小野 薫(おの かおる、1903年(明治36年)3月20日 … 小野 薫(おの かおる、1903年(明治36年)3月20日 - 1957年(昭和32年)1月11日)は、日本の建築構造学者。構造教育者。 架構力学理論の研究者であり、難解な構造力学の分野を平易に紹介。戦前は満州で建築教育に携わり、戦後は東京大学および日本大学において後進の育成に当たった。 日本の強度計算方式に1つの形式を与え、その水準を高める上に現在日本のラーメン計算ではスラブからの三角型分布荷重と小梁からの集中荷重で大梁の曲げモーメント失算出することが行われているが、これは小野の創意になる図表が用意されていたからこそ可能になった習慣とされる。小野の図表がなければ、恐らく外国並に有効等分布荷重といったもので概算する程度に止まっていたとされている。
関 之(せき いたる、1903年3月19日 - 2001年4… 関 之(せき いたる、1903年3月19日 - 2001年4月25日)は、検事、弁護士。 長野県諏訪郡湖南村(諏訪市)出身。小学校卒業後、専門学校検定試験(専検)合格。第一高等学校を経て、1932年東京帝国大学法学部卒。1934年検事となり、東京控訴院検事などをへて、1948年発足した人権擁護局の第一課長。1949年東京高検検事、1952年公安調査庁総務部長となり、破壊活動防止法や人権擁護委員法の草案を作成する。1963年最高検察庁検事、1966年総務部長。同年弁護士に転じ、中央学院大学教授。1974年定年退任。墓所は多磨霊園(17-1-8)
小塩 力(おしお つとむ、1903年3月16日 - 1958… 小塩 力(おしお つとむ、1903年3月16日 - 1958年6月12日)は、日本の牧師。 小塩節と久米あつみの父。 群馬県に留岡幸助の同労者の小塩高恒(福岡県生葉郡姫治村出身、1872年 - 1943年)の息子として生まれる。東京府立第四中学(東京都立戸山高等学校)、松本高等学校理科甲類を経て、東京帝国大学農学部を卒業後、1926年東京神学社に入学し、植村正久より薫陶を受ける。また、信濃町教会で高倉徳太郎に師事し、高倉の元で伝道師を務める。後に、高倉牧師の伝記を書いた。 神学校卒業後、松江教会、佐世保教会の牧師を務めた。佐世保にいるときに1931年長男の小塩節が生まれた。戦争中はスパイの嫌疑をかけられた。
阿賀 正美(あが まさみ、1903年(明治36年)3月16日… 阿賀 正美(あが まさみ、1903年(明治36年)3月16日 - 1986年(昭和61年)4月9日)は、日本の内務・厚生官僚。最後の官選福島県知事。 佐賀県出身。阿賀末治郎の二男として生まれる。第五高等学校を卒業。1926年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年12月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し、東京府属となる。 以後、厚生省社会保険局監理課長、同体力局企画課長、同人口局管理課長、同局修練課長、山形県内務部長、愛知県部長・警察部長、岩手県内務部長などを歴任。 1947年3月、前任の石原幹市郎が知事選に出馬のため辞任したことに伴い福島県知事に就任。県議会議員選挙、知事選挙などを執行して同年4月に知事を退任。
石井 五郎(いしい ごろう、1903年〈明治36年〉3月15… 石井 五郎(いしい ごろう、1903年〈明治36年〉3月15日 - 1978年〈昭和53年〉1月22日)は、日本の作曲家。舞踊家石井漠の弟。作曲家の石井歓と石井眞木は兄・漠の息子である。 秋田県山本郡山本村(現・三種町)に生まれる。父は同村の村長であった。同地の小学校を出てから上京し、東京の大成中学校(現・大成高等学校)に入学する。同校卒業後、山田耕筰や成田為三のもとで和声学や対位法を学ぶ。1929年、第1回作品発表会を開催する。1930年、新興作曲家連盟の最初の会員となる。1931年に結婚する。1937年9月に渡欧し、主にパリやベルリンに遊学する。1938年7月に日本へ帰国する。 1939年(昭和14年)、毎日新聞音楽コンクールに「田園舞曲」で2位入選する。
大橋 秀雄(おおはし ひでお、1903年3月15日 - 20… 大橋 秀雄(おおはし ひでお、1903年3月15日 - 2002年6月1日)は、日本の警察官、著述家。元警視庁警視正。 警視庁特高部外事課に所属していた警部補当時、副主任としていわゆるゾルゲ事件を担当し、事件の全貌を明らかにした。その功により、1943年(昭和18年)に内務大臣功労記章を受章した。 神奈川県横浜市出身。横浜商業学校を経て、日本大学専門部法律学科第二本科を卒業した。1924年(大正13年)、陸軍近衛野砲兵連隊に入営し、1928年(昭和3年)陸軍砲兵少尉に任官した。同年警視庁巡査となる。 1932年(昭和7年)に巡査部長、1935年(昭和10年)に警部補に昇進する。1936年(昭和11年)、特別高等警察部外事課欧米係となる。
