有川 小三(ありかわ こうぞう、1884年1月13日 - 1… 有川 小三(ありかわ こうぞう、1884年1月13日 - 1973年4月14日)は、鹿児島銀行役員、実業家、弁護士。 8歳にして父を亡くし、有川矢九郎(貞実)宅にて寄食しながら島津奨学資金等の援助により、大正2年7月10日東京帝国大学法科大学(英法)を卒業。 大正2年8月14日、東京青山高樹町住み海軍少将縦四位勲三等功四級、有川貞白の三女愛子と結婚する。 株式会社泰昌銀行(東京)、 古河合名会社(東京)、 株式会社第百四十七銀行 (現、鹿児島銀行)大阪副支店長、 大島支店長、 沖縄支店長、昭和8年8月本店支配人営業部長を歴任。 昭和14年1月、監査役に就任後、銀行合併により職を辞する。 沖縄電気株式会社監査役に選任される。
宮澤 裕(みやざわ ゆたか、1884年〈明治17年〉1月12… 宮澤 裕(みやざわ ゆたか、1884年〈明治17年〉1月12日 - 1963年〈昭和38年〉5月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)。 長野県庁勤めを経て、一時実業界入った後、逓信、内務各大臣秘書官。その間、昭和3年(1928年)郷里の広島3区から衆議院議員に当選して政界入り。以来連続6回当選し、鉄道政務次官、商工省参与などを歴任。内閣総理大臣などを務めた宮澤喜一は長男。 広島県沼隈郡金見村(現・福山市金江町金見)の小さな農家に生まれた。父・鹿吉の時代は生活は楽でなかった。だが教育熱心な鹿吉は、裕が村の小さな小学校を卒業すると、苦しい家計をやりくりして福山中学校に通わせた。裕は中学を卒業すると、さらに上級の高校を目指そうとした。
北村 一郎(きたむら いちろう、1884年(明治17年)1月… 北村 一郎(きたむら いちろう、1884年(明治17年)1月12日 - 1968年(昭和43年)9月18日)は、日本の大正・昭和期における歯科医。名古屋大学教授・愛知県歯科医師会長。長崎県出身。 1884年(明治17年)、本籍は父親の郷里である長崎県で幼少時も長崎で暮らすが、検事であった父の勤務先東京で生まれた。1911年(明治44年)第三高等学校を経て東京帝国大学医科大学を卒業する。 卒業後「ただ歯科をやりたかった」と言う理由で当時唯一の官制歯科学教室であった石原久の教室に入局した。しかし、「歯科医学専門学校は内容を整備して着々と国家的に其存在の根を固め、帝国大学に歯科医学科の無きに係らず歯科医学士の称号を獲得し、其学会は漸次形式内容を整えて学会に加えんとするに至った。
折竹 錫(おりたけ たまう、1884年(明治17年)1月11… 折竹 錫(おりたけ たまう、1884年(明治17年)1月11日 - 1950年(昭和25年)1月13日)は、大正から昭和時代の日本の翻訳家、フランス語学者。号に蓼峰、多音祐、R.T.O。 旧信濃国松本藩士・折竹嘉鋭の長男として長野県諏訪郡にて生まれる。1908年(明治41年)東京帝国大学文学部仏文科を卒業後、陸軍教授を経て、第三高等学校教授となり、河盛好蔵、桑原武夫らに教えた。フランス・ドイツ留学を経て、旧制福岡高等学校長に任ぜられ、その後は、関西日仏学館(現:アンスティチュ・フランセ日本の前身の一つ)教授などを歴任する。
今宿 次雄(いましゅく つぐお、1884年(明治17年)1月… 今宿 次雄(いましゅく つぐお、1884年(明治17年)1月10日 - 1971年(昭和46年)9月4日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、八日市市長。旧姓・三浦。 京都府京都市下京区綾小路通出身。三浦寛一の二男として生まれ、今宿家の養子となる。第七高等学校造士館を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務省に入省。内務省に転じ滋賀県属となる。 以後、滋賀県警視、同理事官、熊本県理事官、福岡県事務官、千葉県警察部長、埼玉県書記官・内務部長などを歴任。 1926年9月、沖縄県知事に就任。第1次若槻内閣総辞職に伴い1927年5月に辞任。1929年9月、佐賀県知事に就任。
石黒 忠篤(いしぐろ ただあつ、1884年(明治17年)1月… 石黒 忠篤(いしぐろ ただあつ、1884年(明治17年)1月9日 - 1960年(昭和35年)3月10日)は、日本の農林官僚、政治家。位階は従二位、勲等は勲一等、勲章は旭日大綬章。 「農政の神様」と称せられ、彼が農商務省・農林省幹部として政策に関与した時期の農政は、「石黒農政」と呼ばれている。 この間、農業報国連盟理事長、満州移住協会理事長、日本農業研究所理事長を歴任している。農業振興、農村救済に取り組み、戦前における農政の第一人者として「農政の神様」と称せられた。また大正末期以降、小作立法制定に精力を費やした石黒であったが、1930年代には満蒙開拓移民に小作問題解決の途を見いだし、加藤完治とともにその推進役となった。
