太田 圓三 (おおた えんぞう、太田円三、1881年(明治1… 太田 圓三 (おおた えんぞう、太田円三、1881年(明治14年)3月10日 - 1926年(大正15年)3月21日)は明治・大正期の土木技術者・鉄道技師。詩人・木下杢太郎の実兄。動物学者である太田嘉四夫の叔父。 静岡県田方郡伊東町(現在の伊東市)出身。東京府立一中、一高を経て、1904年に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。大学では広井勇に師事。逓信省鉄道作業局(後の鉄道院→鉄道省)に入省。1910年から2年間、欧米に留学。1923年の関東大震災後、帝都復興院土木局長に抜擢される。 帝都復興院では、隅田川六大橋(下流から相生橋、永代橋、清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋)をはじめとする「震災復興橋梁」の建設を、橋梁課長の田中豊と共に主導した。
田中 芳雄(たなか よしお、1881年3月9日 - 1966… 田中 芳雄(たなか よしお、1881年3月9日 - 1966年5月8日)は、日本の応用化学者。東京大学名誉教授。 埼玉県生まれ。東京帝国大学工科大学応用化学科卒。 石油、油脂、ゴムの権威として、化学工業界の発展に尽力した。1918年東京帝国大学教授、後に東京工業大学教授兼任。1927年(昭和2年)「本邦産石油の成分並びに応用に関する研究」で帝国学士院賞受賞。1938年(昭和13年)帝国学士院会員。1961年(昭和36年)文化功労者。主著に『化学工業総論』、『有機工業化学』等。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
三辺 金蔵(さんべ きんぞう、1881年3月7日 - 196… 三辺 金蔵(さんべ きんぞう、1881年3月7日 - 1962年4月25日)は、明治時代から昭和時代の経済学者。専門は会計学。立教大学元総長、慶應義塾大学名誉教授、慶應義塾大学元経済学部長、理財科教授として慶應義塾大学部で初めて会計学を講義。生涯にわたってクリスチャンであった。 1881年3月7日、神奈川県足柄下郡にて三辺惣吉の長男として生まれる。生家はかつて裕福であったが凋落したことから、勉学に対しての父の理解は薄い状況であった。一人家を出た金蔵は、肉体労働により学費を稼いだ。 旧制・立教中学校(現・立教池袋中学校・高等学校)を卒業後、1908年に慶應義塾大学部理財科を卒業。その時、28歳という晩学であった。
伊達 亮治(だて りょうじ、1881年〈明治14年〉3月7日… 伊達 亮治(だて りょうじ、1881年〈明治14年〉3月7日 - ?)は、日本の公証人、判事。正五位、勲五等。親族は下記参照。 伊達家一門・伊達宗亮の四男として、宮城県亘理郡坂元村に生まれる。旧制第二高等学校を経て、1912年(大正元年)に東京帝国大学法学部を卒業後直ちに高等文官試験に合格し、判事に任ぜられ、横浜・新潟・盛岡・平・土浦・水戸各地方裁判所を歴任。1923年(大正12年)に宮城控訴院判事となり、1930年(昭和5年)に退職。 趣味は、書画と旅行。宗教は曹洞宗。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
杉山 栄(杉山 榮、すぎやま さかえ、1881年〈明治14年… 杉山 栄(杉山 榮、すぎやま さかえ、1881年〈明治14年〉3月6日 - 1938年〈昭和13年〉10月7日)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の土木技術者、実業家。主に電気事業に関与し、矢作水力副社長・大同電力取締役などを務めた。岐阜県出身。 杉山栄は1881年(明治14年)3月6日、岐阜県士族杉山斧吉の長男として生まれた。本籍地は岐阜県稲葉郡加納町(現・岐阜市)。1901年(明治34年)7月金沢の第四高等学校第二部工科を卒業、次いで1905年(明治38年)7月東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業する。その後は電力界に入り、まず箱根水力電気に入社して同社の土木課長となる。箱根水力電気は箱根早川の開発と横浜市への電力供給を目的に1906年(明治39年)12月に設立された電力会社で、1909年(明治42年)5月に塔之沢発電所を完成させた。
中島 照寛(なかしま てるひろ、1881年(明治14年)3月… 中島 照寛(なかしま てるひろ、1881年(明治14年)3月6日 – 1948年(昭和23年)4月16日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。熊本県荒尾市長。 熊本県葦北郡日奈久町(現在の八代市)出身。中央大学に学んだ。平井村(現・荒尾市)長、荒尾町(現・荒尾市)長、玉名郡会議員、熊本県会議員を務めた。その他、玉名郡畜産組合長、玉名郡家畜保険組合長を務めた。 1922年(大正11年)、熊本5区(当時)から衆議院議員に補欠当選を果たした。1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙で落選した。1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙では熊本1区から立候補したが落選した。 1942年(昭和17年)より荒尾市会議員を2期務め、議長を務めた。
