火野 葦平(ひの あしへい、1907年〈明治40年〉1月25… 火野 葦平(ひの あしへい、1907年〈明治40年〉1月25日 - 1960年〈昭和35年〉1月24日)は、日本の昭和戦前・戦後期の小説家。本名:玉井 勝則。 早くから文学を志し、早大在学中『街』の創刊に参加。労働運動に参加するも検挙され転向した。日中戦争応召中に『糞尿譚』が芥川賞を受賞。次いで『麦と兵隊』以下3部作が評判を呼んで、兵隊作家としてマスコミの寵児となった。そのため、戦後は戦犯作家として指弾される。その後、筆力を揮って再び活躍したが、睡眠薬を用いて自殺した。甥にアフガニスタンで亡くなった医師の中村哲、Jリーグ・ギラヴァンツ北九州を運営する株式会社ギラヴァンツ北九州取締役会長の玉井行人がいる。
阿部 甚吉(あべ じんきち、1907年1月25日 - 198… 阿部 甚吉(あべ じんきち、1907年1月25日 - 1981年7月30日)は、日本の弁護士、大阪弁護士会会長、日本弁護士連合会会長。 1907年、徳島県に生れる。1922年、徳島県橘郵便局に就職。1925年、大阪逓信局監督課に転勤。在勤のまま、北陽商業学校(現・関西大学北陽中学校・高等学校)を卒業。1929年、関西大学専門部法律科に入学し、 1932年に同校を卒業。翌年司法試験に合格。さらに翌年に大阪逓信局を退職。はじめは村野弁護士事務所に勤めたが、1938年に独立して自宅に事務所を開く。その後、1954年大阪弁護士会副会長、 1957年近畿弁護士会連合会理事、 1964年大阪弁護士会会長・近畿弁護士会連合会理事長・日本弁護士連合会常務理事を歴任した。
山本 伊三郎(やまもと いさぶろう、1906年1月25日 -… 山本 伊三郎(やまもと いさぶろう、1906年1月25日 - 1971年7月8日)は、日本の政治家、参議院議員(3期)。位階は従四位。勲等は勲二等。浪華商業学校、関西大学専門部卒業。 大阪市生まれ。1918年(大正7年)小学校卒業。社会主義理論の原典を知りたいとの思いから大阪キリスト教青年会英語学校入学。 1926年(大正15年)、大阪市役所採用。1947年(昭和22年)、日本社会党入党。1948年(昭和23年)、大阪市職員労働組合委員長。 1956年(昭和31年)、全日本自治団体労働組合中央執行委員長。1959年(昭和34年)、第5回参議院議員通常選挙全国区当選。1965年(昭和40年)、第7回参議院議員通常選挙二選。
今井 誉次郎(いまい たかじろう、1906年〈明治39年〉1… 今井 誉次郎(いまい たかじろう、1906年〈明治39年〉1月25日 - 1977年〈昭和52年〉12月16日)は、日本の国語教育者、児童文学作家。 岐阜県出身。岐阜師範学校卒。岐阜県で小学校教師となり、のち上京、雑誌『綴方生活』の編集に携わる。東京で再度教師となり、1950年『農村社会科カリキュラムの実践』で毎日出版文化賞受賞。52年設立された日本作文の会委員長に就任。著作集全6巻がある。
陸奥錦 秀二郎(むつにしき しゅうじろう、1906年1月25… 陸奥錦 秀二郎(むつにしき しゅうじろう、1906年1月25日 - 1974年2月19日)は、振分部屋に所属した大相撲力士。引退後は12代玉ノ井を襲名し、年寄として後進の指導に当たった。本名は鎌田 修二郎(旧姓今井)。青森県南津軽郡平賀町(現平川市)出身。170cm、95kg。最高位は西十両筆頭。 1920年5月初土俵、1933年5月十両昇進。13場所在位し同部屋の鷹城山と長く十両を務めた。筆頭まで上がるも入幕はならず、1940年1月に引退、浪ノ音健藏の養子になり12代玉ノ井を襲名した。一時振分部屋を引き継ぎ玉ノ井部屋を経営したがすぐに弟子を返した。 その後は木戸主任などを務め、1971年1月定年退職。
島田 巽(しまだ たつみ、1905年1月25日 - 1994… 島田 巽(しまだ たつみ、1905年1月25日 - 1994年3月8日)は、日本のジャーナリスト。朝日新聞論説副主幹、ジャパン・クオータリー誌編集委員会委員。1965年から1976年まで人事官を務めた。 東京出身。1927年、慶應義塾大学政治学科を卒業。卒業後は朝日新聞社に就職し、東京本社欧米部長、論説副主幹などを歴任後、1965年3月2日から1976年4月1日まで、3期12年にわたり人事官を務めた。1975年、勲一等瑞宝章を受章。 1994年3月8日、膵臓癌により死去。89歳。
広田 精一郎(ひろた せいいちろう、1905年1月25日 -… 広田 精一郎(ひろた せいいちろう、1905年1月25日 - 1993年8月2日)は、日本の経営者。 福岡県遠賀郡遠賀町出身。1927年に広島高等工業学校を卒業し、同年に東洋レーヨン(のちの東レ)に入社。 名古屋、滋賀での各工場長を務め、1956年に取締役に就任し、1963年に副社長に就任し、1966年から1971年までに社長を務めた。 1968年に藍綬褒章を受章。 1993年8月2日急性心不全のために死去。88歳没。
