授兼整形外科医長となり、1928年慶應義塾大学医学部教授兼整形外科教室主任。1948年医師国家試験委員。1951年立川病院長も兼任した。この間文部省在外研究員として欧米に留学。日本外科学会、日本整形外科学会、日本胸部外科学会、麻酔学会の各会長を務めた。
渡邉 健(わたなべ けん、1894年〈明治27年〉7月27日… 渡邉 健(わたなべ けん、1894年〈明治27年〉7月27日 - 1952年〈昭和27年〉3月31日)は、日本の政治家・医師。衆議院議員(2期)。 茨城県出身。渡邉賢次郎の長男として生まれる。1917年千葉医学専門学校(現在の千葉大学医学部)卒。卒業後は陸軍軍医となる。橋田病院に勤務し、独立して1922年に内科医院を開業する。この他茨城県議、東茨城郡渡里村(現在の水戸市)長、同在郷軍人会分会長、同農会長などを歴任する。また、上海事変に従軍し、支那派遣軍への慰問歴もある。 1940年1月、第20回衆議院議員総選挙茨城県第1区の再選挙で衆議院議員に当選。次の1942年の第21回衆議院議員総選挙には翼賛政治体制協議会(翼協)の推薦を受けて再選。
黒澤 潤三 (くろさわ じゅんぞう、1894年7月27日 -… 黒澤 潤三 (くろさわ じゅんぞう、1894年7月27日 - 1966年9月10日)は、日本の医師。第9代日本医師会会長。 埼玉県野上村(現長瀞町)出身。東京帝国大学医学部卒業。専門は眼科学。東京女子医専(現東京女子医科大学)講師、日本医科大学教授を経て、1927年、小川眼科病院長。1945年、日本眼科医会会長、1954年、第9代日本医師会会長を歴任。 初代 北里柴三郎1916-1931 / 2代 北島多一1931-1943 / 3代 稲田龍吉1943-1946 / 4代 中山寿彦1946-1948 / 5代 高橋明1948-1950 / 6代 田宮猛雄1950 / 7代 谷口弥三郎1950-1952 / 8代 田宮猛雄1952-1954 / 9代 黒澤潤三1954-1955 / 10代 小畑惟清1955-1957 / 11代 武見太郎1957-1982 / 12代 花岡堅而1982-1984 / 13代 羽田春兔1984-1992 / 14代 村瀬敏郎1992-1996 / 15代 坪井栄孝1996-2004 / 16代 植松治雄2004-2006 / 17代 唐澤祥人2006-2010 / 18代 原中勝征2010-2012 / 19代 横倉義武2012-2020 / 20代 中川俊男2020-2022 / 21代 松本吉郎2022- この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
北野 政次(きたの まさじ、1894年(明治27年)7月14… 北野 政次(きたの まさじ、1894年(明治27年)7月14日 - 1986年(昭和61年)5月17日)は、日本の陸軍軍人、医師、細菌学者。陸軍軍医中将。勲三等。東京帝国大学医学博士。博士論文は「チフス及パラチフス菌属の血清耐性に関する実験的研究」。 兵庫県出身。旧制第八高等学校を経て、東京帝国大学医学部を卒業後、大日本帝国陸軍に入隊。第2代731部隊長を務め、人体実験や細菌攻撃を推進する立場であったとされている。 第二次世界大戦後は、文部省に奉職しながら日本ブラッドバンクの創業に関わり、顧問に就任。 凍結乾燥装置を用いた乾燥血漿製造の研究成果を応用し、血液製剤の製造、販売を行った。同社設立期においては、朝鮮戦争における米軍向けの輸血用血液製造を行った。
金子 義晁(かねこ よしとも、1894年〈明治27年〉7月1… 金子 義晁(かねこ よしとも、1894年〈明治27年〉7月1日 - 1966年〈昭和41年〉11月27日)は、日本の内科学者、内科医。医学博士。同和病院初代理事長・院長、元外務省診療所所長、元老人病研究所副所長、元東京医科大学教授。 新潟県中蒲原郡村松町(現 五泉市村松)の士族出身。1914年(大正3年)3月に新潟中学校を卒業、1918年(大正7年)7月に第八高等学校を卒業、1922年(大正11年)3月に東京帝国大学医学部医学科を卒業。 1922年(大正11年)4月に東京帝国大学医学部病理学第一講座(教授:緒方知三郎)に入室、1927年(昭和2年)に東京帝国大学医学部附属医院第二内科(教授:呉建)に入局、1929年(昭和4年)3月に東京帝国大学から医学博士号を取得。