上ヶ汐 福治郎(あげしお ふくじろう、1881年3月5日 -… 上ヶ汐 福治郎(あげしお ふくじろう、1881年3月5日 - 1935年6月12日)は、現在の茨城県筑西市下館地区出身で若藤部屋、伊勢ノ海部屋、友綱部屋に所属した力士。本名は渡辺 福次郎(わたなべ ふくじろう)。8代若藤。身長171cm、体重は79kg。最高位は西前頭3枚目。得意技は右四つ、上手投げ、掬い投げ。 1899年5月場所序ノ口。その後応召されて、日露戦争に従軍。復帰後、1907年5月場所に十両昇進。1909年1月場所に入幕を果たす。二枚鑑札となっていたが、1913年5月場所限り引退。年寄・若藤として巡業の先乗りに手腕を発揮し、理事も務めたが、弟子の沖ツ海福雄の急死に気落ちし、部屋を復活させようとした矢先の1935年6月12日、胃癌で死去。
吉木 陽(よしき きよし、1881年〈明治14年〉3月3日 … 吉木 陽(よしき きよし、1881年〈明治14年〉3月3日 - 1944年〈昭和19年〉10月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 山口県熊毛郡、のちの大野村(現平生町)出身。1905年、京都帝国大学電気科卒。栃木県立宇都宮中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)教諭、宇都宮電燈、奥羽電燈各(株)技師長、シーメンス・シュケルト(株)電気技師、周防電燈、中外電気各(株)専務取締役、全州電気、周東自動車、旭金属工業、満州工機各(株)社長、中島電気、全北電気各(株)取締役、周東中学校(現・柳井学園高等学校)主、東京工材、旭電気各(株)会長となる。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙において山口9区から立憲政友会公認で立候補して初当選。
小林 吉之助(こばやし きちのすけ、1881年(明治14年)… 小林 吉之助(こばやし きちのすけ、1881年(明治14年)3月3日 - 1968年(昭和43年)4月2日)は、政治家。第11 - 14代八王子市長を務めた。勲四等瑞宝章、藍綬褒章受章。 1881年(明治14年)3月神奈川県高座郡上溝村(溝村、上溝町を経て現相模原市)に資産家根岸家の次男として生まれる。高等小学校時代から成績は良く法曹界を目指し東京法学院に進学し1901年(明治34年)卒業するが脚気衝心に罹り療養生活に入る。1907年には小林家に婿入り。1916年(大正5年)八王子町議会議員に当選(1期)。1918年(大正7年)には八王子織物同業組合評議員に選出。副組合長を経て1924年(大正13年)に組合長に就任した他、武相甲織物同業組合連合会会長・東京府織物工業組合理事長など織物関係の組合の要職に就任。
山田 昌作(やまだ しょうさく、1880年3月29日 - 1… 山田 昌作(やまだ しょうさく、1880年3月29日 - 1963年2月25日)は、日本の経営者。北陸電力初代社長を務めた。 富山県出身。1914年に東京帝国大学法科を卒業し、同年に富山電気に入社。常務、専務を経て、1929年には社長に就任。1942年から1946年12月までに北陸配電社長を務め、1951年5月から1959年9月までに北陸電力社長を務めた。 1955年に藍綬褒章を受章。 1963年2月25日、腸ガンのために死去。82歳没。 北陸電力社長を務めた山田圭蔵の父
高見 之通(たかみ ゆきみち、1880年〈明治13年〉3月2… 高見 之通(たかみ ゆきみち、1880年〈明治13年〉3月27日 - 1962年〈昭和37年〉10月30日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(当選7回)。族籍は富山県士族。 富山県富山市生まれ。富山県士族・高見之貫の長男。1908年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。弁護士の業務に従事する。 富山県東岩瀬町長(1926年1月15日から同年11月27日まで)、富山県売薬同業組合長を務め、1917年の第13回衆議院議員総選挙で初当選した。はじめ立憲政友会に所属し、1920年の第14回衆議院議員総選挙では政友会公認で立候補し当選している。その後政友会を離党して政友本党の結党に参加し、1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補し当選している。
河野 喜蔵(こうの きぞう、1880年(明治13年)3月26… 河野 喜蔵(こうの きぞう、1880年(明治13年)3月26日 - 1942年(昭和17年)4月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 岩手県西閉伊郡宮守村(現在の遠野市)出身。第四高等学校を経て、1913年(大正2年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、翌年に弁護士試験に合格した。盛岡市に弁護士事務所を開業し、盛岡弁護士会副会長を務めた。1919年(大正8年)からは岩手県会議員に選出され、さらに同参事会員にも選出された。 1922年(大正11年)、衆議院補欠選挙で当選を果たした。
