長田 暁二(おさだ ぎょうじ、1930年〈昭和5年〉3月19… 長田 暁二(おさだ ぎょうじ、1930年〈昭和5年〉3月19日 - 2024年〈令和6年〉11月4日)は、日本の音楽文化研究家、音楽プロデューサー。ポリドール・レコード学芸部長、徳間音楽工業常務取締役、テイチクエンタテインメント顧問を歴任。 岡山県笠岡市生まれ。笠岡市の禅寺威徳寺の次男として育つ。1953年、駒澤大学英米文学科卒業。 大学在学中からコロムビアレコードでアルバイトをし、レコード業界に出入り。卒業後、同年キングレコード入社。童謡担当ディレクターを振り出しに22年間ディレクターを務めた。 1968年、芸術祭賞受賞(児童のための音楽入門レコード『チュウちゃんが動物園へいったお話』)に始まり、同奨励賞3回、批評家選賞1回。
萩元 晴彦(はぎもと はるひこ、1930年(昭和5年)3月7… 萩元 晴彦(はぎもと はるひこ、1930年(昭和5年)3月7日 - 2001年(平成13年)9月4日)は、日本のテレビ制作者、音楽プロデューサー、実業家。テレビマンユニオン初代社長。 長野県飯田市出身。父・萩元隼人は、労働運動家で日本社会党→左派社会党公認で長野4区から総選挙に出馬したが、1953年の総選挙公示直前に急死した。このため身代わりとして母・萩元たけ子が立候補。トップ当選を果たし、衆議院議員を1期務めた。 1937年に一家で上京し、自由学園に学ぶ。幼少のころは虚弱児童で、小学校は病気がちで欠席が多かった。しかし勉学の方は大変早熟であり、小学校1年生のときに6年生までの漢字はほとんど読めた。
宮崎 慎一(みやざき しんいち、1930年2月12日 - )… 宮崎 慎一(みやざき しんいち、1930年2月12日 - )は、元日本教育テレビ(NET:現・テレビ朝日)プロデューサーである。 一橋大学経済学部を卒業後、1954年に東映本社に入社。京都撮影所、東京撮影所を経て、1958年、日本教育テレビ(略称:NET)に移籍。テレビアニメ、テレビドラマなどを手掛けた。
藤浦 敦(ふじうら あつし、1930年1月1日 - 2023… 藤浦 敦(ふじうら あつし、1930年1月1日 - 2023年5月28日)は、日本の映画監督・プロデューサー、脚本家、落語作家。 東京都港区赤坂出身で、実家は青果問屋の家系。先々代藤浦周吉(三周)が初代三遊亭圓朝一門を経済的に支援した縁から「圓朝」の名跡を預かることになり、「三遊派宗家」を名乗る。 祖父は藤浦周吉(三周)、父は東京市会議員も務め東京中央青果株式会社(現在の東京シティ青果株式会社)の初代社長で三遊亭圓朝関連の著書も多数出版した藤浦富太郎。 1952年早稲田大学政治経済学部卒業後、同大学大学院国文科を中退し、読売新聞記者を経て、1954年、日活入社。助監督となり、伊藤大輔監督を師と仰ぐ。
片岡 政義(かたおか まさよし、1930年 - 2021年8… 片岡 政義(かたおか まさよし、1930年 - 2021年8月21日)は、日本のテレビプロデューサー、元テレビ朝日社員。 東京電機大学卒業(1951年)、群馬大学工学部電機部門卒業(1953年)。大学卒業後、多くの職業を経て1960年に東映テレビ・プロダクションにプロデューサーとして入社、1962年に日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)に入社、同じくプロデューサーを務める。 東映制作のテレビドラマを主とした数多くの番組の企画・プロデュースを手掛ける。そのような中で、1967年のテレビドラマ『白い巨塔』のロケでドイツのベルリン、フランクフルト、ハイデルベルクを回った時に、将来の海外移住を初めて考えるようになる。
藤田 潔(ふじた きよし、1929年7月11日 - 2021… 藤田 潔(ふじた きよし、1929年7月11日 - 2021年3月9日)は、日本のテレビプロデューサー、実業家。株式会社ビデオプロモーション取締役名誉会長。 愛媛県新居浜市出身。早稲田大学商学部卒業。 「世界遺産」や「美の巨人たち」といった数々の名番組も企画している。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
茂木 幹弘(もてぎ みきひろ、1929年〈昭和4年〉6月14… 茂木 幹弘(もてぎ みきひろ、1929年〈昭和4年〉6月14日 - )は、ディスクジョッキー、プロデューサー。 東京生まれ。東京外国語大学モンゴル語科卒業。1954年文化放送にアナウンサーとして入社。音楽番組ディスクジョッキーとして活躍。1967年チーフプロデューサーとなる。 1974年退社し、米国でコミュニケーション論などを学んだのち、フリーパーソナリティ、ディスクジョッキー。 1977年コミュニケーション文化研究所を設立し、代表。
