高浜 虚子(たかはま きょし、旧字体: 高濱 虛子、1874… 高浜 虚子(たかはま きょし、旧字体: 高濱 虛子、1874年〈明治7年〉2月22日 - 1959年〈昭和34年〉4月8日)は、明治・大正・昭和の日本の俳人・小説家。本名は高浜 清(たかはま きよし、旧字体: 高濱 淸)。旧姓は池内。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 『ホトトギス』の理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。 愛媛県温泉郡長町新町(現:松山市湊町)に旧松山藩士・池内 政忠(いけのうち まさただ)の五男として生まれた。9歳の時に祖母の実家の高浜家を継ぐ。この時、清に次男を得られたら池内家に戻す約束があり、次男の友次郎には約束通り、池内姓を継がせた。兄の池内信嘉は能楽研究家である。
永井 幸次(ながい こうじ、1874年(明治7年)2月21日… 永井 幸次(ながい こうじ、1874年(明治7年)2月21日 - 1965年(昭和40年)4月7日)は日本の音楽教育者。大阪音楽学校(現大阪音楽大学)設立。
田村 瑞穂(たむら みずほ、1874年(明治7年)2月21日… 田村 瑞穂(たむら みずほ、1874年(明治7年)2月21日 – 没年不詳)は、東京市区長、医師。 高知県高岡郡尾川村(現在の佐川町)出身。東京帝国大学医科大学選科で学び、医術開業免状を得た。神奈川県で開業した後、伝染病研究所に技師として勤務した。1902年(明治35年)、香港政庁に招聘されペスト対策に従事した。帰国後、徳島県技師、大分県技師、群馬県技師、内務省検疫官を歴任した。1921年(大正10年)、東京市に転じ、衛生課長、本所区長、浅草区長、日本橋区長、保険局長を務めた。
川合 直次(かわい なおじ、1874年(明治7年)2月21日… 川合 直次(かわい なおじ、1874年(明治7年)2月21日 - 1938年(昭和13年)8月4日)は、衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→立憲民政党)、新潟県高田市長。 新潟県頸城郡直江津町出身。1899年(明治32年)、中頸城郡会議員に選ばれ、1903年(明治36年)には新潟県会議員に選ばれた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第12回衆議院議員総選挙でも再選された。 1924年(大正13年)、高田市長に選出され、1936年(昭和11年)に辞職するまで3期務めた。在職中は上下水道の整備に尽力した。 市長退任後、第19回衆議院議員総選挙(新潟県第4区)に出馬し、当選。
河西 豊太郎(かさい とよたろう、1874年(明治7年)2月… 河西 豊太郎(かさい とよたろう、1874年(明治7年)2月18日 - 1959年(昭和34年)6月27日)は、日本の政治家・実業家。号は嘯月、三江。子に河西俊夫。息子の岳母の兄は貴族院議員 小林八右衛門。弟の岳父は貴族院議員 市川文蔵。 山梨県巨摩郡十日市場村(現・南アルプス市十日市場)に生まれる。十日市場村は近世から毎年2月には市立が行われ各地から商人が集った地で、河西家も十日市場村の「山久」の屋号を称する有力商家で、長百姓として村政にも携わっている。父は河西家当主の兵一郎。豊太郎は次男であるが長男は豊太郎出生の前年に死去しており、豊太郎は長男として育てられた。 幼少期に父の兵一郎は死去し、豊太郎は三恵小学校、東八代郡南八代村(現・笛吹市八代町南)の加賀美平八郎の私塾成器社に学ぶ。
牧野 元次郎(まきの もとじろう、1874年(明治7年)2月… 牧野 元次郎(まきの もとじろう、1874年(明治7年)2月17日 - 1943年(昭和18年)12月7日)は、日本の実業家。不動貯金銀行(のちの協和銀行、りそな銀行)創業者・元頭取。定期積金を考案し業績を拡大させ「貯金王」などと呼ばれた。族籍は東京府士族。 千葉県君津郡久留里町(現君津市)出身。旧久留里藩士・牧野治の長男。父・牧野治は明治維新後は警察官吏となり、牧野が小学校に入学する頃には千葉県内の各地に赴任、警察署長も務めた。 1886年、印幡郡土室村の北総英漢義塾に入学。更に高等商業学校(のちの一橋大学)に進むも、過度の勉学への意志が牧野の精神を侵し病気となったことから中退。病も癒えた1894年に成田町に創立された成田銀行に勤めた。
冨島 元治(とみしま もとはる、1874年(明治7年)2月1… 冨島 元治(とみしま もとはる、1874年(明治7年)2月16日 - 1945年(昭和20年)11月16日)は、日本の判事・台湾総督府官僚。高雄州知事。 京都府に冨島元起の長男として生まれる。京都府立第一中学校、第二高等学校を経て、1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。京都地方裁判所判事、横浜地方裁判所判事、東京地方裁判所判事、宇都宮地方裁判所部長判事を歴任。 台湾総督府総務長官・賀来佐賀太郎の招きにより台北に赴任し、覆審法院判官となった。その後行政官となり、南投庁長、台北庁長を歴任した。さらに台湾総督府警視総長(1919年5月21日 - 1919年6月28日)、同警務局長(1919年6月28日 - 1920年9月1日)を務めた。
