徳安 実蔵(德安 實藏、とくやす じつぞう、1900年2月1… 徳安 実蔵(德安 實藏、とくやす じつぞう、1900年2月13日 – 1988年2月7日)は、昭和期の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(9期)、総理府総務長官・郵政大臣を歴任した。 鳥取県気高郡青谷町(現・鳥取市)に農家の三男として生まれる。幼くして両親とは死別する。青谷実業補習学校を卒業後、近所の住職と神主について2年間漢学を学んだ。『大阪新報』、『東京夕刊』記者、月刊誌『運輸』発行人を経て、芝区(現在の東京都港区)会議員を皮切りに政界入りする。芝区会議長、東京市議、港区議、同区議会議長を経て、1952年第26回衆議院議員総選挙に自由党から旧鳥取全県1区で立候補し初当選する。以後当選9回。東京市議時代から師事していた大野伴睦の派閥(大野派)に入り、大野の死去後は村上勇→水田三喜男派に所属した。
戸田 城聖(とだ じょうせい、1900年〈明治33年〉2月1… 戸田 城聖(とだ じょうせい、1900年〈明治33年〉2月11日 - 1958年〈昭和33年〉4月2日)は、日本の宗教家、教育家、実業家、数学者。 創価教育学会理事長(初代)、創価学会会長(第2代)、法華講総講頭などを歴任した。 出生名は、戸田 甚一(とだ じんいち)。数度の改名を経て「城聖(じょうせい)」と名乗る。戒名は、大宣院法護日城大居士。 教職者として戸田は現場教育に必要なものをまとめ上げ、文部大臣に建白書を提出する。20歳の時に上京。牧口常三郎に出会い、東京市立西町尋常小学校の代用教員として採用された。その後、一時期は教職を退き職を転々とする傍ら、院外団に身を投じ、犬養毅の側近であった立憲政友会所属の衆議院議員古島一雄の知遇を得る。
飯塚 くに(いいづか くに、明治33年(1900年)2月10… 飯塚 くに(いいづか くに、明治33年(1900年)2月10日 - 平成6年(1994年)10月27日)は、日本舞踊家。英文学者・坪内逍遥の養女。夫は演劇研究家の飯塚友一郎。成女女学校卒業。
城戸 久(きど ひさし、1900年2月10日 - 1981年… 城戸 久(きど ひさし、1900年2月10日 - 1981年9月24日)は、日本の実業家。 城戸久助の長男として福岡県宗像郡福間町(現・福津市)に生まれる。1919年福岡県立中学修猷館を経て、1926年東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。 1926年朝鮮鉄道に入社。その後、戸畑鋳物(日産自動車の前身)、国産工業(戸畑鋳物が社名変更)若松工場庶務課長、日立製作所本店総務部文書課長、同亀有工場勤労部長・総務部長・副工場長・工場長、同本社総務部長を歴任し、1954年11月帝国石油取締役に就任、後に常務に進む。日本中小企業政治連盟事務総長、日本農林漁業政治連盟事務総長なども務めた。 この頃、鮎川義介、犬丸徹三、八田嘉明らが、羽田空港と都内を結ぶ跨座式モノレール線の運行を計画していたが、同時期に、羽田空港-新橋間の懸垂式モノレール線を計画していた、大和観光という会社があった。
梶原 茂嘉(かじわら しげよし、1900年(明治33年)2月… 梶原 茂嘉(かじわら しげよし、1900年(明治33年)2月8日 - 1978年(昭和53年)10月9日)は、日本の農商務官僚、政治家。参議院議員。 兵庫県で裁判所勤務・梶原甚三郎の長男として生まれる。大阪府立北野中学校、第一高等学校を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年3月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年4月、農商務省に入省し嘱託となる。 以後、農商務属・食料局業務課配属、農務局米穀課配属、農林属、産業組合事務官、専任農林事務官、産業組合事務官兼農林事務官、水産講習所教授兼農林事務官、農林事務官、京城米穀事務所長、農林書記官、経済更生部産業組合課長、山林局監理課長、米穀局米政課長、農務局農政課長、大臣官房文書課長、兼大臣官房調査課長、商工省繊維局長、企画院第四部長、農商省物価局長、馬政局長官などを歴任し、1945年4月、農商省農政局長に就任し、同年8月に退官した。
岸 勇一(きし ゆういち、1900年(明治33年)2月7日 … 岸 勇一(きし ゆういち、1900年(明治33年)2月7日 - 1978年(昭和53年)12月4日)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。咸鏡南道知事。天理大学学長。 奈良県出身。1925年(大正14年)高等試験に合格し、翌年東京帝国大学法学部政治科を卒業する。朝鮮総督府に奉職し、官房審議室土地改良部勤務、総督府事務官・農林局農林振興課長、農政課長、1941年(昭和16年)6月、慶尚南道内務部長を経て、1942年(昭和17年)6月、農林局糧政課長に就任した。その後、咸鏡南道知事を務めた。 1953年(昭和28年)1月から1960年(昭和45年)9月まで天理大学学長、1957年(昭和32年)1月から1964年(昭和49年)10月まで同大学理事長となる。