井原 高忠(いはら たかただ、1929年〈昭和4年〉6月6日… 井原 高忠(いはら たかただ、1929年〈昭和4年〉6月6日 - 2014年〈平成26年〉9月14日)は、日本のテレビプロデューサー。 日本テレビのプロデューサーとして知られ、同局で制作局次長、第一制作局長を歴任後、井原高忠事務所を設立し取締役を務めた。ザ・ピーナッツやとんねるずのユニット名の考案者としても知られる。 東京府北豊島郡滝野川町王子(現在の東京都北区王子)にて、本村町三井家(三井財閥のオーナー一族)の分家に生まれ、世田谷区の1000坪の邸宅に育つ。父の高親は本村町家初代当主である高明の次男で、分家した際に途絶えていた一門の井原家を再興した。母方曽祖父に子爵鳥尾小弥太がいる。後に同じくバンドマンとなる鳥尾敬孝とは従兄弟の関係。
高野 悦子(たかの えつこ、1929年5月29日 - 201… 高野 悦子(たかの えつこ、1929年5月29日 - 2013年2月9日)は、日本の映画運動家、岩波ホール総支配人、映画プロデューサー、放送作家、テレビドラマ演出家。 1929年(昭和4年)に満洲の大石橋に生まれた。太平洋戦争終戦前の1945年(昭和20年)5月、父親の郷里である富山県下新川郡桜井町(現・黒部市)に引き揚げ、魚津高等女学校(現・富山県立魚津高等学校)を卒業した。16歳の時に映画『キュリー夫人』を見て感銘を受け、職業を持って自立する決心をする。日本女子大学社会福祉学科に入学し、南博主任教授の下で「マスメディアと映画」を研究テーマとし、日本映画の観客の反応と内容分析と映画企業分析を行い、各新聞・雑誌に発表した。
秋山 邦晴(あきやま くにはる、1929年5月22日 - 1… 秋山 邦晴(あきやま くにはる、1929年5月22日 - 1996年8月17日)は、日本の音楽評論家、音楽プロデューサー、詩人、作曲家。東京都生まれ。 父は陸軍軍人でのち牧車の号で俳人となった秋山邦雄。父の転任により、1935年から1937年までの幼年期を天津で過ごす。東京都立六中(現・東京都立新宿高等学校)、長野県松本中学校(現・長野県松本深志高等学校)、早稲田大学第二高等学院を経て早稲田大学文学部フランス文学科に入学。1950年代、日比谷にあったGHQのCIE図書館(民間情報教育局)でレコード・コンサートをシリーズで開き、アメリカやヨーロッパの現代音楽を紹介。また、音楽雑誌「レコード音楽」編集長などを務めた。
近藤 晋(こんどう すすむ、1929年(昭和4年)5月3日 … 近藤 晋(こんどう すすむ、1929年(昭和4年)5月3日 - 2017年(平成29年)2月2日)は、日本のテレビ・映画プロデューサー。日本のプロデューサーの草分け的存在。兵庫県神戸市出身。 神戸一中学校、成城高校を経て、学習院大学を中退。劇団民藝演出部を経て、1959年にNHK入局。 1985年にNHK退職後、総合ビジョン、東北新社クリエイツ社長などを歴任しながら、企画プロデューサーとしてテレビ、映画、演劇など広い分野で活躍。 2017年2月2日、誤嚥性肺炎のため死去。
西原 儀一(にしはら ぎいち、1929年2月28日 - 20… 西原 儀一(にしはら ぎいち、1929年2月28日 - 2009年8月16日)は、日本の映画監督、脚本家、プロデューサー、俳優。別名義に関谷四郎、千葉隆志などがある。 1960年代から1970年代にかけて制作された、葵映画での低予算、扇情主義のピンク映画で知られる。「日本で最も低俗な映画作家」、「ヤクザ映画ファンの間でカルト的人気者」と呼ばれた。 1929年2月28日大阪府大阪市に生まれ、愛媛県新居浜市で育つ。1945年に野口拳闘クラブに入門。プロボクサーとして活躍し、1946年には日本フェザー級西日本チャンピオンになる。1947年の佐伯幸三監督の大映映画『鉄拳の街』でボクサー役を演じたこのことがきっかけで1949年大映東京撮影所の助監督試験を受けて合格。
中島 源太郎(なかじま げんたろう、1929年〈昭和4年〉2… 中島 源太郎(なかじま げんたろう、1929年〈昭和4年〉2月11日 - 1992年〈平成4年〉2月7日)は、日本の映画プロデューサー、政治家。位階は従三位。第109代文部大臣、衆議院議員(7期)。中島飛行機創業者・中島知久平の長男。 1929年(昭和4年)群馬県新田郡尾島町押切(現・太田市押切町)に、中島知久平の長男として生まれる。父・知久平は生涯結婚することはなかったため婚外子であった。1930年(昭和5年)父が衆議院議員に当選したため、東京に移り住む。1941年(昭和16年)慶応義塾普通部に入学、馬術部に所属し、ボクシングジムにも通った。大学時代はアメリカンフットボール部に在籍。敗戦国である日本が国際的交流を図っていくにはディズニーのようなアニメーション映画の活用が最適だと考え、中村研一にデッサンを学ぶ。
堀 貞一郎(ほり ていいちろう、1929年2月6日 - 20… 堀 貞一郎(ほり ていいちろう、1929年2月6日 - 2014年2月10日)は、日本の男性プロデューサー。陶芸家。東京都出身。 80歳になるまで、全国で講演活動をするとともに、毎月ホリテーマサロンを開催。若手の育成に力を注いだ。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、東京ディズニーリゾートに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:ディズニー/PJ:東京ディズニーリゾート)。
