有賀 喜左衛門(あるが きざえもん、 1897年1月20日 … 有賀 喜左衛門(あるが きざえもん、 1897年1月20日 - 1979年12月20日 )は、日本の社会学者。日本の農村社会を独自のイエ・ムラ理論によって考究し、農村社会学の理論的確立を行なった。 1897年、長野県上伊那郡朝日村平出(現在の辰野町)の地主・六世有賀喜左衛門の長男として生まれた。幼名は道夫。1909年(明治42年)、朝日尋常高等小学校を卒業後、長野県諏訪中学校に入学し、寄宿生活を送った。1918年(大正7年)、第二高等学校文科乙類を卒業。同年9月、京都帝国大学法学部に進学。 1919年、京都帝国大学を中退し、同年7月東京帝国大学文学部に入学し、美術史学を専攻。当時の朝鮮に対する民族文化抑圧政策に強く抗議していた柳宗悦の影響を受け、朝鮮美術の研究に取り組み、卒業論文『新羅の仏教美術』としてまとめた。
桜田 常久(さくらだ つねひさ、1897年〈明治30年〉1月… 桜田 常久(さくらだ つねひさ、1897年〈明治30年〉1月20日 - 1980年〈昭和55年〉3月25日)は、日本の小説家。並木 宋之介の筆名も持つ。 大阪市生まれ。旧制郡山中学校から第四高等学校を経て、1923年東京帝国大学文学部独文科卒。在学中から同人雑誌に関わり、小説や戯曲を発表、戯作に関心を抱いた。大学では川端康成と同窓であった。郡山中学時代の漢文の先生であった中島田人は作家中島敦の父。 卒業後は大学で教え、ドイツ戯曲を翻訳した。1932年から半農生活を志し東京市町田町に居住。1936年独文科の仲間である豊田三郎、高木卓、高橋義孝、および福田恆存、野口冨士男らと『作家精神』を創刊。1941年、同誌掲載の「平賀源内」で芥川賞(1940年度下半期)を受賞。
本田 正次(ほんだ まさじ、1897年1月20日 - 198… 本田 正次(ほんだ まさじ、1897年1月20日 - 1984年7月1日)は、日本の植物学者。東京大学名誉教授。昭和天皇の植物研究の相手も務め、伊豆や那須に同行した。熊本県熊本市出身。 1897年(明治30年)1月20日、熊本県熊本市に生まれた。熊本県立熊本中学校、第五高等学校を経て、1921年(大正10年)5月に東京帝国大学理学部植物学科を卒業し、同時に東京帝国大学助手に任じられた。 1931年(昭和6年)3月に博士(理学)の学位を授与され、1934年(昭和9年)4月に東京帝国大学助教授に就任した。1940年(昭和15年)7月には史蹟名勝天然紀念物調査会臨時委員となり、1942年(昭和17年)9月には史蹟名勝天然紀念物調査会委員となった。
桜田 常久(さくらだ つねひさ、1897年1月20日 - 1… 桜田 常久(さくらだ つねひさ、1897年1月20日 - 1980年3月25日)は、日本の小説家。並木宋之介の筆名も持つ。
幡谷 正雄(はたや まさお、1897年1月20日 - 193… 幡谷 正雄(はたや まさお、1897年1月20日 - 1933年6月17日)は、日本の英文学者。 島根県浜田市顕正寺生まれ。1920年早稲田大学文学部英文科卒。坪内逍遙、島村抱月の指導を受ける。のち千葉師範学校で5年間教え、辞任後は雑誌「文芸研究」(1928)「イギリス文学」(バイロン社、1929)「日本女性」を編集した。
久田 慶三(ひさだ けいぞう、1897年(明治30年)1月2… 久田 慶三(ひさだ けいぞう、1897年(明治30年)1月20日 - 1983年(昭和58年)7月29日)は、日本の政治家、実業家。愛知県常滑市長(5期)、西浦町長、西浦町議会議員、常滑市名誉市民。 愛知県常滑市出身。1911年(明治44年)、西浦町立第一尋常高等小学校卒業。西浦町議会議員、西浦町長、常滑市参与、常滑市助役などの公職を歴任した。 1959年(昭和34年)常滑市長に初当選。1979年(昭和54年)まで5期20年にわたり市政を担った。 市長在職中、老朽校舎解消のため4中学校、8小学校のすべてを鉄筋構造に改築し、さらに屋内運動場やプールも積極的に建設した。1968年(昭和43年)9月に愛知県陶磁器試験場(現在の「あいち産業科学技術総合センター 産業技術センター 常滑窯業試験場」)を移転新築、1970年(昭和45年)に常滑市陶磁器会館を建設し、業界の振興と発展に大きく寄与した。
青木 孝義(靑木孝義、あおき たかよし、1897年1月19日… 青木 孝義(靑木孝義、あおき たかよし、1897年1月19日 - 1962年1月14日)は、日本の経済学者、政治家。位階は正三位、勲等は勲二等。日本大学教授、衆議院議員(3期)、国務大臣、経済安定本部総務長官(第7代)。経済学博士。 愛知県南設楽郡平井村(現在の新城市)出身。1920年3月、日本大学専門部政治科を卒業。さらに1921年に同大高等専攻科を卒業。その後、日大から派遣されドイツに留学し、ベルリン大学、ハイデルベルク大学、ゲッティンゲン大学で、金融などを学び経済学博士の学位を取得。帰国後、日本大学の教授、経済学部長、理事を歴任。 戦後、1946年4月の第22回衆議院議員総選挙で愛知県第2区に日本自由党から立候補し初当選。