中村 京太郎(なかむら きょうたろう、1880年3月25日 … 中村 京太郎(なかむら きょうたろう、1880年3月25日 - 1964年12月24日)は、日本の週刊点字新聞『点字毎日』の初代編集長、日本初の普通科盲人教員。 1880年に静岡県浜名郡和地村(現・浜松市中央区)で生まれた。生来の弱視で、小学校に入ることもできなかった。13歳になって、東京盲唖学校の存在を知る。反対する両親を説得して、1894年に14歳で同校に入学する。卒業と同時に東京盲唖学校の普通科教員になったが、これは、視覚障害者が同校の普通科教員になったケースとしては第1号であった。台湾慈恵院盲部の主任教諭などを務めて、1922年に『点字毎日』の編集主任になり、同紙の刊行に尽くすとともに、視覚障害者のための数々の事業をも始めた。
伊東 祐弘(いとう すけひろ、1880年(明治13年)3月2… 伊東 祐弘(いとう すけひろ、1880年(明治13年)3月23日 - 1931年(昭和6年)12月19日)は、日本の政治家、華族。貴族院子爵議員。 東京府出身。子爵・伊東祐帰の長男として生まれる。父・祐帰の死去に伴い、1894年(明治27年)5月15日、家督を相続し子爵を襲爵した。1907年(明治40年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 父は飫肥藩(宮崎県)最後の藩主であったが、祐弘は父の旧領地ではなく伊東氏発祥の地である静岡県伊東市に進出。現地に別荘を建てたり、伊東水力電気の第二代会長に収まるなどの活動を見せた。祐弘の資産形成は手堅く成功を収め、1912年(大正元年)には東京府の多額納税者となっている。
森丘 正唯(もりおか まさただ、1880年〈明治13年〉3月… 森丘 正唯(もりおか まさただ、1880年〈明治13年〉3月23日 - 1967年〈昭和42年〉9月10日)は、日本の政治家・農村指導者。 富山県下新川郡大布施村(現・黒部市)に、地主の森丘彦の長男として生まれる。1900年(明治33年)7月30日、20歳で大布施村の村長となり、同年12月10日まで村長を務めた(1901年〔明治34年〕1月18日に阿原平左衛門に交代。1903年(明治36年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語政治科卒業。1906年(明治39年)10月24日に再び大布施村長に就任し、同村が桜井町発足により消滅するまで村長を勤め上げた。 1940年(昭和15年)、町村合併によって発足した桜井町の初代町長となり、同年3月14日の就任から1946年(昭和21年)4月22日まで町長を務めた。
小磯 國昭(こいそ くにあき、1880年〈明治13年〉3月2… 小磯 國昭(こいそ くにあき、1880年〈明治13年〉3月22日 - 1950年〈昭和25年〉11月3日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。山形県士族。山形県新庄市出身。 陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官を歴任後、予備役に編入された。その後平沼内閣と米内内閣で拓務大臣、朝鮮総督(第8代)を務め、太平洋戦争中にサイパン失陥を受け辞職した東條英機の後継として1944年(昭和19年)に内閣総理大臣に就任した(小磯内閣)。悪化の一途をたどる戦局を挽回できず、中華民国との単独和平交渉も頓挫し、1945年(昭和20年)4月に総理を辞任し鈴木貫太郎に後を譲った。
藍澤 彌八(あいざわ やはち、1880年(明治13年)3月2… 藍澤 彌八(あいざわ やはち、1880年(明治13年)3月22日 - 1969年(昭和44年)1月29日)は、日本の実業家。アイザワ証券グループ創業者。 新潟県生まれ。1905年(明治38年)日本法律学校(現在の日本大学)卒業。出版会社・金港堂などを経て、1908年(明治41年)に証券業の港屋商店代表者となる。 1933年(昭和8年)10月に藍澤商店(のちの藍澤證券)を設立。1940年(昭和15年)に株価対策の国策を担うため、日本証券投資を設立し社長に就任する。 1947年(昭和22年)7月に日本証券取引所の解散を受け、証券会社の出資で平和不動産を設立されると初代社長に就き、1957年から61年まで東京証券取引所理事長を務める。
石井 太吉(いしい たきち、1880年3月21日 - 196… 石井 太吉(いしい たきち、1880年3月21日 - 1966年2月16日)は、日本の発明家、実業家。旧姓は内田。 神奈川県横浜市出身。内田峰吉の長男として生まれる。その後、石井長吉の養子となる。 1900年(明治33年)に東京・月島に石井鐵工所を創業した。1902年に工手学校(現・工学院大学)を卒業。1908年に石井家の家督を相続した。 1919年(大正8年)に株式会社石井鐵工所を設立した。 起重機製造株式会社取締役、高岡瓦斯株式会社社長、東洋酸素(現・日本酸素ホールディングス)取締役、箱根水田取締役、月島衛生取締役、伊東瓦斯取締役などを務めた。 1936年に紺綬褒章、1944年に緑綬褒章、1958年に紫綬褒章を受章。
横山 一格(よこやま いちかく、1880年(明治13年)3月… 横山 一格(よこやま いちかく、1880年(明治13年)3月19日 - 1933年(昭和8年)1月23日)は、衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、医師。 三重県三重郡菰野村(現在の菰野町)出身。京都帝国大学医科大学を卒業後、同大学付属医院に勤務し、さらに大阪胃腸病院副院長となった。1908年(明治41年)、名古屋市に医院を開業し、愛知県医師会長にも選出された。 1921年(大正10年)に名古屋市会議員に選ばれ、さらに1924年(大正13年)には第15回衆議院議員総選挙に郷里の三重5区から出馬して当選した。その後も引き続き名古屋市会議員に当選し、1932年(昭和7年)の第18回衆議院議員総選挙では愛知1区から出馬し、再選を果たした。
