巖谷 大四(いわや だいし、1915年12月30日 - 20… 巖谷 大四(いわや だいし、1915年12月30日 - 2006年9月6日)は、日本の文芸評論家。 童話作家・巖谷小波の四男として東京に生まれる。早稲田大学英文科卒。卒業後、菊池寛の世話により社団法人日本文藝家協会書記となる。 戦時中日本文学報国会で事務をとる。1945年の終戦後、高見順の誘いで鎌倉文庫の編集者となる。1949年秋に鎌倉文庫がつぶれ、1950年1月に河出書房に入社して「現代日本小説大系」の編集者となる。1950-56年『文藝』編集長。『週刊読書人』編集長を務め、1965年から文筆活動に入る。 父の評伝『波の跫音』がある。1989年勲三等瑞宝章受章、1991年大衆文学研究賞受賞。墓所は多磨霊園。
森須滋郎(もりす じろう、1915年11月16日-1995年… 森須滋郎(もりす じろう、1915年11月16日-1995年11月25日)は、日本の食味評論家。 福島県生まれ。本名・八巻千秋。東京帝国大学文学部美学美術史科卒。 1975年より料理季刊誌『四季の味』の編集長をし、日本全国の名店・名物料理を紹介。旨いものを知らしめる味の批評家として有名であっただけでなく、自身も家庭では包丁を握って客をもてなす家庭料理の達人であった。娘に八巻元子(1944-『四季の味』編集長)。[要出典]
渡辺 護(わたなべ まもる、1915年10月9日 - 200… 渡辺 護(わたなべ まもる、1915年10月9日 - 2007年7月30日)は、日本の音楽学者、音楽評論家。東京大学名誉教授。 1915年、東京生まれ。1938年東京帝国大学美学科を卒業。1939年にドイツに渡り、ウィーン大学で学び1942年に卒業。ブルガリアのソフィア大学講師に就いた。1944年、第二次世界大戦の戦火を避けてスイスに滞在し、1946年に米国をへて帰国した。 帰国後、武蔵野音楽大学教授に就いた。1965年、東京大学文学部美学美術史学科助教授となり、1969年に教授昇格。1976年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、在西ドイツ日本大使館公使、ケルン日本文化会館長を務めた。
高間 直道(たかま なおみち、1915年10月5日 - 19… 高間 直道(たかま なおみち、1915年10月5日 - 1996年1月12日)は、日本の哲学者、評論家。 大阪府出身。1940年(昭和15年)早稲田大学文学部哲学科卒業、1941年(昭和16年)学徒出陣で入営。満州、北支などを転戦し、陸軍大尉。復員後、大阪商業大学助教授、1955年(昭和30年)東京医科大学教授。1986年(昭和61年)定年、名誉教授。若者向けの啓蒙書、顔診断の著作を多く執筆した。
宮崎 吉政(みやざき よしまさ、1915年8月8日 - 20… 宮崎 吉政(みやざき よしまさ、1915年8月8日 - 2006年3月3日)は、日本のジャーナリスト、政治評論家。
与謝野 道子(よさの みちこ、旧姓:坂内、1915年6月26… 与謝野 道子(よさの みちこ、旧姓:坂内、1915年6月26日 - 2000年10月31日)は、日本の評論家、随筆家。
森 一也(もり かずや、 1915年(大正4年)4月8日 -… 森 一也(もり かずや、 1915年(大正4年)4月8日 - 1998年(平成10年)2月1日)は、コロムビア専属の作曲家・音楽評論家(懐メロ解説)。愛知県出身。弟にアニメーション評論で知られる映画評論家の森卓也。 幼少の頃から詩人・西條八十の大ファンで、西條八十作の童話に親しみ、毎晩母親から読み聞かせてもらわなければ寝られぬほどであったという。昭和7年4月に愛知県の一宮中学校から明治大学附属中学校に編入、翌8年4月に家事都合で退学する。また、明治大学講堂で開かれた山田耕筰の音楽講座に出席するなど音楽についての研究に没頭し、その後、東京音楽学校(現:東京藝術大学)を卒業。一時、ビクターコンサートビューローに籍を置き、戦時中は地元名古屋で音楽教師として活躍。
寺田 透(てらだ とおる、1915年〈大正4年〉3月16日 … 寺田 透(てらだ とおる、1915年〈大正4年〉3月16日 - 1995年〈平成7年〉12月21日)は、日本の文芸評論家・フランス文学者。東京大学教養学部教授を歴任。 神奈川県横浜市出身。神奈川一中から第一高等学校をへて東京帝国大学文学部仏文学科卒業、大学時代に、立原道造・杉浦明平とともに同人雑誌をやっていたが、立原が日本浪曼派に接近したことで絶交し、同人雑誌も終わりとなった。戦後、中央大学予科教授、第一高等学校教授から、1949年東京大学教養学部教授。1969年大学紛争のときに事態の収拾法に不満をもち、辞職した。ただし当時の文章や対談では、以前から新制大学に「文人」は適合できないと感じていたと言っている。