谷中 安規(たになか やすのり、1897年(明治30年)1月… 谷中 安規(たになか やすのり、1897年(明治30年)1月18日 - 1946年(昭和21年)9月9日)は、昭和時代前期の日本の版画家・挿絵画家。通称〈アンキ〉とも言われる。 奈良県桜井市初瀬の生まれ。6歳で母と死別、1904年(明治37年)父と朝鮮の京城に渡る。単身帰国し、東京の豊山中学に通うが学資が続かず中退、以後放浪生活を続ける。1922年(大正11年)日本美術学院出版の永瀬義郎著『版画を作る人へ 』から影響を受け、その書籍をもとに独学で木版画製作を始める。その後、1924年(大正13年)第一書房に勤め、社主の長谷川巳之吉に画才を認めらるその頃長谷川から日夏耿之介、堀口大學、佐藤春夫、与謝野晶子らを紹介される。
安藤 豊禄(あんどう とよろく、1897年1月18日 - 1… 安藤 豊禄(あんどう とよろく、1897年1月18日 - 1990年2月26日)は、日本の経営者。小野田セメント社長を務めた。大分県出身。 1921年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、同年に小野田セメントに入社した。1944年に取締役に就任し、1947年に専務を経て、1948年から社長に就任。1966年に取締役相談役を経て、1975年に相談役に就任した。 1990年2月26日心不全のために死去。93歳没。
米山 久(よねやま ひさ、1897年(明治30年)1月17日… 米山 久(よねやま ひさ、1897年(明治30年)1月17日 - 1981年(昭和56年)2月9日)は、日本の政治家、歌人。石川県出身の婦人運動家。衆議院議員(1期)。本名は米山 久子。 石川県金沢市で生まれる。1914年、石川県立第一高等女学校(現・石川県立金沢二水高等学校)卒。市川房枝の婦人参政権運動に参加。大日本国防婦人会金沢地方本部理事、大日本婦人会石川県支部副支部長を務めた。 1946年4月10日、第22回衆議院議員総選挙石川県全県区に日本社会党から出馬し初当選、石川県初の女性国会議員となる。1947年4月25日、第23回衆議院議員総選挙に出馬し落選した。 日本仏教婦人連盟顧問となり、仏教婦人運動にも尽くした。
薄田 美朝(すすきだ よしとも、1897年1月16日 - 1… 薄田 美朝(すすきだ よしとも、1897年1月16日 - 1963年4月16日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。官選県知事、警視総監、衆議院議員。 秋田県出身。薄田正美の長男として生まれる。函館中学、旧制第二高等学校を経て、1920年7月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。1920年7月、内務省に入り大阪府属兼警部として警察部特別高等警察課に配属された。 1921年11月、香川県警視となり警察部に勤務。1923年2月、朝鮮総督府に転じ総督官房庶務部に勤務し、警務局に異動。 1926年12月、地方事務官として栃木県農商課長に就任。以後、内務事務官・警務官、岡山県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、広島県書記官・警察部長、京都府書記官・警察部長、警視庁警務部長などを歴任。
黒川 利雄(くろかわ としお、1897年〈明治30年〉1月1… 黒川 利雄(くろかわ としお、1897年〈明治30年〉1月15日 - 1988年〈昭和63年〉2月21日)は、日本の内科学者、医学博士。東北大学医学部教授・学部長、同大学第10代総長。専門は内科学、消化器病学、臨床放射線学、特に消化管のレントゲン診断学。財団法人宮城県対がん協会を設立、日本初のがん集団検診(胃がん)を行った。正三位。勲一等瑞宝章。勲一等旭日大綬章。文化勲章受賞、文化功労者。日本学士院長。仙台市名誉市民。東京都名誉都民。北海道三笠市出身。東京で死去、享年91。子息に黒川雄二。 1897年1月15日、北海道空知郡三笠山村大字幾春別(現:三笠市幾春別町2丁目)で、福井県人黒川利三吉と熊本県人母ツネの5男3女の長男として誕生。
藤原 繁太郎(ふじわら しげたろう、1897年(明治30年)… 藤原 繁太郎(ふじわら しげたろう、1897年(明治30年)1月15日 - 1981年(昭和56年)5月28日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 長崎県南松浦郡奈留島村(のち奈留町、現・五島市)出身。1923年(大正12年)早稲田大学商学部を卒業した。 日本電報通信社通信記者となる。興亜精機顧問、興亜産業顧問、興亜産業取締役社長を務めた。また、日本漁民組合組合長、日本社会党長崎県支部連合会副会長を務めた。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に長崎県第2区から日本社会党所属で出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。 その後、長崎新聞社常務、同東京支社代表取締役、同社長、民華企業取締役など務めた。