倉田 文人(くらた ふみんど、1905年1月25日 - 19… 倉田 文人(くらた ふみんど、1905年1月25日 - 1988年1月28日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。 1905年(明治38年)1月25日、大分県速見郡山香町(現在の同県杵築市山香町)に生まれる。 1929年(昭和4年)、日活太秦撮影所現代劇監督部に入社、木村次郎に師事、同年、木村の監督した『名なし鳥』に助監督としてクレジットされる。同撮影所の同部で、溝口健二や田坂具隆に師事する助監督の熊谷久虎と知り合う。1932年(昭和7年)、谷幹一主演の『とかく女と言ふものは』で監督に昇進した。 1934年(昭和9年)、新たに開所した日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に異動する。
坂元 彦太郎(さかもと ひこたろう、1904年1月25日 -… 坂元 彦太郎(さかもと ひこたろう、1904年1月25日 - 1995年2月4日)は、日本の教育・保育学者。岡山大学名誉教授。 宮崎県都城市生まれ。1940年東京帝国大学文学部社会学科卒、姫路師範学校教諭、1943年岡山師範学校女子部長、1945年11月大阪第一師範学校女子部長、文部省初等教育課長、1949-51年岡山師範学校校長、岡山大学教育学部長(-56年)・教授、1958年名誉教授、お茶の水女子大学教授、59年お茶の水女子大学附属幼稚園長、1969年青山学院大学教授、洗足学園大学教授、1974年十文字学園女子短期大学学長。1984-94年旭出学園 (特別支援学校) 校長。 1959年NHK放送文化賞受賞。
館林 三喜男(舘林 三喜男、たてばやし みきお、1904年1… 館林 三喜男(舘林 三喜男、たてばやし みきお、1904年1月25日 - 1976年10月22日)は、日本の内務官僚、政治家、実業家。 佐賀県副知事、衆議院議員(4期)、三愛石油株式会社社長(第2代)、株式会社リコー社長(第2代)などを歴任した。 内務省に入省し要職を歴任するも、太平洋戦争後は公職追放となる。第25回衆議院議員総選挙で当選を果たし、以降2回の落選を挟みながら4期務めた。第31回衆議院議員総選挙にて3度目の落選となる。以降はリコー三愛グループの事業に携わり、三愛石油の副社長を経て社長に就任し、のちにリコーの社長も務めた。 佐賀県西松浦郡有田町出身。第五高等学校を経て、1928年東京帝国大学法学部政治学科卒。
斎藤 武雄(さいとう たけお、1904年1月25日 - 19… 斎藤 武雄(さいとう たけお、1904年1月25日 - 1995年1月28日)は、日本の哲学研究者。弘前大学名誉教授。 秋田県生まれ。1933年東京文理科大学哲学科卒。1949年弘前大学文理学部教授、人文学部長。1960年「ヤスパースにおける絶対的意識の構造と展開」で東京教育大学文学博士。1962年文部省在外研究員として西独、スイス、米国に滞在。1968年定年退官、名誉教授、弘前学院大学学長。
金子 文子(かねこ ふみこ、1903年1月25日 - 192… 金子 文子(かねこ ふみこ、1903年1月25日 - 1926年7月23日)は、大正期日本のアナキスト、ニヒリスト。 関東大震災の2日後に、治安警察法に基づく予防検束の名目で、愛人(内縁の夫)である朝鮮人朴烈と共に検挙され、予審中に朴が大正天皇と皇太子の殺害を計画していたとほのめかし、文子も天皇制否定を論じたために、大逆罪で起訴され、有罪となった(朴烈事件)。後に天皇の慈悲として無期懲役に減刑されたが、宇都宮刑務所栃木支所に送られてそこで獄死した。 現代の韓国においては「良心的日本人」とされており、2018年11月17日、国家報勲処より日本人としては2人目になる大韓民国建国勲章(愛国章)が追叙され、2022年、布施辰治とともに2023年5月の今月の独立運動家に選定された。
外山 卯三郎(とやま うさぶろう、1903年〈明治36年〉1… 外山 卯三郎(とやま うさぶろう、1903年〈明治36年〉1月25日 - 1980年〈昭和55年〉3月21日)は、日本の美術評論家、教育者。 1903年(明治36年)1月25日、和歌山県に生れる。1928年(昭和3年)に京都帝国大学文学部美術史学科を卒業した。同年、同人誌『詩と詩論』の発行に参画する。 1939年(昭和14年)、ナチスによって閉鎖されたバウハウスの流れを汲む画塾「美術工芸学院」を、東京高円寺に開く。画塾には三木清や西園寺公一、現代アートの前衛画家たちが訪ねてきたが、学生は富山妙子ら10人ほどしか集まらず、経営難に陥った。 1946年(昭和21年)、造形美術協会を創立して理事長に就任する。
常陽山 正治(じょうようざん まさじ、1903年1月25日 … 常陽山 正治(じょうようざん まさじ、1903年1月25日 - 1972年1月25日)は、新潟県中頸城郡(現妙高市)出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は楡井 正次。引退後は9代稲川を襲名し、後進の指導につとめた。身長174cm、体重88kg。最高位は東十両筆頭。 1919年1月初土俵、1932年2月十両昇進。東筆頭まで躍進するが入幕はならず、1938年5月に引退し9代稲川を襲名した。平年寄で役職には就けず、1968年1月定年退職。1972年心臓衰弱で死去。なお、生没同日である。
