橋本 武(はしもと たけし、1912年7月11日 - 201… 橋本 武(はしもと たけし、1912年7月11日 - 2013年9月11日)は、日本の国語教師、国文学者、元灘校(灘中学校・高等学校)教頭。京都府宮津市出身。中学の3年間をかけて中勘助の『銀の匙』を1冊読み上げる国語授業「『銀の匙』授業」で知られる。
職業が教師:438人
橋本 武(はしもと たけし、1912年7月11日 - 201… 橋本 武(はしもと たけし、1912年7月11日 - 2013年9月11日)は、日本の国語教師、国文学者、元灘校(灘中学校・高等学校)教頭。京都府宮津市出身。中学の3年間をかけて中勘助の『銀の匙』を1冊読み上げる国語授業「『銀の匙』授業」で知られる。
有田 正憲(ありた まさのり、1912年 - 没年不明)は、… 有田 正憲(ありた まさのり、1912年 - 没年不明)は、宮崎県都城市出身の右翼、特殊株主、政治運動家(笹川良一秘書)、天理教布教師。 この項目は、政治に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 政治学/ウィキプロジェクト 政治)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
高坂 好(こうさか このむ、1911年12月5日 - 197… 高坂 好(こうさか このむ、1911年12月5日 - 1971年8月17日)は、日本の教員、歴史家、郷土史家。 兵庫県飾磨郡荒川村(現在の姫路市)に生まれる。1930年、姫路高等学校文科甲類に入学し、1933年に卒業した。同年、東京帝国大学文学国史学科に入学した。同期入学に磯貝正義、井上清、奥田真啓、新城常三らがいる。卒業論文「中世に於ける地方寺院−特に寺領荘園の場合」をまとめ、1936年に卒業。兵庫県立龍野高等女学校教諭を経て、鹿児島県立第二鹿児島中学校に教諭として勤める。その傍ら、1939年9月から1941年9月まで鹿児島県史編纂のため臨時委員を委嘱された。同年11月から兵庫県立第一神戸商業学校教諭となるも病気のため1942年7月に退職した。
石賀 修(いしが おさむ、1910年4月1日 - 1994年… 石賀 修(いしが おさむ、1910年4月1日 - 1994年10月17日)は、日本の高校教諭、翻訳家、平和運動家。キリスト教徒。筆名イシガオサム。 福岡県出身。旧制福岡高等学校、東京帝国大学文学部西洋史学科卒業。クエーカー、無教会主義のキリスト教に共鳴。療養生活中に、エスペラントとスウェーデン語を学ぶ。1934年、良心的兵役拒否者の支援などをしている平和主義国際組織「戦争抵抗者インターナショナル」WRIに加入し、1943年、良心的兵役拒否を実行。戦後は、国立療養所星塚敬愛園での勤務生活を経て、筑陽学園高等学校教諭。平和運動や人権活動の傍ら、セルマ・ラーゲルレーヴの作品を翻訳した。
北野 邦雄(きたの くにお、1910年3月15日 - 200… 北野 邦雄(きたの くにお、1910年3月15日 - 2000年9月4日)は、日本の教育者、ドイツ語教師、写真・カメラの評論家、出版人。 北海道生まれ。東京外国語大学卒業。東京外国語大学、岩手大学、東京写真大学(現在の東京工芸大学)、陸軍軍医学校、杏林大学、武蔵野音楽大学などでドイツ語の講師を務めた。彼のドイツ語のレベルは、始めてフォトキナを訪れた際、「ドイツ人よりドイツ語がうまい日本人がいる」と評されたほどだったという。 1909年(明治42年)から写真関係の雑誌記事、書籍などの執筆を始め、戦前、戦後を通して代表的筆者であった。また、光画荘(現在の写真工業出版社)の初代社長を務め、同社の代表的月刊誌であった「光画月刊」(後の「月刊カメラ」)の主幹も務めた。
高崎 節子(たかさき せつこ、1910年〈明治43年〉1月7… 高崎 節子(たかさき せつこ、1910年〈明治43年〉1月7日 - 1973年〈昭和48年〉9月15日)は、日本の小説家、教師、労働省官僚。小説『人身売買』はペンネームで本庄しげ子名義を使用した。 1910年(明治43年)、東京府小石川区(後の東京都文京区小石川)で誕生し、幼少期を両親の故郷である福岡県遠賀郡島門村尾崎(現遠賀町)で過ごした。1929年(昭和4年)、福岡県立女子専門学校(現福岡女子大)を卒業し、九州帝国大学の聴講生となり、政治・経済・労働・法律を学んだ。その後、1930年(昭和5年)から朝鮮・新義州高等女学校で教壇に立ったが、同1930年12月に帰国、1942年(昭和17年)から福岡女学校(後の福岡女学院)で教壇に立った。
原島 宏治(はらしま こうじ、1909年〈明治42年〉12月… 原島 宏治(はらしま こうじ、1909年〈明治42年〉12月4日 - 1964年〈昭和39年〉12月9日)は、日本の政治家、宗教家、小学校教員。 東京都大田区議会議員(1期)、参議院議員(1期)、創価学会理事長(第3代)、公明党中央執行委員会委員長(初代)などを歴任した。 東京都西多摩郡奥多摩町生まれ。幼名は鯉之助。 1929年(昭和4年)、東京府青山師範学校を卒業。以降26年間、東京各地の小学校教員に就いた。 1940年(昭和15年)、創価教育学会(現:創価学会)の設立と同時に入会する。 1943年(昭和18年)の創価学会弾圧により、治安維持法違反と不敬罪の容疑で牧口常三郎、戸田城聖らが逮捕・投獄された後、留守番役として苦闘した。