竹内 俊吉(たけうち しゅんきち、1900年2月5日 - 1… 竹内 俊吉(たけうち しゅんきち、1900年2月5日 - 1986年11月8日)は日本の政治家、文人。青森県知事、青森放送会長などを務めた。長男の竹内黎一も政治家で、科学技術庁長官などを務めた。 1900年、青森県西津軽郡出精村(後の木造町、現在のつがる市)の農家に生まれる。尋常小学校卒業後、三田英学校を中退し、1925年に東奥日報に入社。『サンデー東奥』編集責任者、社会部長、整理部長、取締役を歴任。1940年に退社(後に顧問)。青森県議会議員を経て、1942年の第21回衆議院議員総選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け、初当選。 第二次世界大戦後は公職追放されたが、追放解除後に民主党公認で立候補した1955年より衆議院青森県第2区で3期連続で当選。
内藤 吐天(ないとう とてん、1900年2月5日 - 197… 内藤 吐天(ないとう とてん、1900年2月5日 - 1976年5月12日)は、岐阜県出身の俳人、薬学者。本名は多喜夫。別名に龍膽寺旻、別号に萱雨亭(けんうてい)がある。 岐阜県大垣市生まれ。東京帝国大学薬学科卒。のち名古屋市立大学薬学部長、名城大学薬学部教授などを歴任。岡山六高時代より志田素琴、大須賀乙字に俳句を学び、「獺祭」「草上」「東炎」などに関わる。1946年に「早蕨」を創刊・主宰。「野薊にぴしりぴしりと夕立来ぬ」「あたたかな案山子を抱いて捨てにゆく」など、格調の高い句風で知られたが、晩年はより自由な作風になった。句集に『落葉松』『雨滴声』『早蕨』『鳴海抄』『点心』『臘八』など。また詩を日夏耿之介に師事し、海外の小説や詩集の翻訳もある。
石原 昌淳 (いしはら しょうじゅん、1900年(明治33年… 石原 昌淳 (いしはら しょうじゅん、1900年(明治33年)2月5日 - 1995年(平成7年)10月16日)は、沖縄県の政治家、実業家。 戦前は旧美里村議会議員、美里村助役、沖縄県会議員を、戦後のアメリカ施政権下では沖縄民政(沖縄民政府)議会議員、群島議会議員、琉球政府立法院議員、同中央教育委員会委員長、琉球工業連合会副会長、沖縄製塩社長などを務めた。勲五等瑞宝章受章。 1900年(明治33年)、現在の沖縄県沖縄市泡瀬地区にて生まれる。 大正の末期から昭和10年頃にかけての沖縄の政治界は、本土の二大政党であった民政党と政友会との対立に巻き込まれて、激しい勢力争いが続いていた。沖縄県選出の国会議員や県会議員のほとんどもこの二大政党のいずれかに属し、選挙の際には自派の議員の選出に懸命であった。
金 東鳴(キム・ドンミョン、朝鮮語: 김동명、1900年2月… 金 東鳴(キム・ドンミョン、朝鮮語: 김동명、1900年2月4日 - 1968年1月21日)は、朝鮮の詩人、政治評論家、随筆家。 号は超虚(チョホ、초허)。別名は金東嗚(キム・ドンオ、김동오)。教員生活を送りながら民族的悲哀の漂う抒情詩を多く残した。解放後は評論家、政治家としても活動している。 1900年6月4日、江原道溟州郡沙川面蘆洞里に生まれる。父は金済玉、母は申錫愚の一人息子である。幼いころは郷里の書堂に通い、漢文を学んだ。8歳のとき、咸鏡南道の元山に引越し、そこで小学校に入学する。母が苦労して学費を捻出してくれたおかげで、金は1915年に咸鏡南道の永生中学校に進学し、1920年に卒業した。
芙蓉 良順(ふよう りょうじゅん、1900年2月4日 - 1… 芙蓉 良順(ふよう りょうじゅん、1900年2月4日 - 1983年8月13日)は、日本の仏教学者、僧侶。大正大学教授、学長。真言宗智山派管長。智積院62世能化。専門は密教学。 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 宗教/ウィキプロジェクト 宗教)。
田淵 光一(田渕 光一、たぶち こういち、1900年(明治3… 田淵 光一(田渕 光一、たぶち こういち、1900年(明治33年)2月3日 – 1972年(昭和47年)5月3日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。「田渕」と表記される場合がある。 和歌山県有田郡、のちの金屋町(現有田川町)で生まれた。法政大学専門部法律科で学んだが、関東大震災で負傷し中退した。 1937年(昭和12年)日本林産鉱業取締役社長、1938年(昭和13年)明治採炭鉱業社長にそれぞれ就任し、1942年(昭和17年)から三重県、奈良県で亜炭鉱山上野炭鉱などを経営した。その他、奈良県亜炭鉱業会長、近畿亜炭鉱業会理事、全国亜炭鉱業連合会常任理事、奈良県亜炭協同組合理事長、石炭増産協力会推進専門委員、全国亜炭産業会総務理事、全国亜炭協会長、国際化成社長、伊賀窯業取締役などを務めた。
