水口 周平(みなくち しゅうへい、1879年3月12日 - … 水口 周平(みなくち しゅうへい、1879年3月12日 - 1957年2月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県大野郡清見村(現高山市)出身。1903年、医学専門学校済生学舎卒。東京帝国大学医科で学び、産婦人科専科修了。日露戦争に従軍し、二等軍医となる。その後、大野郡会議員、清見村長、岐阜県会議員、同議長を歴任する。 1946年の第22回衆議院議員総選挙において岐阜県から日本自由党公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、翌1947年の第23回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。 このほか清見村森林組合長、同村農業会長、岐阜県農業会理事、日本警防協会特別会員、清見村国民健康保険診療所医師を務めた。
北嶋 南五(きたじま なんご、1879年3月12日 - 1… 北嶋 南五(きたじま なんご、1879年3月12日 - 1951年4月2日)は、俳人である。五城目町長などの公職も歴任した。 秋田県五十目村(後の五城目町)の役人であった父孫吉の長男として生まれる。本名は夘一郎(ういちろう)。父の孫吉はのちに村の戸長になり、1891年からは2代目の村長、町制施行で町になった1896年からは初代の町長になった。秋田県会議員も勤めている。 1886年に五十目小学校(のちに五十目尋常小学校)に入学した南五は、卒業後、秋田市の八橋農学校に進学、さらに東京の東京法学校(後の法政大学)に進んだ。 東京時代の南五は、同郷の石井露月の知己を得て俳句の世界に親しみ、正岡子規の主宰する日本派の句会に出入りしているうちに河東碧梧桐とも昵懇の仲になった。
広江八重桜(ひろえやえざくら、1879年(明治12年)3月1… 広江八重桜(ひろえやえざくら、1879年(明治12年)3月11日 - 1945年(昭和20年)10月8日)は、日本の俳人。 島根県能義郡赤江村大字中津(現・安来市東中津町)に生まれる。 本名・直治。蚕豆庵(さんとうあん)と号した。当時の大地主である広江忠四郎の長男。夫人コノとの間に二男二女がある。晩年に村内に郵便局を開設したが、すべて次男まかせであったという。 俳句は中学二年頃からはじめ、大谷繞石の指導する碧雲会に参加、正岡子規選の『日本』俳壇や『ホトトギス』に投句。非常な多作家で、子規は「八重桜を以って第一の多作者となす。一季優に千句を下らざるもの数年」と評した。 のち河東碧梧桐に師事、新傾向俳句を詠み「海紅」の選者も務めたが、中塚一碧楼の義弟、中塚響也と「渚」を創刊後は定型に戻った。
橋戸 信(はしど しん/まこと(文献により一定していない)、… 橋戸 信(はしど しん/まこと(文献により一定していない)、1879年(明治12年)3月10日 - 1936年(昭和11年)3月23日)は、日本のアマチュア野球選手(遊撃手、投手)、新聞記者。ペンネームは「橋戸 頑鉄」(はしど がんてつ)。
長塚 忠策(ながつか ちゅうさく、1879年(明治12年)3… 長塚 忠策(ながつか ちゅうさく、1879年(明治12年)3月10日 - 1948年(昭和23年)9月12日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 茨城県北相馬郡稲戸井村(現在の取手市)出身。東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、1901年(明治34年)に判事検事登用試験に合格した。司法官試補として水戸区裁判所に勤務し、1903年(明治36年)からは判事として横浜区裁判所、前橋地方裁判所に勤務した。1906年(明治39年)に退官して、新治郡土浦町(現在の土浦市)に弁護士事務所を開いた。土浦町会議員を経て、1915年(大正4年)から茨城県会議員を務めた。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
草村 北星(くさむら ほくせい、1879年3月10日 - 1… 草村 北星(くさむら ほくせい、1879年3月10日 - 1950年5月25日)は、日本の小説家。明治期家庭小説の作家。 熊本県玉名郡高瀬村(現玉名市)生まれ。本名・松雄。父は地主で自由党員。熊本英学校卒業後上京、東京専門学校(現早稲田大学)に入学、1900年卒業し、小説を『明星』に載せる。1902年金港堂に入り編集に従事、1902年『浜子』を刊行、『青年界』『文藝界』を編集し文章を載せ、『新声』にも寄稿、1904年「東京朝日新聞」に「相思怨」を連載、金港堂を辞職。1905年『新声』を佐藤儀助から譲り受けて隆文館より刊行、1910年『百合子』を刊行して以後筆を絶つ。以後は隆文館ほかの出版事業に従事、大正末年隆文館を引退し龍吟社を設立。