野間 宏(のま ひろし、1915年(大正4年)2月23日 -… 野間 宏(のま ひろし、1915年(大正4年)2月23日 - 1991年(平成3年)1月2日)は、日本の小説家・評論家・詩人。 大学時代の左翼運動と出征経験から、戦後『暗い絵』を書いて第一次戦後派の先頭に立ち、特に『真空地帯』は大きな反響を呼んで戦後文学の記念碑的名作となった。その後は社会全体の構造をとらえる全体小説を志向し、次々と大作を発表。文学の国際交流にも尽力し、また最晩年まで社会的な発言を多く行った。部落外の出身者だが部落解放同盟中央委員となった
池田 雅雄(いけだ まさお、1915年1月19日 - 198… 池田 雅雄(いけだ まさお、1915年1月19日 - 1988年11月27日)は、日本のジャーナリスト、相撲評論家である。 長年にわたり、ベースボール・マガジン社の雑誌『相撲』の編集者・顧問として幅広く相撲研究に取り組み、多くの記事やエッセイを著した。本名での執筆とともに、〈国立浪史〉〈葛飾太郎〉のペンネームもしばしば使用した。奈良県桜井市出雲名誉区民、実兄はベースボール・マガジン社創設者の池田恒雄、息子は早稲田大学教授の池田雅之、姪はエッセイストの工藤美代子、姪は池田晶子、從孫は産経新聞記者の猪谷千香。 東京市本所区南二葉町(現在の墨田区亀沢)出身。「相撲の神様」として有名な野見宿禰神社の近くで育ち、少年時代は本場所前に相撲部屋の親方に連れられて必勝祈願に参詣するのを楽しみにしていたという。
重光 晶(しげみつ あきら、1915年1月15日 - 200… 重光 晶(しげみつ あきら、1915年1月15日 - 2000年8月27日)は、日本の外交官、外交評論家。位階は正三位。 外務省国際連合局長を経て、駐ナイジェリア特命全権大使や、駐ソビエト連邦特命全権大使を務めた。重光葵元外務大臣の甥。 石川県金沢市生まれ。東京出身。1935年静岡高等学校文科丙類卒業。1936年東京帝国大学法学部政治学科に入学。1938年に外交官試験に合格し、大学を中退した。1939年に外務省に入省し、ポーランド、ラトビア、ブルガリアでロシア語研修を受ける。 1951年から外務省条約局第三課長を務め、1952年からは外交官領事館採用試験専門試験委員(憲法)や、外務書記採用試験専門試験委員も担当した。
吉田 耕三(よしだ こうぞう、1915年 - 2013年)は… 吉田 耕三(よしだ こうぞう、1915年 - 2013年)は、日本の美術評論家。 神奈川県横浜市出身。日本画家の速水御舟の甥。御舟から日本画を学び、御舟の日本画の鑑定人を務める。現代陶芸の旗手といわれた加守田章二の才能を認める。陶芸の公募展・日本陶芸展創設を企画する。 東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科卒業。復員後、世界的な陶磁学者で陶芸家・小山富士夫の助手となり、その後、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)陶磁器主任で、陶磁器の批評と収集の天才といわれる北原大輔、人間国宝・荒川豊蔵、百五銀行頭取で陶芸作家・川喜田半泥子から焼き物に関する学問と技術を学ぶ。北大路魯山人の弟子でもある。 東京国立近代美術館の創立時から勤務して日本画と工芸を担当し、総括主任研究官などを歴任。
井上 赳夫(いのうえ たけお、1914年12月31日 - 2… 井上 赳夫(いのうえ たけお、1914年12月31日 - 2003年10月)は、航空工学者、評論家。 神奈川県生まれ。1939年旅順工科大学機械工学科卒業、航空局技手。41年中央航空研究所研究官、44年航空局航空官、1956年科学技術庁科学調査官、66年科学審議官。1967年日本航空勤務、75年電商取締役営業部長。
河北 倫明(かわきた みちあき、1914年12月14日 - … 河北 倫明(かわきた みちあき、1914年12月14日 - 1995年10月30日)は、日本の美術評論家。京都国立近代美術館館長、京都造形芸術大学学長を歴任。佐藤達夫は従兄。 福岡県浮羽郡山春村(現:うきは市)生まれ。福岡県中学明善校、第五高等学校、1938年京都帝国大学文学部哲学科卒。1943年文部省美術研究所に勤務。自身と同じ明善校にも学んだこともある久留米出身の夭逝の洋画家青木繁を研究テーマとし、日本美術史上にその評価を定めた。その後も近代日本美術史の研究を精力的に進め、1952年国立近代美術館事業課長、1963年次長、1969年京都国立近代美術館館長となる。1986年退官、同年秋、勲二等旭日重光章受勲。