北野 道彦(きたの みちひこ、1903年(明治36年)3月1… 北野 道彦(きたの みちひこ、1903年(明治36年)3月15日 - 1993年(平成5年)5月27日)は、東京生まれの文筆家で、流山市立博物館友の会の創設者である(→写真)。 青年期、壮年期は児童文学の著作活動を行っていたが、1973年に東京都世田谷区から千葉県流山市へ転居後は、主に歴史や地理関係の著作活動を行っていた。1978年の流山市立博物館開館を機に同館友の会を設立し、東葛飾地域を中心とした文化活動を開始する。1991年に北野道彦賞を設立する。 正式名称は「公益信託北野道彦郷土研究奨励基金」。1991年、北野が私財2,500万円を投じて、東葛飾地域で文化及び社会、自然保護活動を行う個人及び団体を表象し、その活動による貢献を世に広く知ってもらうことを目的として設立。
塚本 茂(つかもと しげる、1903年〈明治36年〉3月14… 塚本 茂(つかもと しげる、1903年〈明治36年〉3月14日 - 1983年〈昭和58年〉1月25日)は、昭和期の洋画家である。 1903年(明治36年)、群馬県多野郡美土里村(現・藤岡市)に生まれる。旧制前橋中学校に学び、雑誌で見た中村彝「エロシェンコ氏の像」に感動し、美術教師・曽根末次郎の影響もあり画家を志す。東京美術学校図画師範科に入学し、藤島武二に教えを受け、学外で中村彝、牧野虎雄にも師事する。在学中の1924年(大正13年)に第5回帝展に『緑蔭』を出品し初入選する。1925年(大正14年)同校を卒業。 卒業後は神奈川県立湘南中学校(現・湘南高等学校)教諭となり、1946年(昭和21年)まで勤務。
細田 義安(ほそだ ぎあん、1903年(明治36年)3月14… 細田 義安(ほそだ ぎあん、1903年(明治36年)3月14日 - 1962年(昭和37年)9月28日)は、東京都出身の都職員、政治家(衆議院議員)、弁護士。 小平市小川町出身。中央大学卒業後、東京都庁に入り、総務、主税の各局長を経て、第28回衆議院議員総選挙に旧東京7区で自由民主党より立候補し当選した。東京都職員時代は都知事であった安井誠一郎と近かった。自民党内では、佐藤派に属した。佐藤派の同期は、後に総理大臣になる竹下登と金丸事件で有名な金丸信のみである。第29回総選挙において再選された。 しかし、任期途中の1962年(昭和37年)9月28日、東京都立大久保病院で死去した。59歳没。翌29日、特旨を以て位五級を追陞され、死没日付で正七位から従四位勲三等に叙され、瑞宝章を追贈された。
辻 一三(つじ いちぞう、1903年(明治36年)3月14日… 辻 一三(つじ いちぞう、1903年(明治36年)3月14日 - 1989年(平成元年)9月6日)は、昭和期の日本の政治家で、公選3人目の佐世保市長である。同市名誉市民。 広島県安芸郡音戸町(現在の呉市)出身。1925年長崎高等商業学校(現長崎大学経済学部)卒。辻産業、西九州倉庫など会社経営から1958年、佐世保商工会議所会頭、市議会議員及び議長を経て1963年4月の市長選で現職を破り、第17代佐世保市長に就任。以後1979年まで、4期16年に及び市長を務めた。 市長就任2年後の1965年、喉頭がんが発見され手術を受けた。この際に声帯も切除せざるを得ず、前例のない「声なき市長」となる。一時は辞任も検討したが、食道発声法を習得して職務復帰を果たした。
中峠 国夫(なかたお くにお、1903年(明治36年)3月1… 中峠 国夫(なかたお くにお、1903年(明治36年)3月13日 - 没年不詳)は、日本の政治家。衆議院議員を1期務めた。 広島県出身。苦学の末、旧制広島高等学校、京都帝国大学(文学士)、東京帝国大学(工学士)卒業。 計15回の選挙に立候補するが、当選は1952年の第25回衆議院議員総選挙の1回のみであった。文部大臣秘書官。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
小出 保太郎(こいで やすたろう、1903年〈明治36年〉3… 小出 保太郎(こいで やすたろう、1903年〈明治36年〉3月13日 - 2016年〈平成28年〉1月19日)は、名古屋市守山区に在住していた長寿の男性である。2015年7月5日から死去するまでの間、ギネス世界記録に認定されていた世界最高齢の男性であった。 福井県敦賀市出身。若いころは洋服仕立屋として働き、105歳まで畑仕事を続けていた。106歳のとき名古屋市に引っ越した。110歳を超えても眼鏡を使用せずに新聞を読み、入れ歯なしでの食事が可能であった。晩年は守山区内のデイサービス施設に通っていた。自身の長寿の秘訣として「無理しないで、喜びながら暮らす」ことを挙げている。 2014年1月2日、老人学研究団体ジェロントロジー・リサーチ・グループ(GRG)の検証済みスーパーセンテナリアンリストに登録される。