林 浩正(はやし ひろまさ、1900年(明治33年)2月1日… 林 浩正(はやし ひろまさ、1900年(明治33年)2月1日 - 1979年(昭和54年))は、日本の実業家、政治家。長野県岡谷市長。 長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)で、丸千鉄工所経営・林乙次郎、たけ の長男として生まれた。平野農蚕学校(現長野県岡谷工業高等学校)を卒業。家業の鉄工場を承継し、戦時中の軍事産業の拡大に伴い社業も盛んとなった。戦後の再建整備計画に基づき、1950年(昭和25年)岡谷造機を設立して社長に就任し、船舶やガス用のバルブやコックの製作に当たった。また、岡谷市消防団長、同消防長を務め、1951年(昭和26年)4月、長野県議会議員に選出され3期在任。1960年(昭和35年)長野県人事委員会委員長に就任し1962年(昭和37年)まで務めた。
矢内 正一(やない まさいち、1900年2月1日 - 198… 矢内 正一(やない まさいち、1900年2月1日 - 1984年3月26日)は、日本の教育者である。関西学院(新制)中学部の初代部長、関西学院理事長、および箕面自由学園園長を歴任した。 矢内正一は1900年2月1日、兵庫県佐用郡佐用町で誕生した。1924年3月に関西学院高等商業学部を卒業後、同年4月に関西学院高等部教諭に就任した。1932年4月には同学院高等商業学部教授に昇任している。 第二次世界大戦後の学制改革に伴い、1947年4月に関西学院新制中学部の初代部長に就任した。その後、1960年6月に関西学院理事に就任し、1964年4月には教育分野での功績が認められ藍綬褒章を受章した。同年12月には西宮市教育委員会委員長に就任している。
黒田 覚(くろだ さとる、1900年2月1日 - 1990年… 黒田 覚(くろだ さとる、1900年2月1日 - 1990年12月2日)は、日本の法学者。京都大学教授、東京都立大学 教授、神奈川大学教授および学長代行を務めた。 京都府京都市出身。第三高等学校から1923年3月に京都帝国大学法学部を卒業、同年4月より大学院に進む。京都帝大では憲法学・国法学の正系とされる森口繁治に師事[要出典]。 1925年(大正14年)京都帝大法学部助教授に就任した。ドイツ法を専攻し、純粋法学のハンス・ケルゼンと彼が所属したウィーン学派の研究を手がけた。1927年から1930年まで、文部省在外研究員として渡欧し、このときにはケルゼン本人に受講、個人的な親交を結んでいる。しかし、帰国後にケルゼンの影響からは次第に遠ざかったとされる。
金子 佐一郎(かねこ さいちろう、1900年 <明治33年>… 金子 佐一郎(かねこ さいちろう、1900年 <明治33年> 2月1日 - 1978年 <昭和53年> 4月7日)は、日本の経営者。十條製紙社長を務めた。位階は従三位。勲一等瑞宝章。 東京都出身。1925年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年4月に王子製紙に入社。 1949年8月に十條製紙に転じ、取締役、常務、専務、副社長を経て、1957年11月には社長に就任。1969年5月には会長に就任。 1963年に藍綬褒章を受章し、1970年には勲二等旭日重光章を受章。 1978年4月7日、膵臓腫瘍のために死去。78歳没。死没日付をもって従三位に叙され、勲一等瑞宝章を追贈された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
堀場 一雄(ほりば かずお、1900年(明治33年)2月1日… 堀場 一雄(ほりば かずお、1900年(明治33年)2月1日 - 1953年(昭和28年)10月21日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大佐。 愛知県東春日井郡篠木村(現・春日井市)出身。父は警察官の堀場司馬次郎。陸軍士官学校34期卒業で、同期の服部卓四郎および西浦進と並んで「34期の三羽烏」と称された。娘は詩人・女性史研究家の堀場清子。 (堀場の遺稿をもとに、死後刊行)
河田 喜代助(かわだ きよすけ、1900年〈明治33年〉2月… 河田 喜代助(かわだ きよすけ、1900年〈明治33年〉2月 - 1952年〈昭和27年〉9月24日)は、日本の地質学者。1952年(昭和27年)9月24日、海底火山の明神礁を調査中に噴火に巻き込まれ、他の乗組員全員と共に殉職した(第五海洋丸の遭難)。没後、理学博士号が授与された。息子の河田茂磨も地質学者。 1900年(明治33年)2月、香川県大川郡志度町(現・さぬき市)に生まれる。 1926年(大正15年)3月、東京高等師範学校理科三部を卒業、埼玉県師範学校の教員となる。 1927年(昭和2年)4月、東北帝国大学理学部地質学古生物学科に入学。1930年(昭和5年)3月に同学を卒業してのちは同学の助手となり、翌1931年(昭和6年)3月からは東京第一臨時教員養成所の講師、1932年(昭和7年)4月からは大阪府立阿倍野高等女学校の教諭を務める。