西脇 呉石(にしわき ごせき、1879年(明治12年)3月8… 西脇 呉石(にしわき ごせき、1879年(明治12年)3月8日 - 1970年(昭和45年)11月7日)は、日本の書家。名は静、字は如練・子遠。 福井県大野郡勝山町(現在の福井県勝山市)出身。戦前は福井高等女学校教諭、東京府師範学校教諭、東京府立第三高等女学校講師などを務めた。 書を大阪の村田海石に学んだが、その存命中から東京で日下部鳴鶴にも学んだ。この他漢学を富田鴎波、漢詩を国分青崖、岡崎春石に学び、南画を長田雲堂、三谷耕雲、原田尾山に学んだ。日本において詩書画に通じた最後の人物の一人である。 1917年(大正6年)には文部省より委嘱をうけて国定書キ方手本を揮毫したことで著名であるが、日展会員・毎日書道展名誉会員として戦後の展覧会にも多数の作品を出品した。
瀬川 章友(せがわ のりとも、1879年(明治12年)3月6… 瀬川 章友(せがわ のりとも、1879年(明治12年)3月6日 - 1938年(昭和13年)2月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1879年(明治12年)、旧新庄藩士の息子として山形県新庄市に生まれる。山形県立山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)を首席卒業。1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官。1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期、恩賜組)を卒業。 スイス駐在武官等を経て、1922年4月、歩兵大佐に昇進。以後、歩兵第3旅団長、侍従武官、陸士校長などを歴任し、1931年12月、陸軍中将に進む。第6師団留守司令官を務め、1933年12月、予備役に編入された。
入江 貫一(いりえ かんいち、1879年(明治12年)3月6… 入江 貫一(いりえ かんいち、1879年(明治12年)3月6日 - 1955年(昭和30年)4月22日)は、日本の官僚。帝室会計審査局長官、貴族院議員等を務めた。野村靖の次男であり、伯父である入江九一の家督を継いだ。 1879年(明治12年)に野村靖・花子夫妻の次男として生まれ、2歳で靖の亡き兄・入江九一の養嫡子として入江姓を継ぐ。東京府尋常中学、旧制山口高校を卒業。1906年(明治39年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年、7月14日神奈川県属、知事官房兼第一部地方課に勤務。同年11月高等文官試験に合格。1907年(明治40年)3月19日内務属、大臣官房台湾課兼地方局勤務。同年、5月1日大臣官房樺太課兼務に就く。
石田 収蔵(いしだ しゅうぞう、1879年〈明治12年〉3月… 石田 収蔵(いしだ しゅうぞう、1879年〈明治12年〉3月6日 - 1940年〈昭和15年〉1月31日)は、日本の人類学者。樺太(サハリン)のアイヌ、ウィルタ、ニヴフなど北方諸民族の先駆的研究者。東京農業大学教授。 秋田県鹿角郡柴平村柴内(現在の鹿角市花輪)に生まれる。1890年、父の死に伴って青森県八戸市へ移る。1902年、第四高等学校を卒業し、東京帝国大学理科大学動物学科入学。1905年7月卒業。人類学の研究のため、東京帝国大学大学院進学。この頃、東京人類学会に入会し、以後、同会の幹事、編集員、編集主任、評議員・庶務幹事、発行兼編集者を務める。1907年から1939年までの5次にわたり、樺太において民族調査を行った。
服部 英明(はっとり えいめい、1879年(明治12年)3月… 服部 英明(はっとり えいめい、1879年(明治12年)3月6日 - 1952年(昭和27年)12月31日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 愛知県中島郡祖父江町(現在の稲沢市)で服部増次郎の次男として生まれる。1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。弁護士事務所を開業し、東京第一弁護士会評議員を務めた。また 麻布獣医専門学校・麻布獣医畜産学校(現在の麻布大学)の理事・教授を務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回、第19回、第20回(補欠)でも当選を果たした。 その他、東京瓦斯株式会社法律顧問、中外製薬株式会社取締役などを務めた。
有馬 忠三郎(ありま ちゅうさぶろう、1879年(明治12年… 有馬 忠三郎(ありま ちゅうさぶろう、1879年(明治12年)3月4日 - 1958年(昭和33年)6月2日)は、日本の弁護士、弁理士。法学博士。貴族院勅選議員。帝国弁護士会理事。 香川県大内郡丹生村(現:東かがわ市)出身。有馬米次郎の六男。1904年(明治37年)京都帝国大学法科大学独法科を卒業。1912年、分家して一家を創立する。 弁護士・弁理士事務所を開業し、後には第一東京弁護士会会長を務めた。1917年(大正6年)からは東京帝国大学農学部講師を務めた。1922年(大正11年)論文『不正競業論』で法学博士の学位を授与された。その他、高砂生命保険(のち三井生命保険)、復興建築助成各監査役や日本石油顧問などを務めた。
