金久 好(かねひさ よしみ、1911年4月1日 - 2010… 金久 好(かねひさ よしみ、1911年4月1日 - 2010年7月13日)は、日本の実業家。日興證券役員、日興證券投資信託委託副社長、日興ビルディング社長などを歴任。「奄美大島に於ける「家人」の研究」等、奄美の史料論文著者としても知られる。 鹿児島県瀬戸内町出身。奄美群島加計呂麻島の諸鈍生まれ。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1931年旧制第七高等学校造士館(現鹿児島大学)文科卒業。1936年東京帝国大学経済学部卒業。三菱信託銀行から日興證券に転じる。日興證券本店債券部長(1957年)、金融法人部長(1959年)、取締役人事部長(1961年)、常務取締役(1963年)を歴任。
小川 正太郎(おがわ しょうたろう、1910年4月1日 - … 小川 正太郎(おがわ しょうたろう、1910年4月1日 - 1980年10月27日)は、大正末期から昭和初期にかけて活躍した日本の野球選手、新聞記者。当時史上屈指の好投手として、またアマチュア球界の要職を務め、日本の野球人気の高揚に貢献した。 大会初の連続優勝など当時中学球界随一の強豪であった和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)在学中の5年間で8度甲子園の全国大会に出場した。快速球と「2階から落ちるような」と喩えられたカーブを武器に1926年(大正15年)夏第12回全国中等学校優勝野球大会の準決勝で8連続奪三振を記録。正太郎が達成した この記録は桐光学園・松井裕樹が更新するまで86年間破られなかった。
丸山 鉄雄(まるやま てつお、1910年(明治43年)4月1… 丸山 鉄雄(まるやま てつお、1910年(明治43年)4月1日 - 1988年(昭和63年)12月26日)は日本の芸能プロデューサー・音楽評論家。東京府出身。
石賀 修(いしが おさむ、1910年4月1日 - 1994年… 石賀 修(いしが おさむ、1910年4月1日 - 1994年10月17日)は、日本の高校教諭、翻訳家、平和運動家。キリスト教徒。筆名イシガオサム。 福岡県出身。旧制福岡高等学校、東京帝国大学文学部西洋史学科卒業。クエーカー、無教会主義のキリスト教に共鳴。療養生活中に、エスペラントとスウェーデン語を学ぶ。1934年、良心的兵役拒否者の支援などをしている平和主義国際組織「戦争抵抗者インターナショナル」WRIに加入し、1943年、良心的兵役拒否を実行。戦後は、国立療養所星塚敬愛園での勤務生活を経て、筑陽学園高等学校教諭。平和運動や人権活動の傍ら、セルマ・ラーゲルレーヴの作品を翻訳した。
小沢 栄一(おざわ えいいち、1910年4月1日 - 198… 小沢 栄一(おざわ えいいち、1910年4月1日 - 1986年1月6日)は、日本史学者。東京学芸大学名誉教授。 1938年東京文理科大学卒。1959年「十九世紀日本啓蒙史学の研究」で東京教育大学文学博士。東京学芸大学助教授、教授、75年定年退官、名誉教授、國學院大學教授。
岡原 昌男(おかはら まさお、1909年〈明治42年〉4月1… 岡原 昌男(おかはら まさお、1909年〈明治42年〉4月1日 - 1994年〈平成6年〉7月14日)は、日本の検察官、裁判官。第8代最高裁判所長官を務めた。位階は従二位。 最高裁長官としての任期は1年7か月とショートリリーフであったことは、衆目の認めるところであったが、大阪空港訴訟、ロッキード事件の嘱託尋問調書をめぐり、重要な役割を果たした。1979年4月29日、勲一等旭日大綬章受章。好きな言葉は「則天去私」(夏目漱石の言葉。小さい自分の心を超越して、宇宙の大きな道に従うこと)。 岡原が最高裁入りする少し前の八幡製鉄事件で政治献金を合法とした最高裁判所大法廷判決については、「企業献金は法律的には理屈が通らない。
筑波嶺 清平(つくばね せいへい、1909年4月1日 - 1… 筑波嶺 清平(つくばね せいへい、1909年4月1日 - 1948年11月20日)は、現在の茨城県稲敷郡河内町出身で錦島部屋に所属した大相撲力士。本名は加藤 清平(かとう せいへい)。身長170cm、体重105kg。最高位は西前頭2枚目(1933年5月場所)。得意技は突っ張り、右四つ、寄り、吊り。 千葉県立佐原中学校(現在の千葉県立佐原高等学校)を出て、錦島部屋に入門。1927年5月場所に初土俵を踏む。1932年5月場所に新十両、十両を2場所で通過後、1933年1月場所に新入幕。この場所、春秋園事件からの復帰力士たちと伍して7勝4敗の好成績を挙げ、翌場所は西前頭2枚目まで番付を上げたが3勝8敗に終わった。
新山 滋(にいやま しげる、1909年4月1日 - 1994… 新山 滋(にいやま しげる、1909年4月1日 - 1994年7月18日)は、日本の経営者。 和歌山県和歌山市出身。1927年に海草中学校を卒業し、同年に南海鉄道(南海電気鉄道の前身)に入社し、1959年6月に総務部長に就任した。その一方で、1964年10月から1974年10月までに南海ホークス球団社長を務め、1972年にはパ・リーグ理事長に就任した。 1994年7月18日、急性肺炎のために堺市の病院で死去。85歳没。