小尾 十三(おび じゅうぞう、1908年10月26日 - 1… 小尾 十三(おび じゅうぞう、1908年10月26日 - 1979年3月8日)は、日本の小説家、教師。 山梨県北巨摩郡穂足村大豆生田(現・北杜市須玉町)生まれ。1903年(明治36年)に江草村の本家から分家した家で、四男として生まれる。母は津金村の漢方医飯島家の娘。小尾家は農家で、父は国定教科書販売を営んでいたが1912年(大正元年)に破産したため一家で甲府市へ移り碁会所をはじめるが、母は幼い十三らを連れて善光寺町へ別居し、小作業や養蚕で生計を立てる。 1923年(大正12年)に甲府商業学校に入学するが、翌年には退学して長野鉄道局教習所電信科へ入所する。その後、職を転々とし農民組合運動にも関わり、日本共産党の影響下にあった全農支部青年部書記にもなっている。
原 仙作(はら せんさく、1908年9月14日 - 1974… 原 仙作(はら せんさく、1908年9月14日 - 1974年7月9日 )は英語教師、英文学者。旺文社にて編集顧問を務め、大学受験生向けの英語の参考書の著者として活動した。弟は画家の原覚。 長崎県諫早市出身。海星中学校を経て1931年長崎高等商業学校(現在の長崎大学経済学部)を卒業し、日本統治下の朝鮮に渡って龍山公立中学校の教諭となる。終戦直後に米軍政長官付き通訳官兼参謀二課翻訳官を務めたあと、1946年5月に日本へ引き揚げ。旺文社の主幹となり、1948年編集顧問となる。そのかたわら1950年から1956年まで開成高等学校講師、その後は千葉大学工業短期大学部、明治大学、青山学院大学、実践女子短期大学で非常勤講師を務める。
戸田 繁子(とだ しげこ、1908年7月31日 - 2019… 戸田 繁子(とだ しげこ、1908年7月31日 - 2019年3月31日)は、日本の音楽教師。広島市で音楽教室「杉の子会」主宰。作曲家糀場富美子、指揮者大植英次らを育てた。 島根県飯南町出身。1923年に高等小学校を卒業、島根県女子高等師範学校に入学した。1927年に卒業後、島根県飯石郡吉田村小学校に赴任するが、さらに学ぶために松江市の飯田忠義の元に通いレッスンを受ける。1929年4月、東京音楽学校に設置された教員養成所の試験に合格。翌1930年5月から1932年3月まで、同校でピアノを遠山つや、声楽を田中伸江(ピアニスト田中希代子の母)に学ぶ。 1932年に卒業後は故郷に帰り、島根県立今市高等女学校(現・出雲高等学校)に勤務。
新城 正一(あらしろ せいいち、1908年(明治41年)5月… 新城 正一(あらしろ せいいち、1908年(明治41年)5月 - 1943年(昭和18年)8月)は、日本の作曲家、教師。 1908年(明治41年)、沖縄県恩納村名嘉真にて、瀬喜田、喜如嘉、宜野座、恩納の各小学校長を歴任した正成の長男として生まれる。沖縄県師範学校在学中に、恩師宮良長包と出会う。東京武蔵野音楽学校(現在の武蔵野音楽大学)卒業。 1938年(昭和13年)から、福岡県旧制小倉中学校・八幡中学校・門司中学校の教員となる。同年、陸軍省の愛馬進軍歌の作曲募集に応募、約5万件の応募作品の中から、一等に当選。 1943年(昭和18年)、喉頭結核にて35歳没。
重園 贇雄(しげぞの よしお、1908年1月19日 - 19… 重園 贇雄(しげぞの よしお、1908年1月19日 - 1980年12月29日)は、日本の作詞家、中等教育教員。おもに「ひろしま平和の歌」の作詞者として知られる。 1908年(明治41年)1月19日、アメリカ合衆国ハワイ島のヒロで日系移民の重園梅太郎・セキ夫妻の一子として出生する。2歳で両親と共に日本へ帰国し、広島県豊田郡椹梨村(賀茂郡大和町を経て現在の三原市)で育った。 旧制忠海中学校を首席で卒業後、満洲へ渡り満洲教育専門学校文科一部へ入学。卒業後、長春市室町尋常高等小学校訓導に着任する。 1931年(昭和8年)、満洲事変勃発に伴い新聞紙上で懸賞募集が行われた「噫 南嶺三十八勇士の歌」で一等入選。
瀬野 修(せの おさむ、1908年 - 1995年)は、日本… 瀬野 修(せの おさむ、1908年 - 1995年)は、日本の教師、兵士、歌人、作家。択捉島に出征後、敗戦後シベリアにて抑留中に和歌集『白樺日誌』を書き、日本に持ち帰ったことで知られる。基本的に名前は「修」表記であるが、国立情報学研究所では「脩」表記である。 1908年、京都府舞鶴市に生まれる。その後、旧制舞鶴中学校(現・京都府立西舞鶴高等学校)の教師として働いたのち、太平洋戦争において択捉島に兵士として出征後、終戦を迎え抑留される。ソ連コムソモリスク近郊の収容所を転々としながらシラカバの木の皮を使い、ガラスをとがらせペンに、煙突のすすをインク代わりにし全200-300首の和歌を書いた。 1947年に引き揚げされた時に白樺日誌を持ち帰り、1988年に舞鶴引揚記念館に『白樺日誌』を寄贈した。