繁野 天来(しげの てんらい、1874年〈明治7年〉2月16… 繁野 天来(しげの てんらい、1874年〈明治7年〉2月16日 - 1933年〈昭和8年〉3月2日)は、日本の詩人、英文学者。早稲田大学で4人目となる博士号授与者。本名は繁野 政瑠(しげの まさる)、他の筆名に繁野 狂美がある。 1874年2月16日、現在の徳島市下助任町に、徳島藩士の繁野傑()・イサ夫妻の長男として生まれる。 徳島市立助任尋常小学校、川島尋常小学校、公立寺島小学校、徳島市立徳島高等小学校を経て、1889年に徳島県立徳島尋常中学校に入学。祖母の死を機に大阪に移り、1891年に大阪市立尋常中学校に転学。在学中に熊本謙二郎から英語を教わる。1893年9月に第三高等学校に入学するも、後に病気退学。
斎藤 礼三(さいとう れいぞう、1874年(明治7年)2月1… 斎藤 礼三(さいとう れいぞう、1874年(明治7年)2月15日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。朝鮮総督府官僚。弁護士。 熊本県出身。1901年(明治34年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。台湾総督府事務官・警視、統監府書記官、朝鮮総督府事務官、忠清北道第一部長、京城府尹、咸鏡北道知事などを歴任した。 退官後は弁護士を開業した。
根津 啓吉(ねづ けいきち、1874年(明治7年)2月15日… 根津 啓吉(ねづ けいきち、1874年(明治7年)2月15日 - 1954年(昭和29年)12月4日)は、山梨県出身の地主、政治家、実業家。貴族院議員を務めた。 明治7年2月15日、山梨県巨摩郡築地新居村(現在の中巨摩郡昭和町)で、父・内藤宇兵衛(思温)、母・とよの間に四男として生まれた。1893年(明治26年)に同志社普通学校を卒業、この頃にキリスト教の洗礼を受けた。1896年(明治29年)には同志社ハリス理科学校(現在の同志社大学理工学部)を卒業した。京都滞在は通算9年に及んだ。 卒業後、茨城県立水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)、同下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)で教職を務めた。
西村 伊亮(にしむら いすけ、1874年2月12日 - 19… 西村 伊亮(にしむら いすけ、1874年2月12日 - 1951年1月8日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 滋賀県出身。東京法学院で学ぶ。農業を営み、滋賀県会議員、近江米取引所理事長、同監査役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において滋賀5区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1951年に死去した。
市川源三(いちかわ げんぞう、1874年2月11日 - 19… 市川源三(いちかわ げんぞう、1874年2月11日 - 1940年3月25日)は、日本の教育者。長野県北佐久郡三都和村(現・立科町)出身。1895年長野師範学校卒業、1900年東京高等師範学校卒業。
中山久四郎(なかやま きゅうしろう、1874年2月10日-1… 中山久四郎(なかやま きゅうしろう、1874年2月10日-1961年9月7日)は、東洋史学者。
中川 浅之助(なかがわ あさのすけ、1874年2月7日 - … 中川 浅之助(なかがわ あさのすけ、1874年2月7日 - 1920年11月1日)は、日本の実業家。第2代宇治川電気社長。初代日本電力副社長。 1899年高等商業学校(現一橋大学)卒業、大阪商船入社。神戸支店助役、運輸課助役、仁川支店長、計理課長兼内航部長を経て、中橋徳五郎に任じられ宇治川電気総支配人に就任。1917年宇治川電気取締役。中橋の指名を受け1918年からは宇治川電気取締役社長を務め、日本電力副社長も兼務したが、在任中の1920年に死去した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
