中武 克雄(なかたけ かつお、1964年3月28日 - )は… 中武 克雄(なかたけ かつお、1964年3月28日 - )は、ボディビルダー、元競輪選手。競輪選手としては、現役時代は日本競輪選手会大阪支部所属、ホームバンクは関西サイクルスポーツセンター。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第57期生)。弟子は向井円(114期)。身長170.0cm、体重82.0kg。 同じく競輪選手の中武三四郎(競輪学校113期)は甥。 1964年3月28日、大阪府大阪市西成区天下茶屋に生まれる。大阪市立天下茶屋中学校時代に自転車に目覚め、天下茶屋の自転車屋「河原サイクル」の店主からコーチを受ける。当初は当時自転車部が強いことで有名だった大阪府立今宮工業高等学校(現・大阪府立今宮工科高等学校)を志望。
松井 英幸(まつい ひでゆき、1964年2月14日- )は競… 松井 英幸(まつい ひでゆき、1964年2月14日- )は競輪選手である。現在の愛知県豊川市(旧宝飯郡一宮町)出身。日本競輪選手会愛知支部所属。日本競輪学校第52期生。師匠は加藤義勝。ホームバンクは豊橋競輪場。
山田 英伸(やまだ ひでのぶ、1964年2月13日 - )は… 山田 英伸(やまだ ひでのぶ、1964年2月13日 - )は、元競輪選手。日本競輪学校第51期卒業。現役時は日本競輪選手会神奈川支部所属。 法政大学第二高等学校在学中の1981年、全国高等学校選抜自転車競技大会(明石自転車競技場)のスプリントで優勝。卒業後は日本競輪学校に入学し、卒業後の1983年4月14日に大津びわこ競輪場でデビューし3着。初勝利は同年4月15日の同場。 1985年、日本選手権競輪(立川競輪場)の準決勝で、逃げる清嶋彰一の番手を巡って、井上茂徳と最終ホーム通過付近から半周以上に亘って相譲らず競り合い、結果双方失格となったが、この一戦は、山田の名を知らしめる結果とあいまった。同年の全日本新人王戦では、同期の本田晴美マークからゴール直前追い込み優勝している。
内林 久徳(うちばやし ひさのり、1963年11月28日 -… 内林 久徳(うちばやし ひさのり、1963年11月28日 - )は元競輪選手、競輪評論家。滋賀県出身。旧日本競輪学校第62期卒業。ホームバンクは大津びわこ競輪場。初出走は1988年9月1日の大垣競輪場で初勝利は同開催の9月3日。血液型はA型。愛称は「ウッチー」。 滋賀県立瀬田工業高等学校時代の1981年、全国高等学校選抜自転車競技大会のポイントレースで優勝。同校卒業後、当時実業団チームの名門であったマエダ工業に入社。マエダ工業時代には1986年23歳のとき、世界自転車選手権に出場するなどアマチュア自転車界のトップクラスの選手であった。しかしその後、指導者と練習方法等を巡って対立したことが原因となって退社。
本田 晴美(ほんだ はるみ、男性、1963年11月12日 -… 本田 晴美(ほんだ はるみ、男性、1963年11月12日 - )は、日本の元競輪選手。現在はデイリースポーツ専属の競輪評論家、YouTuber。 岡山県久米郡美咲町出身。現役時は日本競輪選手会岡山支部所属。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第51期卒業。初出走は1983年4月21日の名古屋競輪場で、初勝利は4月29日の広島競輪場。 当時の岡山県立福渡高等学校を経て、競輪学校を適性試験で受験し合格。競輪学校では125人中71位と下位の成績ではあったが、デビュー後は一気に素質が開花し、1984年の2月にはデビュー1年足らずで早くもS級優勝を成し遂げ、同年9月にオールスター競輪への出場を果たすと、以降は特別競輪でも決勝に進出するほどの常連選手となった。
工 正信(たくみ まさのぶ、1963年8月18日 - )は、… 工 正信(たくみ まさのぶ、1963年8月18日 - )は、競輪選手。日本競輪学校第55期卒業。日本競輪選手会広島支部に在籍。師匠は木村一利(同39期)。ホームバンクは広島競輪場。
坂本 勉(さかもと つとむ、1962年8月3日 - )は、日… 坂本 勉(さかもと つとむ、1962年8月3日 - )は、日本の元競輪選手・元自転車競技選手。現在の青森県三戸郡南部町出身。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第57期卒業。日本競輪選手会青森支部所属。師匠は実兄の坂本典男。初出走は1986年5月10日の青森競輪場で初勝利も同日。血液型はO型。 同県所属94期生坂本貴史は長男、100期生坂本周輝は次男、117期生坂本紘規は四男。三男は高校で自転車競技部の顧問をしている。同県所属91期生坂本昌宏・105期生坂本周作は甥(典男の子息)。周作と同期の磯島康祐も勉の甥に当たり自身が師匠。 学生時代から自転車競技を始め、青森県立三戸高等学校を経て日本大学に進学し、在学中に出場した1984年のロサンゼルスオリンピックでは、自転車競技の1000mタイムトライアルで出場権を掴んだが、共産圏諸国のボイコットのため追加で出場権を得たスプリント種目において、敗者復活戦から勝ち上がり、3位決定戦でフィリップ・ヴェルネを下して銅メダルを獲得。