池見 猛(いけみ たけし、1907年11月7日 - 2016… 池見 猛(いけみ たけし、1907年11月7日 - 2016年1月3日[要出典])は、日本の精神医学者、池見学園理事長・校長、文筆家。 妻は嵯峨実勝の次女池見啓子(あきこ)。大分県北海部郡丹生村(現大分市)出身。 大分県立三重農学校(現・大分県立三重農業高等学校)卒、東京医学専門学校(現・東京医科大学)卒、中央大学法学部卒、名古屋帝国大学附属医学専門部卒。 1939年「精神的傾向の遺伝学的研究」で名古屋帝国大学医学博士。1959年「精神障碍性犯罪の刑事学的研究」で中央大学法学博士。 民族科学研究所を主宰、『民族科学』を刊行。1952年東京品川簿記学校を開校、1956年池見経理学校、1968年学校法人池見学園を設立し、校長、理事長を務める。
崔 栄哲(チェ・ヨンチョル、朝鮮語: 최영철/崔榮哲、190… 崔 栄哲(チェ・ヨンチョル、朝鮮語: 최영철/崔榮哲、1907年8月2日 - 1991年8月5日)は、大韓民国の校長、政治家。初代全羅南道議会(朝鮮語版)議員、第3代韓国国会議員を歴任した。 全南羅州出身。広島県立呉中学校、千葉高等園芸学校卒。羅州金川中学校校長、湖南園芸高等学校(朝鮮語版)校長、国民会全南道支部宣伝部次長・羅州郡支部長、初代全羅南道議会議員などを歴任した。1954年の第3代総選挙では無所属で羅州郡甲選挙区から出馬し当選し、すぐに民主国民党に入党したが、その後自由党に移籍したことで民主国民党と選挙区民から背信の非難を受けた。 1991年8月5日、ソウル市の江南聖母病院で持病により死去。
板倉 治作(いたくら じさく、1907年(明治40年)7月4… 板倉 治作(いたくら じさく、1907年(明治40年)7月4日 - 1964年(昭和39年)9月14日)は、日本の教員、実業家、政治家。衆議院議員。 新潟県中頸城郡上杉村(現上越市)で生まれる。1927年、高田師範学校を卒業し、新潟市湊小学校、三島郡日越小学校の訓導を務めた。 その後上京して、日本橋で三京堂(カーボン卸製造業)を経営した。戦災を受けて帰郷し農業を経営した。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に新潟県第二区から日本自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
権 泰羲(クォン・テヒ、朝鮮語: 권태희/權泰羲、1907年… 権 泰羲(クォン・テヒ、朝鮮語: 권태희/權泰羲、1907年4月2日 - 1983年5月29日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の牧師、教員、中学校校長、政治家。制憲国会議員、文教社会分科委員長。本貫は安東権氏(朝鮮語版)。 作曲家・声楽家の権泰浩(朝鮮語版)は兄。 慶尚北道金泉または慶尚南道密陽生まれ。大邱啓聖中学校、平壌崇実専門学校文科卒業。平壌神学校で牧師の按手を受け、同志社大学神学科修了(聴講生)。その後帰国し、安東と密陽の教会の牧師、キリスト教安東連合会会長を歴任した。解放後は京城神学校講師、密陽公立農林学校教師・校長を経て、1947年に金泉公立中学校校長を務めた。1948年の初代総選挙で金泉郡から無所属で出馬し当選した後、国会で文教社会分科委員長などを務め、農地改革、国軍の組織にも参加したが、朝鮮戦争の際に北朝鮮に拉致された。
李 錫(イ・ソク、朝鮮語: 이석、1907年3月17日 - … 李 錫(イ・ソク、朝鮮語: 이석、1907年3月17日 - 没年不詳)は、大韓民国の校長、実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 漢字は不明だがイ・インチュル(이인출)という名もある。 本籍地の慶尚北道迎日郡神光面(現・浦項市)に生まれた。徽文高等普通学校(現・徽文高等学校)、明治大学法学部卒。新聞社と雑誌社を経営していた。1948年の初代総選挙では慶州乙選挙区より大韓独立促成国民会の公認で立候補して当選した。このほか、安康中学校の校長を務めていたが、朝鮮戦争の際に北朝鮮により拉致され、以後消息不明。
崔 瑞日(チェ・ソイル、朝鮮語: 최서일、1906年9月27… 崔 瑞日(チェ・ソイル、朝鮮語: 최서일、1906年9月27日 - 1970年7月24日)は、日本統治時代の朝鮮の教員および大韓民国の実業家、政治家。第5代海務庁長、第6代韓国国会議員。 全羅南道莞島郡出身。日本農林省水産講習所(現・東京海洋大学)卒。水産業界の専門家として麗水水産学校の教諭を6年間務めた。光復後は朝鮮水産開発株式会社社長、商工部水産局長、第5代海務庁長(1960年10月22日〜1961年5月21日)を歴任した。5・16軍事クーデター以降は政界に入り、民主共和党所属の第6代国会議員、民主共和党全羅南道第13地区党委員長、国会農林委員会委員を務めた。 1970年7月24日、持病によりソウル市城東区の自宅で死去。