西川 寧(にしかわ やすし、1902年〈明治35年〉1月25… 西川 寧(にしかわ やすし、1902年〈明治35年〉1月25日 - 1989年〈平成元年〉5月16日)は、20世紀を代表する日本の書家、金石学者、中国文学者、西域出土晋代墨蹟の書道史的研究で文学博士(慶應義塾大学)。字は安叔。号は靖闇。贈正三位(没時叙位)、贈勲一等瑞宝章(没時陞叙)。息子の西川杏太郎は奈良国立博物館長、東京国立文化財研究所所長を歴任した仏像を中心とした日本彫刻史の研究者。 明治の大家、西川春洞の三男として東京に生まれる。俗に「昭和の三筆」の一人とも言われる。現代の書壇に最も影響を及ぼし、書の巨人と呼ばれ、文字学研究者として、また書壇を驚かす強烈なインパクトの作品を数々残した。子に美術史研究者の西川杏太郎がある。
竹内 道之助(たけうち みちのすけ、1902年1月25日 -… 竹内 道之助(たけうち みちのすけ、1902年1月25日 - 1981年4月20日)は、日本の翻訳家、実業家、三笠書房創立者。東京府東京市深川区(現・東京都江東区)出身。 本所高等小学校卒業。正則英語学校、アテネフランセに通い英語、ドイツ語、フランス語を習得。 藤澤衛彦の主宰の雑誌『伝説』の編集に携わる。のち、梅原北明が企画し福山福太郎が創設した「文藝資料研究会」に参加し、雑誌『奇書』や「変態文献叢書」の編集を手がける。1930年には酒井潔らの協力をうけ「風俗資料刊行会」を設立し、雑誌『風俗資料』『デカメロン』らを編集刊行した。 そののち、哲学者三木清らのグループや、唯物論研究会との親交を重ね、1933年に妻富子と共に、社会科学書、ヨーロッパ・アメリカ文学の翻訳書の刊行を主とする、三笠書房を創立。
中野 重治(なかの しげはる、1902年(明治35年)1月2… 中野 重治(なかの しげはる、1902年(明治35年)1月25日 - 1979年(昭和54年)8月24日)は、日本の小説家・詩人・評論家・政治家。代表作に小説『歌のわかれ』『むらぎも』『梨の花』『甲乙丙丁』、評論『斎藤茂吉ノオト』、詩集『中野重治詩集』など。詩人の中野鈴子は実妹、女優の原泉は妻。 福井県坂井市出身。東京帝国大学文学部独文科卒。四高時代に窪川鶴次郎らを知り、短歌や詩や小説を発表するようになる。東大入学後、窪川、堀辰雄らと『驢馬』を創刊、一方でマルクス主義やプロレタリア文学運動に参加し、「ナップ」や「コップ」を結成。この間に多くの作品を発表した。1931年に日本共産党に入ったが、検挙され1934年に転向する。
鈴木 良徳(すずき よしのり、1902年1月25日 - 19… 鈴木 良徳(すずき よしのり、1902年1月25日 - 1991年9月14日)は、日本の陸上競技指導者。JOC名誉委員、日本陸連元理事長。栃木県出身。 郁文館中学校、旧制松本高等学校文科乙類を経て、九州帝国大学農学部農業化学科卒業、1926年同大学法文学部中退。1932年、日本陸連の役員となり、1960年ローマ五輪の陸上競技総監督などを務め、同年日本陸連理事長。1969年日本体育協会アマチュア委員長に就任し、「アマチュア規定」制定に尽力したほか、1964年東京五輪組織委競技交通警備特別委員、ユニバーシアード組織委総務委員、第8回・第14回国際オリンピックアカデミー調査員、札幌冬季五輪式典委員、体協理事、COJO・JOC合同委員長などを歴任。
野村 幸祐(のむら こうすけ、1902年 <明治35年> 1… 野村 幸祐(のむら こうすけ、1902年 <明治35年> 1月25日 - 1991年 <平成3年> 4月27日)は、日本の経営者。山口放送社長を務めた。[要出典]位階は従四位。 山口県出身。広島高等師範学校を経て、1933年に広島文理大学史学科を卒業。朝鮮総督府、兵庫県、文部省で教学官や史学官を務め、広島文理大学事務官、広島高等師範学校教授、佐賀青年師範学校校長を歴任し、1949年4月に山口県教育委員会委員長に就任。1956年3月には県内初の民間放送局として設立されたラジオ山口(現在の山口放送)に入社し、社長に就任。1987年6月には会長に就任。会長在職中の1988年にはドキュメンタリーのディレクターとして評価の高かった磯野恭子の、民放初の女性取締役抜擢にも尽力した。
村瀬 宣親(むらせ のぶちか、1902年(明治35年)1月2… 村瀬 宣親(むらせ のぶちか、1902年(明治35年)1月25日 - 1966年(昭和41年)12月13日)は、昭和期の政治家。衆議院議員、愛媛県越智郡乃万村長。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 愛媛県越智郡乃万村延喜(現今治市)で生まれる。今治中学校(現愛媛県立今治西高等学校)を経て、神戸高等商業学校(のち神戸商業大学)で学んだが中退。今治市役所に入り、産業課長、土木課長などを務めた。その後、中華民国に赴き興亜院嘱託、山東省青島港建設事務所会計課長、青島埠頭 (株) 総務課長などを歴任した。 戦後、今治に引揚げ、乃万村長を務めた。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に愛媛県第2区から民主党公認で出馬して初当選。
