三浦 篤(みうら あつし、1888年(明治21年)1月 - … 三浦 篤(みうら あつし、1888年(明治21年)1月 - 1973年(昭和48年)5月29日)は、宮内官僚。宮城県古川市長。位階は正三位。 宮城県出身。旧制宮城県立古川中学校(現在の宮城県古川高等学校)を経て、1913年(大正2年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。帝室林野局事務官、内蔵寮主計課長・財務課長、大臣官房大膳課長、内蔵頭、帝室林野局長官を歴任した。 のち古川市長を務めた。
関 俊吉(せき しゅんきち、1888年(明治21年)1月 -… 関 俊吉(せき しゅんきち、1888年(明治21年)1月 - 1961年(昭和36年)5月8日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(奈良県第一区選出、当選1回)。岡合名会社、大和毎日新聞社各社長。関藤商店取締役。族籍は奈良県平民。 奈良市生まれ。呉服商、実業家関藤次郎の二男。実業家関信太郎の弟。専修大学経済科卒業。東洋拓殖、豊国火災保険各会社員となる。1915年、分家して一家を創立する。 1924年、第15回衆議院議員総選挙に立候補し、当選。立憲民政党に所属。関は新思想の所有者として普通選挙の即行を高唱していた。奈良県在籍で、住所は奈良市紀寺町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
坂根 準三(さかね じゅんぞう、1888年〈明治21年〉1月… 坂根 準三(さかね じゅんぞう、1888年〈明治21年〉1月 - 1945年〈昭和20年〉10月10日)は、日本の外交官。駐コロンビア公使。 東京府出身。1913年(大正2年)、高等文官試験に合格し、1915年(大正4年)に東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業した。1917年(大正6年)、外交官及領事官試験に合格し、イギリスに領事官補として赴任した。リヴァプール領事、外務事務官・通商局監理課勤務兼特許局事務官、通商局第二課長兼農林書記官、アントウェルペン領事などを歴任。1927年(昭和2年)、漢口総領事となり、のち青島総領事に転じた。1935年(昭和10年)休職となるが、1937年(昭和12年)に復職し、サンパウロ総領事となった。
小川 孝喜(おがわ たかよし、1887年(明治20年)1月3… 小川 孝喜(おがわ たかよし、1887年(明治20年)1月30日 - 1950年(昭和25年)11月18日)は、日本の政治家。立川町(現:立川市)の初代町長、立川市の初代市長である。
高堂 国典(、1887年(明治20年)1月29日 - 196… 高堂 国典(、1887年(明治20年)1月29日 - 1960年(昭和35年)1月22日)は、日本の俳優。本名は谷川 佐市郎()。一時は高堂 黒天の芸名で活動していた。通り名は「こくてん」。 戦前は帝国キネマと市川右太衛門プロダクションで活躍し、戦中から戦後にかけて東宝に出演した。老け役として個性を発揮し、様々な作品に脇役で活躍。黒澤明作品の常連の一人でもある。 兵庫県高砂市に生まれる。 関西学院中学部中退後の1901年(明治34年)新派の村田正雄の門下に入り、大阪横井座で初舞台を踏んだ後地方巡業で各地を回る。 1923年(大正12年)帝国キネマ小阪撮影所現代劇部に入社後本格的に映画俳優として活動を始め、『呪いの船』『復讐鬼』『星は乱れ飛ぶ』といった作品に出演する。
緒方 規雄(おがた のりお、1887年1月28日 - 197… 緒方 規雄(おがた のりお、1887年1月28日 - 1970年2月6日)は、日本の医学者、細菌学者。 東京府出身。父は衛生学者、細菌学者である緒方正規。1916年に東京帝国大学医科大学を卒業。その後、父のもとで細菌学を学び、東大副手、助手を務め、1919年に千葉医学専門学校の教授となった。1922年にドイツに留学した。帰国後の1924年に千葉医科大学の教授となった。その後は、帝国女子医学専門学校教授、東邦大学医学部教授、日本歯科大学教授を歴任した。 1927年にウサギの睾丸にツツガムシ病患者の血液を接種し、睾丸から睾丸へ継代することにより、ツツガムシ病の病原を患者から研究室に確実に持ち込むことに初めて成功した。
太田 泰治(おおた たいじ、1887年1月25日 - 196… 太田 泰治(おおた たいじ、1887年1月25日 - 1960年2月12日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 岡山県出身。太田吉三郎の二男として生れる。岡山津山中学校を経て、1909年11月、海軍兵学校(37期)を卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。1916年12月、海軍砲術学校高等科を卒業し、以後、「薩摩」「浅間」「扶桑」の各分隊長、「澤風」砲術長、東郷平八郎元帥付副官、「三日月」「初雪」の各駆逐艦長、横須賀鎮守府参謀、海軍省軍務局員などを経て、1926年6月から翌年1月にかけて欧米に出張した。 人事局員(第1課)、「加古」「榛名」の各副長、運送艦「洲埼」・「大井」・「浅間」の各艦長、軍務局第2課長などを歴任し、1936年12月、海軍少将に進級した。