鄭 甲柱(チョン・ガプチュ、朝鮮語: 정갑주、1906年6月… 鄭 甲柱(チョン・ガプチュ、朝鮮語: 정갑주、1906年6月26日または6月27日 - 1963年9月8日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の校長、警察署長、政治家。第3代韓国国会議員。 号は南荷(ナマ、남하)。 慶尚南道泗川郡(現・泗川市)出身。三千浦公立普通学校(現・三千浦初等学校(朝鮮語版))、普成専門学校法科、中央大学法学部卒。日本統治時代は朝鮮学生研究会幹部、新幹会学生部長、光州学生事件普専学生代表、国際学生友交会朝鮮学生代表、東京朝鮮キリスト教青年会理事、東京留学生英語会会長を歴任した。光復後は韓国民主党中央執行委員、東莱韓国キリスト教青年会理事、国際韓国反共会韓国代表、学校法人普興義塾傘下の三千浦中学校・三千浦高等学校・三千浦女子中学校・三千浦女子高等学校の校長、大田警察署長、清州警察署長、警察専門学校教授、泗川教育会会長、三千浦水利組合創立委員長、財団法人普興義塾初代校長・理事長・終身名誉校長、自由党所属の国会議員を務めた。
大村 はま(おおむら はま、本名:大村 濱(読み同じ)、(英… 大村 はま(おおむら はま、本名:大村 濱(読み同じ)、(英文:Ohmura Hama)1906年(明治39年)6月2日 - 2005年(平成17年)4月17日)は、日本の国語教師、国語教育研究家。西洋中世哲学、ドイツ哲学、キリスト教神学の研究者大村晴雄は実弟。 横浜市出身。父親は大村益荒、北海道の尋常師範学校の教師を経て、ミッションスクールである共立女学校(現横浜共立学園)の幹事から教頭になっていた。母親はくらといい、北星女学校を卒業していた。両者クリスチャンという関係で結婚した。母くらは、後に「婦人の友」となる「家庭の友」の創刊号からの読者であり、父は潔癖さが強く、不器用であり、うそが嫌いであったという。
崔 秉国(チェ・ビョングク、朝鮮語: 최병국/崔秉國、190… 崔 秉国(チェ・ビョングク、朝鮮語: 최병국/崔秉國、1906年2月16日または1907年 - 1973年9月)は、日本統治時代の朝鮮の教員、大韓民国の実業家、政治家。烏山面(現・烏山市)面長、第3代韓国国会議員を歴任した。本貫は全州崔氏(朝鮮語版)。 京畿道華城郡出身。早稲田大学政治科卒。大成学校教員を経て、解放後は大同青年団烏山面団長、大韓青年団(朝鮮語版)烏山面団長・華城郡団長・中央総本部中央執行委員、烏山商事常務理事・監事、烏山中学財団理事長、烏山面長、自由党華城乙区党委員長、第3代民議員を務めた。 1957年、贓物を横領した疑いで徐寅洪議員の随行員2名は警察の取り調べを受けたが、当初は崔の随行員という虚偽な陳述をした。
石川 ハナ (いしかわ ハナ、1905年3月8日 - 199… 石川 ハナ (いしかわ ハナ、1905年3月8日 - 1997年12月30日) は、日本の教師、政治家。1955年から1971年まで横浜市の市議を4期務めた。 神奈川県津久井郡小原町(現・相模原市緑区)に生まれ。地元の小学校高等科を卒業後、横浜の女子師範学校(現・横浜国立大学教育学部)へ進学。師範学校卒業後は青根小学校や日吉台小学校で教師として勤務した。 1948年に夫が死去すると、多方面で活動するようになり、横浜市教職員組合副委員長として女性教師の待遇改善に取り組んだほか、新生活連合婦人会を立ち上げて婦人学級の主催や託児所の開設に取り組んだ。また、1955年には教師を辞して横浜市会議員選挙に港北区選挙区から無所属で立候補して当選。
椋 鳩十(むく はとじゅう、1905年1月22日 - 198… 椋 鳩十(むく はとじゅう、1905年1月22日 - 1987年12月27日)は、日本の小説家、児童文学作家、鹿児島県立図書館長、教員。本名は久保田 彦穂(くぼた ひこほ)。日本における動物文学の代表的人物である。 1947年から19年間務めた鹿児島県立図書館長時代には、第二次世界大戦で崩壊した図書館機能の再建のため、市町村図書館と共同運営を行い、市町村図書館を設置できない市町村には図書館を設置して県立図書館が支援するという、のちの図書館ネットワークの原型となる、図書館学において「鹿児島方式」と呼ばれるものを構築した。 1905年1月長野県下伊那郡喬木村阿島北にて、父(金太郎)、母(たき)の次男として誕生。
服部 清道(はっとり せいどう、1904年3月4日 - 19… 服部 清道(はっとり せいどう、1904年3月4日 - 1997年7月19日)は、日本の郷土史家、教員。本名は服部 清五郎(はっとり せいごろう)。 茨城県生まれ。清五郎と名付けられる。1929年に大正大学予科を卒業し、さらに同大学文学部史学科に進学し、1932年に卒業。1936年に比叡山専修院に入学し仏教学を学び、1941年3月に卒業。藤嶺学園で教員を務めたのち、横浜商科大学教授となり、藤沢市文化財保護委員会委員長、湘南考古同好会会長なども務めた。鳥居龍蔵が主宰する武蔵野会に入会し、鳥居から仏教考古学を勧められ、また同会で三輪善之助の指導を得て、板碑を研究とするようになる。1953年、「戒壇の研究」により法政大学から文学博士の学位を授与される。