沢田 牛麿(さわだ うしまろ、1874年(明治7年)2月6日… 沢田 牛麿(さわだ うしまろ、1874年(明治7年)2月6日 - 1958年(昭和33年)1月29日)は、日本の内務官僚、政治家。貴族院議員。 高知県土佐郡布師田村(現:高知市)で旧土佐藩士沢田誠一の長男として生まれる。山口中学、山口高等学校を経て、1899年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。陸軍省に入り、陸軍属として大臣官房付となる。以後、陸軍省参事官、警察監獄学校教授兼内務省参事官などを歴任。その後、東京府事務官に転じ、韓国統監府警視、兼統監府書記官、鹿児島県内務部長などを務めた。 1918年10月、青森県知事に就任。以後、佐賀県・石川県・福岡県の各知事を歴任した。
百瀬 渡(ももせ わたる、1874年2月5日 - 1945年… 百瀬 渡(ももせ わたる、1874年2月5日 - 1945年12月21日)は、長野県出身の政治家。
林 博太郎(はやし ひろたろう、1874年(明治7年)2月4… 林 博太郎(はやし ひろたろう、1874年(明治7年)2月4日 - 1968年(昭和43年)4月28日)は明治時代から昭和時代にかけての日本の教育学者、実業家、政治家。伯爵、文学博士。
森 平兵衛(もり へいべえ、1874年(明治7年)2月4日 … 森 平兵衛(もり へいべえ、1874年(明治7年)2月4日 - 1952年(昭和27年)5月2日)は、明治から昭和時代前期の政治家。実業家。薬種商。貴族院多額納税者議員。丹平製薬創業者。旧姓は松井。旧名は小二郎。 大阪に生まれる。松井小兵衛の二男として生まれ、1884年(明治17年)2月、先代森平兵衛の養子となり、1900年(明治33年)2月に家督を相続し旧名小二郎を改め襲名する。生家は代々足袋装束商を営んだ大阪の旧家であったが明治初期より売薬を副業とした。 大阪共立薬学校を卒業し、薬剤師となる。家督相続後は丹平商会を発展させるとともに、摂津土地、東印度貿易会社各役員、大阪商工会議所議員を務めた。
風間 礼助(かざま れいすけ、明治7年(1874年)2月4日… 風間 礼助(かざま れいすけ、明治7年(1874年)2月4日 - 昭和34年(1959年)9月10日)は、日本の政治家・ジャーナリスト。衆議院議員、号は冠峯。 長野県更級郡稲荷山村(現千曲市)生まれ。成立学舎、旧制第一高等学校を経て、帝国大学法科大学政治学科を卒業。明治36年(1903年)茅原華山の後任として『長野新聞』主筆となる。その後、横浜港湾改良期成委員会書記長、横浜精糖会社営業部長などを務めた。同45年(1912年)第11回衆議院議員総選挙に初当選し、同年末には憲政擁護、藩閥打破の見地から第一次護憲運動を推進した。大正2年(1913年)第1次山本内閣に際して、尾崎行雄らと政友会を脱党して政友倶楽部を結成し、営業税全廃運動でも先陣に立って活動した。
長屋 順耳(ながや じゅんじ、1874年(明治7年)2月3日… 長屋 順耳(ながや じゅんじ、1874年(明治7年)2月3日 - 1951年(昭和26年)8月19日)は、東京外国語学校校長。女子学習院長。宮中顧問官。 岐阜県出身。1897年(明治30年)に東京帝国大学文科大学英文科を卒業し、大学院に進学した。1898年(明治31年)に第四高等学校教授となり、1904年(明治37年)から広島高等師範学校教授、1917年(大正6年)から文部省督学官を務めた。1919年(大正8年)、東京外国語学校校長となり、1932年(昭和7年)に女子学習院長に転じた。1940年(昭和15年)に退官して、宮中顧問官となった。
久恒 久太郎(ひさつね きゅうたろう、1874年〈明治7年〉… 久恒 久太郎(ひさつね きゅうたろう、1874年〈明治7年〉2月3日 - 没年不詳)は、明治時代から昭和時代初期にかけての日本の政治家。 1874年、父の久衞と母のテフ子の長男として生まれる。宮永小学校を卒業し、片端中等科(学制改革により卒業時は高等小学校)に進学。1894年(明治27年)、叔父の久恒彌十郎が村長であった豊田村役場の書記に就いた。1902年(明治35年)10月に下宮永の区長に就き、1910年(明治43年)まで務めた。 父の久衞は、旧幕時代には中津藩の硝煙製造を担っていたが、廃藩置県を受けてこれをやめて、線香の製造をはじめた。しかし利益が上がらなかったため、精米製粉業をはじめ、中津町内において米の小売業を営んでいる。
山口 龍之助(やまぐち りゅうのすけ、1874年(明治7年)… 山口 龍之助(やまぐち りゅうのすけ、1874年(明治7年)2月 - 1939年(昭和14年)5月7日)は、昭和時代初期に、第8代・仙台市長を務めた人物である。 宮城県石巻市出身であり、宮城県土木課長を経て、仙台市長となった。 1927年(昭和2年)8月13日の仙台市会(市議会)投票において、15票を獲得、13票だった前市長・鹿又武三郎を下して当選した。しかし、この選挙戦では山口派と鹿又派が多数派工作のために激しく対立、市会において過半数の支持を獲得できなかった山口は、市長当選後にも困難な市政運営を強いられた。また、山口の擁立・選出は、もっぱら当時の田中義一内閣と宮城県知事・牛塚虎太郎による政友会拡張政策によるものであり、市民とは無縁のままに決定されたものであるとの批判もあった。