鈴木 吉之助(すずき きちのすけ、1887年1月25日 - … 鈴木 吉之助(すずき きちのすけ、1887年1月25日 - 1951年12月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 京都府出身。1907年日本大学商科卒。京都市議、同参事会員、同副議長、京都府議、同副議長、同参事会員、同市部会議長、京都市教育会理事、同連合青年団評議会議長、京都土地興業(株)常務取締役、京都毎日新聞社長、京都市児童愛護連盟理事長となる。 1928年の第16回衆議院議員総選挙において京都1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して初当選。以来連続3回当選した。1930年の第17回衆議院議員総選挙で再選。1932年の第18回衆議院議員総選挙で三選。1936年の第19回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
宇野 茂兵衛(うの もへえ、1887年〈明治20年〉1月22… 宇野 茂兵衛(うの もへえ、1887年〈明治20年〉1月22日 - 没年不明)は、日本の実業家。宇野製粉所代表社員。関西製鋼監査役。族籍は大阪府平民。 大阪府平民・宇野庄壽計の長男。1900年3月、家督を相続する。鋳物、製粉業を営む。会社の重役である。住所は大阪府泉南郡貝塚町(現・貝塚市)。 貝塚市北町の宇野家はもともとは貝塚鋳物師(いもじ)である金屋長右衛門(かなやちょうえもん)家の分家で、代々「茂兵衛」を名乗り、製粉業を営んだ。1887年ごろに長右衛門家の鋳物業を引き継いだ。宇野家住宅は登録有形文化財である。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
梶島 二郎(かじしま じろう、1887年1月21日 - 19… 梶島 二郎(かじしま じろう、1887年1月21日 - 1974年)は、日本の数学者。旧制鹿児島県立工業専門学校初代校長、新制鹿児島県立大学初代工学部長・第2代学長・名誉教授。 東京都出身。1906年、第七高等学校造士館理科を卒業。1909年、東京帝国大学理科大学(現東京大学理学部)数学科を卒業。1912年、東京帝国大学文科大学(現東京大学文学部)哲学科を卒業。1913年、大学院修了。東京工業大学附属予備部教授、予備部長を歴任。鹿児島県に招かれて、1945年4月1日、鹿児島県立工業専門学校校長事務取扱に着任し、5月25日付で初代校長に就任。また、鹿児島県立鹿児島工業学校校長も兼務した。 学制改革により1949年には、旧制工専校長の梶島が、新制鹿児島県立大学(初期校名は県立鹿児島大学)の教授および初代工学部長に就任。
山田 毅一(やまだ きいち、1887年(明治20年)1月21… 山田 毅一(やまだ きいち、1887年(明治20年)1月21日 – 1953年(昭和28年)4月15日)は、衆議院議員(立憲民政党)、ジャーナリスト。 富山県東礪波郡福野町(現在の南砺市)出身。早稲田大学・東京外国語学校に学んだ後、『東京日日新聞』・『やまと新聞』・『國民新聞』の記者を務めた。その間、樺太・沿海州・南洋諸島・欧米諸国などを歴訪した。その後、復興通信社を創業し、社長に就任した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その後、南進社、南方産業調査会を主宰し、南方政策を研究した。
長井 亜歴山(ながい あれきさん、1887年〈明治20年〉1… 長井 亜歴山(ながい あれきさん、1887年〈明治20年〉1月19日 - 1966年〈昭和41年〉6月12日)は、日本の外交官、弁護士、弁理士。東京帝国大学法学部卒業。 父はエフェドリンの発見者で日本薬学の父として知られる長井長義。祖父は徳島藩医の長井琳章。 1887年(明治20年)、近代薬学の開祖である長井長義とドイツ人女性のテレーゼ・シューマッハの長男として生まれる。第一高等学校仏法科を経て、東京帝国大学法学部を卒業後、逓信省勤務、久原本店勤務を経て、外交官となり、6ヶ国語に精通した。また勝海舟の孫で、目賀田種太郎の次女・多計代(たけよ)と結婚した。 駐ドイツ日本国大使館付商務官となり、第二次世界大戦のベルリン陥落後はアメリカ軍によりワシントンD.C.に連行された。
