井桁 敬治(いげた けいじ、1894年7月13日 - 194… 井桁 敬治(いげた けいじ、1894年7月13日 - 1944年7月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
7月13日生まれ:324人
井桁 敬治(いげた けいじ、1894年7月13日 - 194… 井桁 敬治(いげた けいじ、1894年7月13日 - 1944年7月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
中野 登美雄(なかの とみお、1891年(明治24年)7月1… 中野 登美雄(なかの とみお、1891年(明治24年)7月13日 - 1948年(昭和23年)5月21日)は、日本の法学者、早稲田大学第5代総長、立教大学元教授。専門は公法学。 1891年7月13日、北海道札幌市に遠藤俊の五男として生まれ、後に中野家の養子となる。 1913年6月、早稲田大学高等予科を、1916年6月、早稲田大学大学部政治経済科を卒業し、同年9月、早稲田大学研究科に入学する。副島義一、中村進午の下で国法学、国際法学を専攻する。 1918年9月、アメリカ合衆国に留学し、シカゴ大学で語学研修等を受けた後、1919年10月から1922年6月までジョンズ・ホプキンズ大学に在学し、ウェステル・ウィロビー(英語: Westel W. Willoughby)の下で政治学、公法学を学ぶ。
兪 万兼(ゆ まんけん、ユ・マンギョム、朝鮮語: 유만겸、1… 兪 万兼(ゆ まんけん、ユ・マンギョム、朝鮮語: 유만겸、1889年(高宗26年 / 明治22年)7月13日 - 1944年(昭和19年)12月13日)は、大正から昭和にかけての朝鮮総督府官僚。位階は正四位、勲位は勲三等。 1889年に兪吉濬の長男として漢城府で生まれた。培才学堂、興化学校を卒業し、日本に留学。1913年(大正2年)に岡山県の旧制第六高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部経済科に入学。1917年(大正6年)に卒業。大学院に進んだが、1918年(大正7年)に朝鮮に帰り、朝鮮総督府に奉職する。1920年(大正9年)に聞慶郡守に昇進し、1921年(大正10年)に慶尚北道庶務課長、1922年(大正11年)に同道社会課長などを歴任した。
倉永 辰治(くらなが ときはる、1888年(明治21年)7月… 倉永 辰治(くらなが ときはる、1888年(明治21年)7月13日 - 1937年(昭和12年)8月29日)は、大正・昭和初期の軍人。佐賀郡東与賀町(現佐賀市東与賀町)出身。最終階級は陸軍少将(戦死特進)。 1888年、東与賀村立野で、元佐賀藩士の袋武辰の次男として生まれる。兄は戦後酪農の振興や旧佐賀競馬場の開設に尽力した袋正美。与賀高等小学校から佐賀中学校、さらに陸軍士官学校(陸士23期)、陸軍大学校(陸大34期)に進んだ。なお陸軍中尉時代に父の実家である藩の元馬術指南倉永勝太郎の跡を継いで倉永姓となっている。 陸大卒業後、第59連隊中隊長、第20師団、第11師団参謀、陸軍歩兵学校教官を経て、1935年(昭和10年)歩兵大佐に昇任。
川本 宇之介(かわもと うのすけ、1888年(明治21年)7… 川本 宇之介(かわもと うのすけ、1888年(明治21年)7月13日 - 1960年(昭和35年)3月15日)は大正時代から昭和時代にかけての日本の教育者。 東京市および文部省の職員を経て東京聾唖学校(筑波大学附属聴覚特別支援学校の前身)、東京盲学校(筑波大学附属視覚特別支援学校の前身)両校の教諭となり、のち東京聾唖学校長、国立ろう教育学校長兼附属ろう学校長、東京教育大学国府台分校主事を歴任した。昭和初期のろう教育において、手話を否定し純粋口話法による教育を推進した人物のひとりである(同じ時期に口話法を推進した人物として、西川吉之助、橋村徳一らがいる)。また、近代日本での教育として、「教育の社会化と社会の教育化」論を展開した。
小絲 源太郎(こいと げんたろう、新字体:小糸 源太郎、18… 小絲 源太郎(こいと げんたろう、新字体:小糸 源太郎、1887年〈明治20年〉7月13日 - 1978年〈昭和53年〉2月6日)は、洋画家、版画家。東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)生まれ。 小絲源四郎、はなの長男として生まれる。生家は東京市下谷区上野元黒門町20番地(現在の東京都台東区)にあった料理屋で、「揚出し」の名で知られた。1904年(明治37年)に東京の神田中学校を卒業、白馬会の展覧会で藤島武二の「蝶」を見て感動、画家を志す。翌春、藤島の指導する白馬会駒込研究所に入り、デッサンを学ぶ。 1911年(明治42年)に東京美術学校金工科卒業、同年西洋画科に転入するが中退。在学中の1910年(明治43年)、文展に入選。