龍居 松之助(たつい まつのすけ、1884年1月9日 - 1… 龍居 松之助(たつい まつのすけ、1884年1月9日 - 1961年2月16日)は、日本の造園史家、造園家、教育者、文筆家。日本文化史及び造園史の教育にすごした。造園家の龍居竹之介は子息。 1884年(明治17年)、東京市京橋区に生まれる。父は龍居頼三(1856 - 1935)。東京府立第四中学校、学習院高等科を経て、1911年(明治44年)に東京帝国大学文科大学国史学科を卒業する。1917年(大正6年)同大学大学院へ進学し、当初住宅史の研究に従事した。恩師である文学博士の三上参次に加え、建築学者(工学博士)の伊東忠太と関野貞にも師事し、後年の日本造園史家として名を馳せる基礎をつくる[要出典]。
坪井 勧吉(つぼい かんきち、1884年(明治17年)1月8… 坪井 勧吉(つぼい かんきち、1884年(明治17年)1月8日 - 1970年(昭和45年)5月29日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、姫路市長。 愛知県出身。坪井政兵衛の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1911年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し神奈川県属となる。 以後、神奈川県警視、同理事官、秋田県警察部長、岡山県警察部長、香川県書記官・内務部長、山口県書記官・内務部長、山形県書記官・内務部長などを歴任。 1929年7月、香川県知事に就任。塩江温泉鉄道の開通に尽力。1931年6月、高知県知事に転任。同年12月18日に知事を依願免本官となり退官。
長谷川 久一(はせがわ きゅういち、1884年(明治17年)… 長谷川 久一(はせがわ きゅういち、1884年(明治17年)1月7日 - 1945年(昭和20年)8月25日)は、日本の内務官僚。 東京府知事や警視総監を歴任。 旧唐津藩士・長谷川芳之助(一刀流の使い手である長谷川善兵衛久徴の子)の長男として岡山県で生まれる。第一高等学校を卒業。 1907年(明治40年)、東京帝国大学法科政治科を卒業。高等文官試験に合格し、内務省に入る。内務書記官、内務参事官、三重県警察部長、千葉県警察部長、警視庁第二部長、警視庁保安部長、岐阜県内務部長、内務監察官、内務省土木局長を歴任。 1923年(大正12年)10月25日、1924年(大正13年)6月24日、石川県知事を務める。
白柳 秀湖(しらやなぎ しゅうこ、1884年〈明治17年〉1… 白柳 秀湖(しらやなぎ しゅうこ、1884年〈明治17年〉1月7日 - 1950年〈昭和25年〉11月9日)は、日本の小説家、社会評論家、歴史家。 静岡県引佐郡気賀町(現・浜松市浜名区細江町)生まれ。本名は武司。15歳で書生として日本郵船重役宅に住み込み、郁文館中学校で島崎藤村を愛読し文学に興味をもち、早稲田大学文学部哲学科に進学。在学中から堺利彦の社会主義思想に影響を受け、1904年加藤時次郎の直行団に加入、消費組合運動の機関誌である月刊「直言」に協力。1905年中里介山らと火鞭会を創立し、機関誌「火鞭」を創刊(1905年9月-1906年5月。9号)、プロレタリア文学運動の先駆をなす。1907年大学卒業後、隆文館編集記者となり、麻布三連隊に志願入隊し、山手線に勤務する青年を主人公とした小説「駅夫日記」を『新小説』1907年12月に発表、初期社会主義文学を代表する作品として知られる。
小平 権一(旧字体: 小平 權一、こだいら ごんいち、188… 小平 権一(旧字体: 小平 權一、こだいら ごんいち、1884年1月6日 - 1976年8月1日)は、日本の政治家、農林官僚。衆議院議員。農本主義者。 長野県諏訪郡米沢村(現茅野市)に小学校教員の小平邦之助の長男として生まれる。旧制諏訪実科中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、旧制第一高等学校工科を途中休学。1910年に東京帝国大学農科大学を卒業し、さらに同法科大学政治科に入学。在学中の1913年に高等文官試験に合格し、翌年に卒業した。 農商務省に入り、農政課に配属。農政課小作分室長として石黒忠篤農政課長とともに小作立法に取り組む。1922年に産業組合の主管課である農務課長に就任、産業組合中央金庫の設立に中心的役割を果たした。
高橋 信美(たかはし のぶよし、1884年1月5日 - 19… 高橋 信美(たかはし のぶよし、1884年1月5日 - 1958年2月24日)は、日本の医師・医学者。妻・ふく子は大沢岳太郎の次女。 長野県小県郡武石村(現上田市)生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)、第四高等学校を経て、1910年東京帝国大学医学部卒業。同大助手を経て、1917年千葉医学専門学校(現千葉大学医学部)の第一外科主任教授となる。1919年から2年間欧米諸国に留学、1923年、千葉医科大学(同)教授となり、1929年には学長に就任した。1938年勲二等瑞宝章、1940年従三位に叙された。 その後、千葉県医師会会長、千葉県済生会長、日本外科学会会長、国際外科学会名誉会員などを歴任した。