石川 金次郎(いしかわ きんじろう、1897年〈明治30年〉… 石川 金次郎(いしかわ きんじろう、1897年〈明治30年〉1月14日 - 1953年〈昭和28年〉3月24日)は、日本の政治家、社会運動家、弁護士。衆議院議員(4期、日本社会党)。 国家社会主義の活動家だった石川準十郎は実弟。子息の石川克次郎は、弁護士で民主社会党結成に参加した。 岩手県岩手郡玉山村大字日戸(現在の盛岡市近郊)に比較的裕福な家庭に生まれる。1907年(明治40年)日戸小学校を卒業(四年制)。後、義務教育年限延長により王仁小学校に通学。1909年(明治42年)王仁小学校尋常科を卒業、盛岡市立高等小学校に進学。1911年(明治44年)岩手県立工業学校(現・岩手県立盛岡工業高等学校)機械科に進学、1914年(大正3年)同校を卒業。
新田 純興(にった すみおき、1897年1月14日 - 19… 新田 純興(にった すみおき、1897年1月14日 - 1984年8月1日)は、北海道出身のサッカー選手、サッカー指導者。東京帝国大学工学部冶金学科卒業。
金井 寛人(かない ひろと、1897年(明治30年)1月14… 金井 寛人(かない ひろと、1897年(明治30年)1月14日 - 1977年(昭和52年)11月30日)は、日本の実業家。帝国ホテルの会長を務めた。 1897年(明治30年)1月14日、長野県諏訪市に生まれる。 上田蚕糸専門学校(現信州大学繊維学部)を卒業し片倉製糸に勤務した後、1931年(昭和6年)に国際商事を設立し、1937年(昭和12年)には山東塩業、1943年(昭和18年)には華北興業の社長に就任した。華北興業では主に中国産の塩や葉たばこを扱った。 戦後は公職追放となるも1950年(昭和25年)に解除された。 東京殖産の長田庄一から多額の資金援助を受け、大倉喜七郎の株を肩代わりする形で1953年(昭和28年)に帝国ホテルの会長に就任した。
木村 荘十(きむら そうじゅう、1897年〈明治30年〉1月… 木村 荘十(きむら そうじゅう、1897年〈明治30年〉1月12日 - 1967年〈昭和42年〉5月6日)は東京府出身の作家。 牛鍋チェーン店「いろは」経営者木村荘平の妾腹の十男として、東京市深川区(現在の東京都江東区)の「いろは」第7支店に生まれる。4歳のとき実母が愛人と失踪したため、東京市浅草区(東京都台東区)吉原日本堤の"いろは"第9支店に預けられ、そこが人手に渡ると、ただちに裏の家へと預けられて育った。 慶應義塾大学中退。第一次世界大戦中に渡英し、のち帰国。異母兄の第2代木村荘平と不和を生じて骨董店の店員となり、政治家の愛人と密通して共に渡満。南満州鉄道の事務員や新聞記者(満州商業新報主筆、満州日日新聞政治記者)などを経て、大連で「満蒙評論社」なる雑誌社を経営。
加藤 榮吉(かとう えいきち、1897年(明治30年)1月1… 加藤 榮吉(かとう えいきち、1897年(明治30年)1月10日- 1946年(昭和21年)8月1日)は、大日本帝国海軍の軍人。海軍兵学校46期で、最終階級は大佐。ブーゲンビル島の戦いで島の北部を固守した。住民殺害を命じた戦争犯罪の有罪判決を受け、死刑となった。 1897年(明治30年)に会津若松市に住む商人の家に5男として生まれる。尋常小学校3年生の時に、仙台市で私塾の育英塾を開いていた15歳年上の次兄の加藤利吉の下へ、母と三兄の利喜松とともに移り住む。その後、利吉の養子として育てられ、立町尋常高等小学校2年から東北学院普通科(後の東北学院中学部)3年に編入し、卒業。 1915年(大正6年)9月に海軍兵学校へ入り、46期で卒業。
西 文雄(にし ふみお、1897年1月10日 - 1990年… 西 文雄(にし ふみお、1897年1月10日 - 1990年9月3日)は、日本の柔道家(講道館8段、大日本武徳会範士)。 主に福岡県に拠点を置き、選手として熊本・福岡対県試合や全日本選士権大会で活躍する傍ら、福岡・満州対抗試合や全日本東西対抗大会の開催に尽力するなど柔道界の運営にも携わった。その技量は名人・達人の域に達していたと云われるが、晩年は故あって講道館と全日本柔道連盟に反目し、柔道界からは距離を置いて過ごした。 東京府青梅市の出身。中学生となって静岡県浜松市の旧制浜松中学校(現・県立浜松北高校)に在学中、他校の柔道教師であった戸田順吉に傾倒し、1915年に旧制浜松中学校を卒業するのと前後して戸田が指導する静岡市の講道館分道場義正館へ入門した。