高橋 光宏(たかはし みつひろ、1962年7月19日 - )… 高橋 光宏(たかはし みつひろ、1962年7月19日 - )は、元競輪選手。群馬県高崎市出身。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)56期生。現役時代は日本競輪選手会群馬支部所属。師匠は松岡征四郎。血液型はB型。自転車はサムソン。愛称は「ミツ」。 群馬県立高崎工業高等学校では自転車部に在籍。卒業後は2年間製鉄会社に勤務するが、賃金の低さに不満を覚え、競輪選手になることを決意。競輪学校には56期生として入学し、在校成績は43勝で6位だった。 初出走は1985年9月14日の豊橋競輪場で、初勝利も同日。デビュー当初から追い込みを得意戦法とした。デビュー後は順調にS級に昇格し、1994年には第10回全日本選抜競輪で特別競輪(現在のGI)初優勝を果たす。
佐々木 浩三(ささき こうぞう、1962年5月23日 - )… 佐々木 浩三(ささき こうぞう、1962年5月23日 - )は、元競輪選手。現役時代は日本競輪選手会佐賀支部所属、ホームバンクは武雄競輪場。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第50期生。師匠は次兄である佐々木昭彦(43期)。 父、母、長兄の和徳(51期)、次兄の昭彦も元競輪選手、和徳の息子・翔一(93期)は競輪選手、という競輪一家で育つ。 龍谷高等学校を経て、競輪学校に第50期生として入学。 競輪学校卒業後の1982年11月6日、久留米競輪場でデビューし、初勝利を挙げた。 1985年から特別競輪(現在のGI)に参加実績があり、過去に特別競輪で2回の決勝進出歴がある。 兄二人は先に引退したが、浩三自身は還暦を迎えてさらに現役を続けた。
小門 洋一(こかど よういち、1961年8月19日 - )は… 小門 洋一(こかど よういち、1961年8月19日 - )は、元競輪選手、元サッカー選手。埼玉県浦和市(現さいたま市)出身。日本競輪学校第49期卒業。競輪選手現役時は日本競輪選手会神奈川支部所属。師匠は、伯父の小門道夫。ホームバンクは平塚競輪場(元は小田原競輪場)。息子の小門勇太はフットサル選手。 帝京高等学校サッカー部出身で2学年上に早稲田一男、宮内聡、金子久、同学年には現サッカー解説者の川添孝一、元サッカー日本代表の名取篤、とんねるずの木梨憲武、1学年下に辻谷浩幸らがいる。高校3年時(1979年)にはFWとして夏の高校総体ではベスト4、東京都選抜として国体優勝。冬の高校選手権では優勝に貢献。
片山 彰(かたやま あきら、1961年7月22日 - )は、… 片山 彰(かたやま あきら、1961年7月22日 - )は、元競輪選手。日本競輪学校(以下、競輪学校)第52期生。登録地は福岡県。師匠は三芳恒雄。ホームバンクは小倉競輪場。 福岡県立北九州高等学校を経て競輪学校第52期生となる。同校在校時代、69勝を挙げた。 1983年9月3日、門司競輪場でデビューし1着。後2走も勝ち、デビュー場所で完全優勝を果たした。1988年の競輪祭・全日本競輪王戦(小倉競輪場)では決勝に進出(5着)。 2012年7月6日、当時50歳の年齢だった小松島競輪場の開設記念(GIII)第1レースで勝利を挙げた。2013年9月7日、大垣競輪場第6レース(A級特一般・6着)を最後に、2013年9月17日に引退。
菊池 仁志(きくち ひとし、1961年7月14日 - )は、… 菊池 仁志(きくち ひとし、1961年7月14日 - )は、愛媛県松山市出身の元競輪選手。日本競輪学校第47期生。 愛媛県立松山工業高等学校から日本競輪学校を経て、1981年に熊本でデビュー。同年8月に別府で初優勝を果たすなど、268レースで1着を占め、優勝回数は26回。S級に1983年から28年間、連続で在席。開設47周年記念 京都向日町競輪 G3 優勝。伊藤豊明の一番弟子。弟子は、上田学(69期)。 2011年の競輪選手引退後は、競輪解説、コラム執筆などを手掛ける。2015年からプロコーチとしても活動。「K-FITTINGバイクスクール」を開講し、ジュニアから社会人、プロ選手といった幅広い層の指導にあたる。
堀田 伸一(ほった しんいち、1961年4月11日 - )は… 堀田 伸一(ほった しんいち、1961年4月11日 - )は、日本の元競輪選手、政治家。元豊橋市議会議員(4期)。 愛知県豊橋市出身。愛知県立豊橋工業高等学校を経て、中部工業大学(現在の中部大学)工学部を卒業。同大学在籍時代には、国民体育大会自転車競技に3年連続で出場し成年スプリントで入賞(3位、7位、4位)した経験を持つ。 日本競輪学校第55期生を経て、1985年5月11日、久留米競輪場でデビュー(競走棄権)。初勝利は同年同月21日、当時ホームバンクだった豊橋競輪場で挙げた。 1994年4月15日、選手登録削除。通算戦績701戦145勝、優勝5回。引退後、家業の土木建設業(堀田建設株式会社)を継ぎ、主に市役所関係の公共事業を受注する。