潮崎 喜八郎(しおざき きはちろう、1884年 <明治17年… 潮崎 喜八郎(しおざき きはちろう、1884年 <明治17年> 1月5日 - 1969年 <昭和44年> 9月1日)は、日本の経営者。兵庫県津名郡一宮町(現:淡路市)出身。位階は正五位。 1904年に大阪高等商業学校を卒業し、同年に日本綿花に入社。1939年に専務に就任し、1941年には社長に昇格した。1947年から会長を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等旭日中綬章を受章。 1969年9月1日脳軟化症のために死去。85歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
今井 昌治(いまい まさはる、1884年(明治17年)1月5… 今井 昌治(いまい まさはる、1884年(明治17年)1月5日 - 没年不明)は、明治時代後期から昭和時代前期の台湾総督府官僚。高雄市尹、花蓮港庁長。 新潟県中頚城郡高田城下に生まれる。1899年(明治32年)台湾に渡り、1908年(明治41年)6月に台北庁警部、1920年(大正9年)9月に台北州保安課長を経て、1922年(大正11年)5月、台湾総督府地方警視に進み、台北南警察署長に就任する。 1924年(大正13年)12月、地方理事官に進み、台中州新高郡守となり、ついで1926年(大正15年)1月に新竹州苗栗郡守、1927年(昭和2年)8月に台中州彰化郡守を経て、1929年(昭和4年)5月に高雄市尹に就任した。
関 桂三(せき けいぞう 1884年1月3日 - 1963年… 関 桂三(せき けいぞう 1884年1月3日 - 1963年5月2日)は、昭和期の実業家。東洋紡績元会長。大阪商工会議所会頭、関西経済連合会会長を歴任。 奈良県山辺郡出身。旧姓森田。旧制奈良県郡山中学校、第四高等学校を経て、1908年に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業後、東洋紡の前身である大阪紡績入社。常務、専務、副社長をそれぞれ歴任し、1943年に退職。1950年に東洋紡へ復帰し、会長を務め、1957年より相談役を務めた。この間、経済団体の役員にも推され1943年から1946年まで大阪商工会議所会頭を務めた。同時に繊維統制会会長にも就く。1946年から1947年まで関西経済連合会初代会長を務め、1951年には再度第4代会長を務めるほか 、日本商工会議所会頭代理、大蔵省・商工省両顧問、朝日放送取締役、東京大学講師などをそれぞれ務めた。
神戸 伊三郎(かんべ いさぶろう、1884年(明治17年)1… 神戸 伊三郎(かんべ いさぶろう、1884年(明治17年)1月3日 - 1963年(昭和38年)6月7日)は日本の理科教師、科学教育研究者。栃木県生まれ。大正期のもっとも指導的な理科教育研究者の一人である。 大正から昭和にかけて、主に奈良女子高等師範学校の教師を務め、第二次世界大戦前の国定教科書時代の、もっとも指導的な教育研究者の一人である。児童・生徒用の科学読みものや教科書を多数執筆。1922年(大正11年)に『学習本位理科の新指導法』を出版し、千葉命吉の影響を受けた児童中心の創造教育の立場に立ち、当時主流だった、「事実から法則を引き出し実験で確認する」ヘバルト派の帰納法ではなく、デューイ・及川平治の仮説実験的認識論の教育法を採り入れ、「実験前の予想の必要性」を重視した「新学習過程」を提唱した。
中島 利一郎(なかしま りいちろう、1884年1月2日 - … 中島 利一郎(なかしま りいちろう、1884年1月2日 - 1959年1月6日)は日本の東洋比較言語学者。国士舘大学教授、元臨時帝室編修官補)。雑誌『中央史壇』で小谷部全一郎を痛罵したことで知られる。
横山 助成(よこやま すけなり、1884年(明治17年)1月… 横山 助成(よこやま すけなり、1884年(明治17年)1月1日 - 1963年(昭和38年)3月27日)は、日本の内務官僚、政治家。警視総監、貴族院議員。東北興業総裁。 以下、「横山 助成 (よこやますけなり)東京都知事も務めた 内務省高級官僚」(秋田高等学校同窓会、2014年3月21日更新)参照。 「献策居士」の異名をもち、趣味は将棋とゴルフ。 石田八弥の女婿。義弟は文化人類学者の石田英一郎、姪の子に阿部牧郎がいる。
沢村 専太郎(さわむら せんたろう、1884年〈明治17年〉… 沢村 専太郎(さわむら せんたろう、1884年〈明治17年〉1月1日 - 1930年〈昭和5年〉5月23日)は、日本の東洋美術・美術史研究家、詩人。京都帝国大学文学部教授。第三高等学校寮歌を作詞し、詩人としては沢村 胡夷(さわむら こい)と号した。 明治17年(1884年)1月1日、滋賀県犬上郡彦根町京町(現彦根市京町)に、鉄道技師沢村伝次郎と定夫妻の長男として誕生した。父母が台湾に移住したため、祖父母により養育された。明治31年(1898年)滋賀県立第一中学(現彦根東高等学校)に入学し、明治36年(1903年)9月第三高等学校第一部に入学、明治39年(1906年)9月京都帝国大学文科大学哲学科に入り美学美術史を専攻、明治42年(1909年)7月『日本詩律論』を論文提出し卒業した。