穐近 祐(龝近 祐、あきちか ゆたか、1904年 - 200… 穐近 祐(龝近 祐、あきちか ゆたか、1904年 - 2000年7月17日)は日本で活躍した日系アメリカ人の宣教師。イエス福音教団の創設者。息子の穐近祈が後継者になる。 鳥取県倉吉市出身。1919年に農民の子として15歳でアメリカに移住する。同じ日系人の夫人と結婚して、1男(祈)1女を儲ける。ラジオ・バイブル・クラスのデハーン博士の伝道で回心する。 1945年8月に太平洋戦争が終結すると日本宣教の許可を求めてダグラス・マッカーサー陸軍元帥に手紙を送って直訴する。マッカーサーより日本宣教の許可の電報を受ける。 1947年1月アメリカのデンバー市で極東福音十字軍が結成されて、最初の宣教師として穐近夫妻が選ばれる。
呉 衡根(オ・ヒョングン、朝鮮語: 오형근/吳衡根、1903… 呉 衡根(オ・ヒョングン、朝鮮語: 오형근/吳衡根、1903年10月4日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮の教員、大韓民国の政治家。甕津郡郡守、加平郡郡守、長湍郡郡守、第3代韓国国会議員を歴任した。 平安北道宣川郡出身。定州五山中学校、南京東明学院、日本大学法科卒。中学校教員を10数年間務め、新義州電気会社でも勤務した。宣川警察署保安係長を務めた時に越南し、加平郡で勤務した後、甕津郡守、加平郡守、長湍郡守を務めた。1954年の第3代総選挙では洪翼杓を抑えて当選し、自由党所属の国会議員を1期務めた。
朝倉 和夫(あさくら かずお、1903年6月15日 - 19… 朝倉 和夫(あさくら かずお、1903年6月15日 - 1986年)は、日本の会計学者・公認会計士・高校教員。札幌商科大学名誉教授。北海道札幌啓北商業高等学校元校長。 『朝倉和夫教授略歴・著作目録(朝倉和夫教授喜寿記念論文集)』(札幌商科大学学会論集、商経編 1981年) この項目は、会計に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト 会計)。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
忽那 吉之助(くつな きちのすけ、1903年(明治36年)6… 忽那 吉之助(くつな きちのすけ、1903年(明治36年)6月8日 - 1982年(昭和57年)10月21日)は、日本の小説家、教員。梶井基次郎らと同人誌『青空』を創刊した。大学卒業後の後半生は主に中等教育の教職に就いた。就職以後の氏名は野村 吉之助。 愛媛県温泉郡浅海村(現在の松山市)に造り酒屋の6人きょうだいの末弟として生まれる。父を小学生の時に失い、母・きょうだいとともに兵庫県神戸市に転居した。忽那がのちに記したところ(『青空』掲載の「記憶」)では、家計は22歳の長兄の収入だけが頼りだったという。 兵庫県立第一神戸中学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)卒業後、京都の第三高等学校(現在の京都大学)文科乙類に入学した。
宋 能云(ソン・ヌンウン、朝鮮語: 송능운、1903年5月2… 宋 能云(ソン・ヌンウン、朝鮮語: 송능운、1903年5月23日 - 1980年12月27日または12月29日)は、日本統治時代の朝鮮の教員、実業家、大韓民国の政治家。全羅北道議会(朝鮮語版)議員、第5代韓国国会議員。本貫は礪山宋氏。 全羅北道沃溝郡出身。群山公立農林学校、全羅北道教員養成所を経て、1928年広島広陵中学校卒。城山公立普通学校教員を経て、慶尚南道農務課で10余年間勤務した。その後、沃溝郡庁産業技手、朝鮮米穀調査委員、新泰仁中央醸造株式会社社長、自由党所属の全羅北道議会議員、大韓国民会井邑郡副会長、井邑郡酒造組合理事長、新泰仁中高等学校財団理事、国会農林委員を務めた。 1980年12月27日、ソウル市江東区岩寺洞の自宅で持病により死去。
横田 稔(よこた みのる、1903年(明治36年)4月1日 … 横田 稔(よこた みのる、1903年(明治36年)4月1日 - 1995年(平成7年)10月15日[要出典])は、日本の元海軍軍人で戦後、高校教師、宣教師になった人物。空母「サラトガ」、軽巡洋艦「ジュノー」を雷撃し、前者を3ヶ月間戦線離脱させ、後者を撃沈した「伊26」潜水艦長である。最終階級は海軍大佐。戦後は長谷川と改姓。高校教師として教鞭をとり、またキリスト教宣教師となった。 横田は岡山県出身で、海軍兵学校へ進み海兵51期として卒業した。席次は255名中60番。練習艦隊では「浅間」乗組みとなり、米村末喜艦長、安田義達指導官附らに実務訓練を受ける。「浅間」乗組み候補生には、戦後『海上護衛戦』を著す大井篤、最後の駐米武官補佐官実松譲などがいた。
錦小路 頼孝(にしきこうじ / にしきのこうじ よりたか、1… 錦小路 頼孝(にしきこうじ / にしきのこうじ よりたか、1903年〈明治36年〉2月19日 - 1950年〈昭和25年〉6月13日)は、昭和期の教員、政治家、華族。貴族院子爵議員。幼名・在孝。 子爵・唐橋在正の五男として生まれる。叔父、子爵・錦小路在明の死去に伴い、その家督を継承して頼孝と改名し、1912年(明治45年)6月10日に子爵を襲爵した。 1927年(昭和2年)東京帝国大学文学部を卒業した。1928年(昭和3年)東京府立園芸学校教諭に就任。その他、逓信省委員、運輸通信省委員、歌会始講頌などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。