木野内 高(きのうち たかし、1960年6月29日 - )は… 木野内 高(きのうち たかし、1960年6月29日 - )は、福島県泉崎村出身の元競輪選手。日本競輪学校第53期生。 福島県立岩瀬農業高等学校、日本大学を経て競輪学校に入校。競輪学校時代の在校競走成績は123戦109勝、勝率は実に8割8分6厘であり、競輪学校が現在地に移転して以降の記録としては、岩崎誠一(31期、9割6分3厘)、神山雄一郎(61期、9割9厘)に次ぐ史上第3位。また、卒業記念レースでも、競走成績第2位だった俵信之らを寄せ付けず、完全優勝を果たした。 ところが、競輪学校卒業後に長期入院を余儀なくされたことが響き、他の同期よりも5か月遅れとなる、1984年10月13日のいわき平競輪場でようやくデビュー戦を迎えた(1着)。
佐古 雅俊(さこ まさとし、1960年5月3日 - )は、山… 佐古 雅俊(さこ まさとし、1960年5月3日 - )は、山口県岩国市出身の競輪選手。登録地は広島県。
滝澤 正光(たきざわ まさみつ、1960年3月21日 - )… 滝澤 正光(たきざわ まさみつ、1960年3月21日 - )は、日本の元競輪選手、日本競輪選手養成所(以下、養成所。旧日本競輪学校)元所長(第23代。名誉教諭兼務)。現在は養成所アドバイザー。現役時代は日本競輪選手会千葉支部所属。師匠は長岡弘臣。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)43期生。妻は1987年度ミス日本の桑原多賀子。息子は放送作家の滝澤光春。 1980年代から1990年代にかけ、中野浩一、井上茂徳らとともに競輪黄金時代の一翼を担った。 千葉県八千代市出身。 八千代市立勝田台小学校 → 同勝田台中学校 → 千葉県立八千代高等学校卒業、中学・高校時代はバレーボール部に所属。バレーボールに熱中し、競輪とは無縁の環境で育ったが、「自転車に乗れなくても競輪選手になれる」という新聞広告を目にしたのがきっかけで、適性試験を受けて競輪学校に入学。
北村 徹(きたむら とおる、1960年1月10日 - 201… 北村 徹(きたむら とおる、1960年1月10日 - 2010年12月10日)は、元競輪選手。現役時代は日本競輪選手会熊本支部に所属、ホームバンクは熊本競輪場。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第43期生。 同じく元競輪選手の北村哲郎は実弟。 九州学院高等学校時代の1977年、全国高等学校総合体育大会自転車競技大会(玉野競輪場)のイタリアンチームレース(現在のチームスプリントの前身種目)で優勝を経験。同校卒業後、競輪学校に43期生として入学。 後に、滝澤正光、佐々木昭彦、小川博美といった特別競輪(GI)優勝経験者を輩出することになる第43期生の中でも、北村の競輪学校時代の強さは桁違いで、在校競走成績第1位に加え、卒業記念レースでも優勝を果たした。
佐々木 昭彦(ささき あきひこ 1960年1月7日 - )は… 佐々木 昭彦(ささき あきひこ 1960年1月7日 - )は、元競輪選手。佐賀県武雄市出身。日本競輪学校第43期卒業。現役時は日本競輪選手会佐賀支部所属。師匠は西村康博。初出走は1979年4月13日の防府競輪場で初勝利も同日。 父母のみならず、兄(佐々木和徳、51期)、弟(佐々木浩三、50期)も元競輪選手、和徳の息子・翔一(93期)は競輪選手という競輪一家に生まれ育つ。 佐賀武雄高校在学中はインターハイ、国体等で活躍。1978年には日本競輪学校に入学し第43期生となる。競輪学校時代の同期には、在校1位の北村徹、高校時代はバレーボールの選手から適性試験で入学し後に佐々木の親友となる滝澤正光、佐々木とは高校時代同級生であった小川博美、社会人野球出身の富原忠夫などがおり、43期は例年になくハイレベルという評判が持ち上がり、みな競輪選手になってからもその期待通りの活躍をしていた。
大井 栄治(おおい えいじ、1960年 - 1987年5月9… 大井 栄治(おおい えいじ、1960年 - 1987年5月9日)は競輪選手。日本競輪選手会奈良支部に在籍していた。
坂本 典男(さかもと のりお、1959年5月20日 - )は… 坂本 典男(さかもと のりお、1959年5月20日 - )は、青森県三戸郡南部町出身の元競輪選手。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第51期生。 坂本勉(57期)は実弟であり、当人が師匠を務めた。また、坂本昌宏(91期)と坂本周作(105期)は実子、坂本貴史(94期)、坂本周輝(100期)、坂本紘規(117期)は甥(ともに勉の実子)にあたる。 青森県立三戸高等学校を経て日本大学へと進む。同大学在籍時代には、1979年の全日本大学対抗選手権自転車競技大会(インターカレッジ)・1kmタイムトライアルで優勝、1980年の全日本アマチュア自転車競技選手権大会では、スクラッチレース(現在はスプリントに名称変更)で優勝し、同年開催のモスクワオリンピック日本代表選手に選出されたが、同年5月24日、日本オリンピック委員会(JOC)が同大会の不参加を決定したことから、オリンピック出場は幻となってしまった。