佐々木 基一(ささき きいち、1914年(大正3年)11月3… 佐々木 基一(ささき きいち、1914年(大正3年)11月30日 - 1993年4月25日)は、日本の文芸評論家。本名・永井善次郎。
尾崎 宏次(おざき ひろつぐ、1914年11月24日 - 1… 尾崎 宏次(おざき ひろつぐ、1914年11月24日 - 1999年11月9日)は、日本の演劇評論家。
加藤 衛(かとう まもる、1914年11月9日 - 1992… 加藤 衛(かとう まもる、1914年11月9日 - 1992年3月19日)は、ドイツ文学者、演劇評論家、劇作家。神奈川県立横浜第一中学校(現在の神奈川県立希望ヶ丘高等学校)、1939年上智大学卒業。ドイツ文学専攻、東京水産大学助教授、横浜市立大学教授を務め、演劇評論のほか劇作・上演も行い、横浜演劇研究所所長を務めた。ほか、1948年に湘南工業短期大学の前身とされる湘南工業専門学校の教員にも就任している。 (秋 現代日本戯曲大系 第3巻 三一書房 1971)
曽野 明(その あきら、1914年10月19日 - 1995… 曽野 明(その あきら、1914年10月19日 - 1995年9月22日)は、日本の外交官、外交評論家。位階は正三位。 兵庫県芦屋市出身。1937年東京帝国大学法学部政治学科中退。同年外務省に入り、調査局第二課長、情報文化局第一課長、ソ連課長、在ドイツ大使館参事官、在シカゴ、在ベルリン総領事を歴任し、1961年情報文化局長、1966年駐ユーゴスラビア大使、1969年駐パキスタン大使を経て、1972年駐西ドイツ大使に就任。1975年退官し、評論家となる。1995年叙正三位。
小松 伸六(こまつ しんろく、1914年9月28日 - 20… 小松 伸六(こまつ しんろく、1914年9月28日 - 2006年4月20日)は、日本のドイツ文学者、文芸評論家。筆名・内海伸平。 北海道釧路生まれ。東京帝国大学卒。第四高等学校(金沢)教授を務めた。ゲーテ論、トーマス・マンの翻訳などを行うかたわら、1941年、第五次『赤門文学』を主宰。戦後は立教大学教授。久保田正文、林富士馬、駒田信二らと『文學界』の同人雑誌評を担当、原田康子らを発掘した功績で1979年、菊池寛賞受賞、81年、『美を見し人は』で芸術選奨文部大臣賞受賞。 岐阜県海津市の海津市海津図書館の文学同人誌を収集する施設「日本現代紙碑文学館」は、小松伸六の1万5千冊の寄贈が基礎となり、1976年(昭和51年)4月に設立されている。
木下 順二(きのした じゅんじ、1914年〈大正3年〉8月2… 木下 順二(きのした じゅんじ、1914年〈大正3年〉8月2日 - 2006年〈平成18年〉10月30日)は、日本の劇作家、評論家。代表作に『夕鶴』がある。日本劇作家協会顧問。母方の伯父は佐々醒雪(俳人、国文学者)。著名な進歩的文化人(戦後民主主義者)であった。 東京市本郷区(現・東京都文京区本郷)生まれ。父は熊本県伊倉町長を務めた木下弥八郎、祖父は玉名郡長・衆議院議員を務めた木下助之。異母兄は天文学者の木下國助、異母姉・静は侍従次長の木下道雄に嫁いだ。第二女子師範附属小学校を経て郷里熊本市に戻る。実家は祖父の代まで惣庄屋を務めた熊本の名家だった。旧制熊本中学(現熊本県立熊本高等学校)、第五高等学校を経て1936年、東京帝国大学文学部英文科に入学し、中野好夫の指導でシェイクスピアを専攻した。
林 富士馬(はやし ふじま、1914年7月15日 - 200… 林 富士馬(はやし ふじま、1914年7月15日 - 2001年9月4日)は、東京府出身の詩人、文芸評論家、医師。俳号は空花。 東京府大曲に生まれ、父母の郷里である長崎県に育つ。長崎では芥川龍之介の門人だった渡辺庫輔と交友。慶應義塾大学文学部在学中に佐藤春夫の門人となり、1935年夏頃、佐藤邸にて太宰治と知り合う。1939年、佐藤春夫の序文を得て、第一詩集『誕生日』(私家版)を刊行(林修平名義)。しかし、薬物中毒や自殺未遂を繰り返す太宰の激しい生き方を見て一度は文学を断念した。 慶應義塾大学を中退して日本医科大学を卒業し、医師となる。1943年、文学青年時代の三島由紀夫と知り、当時まだ無名だった三島の才能を高く評価。
