佐左木 俊郎(ささき としろう、1900年(明治33年)4月… 佐左木 俊郎(ささき としろう、1900年(明治33年)4月14日 - 1933年(昭和8年)3月13日)は、日本の小説家。農民(百姓)の辛さ、愚かさ、悲しさ、したたかさ、美しさを、じっと見据えつづけた作家である。宮城県大崎市の農家出身。鉄道員、小学校の代用教員などののち新潮社に入り、『文学時代』などを編集。加藤武雄に兄事し、新興芸術派に属して猟奇小説、探偵小説などを書き、農民文芸会に属し活動したが早世した。 川端康成は、「農民文学」「農民小説」の旗手の佐左木の夭折を惜しみ、不当に扱われた作家として、その才能の「尊さ」を評し、「(農民作家で)見るに足る作品活動を示してゐたのは、芸術派では、実に佐左木氏たゞ一人だつた」とし、「嘉村礒多氏の全集が出るのに、佐左木俊郎氏の農民小説は忘れられかかつてゐる。
飯田 慶三(いいだ けいぞう、1900年(明治33年)4月1… 飯田 慶三(いいだ けいぞう、1900年(明治33年)4月13日 - 1993年(平成5年)11月18日)は、日本の実業家。髙島屋社長・会長を務めた。京都府京都市出身。 髙島屋副社長を務めた飯田忠三郎の次男として生まれる。 1926年に慶應義塾大学法学部卒業後、高島屋へ入社。大阪支店長、常務、専務を経て、飯田直次郎社長の急逝に伴い、1952年2月に創業者一族3代目の社長に就任。横浜、ニューヨークへ出店するなど多店舗化を進め、トップマネジメントの強化を図り、組織を合理的に改革し、人事を刷新して新しい時代に即応する近代的な経営管理方法を推進した。1960年に会長に退き、新社長には飯田直次郎の長男である飯田新一が就任した。
関口 春次郎(せきぐち はるじろう、1900年4月13日 -… 関口 春次郎(せきぐち はるじろう、1900年4月13日 - 1978年1月22日)は、日本の金属工学者。名古屋大学名誉教授。日本学士院賞受賞。溶接工学の開拓者で溶接学会会長も務めた。 栃木県出身。1921年東北帝国大学工学部専門部機械科を卒業。米沢工業学校(現山形県立米沢工業高等学校)で教諭として働く。1930年には東北帝国大学工学部金属工学科を卒業。釜石鉱山に入社すると釜石鉱業所の工務調査課に配属され、藤田俊三のもとで働いた。その後もう一度勉強がしたいと思い立ち釜石鉱山を退職。1938年東北帝国大学金属材料研究所助教授。1940年工学博士。1941年名古屋帝国大学工学部教授。1952年溶接学会会長。
小川 久義(おがわ ひさよし、1900年(明治33年)4月1… 小川 久義(おがわ ひさよし、1900年(明治33年)4月13日 - 1954年(昭和29年)5月25日)は、日本の政治家、参議院議員(2期) 富山県上新川郡針原村小西(現・富山市)の農家に生まれる。新庄尋常高等小学校(現・富山市立新庄小学校)を卒業。農業のかたわら地元の青年団や農業会のリーダーとなる。青年団時代は短距離走の選手として鳴らし、農業会では早くから針原村農業会長を務める。 1946年(昭和21年)春、推されて県農業会の副会長に就任。 1945年12月に結成されたばかりの日本農本党の幹事長に選ばれ、農業会を中心に政治活動を行う。また農業団体の再編成が行われたのに伴い,県農協連絡協議会会長となる。
村松 常雄(むらまつ つねお、1900年4月12日 - 19… 村松 常雄(むらまつ つねお、1900年4月12日 - 1981年8月30日)は、日本の医学者、精神科医。 妻は田部隆次の娘。村松剛、村松英子の父。村松えりの祖父。 東京出身。東京帝国大学医学部卒。名古屋大学助教授、1950年教授、1960年医学部長。1964年定年退官、東京都立松沢病院副院長、国立精神衛生研究所長。1971年、勲二等旭日重光章を受賞。
下条 恭兵(下條、しもじょう きょうへい、1900年(明治3… 下条 恭兵(下條、しもじょう きょうへい、1900年(明治33年)4月12日 - 1986年(昭和61年)1月12日)は、昭和期の実業家、政治家、学校法人理事長。参議院議員(1期)。 新潟県刈羽郡吉井村(中通村を経て現柏崎市吉井)出身。小学校卒業後、農業、石油坑夫などを務め苦学して、1922年(大正11年)早稲田工手学校(現早稲田大学芸術学校)を卒業した。 1922年、日本石油(現新日本石油)に入社。配管工事下請会社を設立して独立。分解揮発油精製器などの特許権を得て日本油機製造を設立して社長に就任。その他、昭和精密機械社長、太田鉄工所社長、米華貿易取締役会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で新潟県地方区に日本社会党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
進藤 章(しんどう あきら、1900年(明治33年)4月12… 進藤 章(しんどう あきら、1900年(明治33年)4月12日 - 1976年(昭和51年)5月18日)は、日本の画家、油彩画、日本画などを描く。 1900年(明治33年)4月12日、父善次郎と母たいの7人兄弟の長男として山梨県北都留郡小淵沢村上久保(現・山梨県北杜市小淵沢町上久保)に生まれる。小淵沢小学校、大泉高等科3年を経て山梨師範学校(現・山梨大学)に学ぶ。 卒業後、日野春、小淵沢、甲府富士川小学校に訓導として勤め、当時文壇を風靡した武者小路実篤らの白樺運動の影響を受け、地方文化の活動、ことに画道に専心した。また山梨師範学校の先輩でもあった土屋義郎氏の紹介により岸田劉生の草土社に属し、木村荘八の指導を受けた。