中島 鉄平(鐵平、なかじま てっぺい、1884年(明治17年… 中島 鉄平(鐵平、なかじま てっぺい、1884年(明治17年)1月1日 - 1936年(昭和11年)11月1日 )は、熊本県上益城郡大山町出身の大正・昭和期の大蔵官僚。 中島又平の二男として生まれた。旧制熊本中学(現熊本県立熊本高等学校)、旧制第五高等学校を卒業。1909年(明治42年)7月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年7月、大蔵省に入省して専売局書記に任官し専売局製造部に配属された。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 以後、京都税務監督局経理部長、東税務署長、神戸税関監査課長兼徴収課長、同総務課長などを経て、1920年(大正9年)5月、主税局に転じ、長年にわたり関税課長として関税行政事務を率いた。
中島 知久平(なかじま ちくへい、1884年〈明治17年)1… 中島 知久平(なかじま ちくへい、1884年〈明治17年)1月1日 - 1949年〈昭和24年〉10月29日)は、日本の海軍軍人、実業家、政治家。中島飛行機(のちに富士産業、富士重工業を経て、現在のSUBARU)の創始者として知られ、政治家に転じてからは大臣や立憲政友会総裁を務めた。 1884年(明治17年)1月1日、群馬県新田郡尾島村字押切(現在の群馬県太田市押切町、2005年3月27日までは群馬県新田郡尾島町大字押切)の農家中島粂吉と母いつの長男として生まれた。1898年(明治31年)3月、尾島尋常高等小学校卒業。1903年(明治36年)10月、海軍機関学校入学(第15期生)。1907年(明治40年)4月25日、海軍機関学校卒業。
小ノヶ嵜 金藏(おのがさき きんぞう、1884年1月1日 -… 小ノヶ嵜 金藏(おのがさき きんぞう、1884年1月1日 - 1967年4月2日)は、現在の青森県黒石市出身で熊ヶ谷部屋に所属した大相撲力士。本名は佐藤 金作(旧姓工藤)。170cm、86kg。最高位は西前頭5枚目。 左四つからの押しと寄りを得意とし、地味であったが力が強かった。1906年5月初土俵、1911年6月十両昇進。1913年1月入幕を果たし、華々しい活躍こそなかったが、前頭5枚目まで躍進する。しかし地方巡業中に足を骨折する怪我で全休が続き、1916年5月十両陥落となり、そのまま1917年1月廃業した。その後は旧両国国技館内で「天金」という天ぷら屋を経営し、後に「大金」という料亭を経営して繁盛した。
緒方 知三郎(おがた ともざぶろう、1883年1月31日 -… 緒方 知三郎(おがた ともざぶろう、1883年1月31日 - 1973年8月25日)は、日本の病理学者。東京生まれ。正三位・勲一等。 緒方洪庵の次男である緒方惟準の四男。緒方章は弟。緒方富雄、緒方安雄は甥。岳父(妻の父)は岡村輝彦。岡村昭彦、岡村春彦は義甥(妻の甥)。佐藤泰然は曾祖父。 旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)を卒業。山極勝三郎に師事。脚気や結核、腫瘍の発生、「唾液腺内分泌に関する研究」等を研究。ドイツに留学し、ベルリン市ウエストエンド病院病理研究室などでの研究を終えて、1913年帰国、東京帝国大学医科大学医学科講師に嘱託、翌年助教授になる。1923年に東京帝国大学医学部教授となり、1943年に退官し、同大学名誉教授となる。
秋田 雨雀(あきた うじゃく、1883年〈明治16年〉1月3… 秋田 雨雀(あきた うじゃく、1883年〈明治16年〉1月30日 - 1962年〈昭和37年〉5月12日)は、日本の劇作家・詩人・童話作家・小説家・社会運動家である。本名は徳三(とくぞう)。 産科医である父玄庵(全盲であった)と、母まつの長男として青森県南津軽郡黒石町(現黒石市)に生まれる。黒石尋常小学校、青森県立第一尋常中学校(青森県立弘前高等学校の前身)を経て東京専門学校(早稲田大学の前身校)英文科に入学する。在学中の1904年、詩集「黎明」を刊行。 1908年、恩師の島村抱月の推薦により、『早稲田文学』6月号に小説「同性の恋」を発表。小山内薫のイプセン研究会の書記をつとめ、戯曲への関心を深める。
匂坂 春平(さきさか しゅんぺい、1883年〈明治16年〉1… 匂坂 春平(さきさか しゅんぺい、1883年〈明治16年〉1月30日 – 1953年〈昭和28年〉8月19日)は、日本の陸軍法務官(1942年以降は陸軍法務部将校)。最終階級は陸軍法務中将。 五・一五事件、二・二六事件に関する軍法会議において、各々主席検察官を務めた。 1883年(明治16年)、静岡県城東郡横地村(現:菊川市)の農家の長男として出生。16歳で上京し、1902年(明治35年)に明治法律学校(現在の明治大学)を卒業した。 日露戦争中の1904年(明治37年)、近衛歩兵第四連隊に補充召集され、奉天会戦要員として軍務に服した。応召中、判事検事登用試験に合格し、司法官試補(東京)に任じられた。