望月 市恵(もちづき いちえ、男性、1901年1月25日 -… 望月 市恵(もちづき いちえ、男性、1901年1月25日 - 1991年9月8日)は、ドイツ文学者、信州大学名誉教授。
下泉 重吉(しもいずみ じゅうきち、1901年1月25日 -… 下泉 重吉(しもいずみ じゅうきち、1901年1月25日 - 1975年12月21日)は、日本の動物学者。東京教育大学教授、都留文科大学学長を務めた。理学博士。 主として動物の冬眠について研究をおこなった。またヤマネの生態について明らかにし飼育に成功する。日本生物教育学会を創設し、理科教育や環境教育、自然保護思想についての振興につとめた。後に同会名誉会長。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
金 哲柱(キム・チョルジュ、朝鮮語: 김철주、1901年1月… 金 哲柱(キム・チョルジュ、朝鮮語: 김철주、1901年1月25日 - 1962年2月22日)は、大韓民国の医師、教員、政治家、実業家、社会事業家。麗水郡郡守、麗川郡郡守、第3代韓国国会議員、湖南新聞社長を歴任した。 全羅南道麗川郡(現・麗水市)出身。ソウル中東中学校、日本大学師範科卒。莞島中学校教員、光州農業実習学校長を歴任した後に全羅南道の医師試験に合格した。その後は韓国キリスト教青年会(朝鮮語版)総務、麗水郡・麗川郡郡守を経て、全羅南道三日保健診療所長を務めた。麗水華井医院を開業したほか、麗水愛養園長を務めた。1954年の第3代総選挙では麗川郡選挙区から無所属で出馬し当選し、その後は自由党に入党した。
野上 進(のがみ すすむ、1901年1月25日 - 1965… 野上 進(のがみ すすむ、1901年1月25日 - 1965年12月21日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(1期、自由民主党)。 熊本県出身。1923年明治大学専門部政経科卒。卒業後は関東庁警察部に入り、のち熊本県内の各警察署長、同県刑事、警防の各課長、熊本市交通局長、熊本電気軌道社長、九州産業交通初代社長、同会長、熊本観光社長、ラジオ熊本、熊本振興各取締役、熊本県交通安全協会、同県バス協会、同県トラック協会各会長などを務めた。 1947年、熊本県議会に当選し、副議長となる。自由党熊本県支部幹事長、1956年、自由民主党熊本県連会長、1960年、参議院議員熊本地方区補欠選挙に当選、参議院運輸委員会委員長などを歴任する。
石川 冷(いしかわ れい、1901年1月25日 - 没年不詳… 石川 冷(いしかわ れい、1901年1月25日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は石川 良平(いしかわ りょうへい)だが、婚姻後は齋藤 良平(さいとう - )と名乗った。旧芸名は石川 鳳堂(いしかわ ほうどう)。妻は舞踊家の藤間寿美枝(本名は斎藤 千代子)である。 1901年(明治34年)1月25日、東京府東京市本所区業平(現在の東京都墨田区)に生まれる。父親である杢平は人形師であった為、人形作りを手伝いながら、1914年(大正3年)に小学校を卒業。卒業後は琴古流尺八を習い、石川鳳堂と名乗った。 1920年(大正9年)、新派俳優の武田正憲(1890年 - 1962年)の門下となり、東京で初舞台を踏む。
大久保 利謙(おおくぼ としあき、1900年〈明治33年〉1… 大久保 利謙(おおくぼ としあき、1900年〈明治33年〉1月25日 - 1995年〈平成7年〉12月31日)は、日本の歴史学者、華族(侯爵)。維新の三傑の一人・大久保利通の孫で、大久保家第3代当主。父は利通の三男・大久保利武。母は近藤廉平の長女・栄。妻は子爵米田国臣の長女・八重子。長男は大久保利泰。 東京帝国大学卒業の際の論文は、近世史をテーマにしたものであった。理由は、当時の歴史学界においては、維新以後の歴史については、歴史家は触れてはいけないという空気が強かったからである。 戦時下では皇国史観に対して批判的立場を採り、東京帝国大学を中心とした官学アカデミズム歴史学や、戦後流行したマルクス主義歴史学とも異なる、実証主義を本領とした独自の近代史研究を構築した。