高嶋 辰彦(たかしま たつひこ、1897年(明治30年)1月… 高嶋 辰彦(たかしま たつひこ、1897年(明治30年)1月10日 - 1978年(昭和53年)9月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・多賀谷。高島と表記される場合がある。 福井県出身。港湾業・多賀谷儀三郎の四男として生まれ、陸軍中佐・高嶋嘉蔵の養子となる。四日市中学校(現三重県立四日市高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を首席で卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第38連隊付となる。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を首席で卒業した。 1926年(大正15年)12月、陸軍省軍務局付勤務となり、軍務局課員(軍事課)を経て、1929年(昭和4年)1月からドイツ駐在として、ベルリン大学、キール大学で学んだ。
岡村 徳長(おかむら とくなが、1897年1月10日 - 1… 岡村 徳長(おかむら とくなが、1897年1月10日 - 1972年7月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中佐。戦後は日本共産党員として活動した。弟は名戦闘機搭乗員で鹿屋基地司令・岡村基春大佐(海軍兵学校50期)。末妹の清子は艦爆の神様江草隆繁大佐の妻。 1897年(明治30年)に高知県安芸郡井ノ口村(現在の安芸市井ノ口)で生まれる。海軍兵学校45期。岡村は天衣無縫の好漢でその奇行で海軍内でも有名だった。航空機開発に情熱を燃やし大西瀧治郎中将に心酔していた。 横須賀航空隊教官時代、計器飛行の実験中に、主翼が海に接触し危うく一命を落としかけた。1928年(昭和3年)2月29日、悪天候の中、搭乗していた一三式艦上攻撃機が佐賀県鹿島付近に墜落・炎上し、岡村は顔に大火傷を負った。
若木 勝蔵(勝藏、わかき かつぞう、1897年〈明治30年〉… 若木 勝蔵(勝藏、わかき かつぞう、1897年〈明治30年〉1月10日 - 1969年〈昭和44年〉11月9日)は、大正・昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 北海道岩内郡、のちの岩内町で生まれる。1916年(大正5年)札幌師範学校本科一部を卒業した。 虻田第一小学校、札幌北九条小学校、札幌師範学校訓導、小樽市潮見台小学校長、札幌市中央創成小学校長、同市西創成小学校長を歴任。この間、教材の改良などを行い、児童の自発的な活動を重視した教育を実践した。 1945年(昭和20年)12月、札幌市教職員組合委員長に就任。1946年(昭和21年)北海道教員組合(現北海道教職員組合)初代委員長となる。
市川 忍(いちかわ しのぶ、1897年1月9日 - 1973… 市川 忍(いちかわ しのぶ、1897年1月9日 - 1973年11月2日)は、日本の実業家。丸紅の初代社長。 1897年1月9日、茨城県北相馬郡布川町(現:利根町布川)に生まれる。 1919年に神戸高等商業学校(現:兵庫県立大学)を卒業し、伊藤忠商事に入社。同系列の大同貿易を経て、丸紅商店に移り、貿易部長、上海支店長を歴任。 1941年9月、丸紅と伊藤忠商事と岸本商店の合併によって設立された「三興」の専務となり、1944年9月に三興と呉羽紡績と伊藤忠商事の貿易部門として分離していた大同貿易が合併され、「大建産業」が設立された後も専務を担当した。 1949年、GHQによる過度経済力集中排除(財閥解体)の中で、丸紅初代社長に就任。
池内 調造(いけうち ちょうぞう、1897年1月9日-198… 池内 調造(いけうち ちょうぞう、1897年1月9日-1988年2月16日)は、日本の実業家。KBS京都代表取締役、京都新聞社取締役、日本民間放送連盟の営業・予算・財務・総務の各委員及び理事を20年近くにわたり担務し民放界の発展に大きく寄与。
山内 継喜(やまうち つぐよし、1897年(明治30年)1月… 山内 継喜(やまうち つぐよし、1897年(明治30年)1月8日 - 1973年(昭和48年)12月26日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選山形県知事、陸軍司政長官、初代勝山市長。 福井県大野郡荒土村(現:勝山市荒土町境)で、山内喜一郎の長男として生まれる。第四高等学校を卒業。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。1921年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し青森県属となる。 1923年、警視庁警視となる。以後、板橋警察署長、大塚警察署長、本富士警察署長、警視庁監察官、台湾総督府事務官、青森県書記官・警察部長、岐阜県書記官・警察部長、山口県書記官・警察部長、宮城県書記官・警察部長、京都府書記官・警察部長、愛知県書記官・総務部長などを歴任。