岩谷 山梔子(いわや くちなし、1883年(明治16年)1月… 岩谷 山梔子(いわや くちなし、1883年(明治16年)1月30日 - 1944年(昭和19年)1月4日)は、日本の俳人、俳画家、編集者。別号に木丹亭、黙堂など。本名は健治。青森県出身。 1883年(明治16年)に青森県青森町(現・青森市)に生まれる。10代でカリエスに罹り療養する中で俳句を始め、地元の俳句会「不来会」に参加、20歳で高浜虚子の「ホトトギス」に入会、河東碧梧桐が選者をしていた新聞「日本」にも投句する。碧梧桐の行脚(第一次「三千里」)の際に碧梧桐と会い傾倒。碧梧桐は後に山梔子の句集『山梔子第一句集』の序文で「其の時分の山梔子は世間苦も人間苦も知らないやうなウブな、さうして田舎者の山だしな本質を丸出しにした言はば荒削りな書生だつた。
岡 儀平(おか ぎへい、1883年1月30日 - 1991年… 岡 儀平(おか ぎへい、1883年1月30日 - 1991年9月28日)は、かつて男性長寿日本一だった栃木県小山市の人物。 小山市生まれ。20代で小山駅前に下駄屋を開店。その後靴店に衣替えし、70代まで現役として働いた。子供4人、孫13人、ひ孫17人に恵まれた。108歳になっても「高下駄づくりは難しい」と当時の思い出を話すこともあった。 108歳の誕生日時点では、朝食を介助を受けながらもしっかり食べ、新聞を30分ほどかけて読む生活であった。「お茶か水がほしい。年寄りの冷や水というからな」と冗談を飛ばす程であった。 誕生日には孫・ひ孫のうち15人が参加し、ロウソクをしっかり吹き消した。そして孫たちの励ましにもと笑顔でこたえた。
菊池 秋雄(きくち あきお、1883年1月28日 - 195… 菊池 秋雄(きくち あきお、1883年1月28日 - 1951年)は、青森県出身の園芸学者。京都大学名誉教授。専門は果樹園芸学。
古賀 用六(こが ようろく、1883年(明治17年)1月28… 古賀 用六(こが ようろく、1883年(明治17年)1月28日 - 1944年(昭和19年)10月28日)は、日本の陸軍軍人。陸士17期卒。最終階級は大佐、死後少将。 佐賀県田代村(現・鳥栖市)出身。兄の古賀真一も少将。熊本陸軍地方幼年学校3期生より陸軍士官学校を17期生として卒業。歩兵第13連隊第3中隊長、台湾歩兵第2連隊配属将校を経て、鯖江連隊区司令部部員。1933年8月30日に大佐で予備役編入。1944年、大正5年~9年生まれの九州北部各地の応召兵2000名からなる「南方総軍緊急補充要員久留米師団第161部隊」(通称マルコ部隊、コは古賀の頭文字)の輸送指揮官として10月13日博多港を発し、26日ボルネオ島に到着したが間もなく同地にて病死。
宇佐美 興屋(うさみ おきいえ、1883年(明治16年)1月… 宇佐美 興屋(うさみ おきいえ、1883年(明治16年)1月27日 - 1970年(昭和45年)9月27日)は、日本の陸軍軍人。陸士14期・陸大25期恩賜。最終階級は陸軍中将。 東京府出身。税関吏・宇佐美潤屋の長男として生まれる。東京府立第一中学校、陸軍中央幼年学校を経て、1902年(明治35年)に陸軍士官学校を卒業(14期)し、1903年(明治36年)、陸軍騎兵少尉に任官して騎兵第7連隊付。1913年(大正2年)11月、陸軍大学校(25期)を3位で卒業し、恩賜の軍刀を拝受。 佐官時代には、オランダ公使館附武官、陸軍省軍務局騎兵課長、騎兵第13連隊長、東京警備参謀長などを歴任。 1930年(昭和5年)3月、騎兵監部付の時に陸軍少将に進級。
魚住 折蘆(うおずみ せつろ、1883年〈明治16年〉1月2… 魚住 折蘆(うおずみ せつろ、1883年〈明治16年〉1月27日 - 1910年〈明治43年〉12月9日)は、明治時代の日本の文芸評論家。 本名は影雄(かげお)。 兵庫県加古郡母里村(現・稲美町母里)出身。兵庫県姫路尋常中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)入学後、内村鑑三の『東京独立雑誌』に影響を受ける。1901年(明治34年)受洗。1903年(明治36年)5月、友人の藤村操が日光華厳滝で投身自殺し、衝撃を受ける。同年9月、第一高等学校に入学。翌年『一高校友会雑誌』に「自殺論」を寄稿し、今日の人間にとって、国是国策の君でも家でもなく、自我こそが問題なのだと論じて話題になる。 1906年(明治39年)9月、東京帝国大学文科大学独文科に入学するが、同年10月哲学科に転科した。
松平 乗統(乘統、まつだいら のりつな、1883年(明治16… 松平 乗統(乘統、まつだいら のりつな、1883年(明治16年)1月27日 - 1961年(昭和36年)7月28日)は、明治から昭和期の宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・源次郎。 旧西尾藩主家当主、子爵・松平乗承の二男として生まれる。1912年、乗統に改名。父の隠居に伴い、1929年(昭和4年)6月15日、子爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1907年(明治40年)7月、東京帝国大学文科大学史学科(国史学)を卒業し、同学史料編纂係嘱託となる。1908年(明治41年)宮内省皇孫御用掛に就任。以後、皇子御用掛兼東宮職御用掛、皇子傅育官、式部官兼御歌所主事、大礼使典儀官兼主猟官、兼李王職典紀などを務めた。