金子 俊彦(かねこ としひこ、1929年(昭和4年) - )… 金子 俊彦(かねこ としひこ、1929年(昭和4年) - )は、日本のテレビプロデューサー・放送作家。 1929年東京都生まれ。9歳のときに大阪府に転居。 1942年(昭和17年)に、大阪府立住吉中学卒業後、神戸経済大学(現・神戸大学)経営専門学部入学。 1949年(昭和24年)同大学を中退後、1955年に新日本放送(現・MBSメディアホールディングス)へ入社。 1965年に社名変更後の毎日放送テレビ制作部へ異動し、ディレクター・プロデューサーとして数々のクイズ番組を手掛けた。 その後毎日放送制作局テレビ制作部長を歴任し、1984年に同社を定年退職して以後、フリーの放送作家などに携わる。 1985年より泉放送制作の取締役大阪支社長も務めた後、株式会社イングスの社長も2001年まで務めた。
末盛 憲彦(すえもり のりひこ、1929年 - 1983年)… 末盛 憲彦(すえもり のりひこ、1929年 - 1983年)は、日本のテレビプロデューサー・ディレクター。 慶應義塾大学出身。1950年代末から1980年代まで、日本放送協会(NHK)の音楽バラエティ番組『夢であいましょう』『ステージ101』などを初め、多くの人気番組を手がけた。 中村八大を音楽監督に迎えて『夢であいましょう』の演出に携わった後、1965年10月から1966年3月までアメリカに滞在して様々なショー番組に接して感銘を受け、そのスタイルを日本のテレビ番組に導入したいと考えた。末盛が特に強い印象を受けたのは、大人数の若者のグループ「ヤング・アメリカンズ」が歌い踊る姿だった。帰国した彼は、道徳再武装(Moral Re-Armament)の日本支部の音楽ディレクターだったロビー和田が編成したレッツ・ゴーが大人数のメンバーでフォーク・ソングを歌うのを見て、自分が制作に携わることになったNHK初の若者向け音楽番組『ステージ101』を、ヤング・アメリカンズのような若者グループが歌い踊るショー形式の番組にしようと決心した。
近藤 照男(こんどう てるお、1929年 - 2006年2月… 近藤 照男(こんどう てるお、1929年 - 2006年2月20日)は日本のテレビプロデューサー。香川県出身。代表作は『スパイキャッチャーJ3』、『キイハンター』、『Gメン'75』など。 1952年、武蔵工業大学建築科を卒業後、美術スタッフとして東映入社。劇場用作品の美術監督として『陸軍残虐物語』(1963年)『ジャコ萬と鉄』(1964年)などの作品に関わったのち、1960年代中盤からプロデューサーに転身し、主にテレビ映画制作に携わる。 1982年に東映から独立し、テレビドラマ制作を業務に近藤照男プロダクションを設立、数々のTBS作品を制作する。中でも東映と馴染みの深い付き合いの石ノ森章太郎による原作の「HOTEL」を映像化、ロングランシリーズとなった。
三佳 令二(みよし れいじ、1928年(昭和3年)10月23… 三佳 令二(みよし れいじ、1928年(昭和3年)10月23日 - 2009年(平成21年)3月10日)は、日本の作詞家、作曲家、音楽プロデューサー、有限会社ドーム音楽出版社代表取締役。慶應義塾大学経済学部卒。東京都出身。本名は名和 治良(なわ はるよし)。別名義に三田 恭次、嵯峨 士郎、名和 治郎(なわ じろう)がある。 ファン・ソヌ(黄善雨)の作詞作曲した韓国の歌謡曲『釜山港へ帰れ』を日本語で作詞し、渥美二郎、ジェロなどのさまざまな歌手によって歌われてきた。他にも『離別』、『大田ブルース』などの曲の歌詞日本語訳や、八代亜紀の『舟唄』、水原弘の『君こそわが命』の制作にも携わった。 2009年3月10日、原発不明癌により、80歳で大田区内の病院にて死去した。
太田 浩兒(おおた こうじ、1928年8月8日 - 1988… 太田 浩兒(おおた こうじ、1928年8月8日 - 1988年10月13日)は、日本の映画プロデューサー、映画監督、脚本家である。 1928年(昭和3年)8月8日、神奈川県横浜市に生まれる。 東京市大森区調布嶺町(現在の東京都大田区鵜の木)の旧制・東京中学校(現在の東京高等学校)を卒業して旧制・東京高等師範学校に進学、同校は1949年(昭和24年)5月に設立された新制・東京教育大学(現在の筑波大学の母体)に包括されたため、同学哲学科に在籍、1953年(昭和28年)3月に同学を卒業した。「好きな映画で生活していこう」と考え、同年4月2日、定期採用第2期生として東映に入社した。企画本部に配属され、東京撮影所演出部に配転された。