熊谷 友一郎(くまがい ともいちろう、1897年(明治30年… 熊谷 友一郎(くまがい ともいちろう、1897年(明治30年)1月7日 - 1966年(昭和41年))は、大正から昭和時代の政治家。長野県伊那市長。 長野県上伊那郡伊那町(現・伊那市)に生まれる。松本中学校(現長野県松本深志高等学校)を卒業後、西春近小学校教員を2年間務め、渡米し1916年(大正5年)コロンビア大学を卒業した。 帰国後は火災保険代理店を営み、荒井区長、伊那町消防組頭、同町農地委員、同町会議員を経て、1949年(昭和24年)伊那町長に就任。上伊那郡町村会長、長野県町村長会副会長を兼任した。1954年(昭和29年)の町村合併の折には、伊那市実現に向け尽力し、市制施行と共に同年4月30日に初代伊那市長に就任し、1958年(昭和33年)4月まで1期務めた。
石坂 禄郎(いしざか ろくろう、1897年1月7日 - 19… 石坂 禄郎(いしざか ろくろう、1897年1月7日 - 1989年2月19日)は日本の実業家、銀行家。 元経団連会長石坂泰三の弟。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
中村 雨紅(なかむら うこう、1897年1月7日〈戸籍上は2… 中村 雨紅(なかむら うこう、1897年1月7日〈戸籍上は2月6日〉- 1972年5月8日)は、日本の大正期の詩人・童謡作家である。 本名は、髙井 宮吉(たかい みやきち、出版物など一般的には「高井 宮吉」と表記される)。東京府南多摩郡恩方村(現在の東京都八王子市上恩方町)出身。代表作は、故郷恩方の風景を歌った『夕焼小焼』。1919年に作詞し、1923年に草川信が曲をつけた。 宮尾神社(現在の東京都八王子市上恩方町2089、八王子市「夕やけ小やけふれあいの里」に隣接)の宮司・髙井丹吾(たかい たんご)とその妻・シキの間の三男として生まれる。宮尾神社の社務所で生まれたことから「宮吉」と命名された。
渡辺 三郎(わたなべ さぶろう、1897年(明治30年)1月… 渡辺 三郎(わたなべ さぶろう、1897年(明治30年)1月6日 - 1969年(昭和44年)1月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・末国。 広島県出身。教員・末国又一の三男として生まれ、渡辺金作の養子となる。山口中学校(現山口県立山口高等学校)を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第70連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業した。 1927年(昭和2年)8月、歩兵第76連隊中隊長に就任し、参謀本部付勤務、参謀本部員、イギリス駐在、歩兵第41連隊大隊長、陸軍運輸部員、陸大教官などを経て、1939年(昭和14年)8月、歩兵大佐に昇進。
場生松 長夫(ばしょうまつ たけお、1897年1月6日 - … 場生松 長夫(ばしょうまつ たけお、1897年1月6日 - 1948年12月15日)は、日本陸軍軍医(耳鼻咽喉科)。白子陸軍病院(現埼玉病院)、南方第5陸軍病院編成当初の病院長。終戦時は軍医大佐、第16軍軍医部長。妻は仙波太郎四女文子。 佐賀県出身。1918年10月12日~1922年3月22日、東京帝国大学医学部 陸軍衛生部依託学生。1922年6月30日、歩兵第71連隊付。1922年8月1日~1923年2月15日、陸軍軍医学校 乙種士官学生。1925年4月1日~1927年4月1日、免本職、東京帝国大学大学院 陸軍衛生部士官学生。1927年4月1日、歩兵第3連隊付。1928年8月10日、陸軍軍医学校教官。
宮崎 丈二(みやざき じょうじ、1897年1月6日 - 19… 宮崎 丈二(みやざき じょうじ、1897年1月6日 - 1970年3月25日)は、日本の詩人、画家。 千葉県銚子市生まれ。専修大学中退。号・冬花亭。「白樺」の影響を受けて文学に関心を抱く。武者小路実篤の「新しき村」運動に参加する。1920年(大正9年)2月千家元麿、中川一政らと雑誌『詩』を創刊し「冬が来た」「機関車」などを発表。1924年(大正13年)『爽かな空』を刊行。1927年(昭和2年)より雑誌『河』を主宰。他の詩集に『独坐』がある。画家としては1919年(大正8年)草土社展に入選し、同人となる。世俗的名声を求めず、詩壇や画壇にも頓着しなかった。晩年は銚子市清水町で暮らした。