岡田 刀水士(おかだ とみし、1902年〈明治35年〉11月… 岡田 刀水士(おかだ とみし、1902年〈明治35年〉11月6日 - 1970年〈昭和45年〉9月30日)は、大正・昭和時代に活躍した日本の詩人、教員。 1902年(明治35年)群馬県前橋市大字才川(現・若宮町)に生まれる。群馬郡久留馬小高等科を経て、1925年(大正14年)群馬師範学校本科第一部(現・群馬大学教育学部)を卒業。 倉賀野尋常高等小学校を振り出しに、高崎北尋常高等小学校、高崎中央尋常高等小学校で勤務。1930年(昭和5年)ごろからは自由教育の実践に取り組んだ。1936年(昭和11年)退職して上京、東京府八王子第二小学校に代用教員として勤めるが間もなく退職し、1937年(昭和12年)より高崎市片岡尋常高等小学校に勤務。
山岡 榮(やまおか さかえ、1902年(明治35年)10月2… 山岡 榮(やまおか さかえ、1902年(明治35年)10月23日 - 1930年(昭和5年)5月9日)は、日本の教員。 日本統治時代の台湾台中州東勢街二庄組合立農林国民学校(現・台中市立新社高等学校)の教員を務め、9人の台湾人(うち7人は小学生)を救うために殉職した。現在、台中市新社区食水嵙渓に記念碑が建立されている。また、出身地である愛媛県伊予市にも記念碑がある。 山岡は愛媛県伊予郡出淵村(現・伊予市中山町出渕)に生まれた。伊予実業学校(現・愛媛県立伊予農業高等学校)を卒業し、地元の中山町技術員や中山町青年団長、伊予郡連合青年団長などを歴任した。 1930年4月、山岡は東勢農林学校の教師として台湾に赴任した。
陳 憲植(チン・ホンシク、朝鮮語: 진헌식、1902年2月9… 陳 憲植(チン・ホンシク、朝鮮語: 진헌식、1902年2月9日 - 1980年9月19日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教員、実業家、政治家。制憲韓国国会議員、第2代忠清南道知事、第10代内務部長官を歴任した。本貫は驪陽陳氏。 忠清南道燕岐郡(現・世宗特別自治市)出身。養正高等普通学校を経て、1929年中央大学法学部卒。同年から普成専門学校講師・法科教授、1933年から養正高等普通学校教諭、朝鮮鉱業株式会社常務取締役、東林機械株式会社取締役、大韓民国臨時政府内務部政治工作隊秘書長、大韓独立促成国民会中央本部調査部長・文教部長・情報部長・青年部長・組織部長・総務部長、亜洲土建株式会社・東成商業株式会社顧問、韓国民族外交後援会外交部長、京畿道成人教育協会理事、財団法人国民大学理事、韓国民族代表者大会ソウル市代議員、制憲国会議員、第2代忠清南道知事(1951年12月17日~1952年8月29日)、第10代内務部長官(1952年8月29日~1953年9月19日)、養友実業倶楽部理事長、忠南大学校総長、東一工業会長、制憲同志会副会長を務めた。
平岡 均之(ひらおか きんし、1901年12月23日 - 1… 平岡 均之(ひらおか きんし、1901年12月23日 - 1976年3月30日)は、日本の作曲家、小学校教員。教科書掲載の童謡『若葉』の作曲者として知られる。 本名は、均。秋田県仙北郡神代村(現・仙北市)に生まれる。秋田市立中通小学校に入学したが、父が中学校教員となり、旧制埼玉県立熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校)に赴任したため均之自身も埼玉県熊谷町(現・熊谷市)に引っ越す。熊谷市立石原小学校を経て、旧制埼玉県立熊谷中学校に入学。 大正7年、父が亡くなった為熊谷中学校を5年で中退(4年終了)。 大正11年、群馬県新田郡強戸小学校代用教員となる。同年、小学校音楽専科正教員となり大正14年、足利尋常小学校相生校訓導となる。
伊藤 公平(いとう こうへい、1901年7月28日 - 19… 伊藤 公平(いとう こうへい、1901年7月28日 - 1984年3月9日)は、日本の歌人、随筆家、小説家、教員。千葉県印旛郡八生村押畑生まれ。吉植庄亮に師事。千葉県歌人クラブでは創設以来、事務所代表を長年務めた。また、出身地である成田市をはじめ、各地で短歌教室を開き指導を続け、後進に大きな影響を与えたと評価される。 1901年、千葉県印旛郡八生村押畑(現・成田市押畑)に父総平、母よねの長男として生まれる。父の総平も歌人であった。少年時代より体が弱く、文学や絵画に親しむようになる。1919年、成田中学校(現・成田高等学校)を卒業して、國學院大學に進学。大学で佐佐木信綱、折口信夫、武田祐吉らの講義を受けて文学的素養を深めたが、同時期に絵画に傾倒し、川端画学校で油絵を学ぶ。