池谷 半二郎(いけたに はんじろう、1900年(明治33年)… 池谷 半二郎(いけたに はんじろう、1900年(明治33年)1月25日 - 1984年(昭和59年)3月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 静岡県出身。池谷幸作の二男として生まれる。静岡中学校(現静岡県立静岡高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、工兵少尉に任官し工兵第9大隊付となる。1924年(大正13年)12月、陸軍砲工学校高等科(30期)を卒業し、1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を優等で卒業した。 1930年(昭和5年)8月、工兵大尉に昇進。1932年(昭和7年)2月、参謀本部員(船舶班)に就任。
横山 通夫(よこやま みちお、1900年1月25日 - 19… 横山 通夫(よこやま みちお、1900年1月25日 - 1983年5月12日)は、日本の経営者。栃木県出身。 1917年に旧制宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)を卒業。慶應義塾大学予科に入学 1922年に慶應義塾大学部理財科を卒業。九州電灯鉄道、東邦電力での勤務を経て、1942年に中部配電(のちの中部電力)理事に就任し、常務を経て、1951年に副社長に就任し、1961年4月に社長に昇格した。1969年5月には会長に就任し、1977年6月から相談役を務めた。 中部経済連合会会長、日本電気協会会長、日本ラグビーフットボール協会会長、名古屋鉄道監査役、東海銀行参与なども歴任した。 1960年11月に藍綬褒章を受章し、1974年11月に勲一等瑞宝章を受章した。
多胡 羊歯(たご ようし、1900年1月25日 –1979年… 多胡 羊歯(たご ようし、1900年1月25日 –1979年12月23日)は、日本の詩人。富山県氷見市出身。 八代村胡桃(くるみ)生まれ。本名は義喜(よしひさ)。1919年(大正8年)に富山師範学校卒業。19歳で小学校の教員に就き、1923年11月以来、「赤い鳥」に童謡を投稿、45編の作品を発表。1928年「赤い鳥童謡会」メンバーとなり、1930年「チチノキ」同人。童謡集には白秋が序文を書いた「くらら咲く頃」があり、戦後、児童雑誌「タンタリキ」を主宰。童謡誌「ら・て・れ」にも加わった。1947年氷見市八代小学校校長を務めた後、退職し農業に従事。生涯、氷見を離れることなく、亡くなる。享年79。 代表作「くらら咲くころ」(1925年)は『赤い鳥』推奨作に選ばれ、白秋は「時代の代表作」と高く評価した。
両角 政人(もろずみ まさと、まさんど、1899年1月25日… 両角 政人(もろずみ まさと、まさんど、1899年1月25日 - 1988年12月30日)は、日本の新聞記者、スケート指導者。 長野県諏訪郡宮川村(現茅野市)出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校の前身)から早稲田大学政治経済学部に進み、1923年に体育会スケート部を創設し、第1回の学生選手権大会の組織などにあたり、1925年には日本学生氷上競技連盟を設立した。また、大学時代に学生新聞の編集に参画し、1926年に政治学科を卒業すると、報知新聞に入社し、運動部の設置に関わった。新聞記者として、報知新聞運動部長、読売新聞機報部長などを歴任するかたわら、1929年に発足した日本スケート連盟の運営に永く関わり、1937年以降、永く理事長を務めた。
三鍋 義三(みなべ よしぞう、1898年(明治31年)1月2… 三鍋 義三(みなべ よしぞう、1898年(明治31年)1月25日 - 1961年(昭和36年)8月14日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。柔道7段。 富山県上新川郡新庄町(現富山市)で生まれる。富山中学校(現富山県立富山高等学校)を経て、1919年(大正8年)武道専門学校を卒業し、1921年(大正10年)同校研究科を修業した。 富山県立神通中学校(現富山県立富山中部高等学校)教諭に就任して1945年(昭和20年)まで在任し、柔道、野球の指導に努めた。その後、町立滑川薬業学校(現富山県立滑川高等学校)長、和合中学校長、呉羽中学校長を歴任。労働運動に加わり、呉羽中学校長在任中の1949年(昭和24年)に富山県教職員組合執行委員長に就任し、県全官公庁労働組合協議会議長も務めた。
八馬 安二良(はちうま やすじろう、1898年〈明治31年〉… 八馬 安二良(はちうま やすじろう、1898年〈明治31年〉1月25日 - 1981年〈昭和56年〉5月17日)は、日本の実業家。八馬汽船社長。多聞酒造取締役。 兵庫県西宮市出身。海運業・八馬永蔵の三男。1920年、慶應義塾大学部理財科卒業。1925年、分家した。 桐花興業監査役、多聞土地社員、西宮信組理事を歴務。宝梅園農場相談役、芦屋市公安委員を兼務。1931年から1966年まで八馬汽船の社長を務めた。 兵庫県西宮市久保町、八馬汽船相談役・三代八馬兼介の弟。八馬駒雄、八馬眞治の兄。 宗教は真宗。住所は芦屋市平田町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