村田 英憲(むらた ひでのり、1928年7月20日 - 20… 村田 英憲(むらた ひでのり、1928年7月20日 - 2023年9月30日)は、日本の男性アニメーションプロデューサー。株式会社エイケン創業者、名誉会長。広島県広島市出身。 1945年8月6日、広島市で被爆し弟を亡くす。中央大学在学中に学生自動車連盟の初代委員長を務めた。 日本テレビジョン(TCJ。民放テレビ局の日本テレビホールディングス・日本テレビ放送網とは無関係)の映画部長だった1969年にアニメ部門を独立させて「株式会社TCJ動画センター」を設立。同年、朝日新聞に連載中の『サザエさん』に目を付け、宣弘社を通じてフジテレビにテレビアニメ版『サザエさん』の企画を持ち込み、製作を手掛け、国民的長寿番組とした。
チャーリー石黒(チャーリーいしぐろ、1928年1月20日 -… チャーリー石黒(チャーリーいしぐろ、1928年1月20日 - 1984年12月14日)は、日本の音楽プロデューサー。本名、石黒 寿和(いしぐろ としかず)。作曲などペンネームは城 美好。 早稲田大学理工学部卒業。大学在学中はジャズやラテン音楽に親しんでいた。1954年、自身がリーダーを務める18人編成の楽団・チャーリー石黒と東京パンチョスを結成。楽団としてテレビや舞台に出演した。また、渡辺プロダクション専属の音楽プロデューサーとして森進一や内山田洋とクール・ファイブなどを手掛けた。1983年頃に体調を崩し、療養生活を続けていたが、1984年12月14日に病で病死。
佐々木 欽三(ささき きんぞう、1928年 - )は、NHK… 佐々木 欽三(ささき きんぞう、1928年 - )は、NHKプロデューサー、広報事業局長。 宮城県大崎市生まれ。宮城県古川高等学校、東北大学文学部哲学科卒業。NHKに入局。 「新日本紀行」、「日本の素顔」など多くのドキュメンタリーを制作。とりわけ志賀直哉、三島由紀夫、荒木貞夫、スカルノなど、昭和史の人びととの接点が多かった。人事本部主幹、広報事業局長を務めた。
藤岡 和賀夫(ふじおか わかお、1927年(昭和2年)11月… 藤岡 和賀夫(ふじおか わかお、1927年(昭和2年)11月3日 - 2015年(平成27年)7月13日)は、日本の広告プロデューサー。 兵庫県で生まれ、3歳から東京で育つ。1946年に旧制東京高等学校(現・東京大学教育学部附属中等教育学校)を卒業後、東京帝国大学に進学する。1950年(昭和25年)、東京大学法学部(在学中に東京大学に名称変更)卒業後、電通に入社。国家公務員試験にも合格したが、小学校から大学の学部まで同じ3歳年上の兄が大蔵省に入省していた。「もう比べられたくない」と、好きな映像の仕事ができそうな企業を選んだ。 社会や生活者の価値観に向けて語りかける広告を。そんな"脱広告"の視点で世の中を見つめ、1980年(昭和55年)PR局長(役員待遇)に就く。
斉藤 安代(さいとう やすのり、1927年9月14日 - 2… 斉藤 安代(さいとう やすのり、1927年9月14日 - 2005年4月6日)は、日本の映画プロデューサー、民間放送局経営者である。東映東京撮影所の企画部から日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)へ転身して以降、同社常務取締役、同社常勤監査役、静岡朝日テレビ代表取締役副社長等を歴任した。 東映時代、斎藤 安代とクレジットされた作品がある。インターネット・ムービー・データベースの表記 Yasuyo Saitô も、Movie Walker での読み「サイトウヤスオ」も、いずれも誤りである。 1927年(昭和2年)9月14日、静岡県に生まれる。 第二次世界大戦後、旧制高等学校から東京大学文学部に入学、1949年(昭和24年)3月に卒業した。
藤井 浩明(ふじい ひろあき、1927年(昭和2年)8月7日… 藤井 浩明(ふじい ひろあき、1927年(昭和2年)8月7日 - 2014年(平成26年)6月21日)は、日本の映画プロデューサー。日本映画プロデューサー協会会員。旧姓は、清水。 約20年間大映で企画を担当し、倒産に伴う退社後は独立プロダクション「行動社」を設立。通算、約200本近い映画の企画・製作に携わり、映画監督の市川崑や増村保造らと組んで多くの作品を生み、市川雷蔵の主演映画や、作家の三島由紀夫の小説の映画化にも尽力した。 1927年(昭和2年)、岡山県で誕生。戦時中の1944年(昭和19年)春に岡山県の笠岡から北海道に渡り、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)に入学し寮生活となったが、篠路村への援農や、幌加内村、一已村での学徒勤労動員の日々を送った。