小塚 新一郎(こづか しんいちろう、1903年3月12日 -… 小塚 新一郎(こづか しんいちろう、1903年3月12日 - 1977年9月5日)は、日本の哲学者である。 富山県出身。東京帝国大学卒業、ベルリン大学へ留学し、1931年(昭和6年)哲学博士の学位を取得する。東京藝術大学学長を1961年(昭和36年)から1969年(昭和44年)まで務めた。学長退任後、国立教育会館館長、愛知県立芸術大学第二代学長を務め、在任中に逝去。
慶光院 俊(けいこういん しゅん、明治36年〈1903年〉3… 慶光院 俊(けいこういん しゅん、明治36年〈1903年〉3月12日 - 平成2年〈1990年〉3月20日)は、昭和時代から平成時代にかけての日本の神職。伊勢神宮大宮司。 1903年(明治36年)、三重県に生まれた。生母は京都府士族籍の女性清水ウタである。慶光院家は伊勢神宮の式年遷宮再興に尽力した慶光院院主の遺跡を継いだ慶光院盈子が維新後に興した家である。父・利敬が二条斉敬の息子であることから、俊は鎌足の直男系男子孫にあたる。俊は、利敬の最初の息子ではあったが庶子であったため家督を継ぐことは無く、のちに分家する。 1916年(大正5年)、三重県立第四中学校に入学。同級生にはのちに日本を代表する映画監督となる小津安二郎がいた。
井上 八三(いのうえ かずみ、1903年3月12日 - 19… 井上 八三(いのうえ かずみ、1903年3月12日 - 1978年6月6日)は、日本の経営者。三井生命保険社長を務めた。 静岡県出身。1927年に早稲田大学商学部を卒業し、同年に三井生命保険に入社。 1947年17月に常務に就任し、1948年11月には社長に昇格。1965年5月に会長を経て、1968年5月には相談役に就任した。 1963年に藍綬褒章を受章し、1973年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1978年6月6日、脳血栓のために死去。75歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
飛沢 栄三(とびさわ えいぞう、1903年3月11日 - 1… 飛沢 栄三(とびさわ えいぞう、1903年3月11日 - 1967年6月21日)は、北海道古平郡古平町出身の高校野球指導者。 北海中学校・北海高等学校の野球部部長・監督を長く務め、「北海道高校野球の父」と呼ばれた。 北海中学時代の1920年、第6回全国中等学校優勝野球大会に外野手として出場。卒業後早稲田大学に進み、法律家を目指す傍ら母校北海中学のコーチを務めた。卒業後は大蔵省志望だったが、北海中学側の強い懇請により、1929年母校の教員となり、同時に野球部の部長に就任。 以来、緻密な野球をスローガンに、戦前・戦後を通じ38年間部長の地位にあり(断続的に監督も兼任)、春は8回、夏は18回甲子園に出場。
深田 久弥(深田 久彌、ふかだ / ふかた きゅうや、190… 深田 久弥(深田 久彌、ふかだ / ふかた きゅうや、1903年〈明治36年〉3月11日 - 1971年〈昭和46年〉3月21日)は、石川県大聖寺町(現・加賀市)生まれの小説家、随筆家および登山家、チベット・ヒマラヤ研究家である。 戦前は小説家、編集者として活躍し、戦後は主に山やスキーに関する随筆をもって著名がある。山をこよなく愛し、読売文学賞を受賞した著書『日本百名山』は特に良く知られている。俳号も山の入った九山であり(愛称である「久さん」のもじりで、荏草句会の永井龍男による命名)、自宅の書斎を兼ねた書庫には「九山山房」の名があり、山房の主とも称した。1971年(昭和46年)3月21日、登山中の茅ヶ岳山頂直下で脳卒中のため68歳で死去。
根岸 栄三郎(ねぎし えいざぶろう、1903年(明治36年)… 根岸 栄三郎(ねぎし えいざぶろう、1903年(明治36年)3月11日 - 1994年(平成6年)9月8日)は日本の発明家・実業家。繊維機械および各種回転方法の発明や改良を行い、日本の産業発展に大きく貢献した。桐生高等工業学校(現・群馬大学理工学部桐生キャンパス)助教授、興亜紡機(株)社長、埼玉県発明協会副支部長を歴任。 ノンタッチ管巻機、自動管巻機、ポット(空気)精紡機を発明。藍綬褒章、紫綬褒章、勲四等旭日小綬章を受賞。 1903年(明治36年)、埼玉県北埼玉郡飯泉村(現・埼玉県羽生市)生まれ。農業を営む父・根岸重次郎と妻・いわの四男(末子)として生まれる。長兄から家業を手伝うように言われていたが、進学して学業を積み社会貢献できる人になりたいと、横浜の親戚の家に行き、1915年(大正4年)10月に幼くして横浜の富士瓦斯紡績(株)で働きながら夜間中学に通った。
寺本 恵真(てらもと えしん、1903年3月10日 - 19… 寺本 恵真(てらもと えしん、1903年3月10日 - 1970年1月12日)は、日本の真宗大谷派の僧侶。教育者。学校経営者。札幌大谷短期大学初代学長。