内藤 智秀(ないとう ちしゅう、1886年(明治19年)7月… 内藤 智秀(ないとう ちしゅう、1886年(明治19年)7月13日 - 1984年(昭和59年)7月24日)は、日本の西洋史学者。文学博士。庄内町名誉町民。パキスタン協会副会長。 1886年(明治19年)7月13日、山形県東田川郡余目町古関(現・庄内町)の寺院・玄通寺に生まれる。荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)卒業、第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)を経て、1912年(明治45年)7月10日、東京帝国大学文学部西洋史学科を卒業。 卒業後は、鹿児島県の中学校教員、東京大学図書館司書、山形高等学校(現・山形大学)教授を経て、外務省に入省。トルコ、イラン、アラビアなどで勤務しつつ、中東文化を研究した。
小柳 牧衛(小柳 牧衞、こやなぎ まきえ、1884年7月13… 小柳 牧衛(小柳 牧衞、こやなぎ まきえ、1884年7月13日 - 1981年12月21日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、新潟市長、衆議院議員、参議院議員。幼名は畋之助。 新潟県北蒲原郡川東村大字上楠川(現:新発田市)に生まれる。新発田中学、第一高等学校を経て、1909年に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1910年、内務省に入り北海道属となり、1913年、北海道庁理事官に就任。 その後、青島守備軍民政部事務官、臨時震災救護事務局事務官兼総務課長、青森県内務部長、山口県書記官・内務部長、神奈川県書記官・内務部長などを歴任。1926年9月、青森県知事に就任。
畑山 四男美(はたやま しおみ、1884年〈明治17年〉7月… 畑山 四男美(はたやま しおみ、1884年〈明治17年〉7月13日 - 1971年〈昭和46年〉8月8日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。県知事、福岡市長。位階は正四位。勲等は勲三等。 高知県安芸郡羽根村(現室戸市羽根町)で、畑山亀喜代、岩の四男として生まれる。第四高等学校を経て、1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1916年(大正5年)、内務省に入り宮城県属となる。 以後、宮城県亘理郡長、佐賀県・岩手県・長野県の各理事官、岐阜県書記官、熊本県書記官・学務部長、鹿児島県書記官・警察部長、同内務部長、大分県書記官・内務部長、北海道庁部長・土木部長などを歴任。
青木 繁(あおき しげる、1882年(明治15年)7月13日… 青木 繁(あおき しげる、1882年(明治15年)7月13日 - 1911年(明治44年)3月25日)は日本の洋画家。
加勢 清雄(かせい きよお / かせ きよお、1882年〈明… 加勢 清雄(かせい きよお / かせ きよお、1882年〈明治15年〉7月13日 - 1971年〈昭和46年〉11月24日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。政友会系官選県知事。 現在の山形県米沢市出身。加勢清隆の二男、あるいは三男。第一高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1911年、内務省に入省し秋田県警視となる。 以後、秋田県事務官、新潟県事務官、埼玉県警察部長、新潟県警察部長、愛知県内務部長、福岡県書記官・内務部長、北海道庁土木部長などを歴任。 1926年9月、宮崎県知事に就任。日向カボチャの宣伝を行った。1927年5月、高知県知事に転任。
梅崎 延太郎(うめざき のぶたろう、1880年(明治13年)… 梅崎 延太郎(うめざき のぶたろう、1880年(明治13年)7月13日 - 1964年(昭和39年)4月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。陸軍士官学校12期、陸軍大学校22期。最終階級は陸軍中将(1931年8月1日)。栄典は従三位勲一等。 1880年(明治13年)7月13日、士族の梅崎信量の長男として生まれる。1916年(大正5年)家督を相続。 1901年(明治34年)陸軍士官学校を卒業し、陸軍少尉に任官する。 それからドイツ、スウェーデンなどに留学し、スウェーデン公使館、デンマーク公使館附武官を勤め、1920年(大正9年)9月27日、騎兵第18連隊長、1928年(昭和3年)3月8日陸軍騎兵学校長、1929年(昭和4年)8月1日騎兵第1旅団長、1930年(昭和5年)12月22日、軍馬補充本部長などを歴任する。