松村 謙三(まつむら けんぞう、1883年〈明治16年〉1月… 松村 謙三(まつむら けんぞう、1883年〈明治16年〉1月24日 - 1971年〈昭和46年〉8月21日)は、日本の政治家。 富山県福光町(現在の南砺市)出身の実業家、政治家。 5回にわたり中国を訪問。1970年には、周恩来首相から日中貿易継続を許される企業の条件を示された。そこで、台湾に多くの投資を行い、援助している企業との取引は拒否すると言い渡される。そうして、日中国交正常化の地固めをした。幣原内閣では農林大臣として第1次・第2次農地改革に携わった。 生家は薬種商を営む地主の素封家で、その長男である。実母は事情があって2歳の時に松村家を離れ、継母によって育てられる。腹違いの弟と妹がいた。 立本小学校尋常科・高等科を優秀な成績で卒業して富山の県立一中(富山中学)に入学した。
河本 大作(こうもと だいさく、1883年〈明治16年〉1月… 河本 大作(こうもと だいさく、1883年〈明治16年〉1月24日 - 1955年〈昭和30年〉8月25日)は、昭和初期に活動した日本の陸軍軍人。陸軍大佐。張作霖爆殺事件の計画立案者として知られている。 1883年(明治16年)1月24日、兵庫県佐用郡三日月村(現:佐用町)に、地主河本参二の次男として生まれた。高等小学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1903年(明治36年)11月に陸軍士官学校(第15期、卒業順位97番、歩兵科)を卒業。翌年日露戦争に出征、重傷。1914年(大正3年)に陸軍大学校(第26期、修了順位24番)を卒業した。中支派遣軍参謀、参謀本部付、支那公使館付武官補佐官、陸軍大学兵学教官、1926年(大正15年)3月には大佐で関東軍参謀となる、そこで1928年(昭和3年)6月の張作霖爆殺事件により停職、待命、予備役編入。
上村 進(かみむら すすむ、1883年1月23日 - 196… 上村 進(かみむら すすむ、1883年1月23日 - 1969年5月19日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(日本共産党公認)。自由法曹団設立に関わり、同団体の団長も務めた。 日本共産党機関誌「アカハタ」を印刷していたアカツキ印刷所の社長だった。 新潟県南魚沼郡塩沢町(現在の南魚沼市)出身。早稲田大学専門部法律科及び中央大学卒業。日露戦争に従軍し、退役後上京、二六新報社に入社した。1915年、弁護士試験に合格、弁護士となった。1920年には普選演説会で首相や両院議長に対して、普選反対議員へ天誅を行う旨の決議文を提出したこと(天誅事件)で起訴される(後に無罪判決)。翌年布施辰治や山崎今朝弥らと自由法曹団を結成し、労働運動、農民争議への支援を精力的に行った。
海老沢 亮(えびさわ あきら、1883年1月23日 - 19… 海老沢 亮(えびさわ あきら、1883年1月23日 - 1959年1月6日)は、日本組合基督教会の牧師であり、戦前は日本基督教連盟総主事として神の国運動を推し進め、戦後は日本基督教協議会(NCC) の初代総主事として超教派の活動を行った。 水戸藩士海老沢知成の3男として、茨城県西茨城郡笠間町に生まれる。立志学館を卒業した後、札幌農学校土木工学科で学ぶ。農学校在学中に、婦人宣教師のA・M・ドーデ―の英語教室でキリスト教に触れて, 1900年(明治33年) 田中兎毛牧師から洗礼を受ける。 1902年 (明治35年) に農学校を卒業後、日本鉄道会社に入社し、鉄道技手に任命される. 1904年(明治37年) 日露戦争が始まると陸軍少尉として、歩兵第25連隊に加わり、旅順に出征するが帰隊命令を受けて旅順攻囲戦には参加していない。
西山 政猪(にしやま まさい、1883年(明治16年)1月2… 西山 政猪(にしやま まさい、1883年(明治16年)1月21日 - 1951年(昭和26年)12月17日)は、日本の文部官僚。 高知県高岡郡越知町出身。1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。長崎高等商業学校教授となり、1920年(大正9年)から民法・商法研究のためイギリス・アメリカ合衆国・ドイツに留学した。帰国後、東京帝国大学書記官・学生監、同庶務課長、文部書記官・大臣官房会計課長、専門学務局長を歴任し、1929年(昭和4年)に宗教局長に就任した。1932年(昭和7年)に退官し、同年から1935年(昭和10年)まで満州国文教部総務司長を務めた。