藤原 啓(ふじわら けい、1899年2月28日 - 1983… 藤原 啓(ふじわら けい、1899年2月28日 - 1983年11月12日)は、日本の陶芸家。本名は敬二。同じく陶芸家の藤原雄は長男、藤原敬介は次男。岡山県名誉県民。1970年に人間国宝に認定。 岡山県備前市穂浪(当時の和気郡伊里村穂浪)出身。農業藤原伊三郎、世為の三男として生まれる。 少年期から俳句や小説の才能を発揮しており、1915年に博文館が手がける『文章世界』に応募した短編が1等を獲得する。これを機に1919年に上京し博文館編集部に勤務、『文章世界』の編集を担当する。同郷の正宗白鳥、徳富蘆花の影響を強く受け詩の執筆も始める。そのかたわら早稲田大学英文科の聴講生となり、ロシア・ドイツ文学やシェイクスピアを学ぶが1年あまりで中退。
石濱 金作(いしはま きんさく、1899年(明治32年)2月… 石濱 金作(いしはま きんさく、1899年(明治32年)2月28日 - 1968年(昭和43年)11月21日)は、日本の小説家、推理作家。 東京市京橋木挽町出身。父は時事新報記者の石浜鉄郎、兄は経済学者の石浜知行。子ども時代は大阪府で育ち、第一高等学校を経て、1924年に東京帝国大学英文学科を卒業。 1921年、22歳のとき川端康成らと第6次『新思潮』を創刊。その後『文藝春秋』の編集同人となる。1924年に『文藝時代』の創刊に携わり、新感覚派の新人作家として活躍。戦後の作品に、旧友である川端康成との交友について書いた「青春修業記―無常迅速」(『文芸読物』1950年5月号)などがある。多くの作品を文芸誌に発表したが、単行本化されておらず、現在多くの作品は初出誌にあたる他ない。
森 岩雄(、1899年〈明治32年〉2月27日 - 1979… 森 岩雄(、1899年〈明治32年〉2月27日 - 1979年〈昭和54年〉5月14日)は、日本の映画プロデューサー、脚本家、映画評論家。神奈川県横浜市出身。 40年以上に渡り東宝の役員を務め、同社映画の近代的な方向性を確立し、日本映画界に大きく貢献した。 1917年(大正6年)、京華商業高等学校卒業後、成蹊実業専門学校に学ぶ(一期生)。在学中、結核を患ったことをきっかけに、活動写真に興味を持つ。 1919年(大正8年)東京日日新聞が募集した乙種活動写真シナリオに二等第一席(一等なし)で入選。1921年(大正10年)、『活動倶楽部』に日本初の映画論文となる「活動写真芸術の過去・現在・未来」を発表。
嶋田 清次郎(しまだ せいじろう、1899年(明治32年)2… 嶋田 清次郎(しまだ せいじろう、1899年(明治32年)2月26日 - 1930年(昭和5年)4月29日)は、日本の小説家。文壇で有名であった時代には「島清」という略称でも呼ばれた。
高木 寿一(たかぎ としかず、1899年2月26日 - 19… 高木 寿一(たかぎ としかず、1899年2月26日 - 1976年6月30日)は、日本の経済学者・財政学者。慶應義塾大学名誉教授。 東京府東京市浅草区(現台東区)浅草生まれ。1921年慶應義塾大学部理財科卒、大学院に進む。1924年慶應義塾高等部教員、1927年よりヨーロッパに学ぶ。1949年慶應義塾大学経済学部教授となり、1953年「近代資本主義国家財政の経済的機能の発展」で経済学博士の学位を取得。1969年定年となり、名誉教授、流通経済大学教授を務めた。
薄井 己亥(うすい きがい、1899年(明治32年)2月25… 薄井 己亥(うすい きがい、1899年(明治32年)2月25日(旧暦) - 没年不明)は、昭和時代後期にかけて活動した郷土史家、歴史研究家、水戸史学会顧問。 茨城県那珂郡木崎村(のち那珂町、現那珂市)に生まれる。高等小学校卒業後、寺子屋で学ぶ。1918年(大正7年)頃上京し、正則英語学校で学ぶ。1919年(大正8年)仙台第一中学校(現宮城県仙台第一高等学校)の検定試験に合格する。合格後は開校したばかりの水戸高等学校に入学し、1年留年するが、1924年(大正13年)に卒業する。同年東京帝国大学法学部に入学。東大では上杉慎吉と美濃部達吉から憲法学を学ぶ。1927年(昭和2年)に卒業する。卒業後は大阪商船の内定を受けるが辞退する。
熱海 景良(あつみ けいりょう、1899年(明治32年)2月… 熱海 景良(あつみ けいりょう、1899年(明治32年)2月23日 - 1944年(昭和19年)2月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中佐。日本のジオイドを初めて計算した人物として知られる。 1899年(明治32年)、宮城県桃生郡野蒜村(現東松島市)に熱海安吉、ひさよの長男として出生。大阪陸軍地方幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月28日に陸軍士官学校(31期)を卒業し、同年12月25日に工兵少尉に任官、工兵第19大隊付となる。陸軍砲工学校(28期)普通科を卒業後、1922年(大正11年)12月15日に工兵中尉に昇進し、1923年(大正12年)12月28日、陸地測量部班員に補される。