金 哲柱(キム・チョルジュ、朝鮮語: 김철주、1901年1月… 金 哲柱(キム・チョルジュ、朝鮮語: 김철주、1901年1月25日 - 1962年2月22日)は、大韓民国の医師、教員、政治家、実業家、社会事業家。麗水郡郡守、麗川郡郡守、第3代韓国国会議員、湖南新聞社長を歴任した。 全羅南道麗川郡(現・麗水市)出身。ソウル中東中学校、日本大学師範科卒。莞島中学校教員、光州農業実習学校長を歴任した後に全羅南道の医師試験に合格した。その後は韓国キリスト教青年会(朝鮮語版)総務、麗水郡・麗川郡郡守を経て、全羅南道三日保健診療所長を務めた。麗水華井医院を開業したほか、麗水愛養園長を務めた。1954年の第3代総選挙では麗川郡選挙区から無所属で出馬し当選し、その後は自由党に入党した。
李 浩錫(イ・ホソク、朝鮮語: 이호석、1901年または19… 李 浩錫(イ・ホソク、朝鮮語: 이호석、1901年または1911年11月12日 - 1959年)は、大韓民国の教員、政治家、農家。第2代慶尚北道大邱市(現・大邱広域市)長、制憲韓国国会議員。本貫は星山李氏(朝鮮語版)。字は致亨(チヒョン、치형)。 日本統治時代の慶尚北道星州郡出身。星州公立普通学校(現・星州初等学校)、大邱公立農業学校(現・大邱農業マイスター高等学校)、日本大学法学部卒。星州公立普通学校で教員を務めたほか、満州の吉林省で農場を経営した。1948年の初代総選挙では星州郡選挙区から無所属で出馬し国会議員に当選した。1951年9月19日から第2代大邱市長を務め、1952年5月5日に地方自治制度により大邱市議会(朝鮮語版)の間接選挙で初代民選市長に選出された。
池内 義資(いけうち よしすけ、1900年9月9日 - 19… 池内 義資(いけうち よしすけ、1900年9月9日 - 1979年10月18日)は、日本の法制史学者、教員。 愛媛県生まれ。広島高等師範学校で新見吉治に学び、1923年卒業。高知師範学校で教員を務めた後、1927年京都帝国大学文学部史学科に入学し、卒業論文「武士発生史の研究」をまとめ、1931年3月に卒業。京都府立第一高等女学校、兵庫県立第二神戸中学校、大分県立宇佐中学校等の教員を勤め、愛媛県立松山北高等学校校長等を歴任する。その傍ら、中世法制史研究を行い、佐藤進一と共に「中世法制史料集」(岩波書店)の編纂を行う。また、特に御成敗式目の研究を専門として、1971年に「式目傅寫本の系譜に関する研究」により京都大学から文学博士の学位を授与される。
ヘンリー・ユズル・スギモト(Henry Yuzuru Sug… ヘンリー・ユズル・スギモト(Henry Yuzuru Sugimoto 日本名:杉本謙、1900年3月12日 – 1990年5月8日)は日本出身の画家、絵画教師及び第二次世界大戦における日系人の強制収容の経験者である。1952年にアメリカの市民権を取得した。 和歌山県海草郡湊村(現・和歌山県和歌山市湊)に生まれる。スギモトの父親はスギモトが生まれてすぐに渡米し、母親も9年後に渡米したため、スギモトとその弟は母方の祖父母に養育された。母方の祖父は武家の出であり、絵画を多数所有しており、スギモトは幼いころからそれを模写し絵画に親しんでいた。 1919年、スギモトは和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)4年生修了後、ヘンリーに改名し、カリフォルニア州ハンフォードで両親とともに暮らすこととなった。
梅津 錦一(うめづ きんいち、1898年〈明治31年〉12月… 梅津 錦一(うめづ きんいち、1898年〈明治31年〉12月22日 - 1984年〈昭和59年〉2月18日)は、日本の政治家、教員、実業家。位階は正五位。参議院議員(1期、日本社会党)。 1898年(明治31年)、元前橋藩士[要出典]・梅津幸次郎、とう(元前橋藩目付・明石家長女)[要出典]の長男として群馬県前橋市高田町(現・文京町1丁目)に生まれる。中川小学校を経て、1913年(大正2年)、教員養成所に入所し、翌年桂萱小学校補助教員となる。1920年(大正9年)、群馬師範学校本科卒業とともに桐生北尋常小学校に赴任した。のち高崎南小学校に転勤。高崎北小学校、片岡小学校に転任し、1946年(昭和21年)高崎市第一国民学校教頭となった。
八木 重吉(やぎ じゅうきち、1898年2月9日 - 192… 八木 重吉(やぎ じゅうきち、1898年2月9日 - 1927年10月26日)は、日本の詩人、英語科教師。戦後にクリスチャン詩人としての評価が高まった。
富田 至誠(とみた しせい、1897年(明治30年)3月6日… 富田 至誠(とみた しせい、1897年(明治30年)3月6日 - 1949年(昭和24年)5月31日)は、日本の洋画家であり、美術教師。熊本県出身。 旧姓松尾至誠。東京美術学校西洋画科、(現東京藝術大学油画専攻)卒業後すぐに、新設された熊本県立御船中学校、現在の熊本県立御船高等学校に図画教師(美術教師)として赴任。以後、学制改革により御船中学校が御船高等学校となった翌年(昭和24年)に病没するまでの間、同校で教鞭をとり続ける。昭和6年11月の天皇行幸、陸軍大演習に際して休憩所に飾る天覧の絵を描くなど優れた画力を持ちながら、文展、帝展等の公募展には一切出展せず、生涯一美術教師を通す。 井手宣通・浜田知明ら、日本を代表する美術家や美術教師を多数育てる。