田中 鉄三郎(たなか てつさぶろう、1883年(明治16年)… 田中 鉄三郎(たなか てつさぶろう、1883年(明治16年)1月20日 - 1974年(昭和49年)12月2日)は、大正時代から昭和時代の日本の銀行家、実業家。満州中央銀行や朝鮮銀行の総裁を務めた。 旧鹿島藩士で沖縄県学務課長や師範学校長、佐賀県藤津郡郡長などを務めた田中馨治の三男として佐賀県藤津郡高津原村(後に南鹿島村、現在は鹿島市高津原)に生まれる。1907年(明治40年)、東京帝国大学政治学科を卒業する。1909年(明治42年)に日本銀行に入行し、1917年(大正6年)から1920年(大正9年)にかけてロンドン代理店監督役付を務め、第一次世界大戦の賠償会議に委員として参加する。1929年(昭和4年)ロンドン代理店監督となる。
鈴木 善太郎(すずき ぜんたろう、1883年1月19日 - … 鈴木 善太郎(すずき ぜんたろう、1883年1月19日 - 1950年5月19日)は、日本の小説家、劇作家、翻訳家。雅号は秋風。 福島県郡山市大町生まれ。旧制安積中学校を中退、旧制海城学校に転校し卒業。早稲田大学文学部英文学科卒業。卒業後は、国民新聞、朝日新聞社の記者として活躍し、大正7年に短篇小説『幻想』を発表して作家としての地位を確立する。『文章倶楽部』にて、菊池寛や野村愛正と並んで三大新進作家に数えられた。新劇運動にも参加し、日本近代演劇界に多大な貢献をした。 大正10年欧米各国を歴訪、帰国後、松竹顧問、コロムビア文芸部顧問となる。フェレンツ・モルナールの紹介に貢献した。
國分 勘兵衛(こくぶ かんべえ、1883年1月19日 - 1… 國分 勘兵衛(こくぶ かんべえ、1883年1月19日 - 1975年2月23日)は、日本の実業家。養子として入った國分家の家業を株式會社國分商店(のちの国分グループ本社株式会社)とし、カルピス食品工業株式會社代表取締役社長なども務めた。旧名山本 秀次郎。 現在の三重県松阪市で生まれた。1905年に東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業し、國分商店に入った。國分家の養子となり、1924年には國分勘兵衛を襲名した。1938年大日本洋酒食料品商組合の初代会長に就任した。 日本の降伏後、1950年に合名会社国分商店と国分漬物株式会社を合併して国分株式会社(のちの国分グループ本社株式会社)を設立し、同社社長に就任。
安居 喜八(やすい きはち、1883年〈明治16年〉1月18… 安居 喜八(やすい きはち、1883年〈明治16年〉1月18日 - 没年不詳)は、日本の実業家。近江貯蓄銀行・百三十三銀行等、多くの会社の重役を務めた。資産家、滋賀県多額納税者。公選初代・彦根市長。家督相続前は、喜三郎を名乗る。 1883年(明治16年)1月、滋賀県犬上郡彦根町で、資産家の先代・安居喜八の長男として生まれる。安居家は滋賀県犬上郡彦根町における資産家として知られる。弟は大阪市東区瓦町1-20に居住した紙商・安居武藏(やすい むさし)。1887年(明治20年)家督を相續し、前名・喜三郞を改めた。 近江貯蓄銀行・百三十三銀行・川北電氣企業・黒部川電力ではそれぞれ取締役を務め、近江絹糸紡績では監査役を務めた。
島田 七郎右衛門(しまだ しちろうえもん、1883年1月17… 島田 七郎右衛門(しまだ しちろうえもん、1883年1月17日 - 1962年7月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 富山県出身。1901年、富山県立富山中学校(現・富山県立富山高等学校)卒。日露戦争に従軍、陸軍歩兵中尉となる。三等郵便局長、福岡町(現・高岡市)議、同町長、富山県議、西砺波郡農会長、富山県農会長、同山林会副会長、福岡信用組合理事長、北陸製絹、高岡新報、中越土木、笹川窯業、高岡電燈、岡吉商事、大岩電気、飛越電気、戸出物産各(株)重役を務める。 1930年の第17回衆議院議員総選挙で富山2区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが落選。1932年の第18回衆議院議員総選挙で初当選。
人見 東明(ひとみ とうめい、1883年(明治16年)1月1… 人見 東明(ひとみ とうめい、1883年(明治16年)1月16日 - 1974年(昭和49年)2月4日)は、日本の詩人、教育者。本名は圓吉(えんきち)。昭和女子大学(日本女子高等学院)の創設者。 東京に生まれ、岡山県で育つ。早稲田大学高等師範部英語科を卒業後、讀賣新聞社に記者として勤務する。早大在学時より詩作に励み、1907年(明治40年)5月に相馬御風・三木露風・加藤介春・野口雨情らと早稲田詩社を起こす。1909年(明治42年)に加藤介春、三富朽葉、福田夕咲らとともに自由詩社を結成、口語自由詩運動の基礎を作り、新体詩の普及に努めた。また、1920年(大正9年)に日本女子高等学院(後の昭和女子大学)を創立し、教育者としての功績も残している。
古山 春司郎(ふるやま はるしろう、1883年(明治16年)… 古山 春司郎(ふるやま はるしろう、1883年(明治16年)1月16日 - 1953年(昭和28年)5月11日)は、日本の検事。弓道家。 千葉県上埴生郡豊栄村(現在の長生郡長南町)出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法官試補となる。鹿児島地方裁判所予備判事、大分地方裁判所・大分区裁判所判事を経て、1916年(大正5年)に検事に転じ、名古屋地方裁判所・名古屋区裁判所検事、岐阜地方裁判所・岐阜区裁判所検事、甲府地方裁判所・甲府区裁判所検事、東京地方裁判所・東京区裁判所検事、横浜地方裁判所検事、東京控訴院検事、長崎控訴院検事を歴任した。 その後、台湾総督府法院検事となり、台北地方法院検察官長、高等法院検察官長を務めた。