井伊 直方(いい なおかた、1873年(明治6年)2月28日… 井伊 直方(いい なおかた、1873年(明治6年)2月28日 - 1936年(昭和11年)2月3日)は、大正から昭和戦前期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧与板藩主・井伊直安の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1922年(大正11年)11月30日、子爵を襲爵した。 学習院高等科を卒業し、東京帝国大学法科大学政治学科を修了した。内親王浴場之儀鳴弦控、皇子浴場之儀鳴弦などを務めた。 1928年(昭和3年)1月19日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し死去するまで在任した。 共保 - 共宗 - 宗綱 - 共章 - 共家 - 共直 - 惟直 - 盛直 - 良直 - 彌直 - 泰直 - 行直 - 景直 - 忠直 - 直氏 - 直平 - 直宗 - 直盛 - 直親 - ※(直虎) 直政 - 直孝 - 直澄 - 直興 - 直通 - 直恒 - 直治 - 直惟 - 直定 - 直禔 - 直定 - 直幸 - 直中 - 直亮 - 直弼 - 直憲 - 直忠 - 直愛 - 直豪 - 直岳 直勝 - 直好 - 直武 - 直朝 - 直矩 - 直陽 - 直員 - 直存 - 直郡 - 直朗 - 直暉 - 直経 - 直充 - 直安 - 直方 - 英彰 - 修 - 達夫
河東 碧梧桐(かわひがし へきごとう、1873年(明治6年)… 河東 碧梧桐(かわひがし へきごとう、1873年(明治6年)2月26日 - 1937年(昭和12年)2月1日)は、日本の俳人・随筆家。本名は秉五郎(へいごろう)。 正岡子規の高弟として高浜虚子と並び称され、俳句革新運動の代表的人物として知られる。 伊予・松山藩士の五男として生まれる。父は正岡子規の漢学の師。高浜虚子とは中学時に同級であり、後に子規の門下生となるまで、行動をともにした仲の良い友人であった。 子規没後、虚子は「ホトトギス」の経営を、碧梧桐は新聞「日本」の俳句欄を担当。やがて新傾向運動を展開し、季題趣味と定型を打ち破った自由なリズムによる俳句を推進した。1906年から3年間の全国行脚で多くの賛同者を得たが、大正期に至って、虚子が俳壇に復帰し、守旧派の立場から激しい攻撃を浴びせた。
吉村 友之進(よしむら とものしん、1873年(明治6年)2… 吉村 友之進(よしむら とものしん、1873年(明治6年)2月24日 - 1951年(昭和26年)4月13日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。吉村角次郎の子。 地元の旧家で実業家・貴族院議員の吉村角次郎の長男として和歌山県那賀郡、のちの岩出村(岩出町を経て現岩出市)に生まれ、1891年(明治24年)東京法学院を卒業する。1902年(明治35年)5月、家督を相続する。農業を営む傍ら、家業の製糸業を継ぎ、吉村製糸社長、和歌山紡績取締役、南方酒造監査役などを歴任した。 1939年(昭和14年)和歌山県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
森 広蔵(もり こうぞう、1873年2月24日 - 1944… 森 広蔵(もり こうぞう、1873年2月24日 - 1944年1月12日)は、日本の実業家。台湾銀行頭取等を経て、安田保善社理事に就任。昭和初期に安田財閥の最高経営者として組織・人事の再編成を行った。東京銀行集会所会長、経団連副会長等も務めた。 1873年(明治6年)2月24日に鳥取市本町の商家に生まれる。同郷の奥田義人特許局長の玄関番となり特許局で働きながら予備校で学んで、東京高等商業学校(現一橋大学)に入学すると旧藩主による奨学金・寄宿舎に頼りながら、銀行家を目指して学ぶ。1897年(明治30年)7月に卒業すると、高橋是清副頭取の口添えで横浜正金銀行に就職した。1898年(明治31年)3月から上海支店に勤務し、1905年(明治38年)春に満洲の牛荘支店副支配人となった。
坂本 政五郎(さかもと まさごろう、1873年(明治6年)2… 坂本 政五郎(さかもと まさごろう、1873年(明治6年)2月22日 - 1942年(昭和17年)12月18日)は、日本の政治家。徳島市長。徳島県三好市出身。 旧三好郡池田町三縄中西(現在の三好市)生まれ。 1913年(大正2年)、三縄村長に選ばれ1920年(大正9年)まで2期を務めた。その後、三好郡会議員を経て1919年(大正8年)に徳島県会議員に当選、5期連続で県会議員に当選し徳島県会議長も務めた。 1931年(昭和6年)、立憲民政党所属で徳島市長に就任し、1933年(昭和8年)まで務めた。市長退任後は又美馬水力電気会社社長となった。 1942年(昭和17年)12月18日、70歳で没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