安井 琢磨(やすい たくま、1909年4月1日 - 1995… 安井 琢磨(やすい たくま、1909年4月1日 - 1995年12月17日)は、日本の経済学者、大阪大学名誉教授、東北大学名誉教授。経済学博士(1953年)。大阪府大阪市生まれ。
檜山 義夫(桧山 義夫、ひやま よしお、1909年(明治42… 檜山 義夫(桧山 義夫、ひやま よしお、1909年(明治42年)4月1日 - 1988年(昭和63年)7月21日)は、日本の水産学者。 東京出身。父は檜山鉄三郎、祖父は檜山金平。東京帝国大学農学部卒。1948年(昭和23年)「硬骨魚の新生殖法」で東大農学博士。1949年(昭和24年)東大農学部教授。1969年(昭和44年)定年退官、名誉教授。魚類生態学、漁業学、水産資源学。核実験による水産生物の放射能汚染を調査した。釣りや外国旅行に関する著作、子供向けの著作もある。 1951年(昭和26年)4月6日には、皇居に招かれ科学委員会合に出席。昭和天皇及び出席した委員を前に水産学概論、漁労論を進講する。
鈴木 英(すずき すぐる、1908年(明治41年) 4月1日… 鈴木 英(すずき すぐる、1908年(明治41年) 4月1日 - 1985年(昭和60年)9月18日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。太平洋戦争において軍令部作戦課員などを務め、戦後は海上自衛隊に入隊。最終階級は日本海軍では海軍中佐、海自では海将。父は鈴木孝雄陸軍大将で、その次男。妻は岡田啓介首相の娘、喜美子。枢密院議長や内閣総理大臣を歴任した鈴木貫太郎海軍大将は伯父(父の長兄)。 千葉県出身。東京府立四中を経て海軍兵学校に入校(第55期)。席次4番、恩賜組で卒業した。同期生に藤村義一、寺内正道、のちに義兄となる岡田貞外茂がいる。鈴木は搭乗員であり専門は飛行艇であった。中尉に進級後の1930年(昭和5年)12月、第21期飛行学生を命ぜられ、首席で修了。
亀井 文夫(かめい ふみお、1908年4月1日 - 1987… 亀井 文夫(かめい ふみお、1908年4月1日 - 1987年2月27日)は、日本の映画監督。 福島県原町(現・南相馬市)生まれ、幼少時に仙台市門前町に転居し、南材木町尋常小学校(現・仙台市立南材木町小学校)に通う。早稲田中学校卒業。 1928年 - 文化学院大学部を中退後、ソビエト美術を学ぶため1929年にソビエトへ渡る。ソビエトで見た映画に感動し、映画の道を志し、レニングラード映画技術専門学校の聴講生になったのが映画監督になるきっかけ。 特に記録映画の分野で活躍し、社会派の記録映画とともに、自然科学分野の記録映画、企業映画などもつくった。日中戦争では反戦的ともみえる映画を撮ったことで上映禁止処分や治安維持法違反で逮捕・投獄を受ける要因となり、戦後は日本の帝国主義侵略を告発した映画がときの権力層の何らかの忌諱に触れ、GHQから上映禁止処分を受ける要因となっている。
許 世賢(シュー・シーシェン、きょ せけん、1908年4月1… 許 世賢(シュー・シーシェン、きょ せけん、1908年4月1日 – 1983年6月30日)は台湾の政治家・医師である。台湾で初めて博士号を取得した女性であり、台湾で最初の女性市長、女性市議会議員、女性高等学校長でもある。また、日本で3人目の女性医師である。 1908年4月1日に台南庁(現台南市)で生まれた。父親の許煥章は、清王朝の学者を務めた。日本統治時代の台湾に生まれた世賢は、幼い頃から植民地主義に反対した。 台南州立高等女学校(現国立台南女子高級中学)を経て、東京女子医科大学に入学した。学生時代は、天皇誕生日を認めることを拒否し、泉漳語を話す人を擁護した。卒業後、台湾に戻り、台南州立台南病院に就職した。
野田 忠二郎(のだ ちゅうじろう、1908年4月1日 - 1… 野田 忠二郎(のだ ちゅうじろう、1908年4月1日 - 1992年11月10日)は、日本の鉄道実業家、工学博士。阪神電気鉄道社長を務めた。大阪府大阪市出身。 1908年(明治41年)大阪府生まれ。大阪高等学校 (旧制)を卒業後、京都帝国大学工学部電気工学科に入学し、1930年(昭和5年)に同校を卒業、同年に阪神電気鉄道に入社した。 技術者として、大型新造車の投入、ジェット・カーの開発などの車両の近代化を進めた。1952年5月に取締役に就任し、1957年5月に常務、1965年1月に専務、1967年11月に副社長を経て、1968年(昭和44年)1月12日に社長に就任し、輸送の近代化と乗客サービスの向上に取り組んだ。