松本 整(まつもと ひとし 1959年5月20日 - )は、… 松本 整(まつもと ひとし 1959年5月20日 - )は、元競輪選手、現在はスポーツトレーナー、実業家。京都市出身。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第45期生。登録番号は9996。現役時は日本競輪選手会京都支部所属。師匠は木代隆治。初出走は1980年4月19日の門司競輪場で初勝利も同レース。血液型はA型。 松本は幼い頃に両親が離婚し、それからは母・光子により女手一つで育てられる。母親は理不尽なことについては断固として意志を曲げない人で、中学時代、髪型をリーゼントパーマにした松本に対し、初めて見た時は何も言わずも、翌日から「パーマ反対」と書いたカードを家の中で一週間にわたって掲げ続け、松本が根負けする形でパーマを辞めさせたこともあった。
小川 博美(おがわ ひろみ、1959年4月10日 - )は、… 小川 博美(おがわ ひろみ、1959年4月10日 - )は、日本競輪選手会福岡支部に所属していた元競輪選手。日本競輪学校第43期卒業。師匠は今村寛之(期前・引退)。愛称は「ドカ」。 息子の賢人も競輪選手(103期) 。 龍谷高等学校在学中はラグビー選手として、1976年の佐賀国体に出場し3位の成績を収める。その後日本競輪学校に第43期生として入学。同期は滝澤正光、佐々木昭彦、北村徹ら。 初出走は1979年4月7日のホームバンクである久留米競輪場。同年5月4日に防府競輪場で初勝利を挙げた。 1989年に花月園競輪場で行われた第42回日本選手権競輪では決勝戦に進出し6番車で出走。同期の滝澤と坂本勉の激しい主導権争いが演じられ、坂本がバックストレッチ過ぎあたりで滝澤を振り切って逃げの体勢に入ったところ、小川は中団位置あたりから一気にスパートして坂本を捲り、後続全員を振り切って最後は2着の工正信に4車身の差をつける圧勝劇を演じ優勝を果たした。
八倉 伊佐夫(やくら いさお、1959年2月17日- )は、… 八倉 伊佐夫(やくら いさお、1959年2月17日- )は、元競輪選手。京都府京都市出身。日本競輪学校第42期卒業。現役時は日本競輪選手会京都支部所属。師匠は森島清太(京都・8期)。ホームバンクは京都向日町競輪場。 京都市立衣笠小学校、京都市立衣笠中学校を経て、京都商業高等学校(現・京都学園高校)在学中は相撲部に所属。1975年度インターハイ個人ベスト8(相撲)。1976年度京都相撲選手権個人優勝。 卒業時に日本競輪学校の適性試験を受験して合格し第42期生として入学。同期には中里光典、岡本新吾らがいる。初出走は1978年10月8日の甲子園競輪場で初勝利も同日。1980年代にはS級選手として数々の特別競輪に出場した。
添田 広福(そえた ひろよし、1958年6月19日- )は、… 添田 広福(そえた ひろよし、1958年6月19日- )は、日本競輪選手会・福島支部に在籍していた元競輪選手。日本競輪学校第49期生。学校法人石川高等学校、中央大学出身。 アマチュア時代、1978年、1979年の世界自転車選手権・トラックレースに出場の他、78年、タイ・バンコクで開催されたアジア競技大会では個人追い抜きに出場し、3位入賞を果たしている。 競輪選手としては1982年5月1日、前橋競輪場でデビューし6着。その後、S級に在籍した経験もあるが、特筆すべき戦績は収めていない。2008年6月29日開催のいわき平競輪6レースをもって引退。選手登録削除日は同年7月4日。通算勝利数226、通算優勝回数23。
佐久間 重光(さくま しげみつ、1958年6月4日 - )は… 佐久間 重光(さくま しげみつ、1958年6月4日 - )は、元競輪選手、元日本競輪選手会(以下、選手会)理事長(三重支部長兼務)、元日本自転車競技連盟会長。三重県桑名市出身。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第41期生。選手登録番号9559。師匠は叔父の小林勝博(期前、登録番号3671)。 実弟である佐久間幸人(51期)も元競輪選手。 三重県立桑名西高等学校出身。在学中より叔父の影響から競輪選手を目指すようになり、競輪学校に第41期生として入学する。同期には井上茂徳、伊藤豊明らがおり、在校競走成績は39勝を挙げ13位で卒業した。 1978年5月11日、名古屋競輪場で初出走初勝利を挙げ、以後2日間も勝ち、デビュー場所で完全優勝を果たした。