三浦 倫吉(みうら りんきち、1873年(明治6年)2月21… 三浦 倫吉(みうら りんきち、1873年(明治6年)2月21日 - 1916年(大正5年)8月7日)は、衆議院議員(立憲同志会)、弁護士。 島根県那賀郡浜田町(浜田市)出身。山口高等学校を経て、1901年(明治34年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。卒業後は司法官となり、岡山区裁判所判事、京都区裁判所兼地方裁判所判事を歴任した。1904年(明治37年)に退官した後は、京都市で弁護士・弁理士・破産管財人として活動した。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
児玉 好熊(兒玉、こだま よしくま、1873年(明治6年)2… 児玉 好熊(兒玉、こだま よしくま、1873年(明治6年)2月20日 - 1924年(大正13年)9月10日)は、明治から大正期の政治家。衆議院議員(立憲政友会)。 鹿児島県伊佐郡東太良村(現在の伊佐市)で、児玉藤吉の長男として生まれ、1909年(明治42年)7月、家督を相続した。中学造士館を経て、1894年(明治27年)慶應義塾を卒業。慶應義塾の助教授となるが、持病を理由に1896年(明治29年)に帰郷し、英語や数学の塾を開く。 1899年(明治32年)より鹿児島県会議員、同参事会員、同副議長を歴任し、1912年(大正元年)11月、第14代県会議長に就任した。また1910年(明治43年)より鹿児島新聞社理事を務めた。
原岡 永江(はらおか ながえ、1873年〈明治6年〉2月18… 原岡 永江(はらおか ながえ、1873年〈明治6年〉2月18日 - 1945年〈昭和20年〉4月11日)は、日本の実業家、政治家、香川県の大地主。衆議院議員(当選1回)。族籍は香川県平民。 香川県綾歌郡富熊村(現・丸亀市綾歌町富熊)出身。素封家・原岡勇次郎の長男。農業を営む。香川県会議員、同参事会員、富熊村農業会長、宇多津塩田社長となる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において香川県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員は1期務め、1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1934年に私財を投じて富熊小学校に大講堂を建築して寄贈した。1945年4月11日に死去した。
高橋 本吉(たかはし もときち、1873年(明治6年)2月1… 高橋 本吉(たかはし もときち、1873年(明治6年)2月17日 - 1920年(大正9年)11月26日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。 秋田県北秋田郡綴子村(現在の北秋田市)出身。東京高等師範学校を卒業した後、アメリカ合衆国に渡り、プリンストン大学で修士号を得た。1908年(明治41年)から1910年(明治43年)まで関東都督秘書官を務めた後、関東都督府経済調査嘱託、農商務省海外実業練習生、南満州鉄道株式会社文書係主任、ジャーディン・マセソン商会大連出張所主任などを歴任した。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第14回衆議院議員総選挙でも再選された。 日米問題の調査のため渡米中、シアトルで病死した。
岸辺 福雄(きしべ ふくお、1873年2月14日 - 195… 岸辺 福雄(きしべ ふくお、1873年2月14日 - 1958年9月9日)は、幼児教育家、口演童話家。号は福叟(ふくそう)。姓は正しくは「岸邊」。 旧池田藩の藩医佐藤秀林の次男として鳥取県岩井郡大岩村(現・岩美郡岩美町)に生まれる。旧制の兵庫県御影師範(後の兵庫師範学校)を卒業後、兵庫県の小学校の教師時代に京都府久美浜町の岸邊かよと結婚、岸邊姓を名乗る。小学校教師をつとめた後、上京。1902年(明治35年)、青山師範学校講師、1903年(明治36年)、牛込納戸町に東京都第一号の私立幼稚園、東洋幼稚園を設立。園長となる。1910年、神田北神保町に園舎を新築移転。同地に東洋家政女学校を開校。1927年、娘のため分園として、代々木上原に岸辺幼稚園を開設するが、二つの幼稚園を合わせると、在職年数は50年になったという。
木村 茂(きむら しげる、明治6年(1873年)2月11日 … 木村 茂(きむら しげる、明治6年(1873年)2月11日 - 1972年8月25日)は、日本の陸軍軍人。歩兵将校の後主計科に転じ、陸軍被服本廠長・第1師団経理部長・陸軍経理学校長を歴任する。階級は陸軍主計総監。 広島県福山市に生まれる。尋常中学福山誠之館を経て、1891年(明治24年)志願兵として入営、1892年(明治25年)から陸軍士官学校(5期)に入校、1894年(明治27年)7月27日に卒業する。同年9月18日、陸軍歩兵少尉に任官される。歩兵将校として大尉迄進むが、1902年(明治35年)から経理将校を目指し陸軍経理学校に入校する。 1904年(明治37年)に卒業し改めて陸軍二等主計に任官され騎兵第1連隊附を命ぜられる。