大矢根 文次郎(おおやね ぶんじろう、1903年3月10日 … 大矢根 文次郎(おおやね ぶんじろう、1903年3月10日 - 1981年2月23日)は、日本の漢文学者。 北海道苫前郡苫前町生まれ。1926年北海道函館師範学校卒、同付属小学校訓導、1932年早稲田大学高等師範部国漢科卒、聖学院中学校教諭。1940年早稲田高等学院講師、1945年教授。1949年早大教育学部助教授、1952年教授、1970年「陶淵明研究」で早大文学博士。1973年早大を定年、名誉教授、女子聖学院短期大学教授。1977年定年、勲四等瑞宝章受勲。
赤崎 兼義(あかざき かねよし、1903年3月8日-1989… 赤崎 兼義(あかざき かねよし、1903年3月8日-1989年10月12日)は、日本の医学者。病理学が専門。医学博士、ドイツ名誉医学博士。東北大学名誉教授。愛知県がんセンター研究所名誉所長。 宮崎県西諸県郡加久藤村(現・えびの市)にて生誕。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、1923年3月に第七高等学校造士館 (旧制)理科乙類を卒業。1927年3月東京帝国大学医学部医学科を卒業し、9月20日より同医学部病理学教室嘱託。1931年4月同大学院入学特選給費生に選定され、1934年9月に医学博士の学位を取得し大学院退学。同年10月13日に新潟医科大学 (旧制)助教授となる。1935年1月29日より2年間ドイツに病理学研究の留学をし、1937年3月26日に帰国。
三ッ井 卯三男(みつい うさお、1903年(明治36年)3月… 三ッ井 卯三男(みつい うさお、1903年(明治36年)3月8日 - 1977年(昭和52年)8月14日)は、日本の政治家。第16代鹿児島市長。位階は正四位。 長野県飯山市出身。東京高等商業学校(現・一橋大学)選科修了、九州帝国大学法文学部卒業。卒業後は長野、山形、福岡の各県の中学教師となる。1938年福岡県庁に入り、社会教育、振興、厚生の各課長を経て、1943年海軍司政官になる。帰国後の1947年福岡県秘書課長から鹿児島県庁に転じ、教育、総務の各部長、副知事を歴任する。 1959年の鹿児島市長選に保守系から立候補したが、元串木野市長で革新系の平瀬實武に敗れて落選した。4年後の1963年の市長選に現職の平瀬に挑戦する形で再び立候補し、前回と同じ保革対決となり、選挙の結果、現職の平瀬を破り当選した。
田中 久兵衛(たなか きゅうべえ、1903年 <明治36年>… 田中 久兵衛(たなか きゅうべえ、1903年 <明治36年> 3月8日 - 1980年 <昭和55年> 5月24日)は、日本の経営者。三井銀行社長を務めた。位階は正四位。 和歌山県出身。1926年に東京帝国大学経済学部経営学科を卒業し、同年に三井銀行に入社。 1951年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1961年11月に副社長に就任。1965年4月には社長に昇格した。1968年5月から会長を務めた。 東京銀行協会会長、全国銀行協会連合会会長なども歴任した。 1970年11月に藍綬褒章を受章。 1980年5月24日死去。77歳没。死没日付をもって正四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
永井 柳太郎(ながい りゅうたろう、1903年3月8日 - … 永井 柳太郎(ながい りゅうたろう、1903年3月8日 - 1986年2月28日)は、滋賀県栗太郡物部村(現:守山市)出身の俳優。本名は高橋 由松。 1920年、新派の俳優・伊井蓉峰の門下生となる。 時代劇では捕り方役などで出演していた。 新派、文藝団[要出典]、マキノ撮影所、松竹、東宝、新東宝、フリーを経て、さち子プロ[要出典]に所属していた。 1986年2月28日、死去。82歳没。
岩谷 直治(いわたに なおじ、1903年3月7日 - 200… 岩谷 直治(いわたに なおじ、1903年3月7日 - 2005年7月19日)は、日本の実業家。LPガスと産業ガスを基幹事業とし、機械、マテリアルなど幅広い分野で事業を展開する商社、岩谷産業株式会社の創業者。家庭用プロパンガス(LPガス)を全国に普及させた功績から「プロパンの父」と慕われた。水素エネルギー社会への先鞭をつけたと評されている。1985年勲二等瑞宝章。2005年従四位叙位。 岩谷直治は、1903年3月7日、島根県安濃郡長久村(現・大田市)に、父 邦吉郎と母 ミサの五男として生まれた。五男五女の男の末っ子だったので可愛がられたが、時には厳しく躾けられた。1907年大田農業学校(現 島根県立大田高等学校)を卒業。