松村 克己(まつむら かつみ、1908年〈明治41年〉4月1… 松村 克己(まつむら かつみ、1908年〈明治41年〉4月1日 - 1991年〈平成3年〉2月18日)は、日本の神学者(神学博士)。関西学院大学名誉教授。 1908年、東京生まれ。第三高等学校を経て、京都帝国大学哲学科に進学。1933年に卒業し、同大学大学院に進んだ。1937年に京都帝国大学講師に採用され、1942年に助教授昇格。 太平洋戦争終結後、戦時中の言動を元に京都大学文学部・教職員適格審査委員会による公職追放の対象となり、1946年に辞職。1950年、日本基督教団の正教師の按手を受ける。 1951年、関西学院大学文学部教授に就任。翌1952年の神学部復興とともに神学部教授、1954年に関西学院宗教総主事となり、1962年に神学部長に就任。
真崎 秀樹(まさき ひでき、1908年〈明治41年〉4月1日… 真崎 秀樹(まさき ひでき、1908年〈明治41年〉4月1日 - 2001年〈平成13年〉11月14日)は、日本の外交官。1959年から1964年までと1969年から1989年まで宮内庁で昭和天皇の通訳を務めた。 陸軍大将の真崎甚三郎は父。貴族院議員の長谷川赳夫は妻の父。 佐賀県出身。東京府立第四中学校、一高を経て、1931年に東京帝国大学法学部卒業。1934年に外務省情報部嘱託。1939年に外務省翻訳官。1940年に大使館二等通訳官・中華民国・上海駐在。1941年にアメリカ在勤。1942年1月に中華民国在勤、上海駐在、9月に一等通訳官、10月に帰国。1943年5月に陸軍通訳官・比島軍政監部付、10月に大使館三等書記官を歴任。
犬養 孝(いぬかい たかし、1907年〈明治40年〉4月1日… 犬養 孝(いぬかい たかし、1907年〈明治40年〉4月1日 - 1998年〈平成10年〉10月3日)は、日本文学者(万葉学者)。大阪大学名誉教授、甲南女子大学名誉教授。文化功労者。高岡市万葉歴史館名誉館長。 1907年、下谷区谷中清水町一番地(現・東京都台東区池之端3-1)に生まれた。1929年、第五高等学校文科甲類を卒業。東京帝国大学文学部国文学科に進み、1932年に卒業した。 卒業後は、神奈川県立横浜第一中学校教諭となる。1942年、台北高等学校教授に任じられる。高等学校では国文学を教え、東京帝国大学文学部卒業後、台北高校で教鞭を執り、辜寛敏や竹内昭太郎の担任を務めた。終戦後は大阪大学で教授として教えた。
藤田 真照(ふじた しんしょう、1907年(明治40年)4月… 藤田 真照(ふじた しんしょう、1907年(明治40年)4月1日 - 1966年(昭和41年)1月6日)は、日本の宗教家。天光教教祖。愛媛県四国中央市出身。本名は照見。 愛媛県宇摩郡土居町(現:四国中央市)で農家の三男として生まれた。1928年(昭和3年)京都帝国大学法学部を卒業後、外交官試験に合格して外務省に入り、上海領事館、漢口領事館に勤務した後、1935年(昭和10年)に退官、その後は満洲にて事業を営んだ。 19歳のときに大祖神からの神示を受けたとし、1938年(昭和13年)に「道照明神」の神号を名乗った。1948年(昭和23年)に東京都大田区大森で信修会教団を設立。1958年(昭和33年)に天光教と改称し、本部が大阪市天王寺区堂ヶ芝へ移る。
内田 静馬(うちだ しずま、1906年4月1日 - 2000… 内田 静馬(うちだ しずま、1906年4月1日 - 2000年4月29日)は、日本の版画家。 埼玉県生まれ。1924年埼玉県立川越中学校を卒業し、東京高等工芸学校木材工藝科に進学。1927年に同校を卒業。1928年、第6回春陽会展で作品が入選し、版画家としてデビューする。1930年には新潟県立高田商工学校に木工教諭として赴任し、教師をしながら創作活動を続け、1932年には日本版画協会会員となる。1939年8月には下関市立下関商工学校教諭に転任するが、戦況が厳しくなると1945年1月には郷里に戻り、埼玉県工芸指導所長に任じられ、1948年まで埼玉県庁職員として勤めた。その後、1968年から1976年まで郷里の桶川町の川田谷地区の公民館長を勤めながら、1970年代には版画教室を催したり、木版画の制作方法を表した著作を公刊するなど、版画普及活動も行った。
小松 芳喬(こまつ よしたか、1906年4月1日 - 200… 小松 芳喬(こまつ よしたか、1906年4月1日 - 2000年2月7日)は、日本の経済学者、社会経済史学者。1960年社会経済史学会代表理事。1983年日本学士院会員。1979年日経・経済図書文化賞。 東京市神田生まれ。第一早稲田高等学院を経て、1928年早稲田大学政治経済学部卒業、同大学院進学。1960年経済学博士の学位を取得。 1933年早稲田大学政治経済学部助手、1934年同大学講師。東京外国語学校での語学習得や1937年から1939年までロンドン大学留学。1939年早稲田大学助教授、1942年に教授となった。