石原 市三郎(いしはら いちさぶろう、1873年〈明治6年〉… 石原 市三郎(いしはら いちさぶろう、1873年〈明治6年〉2月10日 - 1940年〈昭和15年〉8月29日)は、昭和時代戦前の政治家。岡山市長。 石原友治の長男として、岡山県津高郡田益村(御津郡横井村、津高町を経て、現岡山市北区津高地域)に生まれる。関西大学法科に学ぶ。1906年(明治39年)普通文官試験に合格。1904年(明治37年)神戸税務監督局に出仕。豊岡税務所長、主税局事務官を経て、1924年(大正13年)東京市役所に入り、区画整理局庶務課長、監査課長、収税課長を経て、1933年(昭和8年)経理課長を歴任した。 1934年(昭和9年)2月25日に岡山市長に就任し、早々に前任の守屋松之助が廃止した助役二部制を復活させた。
佐藤 信古(さとう しんこ、1873年(明治6年)2月10日… 佐藤 信古(さとう しんこ、1873年(明治6年)2月10日 - 1942年(昭和17年)9月7日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(1期)。 佐藤祐太郎の子として山形県田川郡宮曽根村(東田川郡栄村、余目町を経て現庄内町)に生まれる。二松學舍を経て哲学館を修了する。1905年(明治38年)以降、北洋漁業取締役、共益倉庫社長などのほか、栄村会議員、東田川郡会議員、栄村長、東田川郡育英会理事長、同教育会理事長などを歴任した。この間、1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙では山形県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選し、衆議院議員を1期務めた。
根岸 由太郎(ねぎし よしたろう、1873年2月10日 - … 根岸 由太郎(ねぎし よしたろう、1873年2月10日 - 1960年3月2日)は、日本の英文学者、教育者、翻訳家。立教大学文学部英文学科元教授、一般教養部元教授。 群馬県出身で、赤城山下の片田舎で育つ。 1883年から1990年頃に、憧れの地であった東京に出て、学ぶ場所を探す。当時、金持ちの友人は慶應義塾へ行き、タイトルを欲する者は東京大学に趣き、いわゆる書生たちは神田の私立学校や下宿にごろつき歩く世の中であった。由太郎は、英語が達者になりたいという一念で築地居留地をぶらついて、見つけたのが立教大学だった。 地元の群馬で、英語の素養として、辛うじてウィリアム・スウィントンの『万国史』の訳読が出来る程度であり、これまで外国人を見たことがなく、ましてや会話をする機会など全くなかったが、この頃、森有礼の方針で英語の研究が大いに高まった時代であった。
山口 恒太郎(やまぐち つねたろう、1873年(明治6年)2… 山口 恒太郎(やまぐち つねたろう、1873年(明治6年)2月10日 - 1941年(昭和16年)4月6日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した日本の実業家、政治家。和歌山県出身。 元は新聞記者。福岡市の福岡日日新聞主筆となった縁で福岡にて実業界に転身し、九州電灯鉄道常務や博多商業会議所(現・福岡商工会議所)会頭などを務める。政治家としては福岡市会議員を経て立憲政友会所属の衆議院議員となった。 山口の経歴は、九州電灯鉄道常務時代にともに同社常務を務めた松永安左エ門の著書『勇気ある自由』(要書房より1953年刊、うち214-231頁の「山口恒太郎君の憶い出」)に詳しい。以下、特記なき場合記述の出典は同書である。
国府 犀東(こくぶ さいとう、明治6年(1873年)2月5日… 国府 犀東(こくぶ さいとう、明治6年(1873年)2月5日 - 昭和25年(1950年)2月27日)は、戦前日本の記者、官僚、漢詩人。本名は種徳。石川県金沢市出身。新潟、台湾、東京で新聞記者を務めた後、内閣、宮内省、文部省等で地方改良運動、近代社格制度、詔勅起草、文化財行政等に関わった。また慶應義塾大学予科、旧制東京高等学校で漢文を講義した。 号は金沢西部を流れる犀川の東畔に生まれたことに由来する。対岸で生まれた室生犀星はこれを受けて犀西の意で犀星と名乗った。また、美術編集者坂井犀水の号も犀川による。 明治6年(1873年)、石川県石川郡金沢城下(金沢市竪町)の左官職鹿島家に生まれた。初名は長松。