田中 茂美(たなか しげみ、1903年〈明治36年〉3月7日… 田中 茂美(たなか しげみ、1903年〈明治36年〉3月7日 - 1997年〈平成9年〉7月3日)は、昭和から平成時代前期の土木工学者。鉄道官僚。実業家。 白石兵次郎の三男として福岡県遠賀郡に生まれ、のち田中正夫の養子となる。1926年(大正15年)九大土木科卒。鉄道省に奉職し、長野保線事務所長、札鉄局工事課長、新橋保線部長、1943年(昭和18年)門鉄施設部長、1945年(昭和20年)鉄道総局施設局計画課長、1948年(昭和23年)施設局長、1949年(昭和24年)国鉄理事施設局長をへて理事・初代技師長となり、1952年(昭和27年)退職。同年極東鋼弦コンクリート振興、1955年(昭和30年)興和化成、1958年(昭和33年)興和コンクリート各社の社長を務めた。
数納 清(かずのう きよし、1903年 <明治36年> 3月… 数納 清(かずのう きよし、1903年 <明治36年> 3月7日 - 1991年 <平成3年> 12月1日)は、日本の実業家。朝日生命保険社長をつとめた。位階は正四位。 北海道札幌市出身。1926年に東京帝国大学経済学部を卒業し、帝国生命保険(現・朝日生命保険)に入社。台北支店長などを経て、1947年朝日生命保険取締役、1965年に社長に就任。1975年会長、1979年相談役。 この間古河三水会理事長をつとめるなど、財界人としても活躍した。 1969年藍綬褒章、1975年勲二等旭日重光章。1991年死去。死没日付をもって正四位に叙された。 『20世紀日本人名事典』(日外アソシエーツ、2004年)
香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年〈明治36年〉3月6… 香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年〈明治36年〉3月6日 - 2000年〈平成12年〉6月16日)は、日本の第124代天皇・昭和天皇の皇后(在位: 1926年〈昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。諱は、良子(ながこ)。お印は、桃。 久邇宮家出身の生まれながらの皇族であり、誕生から昭和天皇の践祚以前は、名と身位は「良子女王(ながこじょおう)」と称され、皇室典範における敬称は「殿下」であった。 1924年(大正13年)1月26日に摂政宮皇太子裕仁親王(のち昭和天皇)と成婚し、2男5女を儲けた。1926年(大正15年/昭和元年)12月25日、大正天皇の崩御及び昭和天皇の践祚に伴い、皇后に冊立された。
藤岡 由夫(ふじおか よしお、1903年3月6日 - 197… 藤岡 由夫(ふじおか よしお、1903年3月6日 - 1976年3月13日)は、日本の物理学者。
西村 龍介(にしむら りゅうすけ、1903年3月6日 - 1… 西村 龍介(にしむら りゅうすけ、1903年3月6日 - 1989年5月13日)は、日本の経営者。小西六写真工業(現在のコニカミノルタ)社長を務めた。 山口県出身。1926年に九州帝国大学工学部を卒業。商工省での勤務を経て、1932年に小西六写真工業に転じ、1948年に取締役に就任し、1954年に常務を経て、1968年4月に社長に就任。1973年11月から1979年12月までに会長を務めた。東京工芸大学理事長も務めた。 1966年9月に紫綬褒章を受章し、1973年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年5月13日、心不全のために死去。86歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
藤 直幹(ふじ なおもと、1903年3月6日 - 1965年… 藤 直幹(ふじ なおもと、1903年3月6日 - 1965年8月24日)は、日本の日本史学者。 徳島県徳島市に生まれる。松山高等学校を経て、1928年京都帝国大学文学部史学科卒業。1931年に同大学院を退学し、京都帝国大学文学部講師となる。1936年助教授。戦後は、1948年に大阪大学法文学部教授(1953年、文学部教授)となり、1958年には文学部長。 専門は日本中世史。「中世武家故実の研究」によって1948年に京都大学から文学博士の学位を授与される。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
奥村 綱雄(おくむら つなお、1903年(明治36年)3月5… 奥村 綱雄(おくむら つなお、1903年(明治36年)3月5日 - 1972年(昭和47年)11月7日)は、昭和期の実業家。野村證券元社長・会長。野村證券中興の祖といわれる。 1903年(明治36年)3月5日、滋賀県甲賀郡信楽町(現:甲賀市)に生まれる。生家は代々信楽焼の窯元をやっていたが、父は綱雄が6歳の時に大阪堺に移住し菓子の製造販売業を始めた。 1923年(大正12年)大阪高等商業学校(現:大阪市立大学)卒業。1926年(大正15年)に京都帝国大学経済学部卒業後、野村證券へ入社。1936年に満州視察団に参加し、1945年に取締役に就任した。1946年(昭和21年)公職追放による経営陣退陣の中、綱雄は1947年(昭和22年)に専務、1948年(昭和23年)には第3代社長に就任した。