山田 勇助(やまだ ゆうすけ、1899年(明治32年)2月2… 山田 勇助(やまだ ゆうすけ、1899年(明治32年)2月22日 - 1942年(昭和17年)11月13日)は、日本の海軍軍人。水雷艇「千鳥」艇長として友鶴事件に際会。太平洋戦争において第六駆逐隊司令として第三次ソロモン海戦で戦死した。最終階級は海軍少将。 現在の山形県米沢市出身。米沢中学を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第32期)を受験し、双方に合格している。また、第一師団重砲兵第二連隊への配属も予定されていた。海軍兵学校へ進む。山田は海兵48期で、同期生171名中、中位の成績で卒業した。近野信雄は中学、海兵の同期生で、ともに米沢海軍武官会会員である。 1921年(大正10年)6月少尉任官。
佐治 孝徳(さじ たかのり、1899年(明治32年)2月20… 佐治 孝徳(さじ たかのり、1899年(明治32年)2月20日 - 1953年(昭和28年)4月1日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。台東庁長。 高知県安芸郡奈半利町に生まれる。第四高等学校を経て、1920年(大正9年)東京帝国大学法学部政治科に入学。1923年(大正12年)同大を卒業。在学中の1922年(大正11年)11月に高等試験に合格し、台湾総督府に奉職し台北州属となった。 高雄州警務課長、台北州七星郡守、新竹州内務部地方課長、台湾総督官房審議室勤務、台湾総督府事務官、台湾総督府営林所庶務課長、台北州内務部長、台中州内務部長、台東庁長、台湾総督府専売局参事・専売局庶務課長兼樟脳課長を経て、1942年(昭和17年)7月、台湾総督府専売局長に就任した。
山沢 栄子(やまざわ えいこ、1899年2月19日 - 19… 山沢 栄子(やまざわ えいこ、1899年2月19日 - 1995年7月16日)は、大阪市出身の写真家。 女性写真家のパイオニアであり、関西を拠点にポートレートや広告写真の分野で活躍した。1960年以降は抽象的な形態のモティーフを組み合わせた「What I'm doing」のシリーズを制作した。「What I'm doing」のシリーズは大阪市中之島美術館に収蔵されている。 14歳から写真を始め、1918年女子美術学校(現・女子美術大学)日本画科選科卒業。1926年カリフォルニア・スクール・オブ・ファイン・アーツ(後のサンフランシスコ芸術大学(英語版))に留学し油絵を学ぶ。その間、写真家コンソエロ・カネガの助手として、本格的に写真を学ぶ。
菊井 維大(きくい つなひろ、旧姓田中、1899年(明治32… 菊井 維大(きくい つなひろ、旧姓田中、1899年(明治32年)2月19日 - 1991年(平成3年)11月15日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。東京大学名誉教授。日本学士院会員。長崎県長崎市出身。学習院大学教授の水野謙は長女の子(外孫)。加藤正治門下。弟子に三ケ月章、斎藤秀夫、大須賀虔、木澤克之など。 1923年(大正12年)東京帝国大学法学部卒業。 その後、東京帝国大学法学部助教授を経て、1932年(昭和7年)東京帝国大学法学部教授。1947年(昭和22年)東京大学法学部教授。 1959年(昭和34年)4月、立教大学法学部法学科教授に就任。1967年(昭和42年)立教大学総長事務取扱。
小林 中(こばやし あたる、1899年〈明治32年〉2月17… 小林 中(こばやし あたる、1899年〈明治32年〉2月17日 - 1981年〈昭和56年〉10月28日)は、日本の実業家。初代日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)総裁、日本航空会長、東急電鉄社長、富国生命保険社長などを歴任。戦後の財界において影の財界総理と称されるほどの実力者であった。愛称はコバチュー。初代石和町名誉町民。位階は正三位。勲等は勲一等旭日大綬章。 1899年(明治32年)2月17日、山梨県中巨摩郡源村(現・南アルプス市)の村長を務めた矢崎貢と、小林伝右衛門の三女ふくの間に、次男として出生。伝右衛門の要請で両親とともに石和町に移り、同年12月に伝右衛門の養子となった。1901年(明治34年)9月には小林家の家督を相続した。
栗原 嘉名芽(くりはら かなめ、1899年2月16日 - 1… 栗原 嘉名芽(くりはら かなめ、1899年2月16日 - 1990年5月1日)は、日本の音響学者。 東京出身。東京帝国大学理学部物理学科卒業。東京高等商船学校教授。日本大学教授。東京学芸大学教授。日本女子大学文学部国文科教授。聖徳学園短期大学教授、同名誉教授。歌人として『青影』同人。日本科学協会顧問。