正宗 白鳥(まさむね はくちょう、1879年(明治12年)3… 正宗 白鳥(まさむね はくちょう、1879年(明治12年)3月3日 - 1962年(昭和37年)10月28日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の小説家、劇作家、文学評論家。本名は正宗 忠夫(まさむね ただお)。別号は剣菱、影法師。岡山県生まれ。東京専門学校文学科卒。虚無的人生観を客観的に描く自然主義の代表作家として出発。批評精神に満ちた冷徹な境地を拓いた。評論にも優れている。戯曲も知られる。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 旧家の長男として生まれる。虚弱で、幼時からの生への不安が、後のニヒリズムの気質を育てたという。読売新聞社で文芸時評を書いたのち、『塵埃』(1907年)で自然主義文学の代表的作家に。
大西 正幹(おおにし まさみ / まさもと、1879年(明治… 大西 正幹(おおにし まさみ / まさもと、1879年(明治12年)3月2日 - 1951年(昭和26年)6月17日)は、日本の弁護士・政治家で立憲民政党所属の衆議院議員。 高知県幡多郡伊豆田村(現在の土佐清水市)出身。1900年(明治33年)、高知県師範学校を卒業し、小学校教員となった。1906年(明治39年)、日本大学法律科を卒業し、判事検事登用試験に合格した。司法官試補となるが辞して、花井卓蔵に師事して弁護士を開業。後に高知弁護士会副会長、同会長に選出された。また高知市会議員、同議長、高知県会議員、同議長に選ばれた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回衆議院議員総選挙でも再選された。
大野 守衛(おおの もりえ、1879年(明治12年)3月1日… 大野 守衛(おおの もりえ、1879年(明治12年)3月1日 – 1958年(昭和33年)7月18日)は、日本の外交官。神奈川県藤沢市長。錦鶏間祗候[3]。
小俣 政一(おまた まさいち、1879年(明治12年)3月1… 小俣 政一(おまた まさいち、1879年(明治12年)3月1日 - 1933年(昭和8年)9月2日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。医師。 山梨県北都留郡賑岡村(現在の大月市)出身。1900年(明治33年)、済生学舎を卒業。東京小児科婦人科院を開業し、東京府医師会理事を務めた。東京府会議員、同参事会員、東京市会議員、同参事会員を歴任。また『江東公論』の主筆を務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙(東京府第4区)に出馬し、当選。第17回でも再選を果たした。 1931年(昭和6年)、東京市疑獄事件(板舟権疑惑・青物市場疑惑等)により東京地方裁判所で懲役2ヵ月・追徴金1200円の判決を受けたが、翌年に東京控訴院で無罪判決が下った。
田邊 七六(たなべ しちろく、1879年3月1日 - 195… 田邊 七六(たなべ しちろく、1879年3月1日 - 1952年8月1日)は、日本の政治家、実業家。「カミソリ将軍」とあだ名されたほどの切れ者であった。衆議院議員選挙に7回当選。 山梨県出身。帝国拳闘協会会長で後楽園スタヂアム社長を務めた田邊宗英は実弟、第一勧業銀行理事の田邊加多丸も兄弟、阪急東宝グループの創業者である小林一三は異母兄である。一部人名辞典では「田邊七六は小林一三の義弟」となっているものもあるが、これは田邊と小林は兄弟とはいえ腹違いであることが事由であると考えられる。息子の田邊圀男も政治家で山梨県知事(第3代知事)を務めた。 立憲政友会→政友会革新派(中島派、革新同盟ともいう。総裁は中島知久平)→翼賛議員同盟→翼賛政治会→大日本政治会→日本進歩党
田山 卓爾(たやま たくじ、1879年(明治12年)3月 -… 田山 卓爾(たやま たくじ、1879年(明治12年)3月 - 没年不詳)は日本の裁判官。元・大審院判事。 1879年(明治12年)3月、埼玉県北埼玉郡東村に生まれる。1900年(明治33年)に和仏法律学校(現・法政大学)法律科を卒業し、1902年(明治35年)に判事検事登用試験に合格する。東京地方裁判所判事をへて、大審院判事に就任する。退官後、1923年(大正12年)から弁護士を開業する。正五位勲五等。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