竹上 藤次郎(たけがみ とうじろう、1887年(明治20年)… 竹上 藤次郎(たけがみ とうじろう、1887年(明治20年)1月17日)- 1961年(昭和36年)8月13日)は、大正から昭和期の日本の実業家、政治家。衆議院議員、京都府会議長、京都商工会議所会頭。 京都府 京都市上京区五辻通大宮五辻町で、生糸問屋「八文字屋」通称「八藤」当主・竹上藤造の二男として生まれる。桃薗校を経て京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)に入学。1902年(明治35年)弁護士を目指して京都法政学校(現立命館大学)に転じたが、同年末、父の意思で第一商業に復帰し、1907年(明治40年)3月に卒業。その後、日本大学法律学科に進んだが、家業の継承のため中退し帰郷した。
坂口 静夫(さかぐち しずお、1887年1月17日 - 19… 坂口 静夫(さかぐち しずお、1887年1月17日 - 1947年3月23日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本藩士・坂口騏十郎の三男として生まれる。中学済々黌を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、陸軍少尉に任官。 1920年8月、歩兵第48連隊中隊長に就任し、陸軍兵器本廠員、陸士予科中隊長などを経て、1925年4月、近衛歩兵第3連隊付(東京府立第二中学校配属将校)となる。歩兵第27連隊付、第1師団司令部付、第7師団副官、歩兵第24連隊付、独立守備歩兵第9大隊長などを歴任し、1937年8月、陸軍大佐に昇進。 1937年11月、第16師団司令部付(第三高等学校配属将校)となり、歩兵第109連隊長を経て、1939年9月、陸軍少将に進級。
松田 竹太郎(まつだ たけたろう、1887年(明治20年)1… 松田 竹太郎(まつだ たけたろう、1887年(明治20年)1月16日 - 1944年(昭和19年)5月8日)は、日本の工学者・海軍軍人。最終階級は、海軍少将。 東京府立工業奨励館・東京商工奨励館館長などを歴任。
葛西 善蔵(かさい ぜんぞう、1887年(明治20年)1月1… 葛西 善蔵(かさい ぜんぞう、1887年(明治20年)1月16日 - 1928年(昭和3年)7月23日)は、日本の小説家である。自身の貧困や病気といった人生の辛苦や酒と女、人間関係の不調和を描き、「私小説の神様」と呼ばれた。 青森県中津軽郡弘前松森町(現・弘前市)で当時米の仲買業をしていた父・卯一郎、母・ひさの長男として生まれた。姉二人(長女・いそ、次女・ちよ)と祖母・かよがいた。また、同年に弟の勇蔵が生まれている。 1889年(明治22年)、家業不振により一家で北海道に移住。1891年(明治24年)、一家で青森に戻り、青森町を経て五所川原村に移住。1893年(明治26年)、青森県五所川原小学校に入学するが、母の故郷である碇ヶ関村への一家の転居にともない、碇ヶ関小学校に転校する。
大麻 勇次(おおあさ ゆうじ、1887年(明治20年)1月1… 大麻 勇次(おおあさ ゆうじ、1887年(明治20年)1月16日 - 1974年(昭和49年)2月22日)は、日本の剣道家。段位は範士十段。熊本の新陰流(上野新陰流)の和田傳の弟子。 1887年(明治20年)、熊本県玉名市安楽寺に生まれる。弟は後に衆議院議員、国家公安委員会委員長を務める大麻唯男。 1909年(明治42年)から1910年(明治43年)まで、大日本武徳会本部講習生として剣道を修行する。 その後、熊本に帰り、大日本武徳会熊本支部、熊本陸軍幼年学校で剣道を指導する。 1915年(大正4年)、精錬証を授与される。 1921年(大正10年)12月から1945年(昭和20年)まで、大日本武徳会佐賀支部、佐賀県警察部、佐賀高校などの剣道師範を歴任。
品川 主計(しながわ かずえ、1887年1月15日 - 19… 品川 主計(しながわ かずえ、1887年1月15日 - 1986年2月14日)は、日本の内務官僚、実業家、読売ジャイアンツ球団社長。「球界の頑固親父」との異名も持つ[要出典]。従五位。 福井県福井中学校卒業後、1904年9月 旧制第四高等学校に入学した。同期には正力松太郎や河合良成がいた。第四高等学校卒業後は東京帝国大学に入学、同期に正力、河合の他、重光葵、芦田均、石坂泰三など。 東京帝国大学卒業後、内務省に入省して警視庁警視、京都府書記官・内務部長、宮城県書記官・内務部長などを務めた。1932年の満州国成立後、監察院長、監察院審計部長などを務める。黒竜江省長の韓雲階による汚職を摘発、一時彼を要職から遠ざけた。
杉生 糺 (すぎう ただす、1887年1月15日 – 196… 杉生 糺 (すぎう ただす、1887年1月15日 – 1968年)は、日本の弁護士。初代名古屋高等裁判所長官。 明治20年(1887年)福井県三方郡三方町に生まれる。昭和37年3月 – 旧制小浜中学校卒業、第一高等学校入学。 大正2年 6月 – 東京大学法学部卒業。大正3年3月 – 弁護士開業。大正11年 – 東京市浅草区会議員当選。昭和14年 – 弁理士。 昭和22年9月26日 – 名古屋高等裁判所長官。昭和27年1月14日 – 定年退官。昭和27年2月 – 弁護士復帰。