桝井 光次郎(ますい みつじろう、1880年3月19日 - … 桝井 光次郎(ますい みつじろう、1880年3月19日 - 1950年12月1日)は、実業家、種苗業者。現在日本で栽培されるイチジク(無花果)の主品種「桝井ドーフィン」創始者。広島県佐伯郡宮内村(現・廿日市市)出身。 1887年、宮内村から初めてハワイへの海外移民が始まり、幼少のころから海外雄飛への夢をふくらませた光次郎は尋常小学校卒業後、家業の農業に従事していたが1902年、好きだったバラの苗木の育て方を習うため単身アメリカに渡る。カリフォルニアの農場で6年の間、果樹、花木類の繁殖、育成の最新技術を学ぶ。しかし肺病と誤診され1908年帰国し、桝井農場を設立。渡米の当初の目的だったバラ作りは日本では早過ぎて成功せず。
矢鍋 永三郎(やなべ えいざぶろう、1880年(明治13年)… 矢鍋 永三郎(やなべ えいざぶろう、1880年(明治13年)3月15日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。実業家。 岡山県出身。第一高等学校を経て、1907年(明治40年)に東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。統監府書記官となり、日韓併合後、財務部長、税関長として各地に勤務した。1917年(大正6年)より朝鮮総督府事務官、財務局関税局長、同理財課長、参事官、黄海道知事を歴任した。 1925年(大正14年)に退官した後は、朝鮮殖産銀行理事、漢城銀行取締役、朝鮮金融組合聯合会長、朝鮮土地改良株式会社監査役、中川鉱業株式会社社長、国民総力朝鮮聯盟理事、不二興業株式会社社長などを務めた。 戦後、公職追放となった。
川島 信太郎(かわしま のぶたろう、1880年(明治13年)… 川島 信太郎(かわしま のぶたろう、1880年(明治13年)3月14日 - 1957年(昭和32年)8月7日)は、日本の外交官。駐ギリシャ公使。 京都府出身。1907年(明治40年)に東京高等商業学校専攻部(現在の一橋大学)を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。諸井六郎領事や、阿部守太郎参事官の下で、日米通商航海条約(小村条約)の改正に向けた調査にあたったのち、1912年(大正元年)からアメリカ合衆国在勤。 領事官補、外交官補、大使館三等書記官、同二等書記官、外務事務官・書記官、同参事官を歴任。1924年(大正13年)、ハンブルク総領事に就任した。1927年(昭和2年)、駐ギリシャ公使に任命され、駐アルバニア公使も兼ねた。
秋月 種英(あきづき たねひで、1880年(明治13年)3月… 秋月 種英(あきづき たねひで、1880年(明治13年)3月9日 - 1961年(昭和36年)10月29日)は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧高鍋藩主家当主、子爵・秋月種樹の二男として生まれる。兄秋月種繁の死去に伴い家督を相続し、1890年(明治23年)10月2日、子爵を襲爵した。 第四高等学校を経て、1910年(明治43年)7月、京都帝国大学法科大学を卒業。同年、司法省に入省し司法属となる。以後、輸出水産取締役、明治漁業監査役、カルピス製造監査役などを務めた。 1914年(大正3年)7月11日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで5期在任した。
白勢 友彌(しろせ ともや、1880年〈明治13年〉3月9日… 白勢 友彌(しろせ ともや、1880年〈明治13年〉3月9日 - 1916年〈大正5年〉)は、日本の農民、大地主、新潟県多額納税者。族籍は新潟県平民。 新潟県北蒲原郡金塚村(現・新発田市金塚)出身。白勢長衛の弟。1911年(明治44年)、家督を相続した。1914年(大正3年)、早稲田大学推薦校友となる。農業を営み、大地主であった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
橋本 定五郎(はしもと さだごろう、1880年〈明治13年〉… 橋本 定五郎(はしもと さだごろう、1880年〈明治13年〉3月7日 - 1947年〈昭和22年〉12月13日)は、日本の医師(外科医)、政治家・第6代埼玉県川越市長、実業家。川越同仁社長。 青森県八戸市十三日町生まれ。長助の五男。東京帝国大学医科大学卒業。医師開業。1923年、川越市医師会長就任。1926年、川越産婆看護婦学校長就任。川越産院長就任。 1930年、埼玉県医学会頭就任。1933年、川越脳病院管理者就任。1935年、川越市長就任。1936年、武州瓦斯監査役就任。 宗教は浄土宗。趣味は書画、盆栽。住所は川越市大字小仙波。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