亥角 仲蔵(いすみ ちゅうぞう、1878年(明治11年)3月… 亥角 仲蔵(いすみ ちゅうぞう、1878年(明治11年)3月31日 - 1953年〈昭和28年〉7月19日)は、日本の判事、内務官僚、朝鮮総督府官僚。 京都府舞鶴市の亥角常吉の長男として生まれる。1902年(明治35年)、早稲田大学邦語行政科を卒業し、翌年には法政大学を卒業した。福島県事務官、宮崎県事務官、統監府警視、朝鮮総督府警務官・警視、鳥取県内務部長などを歴任。その後、全羅南道知事、全羅北道知事に就任した。 退官後は清津水利組合長、有信鉱業株式会社社長を務めた。
細谷 而楽(ほそや じらく、1878年〈明治11年〉3月30… 細谷 而楽(ほそや じらく、1878年〈明治11年〉3月30日 - 1940年〈昭和15年〉11月16日)は、日本の彫刻家。本名・三郎。 1878年(明治11年)、群馬県一毛村(現・前橋市城東町1丁目)に生まれる。細谷家は前橋藩士の家柄だった。祖父・登代平の時に廃藩となり、父・桟平は製糸業や質屋を営んでいた。而楽は桟平・まきの三男として生まれた。前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に学ぶが、中退して上京。1897年(明治30年)9月、東京美術学校予科(現・東京藝術大学)に入学する。翌年には新しく開かれた塑造科へと進み担当教官である高村光雲に師事する。同期の高村光太郎(光雲の子息)と親しく交流し、1902年(明治35年)7月に同校を卒業。
植木 直一郎(うえき なおいちろう、明治11年(1878年)… 植木 直一郎(うえき なおいちろう、明治11年(1878年)3月29日 - 昭和34年(1959年)7月8日)は、日本の歴史学者、法学者。國學院大學名誉教授。新潟県出身。
佐々木 惣一(ささき そういち、1878年〈明治11年〉3月… 佐々木 惣一(ささき そういち、1878年〈明治11年〉3月28日 - 1965年〈昭和40年〉8月4日)は、日本の法学者。専門は憲法学・行政法。学位は法学博士。貴族院勅選議員。京都大学名誉教授。立命館大学学長。京都市名誉市民。文化功労者、文化勲章受章者。贈正三位、贈勲一等瑞宝章(没時追贈)。 佐々木惣三郎の長男として現在の鳥取県鳥取市西町に生まれる。 1895年(明治28年)、旧制鳥取県尋常中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)卒業。現存している一年級と三年級の成績は、前者が次席、後者が首席である。 同年9月、旧制第四高等学校入学。一般家庭出身で学資に困っていた佐々木は、旧鳥取藩主池田家の奨学金や鳥取時代の友人からの援助を受けて高校に通った。
池尾 芳蔵(いけお よしぞう、1878年(明治11年)3月2… 池尾 芳蔵(いけお よしぞう、1878年(明治11年)3月27日 - 1959年(昭和34年)9月19日)は、日本の実業家。日本電力社長、日本発送電総裁を務め、戦前日本の電力界の大物として知られた。黒部鉄道社長、日本マグネシウム社長、飛騨索道運輸社長、日本電気協会会長、関西電力顧問なども務めた。 1878年、滋賀県草津町(現・草津市)の豪家の子に生まれ、東京帝国大学法科大学政治学科に進み、常々吉野作造と首席を争い、1904年(明治37年)に高等文官試験に合格し、大学卒業時には銀時計を受領した。卒業後逓信省通信局に入り、東京・大阪の郵便課長を経て、業務課長を最後に1907年(明治40年)に退官し、実業界に転じた。
長谷場 敦(はせば あつし、1878年3月23日 - 195… 長谷場 敦(はせば あつし、1878年3月23日 - 1959年1月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、鹿児島県串木野町長。 鹿児島県出身。鹿児島県川辺郡鹿籠村西鹿籠(後に西鹿籠村、東南方村、枕崎町、枕崎市)の今給黎久清(児玉久清、初代東南方村長)の次男として生まれる。後に第三代東南方村長・初代枕崎町長や衆議院議員を務める今給黎誠吾は実兄。 郷校や三州義塾で学んだ後、上京して早稲田大学、東京外国語学校(現東京外国語大学)、善隣書院に入り清国語を学ぶ。長谷場純孝邸に寄食して東京外国語学校に通った。1902年、東京外国語学校別科清国語科卒。1905年12月、長谷場純孝の長女と結婚し、長谷場家の養嗣子となる。
岸本 康通(きしもと やすみち、1878年〈明治11年〉3月… 岸本 康通(きしもと やすみち、1878年〈明治11年〉3月23日 - 1930年〈昭和5年〉9月19日)は、衆議院議員(立憲政友会)、宇治山田市(現在の伊勢市)市長。 岡山県和気郡山田村(現在の和気町)出身。1902年(明治35年)に日本大学を、1904年(明治37年)に法政大学を卒業した。法政大学卒業の前年に判検事登用試験に合格し、司法官試補、東京地方裁判所検事、陸軍法官部理事、関東都督府理事、第11師団法官部長、大阪府警視、群馬県警察部長、佐賀県内務部長、三重県内務部長を歴任した。1921年(大正10年)、宇治山田市長に就任し、1924年(大正13年)まで在任した。退任後は、弁護士業務に従事した。