山口 進(やまぐち すすむ、1897年1月25日 - 198… 山口 進(やまぐち すすむ、1897年1月25日 - 1983年11月25日)は、日本の版画家。 長野県上伊那郡箕輪町出身。1916年に長野中学を卒業した。1920年から1926年まで白馬会葵橋洋画研究所に学び、黒田清輝や中川紀元に師事した。日本美術学校にも通ったが、1922年に中退した。 1923年に日本創作版画展、日本漫画展に初入選した。1925年に旧制第一高等学校訓務部事務職員となり、一高画会で絵を指導した。 1928年には油絵で第6回春陽会展で初入選し、1937年まで同会に油絵の出品を続けた。 1932年ロサンゼルスオリンピックの芸術競技と1936年ベルリンオリンピックの芸術競技の絵画種目に出品した。
富田 彬(とみた あきら、1897年1月25日 - 1971… 富田 彬(とみた あきら、1897年1月25日 - 1971年3月26日)は、日本の英文学者、翻訳家。立教大学名誉教授。 栃木県出身。東京帝国大学英文科卒。1926年に立教大学教授。アメリカ文学研究の先駆者の一人で、立教大学において同研究の基礎をつくり、エマソンやメルヴィル、ジェイン・オースティンなどの作品を翻訳した。 1929年(昭和4年)から1930年(昭和5年)には立教大学野球部長を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
森 悌次郎(もり ていじろう、 1896年1月25日 - 1… 森 悌次郎(もり ていじろう、 1896年1月25日 - 1969年7月13日)は、山形県鶴岡市出身の体育学者、大学教授、サッカー選手。 1916年3月に山形県立荘内中学校(現:山形県立鶴岡南高等学校)を卒業。東京高等師範学校に入学し、蹴球部に入部した。在学中の1921年6月に開催された第5回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、2試合に出場した。 1923年3月に東京高師本科体育科甲組を卒業し、同年4月より東京高師の助手兼助教諭に任じられた。1925年4月に東京女子体操音楽学校の講師となり、1926年から1年間体操の研究のためにドイツ国に留学した。1927年8月に東京高師の助教授兼助教諭となった。
佐竹 義履(さたけ よしふみ、1896年(明治29年)1月2… 佐竹 義履(さたけ よしふみ、1896年(明治29年)1月25日 - 1958年(昭和33年)3月2日)は、昭和期の技官、政治家、華族。貴族院男爵議員、佐竹氏一門の佐竹西家20代当主。旧名・竹田良治。 秋田県士族・竹田富之助の二男として生まれる。佐竹西家の当主で兄・佐竹義度(富之助長男)の死跡を相続し、1914年(大正3年)4月23日、男爵を襲爵。その後、義履と改名した。 1924年(大正13年)東京農業大学大学部を卒業。1929年(昭和4年)帝室林野局技手に就任。その後、1944年(昭和19年)3月10日に同技師に就任した。 同月30日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。
川越 守二(かわごえ もりじ、1895年(明治28年)1月2… 川越 守二(かわごえ もりじ、1895年(明治28年)1月25日 - 1976年(昭和51年)12月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県出身。農業・川越半之丞の五男として生まれた。鹿児島第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第1連隊付となる。1919年(大正8年)11月、陸軍砲工学校高等科(25期)を卒業。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業した。 1925年(大正14年)8月、野砲兵第1連隊中隊長に就任。1926年(大正15年)3月、参謀本部付勤務となり、関東軍幕僚付、第6師団参謀を務め、1931年(昭和6年)8月、砲兵少佐に進級し野砲兵第6連隊大隊長に就任。
松井 芒人(まつい ぼうじん、本名: 源衛、1895年1月2… 松井 芒人(まつい ぼうじん、本名: 源衛、1895年1月25日 - 1980年12月27日)は、日本の歌人、教育者である。 長野県上伊那郡伊那富村(現辰野町羽場)生まれ。長野県立諏訪中学校を経て、1914年長野県師範学校(現・信州大学)を卒業。上伊那郡七久保小学校を振り出しに県内各地で教職に携わる。高遠国民学校、高遠拓殖青年学校、高遠実科高等女学校の校長を歴任。 1917年、「アララギ」入会。島木赤彦、土屋文明、土田耕平と相識り、歌は「アララギ」一筋によりながら、1947年には歌誌「流域」を主宰して、上伊那地域の人々の短歌指導にあたった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