後藤 道夫(ごとう みちお、1927年(昭和2年) - 20… 後藤 道夫(ごとう みちお、1927年(昭和2年) - 2017年12月22日)は、日本の科学ジャーナリスト・サイエンスプロデューサー、科学教育研究家。平成記念かざこし子どもの森公園初代公園長、飯田市少年少女発明クラブ会長、東京の科学実験グループ「ガリレオ工房」名誉会員。 長野県飯田市生まれ。東京理科大学理学部物理学科卒業。工学院大学附属高等学校で教諭を、工学院大学、東京都立大学 (1949-2011)、上智大学、明治大学などで講師を務める。 1992年に「青少年のための科学の祭典」を設立。科学技術館を中心とし、日本各地の80都市で行った。第1~4回、9回の全国大会実行委員長を務めた。 現在はサイエンスプロデューサーとして、各地で「親子科学教室」など開催するほか、飯田市科学教育ボランティアグループ「おもしろ科学工房」(平成13度組織化)スタッフとともに市内および下伊那郡内の小・中学校を対象に「巡回科学実験教室」(平成11年度スタート)を開設している。
川口 幹夫(かわぐち みきお、1926年〈大正15年〉9月2… 川口 幹夫(かわぐち みきお、1926年〈大正15年〉9月25日 - 2014年〈平成26年〉11月5日)は、日本のテレビプロデューサー、テレビディレクター。日本放送協会(NHK)の第16代会長。 東京で出生、鹿児島県川辺郡川辺町(現・南九州市)育ち(関東在住の南薩出身者で構成される興南会会長も歴任)。 生後間もなく父が死去したため、1929年に母と別れて鹿児島県川辺郡川辺町に移住し祖母らに育てられる。 旧制県立四中(現・県立川辺高校)、旧制七高を経て、東京大学文学部卒業後、1950年NHKに入局。俳優天本英世は旧制七高・東大の同窓生。 初任地は福岡放送局。その後、演芸畑を歩む。入局直後の1951年に放送された『第1回NHK紅白歌合戦』をラジオで聞いた川口は、『NHK紅白歌合戦』が将来大きくなることを予想したという(この時、紅白が長寿番組化することを予想していたスタッフはいなかった)。
今村 昌平(いまむら しょうへい、1926年〈大正15年〉9… 今村 昌平(いまむら しょうへい、1926年〈大正15年〉9月15日 - 2006年〈平成18年〉5月30日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、日本映画学校(現:日本映画大学)の創設者。同姓同名の別人で映画関係者(小道具関連)がいる。日本映画監督協会会員。 カンヌ国際映画祭で2度の最高賞を受賞した日本を代表する映画監督の一人。松竹、日活を経て、独立プロダクションの株式会社今村プロダクションの代表取締役を務めていた。映画監督の長谷川和彦は正社員として所属した。 性格的には家父長志向が強く、そのことは一面では教育者としての顔も持ち合わせ、長谷川和彦を育て、映画人を育成する横浜映画専門学院を創立、後に日本映画学校となり、日本映画大学の母体となった。
加茂 秀男(かも ひでお、1926年(大正15年)9月5日 … 加茂 秀男(かも ひでお、1926年(大正15年)9月5日 - )は、日本の映画プロデューサー。千葉県市川市出身。明治大学卒業。 鉄道ドラマを得意とし、東映東京撮影所のプロデューサーとして『大いなる旅路』『大いなる驀進』(1960年)や、東映教育映画部製作の児童映画『なかよし特急』(1961年)、「東映列車シリーズ」(1967年 - 1968年)、東映動画製作の『きかんしゃやえもん D51の大冒険』(1974年)などの映画や、鉄道関係の多くのテレビドラマを企画した。 1974年の『きかんしゃやえもん D51の大冒険』以降は製作実績がなく、『キネマ旬報』1966年3月上旬号で「娯楽映画は大いに作りたいと思うが、社会悪、特に青少年に対する影響を考えて企画したい。
石井 ふく子(いしい ふくこ、1926年〈大正15年〉9月1… 石井 ふく子(いしい ふくこ、1926年〈大正15年〉9月1日 - )は、日本のテレビプロデューサー、舞台演出家。TBSテレビプロデューサー。 東京府東京市下谷区池の端(現・東京都台東区下谷池之端)出身。伊志井寛の長女にあたる。新東宝の女優活動から出発し、ラジオ東京(現・TBS)に入社。その後は、テレビドラマのプロデューサーとして、橋田壽賀子や平岩弓枝らとタッグを組み、多くのヒットドラマを世に送った。フリーとなった後は舞台演出なども手掛けている。また、橋田文化財団にも協力している。 父は、劇団新派の俳優伊志井寛(ただし、戸籍と血縁ともに関係がない)。母は分川本の君鶴と呼ばれた芸者で、小唄の家元になった三升延である(両親について詳しくは後述「人物」の欄)。
安藤 昇(あんどう のぼる、1926年(大正15年)5月24… 安藤 昇(あんどう のぼる、1926年(大正15年)5月24日 - 2015年(平成27年)12月16日)は、日本の元ヤクザ、俳優、小説家、歌手、プロデューサー。東京府豊多摩郡(のちに東京市淀橋区)東大久保天神下(現・東京都新宿区新宿6丁目)出身。 サラリーマンの三男一女の長男として大久保天神下で生まれる。小学3年時に6年の番長を刺し学校を制圧。神奈川県川崎市立川崎中学校に進学するも喧嘩に明け暮れ、濡れ衣を着せられ、15歳で調布市の感化院に入れられる。旧制中学校時代は転校を繰り返し、父の満州転勤に伴い16歳のとき満州に渡り、奉天第一中学校に進学。同校退学後内地へ戻り、京王商業転入。不良学生を束ねて加納貢と意気投合し兄弟分になる。