岡田 忠彦(おかだ ただひこ、1878年〈明治11年〉3月2… 岡田 忠彦(おかだ ただひこ、1878年〈明治11年〉3月21日 - 1958年〈昭和33年〉10月30日)は、日本の内務官僚、政治家。埼玉県(官選第17代)、長野県(官選第14代)、熊本県知事(官選第16代)、内務省警保局長、衆議院議員(8期)、厚生大臣(第11代)、衆議院議長(第35代)。 岡山県、のちの岡山市小橋町(現中区小橋町)出身。岡田吟平、多嘉恵の長男として生まれた。岡山中学校、第一高等学校を経て、1903年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 官界に入り逓信省鉄道書記となる。1903年(明治36年)11月、第10回文官高等試験行政科合格。 内務省に移り1906年静岡県事務官、1915年東京府内務部長、1916年埼玉県知事、1921年長野県知事、1922年熊本県知事。
牧野 英一(まきの えいいち、1878年(明治11年)3月2… 牧野 英一(まきの えいいち、1878年(明治11年)3月20日 - 1970年(昭和45年)4月18日)は、日本の法学者。専門は刑事法。学位は法学博士(1914年)。東京帝国大学名誉教授。東京商科大学(一橋大学の前身)名誉講師。従二位勲一等瑞宝章。穂積陳重に師事。弟子に正木亮、小野清一郎、土本武司など。 1878年、岐阜県大野郡(現・高山市)の旅館主の家に生まれる。岐阜県立斐太中学校(現岐阜県立斐太高等学校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学仏法科に入学。穂積陳重から法律進化論を、梅謙次郎から自然法を、富井政章から比較法を学んだ。1903年に銀時計受領して卒業。1910年から、ドイツ、イギリス、イタリアに留学し、ベルリン大学では、リスト、フェリに師事し、1913年に帰国。
本多 真喜男(ほんだ まきお、1878年〈明治11年〉3月2… 本多 真喜男(ほんだ まきお、1878年〈明治11年〉3月20日 - 1951年〈昭和26年〉12月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 愛媛県宇和郡久枝村(東宇和郡上宇和村久枝、宇和町を経て現西予市)で素封家に生まれた。1905年、東京帝国大学独法科卒。同大学院に進み、商法を専攻する。農業を営み、愛媛県議、相続税調査委員、小作争議調停委員となる。東宇和農学校教授嘱託、伊予醸造試験所、愛媛木材各(株)社長、卯之町銀行、宇和商業銀行各頭取、愛媛県山林会副会頭、東宇和乾繭組合長などを務める。。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において愛媛3区(当時)から立憲民政党公認で立候補して当選する。
岩城 準太郎(いわき じゅんたろう、1878年3月12日 -… 岩城 準太郎(いわき じゅんたろう、1878年3月12日 - 1957年4月9日)は、日本の国文学者。 富山県上新川郡大広田村字大村(現富山市)出身。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)、第四高等学校を経て、1902年東京帝国大学文学部国文科卒。三重県立第一中学校教師、第四高等学校教授、1916年奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)教授。1906年『明治文学史』を刊行し、明治文学史を初めて文学史の対象とした。おもな著作に「明治大正の国文学」「新修日本文学史」などがある。
梅ヶ谷 藤太郎(うめがたに とうたろう、1878年3月11日… 梅ヶ谷 藤太郎(うめがたに とうたろう、1878年3月11日 - 1927年9月2日)は、現在の富山県富山市水橋大町(出生時は石川県新川郡水橋西大町)出身で雷部屋に所属した大相撲力士。第20代横綱。本名は押田 音次郎(おしだ おとじろう)で、後に小江 音松(おえ おとまつ)となる。 1878年に、現在でいう「富山の薬売り」である売薬商の四男として生まれる(誕生日には異説もある)。1891年に初代西ノ海嘉治郎・劔山谷右エ門の一行が富山県へ巡業に来た際、恵まれた体格の少年を見つけた劔山から熱心な勧誘を受け、雷部屋へ入門、早くも同年1月に初土俵を踏んだ。師匠・雷(元横綱・初代梅ヶ谷)の「ワシ(梅ヶ谷)の弟子ということで四股名は“梅ノ谷”だ」という発言で四股名はあっさりと決定、番付には「梅ノ谷 音松」と書かれた。
平賀 譲(ひらが ゆずる、1878年(明治11年)3月8日 … 平賀 譲(ひらが ゆずる、1878年(明治11年)3月8日 - 1943年(昭和18年)2月17日)は、日本の海軍軍人、工学者、華族。海軍技術中将従三位男爵、東京帝大総長、工学博士。東京府(現・東京都)生まれ、本籍地は広島県広島市。父は芸州藩士から維新政府に仕えた主計官。兄・徳太郎は海軍軍人。