馬場 恒吾(ばば つねご、1875年7月13日 - 1956… 馬場 恒吾(ばば つねご、1875年7月13日 - 1956年4月5日)は、日本のジャーナリスト・政治評論家・実業家。ジャパンタイムズや国民新聞などで自由主義擁護の論陣を張る。第二次大戦後、読売新聞社社長。 岡山県邑久郡長浜村奥浦(現・瀬戸内市牛窓町)に、代々庄屋を務めた馬場家の長男として生まれる。1892年、京都の第三高等学校予科に入学。1895年、三高予科を修了し、仙台の第二高等学校入学。東北学院で押川方義が行っていた聖書の講義に通い、メソジストとして洗礼を受ける。1896年、二高中退。1897年、安部磯雄を追って同志社神学校(現・同志社大学神学部)に入学するが、葛藤の末キリスト教と決別し、一年弱で中退。
堀 榮助(ほり えいすけ、1871年7月13日(明治4年5月… 堀 榮助(ほり えいすけ、1871年7月13日(明治4年5月26日) - 1940年(昭和15年)7月19日)は、日本の地主、神奈川県多額納税者、資産家。族籍は神奈川県平民。前名・三郎。 神奈川県横浜市出身。先代榮助の長男。1892年、東京専門学校(現早稲田大学)邦語政治科卒業。同期卒業生46人中第4位であった。1902年、父が病没したため家督を相続し、三郎を改め襲名した。 貸地業を営んだ。北海道、朝鮮に土地を有し、多額納税者であった。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。 宗教は日蓮宗。趣味は読書、俳句。住所は神奈川県横浜市中区英町、同市神奈川区浅間町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
湯川 寛吉(ゆかわ かんきち、慶応4年5月24日(1868年… 湯川 寛吉(ゆかわ かんきち、慶応4年5月24日(1868年7月13日) - 昭和6年(1931年)8月23日)は、第5代住友総理事である。 慶応4年(1868年)5月24日、紀伊国東牟婁郡新宮町841番地(現和歌山県新宮市千穂1丁目)で紀伊新宮藩の藩医湯川寛斎と八重の長男として生まれた。新宮小学校を卒業後、和歌山中学校へ入学したが中退し、東京ドイツ協会学校に在籍した。明治15年(1882年)東京大学予備門に入学して医科大学へ進む予定であったが、独法科が設置された法科大学に転学し、明治23年(1890年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。 同年逓信省に入り、明治27年(1894年)日清戦争の野戦高等郵便局長として戦地で活躍、明治28年(1895年)東京郵便電信学校の校長となる。
平野 鍋吉(ひらの なべきち、1868年7月13日(明治元年… 平野 鍋吉(ひらの なべきち、1868年7月13日(明治元年5月24日) - 1932年(昭和7年)12月31日)は、日本の政治家、実業家。徳島県吉野川市出身。徳島県立徳島中学校卒業。 麻植郡山川町瀬詰(現在の吉野川市)で生まれる。実家は代々酒造業、藍商を営んでいる。 後に鉱山業に転じ海部郡の浅川鉱山で成功し、後に三菱鉱業に譲渡した。 徳島県会議員を経て1930年(昭和5年)に第17回衆議院議員総選挙に当選。その後、貴族院議員に立候補をしたが、病のため辞退した。 1932年(昭和7年)、65歳で没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
上野 勘助(うえの かんすけ、1866年7月13日(慶応2年… 上野 勘助(うえの かんすけ、1866年7月13日(慶応2年6月2日) – 1914年(大正3年)1月20日)は、明治から大正初期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 紀伊国那賀郡、のちの和歌山県那賀郡上岩出村(岩出町を経て現岩出市)で、大庄屋を務める家に生まれた。1887年(明治20年)慶應義塾別科を卒業し、1898年(明治31年)東京法学院(現中央大学)を卒業した。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙で和歌山県第2区から自由党所属で出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。 その後、北海道開拓を志し、幌向原野(現岩見沢市)に入植して農場を営んだ。1910年(明治43年)と1913年(大正2年)に空知支庁管内から北海道会議員に選出された。