小出 正吾(こいで しょうご、1897年1月5日 - 199… 小出 正吾(こいで しょうご、1897年1月5日 - 1990年10月8日)は、日本の児童文学作家。 1897年、静岡県三島出身。祖父の小出市兵衛は元質屋で、J・H・バラによって洗礼を受けた。中学時代に受洗しキリスト教信者となる。1918年早稲田大学商学部を卒業すると、南洋商会に勤め南洋へおもむくが、1922年退職して帰郷、三島教会の独立に尽くした。1928年、再び上京し明治学院で教え、明治学院教授(1935年、社会事業科)。 戦後、三島市教育委員長を務める。キリスト教ヒューマニズムの立場で創作を行う。1957年、三島市長選挙に革新統一候補として出馬し落選。1966年から1972年日本児童文学者協会会長[疑問点 – ノート]。
三木 清(みき きよし、1897年(明治30年)1月5日 -… 三木 清(みき きよし、1897年(明治30年)1月5日 - 1945年(昭和20年)9月26日)は、(西田左派を含めた上での)京都学派の哲学者、評論家。法政大学法文学部教授。京大哲学科卒。西田幾多郎・ハイデガーに師事。留学中にパスカルを研究、帰国後『パスカルに於ける人間の研究』(1926年)を刊行。戦時中に治安維持法違反で保釈逃走中の知人を支援したことで逮捕拘禁され獄死したが、著書『人生論ノート』はロングセラーになった。 兵庫県揖保郡平井村小神(後の龍野市、現・たつの市揖西町)にて父親、三木英吉、母親しんの長男として1897年(明治30年)1月5日に誕生する。生家は農業を家業としており清の祖父の代に米穀商を営んでいたため、村の「米屋」として知られており資産家の部類に入る家柄であった。
神吉 正一(かんき しょういち、1897年(明治30年)1月… 神吉 正一(かんき しょういち、1897年(明治30年)1月5日 - 1964年(昭和39年)8月17日)は、日本の外交官。満州国総務庁次長。蒙古聯合自治政府最高顧問。
片岡 良一(かたおか よしかず、1897年1月5日 - 19… 片岡 良一(かたおか よしかず、1897年1月5日 - 1957年3月25日)は、日本の日本文学者。日本の近代文学をアカデミズムで論じた初期の人物である。法政大学教授・北京師範大学教授を歴任。 神奈川県藤沢町生まれ。1925年、東京帝国大学文学部国文学科を卒業し、旧制姫路高等学校の教員となる。1926年刊行の『井原西鶴』で注目され、1929年『現代文学諸相の概観』で近代文学を論じて自我史観を示し、近代文学研究の基礎を据えたとされる。1930年、旧制府立高等学校の教員となる。府立高校時代の教え子に小田切秀雄がいる。小田切に自宅を会合の場として提供したとして辞職。1934年法政大学教授、1941年北京師範大学教授、1946年に再び法政大学教授となる。
川田 源一(かわた げんいち、1897年1月5日 - 197… 川田 源一(かわた げんいち、1897年1月5日 - 1972年9月1日)は、日本の実業家。日刊スポーツ新聞社創業者。徳島県出身。 川田萬太郎・サダ夫妻の次男として徳島県那賀郡羽ノ浦村(現在の阿南市羽ノ浦町)に生まれる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
平岡 良蔵(良藏、ひらおか りょうぞう、1897年(明治30… 平岡 良蔵(良藏、ひらおか りょうぞう、1897年(明治30年)1月5日 - 1963年(昭和38年)5月20日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、埼玉県入間郡飯能町長。 埼玉県入間郡元加治村(現:入間市)で、平岡専吉の二男として生まれる。1928年、兄・仙太郎と共に刺繍レース製造を始める。 その後、埼玉県商工経済会理事、同繊維団体協議会長、日本レース工業組合理事、所沢織物商工協同組合理事、東京繊維商品取引所理事、飯能商工会議所会頭、御嶽登山鉄道取締役、平岡工業所取締役、飯能繊維工業社長、飯能商事社長、埼玉県繊維品価格査定委員会委員長などを務めた。 政界では、埼玉県会議員、同議長、飯能町長を務める。
門脇 季光(かどわき すえみつ、1897年(明治30年)1月… 門脇 季光(かどわき すえみつ、1897年(明治30年)1月4日 - 1985年(昭和60年)6月18日)は、日本の外交官、実業家。1955年(昭和30年)3月1日から1957年(昭和32年)1月23日まで外務事務次官。外務省退官後、ホテルニューオータニに入社し社長等を務めた。 島根県八束町(大根島、現在の松江市)出身。門脇虎市の四男として生まれる。旧制島根県立松江中学校、旧制三高を経て、1923年(大正12年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。翌1924年(大正13年)外務省に入省した。青島領事、駐イラン公使などを経て、1955年(昭和30年)3月1日から1957年(昭和32年)1月23日まで外務事務次官を務めた。