岡本 新吾(おかもと しんご、1958年6月2日 - )は、… 岡本 新吾(おかもと しんご、1958年6月2日 - )は、元競輪選手。現在は競輪評論家。和歌山県出身。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第42期卒業。現役時は日本競輪選手会和歌山支部所属。師匠は山本博章(17期)。 和歌山県立伊都高等学校在学中、1975年に開催された第47回選抜高等学校野球大会に出場している。 その後競輪学校の適性試験に合格し同校へ入学。同期に中里光典、八倉伊佐夫らがいた。在校成績89位で卒業し、1978年10月8日富山競輪場のでデビューし4着。初勝利は同年11月3日の玉野競輪場。 2001年11月17日、43歳5ヶ月15日の年齢で迎えた別府競輪場で行なわれた開設記念前節決勝において、小野俊之と同着ながらも優勝を果たし、松本整が2003年6月17日に行なわれた富山競輪場開設記念決勝戦において44歳28日で優勝するまで、記念競輪における最年長優勝記録を保持していた。
伊藤 豊明(いとう とよあき、1958年5月25日 - )は… 伊藤 豊明(いとう とよあき、1958年5月25日 - )は、愛媛県今治市出身の元競輪選手。現役時代は日本競輪選手会愛媛支部所属、ホームバンクは松山競輪場。日本競輪学校(当時)第41期生。同期には井上茂徳らがいる。師匠は越智淳三郎。 デビュー戦は1978年5月13日の、ホームバンク・松山競輪場で迎え、初勝利も同日。また、同開催完全優勝を果たす。 5年後の1982年に開催された高松宮杯競輪では決勝に進出するも6番車で、全く人気がなかったが、直線に入って鋭く後方から脚を伸ばし、完全優勝目前と見られた尾崎雅彦をゴール前差し切って、自身も思いがけない特別競輪(現在のGI)での優勝を果たす。予選では伊藤を連れた越智祥泰が500バンクの赤板前から2車で後続をぶっ千切って飛び出す(暴走失格)逃げに乗って一着で通過、審議にはかかったものの、連に絡んだ伊藤は暴走にはならずセーフ。
三谷 典正(みたに のりまさ、1958年3月3日 - )は、… 三谷 典正(みたに のりまさ、1958年3月3日 - )は、日本の元競輪選手、元ラグビー選手。京都府出身。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第49期生。現役時は日本競輪選手会奈良支部所属(最終。デビュー当初は滋賀支部所属)。 競輪選手の三谷政史(93期)は長男、三谷将太(92期)は二男、三谷竜生(101期生)は三男で、実子3人の師匠となっている。三兄弟の他に娘(末子)がいる。 東山高校在学中からラグビー部に所属し、法政大学ラグビー部では主にセンター(CTB)のポジションで、1978年度、1979年度の関東大学ラグビーリーグ戦グループで優勝を経験し、当人は79年度の同リーグ戦グループのベストフィフティーンに選出された。
亀川 修一(かめかわ しゅういち、1957年10月3日 - … 亀川 修一(かめかわ しゅういち、1957年10月3日 - )は、元競輪選手。現在は整体師。日本競輪選手会兵庫支部に在籍していた。
市村 和昭(いちむら かずあき、1957年8月11日 - )… 市村 和昭(いちむら かずあき、1957年8月11日 - )は、長野県軽井沢町出身の元スピードスケート選手、元競輪選手。日本競輪学校第48期生。長野県軽井沢高等学校、明治大学出身。
岡堀 勉(おかぼり つとむ、1957年7月10日 - )は、… 岡堀 勉(おかぼり つとむ、1957年7月10日 - )は、青森県三戸郡南郷村(現・八戸市)出身の元競輪選手。1976年モントリオールオリンピック日本代表。日本競輪選手会青森支部に所属していた。 八戸電波工業高等学校在学時代、全国高等学校総合体育大会自転車競技大会の個人追い抜きにおいて、1973年、1974年と2連覇。 その後、日本大学文理学部に進み、1976年モントリオールオリンピック男子4000m団体追抜競走に同郷である小笠原嘉、小笠原義明と組んで出場した。記録は4'37"03で14位(予選敗退)。 日大卒業後、島野工業へ入社。同社在籍時代に1980年モスクワオリンピック代表選手に選出されたものの、ボイコットにより出場できず「幻の代表選手」となった。
山口 健治(やまぐち けんじ、1957年1月21日 - )は… 山口 健治(やまぐち けんじ、1957年1月21日 - )は、元競輪選手、現在はスポーツ報知所属の競輪評論家。東京都荒川区出身。日本競輪学校第38期卒業。現役時は日本競輪選手会東京支部所属。血液型はO型。師匠は実兄の山口国男。 通称はヤマケン。また「江戸鷹」の異名も持っていた。江戸っ子らしい、親分肌の性格の持ち主である。 東京都立上野高等学校中退後、兄を追うように日本競輪学校を受験し、学科・技能の試験とも合格して入学を果たした。競輪学校での在校成績は№1で卒業記念レースでも優勝し、柳井譲二・吉井秀仁と『38期三羽烏』、永田敏夫も加えて『四天王』とも称された。卒業後はホームバンクを松戸競輪場とし、初出走は1976年11月3日の立川競輪場で初勝利も同レース。