阿部 滂(あべ ひろし、1878年(明治11年)3月7日 -… 阿部 滂(あべ ひろし、1878年(明治11年)3月7日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 長野県出身。1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。翌年に台湾総督府属となり、事務官、民政部税務課長、財務局長などを務めた。1926年(大正15年)まで在職。
田中 寅三(たなか とらぞう、1878年3月7日 - 196… 田中 寅三(たなか とらぞう、1878年3月7日 - 1961年7月4日)は、日本の洋画家、絵画教育者。 千葉高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)などで図画の教鞭をとりながら、学校の所在する千葉県松戸市に住み、同地の農村風景画から海や船舶のある風景画作品を多く残す。 油彩画の他に、日本画風の絵画も描いた。 愛媛県宇和島に、彦根藩士であった田中文二の次男として生まれる。父は井伊家のお抱え絵師だったとされるがはっきりしない。一家は明治維新後郵便局を営んでいたが、1985年に大阪に転居し、書店を開業している(現・合資会社田中青柳堂書店)。 絵画を寅三はまず1894年大阪で山内愚僊に学ぶ。当時の山内門下には山本森之助、赤松麟作らがいた。
飯田 助夫(いいだ すけお、1878年〈明治11年〉3月7日… 飯田 助夫(いいだ すけお、1878年〈明治11年〉3月7日 - 1961年〈昭和36年〉12月18日)は、大正から昭和時代の政治家。衆議院議員。神奈川県会議長。神奈川県橘樹郡大綱村長。 素封家・飯田助大夫快三の長男として神奈川県橘樹郡、のちの大綱村(現横浜市港北区)に生まれる。1925年(大正14年)12代を継ぐ。1903年(明治36年)大綱村農会長となり、大綱村会議員、橘樹郡会議員、1917年(大正6年)大綱村長、同教育会長、町村会役員などを歴任した。 1924年(大正13年)6月、神奈川県会議員に当選。2期務め、1928年(昭和3年)7月には議長に推された。1927年(昭和2年)4月、大綱村が横浜市に編入されると横浜市会議員に当選。
有島 武郎(ありしま たけお、1878年3月4日 - 192… 有島 武郎(ありしま たけお、1878年3月4日 - 1923年6月9日)は、日本の小説家。 学習院中等科卒業後、農学者を志して北海道の札幌農学校に進学、洗礼を受ける。1903年に渡米。ハバフォード大学大学院を経て、ハーバード大学で1年ほど歴史、経済学を学ぶ。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らと共に同人「白樺」に参加する。1923年、軽井沢の別荘(浄月荘)で波多野秋子と心中した。 代表作に『カインの末裔』『或る女』や、評論『惜しみなく愛は奪ふ』がある。 東京・小石川(現:文京区)に旧薩摩藩郷士で大蔵官僚、実業家の有島武の長男として生まれる。母は幸子。祖父の宇兵衛も同じく郷士であった。武郎4歳の時、父の横浜税関長就任を機に一家で横浜に移る。
菅 楯彦(すが たてひこ、明治11年(1878年)3月4日 … 菅 楯彦(すが たてひこ、明治11年(1878年)3月4日 - 昭和38年(1963年)9月4日)は、日本画家。鳥取県鳥取市出身。本名は藤太郎。号は、初め盛虎、のち静湖、静香。大阪美術会会員。大阪市名誉市民、倉吉市名誉市民。浪速の風俗を愛し「浪速御民(なにわみたみ)」と標榜、はんなりとした情趣ある浪速風俗画で「最も大阪らしい画家」と呼ばれた。 明治11年(1878年)、鳥取市で菅大治郎(画号・盛南)の長男として生まれる。本名は藤太郎。父は元倉吉藩士の日本画家であり、塩川文麟の門下で岸派を折衷したという。5歳頃まで、父母の郷里・倉吉で過ごす。陶器の絵付を指導する父と共に姫路、ついで赤穂へ転居。明治14年(1881年)、京都へ向かう途中大阪の身内に引き留められ、ここに住むことになる。
双木 利一(なみき りいち、1878年3月2日 - 1939… 双木 利一(なみき りいち、1878年3月2日 - 1939年8月8日)は、日本の政治家。 双木八郎の長男として埼玉県飯能町(現在の飯能市)にて生まれる。1899年、埼玉師範学校卒業。飯能第一小学校長、川越貯蓄銀行飯能支店長、飯能町(現・飯能市)議会議員を経て、1926年、飯能町長に就任した。上水道の建設を行い、工事完成直前の1932年2月、町長を任期退職した。1928年から町長と兼任して埼玉県会議員を務めていた。 「飯能人物誌」1970年、p67-68
中村 春二(なかむら はるじ、1877年(明治10年)3月3… 中村 春二(なかむら はるじ、1877年(明治10年)3月31日 - 1924年(大正13年)2月21日)は、明治末期から大正期の教育者にして成蹊学園の創立者。