松井 義男(まつい よしお、1906年4月1日 - 1983… 松井 義男(まつい よしお、1906年4月1日 - 1983年2月26日)は、広島県呉市出身の技術者、実業家。ダイワ精工創業者。 1923年山陽中学校卒。広島でカメラ店を経営するが上京し1953年、カメラの距離計の製造を主とする「松井製作所」を創業。1955年からは釣り具のリールの製造を開始、釣り用品の需要増大に伴い、リールを本格的に生産するため1958年、東京都中野区に資本金200万円で「大和精工」を設立した。さらにスポーツ用品の製造も開始。1960年、リール生産工場を東京都東久留米市前沢に新設、1962年本社もここへ移転した。 1964年、グラスロッド(ガラス繊維強化プラスチック製の釣り竿)の生産工場を新設、1965年にはオリジナル仕様のダイワブランド・リールを開発、販売を開始した。
福山 敏男(ふくやま としお、1905年4月1日 - 199… 福山 敏男(ふくやま としお、1905年4月1日 - 1995年5月20日)は、日本の建築史家。京都大学名誉教授。 1905年、福岡県山門郡城内村(現柳川市)で生まれた。第五高等学校を経て、京都帝国大学工学部建築学科に進学。1927年に卒業。 修了後は、内務省造神宮使庁嘱託に採用された。1939年、京都帝国大学から工学博士の学位を取得。1942年、文部技師に昇格として宗教局に勤務。のち教化局総務課勤務を経て、1943年11月1日付けで教学局文化課勤務。 1947年より東京国立博物館附属美術研究所(東京国立文化財研究所)に勤務。1951年より同所資料部長、1954年より同所美術部長。1959年、京都大学教授に転じた。
磯部 浅一(いそべ あさいち、1905年(明治38年)4月1… 磯部 浅一(いそべ あさいち、1905年(明治38年)4月1日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、日本の陸軍軍人、皇道派青年将校。 陸軍幼年学校、陸軍士官学校(38期)を経て陸軍歩兵将校となるが、中尉の時に経理部に転科した。陸軍一等主計の時に、陸軍士官学校事件により停職、「粛軍に関する意見書」配布により免官となった。二・二六事件において決起将校らと行動を共にし、軍法会議で死刑判決を受けて刑死した。 1905年(明治38年)4月1日、山口県大津郡菱海村(現長門市)河原に農業兼左官磯部仁三郎の三男として生まれる。 高等小学校、広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1926年(大正15年)7月に陸軍士官学校(38期)を卒業する。
宮澤 清六(みやざわ せいろく、新字体:宮沢 清六、1904… 宮澤 清六(みやざわ せいろく、新字体:宮沢 清六、1904年(明治37年)4月1日 - 2001年(平成13年)6月12日)は、日本の実業家、児童文学研究者。宮沢賢治と宮沢トシの実弟で、全集の編纂をはじめとする賢治の文学研究に携わった。宮沢和樹は孫。 宮澤政次郎の次男として岩手県稗貫郡花巻川口町(現・花巻市)に生まれ育つ(賢治の8歳年下)。 1922年、旧制岩手県立盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)を卒業し、家業を手伝った。同年11月27日、6歳上の姉トシが死去。「家業への嫌悪」とトシ死去などの「暗欝な家庭からの脱出、息抜き」として家族の了解を得た上で、同年12月から東京市本郷区龍岡町(現・東京都文京区湯島)に下宿して、図書館や研数学館で数学(主として幾何学)と科学(主として電気)を学ぶ。
永田 広志(ながた ひろし、1904年4月1日 - 1947… 永田 広志(ながた ひろし、1904年4月1日 - 1947年9月7日)は日本の哲学者である。マルクス主義の立場から活動した。 長野県東筑摩郡山形村に生まれる。県立松本中学(後の長野県松本深志高等学校)に学び、小岩井源一(後の詩人、高橋玄一郎)と知り合う。中学時代から哲学に興味を持ち始める。卒業後、1921年に東京外国語学校露語部に入学。クロポトキンら、当時のソ連の哲学動向に関心を持つ。卒業後は一時朝鮮に渡り、国境近い新義州で流入するソ連文献を検閲する任務に当たる。 1927年、パーヴェル・アクセリロード『ブルジョア社会学の批判』を翻訳して刊行、海外文献の紹介、翻訳につとめる。1930年、川内唯彦のすすめでプロレタリア科学研究所に参加し、唯物弁証法の研究につとめる。
竹中 郁(たけなか いく、1904年4月1日 - 1982年… 竹中 郁(たけなか いく、1904年4月1日 - 1982年3月7日)は、日本の詩人。本名、育三郎。 兵庫県神戸市兵庫区出身。生家は裕福な問屋で、1歳の時紡績用品商の竹中家へ養子に出された。兵庫県立第二神戸中学校、関西学院大学文学部英文学科卒。画家の小磯良平は二中の同制作作品「彼の休息」は竹中がモデルをつとめている。小磯の弟子の石阪春生は竹中の甥。 中学時代より北原白秋に傾倒し、『近代風景』『詩と音楽』などの白秋主宰の雑誌で詩人としての履歴をスタートした。1924年に北川冬彦、安西冬衛らの「亜」のグループと交流をもち、モダニズムのスタイルの影響をうける。1925年、第1詩集『黄蜂と花粉』を発表する。