北村 春吉(きたむら はるきち、旧姓:藤井、1897年3月1… 北村 春吉(きたむら はるきち、旧姓:藤井、1897年3月1日 - 1996年12月19日)は、滋賀県野洲市出身の数学者、旧制専門学校校長、予備校講師、サッカー選手。 1897年、滋賀県野洲郡野洲町(現:野洲市)富波甲に生まれた。滋賀師範学校(現・滋賀大学)在籍時に恩師の落合秀保と出会い、サッカーを始めた。1916年3月、滋賀師範学校卒業。 その後、東京高等師範学校に入学し、蹴球部(現:筑波大学蹴球部)に所属。在学中の1917年に第3回極東選手権大会の日本代表に佐々木等や武井群嗣らと共に選出され、2戦目のフィリピン代表戦で2得点を決めた。なお、この得点が日本代表の初得点となった(試合は2-15で敗れ、日本代表の最大差敗戦試合となっている)。
栗盛 吉蔵(くりもり きちぞう、1897年(明治30年)2月… 栗盛 吉蔵(くりもり きちぞう、1897年(明治30年)2月 - 1974年(昭和49年))は、昭和時代に活躍した日本画家、美術教師。号は大地。 奈良県奈良市高畑町にウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の自宅兼アトリエを構え、志賀直哉の高畑サロンに参加した。後に故郷の秋田県大館市で美術教師として教育に従事し、同地の美術界に大きな影響を与えた。 1897年(明治30年)2月、秋田県大館町に、父栗盛倉松、母ヤエの三男として生まれる。生家の栗盛家は、曾祖父栗盛吉右衛門が一代で財を築いた北秋田郡有数の資産家で、吉右衛門は奨学金の貸し付けなどの育英事業を行う栗盛教育団を設立している。 大正年間に京都市立芸術大学の前身である京都市立美術工芸学校本科を卒業した。
武隈 徳三郎(たけくま とくさぶろう、1896年〈明治29年… 武隈 徳三郎(たけくま とくさぶろう、1896年〈明治29年〉8月3日 - 1951年〈昭和26年〉11月28日)はアイヌ出身の教員、鉄道員。後に縁戚の養子縁組を繰り返し、中村 徳三郎、宮島 徳三郎となる。『アイヌ物語』の著者として知られる。 1896年8月3日、武隈熊次郎・カツの子供として十勝国河西郡伏古村(現・帯広市)に生まれる。1910年に北海道庁立第二伏古尋常小学校を卒業後、校長の三野経太郎に嘱望されたことにより教員を志し、帯広准教員講習所で準教員、尋常小学校本科正教員養成常設講習会で尋常小学校本科正教員の資格を得る。 1913年に高島尋常小学校の准訓導、1914年に音更尋常小学校の訓導兼校長、1916年に井目戸旧土人学校(後の井目戸尋常小学校)の訓導兼校長となる。
竹腰 俊蔵(たけごし/たけこし しゅんぞう、1895年〈明治… 竹腰 俊蔵(たけごし/たけこし しゅんぞう、1895年〈明治28年〉12月30日 - 1963年〈昭和38年〉3月28日)は、日本の教員、政治家。群馬県知事(公選第4代)を務めた。群馬県群馬郡箕輪村(のちの箕郷町、現在は高崎市)出身。参議院議員を務めた竹腰徳蔵は実兄であり、群馬県知事に立候補していた兄の急死により補充立候補して当選を果たした。 1895年(明治28年)12月30日、群馬県群馬郡箕輪村西明屋(現・高崎市箕郷町西明屋)の酒造業者・竹腰徳蔵(先代)の次男として生まれる。1909年(明治42年)箕輪小学校を卒業後、1914年(大正3年)高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を卒業。1915年(大正4年)に群馬県師範学校本科二部(現在の群馬大学教育学部)を卒業した。
鳥原 ツル(とりはら ツル、1895年(明治28年)1月8日… 鳥原 ツル(とりはら ツル、1895年(明治28年)1月8日 - 1981年(昭和56年)11月24日)は、日本の教員。日本で最初の女性校長とも言及されるが、鳥原より先に校長となった女性が複数確認されている(後述)。 宮崎市出身。宮崎県最初の訓導の一人である鳥原定静を父として生まれる。 1915年(大正4年)、宮崎県立宮崎県師範学校女子部(のちの県立宮崎女子師範学校→官立宮崎師範学校、現在の宮崎大学教育文化学部の前身)を卒業し、教員となる。25歳であった1920年(大正9年)7月3日に、宮崎県師範学校附属小学校(現・宮崎大学教育文化学部附属小学校)訓導から大淀町立古城尋常小学校(現・宮崎市立古城小学校)の校長に着任した。
上田 庄三郎(うえだ しょうざぶろう、1894年(明治27年… 上田 庄三郎(うえだ しょうざぶろう、1894年(明治27年)11月10日 - 1958年(昭和33年)10月19日)は、日本の教員、教育評論家である。 高知県幡多郡三崎町(現土佐清水市)出身。高知師範学校(現高知大学教育学部)卒業。 高知県下の小学校教師・校長を経て1925年に上京。生活綴方運動に参加、1929年雑誌『綴方生活』同人となり、1931年には雑誌『観念工場』を創刊・主宰した。大正自由教育運動を果敢に実践し、池袋児童の村小学校を手本として、神奈川県茅ケ崎の雲雀岡(ひばりがおか)児童の村小学校校長を務めた。戦後、「日本教育新聞」編集局長などを務めた。 戦前戦後の教育界に鋭い議論を展開し、特に教師論で多くの理解者・支持者を得た。