清嶋 彰一(きよしま あきかず、1957年1月1日 - )は… 清嶋 彰一(きよしま あきかず、1957年1月1日 - )は日本の元競輪選手、元バレーボール選手。現在は実業家。熊本県熊本市出身。血液型はO型。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第40期生。現役最終時は日本競輪選手会鹿児島支部所属(登録地は沖縄県)であったが、デビュー当初は東京支部所属(ホームバンクは立川競輪場)で、後に福井支部にも在籍した。師匠は黒須修典。弟子には波潟和男らがいる。 駒澤大学高等学校を経て、駒澤大学に進学。学生時代にバレーボールのセッターを務めた。バレーボールでは全日本クラスの実力の持ち主であったが、当時、全日本チームは大型化を目指していたこともあり、身長が180cmそこそこだった清嶋にお呼びが掛かる可能性はなかった。
伊藤 公人(いとう こうじん、1957年1月1日 - 201… 伊藤 公人(いとう こうじん、1957年1月1日 - 2018年9月2日)は、元競輪選手。富山県滑川市出身。日本競輪学校第40期卒業。現役時は日本競輪選手会埼玉支部所属。師匠は高瀬秀宏。ホームバンクは大宮競輪場。 実子に競輪選手の伊藤慶太郎(埼玉・107期)がいる。 富山第一高等学校を卒業後、日本競輪学校に入学。デビューからは埼玉を本拠とし、初出走は1977年11月10日の地元・大宮で、初勝利も同レース。しかし上位クラスに上がるまでに多少時間がかかり、GI初出場を果たしたのはデビュー9年目となる1985年、立川での日本選手権競輪。しかもこの後、伊藤はしばらくGIの出場を果たせず、それどころかC型肝炎を患ったことで3年間ほど満足にレースにさえ出ることができなくなってしまい、S級はおろかA級も瞬く間に陥落。
宮内 英雄(みやうち ひでお、1957年 - )は、元競輪選… 宮内 英雄(みやうち ひでお、1957年 - )は、元競輪選手。日本競輪選手会神奈川支部に在籍していた。 千葉県立銚子商業高等学校野球部主将として、1974年に開催された第56回全国高等学校野球選手権大会に出場。同大会では選手宣誓も行った。1番・遊撃手として、同大会の大会第11号本塁打も記録。そしてチームは、土屋正勝投手、篠塚利夫三塁手らを擁し優勝。自身は真紅の優勝旗を受け取った。 その後、社会人野球チームの三菱自動車川崎に進んだものの、わずか1年で退部。ここで野球とも縁を切り、その後、日本競輪学校第41期生となった。なお、同期には、井上茂徳、伊藤豊明らがいる。 1978年5月18日、川崎競輪場でデビュー(4着)。
吉井 秀仁(よしい ひでひと、1956年8月27日 - )は… 吉井 秀仁(よしい ひでひと、1956年8月27日 - )は、元競輪選手。現在は東京中日スポーツ所属の競輪解説者、競輪レポーター。千葉県茂原市出身。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第38期生。現役時は日本競輪選手会千葉支部所属。師匠は須藤一男。血液型はO型。 千葉県立茂原工業高等学校を卒業後、競輪学校へ入学。在校時には柳井譲二・山口健治と共に38期生の「三羽烏」と謳われた。 初出走は1976年11月21日の千葉競輪場で、初勝利も同レース。デビュー後は「茂原の怪童」「2周半逃げ切る男」などと称され、1978年の競輪祭新人王戦で優勝し、順調に出世をしていった。 1979年の高松宮杯競輪では中野浩一の捲りを不発にし、続くオールスター競輪では長く中野浩一自身が生涯最高のレースと自賛した捲りに敗れるも、これらのレースでは決勝に進出している。
星川 淳(ほしかわ じゅん、1956年4月14日 - )は、… 星川 淳(ほしかわ じゅん、1956年4月14日 - )は、元競輪選手。日本競輪学校第41期卒業。現役時は日本競輪選手会神奈川支部に在籍。ホームバンクは花月園競輪場で、後に川崎競輪場へ移動している。
中野 浩一(なかの こういち、ラテン文字表記:Koichi … 中野 浩一(なかの こういち、ラテン文字表記:Koichi Nakano。1955年11月14日 - )は元競輪選手・自転車競技選手。競輪選手登録番号8959。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第35期生。現在は公益財団法人JKA顧問、競輪解説者、日刊スポーツ競輪担当評論家、公益財団法人日本自転車競技連盟理事(元副会長)、スポーツコメンテーター・タレント(所属は(株)アルカンシェル(社長は尚美夫人)、業務提携は浅井企画)。家族は尚美夫人。子供はいない。2006年春に全ての公営競技及び競輪選手出身者では初の紫綬褒章受章。血液型B型、身長172 cm、体重85 kg。 世界選手権個人スプリント (UCI Track Cycling World Championships – Men's sprint) 10連覇、特別競輪12勝(GP1勝、GI11勝)、賞金王6回(歴代最多)を達成している。