印南 博吉(いんなみ ひろきち、1903年4月1日 - 19… 印南 博吉(いんなみ ひろきち、1903年4月1日 - 1990年5月9日)は、経済学・保険学者。明治大学名誉教授、創価大学名誉教授。明治大学商学部長、全国生活協同組合連合会の初代理事長等を歴任。 栃木県出身。栃木県立大田原中学校(現・栃木県立大田原高等学校)卒、東京商科大学(現一橋大学)卒業。田中外次初代住友金属鉱山社長は志田鉀太郎ゼミの同期。1955年「保険本質論の再吟味」で明治大学より商学博士の学位を取得。明治大学商学部助教授、教授、学部長、1971年名誉教授、創価大学教授、1982年名誉教授。1982年から87年まで全国生活協同組合連合会の初代理事長を務め、一般の人が低額で加入できる生命共済事業を全国的に広めた。
若林 忠一(わかばやし ちゅういち、1903年(明治36年)… 若林 忠一(わかばやし ちゅういち、1903年(明治36年)4月1日 - 1977年(昭和52年)5月28日)は、日本の農民運動家、政治家。長野県更埴市長。 長野県埴科郡屋代町(現千曲市)生まれ。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)を中退し、独学で法政大学経済学部に進学し、在学中から社会主義運動に参加し、1924年(大正13年)中途退学して帰郷。 更級・埴科地方の自作・小作農民層の青年らを集めて「北信社会思想研究会」を立ち上げ、これに教員らが参加して、1925年(大正14年)政治研究会長野県評議会を組織し、幹事長となる。1926年(大正15年)労働農民党(労農党)に入党。1927年(昭和2年)屋代町に長野県小作組合連合会(日本農民組合長野県連合会)を組織し、その中心人物として県下の農民運動を主導した。
石原 幹市郎(いしはら かんいちろう、1903年4月1日 -… 石原 幹市郎(いしはら かんいちろう、1903年4月1日 - 1989年3月7日)は、日本の内務官僚。政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。 岡山県出身。参議院議員、初代自治大臣、福島県知事などの要職を歴任した。自由民主党所属。衆議院議員・参議院議員の石原健太郎は長男。福島県議会議員の石原信市郎、元衆議院議員の石原洋三郎は孫。栗本慎一郎の母方の親戚にあたる。 東京帝国大学卒業後、内務省に入省、警保局に配属され、静岡、北海道、神奈川、埼玉などで警察畑を歩む。 1936年に新潟県保険課長となり、1938年7月、内務省初代保険課長となる。国民健康保険法の法案作成に参画、施行とともに国保組合の設立を呼びかけ全国を回る。
ベルトラメリ 能子(ベルトラメリ よしこ、1903年4月1日… ベルトラメリ 能子(ベルトラメリ よしこ、1903年4月1日 - 1973年8月2日)は、日本の声楽家・ソプラノ歌手。旧姓は鐵(てつ)。 1903年(明治36年)4月1日に鉄信夫、こん夫妻の長女として生まれた。生家の鉄家は茨城県多賀郡大津町(現・北茨城市)で遠洋漁業と缶詰製造業を営む旧家であり、能子の祖父鉄伝七は茨城県議(2期)、第19代茨城県会議長を務めた。日露戦争後に鉄家は家業の水産業を東京の水産会社に譲渡し、一家で東京に移った。 8歳頃から東京で育つ。1917年(大正6年)4月に東京音楽学校(現東京芸術大学)乙種師範科に入学し、1918年(大正7年)3月に卒業。引き続き東京女子音楽園で学んだのち、高輪尋常小学校で教師をしながら矢野寿美子、山田耕筰、米国人女性バーカーに師事し、アドルフォ・サルコリにベルカント唱法を学んだ。
村山 リウ(むらやま りゅう、女性、1903年4月1日 - … 村山 リウ(むらやま りゅう、女性、1903年4月1日 - 1994年6月17日)は、日本の評論家。 香川県仲多度郡琴平町生まれ。1923年、日本女子大学校国文科卒、1930年、岡山医科大学副手の村山高と結婚、1936年頃から地域婦人活動を行う。新地に女子青年団が結成された際、団長に選ばれる。 その後、1943年から大阪に住み女子挺身隊関連の仕事で大阪府庁に勤める。 戦争で大阪の家を焼かれ、戦後、大阪市社会教育委員など各種婦人団体の役員をつとめ、新聞の身の上相談や社会時評などで、婦人問題評論家として活動。 『源氏物語』の研究を始めてその解き語りを、関西中心に始める。現代視点からのユニークな解説、講演から「村山源氏」として知られ、1959年にはテレビでその現代語訳の朗読を行った。
島田 末信(しまだ すえのぶ、1903年〈明治36年〉4月1… 島田 末信(しまだ すえのぶ、1903年〈明治36年〉4月1日 - 1958年〈昭和33年〉4月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 香川県出身。1926年法政大学専門部商科卒。讃岐公論社主筆、阿讃中央自動車、金剛産業(株)各代表取締役、坂出製氷、四国連鎖百貨各(株)取締役社長となる。香川県議会議員、香川県地方労働委員会委員を歴任する。1947年の第23回衆議院議員総選挙において香川2区から日本民主党公認で立候補して落選。1949年の第24回衆議院議員総選挙で当選した。国会では衆議院労働委員長を務めた。1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党から立候補したが落選した。1958年死去。