丸山 静(まるやま しずか、男性、1914年7月12日 - … 丸山 静(まるやま しずか、男性、1914年7月12日 - 1987年7月2日)は、日本の文芸評論家。 東京帝国大学仏文科卒、京都帝国大学東洋史学科卒。1980年から愛知大学教授を務めた。 風巻景次郎・西郷信綱らと「抒情」を創刊。当初は島木赤彦をはじめ現代日本文学の評論を行ったが、のち文化人類学、民俗学に関心を移し、『熊野考』を遺作として残した。 ジュリア・クリステヴァ、ジョルジュ・デュメジルなどの訳者としても知られる。1968年、現象学会設立。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
平野 仁啓(ひらの きみひろ/じんけい、1914年4月6日 … 平野 仁啓(ひらの きみひろ/じんけい、1914年4月6日 - 1996年11月25日)は、日本の文芸評論家。 広島県生まれ。本名・保。明治大学文学部卒、明大教授、1985年定年退職、名誉教授。20代には、同人文芸誌「批評」にも参加した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
十返 肇(とがえり はじめ、1914年〈大正3年〉3月25日… 十返 肇(とがえり はじめ、1914年〈大正3年〉3月25日 - 1963年〈昭和38年〉8月28日)は、香川県出身の作家、文芸評論家、編集者。 本名は十返 一(とがえり はじめ)。筆名=大方宗多(オオカタ ソウダ)。 高松市生まれ。料亭・淀川楼の長男に生まれる。 旧制高松中学校を経て、1935年(昭和10年)日本大学芸術科卒業。在学中から中河与一主宰「翰林」の同人となり、文芸時評を連載。東京市麹町区土手三番町に下宿していたとき、近所の吉行エイスケに師事。 森永製菓宣伝部に勤務。後に、第一書房に入社して「新文化」(「セルパン」改題) 編集長。 戦後、丹羽文雄に勧められて十返肇という筆名を名乗る。
高橋 通敏(たかはし みちとし、1914年(大正3年)3月1… 高橋 通敏(たかはし みちとし、1914年(大正3年)3月18日 - 1989年(平成元年)4月6日)は、日本の外交官、国際政治学者、外交評論家。位階は正三位。 熊本県出身。熊本士族・高橋守雄の二男。1933年(昭和8年)旧制五高文科乙類を経て、東京帝国大学法学部、ミュンヘン大学を卒業し、その後外務省に入省する。 1957年(昭和32年)外務省条約局長。1960年(昭和35年)、参議院日米安全保障条約等特別委員会では政府委員として答弁に立ち、在日米軍に対して日米地位協定によって敢えて治外法権的立場を付与したと答弁した。1966年(昭和41年)スウェーデン駐箚特命全権大使。外務省研修所長を経て、1970年(昭和45年)エジプト駐箚特命全権大使などを歴任した。
武藤 光朗(むとう みつろう、1914年3月17日 - 19… 武藤 光朗(むとう みつろう、1914年3月17日 - 1998年7月25日)は、日本の社会評論家・社会思想家。学位:経済学博士(中央大学より1961年取得 / 論文タイトル「経済倫理 : 経済学と世界観」)。 社会民主主義思想、カール・ヤスパース哲学などを研究した。鈴木三郎・草薙正夫らと共に、1951年設立となったヤスパース協会創立者の一人である 福島県生まれ。幼少期に両親を失い、長崎の長兄のもとに移り育つ。長崎の旧制高等商業学校を経て、1937年東京商科大学(現一橋大学)卒業。横浜専門学校(現神奈川大学)教授、日本外政協会、日本国連協会の調査課長を務め、國學院大學教授、中央大学教授、早稲田大学客員教授を歴任した。
藤倉 修一(ふじくら しゅういち、1914年〈大正3年〉3月… 藤倉 修一(ふじくら しゅういち、1914年〈大正3年〉3月12日 - 2008年〈平成20年〉1月11日)は、日本のアナウンサー、放送評論家。 昭和中期のラジオ全盛期にNHKに勤務し、第1回NHK紅白歌合戦の白組司会を務めたことで知られる。 現在の東京都大田区出身。家は御徒町で綿布問屋を営んでいた。常陸山谷右エ門を親類に持ち、幼時から相撲を愛好して育つ。法政大学卒業後の1940年、奢侈品等製造販売制限規則が公布されたため綿布問屋を継ぐことを諦め、NHKに放送員(アナウンサー。ただし、当時のアナウンサーは取材や企画などの担当を兼任していた)として入局。東京中央放送局を経て、1941年から1943年にかけて福島放送局に勤務。