本田 親済(親濟、ほんだ ちかなり、1864年7月13日(元… 本田 親済(親濟、ほんだ ちかなり、1864年7月13日(元治元年6月10日)- 1922年(大正11年)1月14日)は、明治から大正期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。幼名・大吉。位階は正四位。勲等は勲四等。 薩摩藩士・本田親雄の二男として生まれる。1898年(明治31年)12月、親済と改名。父の死去に伴い、1909年(明治42年)3月25日、男爵を襲爵した。 札幌農学校、帝国大学法科大学を修了。イギリスに留学して、1890年(明治23年)英国ニューポート大学を卒業。 帰国後、食塩 (株) 社員、駅逓 (株) 社員、芝銀行取締役、鴻池銀行東京支店副長、宮内省式部官、逓信大臣秘書官代理などを務めた。
楠目 玄(くずめ / くすめ げん、1862年7月13日(文… 楠目 玄(くずめ / くすめ げん、1862年7月13日(文久2年6月17日)- 1938年(昭和13年)1月7日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、自由民権運動家。衆議院議員、高知県香美郡大楠植村長。初名・馬太郎。 土佐国香美郡楠目村(高知県香美郡大楠植村大字楠目、土佐山田町を経て現香美市土佐山田町楠目)で、楠目久米作、兼の長男として生まれる。小学校、旧制中学校を卒業。農業を営む。 1882年(明治15年)から自由民権運動に加わり、1887年(明治20年)政談演説会弁士として活動した。同年、香美郡63カ村総代として三大事件建白運動で上京し、保安条例違反として退去命令を受けたが拒否したため投獄された。
山崎 直胤(やまさき / やまざき なおたね、1852年7月… 山崎 直胤(やまさき / やまざき なおたね、1852年7月13日〈嘉永5年5月26日〉 - 1918年〈大正7年〉2月4日)は、明治期の官僚。内務省初代県治局長、山梨県知事(官選第6代)、三重県知事(官選第4代)、宮内省調度局長、錦鶏間祗候。旧名・賢吾。 豊前国下毛郡諫早村(現大分県中津市三光諫早)出身。山崎直高の長男として生まれる。明治3年6月(1870年)、新政府に出仕し民部省十四等出仕となる。新設の工部省に移り、明治4年9月(1871年)、造船中師に任官。 明治5年2月(1872年)、産業技術調査のためフランスへ出張。ウィーン万国博覧会事務官も務めた。1875年1月に帰国。1877年1月、太政官少書記官となり、さらに同大書記官を務める。
各務 平七(かがみ へいしち、1849年7月13日(嘉永2年… 各務 平七(かがみ へいしち、1849年7月13日(嘉永2年5月24日) - 1916年(大正5年)11月16日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員。 美濃国土岐郡笠原村(岐阜県土岐郡笠原村、笠原町を経て現多治見市)に生まれる。岐阜県会議員を歴任した。 1902年(明治35年)8月の第7回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
大川 錠吉(おおかわ じょうきち、弘化3年6月9日(1845… 大川 錠吉(おおかわ じょうきち、弘化3年6月9日(1845年7月13日) - 大正15年(1926年)3月6日)は、明治時代から大正時代にかけての書籍商、出版者。聚栄堂と号し、のちに大川屋書店となる。 弘化3年(1846年)に武蔵国入間郡横沼村(埼玉県入間郡三芳野村を経て現坂戸市)に生まれた。幼時に父に従って江戸に出て、八代目朝倉屋久兵衛に奉公した後、慶応4年(1868年)8月に独立し、深川西町において貸本業を営んだ。明治2年(1869年)に浅草区三好町7番地に移った。貸本業を明治27~28年(1894~1895年)まで継続しながら、並行して書籍の出版・取次・販売業を開始する。大川の出版物のほとんどは求版と相版で、自ら出版したものはわずかしかない。
船越 衛(ふなこし まもる、天保11年6月15日(1840年… 船越 衛(ふなこし まもる、天保11年6月15日(1840年7月13日) - 大正2年(1913年)12月23日)は、広島藩出身の明治期の官僚・貴族院議員。男爵。父は広島藩の財務官僚として名高かった船越昌隆(八百十郎)。幼名は洋之助。号は松窓(松操、しょうそう)。子に船越光之丞、弟に加藤隆義がいる。
千本 久信(せんもと ひさのぶ、1827年7月13日(文政1… 千本 久信(せんもと ひさのぶ、1827年7月13日(文政10年6月20日) - 1885年(明治18年)10月15日)は、幕末の福井藩士、明治期の官僚・実業家。広島県権参事(未赴任)。初名・弥三郎。 越前国足羽郡福井下江戸町(現:福井県福井市)で、福井藩士・千本久備の長男として生まれる。天保2年4月5日(1831年5月16日)実父・久備の危篤に伴い、千本家は養父として小林久達(藤左衛門、東岫)を迎える。嘉永6年7月20日(1853年8月24日)江戸での砲術調練修行を命ぜられ、その後、兵科懸り、兵科局詰、兵科取調方などを務める。文久2年3月29日(1862年4月27日)書院番格として江戸詰となり、以後、松平春嶽の側近として活躍。