大須賀 応(おおすか ことを、1894年(明治27年)1月2… 大須賀 応(おおすか ことを、1894年(明治27年)1月25日 - 1945年(昭和20年)3月26日(異説あり。本文参照))は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 北海道札幌郡琴似村大字篠路村(現・札幌市北区屯田)出身。陸軍屯田兵軍曹・大須賀忠夫の子として生まれる。札幌中学を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第7連隊付となる。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。 1937年(昭和12年)12月、第16師団参謀として南京攻略戦に参加[要出典]。1938年(昭和13年)7月、砲兵大佐に昇進し野砲兵第22連隊長に就任。
千葉 三郎(ちば さぶろう、1894年(明治27年)1月25… 千葉 三郎(ちば さぶろう、1894年(明治27年)1月25日 - 1979年(昭和54年)11月29日)は、大正-昭和期の政治家。位階は正三位。 宮城県知事、労働大臣のほか、東京農業大学学長も務めた。 1894年(明治27年)、千葉県茂原市に生まれた。錦城中学、一高を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学仏法科を卒業後、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)に入社するも、ほどなくして退職し、米国プリンストン大学に留学、石油業を学んだ。同大大学院を修了し、1922年(大正11年)に帰国。 帰国後は当時の鐘紡社長・武藤山治の片腕となり、大日本実業組合連合会理事に就任した。1925年(大正14年)、旧千葉2区における衆議院補欠選挙に、武藤が会長を務める実業同志会から立候補、初当選した。
篠田 鐐(しのだ りょう、1894年(明治27年)1月25日… 篠田 鐐(しのだ りょう、1894年(明治27年)1月25日 - 1979年(昭和54年)5月8日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中将。工学博士。 愛知県出身。陸軍少将・工学博士、篠田金の長男として生まれる。東京陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第1連隊付となる。1917年(大正6年)11月、陸軍砲工学校高等科(23期)を卒業した。陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部応用科学科で学び、1922年(大正11年)3月に卒業した。さらに同大学院で学び、1925年(大正14年)3月に修了した。 1925年5月、陸軍科学研究所員に発令。
高木 武雄(たかぎ たけお、1892年(明治25年)1月25… 高木 武雄(たかぎ たけお、1892年(明治25年)1月25日 - 1944年(昭和19年)7月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。福島県石城郡大野村(現・いわき市)出身 。磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)卒。海軍兵学校(39期)、海軍大学校(23期)卒業。幼少のころから頭脳明晰で、同期中最年少の少尉任官であった。海軍兵学校同期に伊藤整一、山縣正郷、遠藤喜一、阿部弘毅、岡敬純、角田覚治、原忠一などがいる。 1911年(明治44年)7月、海軍兵学校(39期)を、148人中17位で卒業。 1912年(大正元年)12月、海軍少尉。 1914年(大正3年)12月、海軍中尉。 1917年(大正6年)12月、海軍大尉。
生田 龍作(いくた りゅうさく、1892年〈明治25年〉1月… 生田 龍作(いくた りゅうさく、1892年〈明治25年〉1月25日 - 没年不明)は、日本の政治家。全日本金属鉱山労働組合連合会中央執行委員長・栃木県県議会議員(後に副議長)。
小池 正朝(こいけ まさとき、明治25年(1892年)1月2… 小池 正朝(こいけ まさとき、明治25年(1892年)1月25日 - 昭和47年(1972年)5月29日)は、日本の泌尿器科学者、医学博士(東北帝国大学)。順天堂大学教授、江東病院初代院長。男爵・小池正直の四男。東京市小石川(現・東京都文京区小石川)出身。
小川 一清(おがわ かずきよ、1892年(明治25年)1月2… 小川 一清(おがわ かずきよ、1892年(明治25年)1月25日 - 1958年(昭和33年)12月11日)は、日本の電気工学者。電気学の権威。神奈川大学教授、同大理事を兼任した。京都帝国大学工科教授工学博士小川梅三郎・志摩(共に同墓)の長男であり、妻の香代(香代子)の家系も科学者の家系であり父は地質学者小川琢治、母小雪(小川駒橘の娘)であり、その小川琢治の三男にノーベル賞物理学者湯川秀樹がいる。一清と香代の長男の小川岩雄も核物理学者。享年66歳。墓所は多磨霊園。 東京出身。東京帝国大学卒業。逓信省電気試験所第二部長、東北帝国大学教授、富士通信機製造取締役部長、古河電工通信機部長などを歴任。1949年(昭和24年)新制神奈川大学発足時に神奈川大学教授。