山岡 光太郎(やまおか みつたろう、1880年(明治13年)… 山岡 光太郎(やまおか みつたろう、1880年(明治13年)3月7日 - 1959年(昭和34年)9月23日)は、日本のイスラーム・ユダヤ研究家。日本人としては記録上初めてメッカ巡礼を果たし、昭和期の日本においてイスラームを紹介する著作を多く発表した。ムスリム名はオマル。 1904年、東京外国語学校ロシア語科を一期生として卒業。日露戦争には陸軍通訳官として従軍。戦後は大原武慶中佐隷下の昌図軍政署に勤務。 1909年、参謀本部の福島安正の命令でイスラーム世界の情報収集のためメッカ巡礼の旅へと出発する。離日していたアブデュルレシト・イブラヒムとボンベイで合流し、クルアーンの講義を受けた後に、同年12月にはメッカを巡礼した。
小杉 武司(こすぎ たけし、1880年(明治13年)3月6日… 小杉 武司(こすぎ たけし、1880年(明治13年)3月6日 - 1937年(昭和12年)8月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。実弟である櫻井忠記陸軍大佐の親戚に山本五十六元帥や山下源太郎海軍大将がいる。 山形県米沢市代官町出身。1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業し、翌年6月、歩兵少尉に任官。1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を卒業し、陸士に配属された。 1922年(大正11年)8月、歩兵大佐に昇進し、陸軍兵器本廠付となる。1923年(大正12年)8月、歩兵第25連隊長に就任。1924年(大正13年)12月、第1師団参謀長に転じた。 1928年(昭和3年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第19旅団長に就任。
佐竹 三吾(さたけ さんご、1880年(明治13年)3月5日… 佐竹 三吾(さたけ さんご、1880年(明治13年)3月5日 - 1976年(昭和51年)5月24日)は、明治末から昭和期の鉄道官僚、政治家、実業家。貴族院議員(勅選)、法制局長官。 岐阜県養老町出身。米穀商・佐竹柳三郎の三男として生まれ、佐竹鉄治郎の養子となる。岐阜中学、城北中学を経て第一高等学校に入学。1905年(明治38年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を優等で卒業し銀時計を授与された。卒業後農商務省嘱託となり、同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務属・商工局勤務、法制局参事官、満鉄理事を経て、1908年(明治41年)6月から1910年(明治43年)5月まで欧米に留学した。
桜井 賢三(櫻井賢三、さくらい けんぞう、1880年(明治1… 桜井 賢三(櫻井賢三、さくらい けんぞう、1880年(明治13年)3月5日 - 1950年(昭和25年)12月29日)は、日本の教育者。 岐阜県安八郡墨俣町(現在の大垣市)出身。1906年(明治39年)、東京高等師範学校英語科を卒業した後、1910年(明治43年)に京都帝国大学文学部哲学科を卒業した。福島県立相馬中学校校長、山口県室積師範学校校長、静岡県師範学校校長、東京府豊島師範学校校長、京都府立女子専門学校校長を歴任。1935年(昭和10年)、東京府立第一高等女学校校長に就任し、東京府立第十四高等女学校校長も兼ねた。 東京高師時代(明治35年、1902年)、日本で初めてサッカーのチームができた際の選手の一員として、1904年には初めての外国人チーム(横浜のYCAC)との試合を現在の横浜スタジアム(当時の横浜公園)でやったことでも知られる。
石黒 大次郎(いしぐろ だいじろう、1880年〈明治13年〉… 石黒 大次郎(いしぐろ だいじろう、1880年〈明治13年〉3月5日 - 1973年〈昭和48年〉12月30日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 新潟県刈羽郡、のちの中通村出身。1902年(明治35年)東京専門学校邦語行政科卒。農業を営み、刈羽郡会議員、新潟県議、同参事会員、刈羽郡農会長、新潟県農会長、百三十九銀行支配人、同取締役頭取、柏崎米穀取引所理事となる。 1924年(大正13年)第15回衆議院議員総選挙において新潟9区から憲政会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1973年死去。
牛場 清次郎(うしば せいじろう、1880年(明治13年)3… 牛場 清次郎(うしば せいじろう、1880年(明治13年)3月5日 - 1938年(昭和13年)11月21日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。ジャーナリスト。 三重県度会郡、のちの浜郷村(宇治山田市を経て現伊勢市)出身。牛場林造の二男として生まれた。1901年(明治34年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語政治科を卒業。『神戸又新日報』記者、『柏崎日報』主筆を経て、雑誌『実業倶楽部』を発刊・経営した。 三重県会議員を務めた後、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に三重県第2区から出馬し、当選を果たした。