岩倉 政治(いわくら まさじ、1903年3月4日 - 200… 岩倉 政治(いわくら まさじ、1903年3月4日 - 2000年5月6日)は、日本の小説家である。 富山県東礪波郡高瀬村(現南砺市高瀬)出身。大谷大学哲学科で鈴木大拙に師事。 戦前は一時期プロレタリア文化運動にかかわったが、その後〈転向〉し、1939年の作品「稲熱病」(いもち)が芥川賞候補作となる。戦時下には日本文学報国会の小説部会の幹事として、全国を講演したりもした。 戦後は富山市に在住。戦時下の行動を自己批判し、社会変革の運動にかかわりながら文学活動をつづける。1949年の児童文学作品、「空気のなくなる日」は映画化やその後も教材として長く読まれた。1950年代には『人民文学』にも作品を発表した。
森本 六爾(もりもと ろくじ、1903年〈明治36年〉3月2… 森本 六爾(もりもと ろくじ、1903年〈明治36年〉3月2日 - 1936年〈昭和11年〉1月22日)は、大正時代から昭和初期にかけての日本の考古学者。 奈良県磯城郡織田村大泉(現:桜井市)出身。1920年に旧制奈良県立畝傍中学校(現・奈良県立畝傍高等学校)を卒業する。奈良県磯城郡三輪尋常高等小学校の代用教員となり、香久山尋常高等小学校や生駒郡都跡尋常高等小学校でも代用教員を務めた。[要出典]1924年に上京して東京高等師範学校の校長であった三宅米吉の下で、歴史科に副手として勤務した。同年に東京考古学会を設立した。1929年、三宅の死去に伴い副手を辞任。1935年に夫人を結核で亡くし、翌年に神奈川県鎌倉市極楽寺の仮寓で同じく結核により32年の生涯を閉じた。
岩田 蒼明(いわた そうめい、1903年(明治36年)3月1… 岩田 蒼明(いわた そうめい、1903年(明治36年)3月1日 - 1980年(昭和55年)5月31日)は、日本の実業家。日本陶器取締役社長や、同社取締役会長、中部生産性本部会長などを務めた。旧名:岩田莊一。 1926年に東京商科大学(現一橋大学)専門部卒業後、日本陶器に入社し、水品浩からハーマン・ホレリス式統計機第1号機の操作を学び、会計処理の機械化を行うなどした。1944年取締役に昇格。1945年常務取締役。1950年専務取締役。1956年取締役副社長。1961年から取締役社長を務め、アメリカ市場開拓を進めた。1965年日本特殊陶業取締役、日本碍子取締役、東洋陶器取締役。1973年中部生産性本部会長。
宇田 国栄(宇田國榮、うだ くにえ、1903年(明治36年)… 宇田 国栄(宇田國榮、うだ くにえ、1903年(明治36年)3月1日 - 1988年(昭和63年)8月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。派閥は藤山派を経て、福田派。 鹿児島県日置郡東市来村(東市来町を経て現日置市)生まれ。同郷で政界の大物だった床次竹二郎に憧れ床次の秘書として薫陶を受けた後に岸信介秘書へと転じる。1943年に東郷茂徳の要請を受け、大日本興亜同盟の代表使節として満州、北支、中支、南支、海南島を訪れ、汪兆銘とアジアの発展へ向けて協力するための会談を行った。 1946年の第22回衆議院議員総選挙鹿児島1区に日本農本党から出馬し初当選。その後、第23回から第27回まで5回の衆議院議員総選挙に出馬するが落選。
林豪蔵(はやし ごうぞう、1903年3月 - 1975年)は… 林豪蔵(はやし ごうぞう、1903年3月 - 1975年)は、日本の建築家、建築教育者である。 1903年(明治36年)3月、東京市麹町区に生まれる。東京府立第四中学校(現 東京都立戸山高等学校)、第一高等学校を経て、1927年に東京帝国大学建築学科を卒業した。大阪府警察部建築課勤務ののち、1931年4月に横浜高等工業学校建築学科、同年10月には教授に就任した。1969年3月に定年を迎えるまで、横浜高等工業学校、横浜工業専門学校、横浜国立大学、横浜国立大学工業教員養成所で教鞭を取った。1966年からは工業教員養成所の所長を務めている。 1947年には、日本建築学会関東支部設置に向けた懇談会の出席者に、建築教育に関わる立場として名前が記録されている。
富松 良夫(とみまつ よしお、1903年3月 - 1954年… 富松 良夫(とみまつ よしお、1903年3月 - 1954年11月)は、日本の詩人、作詞家、文芸評論家。 教育家富松柏の長男として宮崎県都城市姫城町に生まれる。母方の親戚に有馬馨がいる。 6歳のとき脊髄カリエスにかかり身体障害者となる。翌年には生母を亡くし、伯母に背負われて小学校に通った。1917年に高等小学校を卒業、1919年にキリスト教の洗礼を受ける。1925年に文芸誌「盆地」を刊行し、1929年に詩誌「白」を主宰。いずれもガリ版刷りであった。1930年に友人坂元彦太郎の助力により第一詩集『寂しき候鳥』を出版。1938年、黒木清次らと「竜舌蘭」を創刊。 独学で美術論、音楽論、宗教論を書き、またフランス語を学び訳詩もした。