長谷川 晃一(はせがわ こういち、1903年(明治36年)4… 長谷川 晃一(はせがわ こういち、1903年(明治36年)4月1日 - 1967年(昭和42年)4月25日)は、早稲田大学政治経済学部教授、同学部教養諸学研究会評議員、早稲田大学世界連邦研究会会長、世界連邦建設同盟常任理事・国際部長。 1903年4月1日、長野県上田市に生まれる。 1920年5月、渡米しカリフォルニア州の商業高校に入学し、1923年6月に卒業する。同年9月、オハイオ州のマイアミ大学に入学する。1927年6月に卒業し、政治経済学でB.A.の学位を受ける。同年9月、シンシナティ大学大学院都市行政学科に入学する。1928年6月、修了しM.A.(修士)の学位を受ける。同年9月、コロンビア大学大学院の市政学科に入学する。
中津井 真(中津井 眞、なかつい まこと、1903年(明治3… 中津井 真(中津井 眞、なかつい まこと、1903年(明治36年)4月1日 - 1986年(昭和61年)9月29日)は、昭和期の政治家。参議院議員(2期)、広島県議会議長、大竹市名誉市民。 広島県比婆郡西城町(現庄原市)で生まれる。1920年(大正9年)広島教育養成所を中退した。 1947年(昭和22年)広島県議会議員に選出され5期在任し、この間、同議長も務めた。その他、自由民主党広島県連幹事長、広島県私立学校審議会会長などを歴任した。1964年(昭和39年)2月、大竹市文化会館建設費として10万円寄付により1966年(昭和41年)10月19日、紺綬褒章受章。 岩沢忠恭の死去に伴い、1966年(昭和41年)1月に実施された第6回参議院議員通常選挙広島県地方区補欠選挙に自民党公認で出馬して初当選し、1968年(昭和43年)7月の第8回通常選挙でも再選され、参議院議員に連続2期在任した。
横田 稔(よこた みのる、1903年(明治36年)4月1日 … 横田 稔(よこた みのる、1903年(明治36年)4月1日 - 1995年(平成7年)10月15日[要出典])は、日本の元海軍軍人で戦後、高校教師、宣教師になった人物。空母「サラトガ」、軽巡洋艦「ジュノー」を雷撃し、前者を3ヶ月間戦線離脱させ、後者を撃沈した「伊26」潜水艦長である。最終階級は海軍大佐。戦後は長谷川と改姓。高校教師として教鞭をとり、またキリスト教宣教師となった。 横田は岡山県出身で、海軍兵学校へ進み海兵51期として卒業した。席次は255名中60番。練習艦隊では「浅間」乗組みとなり、米村末喜艦長、安田義達指導官附らに実務訓練を受ける。「浅間」乗組み候補生には、戦後『海上護衛戦』を著す大井篤、最後の駐米武官補佐官実松譲などがいた。
福田 一(ふくだ はじめ、1902年〈明治35年〉4月1日 … 福田 一(ふくだ はじめ、1902年〈明治35年〉4月1日 - 1997年〈平成9年〉9月2日)は、日本の政治家、位階は従二位。 自由民主党所属の衆議院議員(14期)、衆議院議長(第62代)。自民党では大野派→福田グループに属した後に、無派閥となる。 福井県出身。東京府立三中(現在の東京都立両国高等学校)、旧制一高を経て、1927年東京帝国大学法学部仏法科卒業。同盟通信記者を経て衆議院議員に。通産大臣、自治大臣、法務大臣などを歴任した。通産大臣時代には小説「官僚たちの夏」に描かれた今井善衛と佐橋滋との間の事務次官人事抗争に介入し、存在感を見せ付けたこともある。 自治大臣在任中、1975年1月21日、参議院決算委員会で「私は市川(房枝)さんほど国民を尊敬していない」と述べたため、野党の反発を招き、発言の取り消しを要求された。
七代目 市川 壽美藏(いちかわ すみぞう、新字体:寿美蔵、1… 七代目 市川 壽美藏(いちかわ すみぞう、新字体:寿美蔵、1902年(明治35年)4月1日 - 1985年(昭和60年)3月7日)は上方の歌舞伎役者。屋号は升田屋、定紋は藤巴の中に桔梗紋、替紋は寿の字巴紋。本名は太田 光之助(おおた みつのすけ)。 東京本郷生まれ。二代目市川團九郎の子、祖父は五代目市川壽美蔵。六代目市川壽美蔵(三代目市川壽海)は叔父にあたる。初舞台は明治45年(1912年)5月東京座の『大和橋』で市川登美三郎を名乗って馬子。大正8年(1919年)二代目市川團次郎を襲名。大正13年(1924年)名題昇進。のち六代目壽美蔵とともに二代目市川左團次主催の自由劇場に参加する。 戦後昭和23年(1948年)関西歌舞伎に移籍。
井汲 卓一(いくみ たくいち、1901年4月1日 - 199… 井汲 卓一(いくみ たくいち、1901年4月1日 - 1995年7月25日)は、日本の経済学者、東京経済大学学長。 1901年、滋賀県で生まれた。旧制東京府立第一中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学医学部に進学。しかし東京帝国大学文学部に転学して卒業。 卒業後は、富山高等学校講師となり赴任。翌1925年に教授となったが、1927年に京大事件に連座したとして富山高等学校を辞職した。その後、同年中に日本大学講師となって、1929年まで在職した。 1928年9月、産業労働調査所の所員となった。1931年4月に検挙されたが保釈され、その後岩波書店における『日本資本主義発達史講座』の編集作業に参画し、羽仁五郎、大塚金之助と知り合った。