高橋 正則(たかはし まさのり、1914年3月10日 - 2… 高橋 正則(たかはし まさのり、1914年3月10日 - 2006年1月)は、日本の評論家。 山口県阿武郡出身。慶應義塾大学法学部卒。同盟通信社記者を経て、戦後、新夕刊新聞編集局次長、民社党政策審議会嘱託、東京政治研究所事務局長。1969年、第32回衆議院議員総選挙に民社党公認で東京5区から立候補したが落選した。 1973年駒澤大学法学部教授、学部長、1985年常磐大学人間科学部教授、富士社会教育センター理事長、顧問。1985年から1993年まで『月刊自由民主』に「マスコミ批判」「マスコミ批評」「マスコミ時評」を連載した。 東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人である宮﨑勤の父親が東京都西多摩郡五日市町(現:あきる野市)で発行していた地域新聞『秋川新聞』(勤の逮捕により廃刊)には、廃刊の約半年前から「論説」や「疑獄物語」といった記事を寄稿・連載していた。
田多井 吉之介(たたい きちのすけ、1914年3月7日 - … 田多井 吉之介(たたい きちのすけ、1914年3月7日 - )は、日本の医学者、評論家。 東京出身。東京帝国大学医学部卒、1949年東京大学医学博士。ハーヴァード大学に学び、国立公衆衛生院生理医学研究所研究員をへて、東京農業大学教授を務めた。多くの一般向け医学書を著し、バイオリズムの概念を広めた。
武川 寛海(たけかわ ひろみ、1914年2月22日 - 19… 武川 寛海(たけかわ ひろみ、1914年2月22日 - 1992年5月2日)は、日本の音楽評論家。ベートーヴェン研究家。音楽之友社『音楽芸術』編集長。 判事を務めていた武川佳海の息子として東京に生まれる。父の転勤に伴い、福島県から静岡県や栃木県を転々として育つ。栃木県立栃木中学校 (旧制)から成蹊高等学校 (旧制)を経て、1938年3月、東京帝国大学文学部美学科卒業。大学在学中、下總皖一に作曲を師事。1938年4月、日本コロムビア株式会社に入社。文芸部に所属し、ディレクターとして勤務。1943年に同社を退社して満洲の新京に渡り、株式会社満洲映画協会に入社。音楽監督を務める。1946年8月に満洲から引き揚げ、同年10月、音楽之友社に入社。
駒田 信二(こまだ しんじ、1914年1月14日 - 199… 駒田 信二(こまだ しんじ、1914年1月14日 - 1994年12月27日)は、日本の作家、文芸評論家、中国文学者。島根大学教授、桜美林大学教授、早稲田大学客員教授などを歴任した。 1914年1月14日、父の勤務地の大阪府大阪市に生まれる。本籍は三重県安濃郡多門村(現在は津市)で、家は明治23年(1890年)の名簿によると地価総額3036円余りの素封家だった。兄は父の姉の家を継いだ美術史家の谷信一。父の転勤で広島、金沢、東京と移動したのち、津で祖父母に育てられ、津中学校卒業、旧制山形高校を経て1940年東京帝国大学文学部支那文学科卒業。 1941年旧制松江高校教授となるが、1942年召集されて支那に出征、捕虜となり共産党の工作員と誤認されて死刑宣告を受けるが日本人と分かり釈放。
神田 秀夫(かんだ ひでお、1913年12月20日 - 19… 神田 秀夫(かんだ ひでお、1913年12月20日 - 1993年9月18日)は、日本の国文学者、俳句評論家。古代から近世の国文学を研究領域とした。戦後、国会図書館司書、共立女子大学教授、成蹊大学教授、武蔵大学教授をつとめた。 1913年、東京府荏原郡入新井村山王(現・東京都大田区山王)生まれ。1936年、東京帝国大学文学部国文科を卒業。同大学院に進むも、応召により1937年に大学院を中退。 復員後は目黒書店に入社し、総合誌『俳句研究』の編集に携わりながら俳句評論を執筆。昭和22年から昭和30年前半にかけて評論を執筆しており、その際に「中世と俳句」から「イロニイ叙説」にいたるまでの一連の俳句イロニー説を出している。
桑原 甲子雄(くわばら きねお、1913年〈大正2年〉12月… 桑原 甲子雄(くわばら きねお、1913年〈大正2年〉12月9日 - 2007年〈平成19年〉12月10日)は、日本の写真家、写真評論家、編集者。 東京府東京市下谷車坂町(現東京都台東区東上野)に生まれる。濱谷浩とは幼なじみ。1926年に東京市立第二中学校(現都立上野高校)入学。1931年の卒業後、体をこわし進学を断念。家業の質屋を手伝うが商売が厭わしく、同じ町内に住んでいた濱谷の影響もあって、中古のベスト・ポケット・コダックを手に入れ写真を撮りはじめる。1934年にはライカI(C)型をフォーディス距離計付きで父親に200円で買ってもらい、アマチュア写真家として活発に活動を始め、1934年のうちに浅沼商会発行の写真雑誌『写真新報』主催、シュミット商会協賛のライカ作品公募コンクール第2回の特賞を獲得している。