李 堈(り こう、朝鮮語: 이강〈イ・ガン〉、1877年3月… 李 堈(り こう、朝鮮語: 이강〈イ・ガン〉、1877年3月30日 - 1955年8月16日)は、大韓帝国の皇族(王)、のち大日本帝国の公族。朝鮮第26代国王・大韓帝国初代皇帝高宗の五男。 朝鮮国王高宗の五男として誕生する。母は貴人張氏(出産当時は承恩尚宮だった)。異母兄に純宗、異母弟に皇太子・李王となった李垠がいる。幼名は平吉(ピョンギル)。朝鮮王朝の慣例では、国王の庶子は世子が10歳になるまで宮中に入ることはできなかったため、哲宗の女婿朴泳孝のもとで育てられた。その後も興宣大院君の反対でなかなか王子として認知されず、庶民的な生活を強いられた。素行は荒れ、市中の無頼とも付き合うようになったという。
溝手 保太郎(みぞて やすたろう、1877年(明治10年)3… 溝手 保太郎(みぞて やすたろう、1877年(明治10年)3月30日 - 1933年(昭和8年)11月25日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家、銀行家、大地主。貴族院多額納税者議員。 溝手直次郎の長男として岡山県都宇郡早島村(現都窪郡早島町)に生まれる。一時直次郎の兄の養嗣子となるが、のち復籍し、9歳にして家督を相続する。1896年(明治29年)1月、早島、倉敷の地主、佐藤、綱島、大橋らと共に中備銀行を創立し頭取に就任した。早島随一の大地主として120町歩の小作地を経営し、その収入を株式や公債に当て利殖を図る。1910年(明治43年)韓国併合を契機に韓国にも180町歩の土地を購入、農場経営に着手した。
井野 次郎(いの じろう、1877年〈明治10年〉3月25日… 井野 次郎(いの じろう、1877年〈明治10年〉3月25日 - 1952年〈昭和27年〉10月25日)は、日本の内務官僚、政治家。官選沖縄・宮城県知事、東京市助役、長崎市長。正四位勲三等。 群馬県群馬郡徳丸村(後東群馬郡、勢多郡下川淵村を経て現・前橋市徳丸町)に、井野寿平の次男として生まれる。東京高等師範学校を経て、1913年(大正2年)、東京帝国大学英法科を卒業。1912年(大正元年)11月、文官高等試験行政科試験に合格[要出典]。内務省に入省し群馬県属となる[要出典]。 以後、東京府郡長、熊本県理事官、神奈川県理事官、長崎県警察部長、広島県警察部長、佐賀県内務部長、和歌山県内務部長、宮城県内務部長、北海道庁土木部長を歴任した。
池永 浩久(いけなが こうきゅう、明治10年(1877年)3… 池永 浩久(いけなが こうきゅう、明治10年(1877年)3月24日 - 昭和29年(1954年)3月6日)は、日本の映画プロデューサー、実業家、元俳優である。日活向島撮影所長を皮切りに、撮影所長を歴任し、やがて太秦発声映画を設立、現在の東宝の創成期に関わった人物として知られる。本名は三治、俳優時代の芸名は澤田 憲、澤田 三治。 1877年(明治10年)3月24日、大分県下毛郡大幡村の村長池永為策の三男として生まれる。兄は隆二で、父の跡を継ぐ。 当初壮士芝居の俳優として活躍。山田九州男(山田五十鈴の実父)の一座にいたこともある。 1910年(明治43年)、33歳を迎え、牧野省三の紹介で横田永之助の横田商会二条城撮影所で、同社製作の映画に出演した。
額田 豊(ぬかだ ゆたか、1877年(明治12年)3月23日… 額田 豊(ぬかだ ゆたか、1877年(明治12年)3月23日 - 1972年(昭和47年)7月29日)は、日本の医師・医学者(内科学)・教育者。東邦大学共同創立者。日本大学医学部医学科初代医学科長。日本大学名誉教授。 1878年(明治11年)、岡山県邑久郡に医師の長男として生まれた。上京して獨逸学協会学校中等部、旧制一高に通い、東京帝国大学医学科に入学した。大学在学中はボート部で活躍し、大学を休みがちであったがドイツ語の原書を読んで補った。 大学卒業後の1907年(明治40年)にドイツへ3年間私費留学する。留学中にドイツ女性に感銘を受け、女性を対象とした教育を使命と考える。 帰国後に医学博士の学位を取得する。
青柳 郁次郎(あおやぎ いくじろう、1877年(明治10年)… 青柳 郁次郎(あおやぎ いくじろう、1877年(明治10年)3月20日 - 1930年(昭和5年)8月18日)は、日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 福岡県鞍手郡下新入村(のち鞍手郡新入村、現:直方市下新入)で生まれる。1906年、早稲田大学法律科を卒業。農業を営む。 新入村会議員、鞍手郡会議員、福岡県会議員、同参事会員、同副議長、帝国農会議員、鞍手郡農会顧問、鞍手育英会評議員などを歴任。農業視察のためアメリカ合衆国に渡航している。 1920年5月、第14回衆議院議員総選挙に福岡県第十区から立憲政友会所属で出馬して当選。第15回、第17回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算3期務めた。