矢崎 芳夫(やざき よしお、1894年4月14日 - 197… 矢崎 芳夫(やざき よしお、1894年4月14日 - 1972年3月9日)は日本の医師、医学者、衛生学者。 長野県諏訪郡永明村(現茅野市)生まれ。1917年旧制東京慈恵医院医学専門学校卒業。1922年からドイツのフライブルク大学に留学し、細菌衛生学を学ぶ。帰国後の1925年に東京慈恵会医科大学教授となり、衛生学教室を創設。1956年には学長に就任した。 研究では特に、生物発光に関する研究、日光紫外線に関する研究で知られ、郷里の諏訪湖産のヌカエビの発光の本態が淡水棲発光バクテリアの感染によるものであることを発見(ホタルエビも参照)、また各種魚類における共棲発光の実例を実証した。戦後は日本で最初に蛍光顕微鏡を開発し、結核菌の検出などの実績を上げた。
堀田 一雄(ほった かずお、1894年4月10日 - 197… 堀田 一雄(ほった かずお、1894年4月10日 - 1976年2月2日)は日本の生化学者、医学博士、大学教授。名古屋大学名誉教授、一宮女子短期大学名誉学長。 愛知県名古屋市出身。愛知県立医学専門学校(現・名古屋大学)、東北大学医科大学卒業。生化学を専攻し、愛知医科大学・名古屋医科大学・名古屋大学教授、和歌山県立医科大学教授を歴任した。1976年2月2日、脳血栓のため愛知県名古屋市中京病院で死去。81歳。告別式は愛知県医師会講堂で行われた。 名古屋日独協会の活動に尽力。1964年から1976年に亡くなるまで協会長として活動した。晩年にはドイツ連邦共和国功労勲章(大功労十字章)を受賞している。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
大原 博夫(おおはら ひろお、1894年〈明治27年〉3月1… 大原 博夫(おおはら ひろお、1894年〈明治27年〉3月15日 - 1966年〈昭和41年〉1月11日)は日本の政治家、医師。衆議院議員(2期、社会革新党)。広島県会議員、同議長。広島県知事(第48、49、50代)。広島県医師会長、日本医師会理事、 三女は参議院議長を務めた藤田正明の妻。広島県知事を務めた藤田雄山は孫。 広島県豊田郡大河村(後の河内町、現東広島市)出身。医師・大原弥八の長男。1913年、広島県立広島中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)卒業。1920年、東京慈恵会医院医学専門学校(現東京慈恵会医科大学)卒業。父の医業を継ぎ、自宅で開業する。 県会議員を5期務めた。1943年、県医師会長に選出された。
渡辺 甲一(わたなべ こういち、1894年3月2日 - 19… 渡辺 甲一(わたなべ こういち、1894年3月2日 - 1968年11月11日)は、日本の陸軍軍人、医師。最終階級は、陸軍軍医中将。 埼玉県比企郡松山町(現東松山市)出身。旧制埼玉県立熊谷中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学医科大学卒業。1930年、医学博士(東京帝国大学)。 1921年、東京陸軍兵器支援診療所主治医となる。1923年、陸軍三等軍医正。1926年、陸軍一等軍医。1945年、陸軍軍医学校長、陸軍省医務局長となる。第二次世界大戦後、復員局医務部長となり戦後処理にあたる。 復員局を退職後、東京都中野区で開業し地域医療に尽くした。
岡本 清纓(おかもと きよふさ、明治27年(1894年2月1… 岡本 清纓(おかもと きよふさ、明治27年(1894年2月11日) - 昭和58年(1983年2月22日))は、日本の歯科医。東京医科歯科大学教授として口腔衛生学講座を担当し、付属歯科技工士学校・歯科衛生士学校の校長を兼務したほか、のちに愛知学院大学歯学部長を務めた。歯科医療分野に加え、日本卓球協会総務理事や日本卓球協会副会長も歴任した。 戦前・戦後を通じて日本の歯科医療と口腔衛生学の発展に大きな影響を与えた人物である。学生時代は東京歯科医学専門学校で卓球選手としても活動したが、卒業後は恩師の勧めによりライオン歯磨(当時・小林商店)に入社し、口腔衛生普及事業の先端に立った。1921年に開設された日本初の小児専門歯科診療所「ライオン児童歯科院」では初代院長を務め、18年にわたり診療と啓発活動に携わった。
今村 春吉(いまむら はるきち、1894年〈明治27年〉2月… 今村 春吉(いまむら はるきち、1894年〈明治27年〉2月4日 - 1989年〈平成元年〉7月19日)は、長崎市の外科医師、洋画家。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
三好 義雪(みよし よしゆき、1894年〈明治27年〉2月3… 三好 義雪(みよし よしゆき、1894年〈明治27年〉2月3日 - 没年不明)は、日本の医師(内科小児科、三好医院)、会社役員。族籍は広島県平民。 広島県広島市東白島町(現・広島市中区東白島町)出身。三好家は代々医を業とする。広島高等師範学校附属中学校を優等の成績を以て卒業する。1915年、岡山医学専門学校を卒業する。1916年、舟入病院臨時医員嘱託、同年に広島県防疫医拝命、同年に一年志願兵として入隊。1917年、正八位に叙される。 1920年、予備役三等軍医後広島病院に勤務。1923年、開業する。内科小児科を主とする。白島小学校医、広島高等師範学校医である。1930年以来広島市医師会理事。1937年、鈴木商店監査役に就任する。