嘉門 安雄(かもん やすお、1913年12月1日 - 200… 嘉門 安雄(かもん やすお、1913年12月1日 - 2007年1月5日)は、日本の西洋美術研究者、美術評論家。ブリヂストン美術館館長、東京都現代美術館長、全国美術館会議議長を務めた。 1913年、石川県生まれ。1937年、東京帝国大学文学部美術史学科を卒業。西洋美術史を専攻し、児島喜久雄の助手を務めた。 1947年より東京国立博物館で勤務。表慶館で開催されたマチス展、ブラック展、ルオー展などを担当した。1959年に国立西洋美術館が開館したことに伴い、異動。事業課長としてコレクションの収集、各種の展覧会開催に関わった。1964年には、第32回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展のコミッショナーを務めた。
三浦 淳史(みうら あつし、1913年11月1日 - 199… 三浦 淳史(みうら あつし、1913年11月1日 - 1997年10月13日)は、日本の音楽評論家。秋田市生まれ。イギリス音楽の第一人者として知られた。 父は北海道帝国大学工学部で冶金学の教授を務めていた。札幌第二中学校(現札幌西高等学校)で伊福部昭、佐藤忠良らと知り合う。北大予科在学中の1934年、伊福部らと共に「新音楽連盟」を結成する。当時に映画『慕情』のモデルとなるイアン・モリソン(映画ではマーク・エリオット)に英語のてほどきを受ける。その後“落第”して東北帝国大学に転じる。1940年、同大学法文学部を卒業する。ここでは村岡典嗣による日本思想史の講義を受講したという。北大予科在学中から音楽誌『月刊楽譜』に「札幌楽信」等を寄稿、戦後音楽誌の復活に伴い、音楽ジャーナリズムで活躍するようになった。
高橋 博(たかはし ひろし、1913年10月11日 - 19… 高橋 博(たかはし ひろし、1913年10月11日 - 1982年10月1日)は、芸能評論家、話芸家、アナウンサー。日本演劇協会会員、日本大学芸術学部講師。愛称は、博さん(はくさん)。 銀座生まれ浅草育ち。1936年にNHK入局(同期に志村正順等)。 学生時代から芝居好きで、脚本なども書き、芝居の世界との付き合いもあったせいもあり、主に舞台中継、朗読を担当。抑制した口調と独特の間の置き方で「語り」の世界を作り上げた。 敗戦後、戦意高揚に関わった責任を取ってNHKを辞職。1954年にニッポン放送へ移籍。同時期に坂本荘、中村要輔(両名ともNHKの後輩。当時はラジオ東京)とともに東北放送で教育も行った。
佐伯 喜一(さえき きいち、1913年10月10日 - 19… 佐伯 喜一(さえき きいち、1913年10月10日 - 1998年1月14日)は、日本の国際政治評論家。 元野村総合研究所社長、元防衛庁防衛研修所所長。 台湾・台北市生まれ。広島県出身。1936年東京帝国大学法学部卒業。満鉄調査部に入り、エコノミストのキャリアを積む。戦後経済安定本部に入り、日本経済の復興計画作りを行なった。1953年保安庁(のち防衛庁)に移り、1961年防衛研修所所長。1965年野村総合研究所副社長となり、1971年社長、1979年会長を経て、1983年相談役、1988年顧問。同社を日本の代表的シンクタンクに育て上げた。またワイズメン・グループの大来佐武郎のあとを継いで、1979年ワイズメンに選ばれる。
清水 慎三(しみず しんぞう、1913年10月1日 - 19… 清水 慎三(しみず しんぞう、1913年10月1日 - 1996年10月18日)は、日本の労働運動家、評論家。 岡山県岡山市出身。日本製鐵社員、内閣企画院嘱託、総理府事務官経済安定本部勤務、日本労働総同盟調査部長、鉄鋼労連初代書記長、日本社会党(左派)中央執行委員、総評長期政策委員会事務局長、信州大学教授、日本福祉大学教授を歴任した。 主な著書に『日本の社会民主主義』(岩波新書、1961年)、『戦後革新勢力』(青木書店、1966年)、『戦後革新の半日陰』(日本経済評論社、1995年)など。『清水慎三著作集』(高木郁朗編、日本経済評論社、1999年)がある。 岡山市の呉服商の家に生まれる。岡山県第一岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制第六高等学校、六高時代はボート部に属し、瀬戸内海で青春を謳歌。
吉田 秀和(よしだ ひでかず、1913年(大正2年)9月23… 吉田 秀和(よしだ ひでかず、1913年(大正2年)9月23日 - 2012年(平成24年)5月22日)は、日本の音楽評論家、随筆家。 クラシック音楽の豊富な体験・知識をもとに、音楽の持つ魅力や深い洞察をすぐれた感覚的な言葉で表現し、日本の音楽評論において先導的役割を果たす。音楽のみならず文学や美術など幅広い分野にわたる評論活動を続け、日本の音楽評論家としては初の個人全集が刊行されて、第2回大佛次郎賞を受けた。大の相撲好きでもあった。 1971年から朝日新聞に『音楽展望』を毎月書き続けたが、2003年11月に妻の吉田=クラフト・バルバラと死別した後、『音楽展望』だけでなく他の書く仕事も一切やめた。