太田 信治郎(おおた しんじろう、1873年(明治6年)2月… 太田 信治郎(おおた しんじろう、1873年(明治6年)2月5日 - 1957年(昭和32年)5月17日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 東京府葛飾郡、のちの東京市深川区で、材木商・太田重吉の長男として生まれる。家業を継承し材木商を営む。 万信材木店社長、大日本林業社長、東京材木問屋組合役員、東京製材組合組長などを務めた。 政界では、深川区会議員、同議長、同学務委員、東京市会議員、内閣国有財産調査委員、同特別都市計画委員などに在任した。 1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙に東京府第4区から出馬して当選し、以後、第17回総選挙まで連続して再選された。1936年(昭和11年)2月の第19回総選挙でも再選され、立憲民政党に所属して衆議院議員に通算5期在任した。
大沼 保吉(おおぬま やすきち、1873年〈明治6年〉2月3… 大沼 保吉(おおぬま やすきち、1873年〈明治6年〉2月3日 - 1962年〈昭和37年〉10月22日)は、日本の造り酒屋経営者。政治家。寿虎屋酒造経営者(第8代)。千代寿虎屋酒造経営者(初代)。山形市長(第10代・3期)。山形県会議員(1期)。山形市会議員(4期)。山形市名誉市民(第1号)。山形商工会議所会頭(第6代)。山形県酒造組合連合会会長。山形市東南村山郡酒造組合組合長(初代)。 『いつも嘘は言わぬ』・『言った事には責任を持って実行する』が格言であった。
武内 大造(たけうち たいぞう、だいぞう、1873年2月3日… 武内 大造(たけうち たいぞう、だいぞう、1873年2月3日 – 1946年3月23日)は、日本のドイツ学者、ドイツ語教育者。東京外国語学校(旧制、現在の東京外国語大学)の教授として長年にわたり教鞭を執り、20世紀前半の日本におけるドイツ語教育の発展に寄与した人物である。 1873年(明治6年)2月3日、埼玉県草加町(現在の草加市)に、薬種商を営む武内作蔵と妻なみの次男として生まれる。東京帝国大学文科大学独逸文学科を1900年に卒業した。 同年、東京外国語学校の教授に任命された。1907年には第七高等学校造士館教授に転じ、1914年、再び東京外国語学校教授に就任した。1932年に同校を退官し名誉教授の称号を受けた後も、講師として1939年まで教壇に立った。
上田 寧(うえだ やすし、1873年2月2日 - 1949年… 上田 寧(うえだ やすし、1873年2月2日 - 1949年3月16日)は、日本の経営者。阪神電気鉄道の開業時に技術者として鉄道の敷設を行い、のちに阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)社長を務めた。 大分県下毛郡中津町(現・中津市)出身。大分中学校卒業後、山陽鉄道に就職し、豊州鉄道に転職。同社は九州鉄道と合併し、そのまま建設部主任として留まる。1903年(明治36年)、阪神電気鉄道に移り三崎省三の部下として阪神間に電気鉄道を敷設。翌1904年(明治37年)に阪神電鉄が開通すると阪鶴鉄道に技師長として招かれ、福知山事務所で路線延長に従事する。同線の国有化によって国有鉄道たる鉄道作業局の技師となり、引き続き福知山建設事務所で線路の測量や設計に携わった。
米田 庄太郎(よねだ しょうたろう、1873年〈明治6年〉2… 米田 庄太郎(よねだ しょうたろう、1873年〈明治6年〉2月1日 - 1945年〈昭和20年〉12月18日)は、日本の社会学者。京都帝国大学教授。文学博士。日本聖公会の信徒。 奈良県添上郡杏村(のち添上郡辰市村、現・奈良市杏町)で農業を営む八十平の長男として生まれた。生地は被差別部落であった。1878年、村立辰市小学校に入学。 1886年、大阪府立郡山中学校(現・奈良県立郡山高等学校)に入学。1887年、奈良英和学校(立教大学の姉妹校)に転校。キリスト教聖公会に属する宣教師アイザック・ドーマンのもとで洗礼を受けた。1891年に同校を卒業。 1891年、恩師アイザック・ドーマンが東京の聖三一神学校(現・聖公会神学院の前身の一つ)の比較宗教学講師を嘱託されるにあたり、助手として上京。
千葉 宮次郎(ちば みやじろう、1872年2月29日〈明治5… 千葉 宮次郎(ちば みやじろう、1872年2月29日〈明治5年1月21日〉 - 1933年〈昭和8年〉5月6日)は、日本の政治家、実業家。 兵庫県津名郡野島村(現・淡路市)生まれ。明治法律学校(現・明治大学)卒業。 実業家として、多数の企業の経営に参画し、淡路鉄道、淡路実業銀行、阿淡連絡汽船などの取締役、全淡自動車(後の淡路交通)の社長などを務めた。 野島村長、岩屋町長、津名郡会議員、同議長を歴任した。 1903年(明治36年)9月25日、津名郡選出の兵庫県会議員となった。最終的に1924年(大正13年)5月10日に辞職するまで務めた。この間、1920年(大正9年)12月から1923年(大正12年)9月まで第26代兵庫県会議長を務めた。