江角 ヤス(えすみ ヤス、1899年〈明治32年〉2月15日… 江角 ヤス(えすみ ヤス、1899年〈明治32年〉2月15日 - 1980年〈昭和55年〉11月30日)は、日本の教育者、修道女、社会事業家。 島根県簸川郡久木村(現在の出雲市)で、誕生した。父・文之助と母・ユウの3女で、9人きょうだいの6番目の子供だった。家の宗教は浄土真宗であった。 1905年(明治38年)、久木村尋常高等小学校に入学し、1911年(明治44年)に卒業する。同年4月には、簸川群直江村外5ヶ村の組合立直江高等小学校に入学し、1914年(大正3年)に卒業する。同年4月、島根県女子師範学校(二部)に入学し、1916年(大正5年)に卒業する。同年4月、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)理科に入学する。
谷村 敬介(たにむら けいすけ、1899年 <明治32年> … 谷村 敬介(たにむら けいすけ、1899年 <明治32年> 2月15日 - 1993年 <平成5年> 1月30日)は、日本の経営者。大東京火災海上保険社長、会長を務めた。位階は従五位。 富山県出身。1922年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に鴻池銀行に入行。1926年に鴻池信託を経て、1939年に大東京火災海上保険に転じ、1944年に取締役に就任し、1945年に常務、1956年に専務を経て、1957年には社長に就任。1962年6月に会長を経て、1966年には相談役に退いた。 1963年に藍綬褒章を受章し、1966年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1993年1月30日心不全のために死去。93歳没。
猪谷 善一(いたに ぜんいち、1899年2月15日 - 19… 猪谷 善一(いたに ぜんいち、1899年2月15日 - 1980年1月16日)は、日本の経済学者。 富山県出身。1923年東京商科大学卒、同年助手、パリ留学をへて1927年助教授、1937年教授。1938年「最近日本貿易の伸展に関する実証的研究」で経済学博士。1939年退職、大阪商工会議所理事。亜細亜大学教授。1971年定年、駒澤大学教授。上田貞次郎に師事した。 妻の妙子は、幼女の頃より中勘助に愛された人として知られる(『中勘助の恋』富岡多恵子、創元社、1993)。中の学友・江木定男(江木鰐水の孫)とその妻・万世(関新平の娘で、定男の継母・悦子の妹でもあり、鏑木清方の代表作「築地明石町」のモデル)との娘で、お茶の水女学校を出て猪谷と結婚し出産もしたが、35歳で早世した。
金沢 治(かなざわ おさめ、1899年(明治32年)2月14… 金沢 治(かなざわ おさめ、1899年(明治32年)2月14日 - 1981年(昭和56年)5月12日)は日本の歌人、郷土史家、方言研究家。飯田義資(1894-1973)・一宮松次(1897-1972)と共に徳島県郷土史研究の三大長老の1人とされる。徳島県郷土資料専門調査員を務めた。 1899年2月14日、徳島県美馬郡半田町(現:つるぎ町)に金沢与平の長男として生まれる。 1918年3月、徳島県師範学校本科第一部を卒業する。 1923年4月、上京し国学院大学高等師範部に入学する。在学中は折口信夫に師事する。 1926年、国学院大学高等師範部を卒業し、神奈川県立商工高等学校に就職する。 1927年、帰郷し徳島県立徳島中学校に転任する。
大池 晴嵐(おおいけ せいらん、1899年〈明治32年〉2月… 大池 晴嵐(おおいけ せいらん、1899年〈明治32年〉2月14日 - 1977年〈昭和52年〉9月29日)は、日本の書家。愛知県丹羽郡古知野村(現・江南市)生まれ。号は晴嵐、別号に一魯、田翁、魯翁。本名は一良(かずよし)。正六位勲五等双光旭日章受章。 大正時代から昭和初期に活躍した中部地方(尾張地方)の漢字書家。行草書を得意とした。父に伴い名古屋で書を、親戚に画を習った。書を志し上京、豊道春海に師事する。泰東書道院で活躍するも、戦災により帰郷する。帰郷後は中部書壇の高揚に努め会派の違いを結集した中部日本書道会の育成に貢献した。自会派平心社(後の東海書道芸術院)を創立した。日展・中部日本書道会脱退後はかえって中部日本書道会の方が全国展出品者が増え、主流となっていった。
宮本 百合子(みやもと ゆりこ、1899年(明治32年)2月… 宮本 百合子(みやもと ゆりこ、1899年(明治32年)2月13日 - 1951年(昭和26年)1月21日)は、日本の昭和期の小説家・評論家。旧姓は中條(ちゅうじょう)、本名はユリ。日本女子大学英文科中退。 18歳で『貧しき人々の群』を発表し天才少女と注目された。米留学後結婚したが離婚、その経緯をまとめた『伸子』を発表。その後ソ連を訪れ日本共産党に入党。宮本顕治と結婚。再三検挙されながらも執筆活動を続けた。戦後は『歌声よ、おこれ』を書いて民主主義文学運動の出発を宣言、『播州平野』『風知草』『二つの庭』『道標』などを書いた。日本の左翼文学・民主主義文学、さらには日本の近代女流文学を代表する作家の一人である。