葛井 欣士郎(くずい きんしろう、1925年11月28日 -… 葛井 欣士郎(くずい きんしろう、1925年11月28日 - 2014年4月30日)は、実業家、映画館経営者、映画・演劇プロデューサー。日本アート・シアター・ギルド(ATG)の主要な映画館「アートシアター新宿文化」総支配人として、また、ATG映画の製作者として知られる。妻は村井志摩子。 三重県伊勢市生まれ。1951年、早稲田大学文学部芸術学科卒業後、三和興行に入社。 1961年の日本アート・シアター・ギルド創設に参加。1962年には、三和翼下で、ATGの映画を上映する映画館「アートシアター新宿」が設立され総支配人に。1963年からは、映画だけではなく、前衛演劇も上演するようになる。1967年には映画館の地下にアングラ小劇場「蝎座」を設立。
田実 泰良(たじつ やすよし、1925年8月19日 - 19… 田実 泰良(たじつ やすよし、1925年8月19日 - 1982年6月)は日本映画のプロデューサー。 1950年に慶應義塾大学卒業と同時に東宝撮影所演出部に入社。1953年に東宝社員となる。監督の黒澤明や松林宗恵の下で助監督をした。1963年文芸部に配属され1965年に契約者となる。1971年に日本創造企画に入社し博覧会物をプロデュースする。その後日本映画プロデューサー協会事務局長を務めたが、1982年6月癌の為死亡。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
山内 静夫(やまのうち しずお、1925年6月13日 - 2… 山内 静夫(やまのうち しずお、1925年6月13日 - 2021年8月15日)は、日本の映画プロデューサー。 里見弴(小説家)の四男として神奈川県鎌倉市に生まれる。父は小津安二郎と親交があり、山内は二人の語らいを若い頃から耳にしていた。旧制湘南中学校、応召後に1948年慶應義塾大学経済学部卒業後、松竹大船撮影所に製作部として入社、小津映画の製作に当たった。1956年『早春』製作、1958年、父原作の『彼岸花』製作、1960年『秋日和』製作、1962年「秋刀魚の味」製作。 1966年から1967年にかけて東京放送(現:TBSテレビ)にて放映された青島幸男主演のテレビドラマ『泣いてたまるか』のプロデューサーを担当した。
菊村 紀彦(きくむら のりひこ、1924年12月15日- 2… 菊村 紀彦(きくむら のりひこ、1924年12月15日- 2010年)は、日本の仏教学者、著述家、翻訳家、作曲家、作詞家、音楽プロデューサー、東京シャンソン協会初代会長。 「菊村紀彦」は書籍を執筆したり、音楽を作曲したりするときの筆名であるが、弟子たちからも「菊村先生」としか呼ばれておらず、事実上の名前にも等しい。戸籍名は、椎名重胤。 東京出身。東洋大学大学院仏教学研究科修士課程修了。浄土教学空性論専攻。日本仏教思想研究所長、日本仏教学院長、寂光山檀林寺管主、日本仏教書道研究会長を務めた。 先祖は高松藩の椎名氏。明治時代に財を成した椎名秀胤の子孫筋に当たり、父の長兄・椎名芳胤は、大正時代の日本鉱業株式会社の営業部長から幹部にのぼりつめた実業家で、のちに久原房之助、鮎川義介らと共に日本鉱業の実権を握っていた人物の一人であった。
園田 実彦(そのだ さねひこ、1924年9月22日 - 19… 園田 実彦(そのだ さねひこ、1924年9月22日 - 1995年1月10日)は、日本の映画プロデューサー。 熊本県熊本市出身。1952年京都大学法学部卒業後、東映に入社。1955年企画部プロデューサー、1965年企画部次長、1966年企画部長となる。
椎野 英之(しいの ひでゆき、1924年9月9日 - 197… 椎野 英之(しいの ひでゆき、1924年9月9日 - 1976年12月2日)は、日本の映画プロデューサー、実業家である。日本映画テレビプロデューサー協会事務局長、東宝映画常務取締役を歴任した。東京都出身。 19443年[疑問点 – ノート]に文学座に入団。終戦の年に明治大学を卒業し時事新報の記者として入社。文化・社会・政治を中心に活躍。1950年に菓子店を経営し1951年に「雲の会」発行の雑誌『演劇』の編集者となる。1952年に東宝撮影所に入社。文芸部を経て、1960年に東京映画に移籍し、佐藤一郎製作のもと、川島雄三監督の映画『赤坂の姉妹 夜の肌』で「企画」としてクレジットされる。翌1961年(昭和36年)には、永島一朗と連名で、女優・田中絹代の監督作品『女ばかりの夜』で「製作」にクレジットされる。
奥山 融(おくやま とおる、1924年1月21日 - 200… 奥山 融(おくやま とおる、1924年1月21日 - 2009年11月7日)は、日本の実業家・映画プロデューサー。元松竹株式会社社長。創業家である白井家、大谷家以外からは永山武臣以来2人目の社長であった。父は元松竹専務の奥山市三、次男は元松竹専務でチームオクヤマ代表の奥山和由。 京都市出身。京都府立京都第一中学校、第五高等学校を経て、1947年京都帝国大学法学部政治学科卒業。同年大和証券入社。1951年松竹入社。主に映画興行部門、国際部門を歩き、1955年プロデューサー、国際部長を経て1968年取締役、1971年常務、1974年専務、1978年副社長。1986年、松竹大船撮影所50周年を期して「ニュー大船調」を打ち出す。