鳥羽 源藏(とば げんぞう、1872年2月28日〈明治5年1… 鳥羽 源藏(とば げんぞう、1872年2月28日〈明治5年1月20日〉 - 1946年〈昭和21年〉5月23日)は、日本の明治から昭和初期にかけて活躍した博物学者、教育者である。植物・昆虫・鳥・貝類などの分類学者であり、標本収集者だった。号は三枝。姓の「羽」は「羽」の旧字体だがJIS X 0208には収録されておらず、名の「藏」は「蔵」の旧字体であるため、新字体を用いて鳥羽 源藏、鳥羽 源蔵とも表記される。 明治5年1月20日(グレゴリオ暦1872年2月28日)に岩手県気仙郡小友(おとも)村(現在の陸前高田市小友町)で清左衛門とアヤメの長男として生まれた。生家は「源氏屋」と呼ばれる名門であり、財産家であったともいわれている。
山成 喬六(やまなり きょうろく、1872年2月27日(明治… 山成 喬六(やまなり きょうろく、1872年2月27日(明治5年1月19日)- 1960年(昭和35年)8月31日)は、日本の銀行家。大蔵省主計局長~台湾銀行理事東京支店支配人、満州中央銀行副総裁等を歴任した。 岡山県後月郡芳井村大字簗瀬(現井原市芳井町)生まれ。芳井小学校を経て、興譲館中学校卒業後、従兄阪谷芳郎の書生となる<name=ito />。十代で脳溢血を経験。1890年に東京高等商業学校(現一橋大学)主計科を卒業後、大蔵省入省。 三十四銀行台湾支店長、台湾銀行神戸支店長、台湾銀行大阪支店長、台湾銀行総務部助役を経て、1913年から台湾銀行理事兼東京支店総支配人を務め、投資信託の開発に尽力し、その後投資信託創設のため法制審議会委員として台湾銀行法の改正にあたるなどした。
蓮井 藤吉(はすい とうきち、1872年2月26日(明治5年… 蓮井 藤吉(はすい とうきち、1872年2月26日(明治5年1月18日)- 1941年(昭和16年)7月9日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、実業家。衆議院議員。 香川県寒川郡神前村(大川郡寒川村、寒川町を経て現さぬき市寒川町神前)で、蓮井吉平の長男として生まれた。 大川郡会議員、同郡参事会員となる。1898年(明治31年)香川県会議員に選出され、以後6期在任し県会議長、参事会員も務めた。1902年(明治35年)神前村会議員となり、6期務めた。1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙に香川県第四区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。 また、香川地方森林会議員、香川県水産組合長、屋島登山鉄道常務取締役、日本殖産監査役などを務めた。
佐々木 安五郎(ささき やすごろう、1872年2月25日(明… 佐々木 安五郎(ささき やすごろう、1872年2月25日(明治5年1月17日) - 1934年(昭和9年)1月1日)は、日本の政治家、大陸浪人。衆議院議員(東京府第8区選出、当選4回)。号は照山。蒙古王の異名をとった。族籍は山口県平民。 山口県豊浦郡阿川村(現下関市)に生まれる。10代後半の時に政治に関心を持ち「点燈会」を作った。隣村の滝部村で小学校の代用教員をしていたが、熊本の九州学院に入学し中国語を学んだ。1894年(明治27年)に卒業し、日清戦争に陸軍の通訳として従軍、戦後は台湾総督府の吏員となった。しかし、乃木希典が総督を退くと総督府を辞職し、1898年(明治31年)には雑誌『高山國(たかさご)』を発刊した。
三浦 弥五郎(みうら やごろう、明治5年1月16日(1872… 三浦 弥五郎(みうら やごろう、明治5年1月16日(1872年2月24日) – 昭和16年(1941年)4月4日)は、日本の外交官。駐スイス公使。 千葉県出身。1896年(明治29年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。外交官補、ブラジル公使館三等書記官、オランダ公使館三等書記官、馬山領事、京城理事庁理事官・統監府書記官、スウェーデン公使館一等書記官、駐フランス大使館一等書記官、アメリカ合衆国大使館参事官を歴任した。1916年(大正5年)より駐スイス公使を務めた。その後、平和条約実施委員となった。 退官後は弁護士を開業した。
渡辺 海旭(わたなべ かいきょく、明治5年1月15日(187… 渡辺 海旭(わたなべ かいきょく、明治5年1月15日(1872年2月23日) - 昭和8年(1933年)1月26日)は、東京・浅草出身の学僧。浄土宗の僧侶。社会事業家。阿雷狂史・壺月と号す。 前田和男『紫雲の人、渡辺海旭』巻末の年表によると、以下の通りである。 明治5年(1872年)、東京の浅草の田原町にて、渡辺啓蔵、トナ夫妻の長男として生まれる。明治14年(1881年)に抜嫡届けが出され、翌明治15年(1882年)に抜嫡届けが受理され、浅草松清町の萬照寺に入る。 明治20年(1887年)、小石川区初音町の浄土宗源覚寺住職、端山海定のもとで得度。海定の一字をもらいうけて、海旭となる。同年9月、浄土宗学東京支校(のちの芝中学校・芝高等学校)に入学。