狩野 敏(かの びん、1901年(明治34年)4月1日 - … 狩野 敏(かの びん、1901年(明治34年)4月1日 - 1981年(昭和56年)10月8日)は、日本の右翼活動家。元拓殖大学理事長。狩野を「かのう」と読むものもある。 1919年(大正8年)、静岡県立静岡中学校卒業。1920年(大正9年)、拓殖大学入学。1922年(大正11年)10月、「魂の会」設立。1924年(大正13年)3月、拓殖大学支那語科卒業。同年、日本新聞入社。1925年(大正14年)、静岡市でカフェー経営(〜1930年(昭和5年)4月)。1925年(大正14年)、静岡聖刃社結成。 1930年(昭和5年)、大川周明の思想に共感し、行地社本部で専任事務、機関誌月刊「日本」の編集発行にあたり、その腹心的役割を果たす。
長部 謹吾(おさべ きんご、1901年4月1日 - 1991… 長部 謹吾(おさべ きんご、1901年4月1日 - 1991年12月8日)は、新潟県出身の検察官。最高検察庁次長検事、最高裁判所判事を務めた。小説家・黒井千次(本名・長部舜二郎)は次男。孫にフジテレビプロデューサーの長部聡介。 1925年(大正14年)3月に東京帝国大学法学部独法科を卒業。いったん日本興業銀行に入ったが「性に合わない」と2ヶ月で退職した。1926年(大正15年)4月に司法官試補、1927年(昭和2年)12月に検事となり、大審院検事などを務め、1951年(昭和26年)2月に長野地検検事正となる。 その後、東京高検次席検事となり、次いで最高裁検事、高松・広島両高検検事長を務める。東京高検次席検事は造船疑獄にぶつかったが胃潰瘍の手術のため病床にいて殆どタッチしなかった。
石神 甲子郎(いしがみ かしろう、1900年4月1日 - 1… 石神 甲子郎(いしがみ かしろう、1900年4月1日 - 1979年10月7日)は、日本の造園家。行政官として国立公園の指定や国定公園の制定、日本の自然保護において尽力した。日本山岳会会員。静岡県出身。
有賀 鉄太郎(ありが てつたろう、1899年4月1日 - 1… 有賀 鉄太郎(ありが てつたろう、1899年4月1日 - 1977年5月25日)は、日本のプロテスタント神学者、教会史・教理史学者。 1899年、大阪府で生まれ、東京で育った。東京府立一中で学び、在学中の1917年に日本基督同胞教会原宿教会で受洗。一中を卒業後は同志社大学神学部に入学。卒業論文はシュライアマハーの宗教本質論に関するものであった。卒業後、1922年から1925年までニューヨークのユニオン神学校に留学し、修士号を取得。修士論文のテーマはトレルチの宗教本質論であった。 1925年に帰国し、翌1926年に同志社大学文学部神学科の講師に就任。1930年、文学部神学科教授に昇格。1931年より中国燕京大学客員教授。
城 英一郎(じょう えいいちろう、1899年(明治32年)4… 城 英一郎(じょう えいいちろう、1899年(明治32年)4月1日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。海兵47期。最終階級は海軍少将。 1899年(明治32年)4月1日、熊本県熊本市東坪井町26番地に蚕糸業を営む城喜又と梅の4人兄弟姉妹の長男として生まれる。県立熊本中学校を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第31期)を受験し、双方に合格している。1916年(大正5年)8月31日、海軍兵学校47期に151名中28位の成績で入校。1919年(大正8年)10月9日、海軍兵学校を成績順位115名中第28位で卒業、海軍少尉候補生となる。 1923年(大正12年)12月1日海軍大尉進級。
福井 孝治(ふくい こうじ、1899年4月1日 - 1977… 福井 孝治(ふくい こうじ、1899年4月1日 - 1977年3月13日)は日本の経済学者・社会科学者。大阪経済大学、旧制大阪商科大学、大阪市立大学の学長を歴任。学位は経済学博士(大阪商科大学)。大阪市立大学名誉教授。 愛知県出身。第八高等学校を経て1922年京都帝国大学経済科卒、同大学院に進学、河上肇に師事した。1925年、福島高等商業学校(現・福島大学経済学部)教授。1929年に旧制大阪商科大学助教授に就任し1933年教授、経済学原論やドイツ語を講じた。戦後は学制改革に伴い1949年に大阪商科大などを母体に発足した大阪市立大学経済学部教授。翌1950年からは前年に急逝した黒正巌に代わり大阪経済大学の学長(第2代)も務めた(-1960年)。