城野 宏(じょうの ひろし、1913年8月31日 - 198… 城野 宏(じょうの ひろし、1913年8月31日 - 1985年12月21日)は、敗戦後中国共産党と戦い禁錮刑を受けた陸軍軍人で、のち評論家。 長崎県西山町生まれ。東京府立四中、第八高等学校卒、1938年東京帝国大学法学部政治学科卒業、野村合名会社調査部に入社、同年徴兵され中国へ渡る。41年陸軍中尉、第1軍参謀部。河本大作の知遇を得て、山西省政府顧問補佐官となる。1945年の日本の敗戦後も、祖国復興・山西独立を掲げ、山西の独裁者閻錫山と手を結び、李誠の名で毛沢東が率いる中国人民解放軍と戦う。49年捕虜となり禁錮18年の刑を受ける(中国山西省日本軍残留問題、撫順戦犯管理所)。 1964年解放され帰国。
郡司 正勝(ぐんじ まさかつ、1913年7月7日 - 199… 郡司 正勝(ぐんじ まさかつ、1913年7月7日 - 1998年4月15日)は、日本の歌舞伎研究家・演劇評論家・国文学者。早稲田大学名誉教授。 1913年、北海道札幌市生まれ。北海道庁立第二中学(現北海道札幌西高等学校)を経て、1939年早稲田大学文学部国文科を卒業。大学では河竹繁俊に師事した。卒業後は、早稲田大学演劇博物館学芸員となり、同大学講師などを経て、1960年から84年まで教授を務めた。 その著作は、『郡司正勝柵定集』(全6巻)にまとめられている。故郷である札幌大学に、郡司の蔵書を納めた「郡司文庫」が設けられている。
斎藤 栄三郎(齋藤 榮三郎、さいとう えいざぶろう、1913… 斎藤 栄三郎(齋藤 榮三郎、さいとう えいざぶろう、1913年6月19日 - 2000年7月9日)は、日本の政治家、経済評論家。自由民主党所属の参議院議員(3期)、 科学技術庁長官(44代)。東京出身。早稲田大学商学部卒業。商学博士、法学博士、文学博士。 1931年、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)卒業。1936年早稲田大学商学部卒業後、日本経済新聞社に入社。上海支局長、シンガポール支局長などを歴任した。 1949年には「一九四一~五年に於ける日本経済の実証的研究」にり早稲田大学から商学博士、1959年には「賠償の実証的研究」により中央大学から法学博士、1965年には「イスラムの社会思想」により東洋大学から文学博士を、それぞれ論文博士として取得した。
今澄 勇(いまずみ いさむ、1913年(大正2年)6月12日… 今澄 勇(いまずみ いさむ、1913年(大正2年)6月12日 - 1997年(平成9年)11月17日)は、昭和期の日本の政治家、経済評論家。衆議院議員(8期)。 山口県出身。山口高等商業学校(現山口大学)卒業。1945年、日本社会党の結党に参加した。 1947年4月の第23回衆議院議員総選挙に旧山口1区(定数4)から社会党公認で立候補し、トップで初当選した。 1951年の社会党の左右分裂では右派社会党に参加、1955年に両派は統一するも1959年に脱党し、1960年1月の民社党の結成に参加した。委員長西尾末広の下で党政策審議会長に就任。同年11月の第29回衆議院議員総選挙に立候補するも落選。 1963年の第30回衆議院議員総選挙で4番目の得票数で当選し、返り咲き。
杉浦 明平(すぎうら みんぺい、1913年〈大正2年〉6月9… 杉浦 明平(すぎうら みんぺい、1913年〈大正2年〉6月9日 - 2001年〈平成13年〉3月14日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家。 1913年(大正2年)愛知県渥美郡福江村(現在の田原市折立町)で、小地主兼雑貨商の長男として生まれる。父の太平は、1963年(昭和38年)から1967年(昭和42年)に死去するまで渥美町長をつとめている。 1926年(大正15年)、愛知県豊橋中学校(現在の愛知県立時習館高等学校)を四年生修了で第一高等学校へ進学、1936年(昭和11年)東京帝国大学文学部国文学科卒業。一年下の後輩、立原道造と一高の短歌会で知り合い、共に1935年(昭和10年)同人誌「未成年」を発行。