笹部 新太郎(ささべ しんたろう、1887年1月15日 - … 笹部 新太郎(ささべ しんたろう、1887年1月15日 - 1978年12月19日)は、日本の植物学者。東京帝国大学在学中から桜の研究を始め、特にサトザクラ、ヤマザクラなどの日本古来種の保護育成に尽力し、「桜博士」といわれた。 1887年1月15日、大阪市北区堂島船大工町に生まれる。西天満小学校、盈進高等小学校、堂島中学校(現北野高校)、第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学法科大学政治学科に入学。在学中より独学で桜の研究に打ち込む。卒業後は犬養毅の秘書をした後、兵庫県宝塚市切畑長尾山の麓(現在のJR西日本福知山線武田尾駅近辺)に桜の研修を行う演習林「亦楽山荘」を造園。品種保存などを研究した。没後は荒れて雑木林となったが、親族より跡地を寄贈された宝塚市が1999年に里山公園「桜の園」として再整備。
本村 善太郎(もとむら ぜんたろう、1887年〈明治20年〉… 本村 善太郎(もとむら ぜんたろう、1887年〈明治20年〉1月15日 - 1970年〈昭和45年〉6月24日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。佐賀県出身。 1915年(大正4年)に京都帝国大学独法科を卒業し、すぐに弁護士になった。第一東京弁護士会に所属し、弁護活動をする一方で日本発送電会社の顧問や調停委員などを務めた。 1951年(昭和26年)4月に第一東京弁護士会の司法制度調査委員会委員長、次いで同5月に日弁連人権擁護委員会委員長となり、弱者の救済に尽くした。 1952年(昭和27年)1月に最高裁判所判事に就任。就任の際には「裁判以外に何事も関心なし。裁判を通じで法治国の体面、内容を充実したい。
武政 太郎(たけまさ たろう、1887年1月13日 - 19… 武政 太郎(たけまさ たろう、1887年1月13日 - 1965年1月7日)は、日本の心理学者。 岡山県出身。1921年東京高等師範学校卒、27年東京帝国大学文学部心理学科卒。大学院在籍、29年東京文理科大学助教授、教授。31-33年ドイツ・ロストック大学に学ぶ。1942年「学習心理の研究」で東京文理科大学より文学博士の学位を取得。神奈川大学教授、大妻女子大学教授、講談社児童相談所長。
大島 堅造(おおしま けんぞう、1887年〈明治20年〉1月… 大島 堅造(おおしま けんぞう、1887年〈明治20年〉1月11日 - 1971年〈昭和46年〉11月24日)は、日本の実業家。住友銀行専務、住友本社取締役、経済評論家。 群馬県太田市大島町出身。東京府立一中に学ぶ。1909年(明治42年)東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。 同年住友銀行に入行。1917年(大正6年)ニューヨーク支店長代理となる。1923年(大正12年)本店外国課長。1925年(大正14年)本店支配人。1932年(昭和7年)常務取締役。1943年(昭和18年)専務取締役。1944年(昭和19年)まで同取締役、1945年(昭和20年)まで同監査役を務めた。1943年(昭和18年)から1947年(昭和22年)まで住友本社監事を務めた。
望月 桂(もちづき かつら、1887年(明治20)1月11日… 望月 桂(もちづき かつら、1887年(明治20)1月11日 - 1975年(昭和50)12月13日)は、アナキストの画家、デザイナー、漫画家である。漫画家としては筆名を犀川 凡太郎(さいかわ ぼんたろう)とする。
佐藤忠次郎(さとう ちゅうじろう、1887年1月11日 - … 佐藤忠次郎(さとう ちゅうじろう、1887年1月11日 - 1944年)は、佐藤造機(後の三菱農機 → 三菱マヒンドラ農機)の創設者。島根県出雲郷村(現・松江市)出身。
金野 岩治(こんの いわじ、1887年(明治20年)1月10… 金野 岩治(こんの いわじ、1887年(明治20年)1月10日 - 1969年(昭和44年)5月29日)は、日本の政治家、旧鶴岡市第2代市長。 1888年(明治21年)3月1日山形県西田川郡加茂村(現・鶴岡市加茂)に飛塚元次郎の次男として生れる。その後、東田川郡広瀬村(現・鶴岡市羽黒町)の酒造業経営・今野岩治の婿養子となり、「岩治」を襲名する。 1905年(明治38年)、荘内中学校(山形県立鶴岡南高等学校)を卒業し(同窓生に小林鉄太郎がいた。)、 大阪工業高等学校で学ぶ。その後は、 会社員を経て、鶴岡市会議員となる。 1927年(昭和2年)5月 鶴岡市長選挙に立候補して初当選。同年10月、 同職を辞任し山形県会議員選挙に立候補するが落選。