広川 弘禅(ひろかわ こうぜん、旧字体: 廣川 弘禪、190… 広川 弘禅(ひろかわ こうぜん、旧字体: 廣川 弘禪、1902年〈明治35年〉3月31日 - 1967年〈昭和42年〉1月7日)は、日本の政治家、僧侶、教育者。「弘禅」は曹洞宗の僧侶名で、本名は広川 弘(ひろかわ ひろし)。 衆議院議員。農林大臣(第12・14・16代)、行政管理庁長官(第6代)、自由党総務会長・幹事長、民主自由党幹事長、財団法人青葉学園理事長、青葉学園短期大学初代学長を歴任した。位階・勲等は正三位勲一等瑞宝章。 福島県石川郡玉川村生まれ。生家は曹洞宗の寺院大安寺。苦学し曹洞宗大学(後の駒澤大学)仏教学部中退。当時広川は、藤田俊訓らと共に同大学の単科大学昇格運動に積極的に参加していたため「風紀を乱す」として大学に目をつけられており、退学理由についても「当時の学長である忽滑谷快天の怒りを買った」ためとする説がある。
安宅 乕雄(あたか とらお、1902年〈明治35年〉3月31… 安宅 乕雄(あたか とらお、1902年〈明治35年〉3月31日 - 1989年〈平成元年〉11月12日)は、日本の洋画家。 新潟県新潟市東堀通9番町(現 新潟市中央区東堀通9番町)の資産家・安宅安太郎の次男として出生。 1920年(大正9年)3月に新潟中学校を卒業、1922年(大正11年)に独学で画家を志す。 1926年(大正15年)の第7回帝展で『風景』が初入選、1928年(昭和3年)に義兄(姉の夫)の大久保賢治郎の支援によりヨーロッパに渡って各国の美術を研究、1931年(昭和6年)に帰国。 1936年(昭和11年)に二科会会友になるが、1939年(昭和14年)に二科会を退会、1940年(昭和15年)に一水会会員になり、1946年(昭和21年)に一水会委員に就任、1949年(昭和24年)に一水会運営委員に就任。
山内 以九士(やまのうち いくじ、1902年3月31日 - … 山内 以九士(やまのうち いくじ、1902年3月31日 - 1972年6月3日)は、日本の野球公式記録員。日本プロ野球の規則や記録の整理・研究に貢献した人物である。本名・山内育二、後に祖名相続により山内佐助となる。 島根県松江市天神町の「山内佐助商店」の跡取りとして生まれる。山内佐助商店は1764年(明和元年)創業で、小間物問屋から始まり廻船問屋を経て、山内の誕生当時は呉服反物商だった。当主は代々「佐助」を名乗り、自身も1936年に7代目佐助を襲名している。長男にもかかわらず「育二」と名付けられたのは、養子の義兄がいたためとされる。生家は天神町および隣接する灘町に485坪の土地を持ち、祖父(5代目佐助)と父(6代目佐助)はともに地元銀行や商業会議所の要職も兼ね、松江市議会議員も務める名士で、裕福な家庭だった。
井浦 祥二郎(いうら しょうじろう、1902年(明治35年)… 井浦 祥二郎(いうら しょうじろう、1902年(明治35年)3月31日 - 1965年(昭和40年)7月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 福岡県朝倉市出身。旧制福岡県立朝倉中学校より海軍兵学校第51期入校。席次は入校時293名中70番、卒業時255名中31番。太平洋戦争中、軍令部作戦部や第六艦隊などで参謀として潜水艦作戦の立案に携わる。潜水艦に関する航空本部と同様の中央機関の必要性を訴え、潜水艦部の発足に尽力。戦後B級戦犯に問われ巣鴨刑務所に収監された。 井浦の自著によれば、将兵の娯楽ために、各地の基地に慰安所を設置することを、軍中央は公然と指示しており、各地の司令部が慰安所の管理をしたという。
広川 弘禅(ひろかわ こうぜん、旧字体:廣川 弘禪、1902… 広川 弘禅(ひろかわ こうぜん、旧字体:廣川 弘禪、1902年(明治35年)3月31日 - 1967年(昭和42年)1月7日)は、日本の政治家、僧侶、教育者。「弘禅」は曹洞宗の僧侶名で、本名は広川 弘(ひろかわ ひろし)。農林大臣、国務大臣行政管理庁長官、日本自由党総務会長を歴任した。正三位勲一等瑞宝章。
村山 道雄(むらやま みちお、1902年3月31日 - 19… 村山 道雄(むらやま みちお、1902年3月31日 - 1981年12月10日)は、日本の政治家。山形県知事や参議院議員を務めた。また、アララギ派の歌人でもあった。1972年勲二等旭日重光章。1982年正四位。 兵庫県出身。東京帝大法学部政治学科卒。1945年官選山形縣知事、1947年から山形県知事を2期8年務めた。同年8月に行われた昭和天皇の戦後巡幸では随行役を務めたほか、在任中は基督教独立学園高等学校の新制高校認可を助けるなどした。1950年に自由党入党。 知事退任後は、1959年の第5回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で山形地方区から出馬し当選。内閣委員長を務めている。 1981年12月10日、老衰のため79歳で死去。