深見 義一(ふかみ ぎいち、1899年4月1日 - 1972… 深見 義一(ふかみ ぎいち、1899年4月1日 - 1972年12月7日)は日本の経営学者、商業学者。一橋大学名誉教授。 マーケティング、小売政策、通信販売、切符制度研究等の先駆者とされる。 第1回日本商業学会賞受賞。元社団法人流通問題研究協会会長。 東京商科大学(現一橋大学)附属商学専門部卒業後、名古屋高等商業学校(現在の名古屋大学大学院経済学研究科・経済学部)で教鞭をとったのち、東京商科大本科に入学し、1929年に同大学学部卒業。首席卒業生総代。同期に高橋泰蔵一橋大学名誉教授がいる。 大学で内池廉吉に師事し、内池の「市場論」を継ぐ。語学に堪能で、英語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシャ語に通じ、大学を卒業した1929年から1935年までアメリカ合衆国、ドイツ、イタリアに留学した。
岩田 義道(いわた よしみち、1898年(明治31年)4月1… 岩田 義道(いわた よしみち、1898年(明治31年)4月1日 - 1932年(昭和7年)11月3日)は、日本の労働運動家、社会運動家、政治活動家。戦前期の非合法政党時代の日本共産党幹部であった。愛知県葉栗郡北方村(現・一宮市)出身。 松山高等学校を卒業。京都帝国大学経済学部に入学し、河上肇に師事する。だが在学中に京都学連事件に連座して逮捕され、禁錮10か月の判決を受けたため中退した。産業労働調査所で活動し、1927年(昭和2年)には日本共産党(第二次共産党)に入党する。「非常時共産党」時代には党中央委員に選出され、宣伝煽動部(アジプロ)、農民部で部長を務めたほか、活版印刷による『赤旗』の発行を指導した。
我妻 榮(わがつま さかえ、1897年〈明治30年〉4月1日… 我妻 榮(わがつま さかえ、1897年〈明治30年〉4月1日 - 1973年〈昭和48年〉10月21日)は、日本の法学者。専門は民法。学位は法学博士(東京大学)、東京大学名誉教授、米沢市名誉市民。文化勲章、贈従二位(没時叙位)・贈勲一等旭日大綬章(没時叙勲)。憲法改正に伴う家族法大改正の立案担当者の一人。鳩山秀夫に師事。弟子に有泉亨、川島武宜、四宮和夫、幾代通、加藤一郎、鈴木録彌、星野英一、西原道雄など。 山形県米沢市出身。英語教師の父・又次郎と家計のたしにするため、自宅で中学生相手に国・漢・数学を教えた母・つるの長男として生まれる。5人の子における唯一の息子であったため、父母を安心させなければという気持ちから一心に勉強に励んだ。
中村 琢二(なかむら たくじ、1897年4月1日 - 198… 中村 琢二(なかむら たくじ、1897年4月1日 - 1988年1月31日)は、日本の洋画家である。日本芸術院会員。 鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の二男として、当時啓二郎が勤務していた佐渡金山があった新潟県佐渡郡相川町(現・佐渡市)に生まれる。洋画家の中村研一は実兄。1899年、愛媛県新居浜に移り、1906年より、福岡県の祖父母のもとで育つ。旧制東筑中学(現福岡県立東筑高等学校)入学後、福岡県立中学修猷館に転校。在学中に兄・研一や児島善三郎らが創立した絵画同好会「パレット会」に参加して、西洋絵画を勉強している。1916年、父の跡を継ぐべく第五高等学校理科に進むが、健康上の理由で中退し、第六高等学校英法科に入学して、1924年、東京帝国大学経済学部を卒業する。
我妻 榮(わがつま さかえ、1897年〈明治30年〉4月1日… 我妻 榮(わがつま さかえ、1897年〈明治30年〉4月1日 - 1973年〈昭和48年〉10月21日)は、日本の法学者。専門は民法。学位は法学博士(東京大学)、東京大学名誉教授、米沢市名誉市民。文化勲章、贈従二位(没時叙位)・贈勲一等旭日大綬章(没時叙勲)。憲法改正に伴う家族法大改正の立案担当者の一人。鳩山秀夫に師事。弟子に有泉亨、川島武宜、四宮和夫、幾代通、加藤一郎、鈴木録彌、星野英一、西原道雄など。 山形県米沢市出身。英語教師の父・又次郎と家計のたしにするため、自宅で中学生相手に国・漢・数学を教えた母・つるの長男として生まれる。5人の子における唯一の息子であったため、父母を安心させなければという気持ちから一心に勉強に励んだ。
生越 三郎(おごし さぶろう、1897年(明治30年)4月1… 生越 三郎(おごし さぶろう、1897年(明治30年)4月1日 - 1969年(昭和44年)12月2日)は、大正から昭和期の技術者、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 島根県那賀郡、現在の浜田市で生まれる。1919年(大正8年)大阪工業専門学校機械科を卒業。 三菱造船に技師として入社した。1935年(昭和10年)に日本機械車両工業を設立し社長に就任。その他、東京大同商会代表社員、日本電気漂白専務取締役、三星工業取締役社長、日本化機工業取締役などを務めた。 1940年(昭和15年)財団法人石見工業専修学校を設立し理事長に就任。同校は石見工業学校、益田商工高等学校を経て益田工業高等学校(現益田東高等学校)となり各理事長を務めた。