小島 智善(こじま ともよし、1887年(明治20年)1月1… 小島 智善(こじま ともよし、1887年(明治20年)1月10日 - 1950年(昭和25年)3月7日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 福島県田村郡飯豊村(現在の小野町)出身。第二高等学校を経て、1914年(大正3年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。大場茂馬の弁護士事務所に勤務した後、1917年(大正6年)に東京市麹町区に事務所を開いた。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他に日米信託株式会社顧問を務めた。
白石 喜太郎(しらいし きたろう、1887年(明治20年)1… 白石 喜太郎(しらいし きたろう、1887年(明治20年)1月7日 - 1945年(昭和20年)7月28日)は、高知県出身の日本の実業家、計理士、渋沢栄一、敬三に仕え、渋沢同族株式会社の専務取締役になどを歴任した。 1887年(明治20年)、先代喜太郎と丑の長男として高知県安芸郡田野村(現・田野町)に生まれる。1896年(明治29年)先代喜太郎が病没、家督相続し又喜を改め襲名。1905年(明治38年)、高知県立中学海南学校を卒業後、官立東京高等商業学校(高等商業学校を改称、東京高商、現・一橋大学)に入学。渋沢事務所の八十島親徳に保証人を依頼。在学中は、休暇の前後に八十島を訪問し、種々教えを受ける。
森 俊成(もり としなり、1887年(明治20年)1月4日 … 森 俊成(もり としなり、1887年(明治20年)1月4日 – 1956年(昭和31年)9月16日)は、日本の華族、政治家。貴族院子爵議員、中野町長。旧三日月藩主森家第11代当主。旧名は訥郎。 子爵関博直の四男として生まれ、1900年(明治33年)に子爵森長祥の養子となり家督を相続した。1915年(大正4年)、京都帝国大学法科大学を卒業した。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出された。1928年(昭和3年)には東京府豊多摩郡中野町(現在の東京都中野区南部)の町長に選出され、1932年(昭和7年)に中野町が東京市に編入され消滅するまで在任した。中野町消滅後に東京市会議員選挙に出馬し、当選。
岡田 壽吉(おかだ ひさきち / じゅきち、1887年1月4… 岡田 壽吉(おかだ ひさきち / じゅきち、1887年1月4日 - 1949年3月6日以降)は、長崎市長(2期)。1945年8月9日の長崎原爆投下時の市長でもあった。名前は寿吉とも表記される。 兵庫県出身。1921年東京帝国大学法学部を卒業。三菱重工長崎造船所に入り、総務部長、副長などを務め、その一方、長崎市会議員を2期務めた。1941年10月22日長崎市長に就任した。民間出身としては初の市長となった。就任直後に太平洋戦争が勃発、戦時体制が強化されるなか困難な市政運営であった。 1945年8月9日、長崎市への原子爆弾投下により市内に甚大な被害が生じた。岡田は市庁舎に居て被爆したものの助かったが、爆心地から約200ⅿの位置にあった自宅の妻と長女、旧制瓊浦中学に通学していた長男の家族3名を失った。
内海 勝二(うつみ かつじ、1887年(明治20年)1月3日… 内海 勝二(うつみ かつじ、1887年(明治20年)1月3日 - 1967年(昭和42年)12月16日)は、大正から昭和期の実業家、華族。貴族院男爵議員、従三位。孫の貴子は朝香誠彦の妻。 男爵・内海忠勝の二男として東京都に生まれる。1912年(明治45年)に慶應義塾大学部政治科卒業後に渡米した。1905年(明治38年)2月22日、父の死去に伴い男爵を襲爵。 1919年(大正8年)内海化学研究所を設立して所長に就任。その他、発明協会評議員、国民工業学院評議員、慶應義塾評議員等を歴任し、東京民事地方裁判所調停委員となる。 1946年(昭和21年)5月11日、貴族院男爵議員に補欠選挙で当選し、公正会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
豊島 長吉(とよしま ちょうきち、1887年(明治20年)1… 豊島 長吉(とよしま ちょうきち、1887年(明治20年)1月2日 - 1949年(昭和24年))は、日本の内務官僚。官選栃木県知事。 愛媛県大内郡黒羽村(香川県大川郡相生村大字黒羽、引田町を経て現東かがわ市黒羽)で、豊島九平、清の二男として生まれる。第一高等学校を卒業。1913年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し京都府属となる。 以後、長崎県理事官、地方視学官、福井県警察部長、愛媛県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、神奈川県書記官・警察部長などを歴任。 1931年12月、栃木県知事に就任。阿久津村小作争議事件の解決に尽力。