正木 博(まさき ひろし、1897年(明治30年)1月4日 … 正木 博(まさき ひろし、1897年(明治30年)1月4日 - 1973年(昭和48年)4月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・上野。 福岡県出身。熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第19連隊付となる。1922年(大正11年)3月、陸軍砲工学校高等科を卒業。帝国大学理工学部陸軍派遣学生として京都帝国大学工学部電気工学科に入学し、1925年(大正14年)3月に卒業した。 1925年5月、兵科を航空兵科に転科し航空兵中尉に任官。同年9月、陸軍航空技術研究所付となり、陸軍航空本部員を務め、1927年(昭和2年)3月、航空兵大尉に昇進。
阿部 孝次郎(あべ こうじろう、1897年1月3日 - 19… 阿部 孝次郎(あべ こうじろう、1897年1月3日 - 1990年10月18日)は、日本の実業家。東洋紡績社長・会長。阿部房次郎の長男。滋賀県出身。 滋賀県出身。知られた美術蒐集家でもあった阿部房次郎とゑみの長男として生まれる。大正10年(1921年)、京都帝国大学工学部機械工学科卒業。 同年父・房次郎が社長を務める東洋紡績に入社。昭和17年(1942年)取締役、昭和21年(1946年)常務を経て、昭和22年(1947年)社長に就任。昭和34年(1959年)会長、昭和41年(1966年)相談役、のち名誉顧問となる。 この間、日本紡績協会委員長、関西経済連合会第6代会長、日本繊維機械学会副会長・会長なども務めた。
朝響 信親(あさひびき のぶちか、1897年1月3日 - 1… 朝響 信親(あさひびき のぶちか、1897年1月3日 - 1960年2月22日)は、愛媛県西宇和郡三瓶町(現西予市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は宮本 延近。身長173cm、体重90kg。最高位は東前頭2枚目(1927年5月場所)。引退後は年寄佐ノ山として後進の指導につとめた。 同郷の大関朝汐の佐ノ山部屋に入門し、1914年1月場所に初土俵を踏んだ。稽古熱心で順調に昇進し、1918年5月に、朝見藤と名乗って十両に昇進、1922年1月には朝見富士と改めて新入幕を果たした。その間、師匠が亡くなったので本家の高砂部屋に移籍した。また、入幕後に朝響と改名している。 1926年5月場所、1927年1月場所と連続して8勝3敗と好成績を収めたのがピークであった。
野溝 七生子(のみぞ なおこ、1897年〈明治30年〉1月2… 野溝 七生子(のみぞ なおこ、1897年〈明治30年〉1月2日 - 1987年〈昭和62年〉2月12日)は、日本の小説家・比較文学者。兵庫県姫路市出身。 父の野溝甚四郎は陸軍軍人で、父の赴任先である姫路にて1897年に生まれ、鳥取・金沢・丸亀・大分などで育つ。 香川県立丸亀高等女学校、大分県立大分高等女学校を経て同志社女学校英文科専門部予科に入学。在学中、辻潤・宮島資夫と知合う。彼らは野溝をゲアハルト・ハウプトマンの『沈鐘』(泉鏡花『夜叉ヶ池』の元ネタと言われる)のラウテンデラインに因んで「ラウ」と呼んだ。卒業後、東洋大学専門学部文化学科で西洋哲学を学ぶ。
桐ノ花 光之助(きりのはな みつのすけ、明治30年(1897… 桐ノ花 光之助(きりのはな みつのすけ、明治30年(1897年)1月2日 - 平成5年(1993年)8月24日)は、大正時代の大相撲力士。春日山部屋→立浪部屋所属。本名は冨永 惣治。最高位は西十両2枚目。 千葉県天羽郡湊町(現・富津市)出身。高等小学校卒業後、14歳の時家出同然で上京。畳屋で働いた後、春日山部屋へ入門し、緑嶌友之助の内弟子となる。明治45年(1912年)5月場所「湊浪」の四股名で初土俵を踏む。大正3年(1914年)1月、序ノ口に上がり、初めて番付に載った。翌大正4年(1915年)5月に師匠緑嶌が引退し、立浪部屋として正式に独立したのに伴い移籍した。大正7年(1918年)1月、三段目で「桐ノ花」に改名。
三島 通陽(みしま みちはる、1897年(明治30年)1月1… 三島 通陽(みしま みちはる、1897年(明治30年)1月1日 - 1965年(昭和40年)4月20日)は、日本の政治家・小説家・劇作家・演劇評論家。位階・勲等・爵位は正三位勲二等子爵。二荒芳徳とともにボーイスカウト運動を日本に広めた人物として知られる。東京府麻布区生まれ、学習院中退。ペンネームに三島 章道(みしま しょうどう)。 祖父は三島通庸。父は第8代日本銀行総裁を務めた三島弥太郎、母は四条隆謌侯爵の三女・加根子。妹・壽子の夫は阪谷希一、妹・梅子の夫は土方与志。妻は松岡均平の長女・純。叔父に三島弥彦がいる。 幼少期から文学に親しむ。一方で、祖母・和歌子から薩摩の郷中の掟を教わる[要出典]。