猪野 謙二(いの けんじ、1913年4月2日 - 1997年… 猪野 謙二(いの けんじ、1913年4月2日 - 1997年9月11日)は、文芸評論家、近代日本文学研究者。 宮城県仙台市生まれ。東京府立第六中(現都立新宿高等学校)を経て1937年東京帝国大学文学部国文科卒。在学中に立原道造らと『未成年』を創刊。戦後日本文学協会に属し、歴史社会学派の立場から日本近代文学の研究・評論を行った。1954年神戸大学助教授、1975年学習院大学教授。1984年定年退職。
高橋 義孝(たかはし よしたか、1913年3月27日 - 1… 高橋 義孝(たかはし よしたか、1913年3月27日 - 1995年7月21日)は、日本のドイツ文学者・評論家・随筆家。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1961年)(学位論文「文学研究の諸問題」)。九州大学教授、名古屋大学教授などを歴任。 1913年、東京府東京市神田区生まれ。錦華尋常小学校、第二東京市立中学校(現東京都立上野高等学校)で学び、その際には福田恆存と同級であった。旧制高知高等学校を経て、東京帝国大学独文科に進んだ。1935年、東京帝国大学を卒業。その後は同大学大学院に進学し、1936年に卒業。翌1937年よりフンボルト財団給費生としてベルリン大学へ留学。1938年、ケルン大学へ移りドイツ文学を学んだ。
小島 正雄(こじま まさお、1913年〈大正2年〉3月4日 … 小島 正雄(こじま まさお、1913年〈大正2年〉3月4日 - 1968年〈昭和43年〉1月20日)は、日本のジャズ演奏家・評論家、司会者。愛称はチャーさん。 東京生まれ。早稲田大学在学中に、服部正が創設したコンセール・ポピュレール(後の青年日本交響楽団)にトランペット奏者として参加した。卒業後、1941年(昭和16年)にNHKに就職。翌年召集され、1947年(昭和22年)に復員後、戦後再結成した名門ジャズバンドであるブルーコーツのバンドマスターとして活躍。また、日本を代表するコーラスグループであるダークダックス、ボニージャックス、スリー・グレイセス等の育ての親である。 9500万人のポピュラーリクエスト(文化放送)、味の素ミュージックレストラン、オーナー(水・木)(以上、TBSラジオ)。
田辺 秀雄(たなべ ひでお、1913年2月27日 - 201… 田辺 秀雄(たなべ ひでお、1913年2月27日 - 2010年9月15日)は、日本の音楽評論家。 音楽学者・田辺尚雄の長男として東京に生まれる。慶應義塾大学法学部卒。日本コロムビア・レコード勤務の後、東海大学教養学部教授となる。父同様に東洋音楽研究のほか、洋楽にも造詣が深く、義太夫協会、日本民謡文化協会会長を務めた。 2010年9月15日、肺炎のため東京都新宿区の自宅で死去。97歳没。 この項目は、音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 音楽/ウィキプロジェクト 音楽)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
若宮 小太郎(わかみや こたろう、1913年〈大正2年〉1月… 若宮 小太郎(わかみや こたろう、1913年〈大正2年〉1月21日 - 1967年〈昭和42年〉8月2日)は、日本の政治評論家。朝日新聞の新聞記者。鳩山一郎首相の内閣総理大臣秘書官。東京帝国大学法学部卒業。東京都出身。長男はジャーナリストの若宮啓文。 東京都出身。東京帝国大学法学部卒業。朝日新聞の新聞記者で、社会党の担当を長くに渡って務め、後に鳩山一郎の内閣総理大臣秘書官に就任した。 1963年(昭和38年)には社会党と民社党の推薦で神奈川県知事選挙に出馬するも内山岩太郎に敗れ落選。またこれまでに日本評論家協会理事・ラジオ関東常務・朝日新聞大阪支社長などを歴任。 1967年(昭和42年)8月2日、死去。
林 健太郎(はやし けんたろう、1913年〈大正2年〉1月2… 林 健太郎(はやし けんたろう、1913年〈大正2年〉1月2日 - 2004年〈平成16年〉8月10日)は、昭和期に活動した日本の西洋史家、政治家、評論家。保守派として知られた。専門は西洋史学(近代ドイツ史)。東大教授・文学部長。第20代東大総長、自由国民会議所属参議院議員(1期)を務めた。 1913年(大正2年)、東京府生まれ。父親は海兵32期の林季樹(旧姓・香取)で、ワシントン軍縮条約での減員対象となり、大佐昇進と同時に予備役編入となり、中学の国語漢文の教師となっていた。 旧制一高を経て、東京帝国大学文学部西洋史学科に入学。文学部では今井登志喜に師事した。1935年に卒業。当時は一高時代からマルクス主義に傾倒して唯物史観の立場から歴史を研究していた。