清水 登之(しみず とし、1887年(明治20年)1月1日 … 清水 登之(しみず とし、1887年(明治20年)1月1日 - 1945年(昭和20年)12月7日)は、栃木県出身の画家。 栃木県下都賀郡国府村大字大塚(現・栃木市大塚町)で、清水藤十郎・ムラ夫妻の長男として生まれる。弟は東亜同文書院教授や外交官となった清水董三。(旧制)栃木県立栃木中学校から陸軍士官学校への進学を志し成城学校に転校。1906年に同校を卒業するも陸軍士官学校への受験に失敗し、翌年には単身アメリカ合衆国へ渡航する。暫くはシアトルで肉体労働に従事するが、1912年にオランダ人画家フォッコ・タダマが同地で開いていた画塾に入門した(同時期、洋画家の田中保や石垣栄太郎もここで学んでいる)。
國東 照太(くにとう てるた、1887年(明治20年)1月1… 國東 照太(くにとう てるた、1887年(明治20年)1月1日 - 1972年(昭和47年)6月11日)は、日本の政治家、実業家。1938年に高松市会議員を経て、1946年から1967年までの官選1期公選5期の21年にわたり高松市長を務めた政治家であると同時に、グローバルに展開する零細企業集団「国東財閥グループ」の創始者たる実業家でもある。高松市名誉市民。 1887年(明治20年)1月1日、香川県香川郡中ノ村(後に栗林村大字中村、現・高松市中野町)に父長太郎、母ツネの長男として生まれる。両親は家の東側を流れる川で紙の手漉き製造を生業としていた。 栗林尋常小学校(現・高松市立栗林小学校)を卒業後、10歳で紫山高等小学校(高松市天神前、現・アイパル香川)へ進学。
國東照太(くにとう てるた、1887年1月1日 - 1972… 國東照太(くにとう てるた、1887年1月1日 - 1972年6月11日)は、日本の政治家、実業家。1938年に高松市市議会議員を経て、1946年から1967年までの官選1期公選5期の21年にわたり高松市長を務めた政治家であると同時に、高松市を中心とする企業集団「常磐グループ」の創始者たる実業家でもある。高松市名誉市民。
嶋居 哲(島居、しますえ てつ、1887年1月1日 - 19… 嶋居 哲(島居、しますえ てつ、1887年1月1日 - 1979年3月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 広島県出身。1909年、大阪高等商業学校卒。のち京都帝国大学独法科で学ぶ。その後、尾道市会議員、同議長、鉄道大臣秘書官となる。また、尾道電燈、尾道鉄道、広島農産各(株)取締役、尾道自動車(株)社長、備南銀行頭取、島居商店、島居電機(株)取締役社長、嶋居薬品、嶋居薬局各社長、中国薬品卸連合会会長を務めた。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において広島3区(尾道市)から立憲政友会公認で立候補して当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では広島3区(中選挙区)から立候補して再選した。
安原 舜一(やすはら しゅんいち、1887年(明治20年)1… 安原 舜一(やすはら しゅんいち、1887年(明治20年)1月 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。産業設備営団参事。 岡山県出身。1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。広島県警視、同理事官、大阪府理事官、鳥取県書記官・警察部長、香川県書記官・警察部長、高知県書記官・学務部長、埼玉県書記官・学務部長、愛媛県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、兵庫県書記官・学務部長、東京府書記官・学務部長、栃木県書記官・内務部長、新潟県書記官・総務部長を歴任し、1937年(昭和12年)に退官した。 その後、熊本市助役や産業設備営団参事を務めた。
亀山 恭平(かめやま きょうへい、1887年(明治20年)1… 亀山 恭平(かめやま きょうへい、1887年(明治20年)1月 - 没年不明)は、日本の銀行家。日本勧業銀行地方顧問。族籍は岐阜県士族。 岐阜県士族・亀山顕造の二男。1908年、家督を相続した。1910年、東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。濃飛農工銀行支配人、取締頭取等を歴職。宗教は神道。