松岡 洋右(まつおか ようすけ、1880年(明治13年)3月… 松岡 洋右(まつおか ようすけ、1880年(明治13年)3月4日 - 1946年(昭和21年)6月27日)は、日本の外交官、政治家。 南満洲鉄道(満鉄)総裁を務め、満洲国の実力者「弐キ参スケ」の一人とされた。第2次近衛内閣では外務大臣に就任し、日独伊三国同盟や日ソ中立条約締結を推進。しかしドイツのソ連侵攻後は南進論が大勢を占める政府で北進論を主張し、第3次近衛内閣発足を機に事実上外相を解任された。アメリカ合衆国外交官ジョセフ・グルーと親交があり、佐藤栄作は義理の甥にあたる(妹の娘婿で養子)。 1880年(明治13年)3月4日廻船問屋の四男として、山口県熊毛郡室積村(現:光市室積)で生まれた。 洋右が11歳の時に父親が事業に失敗し破産したことや、親戚が渡米し成功していたことから、1893年(明治26年)に留学のため13才で渡米する。
三淵 忠彦(みぶち ただひこ、1880年〈明治13年〉3月3… 三淵 忠彦(みぶち ただひこ、1880年〈明治13年〉3月3日 - 1950年〈昭和25年〉7月14日)は、日本の裁判官。初代最高裁判所長官。栄典は正三位・勲二等瑞宝章。 長男に三淵乾太郎(元浦和地方裁判所所長)がいる。 会津藩士・三淵隆衡(家老・萱野長修の実弟)の子として生まれる。大学卒業後、書生を経て東京地方裁判所判事となり、大審院判事、東京控訴院上席部長などを歴任した。裁判官在任中には、弁護士であった片山哲が労働法制定、家庭裁判所の設置などを求めたことに同調し、彼らが創設した中央法律相談所が発行する「中央法律新報」に寄稿するなど、片山との関係を深めている。1923年には法曹会調査部において民事実体法規担当の一人であった。
大塚 常三郎(おおつか つねさぶろう、1880年(明治13年… 大塚 常三郎(おおつか つねさぶろう、1880年(明治13年)3月3日 - 1926年(大正15年)3月21日)は、朝鮮総督府官僚。内大臣秘書官長。 栃木県出身。1905年(明治38年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、高等文官試験に合格した。内務属、沖縄県警視、統監府書記官、朝鮮総督府書記官、同農商工部鉱務課長、同参事官、同内務部第二課長、同内務局長・中枢院書記官長などを歴任。1925年(大正14年)、内大臣秘書官長に転じた。 1926年(大正15年)3月21日、腎臓病再発により大学病院で療養中に死去、46歳。死没日をもって勲二等瑞宝章追贈、正四位に叙される。
清田 龍之助(清田 龍之介、せいた りゅうのすけ、1880年… 清田 龍之助(清田 龍之介、せいた りゅうのすけ、1880年3月3日 - 1943年4月24日)は、日本の実業家、ジャーナリスト、教育者。日本電報通信社(現・電通)外報部長。東京商科大学(現・一橋大学)教授、立教大学教授。日本聖公会の信徒。 1880年(明治13年)3月3日、清田海一郎(浅草聖ヨハネ教会初代牧師)の長男として広島県忠海(現・竹原市)に生まれる。 その後、大阪に出て小学校を卒業した後、上京する 1897年(明治30年)3月、東京・築地の旧制立教中学校を卒業。同1897年(明治30年)4月、立教専修学校(現・立教大学)に入学して、1899年(明治32年)に同校卒業。卒業と同時に、1899年(明治32年)3月、ペンシルバニア州費留学生として米国に留学。
米内 光政(よない みつまさ、旧字体: 米內 光政、1880… 米内 光政(よない みつまさ、旧字体: 米內 光政、1880年〈明治13年〉3月2日 - 1948年〈昭和23年〉4月20日)は、日本の海軍軍人、政治家。海兵29期・海大12期。最終階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。 連合艦隊司令長官(第23代)、海軍大臣(第19・24代)、内閣総理大臣(第37代)を歴任した。 1880年(明治13年)、岩手県南岩手郡三割村(現:盛岡市)に旧盛岡藩士・米内受政の長男として誕生する。 1886年(明治19年)、鍛冶町尋常小学校に入学。1890年(明治23年)、盛岡高等小学校に入学。1894年(明治27年)、岩手県尋常中学校に入学。1898年(明治31年)、海軍兵学校29期に入校。
毛内 靖胤(もうない のぶたね、1880年3月1日 - 19… 毛内 靖胤(もうない のぶたね、1880年3月1日 - 1936年1月16日)は日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 青森県青森市出身。弘前藩士毛内嘉胤の長男として生まれる。毛内氏の嫡流で、毛内有之助の又甥にあたる。弟は海軍少将毛内效。 弘前中学(現・青森県立弘前高等学校)、陸軍士官学校(12期)を経て、明治34年(1901年)少尉となった。日露戦争に従軍後、陸軍大学校(22期)に入学した。卒業後、大正10年(1921年)朝鮮軍司令部附から大正11年(1922年)歩兵第75連隊長となった。後に歩兵から航空兵科に転身した。その後、所沢陸軍飛行学校教育部長、航空本部第一課長、航空本部検査部長、明野陸軍飛行学校長、航空本部総務部長、東京湾要塞司令官などを務めた。