磯村 春子(いそむら はるこ、1877年3月16日- 191… 磯村 春子(いそむら はるこ、1877年3月16日- 1918年1月31日)は、明治・大正期の新聞記者。NHK朝の連続テレビ小説『はね駒』(1986年前期作品)の主人公のモデルともなった。長男は、国際東アジア研究センター名誉所長や東洋大学学長などを務めた磯村英一(1903- 1997)。 1877年(明治10年)、小泉伊助とカツの長女として、福島県相馬郡中村町(現・相馬市)に生まれる。 宮城女学校(現・学校法人宮城学院)に入学。母校は1886年(明治19年)に創立されたばかりのキリスト教系の学校で、日本のキリスト教者の押川方義牧師等がアメリカ合衆国の改革派教会宣教師ウィリアム・E・ホーイと開いた。
京山 小円(きょうやま こえん、1877年(明治10年)3月… 京山 小円(きょうやま こえん、1877年(明治10年)3月15日 - 1928年(昭和3年)10月30日)は、浪曲師。広島県尾道生まれ。本名・吉田松吉。京山小圓とも表記する。 幼いころから義太夫語りになるため修行を積む。浪曲師で京山派の始祖・2代目京山恭安斎の弟子となる。余技に義太夫を得意とし、息の長い重厚な小円節を創り上げた。1908年上京、京橋新富座で独演会を開くと“関西にこの人あり”と評判を呼んだ。桃中軒雲右衛門の武士道鼓吹に対して、人道鼓吹とも称し、巧みな会話と俗に三段流しといわれる息の長さと低音の関西節に聴衆は酔いしれたという。明治末期から大正期にかけて雲右衛門、二代目吉田奈良丸と共に、三巨頭とも称され第1期の浪曲黄金時代を創り上げた元老の一人である。
金光 庸夫(かねみつ つねお、1877年〈明治10年〉3月1… 金光 庸夫(かねみつ つねお、1877年〈明治10年〉3月13日 - 1955年〈昭和30年〉3月5日)は、日本の政治家、実業家。拓務大臣(第16代)、厚生大臣(第7代)。衆議院議員(9期)。名前の「庸夫」は「やすお」とも読まれる。 経済企画庁長官を務めた佐藤一郎及び通産事務次官を務めた熊谷典文は女婿、佐藤の長男で衆議院議員を務めた佐藤謙一郎は孫にあたる。 大分県宇佐郡高家村(現:宇佐市)生まれ。高等小学校を卒業後税務官吏となり、長崎税関、福岡税務署長、熊本税務監督局勤務を経て、1908年(明治41年)鈴木商店に入社する。1910年(明治43年)に太陽生命保険に転じて支配人となり、1913年(大正2年)に独立して大正生命保険(現:プルデンシャル ジブラルタ ファイナンシャル生命保険)の社長となる。
河合武雄(かわい たけお、1877年(明治10年)3月13日… 河合武雄(かわい たけお、1877年(明治10年)3月13日 - 1942年(昭和17年)3月21日)は、明治中期から昭和初期にかけて活躍した、新派の女形俳優。大正期には、伊井蓉峰・喜多村緑郎とともに、三頭目と言われた。 本名は河合武次郎。歌舞伎役者三代目大谷馬十の次男として、東京府京橋(現・東京都中央区京橋)に生まれた。 下積み役者の苦労を知る馬十は武次郎が俳優になりたがるのを嫌い奉公に出したが、子は1893年(明治26年)、父に隠れて山口定雄一座の横浜蔦座で初舞台を踏み、四代目沢村源之助のもとで歌舞伎も修めた。容貌と声柄に恵まれ、1897年には山口の相手役に進んだ。 山口座長も元は歌舞伎の女形で、従って河合は、自由民権の壮士芝居とは違う、歌舞伎風の演技をした。
島薗 順次郎(しまぞの じゅんじろう、1877年(明治10年… 島薗 順次郎(しまぞの じゅんじろう、1877年(明治10年)3月12日 - 1937年(昭和12年)4月27日)は、日本の医師、内科学者、医学博士。和歌山県、現在の和歌山市出身。脚気がビタミン欠乏症であることを発見した。 1877年3月12日、和歌山県、現在の和歌山市(当時は市制施行以前)に須藤暢の次男として生まれた。父を幼少期に亡くし、母と13歳上の兄の丑彦に育てられた。和歌山中学校在学中に才覚を見込まれ、医師の島薗家の娘婿として養子となる。卒業後、第一高等学校を経て、1899年に東京帝国大学医科大学に進学。大学在学中は、三浦謹之助教授、高橋順太郎教授の指導を受けた。1904年に卒業し、ドイツに留学。
板谷 順助(いたや じゅんすけ、1877年(明治10年)3月… 板谷 順助(いたや じゅんすけ、1877年(明治10年)3月12日 - 1949年(昭和24年)12月20日)は、貴族院勅選議員、衆議院議員、参議院議員。研究会所属。旧姓・山田。 新潟県出身。山田六右衛門の息子として生まれ、初代・板谷宮吉の養子となる。慶應義塾大学卒業後、明治45年(1912年)板谷商船副社長、小樽商業会議所顧問、北海道農友会会頭、札幌電気軌道、渡島海岸鉄道、沙流鉄道、洞爺湖電気鉄道、帝国自動車工業各社長。樺太銀行、平和生命、十合百貨店、日本電気冶金、羽田精機各取締役。 昭和2年(1927年)に栗林五朔急死に伴う北海道5区の補欠選挙において政友会は室蘭から適当な候補者を絞れず小樽の板谷が推薦されることになり、民政党の候補者と争い衆議院議員に当選した。