住所は岐阜県岐阜市神田町二丁目、同市八ッ寺町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大林 千萬樹(おおばやし ちまき、1887年(明治20年)1… 大林 千萬樹(おおばやし ちまき、1887年(明治20年)1月‐1959年(昭和34年)4月26日)は、大正時代から昭和時代の日本画家で、主に再興院展にて活動し、江戸期の歴史風俗に取材した温和な美人画を多く描いた。娘の大林蘇乃(1910‐1971)は元日本工芸会正会員の桐塑人形作家。 1887年(明治20年) 1月5日、岡山県岡山市平野町(現在の岡山市北区天瀬南町)に生まれる。名は頼憲。若い時に東京へ出てまず富岡永洗、川合玉堂に師事した後、20歳頃に鏑木清方に入門。清方門下の郷土会展では1915年(大正4年) の第2回展《通い廊》と1916年(大正5年) の第3回展に出品している。 自身の初の出品作としては、1906年(明治39年) 日本美術院 絵画展覧会に《のべの土産》を、また1907年(明治40年) 東京勧業博覧会にも《歌舞》を出品している。
尾藤 加勢士(びとう かせし、1886年(明治19年)1月3… 尾藤 加勢士(びとう かせし、1886年(明治19年)1月31日 - 1947年(昭和22年)10月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1886年(明治19年)に熊本県で生まれた。陸軍士官学校第19期、東京帝国大学冶金学科卒業。1928年(昭和3年)に陸軍科学研究所所員となり、1931年(昭和6年)に陸軍砲兵大佐に進級。1934年(昭和9年)から陸軍技術本部米国駐在官となる。 1936年(昭和11年)に陸軍少将に進級し、陸軍科学研究所第1部長に就任する。1937年(昭和12年)に陸軍造兵廠大阪工廠長を経て、1939年(昭和14年)に陸軍中将に進級し、陸軍科学研究所所長に就任。1941年(昭和16年)6月に第8陸軍技術研究所長兼第6陸軍技術研究所長となり、1942年(昭和17年)10月15日まで務めた。
高田 蝶衣(たかだ ちょうい、1886年1月30日 - 19… 高田 蝶衣(たかだ ちょうい、1886年1月30日 - 1930年9月23日)は、兵庫県津名郡釜口村字里(現:淡路市釜口字里)出身の俳人。旧制洲本中学校卒。中学の教頭・大谷繞石の影響で俳句をはじめ「ホトトギス」に投句、同人誌「落葉」を主宰。1904年、早稲田大学政経科入学。1906年、高浜虚子の 「俳諧散心句会」に参加し指導を受ける。同年、肋膜炎のため大学を中退し帰郷。故郷で小学校の教諭となるが、病のため続かず俳句を主とし「ホトトギス」「懸葵」に投句した。1908年に句集『島舟』(俳書堂)を出版。河東碧梧桐門とも交流があった。1917年に神戸湊川神社の主典となったが、やはり病の悪化のため1919年に帰郷している。
堀場 信吉(ほりば しんきち、1886年1月29日 - 19… 堀場 信吉(ほりば しんきち、1886年1月29日 - 1968年2月16日)は、日本の物理化学者ならびに教育者である。京都府生まれ。堀場製作所の創業者である堀場雅夫の父である。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
関口 鯉吉(せきぐち りきち、1886年1月29日 - 19… 関口 鯉吉(せきぐち りきち、1886年1月29日 - 1951年8月10日)は、日本の天文学者、気象学者、東京帝国大学名誉教授。関口隆吉の四男。新村出(言語学者)は実兄。朝永振一郎の義父。 静岡県出身。旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学理科大学星学科卒業。朝鮮総督府観測所、神戸海洋気象台、中央気象台技師などを経て、1936年東京帝大教授兼東京天文台長。1946年定年退官、1949年まで帝国女子理学専門学校(現在の東邦大学)校長。戦前の一時期、文部省専門学務局長として科学行政に携わり、科学研究費の導入に尽力した。
増島 徳(ますじま とく、1886年(明治19年)1月29日… 増島 徳(ますじま とく、1886年(明治19年)1月29日 - 1965年(昭和40年)6月21日)は、日本の医師、政治家。 奥富村(現・狭山市)出身。1909年、日本医学校(現日本医科大学)を卒業。1920年、飯能町(現・飯能市)に病院を創設した。戦後、飯能町議会議員に当選、公約の学校給食の実施を行った。1949年、細田栄蔵に替わり町長に就任したが、元加治分村問題を受け、1952年に辞任した。 1958年、飯能市長選に出馬したが、現職の町田右之亮に敗れた。1962年、飯能市長に無投票当選。公約の下水道と終末処理場の建設を行った。在職中の1965年6月21日に79歳で急死した。 菊作りと蘭の栽培でも知られる。