四代升本 喜兵衛(ますもと きへえ、1897年1月1日 - … 四代升本 喜兵衛(ますもと きへえ、1897年1月1日 - 1980年11月28日)は、日本の法学者・弁護士・裁判官・実業家。商法学者。法学博士(中央大学)。元中央大学理事長・総長・学長。兵庫県養父郡八鹿町出身
四代升本 喜兵衛(ますもと きへえ、1897年1月1日 - … 四代升本 喜兵衛(ますもと きへえ、1897年1月1日 - 1980年11月28日)は、日本の法学者・弁護士・裁判官・実業家。商法学者。法学博士(中央大学)。中央大学理事長・総長・学長。兵庫県養父郡八鹿町(現:養父市)出身。升本喜兵衛3代目の娘婿。 1915年旧制海城中学校卒業。1919年中央大学法学部卒業。司法官試補。東京地方裁判所判事。1924年東京地方裁判所退官。弁護士登録。商法研究のためにドイツ、イギリスに留学( - 1927年)。1928年中央大学法学部教授に就く。1941年中央大学評議員。1947年中央大学理事( - 1951年)。1951年中央大学法学部長( - 1957年)。1960年中央大学理事( - 1974年)。
二木 謙吾(ふたつぎ けんご、1897年〈明治30年〉1月1… 二木 謙吾(ふたつぎ けんご、1897年〈明治30年〉1月1日 - 1983年〈昭和58年〉12月22日)は、日本の政治家、教育者、実業家。初代学校法人宇部学園理事長、宇部興産顧問、山口県議会議長、参議院議員(3期)、大蔵政務次官、自由民主党両院議員総会長。 1897年(明治30年)、宇部村(現宇部市)に生まれる。福岡県で炭鉱業に参画するが経営的には失敗し帰郷、山口師範学校本科第一部を卒業し教員に転身する。教育者としての頭角を現した二木は、公立学校長など要職を務めるうちに宇部市の教育界で信頼を得、1942年(昭和17年)12月に蔵原経智から宇部女子商業学校の学校運営を受託、同校の理事長兼校長に就任し学校経営に参入する。
五鬼上 堅磐(ごきじょう かきわ、1897年1月1日 - 1… 五鬼上 堅磐(ごきじょう かきわ、1897年1月1日 - 1971年3月7日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事、学校法人中央大学理事長。三重県熊野市出身。 1922年(大正11年)中央大学法科2年を終えた後で同年9月に弁護士試験に合格し、法律家生活をスタートした。 弁護士を続け、1946年(昭和21年)5月に大審院検事となり、同年6月に司法大臣官房秘書課長、1947年(昭和22年)12月に最高裁判所事務総局事務次長を歴任。 1950年(昭和25年)6月に最高裁判所事務総長となり、約8年間、司法行政の総元締めとして、裁判所部内や最高裁機構改革問題(1957年に最高裁機構改革法案が国会に提出されるも廃案)などに取り組んだ。
荒尾 静一(あらお せいいち、1897年1月 - 没年不詳)… 荒尾 静一(あらお せいいち、1897年1月 - 没年不詳)は、日本の元俳優、舞踏家、振付師、元オペラ歌手である。荒尾 靜一と表記されることもある。本名及び旧芸名は吉冨 一郎(よしとみ いちろう)。マキノ・プロダクションの主要人物の一人であり、東京少女歌劇団の花形としても知られる。 1897年(明治30年)1月、鹿児島県に生まれる、とされている。『日本歌劇俳優写真名鑑』(歌舞雑誌社)には、生年は「明治三十年五月十三日」(1897年5月13日)である旨が記されている。また、2000年(平成12年)4月1日に発行された『日本映画興亡史 マキノ一家』(ワイズ出版)には、生年・出生地は不詳としている。 旧制・海城中学校(現在の海城高等学校)在学中から音楽研究所で声楽を学び、1912年(明治45年)、同中学校卒業後は早稲田大学に進学する傍ら高田舞踊団に入団、西本朝春らと同じ小学校出身の高田雅夫、石井漠らに師事して舞踊を学ぶ。
田中 省吾(たなか しょうご、1896年(明治29年)1月3… 田中 省吾(たなか しょうご、1896年(明治29年)1月31日 - 1967年(昭和42年)10月9日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事。 岐阜県出身。田中梅之助の長男として生まれる。東京高等師範学校を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、京都帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し土木局属となる。 以後、長野県警察部特別高等警察課長、同警務課長、大阪府警察部特別高等警察課長、内務事務官(欧州駐在)、千葉県書記官・警察部長、愛知県書記官・警察部長、内務省土木局道路課長、同河川課長などを歴任。 1942年5月、佐賀県知事に就任。戦時体制の整備に尽力。1944年8月、農商省生活物資局長に転じた。