築地 米三郎(つきじ よねさぶろう、1923年〈大正12年〉… 築地 米三郎(つきじ よねさぶろう、1923年〈大正12年〉9月15日 - 2012年〈平成24年〉3月30日[要出典])は、日本の特撮監督、プロデューサー。東京都出身。 東京品川の大井町に生まれる。生家の前に「大井館」という映画館があり、5、6歳から映画館に毎日通うようになった。 1939年(昭和14年)、神田電機学校(現:東京電機大学)を卒業。父親の親友だった青島順一郎撮影技師の紹介で、映画会社新興キネマに入社。撮影助手となる。 1942年(昭和17年)、新興キネマが大都映画、日活と合併、「大日本映画製作株式会社」となる。各社とも社員を1/3にリストラしての合併だったが、「このなかに何とか残った」と語っている。
今田 智憲(いまだ ちあき、1923年7月20日 - 200… 今田 智憲(いまだ ちあき、1923年7月20日 - 2006年6月23日)は、日本の映画プロデューサー。東映アニメーションの社長と会長、東映ビデオの社長を務めた。広島県東広島市西条町出身。 東映社長だった岡田茂の盟友。自宅も近所の幼馴染で、今田の家も酒樽の製造元であった。岡田と小学校から進学・就職とともに歩み、旧制広島一中(現・広島国泰寺高校)、東京商科大学(現・一橋大学)予科を経て1946年東京産業大学(1944年に東京商科大学から改称、現一橋大学)卒業、1947年東京急行電鉄に入り同郷の先輩・黒川渉三が社長を務めていた東横映画(東映の前身の一つ)に誘われて移籍。東映では営業畑を歩き、東映動画(現・東映アニメーション)に移動すると、同社製作のテレビアニメや劇場アニメ作品(東映まんがまつり)の多くに製作・企画などで携わった。
市川 喜一(いちかわ きいち、1923年〈大正12年〉6月2… 市川 喜一(いちかわ きいち、1923年〈大正12年〉6月26日 - 2006年〈平成18年〉3月31日)は、日本の映画プロデューサー・元俳優である。俳優としての芸名は黒田潤。群馬県高崎市出身。妻は市川千恵子(旧姓・関千恵子、元女優)。 海軍予備学生として魚雷艇部隊に在籍した。1946年に早稲田大学法学部を卒業するとともに、黒田潤名義で、新人スターとして大映入りして、いくつかの作品に出演。デビュー作『いつの日か花咲かん』で共演した関千恵子と交際、後に結婚。 1952年に大映を退社してフリーとなる。シナリオ作家志望だった市川は、故郷の群馬県高崎市の交響楽団をモデルにした作品を構想して、今井正監督に売り込んで採用される。
馬場 和夫(ばば かずお、1922年10月10日 - 201… 馬場 和夫(ばば かずお、1922年10月10日 - 2014年10月1日)は日本の映画プロデューサー。 東京都出身。1944年に慶応義塾大学経済学部を卒業と同時に東宝撮影所製作部へ入社。1959年に製作部長に昇進。1965年に撮影所所長補佐。1969年に製作担当役員補佐などを歴任し1972年に東宝映画専務取締役に就任。 1980年に契約者となり1987年に東宝映画を退職、日本アカデミー賞協会事務局長となる。 2014年10月1日死去、91歳。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
西岡 善信(にしおか よしのぶ、1922年7月8日 - 20… 西岡 善信(にしおか よしのぶ、1922年7月8日 - 2019年10月11日)は、日本の美術監督・映画プロデューサー。 奈良県明日香村出身。法政大学文学部卒業。大学在学中に徴兵され、朝鮮半島で終戦を迎えた。1947年までソ連に抑留され、帰国後の1948年、大映京都撮影所に入社。美術部に配属された。 1952年、『天保水滸伝 利根の火祭』(安達伸生監督)で初めて美術監督を務め、以降大映が製作した約180本の映画で美術監督を務めた。1952年に市川崑の監督映画『あの手この手』で美術監督を務めたのをきっかけに、大映京都製作の市川監督作品の全てで美術監督を務めた。 大映倒産の後1972年、旧大映社員とともに「映像京都」を設立し、代表取締役社長を務める傍ら、美術監督、プロデューサーとして活躍。
うしお そうじ(牛尾 走児とも、1921年12月4日 - 2… うしお そうじ(牛尾 走児とも、1921年12月4日 - 2004年3月28日)は、日本の漫画家、アニメーター、特撮・映像作品プロデューサー、演出家である。映像製作会社「ピー・プロダクション」創業者。 本名は鷺巣 富雄(さぎす とみお)。別名:若林 藤吾、若林 不二吾(わかばやし ふじご)。 弟は、アニメ制作会社エイケンでプロデューサーを務めた鷺巣政安。長男は作曲家・現ピー・プロダクション社長の鷺巣詩郎。 1921年(大正10年)東京府東京市芝区(現・東京都港区)生まれ。実家は芝区の神明で、西洋家具の製造販売や、演劇関係の小道具を扱う「明光社」という大店だった。 1939年(昭和14年)、淀橋の工学院(現・工学院大学)を心臓脚気(脚気衝心)により中退。