大久保 太三郎(おおくぼ たさぶろう、1899年 <明治32… 大久保 太三郎(おおくぼ たさぶろう、1899年 <明治32年> 2月13日 - 1974年 <昭和49年> 10月10日)は、日本の銀行家。位階は従四位。 兵庫県出身。1923年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。1949年4月に理事を経て、1952年8月には監事に就任。 1958年5月から1963年4月までに千葉銀行頭取を務め、1961年に千葉商工会議所会頭に就任し、1963年5月には日本銀行政策委員会委員に就任。 1970年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1974年10月10日急性肺炎のために死去。75歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
堀田 吉雄(ほった よしお、1899年2月13日 - 200… 堀田 吉雄(ほった よしお、1899年2月13日 - 2001年7月28日)は、日本の民俗学者。 三重県津市生まれ。1924年文部省の検定試験に合格、朝鮮の高等女学校で教え、戦後は四日市市の新制中学校教諭、1950年三重県立桑名高等学校教諭、1956年退職。柳田国男に師事して、1966年『山の神信仰の研究』で柳田賞受賞。三重県文化財専門委員、伊勢民俗学会主宰。 2001年7月28日、老衰のため死去。
小山 栄三(こやま えいぞう、1899年2月12日 - 19… 小山 栄三(こやま えいぞう、1899年2月12日 - 1983年8月16日)は、日本の社会学者、新聞学者。立教大学名誉教授、立教大学社会学部長、国立世論調査所初代所長、日本世論調査協会会長、日本広報協会理事長。世論調査を日本で初めて行った第一人者として知られるとともに、日本の新聞学の基礎も築いた。 1899年2月12日、北海道小樽市に生まれる。 1924年、東京帝国大学文学部社会学科卒業。翌1925年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。東京帝国大学新聞研究室の第1回生であり、研究室の助手などを務めた。1935年には、三省堂から「新聞学」を出版。 1938年、立教大学教授に就任する。翌1939年、厚生省人口問題研究所研究官、1943年には、文部省民族研究所員兼企画院調査官を歴任する。
今村 忠助(いまむら ちゅうすけ、1899年2月12日 - … 今村 忠助(いまむら ちゅうすけ、1899年2月12日 - 1954年12月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。自由党吉田派。
山手 樹一郎(やまて きいちろう、1899年〈明治32年〉2… 山手 樹一郎(やまて きいちろう、1899年〈明治32年〉2月11日 - 1978年〈昭和53年〉3月16日)は、日本の小説家。栃木県出身。初め編集者として活動し、時代小説作家に転身。明朗爽快な作風で支持を得た。 栃木県那須郡黒磯町生まれ。父親が鉄道員として黒磯駅に勤務していた当時に生まれた。本名は井口長次。旧制明治中学校卒業。 小学新報社『少女号』の編集者を経て、博文館に入社。『講談雑誌』編集長、『少年少女譚海』編集長をつとめる。1932年頃より兼業作家となり、1939年より専業作家。前後して長谷川伸の門下。翌年より新聞連載した「桃太郎侍」で人気を得る。1944年、「獄中記」「檻送記」「蟄居記」の三部作(のち『崋山と長英』として出版)で第4回野間文芸奨励賞を受賞。
米谷 隆三(まいたに りゅうぞう、1899年2月11日 - … 米谷 隆三(まいたに りゅうぞう、1899年2月11日 - 1958年5月3日)は、日本の法学者。専門は、商法・保険学。学位は、法学博士。1955年「約款法の理論」で日本学士院賞受賞。岡山県出身。 岡山県都窪郡茶屋町(現倉敷市茶屋町)生まれ。旧制第一岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1925年東京商科大学(現一橋大学)卒業(青山衆司ゼミナール)。 1923年文官高等試験行政科合格、1925年商工省入省、商務局保険課勤務。1929年明治大学兼任講師(火災保険論)を経て、1930年東京商科大学(現一橋大学)助教授兼予科教授就任。ベルリン、ローマ、パリへの留学を経て、1934年第10回国際アクチュアリー会議日本代表。
神崎 縷々(かんざき るる、 明治32年(1899年)2月1… 神崎 縷々(かんざき るる、 明治32年(1899年)2月11日 - 昭和11年(1936年)2月28日)は、日本の俳人。本名は神崎 主計。 福岡県宗像郡神興村津丸(現・福津市)生まれ。旧制小倉中学校(現・福岡県立小倉高等学校)を経て、1922年東京高等商業学校(現・一橋大学)本科卒業。吉岡禅寺洞に師事した。 藤本ビルブローカー銀行、久原商事、貝島商事を経て、1932年、小倉市京町に火薬商の神崎商店を設立し、同社支配人に就任。ジー・ワインベルゲン商会小倉支店長も務めていたが、1936年に37歳で死去した。 井筒屋設立者の神崎慶次郎元小倉市長は叔父で養父。倉田主税元日立製作所社長は兄。倉田興人元三井鉱山社長は弟。