岩井 弼次(いわい ひつじ、1894年1月17日 - 196… 岩井 弼次(いわい ひつじ、1894年1月17日 - 1969年1月11日)は、日本の医師。 農家の三男として大阪府三島郡磐手村(現・高槻市)で生まれた。1910年、林家の養子になるも、1912年、京都府立医学専門学校(現・京都府立医科大学)に入学。1916年卒業。卒業と同時に実家の岩井家に戻る。 1927年、昭和文化学会に参加。同年末、労働農民党に加入。1928年、労働農民党大阪府連合会常任委員、同党解散後は新党準備会の活動に参加。 1929年、共産党シンパ事件で初検挙。1932年2月、日本共産党に入党。 1933年、治安維持法違反で再検挙、1934年5月に出獄。 1947年、大阪市長選挙(公選1回目)、第23回衆議院議員総選挙に立候補。
宮良 長詳(みやら ちょうしょう、1894年(明治27年)1… 宮良 長詳(みやら ちょうしょう、1894年(明治27年)1月11日 - 1965年(昭和40年)1月30日)は、戦前の沖縄県の医師で、八重山支庁の政治家。終戦直後に八重山支庁長を務めた。沖縄県石垣市出身。 明治27年(1894年)1月11日生まれ。大正10年(1921年)に九州帝国大学医学部を卒業する。 大正13年(1924年)に石垣島に帰島し医院を開業する。戦前は八重山諸島の旧制中学校設立運動に関わる。 沖縄戦後は、八重山諸島の混乱を鎮めるために、有志とともに八重山自治会を結成し自治会長に就任する。進駐したアメリカ軍によって八重山支庁長に任命される。 翌年に支庁長を辞任し、以降は八重山人民党を結成するなど、しばらく政治活動を続け、晩年には仏教に帰依する。
上條秀介(かみじょうしゅうすけ、1893年12月22日 - … 上條秀介(かみじょうしゅうすけ、1893年12月22日 - 1956年5月19日)は日本の医師。1928年(昭和3年)に昭和医学専門学校(現・昭和医科大学)を設立し、日本病院協会(現・日本病院会)の初代会長も務めた。勲四等瑞宝章、従五位に叙された。
尼子 富士郎(あまこ ふじろう、1893年12月1日 - 1… 尼子 富士郎(あまこ ふじろう、1893年12月1日 - 1972年3月17日)は日本の医師、老年医学者。医学博士。 広島出身の医師で医学中央雑誌の創設者でもある尼子四郎の長男として山口県下松市で生まれ、まもなく一家で上京する。誠之小学校では中川一政と同級生であり、また東京高等師範学校附属中学校の受験のため夏目漱石に英語の個人教授を受けていた。 世界に先駆けて老年医学の重要性に着目し、その研究と教育の先駆者と評価されている。日本老年医学会は「尼子賞」を設けている。 その一方、父から医学中央雑誌の編集を引き継ぎ、全ての文献の採択、抄録の編集、校正に目を通し、それを優先するため生涯国外に出なかった。
皆見 省吾(みなみ せいご、1893年11月1日 - 197… 皆見 省吾(みなみ せいご、1893年11月1日 - 1975年9月6日)は、日本の皮膚科医。九州大学名誉教授。 岡山医科大学、九州帝国大学皮膚科教授を務め、皮膚科学を研究。若い皮膚科研究者を育てる為に皆見賞を創設。ドイツ留学中に世界大戦後の戦傷後の腎不全を研究。挫滅症候群(クラッシュ・シンドローム)を世界で初めて報告した。 広島市生まれ。1918年、東京帝国大学(現東京大学)医学部卒業。1922年、文部省在外研究員として渡欧(2年間)。1924年、岡山医科大学(岡山大学医学部の前身)皮膚科教授。1929年、第29回日本皮膚科学会を岡山で主催。1931年、九州帝国大学(九州大学の前身)皮膚科教授。
岩田 千虎(いわた かずとら、1893年10月28日 - 1… 岩田 千虎(いわた かずとら、1893年10月28日 - 1966年10月6日)は、日本の彫刻家、獣医師。獣医師となったのちに37歳から彫刻の修得を始め、牛をはじめとする動物の彫刻で知られる。 1893年(明治26年)、熊本県飽託郡芳野村中河内(現・熊本市西区)に六人兄弟の末子として生まれた。千虎(かずとら)は父のつけた本名で、加藤清正から連想したものだろうと本人が語っている。子どもの頃から絵が好きで、河内小学校のときにかいた絵馬が地元の大明神に残るという。小学校卒業後、熊本農学校養蚕別科を経て、大阪府立農学校(現在の大阪府立大学)畜産学科に進み、1912年(大正元年)、獣医師免許を取得した。 1915年(大正4年)に大阪府立農学校を卒業。