徳間 康快(とくま やすよし、1921年〈大正10年〉10月… 徳間 康快(とくま やすよし、1921年〈大正10年〉10月25日 - 2000年〈平成12年〉9月20日)は、日本の実業家・映画プロデューサー。日本映画テレビプロデューサー協会、日本雑誌協会、各会員。 株式会社徳間書店社長(初代)、徳間ジャパンコミュニケーションズ社長、大映株式会社社長、徳間プレスセンター社長、学校法人逗子開成学園理事長(第5代)、逗子開成高等学校校長(第12代)、株式会社スタジオジブリ社長(初・3代)、東京都写真美術館館長(第3代)などを歴任した。他に社団法人日本映画製作者連盟理事、社団法人日本レコード協会理事、東京国際映画祭ゼネラルプロデューサーなど。 神奈川県横須賀市生まれ。
松本 昇三(まつもと しょうぞう 1921年8月12日 - … 松本 昇三(まつもと しょうぞう 1921年8月12日 - 1996年9月4日)は朝日放送元プロデューサー。 「お笑いの昇ちゃん」と言われるほど演芸、お笑い番組を多数手がけた。 大阪松屋町筋の生まれ、子供のころ母に連れられ近所にあった松竹館という寄席に漫才や落語を見に行ったことで興味を持つようになる。 慶應義塾大学法学部に入学、学生時代も四谷の下宿先から大学に通わず近所にあった喜よしという寄席に足繁く通った。 1946年に大学卒業、卒業後も就職せずに大阪戎橋松竹の楽屋に出入りし芸人らと交友を持つようになる。 1951年、戎橋松竹をラジオ中継していた朝日放送に学芸部員として入社、寄席の中継番組などを携わる。
小林 利雄(こばやし としお、1921年3月28日 - 20… 小林 利雄(こばやし としお、1921年3月28日 - 2007年4月29日)は、日本の広告プロデューサー・テレビ映画製作者。かつて存在した日本の広告代理店・宣弘社の元代表取締役社長・元取締役会長。静岡県出身。 戦後に大陸から復員し、父が創業した社を継いで2代目社長となり、宣弘社を屋外・交通広告主力の広告代理店に育て、「駅広告の小林」「ネオンの小林」「銀座のネオンを支配する男」と異名を取った。また国産初のテレビ映画『月光仮面』を企画制作したことで知られる。 父親は婿養子であり、「小林」は母方の姓である。父親の姓は「中村」であり、宣弘社の当初の名称「中村宣弘社」もこれに由来する。弟は宣弘社副社長の小林正尚。
森田 信(もりた しん、1921年3月17日 - 1985年… 森田 信(もりた しん、1921年3月17日 - 1985年8月)は日本映画のプロデューサー。母親は森田たま。 東京大学文学部卒業後、海軍四期予備学生となる。1950年に東宝撮影所製作部に入社。1962年にプロデューサーに昇格。その後渡辺プロダクション担当のプロデューサーとして活躍。1967年に電通に転属。定年退職後、田中友幸の勧めで東宝映画の企画担当になる。1985年8月、癌のため死去。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
三嶋 与四治(みしま よしはる、1921年2月23日 - 2… 三嶋 与四治(みしま よしはる、1921年2月23日 - 2002年5月18日)は、日本の映画プロデューサー。 福井県出身。1941年早稲田大学専門部政経学科卒業後、同年松竹に入社するが、1942年入営。終戦で南方より復員し、松竹に復職。演劇部、松竹歌劇団製作課長を経て松竹会館支配人、プロデューサー、映画宣伝部長、テレビ部長、映画製作本部次長兼企画部長などを歴任。1969年4月28日の松竹第97期定時株主総会で取締役に就任し、総会後の取締役会で映画製作のトップ・映画製作本部長兼企画部長に就任した。当時の松竹は映画部門が長年に渡り不振が続き、演劇など他部門の利益を食う状態。映画製作のトップに就任後、松本清張作品を次々映画化し、伝統的に強い喜劇、青春映画と合わせて松竹の映画部門を立て直した。
杉山 茂樹(すぎやま しげき、1920年9月9日 - 199… 杉山 茂樹(すぎやま しげき、1920年9月9日 - 1992年12月20日)は、日本の映画プロデューサー。松竹大船撮影所で活躍後、国際放映に転じ、テレビ映画を手がけた。 静岡県立静岡中学校、京都大学文学部哲学科卒業。松竹京都撮影所で日活出身の市川哲夫監督の映画『我輩は探偵でアル』(1949年(昭和24年)5月23日公開)を、マキノ正博監督の『非常線』(1947年)のプロデューサー・小倉浩一郎のもとで製作、プロデューサーとしてデビュー。1960年(昭和35年)11月30日に公開された番匠義彰監督の映画『浮気のすすめ 女の裏窓』で初めて松竹大船撮影所作品を手がけた。1961年(昭和36年)8月6日に公開された、酒井辰雄監督の映画『ひとり寝』を最後に、12年間で79本を製作してきた松竹京都を去り、大船撮影所へ異動。