佐保田 鶴治(さほだ つるじ、1899年2月11日 - 19… 佐保田 鶴治(さほだ つるじ、1899年2月11日 - 1986年9月11日)は、日本の宗教学者、哲学者。大阪大学名誉教授、文学博士。インド哲学・宗教学専攻。 30数年に及ぶ教授生活を送ったが、若年の頃から虚弱体質で悩み続けていた。ところが、還暦を過ぎた62歳の時に、インド人の手ほどきによるヨーガに出会うことにより、健康をめきめき取り戻し、それまでの不健康な生活が一変し、周囲が驚くほどの健康体となった(典拠『ヨーガ入門』)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
鳥居 正(とりい ただし、1899年2月11日 - 没年不詳… 鳥居 正(とりい ただし、1899年2月11日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は鳥居 笑次(とりい しょうじ)。鳥井 正と表記に揺れがある。 1899年(明治32年)2月11日、鹿児島県鹿児島市に生まれる。1979年(昭和54年)に発行された『日本映画俳優全集 男優篇』では、生年月日は不詳、本名も不詳という旨が記されている。幼少期から数本の歌劇に出演していたとされている。 専修大学を中退後、1917年(大正6年)に沢田正二郎(1892年 - 1929年)が創立して間も無い新国劇に入り、幹部俳優として活躍。立ち回りの巧さで定評があった。1925年(大正14年)、聯合映画芸術家協会と連携して製作された衣笠貞之助監督映画『月形半平太』や、同じく東亜キネマと連携して製作されたマキノ青司(牧野省三)総指揮・監督映画『国定忠治』で沢田と共演。
一戸 謙三(いちのへ けんぞう、1899年2月10日 - 1… 一戸 謙三(いちのへ けんぞう、1899年2月10日 - 1979年10月1日)は、日本の詩人。 青森県弘前市出身。青森県立弘前中学校(現:青森県立弘前高等学校)卒業。1919年、帰省した際、青森県で初めての詩人団体「パストラル詩社」を結成。福士幸次郎に師事し、一戸玲太郎の筆名で口語自由詩人として活躍した。1920年、経済的事情により慶應義塾大学医学部中退。1936年方言詩集『ねぷた』を刊行。1960年青森文化賞、1962年青森県褒賞を受ける。1979年10月1日、心不全のために死去。 昭和初期にはエスプリ・ヌーボーの影響を蒙り、知的観照性の高い散文詩へと移行したが、やがて方言詩に転身、高木恭造とならんで津軽方言詩人としても活動した。
阿波野 青畝(あわの せいほ、1899年(明治32年)2月1… 阿波野 青畝(あわの せいほ、1899年(明治32年)2月10日 - 1992年(平成4年)12月22日)は、奈良県出身の日本の俳人。本名は敏雄。旧姓・橋本。原田浜人、高浜虚子に師事。昭和初期に山口誓子、高野素十、水原秋桜子ととも「ホトトギスの四S」と称された。「かつらぎ」主宰。 市井の生活を材に、鷹揚な表現で自在な句境を構築した。古典を素地にした叙情性も特徴。句集に『万両』(1931年)、『除夜』(1986年)など。 奈良県高市郡高取町に橋本長治・かね夫妻の4男として生まれる。父は八木銀行高取支店長で士族の家系。幼少の時に耳を患い難聴となる。1913年、奈良県立畝傍中学校(現・奈良県立畝傍高等学校)に入学。
太田 公秀(おおた ただひで、1899年(明治32年)2月1… 太田 公秀(おおた ただひで、1899年(明治32年)2月10日 - 1987年(昭和62年)3月19日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級 1899年(明治32年)に東京府で生まれた。陸軍士官学校第32期、陸軍大学校第39期、東京帝国大学政治学科卒業。1939年(昭和14年)8月に第27師団参謀長に就任し、日中戦争に出動。1940年(昭和15年)8月1日に陸軍歩兵大佐に進級。同年10月22日に第6軍高級参謀に転じ、1941年(昭和16年)9月に陸軍大学校教官、1942年(昭和17年)10月に留守第3師団参謀長と歴任。1943年(昭和18年)6月10日に第43師団参謀長に転じ、10月15日に陸軍燃料廠廠員、1944年(昭和19年)3月1日に北スマトラ燃料工廠長を歴任し、太平洋戦争に出征。
楠瀬 常猪(くすのせ つねい、1899年2月10日 - 19… 楠瀬 常猪(くすのせ つねい、1899年2月10日 - 1988年6月18日)は、日本の政治家。広島県知事(官選第39代、公選初代)。参議院議員(1期)。 1899年に広島県に生まれる。1923年東京商科大学(一橋大学の前身)卒業。商工省課長、燃料局長官、中国地方行政事務局長官などを歴任する。 1945年に39代官選広島県知事となり、戦災都市復興協議会を設置、原爆投下で廃れていた広島の街の復興に努めた。官選知事を1947年3月まで務めた後、同年4月5日に初めて執行された広島県知事選挙に出馬し、中井正一らを破り当選。初代公選初代広島県知事に就任した。同年12月には昭和天皇の戦後巡幸があり、随行役を務めた。