濱谷 白雨(はまや はくう、明治19年1月28日(1886年… 濱谷 白雨(はまや はくう、明治19年1月28日(1886年) – 昭和40年(1965年)5月9日)は、大正から昭和前期時代にかけての日本画家。本名栄次郎。帝国絵画協会、国民美術協会評議員を歴任。 1886年(明治19年)富山県婦負郡四方町(現富山市)に生まれる。1900年富山県工芸学校(現富山県立高岡工芸高等学校)へ入学、1902年中島秋圃が同校に赴任すると秋圃宅に下宿して日本画の教授を受ける。1905年東京美術学校日本画科に進み、寒声の号で雑誌の挿絵を画く。1910年同校師範科に進む。当初は結城素明、後に紹介推薦で川端玉章の門に入るも画風に疑問をもち脱退する。その後寺崎広業に師事し、和漢の古画の模写に努める。
八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年(明治19年)1月28… 八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年(明治19年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月19日)は、電気工学、通信工学を専門とする日本の研究者、教育者。八木・宇田アンテナの発明家として知られる。東北帝国大学、大阪帝国大学教授、内閣技術院総裁を歴任し、東京工業大学、大阪帝国大学、武蔵工業大学で学長を務めた。八木アンテナ株式会社社長として企業家、参議院議員として政治家の経歴も持つ。日本学士院会員。勲一等瑞宝章受章、文化勲章受章、贈勲一等旭日大綬章(没時陞勲)。栄典は従二位。 電気工学を専門とし、宇田新太郎と共に開発した「八木・宇田アンテナ」の共同発明者として知られている。東北帝国大学や大阪帝国大学での研究指導、教育や、東京工業大学、武蔵工業大学などで学長として奉職するなど、長年にわたり学術研究、教育分野で活躍した。
佐々木 到一(ささき とういち、1886年1月27日 - 1… 佐々木 到一(ささき とういち、1886年1月27日 - 1955年5月30日)は、日本の陸軍の軍人。陸士18期、陸大29期。最終階級は陸軍中将。陸軍きっての中国通で、蔣介石以下国民党領袖のほとんどと親しく、国民党の革命にも理解をよく示した。人民服(中山装)の考案、デザインを行ったともされる。 愛媛県松山市生まれ、広島県広島市育ち。本籍は福井県小浜市。佐々木透(陸軍少佐)の長男として生れる。広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)、広島一中(現・広島県立国泰寺高校)を経て、1902年(明治35年)陸軍士官学校(第18期)入学。1905年(明治38年)11月卒業。同期に山下奉文大将・岡部直三郎大将・阿南惟幾大将ら。
松村 松盛(まつむら まつもり、1886年(明治19年)1月… 松村 松盛(まつむら まつもり、1886年(明治19年)1月25日 - 1945年〈昭和20年〉10月)は、日本の内務官僚。朝鮮総督府官僚。 宮城県大崎市出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、高等文官試験に合格。和歌山県属、同那賀郡長、同理事官、福岡県理事官、同視学官を務めた。その後、朝鮮総督府に転じ、全羅北道警察部長、学務課長、外事課長、鉄道局理事、土地改良課長、殖産局長を歴任し、1931年(昭和6年)に退官した。 退官後は帝国軽金属統制株式会社取締役、野村生命保険株式会社監査役、太平洋石油株式会社顧問、東北更新会専務理事などを務めた。
宮地 直一(みやじ なおかず、1886年(明治19年)1月2… 宮地 直一(みやじ なおかず、1886年(明治19年)1月24日 - 1949年(昭和24年)5月16日)は、日本の内務官僚、神道学者。内務省神社局考証課長、東京帝国大学教授。近代実証神道史学の確立者。 1886年、高知県高知市で生まれた。東京帝国大学文科大学史学科で学び、1908年に卒業。 1909年、内務省入省。神社局考証官、同考証課長などを務め、戦前の日本における神社・神道行政に大きな役割を果たした。内務省に勤務する一方で、大学でも教鞭を取った。1918年より、東京帝国大学文科大学講師として神祇史を担当。1922年からは國學院大學教授として同じく神祇史を担当した。 1938年、内務省を退官して東京帝国大学教授に就任。
佐々木 哲造(ささき てつぞう、1886年〈明治19年〉1月… 佐々木 哲造(ささき てつぞう、1886年〈明治19年〉1月24日 - 1948年〈昭和23年〉)は、日本の政治家、会社重役。青森県会議員。青森県北津軽郡五所川原町長(10代 - 14代、5期)。津軽商事常務。津軽商事、五榮各取締役。 青森県北津軽郡五所川原村の人・佐々木眞平の三男。五所川原の呉服商で、大地主・初代佐々木嘉太郎の孫。1920年、兄・嘉太郎方より分かれて一家を創立した。 1928年9月、五所川原町長に就任、1945年7月に退職した。 宗教は曹洞宗。青森県在籍で、住所は北津軽郡五所川原町(現五所川原市)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。