古賀 伝太郎(こが でんたろう、1880年3月1日 - 19… 古賀 伝太郎(こが でんたろう、1880年3月1日 - 1932年1月9日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大佐。しばしば「古賀聯隊長」とよばれる。旧姓、野方。 佐賀県佐賀郡生まれ。野方房次の五男として生まれ、古賀家の養子となる。佐賀中学校卒を経て、1901年(明治34年)12月、士官候補生(15期)として騎兵第3連隊に入隊。1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校を卒業。1904年(明治37年)3月、騎兵少尉に任官、騎兵第3連隊付としてただちに日露戦争に出征し、随所で戦って戦功あり。奥保鞏軍司令官から個人感状を授与された。 以後、1910年(明治43年)9月、騎兵第3連隊副官となり、同中隊長、騎兵第22連隊中隊長、同連隊副官、騎兵第2旅団副官などを歴任し、累進して1927年(昭和2年)7月、騎兵中佐に任じ、翌年8月、騎兵第27連隊長に補せられた。
武田 栄太郎(たけだ えいたろう、1880年3月 - 192… 武田 栄太郎(たけだ えいたろう、1880年3月 - 1926年)は、日本の実業家、経営者。アメリカに移住して、農場経営者となった人物。父はアーネスト・サトウ(駐日英国公使)、弟は植物学者の武田久吉。 1880年(明治13年)3月、父・アーネスト・サトウ(駐日英国公使)と母・武田兼の間に長男として生まれる。 1884年(明治17年)、サトウは赴任先のバンコクから日本へ休暇で来日するが、家族のために、これまでの住居である飯田橋の家(現・日本歯科大学附属病院の場所)に加えて富士見町(現・法政大学飯田橋校舎の場所)にも新たに家を設けた。 父のサトウは奥日光の中禅寺湖周辺をこよなく愛し、1896年(明治29年)には湖畔に知人であるジョサイア・コンドルの設計による別荘も設けているが、息子の栄太郎と久吉を連れても奥日光を訪れている。
鈴木 紋次郎(すずき もんじろう、1880年(明治13年)3… 鈴木 紋次郎(すずき もんじろう、1880年(明治13年)3月 - 1939年(昭和14年)10月26日)は、日本の実業家。結婚によって浅野総一郎の親戚になり、浅野財閥の多数の企業の要職を歴任した。 鈴木紋次郎(旧姓:大洞紋次郎)は岐阜県人の大洞善兵衛の次男として、1880年(明治13年)3月に生まれた。1904年(明治37年)か、1905年(明治38年)に東京高等商業学校(一橋大学)を卒業して、第一銀行(みずほ銀行)に就職した。 大洞紋次郎は、第一銀行で働いている時期に、第一銀行の創立者渋沢栄一の紹介で、1907年(明治40年)4月に、鈴木タカと結婚して、婿入りし、鈴木紋次郎となった。鈴木タカの養父であった鈴木恒吉は、浅野総一郎(浅野財閥創始者)や渋沢栄一(渋沢財閥創始者)や大倉喜八郎(大倉財閥創始者)と共に札幌麦酒(サッポロビール)を創立し、自らも鈴木洋酒店(伊藤忠食品)を経営していた人物で、継嗣がなかったので、妹サクと浅野総一郎の四女ないし五女のタカを養女にしていた。
三上 アイ(みかみ アイ、1880年3月 - 1970年6月… 三上 アイ(みかみ アイ、1880年3月 - 1970年6月1日)は、日本の教育者である。学校法人江の川学園創立者。 1880年、島根県邑智郡川本町にて出生。1906年、渡辺裁縫専門学校を卒業。翌1907年、島根県邑智郡に県下で初めての私立学校となる邑智裁縫女学院を創立し、和洋の裁縫や茶道の教育を行う。邑智裁縫女学院は1959年に川本家庭高等学校に改組、その姉妹校にあたる江津女子高等学校を併設。1962年に2校を統合し、江の川高等学校、さらに江の川学園短期大学を設立する。 1963年には藍綬褒章、1964年には勲四等瑞宝章を其々受章。1970年6月1日に没し、同時に従五位を賜る。
雲竜 辰五郎(うんりゅう たつごろう、1880年3月 - 1… 雲竜 辰五郎(うんりゅう たつごろう、1880年3月 - 1919年12月30日)は、青森県つがる市出身で追手風部屋、高砂部屋、草風部屋(京都相撲)、藤島部屋(大坂相撲)、再度追手風部屋に所属した力士。本名は野宮 辰五郎。165cm、98kg。最高位は東前頭7枚目。7代千賀ノ浦。 1900年1月初土俵を踏むが、三段目の時に脱走、大坂相撲、京都相撲に在籍した。1909年6月の三都合併相撲で好成績を残し、1910年6月東上して幕内格付出で入幕した。1911年2月6勝2分1預1休で優勝旗手。侠気に富みもめ事の仲裁をよく務めていた。1916年1月に引退して千賀ノ浦を襲名したが1919年、風邪をこじらせ39歳で急死。
内田 隆(うちだ たかし、1879年(明治12年)3月30日… 内田 隆(うちだ たかし、1879年(明治12年)3月30日 - 1963年(昭和38年)7月11日)は、日本の台湾総督府・内務官僚、実業家。官選秋田県知事。旧姓・長田。 福島県出身。長田庄衛の二男として生まれた。福島県立安積中学校、宮城県立仙台第二中学校を経て、第二高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。東洋拓殖を経て、1911年、朝鮮総督府に入り農商工部属となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内田家に夫婦養子となり改姓した。 以後、青島守備軍民政部事務官、台湾総督府事務官、同殖産局長などを歴任。 秋田県出身の川村竹治台湾総督に仕えたことがきっかけで、1931年12月、犬養内閣により秋田県知事に任じられた。