平井 美奈子(ひらい みなこ、1902年(明治35年)3月3… 平井 美奈子(ひらい みなこ、1902年(明治35年)3月31日 - 2004年(平成16年)3月3日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、歌手、童謡歌手、音楽教育者。 旧姓:早川(はやかわ) 実業家、早川鉄冶の子として東京に生まれる。6歳から山田流箏曲を山木派の須藤春賀に学ぶ。1919年(大正8年)青山女学院卒業。東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)でハンカ・シェルデルップ・ペツォルトとマルガレーテ・ネトケ=レーヴェに師事し、1923年(大正12年)同校本科声楽部卒業。1925年(大正14年)同校研究科声楽部修了。1925年8月函館市で本居長世・みどり・貴美子、吉田晴風、早川美奈子による演奏。
梁川 剛一(やながわ ごういち、1902年(明治35年)3月… 梁川 剛一(やながわ ごういち、1902年(明治35年)3月30日 - 1986年(昭和61年)4月26日)は、北海道函館出身の画家・彫刻家。東京美術学校を首席で卒業、戦前から少年倶楽部をはじめとする児童雑誌や絵本などの挿絵画家として活躍。彫刻家としても、函館市の高田屋嘉兵衛像や長崎市グラバー園の三浦環(蝶々夫人)像などの作品を制作した。また、日本出版美術家連盟の設立にも加わった。 1902年、北海道函館区で梁川亀太郎、ヨコの長男として生まれ、生後すぐ亀太郎の兄・鶴松の養子となる。14歳のとき父親の転勤に伴い札幌へ移り、北海中学に入学する。北海中学では応援団に入ったほか、「団栗(どんぐり)会」という美術部で本郷新らと絵を描いていた。
工藤 友恵(くどう ともえ、1902年 <明治35年> 3月… 工藤 友恵(くどう ともえ、1902年 <明治35年> 3月30日 - 1972年 <昭和47年> 9月27日)は、日本の経営者。大阪建物(現在のダイビル)社長を務めた。 長野県出身。1925年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に大阪商船に入社。 1949年4月に大阪建物監査役を経て、1960年11月には社長に就任。1961年6月から1966年10月までに関西経済連合会副会長を務めた。 1972年9月27日、直腸癌のために死去。70歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
浜田 稔(はまだ みのる、1902年(明治35年)3月30日… 浜田 稔(はまだ みのる、1902年(明治35年)3月30日 - 1974年(昭和49年)12月30日)は、日本の建築材料学者、建築防災学者。東京大学名誉教授。大阪府生まれ。 東京大学、東京理科大学教授として、コンクリート草創期のJIS制定や、日本コンクリート会議の設立をはかった。また科学的防火・避雅の問題に取り組み、都市の防火体制の確立とともに内装材制限の法制化に尽力。 仕事が速く実行も結論をまとめることも速かったという。大学院時代も初め暫くは文献の調査などに当たり、やがて設備が整ったとはいえない実験室で休むことのないコンクリートの試験体作りを開始。これが後に「コンクリートの浜田」といわれるようになった第一歩であり、「コンクリートの浜田」はその後「火災の浜田」「都市防災の浜田」となり、死の直前までその方面の第一人者として活躍。
小森 善一(こもり よしかず、1902年3月30日 - 19… 小森 善一(こもり よしかず、1902年3月30日 - 1990年9月15日)は、日本の実業家。小森コーポレーション社長を務めた。福井県福井市出身。 1918年に福井高等工業学校機械科を卒業。上京を経て、1923年に小森印刷機械製作所(のちの小森コーポレーション)に入社した。1946年に株式会社への変更と同時に専務に就任し、1952年3月に社長に昇格し、1979年から相談役を務めた。 1965年に黄綬褒章を受章し、1972年に勲三等瑞宝章を受章した。 1990年9月15日心不全のために死去。88歳没。
川崎 大治(かわさき だいじ(たいじ)、本名:池田 政一(い… 川崎 大治(かわさき だいじ(たいじ)、本名:池田 政一(いけだ まさかず)、1902年3月29日 - 1980年8月8日)は、日本の児童文学作家。プロレタリア児童文学の運動にも関わった。また、紙芝居の制作にも携わり、第二次世界大戦後の民主主義教育の普及にも貢献した。 北海道札幌市生まれ、旭川市出身。幼少期は巖谷小波に関心をもち、図書館に通って巌谷の本を二百冊以上読んでいた。1919年に北海道庁立旭川中学校を卒業後に上京、巌谷小波のもとを訪ねて師事。早稲田第二高等学院を経て早稲田大学文学部英文学科卒業。在学中に大杉栄の全集を読んで影響を受け、早大童話会にも所属していた。また巌谷の翻訳業の下請けをして学費や生活費を稼いでいた。