小笠原 嘉(おがさわら ただし、1955年6月21日 - )… 小笠原 嘉(おがさわら ただし、1955年6月21日 - )は、青森県八戸市出身の元競輪選手。1976年モントリオールオリンピック代表。日本競輪選手会青森支部に所属していた。新山将史(98期)、新山響平(107期)の伯父。 八戸電波工業高校(現・八戸工業大学第一高校)卒。 日本大学文理学部在籍中だった1976年、モントリオールオリンピック男子4000m団体追抜競走に同郷である小笠原義明、岡堀勉と組んで出場した。記録は4'37"03で14位(予選敗退)。 その後、日本競輪学校第44期生を経て、1979年10月27日、函館競輪場でデビューし5着。初勝利は同年同月28日の同場。 2002年8月13日選手登録削除。
松村 信定(まつむら のぶさだ、1955年1月10日- )は… 松村 信定(まつむら のぶさだ、1955年1月10日- )は、元競輪選手、競輪評論家。高知県高知市出身。現役時は日本競輪選手会高知支部所属、ホームバンクは高知競輪場。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第36期生。 実父の松村憲も元競輪選手。 競輪学校入学前の経歴は異色に近く、旧制中学校からの歴史を持つなど高知県内でも有数の進学校であり公立高校では戦後一貫してトップである高知県立高知追手前高等学校出身(以下facebook参照)だが、父親からの影響もあり在学中から自転車競技で国民体育大会などの出場経験がある。 競輪学校には第36期生として入学。同期には同じくGI(当時は特別競輪)タイトルホルダーである菅田順和らがいる。
町島 洋一(まちしま よういち、1954年12月23日 - … 町島 洋一(まちしま よういち、1954年12月23日 - )は、元競輪選手。福島県鏡石町出身。日本競輪学校第41期卒業。現役時は日本競輪選手会福島支部所属。
天野 尚(あまの たかし、1954年7月18日 - 2015… 天野 尚(あまの たかし、1954年7月18日 - 2015年8月4日)は、日本の写真家、実業家、元競輪選手。新潟県西蒲原郡巻町(現・新潟市西蒲区)出身。新潟県立吉田商業高等学校(現・吉田高等学校)卒業。アクアデザインアマノの創業者で、ネイチャーアクアリウムを提唱した。また写真家としては、アマゾン、ボルネオなどの熱帯雨林の撮影に力を注いでいた。 1954年7月18日、新潟県西蒲原郡巻町に生まれる。16年間競輪選手として活動する一方で世界各地の熱帯雨林を訪れ、風景写真やエッセイを専門誌に発表するなどした。 1982年、アクアデザインアマノを創立。アクアリストでもあり、自身のデザインした水槽のレイアウトをADA本社にネイチャーアクアリウム・ギャラリーとして展示している。
富原 忠夫(とみはら ただお、1954年6月19日 - 20… 富原 忠夫(とみはら ただお、1954年6月19日 - 2014年7月29日)は、競輪選手・日本競輪選手会第11代理事長(徳島支部所属)、日本自転車競技連盟会長。徳島県徳島市出身。日本競輪学校第43期卒業。初出走は1979年4月7日の松山競輪場で初勝利も同日。師匠は武市寛(33期・引退)。愛称は『富さん』。 小学校時代より野球のキャッチャーとして活躍し、徳島工業高から社会人野球の大倉工業に進む。ここでは、JABAベーブルース杯争奪大会でベスト4に貢献した経験を持つ。しかし、後に肩を壊したことが原因で野球を続けられなくなったため引退する。同級生だった武市寛(競輪学校33期生)の勧めにより競輪選手への転身を決意し、1978年に日本競輪学校の適性試験に合格して第43期生として入学する。
小笠原 義明(おがさわら よしあき、1954年4月29日 -… 小笠原 義明(おがさわら よしあき、1954年4月29日 - )は、青森県八戸市出身の元競輪選手。1976年モントリオールオリンピック日本代表。日本競輪選手会青森支部に所属していた。 八戸電波工業高等学校在学時代、1972年に開催された全国高等学校総合体育大会自転車競技大会の個人追い抜きで優勝。 その後、日本大学文理学部に進み、1976年のモントリオールオリンピック男子4000m団体追抜競走に同郷である小笠原嘉、岡堀勉と組んで出場した。記録は4'37"03で14位(予選敗退)。 その後、日本競輪学校第43期生(同期に滝澤正光、佐々木昭彦、小川博美、北村徹らがいる)を経て、1979年4月7日、前橋競輪場でデビューし5着。
菅田 順和(すがた よしかず、1953年12月4日 - )は… 菅田 順和(すがた よしかず、1953年12月4日 - )は、宮城県出身の元競輪選手。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第36期卒業。現役時は日本競輪選手会宮城支部所属。ホームバンクは宮城自転車競技場。現役時代のニックネームは、超音速旅客機にちなんでコンコルド。 長男・和宏(88期)は競輪選手、長女・賀子(104期)は元競輪選手、次女・かをりは元いわき平競輪イメージアップサポーター(インタビュアー兼任)。また、弟・彰人(47期)は元競輪選手、甥にあたるその息子・壱道(91期)と謙仁(109期)はともに競輪選手である。 宮城県農業高等学校の頃から自転車競技を始めた。同校卒業後、農業に従事する予定だったが、阿部道の勧めにより、日本大学短期大学部を経て競輪学校へ第36期生として入学。