西村 眞次(にしむら しんじ、1879年(明治12年)3月3… 西村 眞次(にしむら しんじ、1879年(明治12年)3月30日 - 1943年(昭和18年)5月27日)とは日本のリベラル系ジャーナリスト、歴史学者、考古学者、文化人類学者、民俗学者。号として酔夢とも。勲八等白色桐葉章(1905年)。文学博士。早稲田大学教授。戦前日本において「文化人類学」の名を冠した日本語書籍を初めて上梓したことでも知られる。 三重県度会郡宇治山田町(のち宇治山田市宮後町、現伊勢市)にて西村九三、のぶ子夫妻の次男として生まれる。尋常小学校卒業後は大阪で仕事をしながら、私立の中等教育機関にて勉学に励むこととなる。この間『少年文集』や『中学世界』をはじめ、少年雑誌、青年雑誌を中心に採用された投稿は多い。
栗原 彦三郎(くりはら ひこさぶろう、1879年(明治12年… 栗原 彦三郎(くりはら ひこさぶろう、1879年(明治12年)3月25日 - 1954年(昭和29年)5月5日)は、明治から昭和前期の雑誌編集者、政治家、刀匠。衆議院議員。号・昭秀、晃南。 栃木県安蘇郡閑馬村(新合村、田沼町を経て現佐野市 閑馬町)で、大百姓・栗原喜蔵の二男として生まれる。田中正造から薫陶を受けた。1891年(明治24年)正造に伴われて上京。青山学院中学部で学び、在学中の1896年(明治29年)12月、津田仙を足尾銅山に案内したり、東京で演説会を開催するなど足尾鉱毒事件の解決に尽力した。その後、早稲田大学、日本大学で学んだ。 1917年(大正6年)中外新論社の経営に参画して社長に就任し、『中外新論』を刊行。
阿部 正己(あべ まさき、1879年3月23日 - 1946… 阿部 正己(あべ まさき、1879年3月23日 - 1946年3月15日)は、日本の歴史家。 1879年(明治12年)3月23日、阿部拓弥の長男として松嶺町(現・酒田市)に生まれる。1900年(明治33年)荘内中学校(山形県立鶴岡南高等学校)卒業。哲学館(現・東洋大学)卒業。 北海道庁に入庁し、北海道史編纂係となって作業に没頭。1918年(大正7年)同職辞任、酒田に戻り酒田町史編纂主務。光丘文庫(図書館)勤務。1931年(昭和6年)城輪柵址発掘調査を指導し、石原重俊らと共に本楯国府跡を調査。 のちに酒田市当局と意見が合わず市史出版作業が中絶し、資料は市史稿として残された。 1946年(昭和21年)3月15日、死去。
日高 只一(ひだか ただいち、1879年〈明治12年〉3月2… 日高 只一(ひだか ただいち、1879年〈明治12年〉3月23日 - 1955年〈昭和30年〉1月12日)は、日本の英文学者。 広島県出身。号は未徹。早稲田大学文学部英文科卒。坪内逍遥に師事する。1908年早大講師。1921-23年英国、米国に学び、帰国後、早大文学部教授。文学部長を務め、1949年定年退任、名誉教授、立正大学教授、武蔵野女子学院短期大学教授。1944-45年日本英文学会会長。アメリカ文学を早い時期から研究した。墓所は多磨霊園
中平 常太郎(なかひら つねたろう、1879年(明治12年)… 中平 常太郎(なかひら つねたろう、1879年(明治12年)3月20日 ‐ 1964年(昭和39年)7月19日) は、明治末から昭和期の醸造家、社会事業家、政治家。参議院議員(1期)、愛媛県宇和島市長。 愛媛県西宇和郡伊方浦(伊方村を経て現伊方町)で生まれた。 1911年(明治44年)9月、北宇和郡会議員に就任。1914年(大正3年)宇和島で醤油醸造業を営む。1915年(大正4年)宇和島町会議員に選出され、1925年(大正14年)12月から1934年(昭和9年)まで宇和島市会議員に在任し、副議長も務めた。また愛媛県方面委員として社会事業に取り組み、1927年(昭和2年)10月、宇和島市民共済会を設立して救貧事業などを進め、授産場での団扇製造販売を手掛けるなどの活動で注目された。
神田 正雄(かんだ まさお、1879年(明治12年)3月18… 神田 正雄(かんだ まさお、1879年(明治12年)3月18日 - 1961年(昭和36年)8月2日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、ジャーナリスト。 栃木県那須郡芦野町(現在の那須町)出身。交代寄合旗本芦野家の家老の家に生まれる。父に芦野宿戸長・大田原宿戸長を歴任した神田貞、兄に経済学者の神田孝一がいる。 宮城農学校を経て、1901年(明治34年)に東京専門学校政治経済科(現在の早稲田大学)を卒業。同年、清国四川省学堂に教育顧問兼教習として招聘され、地理教科書を著した。1905年(明治38年)、アメリカ合衆国のコロンビア大学に留学し、さらにイギリスのオックスフォード大学にも留学した。
新庄 直知(しんじょう なおとし、1879年(明治12年)3… 新庄 直知(しんじょう なおとし、1879年(明治12年)3月16日 - 1945年(昭和20年)8月28日)は、明治から昭和期の鉄道技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員。新荘と表記される場合がある。元常陸国の麻生藩主の家系。 本籍・茨城県行方郡麻生町。司法官・新庄直陳の長男として生まれた。父の死去に伴い、1913年(大正2年)6月20日、子爵を襲爵した。 1908年(明治41年)7月、東京帝国大学工科大学造兵学科を卒業。1910年(明治43年)鉄道院(後の日本国有鉄道の前身)技手に就任。その後、同技師、同嘱託などを務めた。 1917年(大正6年)3月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1939年(昭和14年)7月9日まで4期在任した。