万城目 武雄(まんじょうめ たけお、1891年1月25日 -… 万城目 武雄(まんじょうめ たけお、1891年1月25日 - 1975年3月11日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 宮城県出身。仙台第二中学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉任官。 1938年(昭和13年)3月、歩兵大佐に昇進し独立歩兵第11大隊長となり日中戦争に出征。平定の治安維持に当った。1939年(昭和14年)8月、甲府連隊区司令官に就任。 1941年(昭和16年)1月、第1独立歩兵隊長に発令され太平洋戦争を迎えた。中国南部の諸作戦に参加。1942年(昭和17年)2月、第23軍付として広東市特別警備司令官に就任。 1944年(昭和19年)4月、南方軍付となり、同年10月、歩兵第78旅団長に発令されレイテ島の戦いに従軍。
高品 彪(たかしな たけし、1891年1月25日 - 194… 高品 彪(たかしな たけし、1891年1月25日 - 1944年7月28日)は、日本の陸軍軍人。陸士25期、陸大34期。最終階級は陸軍中将。 千葉県山武郡成東町(現・山武市成東)出身。成東中学校、立教中学校(現・立教池袋中学校・高等学校)を経て、1913年5月、陸軍士官学校(25期)を卒業、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第66連隊付となる。1922年11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 基隆要塞参謀、歩兵第50連隊大隊長、陸軍工兵学校教官、陸士教官、近衛歩兵第4連隊付、留守第16師団参謀、歩兵第3連隊付、高雄要塞司令官、歩兵第60連隊長などを歴任し、1940年3月、陸軍少将に進級。 歩兵第27旅団長、第14歩兵団長、独立混成第17旅団長などを経て、1943年10月、陸軍中将となり第29師団長に親補された。
加藤 鑰平(かとう やくへい、1891年(明治24年)1月2… 加藤 鑰平(かとう やくへい、1891年(明治24年)1月25日 - 1974年(昭和49年)7月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 愛知県出身。竹材商・加藤直八の三男として生まれる。明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)卒業を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第18連隊付となる。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し歩兵第18連隊中隊長に就任。 1925年(大正14年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員を務め、1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進。1929年(昭和4年)2月から1931年(昭和6年)2月までアメリカに駐在し、アメリカ大使館付武官補佐官に就任。
大島 喜一郎(おおしま きいちろう、1891年(明治24年)… 大島 喜一郎(おおしま きいちろう、1891年(明治24年)1月25日 - 1980年(昭和55年))は、日本の政治家。栃木県矢板市長を務めた。 矢板村幸岡に生まれる。塩谷郡書記などを経て、1944年(昭和19年)に矢板町助役に就任。1947年(昭和22年)4月から1951年(昭和26年)4月まで塩谷郡選出の栃木県議会議員を務めた。 1955年(昭和30年)2月17日、合併に伴う矢板町長選挙が行われ、大島がいずれも元矢板町長の高柳宰正と高橋保平を破り当選した。1958年(昭和33年)11月1日、矢板町の市制施行に伴い矢板市長に就任し、市長は1959年(昭和34年)2月16日まで務めた。町長および市長在任中には公共施設の整備や合併後の地域の一体化に努力した。
石山 寅吉(いしやま とらきち、1890年(明治23年)1月… 石山 寅吉(いしやま とらきち、1890年(明治23年)1月25日 - 1937年(昭和12年)5月16日)は、大正から昭和前期の労働運動家、農民運動家、政治家。衆議院議員。 新潟県中蒲原郡沼垂町(現新潟市)の貧しい農家に生まれる。1896年(明治29年)同県北蒲原郡濁川村(現:新潟市北区濁川)の製綿業・石山家の養子となる。しかし養家が倒産したため、樺太、北海道へ出稼ぎに出たが過労のため帰郷。家業の再興を図るも不首尾で、1915年(大正4年)精練工として足尾銅山に入山した。 1917年(大正6年)足尾労働組合(のち大日本鉱山労働同盟会)の結成に参画した。1919年(大正8年)足尾銅山争議を指導。