鬼原 積(きはら つもる、1953年11月13日 - )は、… 鬼原 積(きはら つもる、1953年11月13日 - )は、広島県北広島町(旧 豊平町)出身の元 競輪選手で、現在は日本自転車競技連盟技術スタッフ(メカニシャン)。日本競輪学校(以下、競輪学校)第32期生。 双生児の関係である鬼原秀幸(競輪学校第34期生)も元競輪選手。 広島電機大学附属高等学校(現 広島国際学院高等学校)を経て競輪選手となり、通算295勝を挙げ、1989年7月31日に選手登録が削除された。 1994年の広島アジア大会より、日本代表の自転車整備担当(メカニシャン)として日本自転車競技連盟に所属。2004年のアテネオリンピックより、オリンピック自転車競技日本代表選手団のメカニシャンを務めている。
小池 和博(こいけ かずひろ、1953年9月22日- )は、… 小池 和博(こいけ かずひろ、1953年9月22日- )は、元競輪選手。現役時代は日本競輪選手会埼玉支部に所属。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第30期生。同期には高橋健二らがいる。 埼玉県立浦和高等学校出身。高校時代の1970年、松阪競輪場で開催された、全国高等学校総合体育大会自転車競技大会のスクラッチレース(現 スプリント)で優勝経験がある。 競輪学校には30期生として入学。競輪選手としてのデビュー戦は1972年10月7日、ホームバンクの大宮競輪場で迎え2着。 1976年の高松宮杯決勝戦において、優勝した荒木実に続き2着。翌1977年、一宮競輪場で開催された第30回日本選手権競輪決勝は、中野浩一が初めて特別競輪(GI)の決勝へと駒を進めた一戦だったが、果敢に逃げる前年の日本選手権覇者である、同県の新井正昭の番手につけ、ゴール前、新井を捕らえて優勝を果たした。
新井 正昭(しんい まさあき、1953年8月8日- )は、元… 新井 正昭(しんい まさあき、1953年8月8日- )は、元競輪選手。埼玉県出身。日本競輪学校第31期卒業。現役時は日本競輪選手会埼玉支部所属。師匠は服部記義(競輪学校第22期生)。 新井秀明(85期・熊本)、新井剛央(86期)は共に実子で、2人の師匠でもある。 埼玉県立菖蒲高等学校出身。 1973年4月15日、大宮競輪場でデビューし、初勝利も同日。1976年、千葉競輪場で行われた第29回日本選手権競輪決勝で逃げ切り勝ちを収め優勝。翌1977年の日本選手権競輪(一宮競輪場)決勝では、同県の小池和博を従えて主導権を奪い、小池にこそゴール寸前交わされたものの2着に入った。 以降も長い間選手として活躍していたが、2009年1月23日に川崎競輪場で開催されたFII戦「川崎名人戦」では、前座にあたるA3限定のA級チャレンジ戦に出走し、新人から60歳までのメンバーが揃った中で、最終日の決勝まで全て1着の完全優勝を果たした。
阿部 良二(あべ りょうじ。1953年3月6日 - )は、岩… 阿部 良二(あべ りょうじ。1953年3月6日 - )は、岩手県紫波町出身の元競輪選手である。現役時代は日本競輪選手会青森支部所属(登録地は岩手県)。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第29期生。 岩手県立大迫高等学校時代、松阪競輪場で行われた1970年の全国高等学校総合体育大会自転車競技大会・スプリント(当時はスクラッチ)で、小池和博に次いで2位に入った。しかし、阿部の生まれである岩手は当時、競輪に全く縁のない地であったため、顧問の先生に競輪選手になってみないかと勧められて、漸くその存在を知ることになったという。 競輪学校第29期生として1972年4月2日、取手競輪場でデビュー戦を迎えて1着となり、以後負け知らずの21連勝を記録した。
高橋 健二(たかはし けんじ、1952年7月13日 - )は… 高橋 健二(たかはし けんじ、1952年7月13日 - )は、日本の元競輪選手。現在は喫茶店店主。愛知県出身。現役時代はパンチパーマと屈託のない笑顔が印象的な選手であり、爽やかケンチャンと呼ばれていた。 春日丘高等学校出身。父親、兄(高橋昭次)、弟(高橋美行)、息子(高橋宏和)も元競輪選手という、競輪一家。ただ、父親が早くに他界した影響もあり、高校時代は新聞配達などのアルバイトをして家計を助けたという。 高校卒業後、黒須道場の異名を取り、多くの競輪選手を輩出した黒須修典に弟子入り。その後、日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第30期生となる。同期には小池和博、緒方浩一らがいる。北海道出身の久保千代志とは黒須道場の同門で、競輪学校では1期先輩の29期だが、同年齢である。