松井 貴太郎(まつい きたろう、1883年1月16日 - 1… 松井 貴太郎(まつい きたろう、1883年1月16日 - 1962年11月2日)は、大正時代から昭和時代にかけて三井系の建物の設計を多く手がけた建築家。東京銀行集会所(後に東京銀行協会)や、三信ビルディングなどの設計などで知られる。 *現況欄の✕は現存せず
大山 文雄(おおやま あやお、1883年(明治16年)1月1… 大山 文雄(おおやま あやお、1883年(明治16年)1月12日 - 1972年(昭和47年)10月19日)は、日本の陸軍法務官、政治家。最終階級は陸軍法務中将。陸軍省法務局長、初代岡山県井原市長。 岡山県後月郡西江原村(西江原町を経て現井原市)で、後に井原町長を務めた大山邦一、房与夫妻の長男として生まれる。西江原村立尋常義之小学校を経て、岡山県立商業学校に入学したが中退。郡役所書記を経て、1904年7月、日本大学専門部正科を卒業。同年12月、判事検事登用試験に合格。同年12月、司法官試補となり第5師団法官部員として修習し、陸軍を志願して1905年3月、陸軍理事試補に任官し留守第11師団法官部員に就任した。
小泉 多三郎(こいずみ たさぶろう、1883年〈明治16年〉… 小泉 多三郎(こいずみ たさぶろう、1883年〈明治16年〉1月10日 - 1952年〈昭和27年〉8月12日)は日本の政治家。岩手県盛岡市長。 岩手県東和賀郡十二鏑村(のち和賀郡土沢町→東和町現・花巻市)出身。盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)を経て、1906年、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)卒。樺太民政署に入り、東京営林局などに勤務した。その後、1908年に母校の盛岡高等農林学校の助教授となり、1918年に教授となった。同年に退職後、岩手林業に入り、常務取締役となった。 1929年、盛岡市会議員となり、18年務めた。 盛岡市長選挙に立候補して、社会党の新人を破って初当選を果たした。
佐藤 清一郎(さとう せいいちろう、1883年(明治16年)… 佐藤 清一郎(さとう せいいちろう、1883年(明治16年)1月10日 - 1965年(昭和40年)5月17日)は、日本の外科医。東京医学専門学校教授、順天堂医学専門学校教授を歴任し、日本外科学会会長。東京府日本橋区出身。 1883年(明治16年)1月、日本橋区の樋口家に生まれる。 1905年(明治38年)7月、第一高等学校を卒業し、京都帝国大学福岡医科大学に進学して、順天堂副医院長で順天堂医院第2代医院長佐藤進の養子である佐藤恒久の養子になる。1907年(明治40年)義父恒久が死去する。1909年(明治42年)12月、福岡医科大学を卒業し、卒業後は福岡医科大学外科(三宅速教授)に入局。1912年(大正元年)よりドイツ・イギリス・ベルギー・オランダに留学しゲッティンゲン大学やベルリン大学で病理学・肺外科の研究に従事し、第一次世界大戦勃発により1914年(大正3年)帰国した。
森 彦兵衛(もり ひこべえ、1883年(明治16年)1月9日… 森 彦兵衛(もり ひこべえ、1883年(明治16年)1月9日 - 1958年(昭和33年)7月12日)は、大正から昭和時代前期の政治家、大日本帝国海軍軍人。岐阜県高山市長。岐阜県多額納税者。 森七左衛門の二男として高山に生まれる。京都帝国大学法科卒業後、海軍に入り海軍主計少佐に昇ったのち退役する。ついで教育界に転じ、岐阜県立高山高等女学校(現岐阜県立高山高等学校)長となったのち、宮野省三知事の推薦および市会一致の推挙により1938年(昭和13年)8月、高山市長に就任した。 1945年(昭和20年)4月、高山市長を退任。戦後、公職追放となる。
浮田 茂太郎(うきた しげたろう、1883年〈明治16年〉1… 浮田 茂太郎(うきた しげたろう、1883年〈明治16年〉1月8日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の政治家。山口県下関市長、防府市長。 浮田芳平の長男として香川県に生まれ、1913年(大正2年)家督を相続する。1910年(明治43年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、東京鉄道会社に入社する。1911年(明治44年)8月、東京市事務員となり、1919年(大正8年)6月、同市主事となる。1923年(大正12年)2月、下関市助役となり、1927年(昭和2年)1月、同市長に就任し、1931年(昭和6年)1月、満期退職した。ついで京都市主事、同市理事、香川県育英会学監兼監事を経て、1938年(昭和13年)3月5日、防府市長に就任した。