秋山 六郎兵衛(あきやま ろくろうべえ、1900年4月11日… 秋山 六郎兵衛(あきやま ろくろうべえ、1900年4月11日 - 1971年8月23日)は、日本のドイツ文学者。専門は、E.T.A.ホフマンの『牡猫ムルの人生観』の翻訳、ヘルマン・ヘッセの研究。 香川県三豊郡下高瀬村(現 三豊市三野町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部独文科卒業。 東京帝国大学在学中、同ドイツ文学専攻の手塚富雄等と第8次、第9次「新思潮」に参加。1926年(大正15年)旧制福岡高等学校にドイツ語教師として赴任。1936年(昭和11年)10月、同高等学校の同僚の浦瀬白雨・大塚幸男等と文芸同人誌「九州文壇」を創刊。1937年(昭和12年)8月、「九州文壇」を廃刊し、「九州文学」(第1期)を創刊。
中村 汀女(なかむら ていじょ、1900年(明治33年)4月… 中村 汀女(なかむら ていじょ、1900年(明治33年)4月11日 - 1988年(昭和63年)9月20日)は、日本の俳人。本名、破魔子(はまこ)。星野立子・橋本多佳子・三橋鷹女とともに4Tと呼ばれた、昭和を代表する女流俳人。 高浜虚子に師事。「ホトトギス婦人句会」で活躍。俳誌「風花」を創刊、主宰。女流俳人の第一人者として、ラジオ、テレビなどを通し、俳句を家庭婦人層へ普及させた。句集に『春雪』(1940年)、『紅白梅』(1968年)など。 熊本県出身。熊本県飽託郡画図村(現熊本市東区江津1丁目)に斉藤平四郎・テイの一人娘として生まれる。平四郎は地主で、村長も務めた。1912年(大正元年)、熊本県立高等女学校(現熊本県立第一高等学校)に入学。
水野 一夫(みずの かずお、1900年4月11日 - 199… 水野 一夫(みずの かずお、1900年4月11日 - 1994年8月28日)は、日本の経営者。宇部興産(現・UBE)社長、会長を務めた。山口県防府市出身。 1938年に東京帝国大学法学部を卒業。 1942年に宇部興産(現・UBE)取締役に就任し、取締役、総務部長、常務、専務を経て、1961年11月に副社長に就任し、1977年12月から1983年6月までに社長を務め、1983年6月から取締役相談役を務めた。 経団連常任理事なども歴任した。 1966年に藍綬褒章を受章し、1972年に勲三等旭日中綬章を受章し、1980年に勲二等旭日重光章を受章した。 1994年8月28日、心不全のために死去。94歳没。
会田 軍太夫(あいだ ぐんだゆう、1900年4月11日 - … 会田 軍太夫(あいだ ぐんだゆう、1900年4月11日 - 1981年5月10日)は、日本の物理学者、化学者、評論家である。応用物理学を専門とし、東京理科大学や東海大学で教鞭を執り、日本の科学技術の発展に貢献した。 会田軍太夫は1900年(明治33年)4月11日に宮城県で生まれた。1923年(大正12年)に東京物理学校(現在の東京理科大学)を卒業した。 卒業後、岩城硝子研究所の所長を務め、実業界で活躍した。その後、学術の世界に戻り、東京理科大学および東海大学の教授を歴任し、後進の指導にあたった。また、日本眼鏡専門学校の校長も務めている。 評論家としての顔も持ち、日本ペンクラブの会員でもあった。科学技術に関する幅広い知見を基に、多岐にわたる評論活動を展開した。
堀内 唯生(ほりうち ただお、1900年4月11日 - 19… 堀内 唯生(ほりうち ただお、1900年4月11日 - 1981年12月25日)は、日本の洋画家である。
原田 與作(原田 与作、はらだ よさく、1900年(明治33… 原田 與作(原田 与作、はらだ よさく、1900年(明治33年)4月10日 - 1979年(昭和54年)2月2日)は、日本の政治家。第6代札幌市長(在任1959年~1971年。3期。公選市長としては2代目。)。栃木県生まれ。 1902年、3歳で栃木県から一家で北海道名寄市に入植し厳しい開墾生活の中で村の学校で尊敬を受ける教師の存在に感銘を受け教師を志す。 1915年(大正4年)に札幌師範学校(現北海道教育大学札幌校)に学費免除で入学するも、洗練された校風や要領の悪さで馴染めず学費の請求を避けるべく不良な生活態度をとって2年で退学。 1917年(大正6年)に上京し新聞配達や内閣統計局でのアルバイトに励みつつ4年後に日本大学法学部夜間部に合格し、1922年(大正11年)に東京市職員講習所にトップの成績で合格し半年後に東京市職員となる。
竹中 治(たけなか おさむ、1900年4月10日 - 196… 竹中 治(たけなか おさむ、1900年4月10日 - 1967年4月15日)は、日本の実業家。ジャパンライン(現商船三井)創業者・初代社長。 和歌山県和歌山市出身。東京商科大学(現一橋大学)卒業後、商工省入省。小学校で両親を失い、家庭教師をしながら大学に通った。 その後退官し、1937年日東鉱業汽船設立。海運業のほか証券業、新聞業、石油、ガス、石炭、金属、不動産、化学などを幅広い事業を手がける。 戦後1947年に日東商船創立。1964年大阪商船との合併交渉が決裂し、大同海運と合併し、ジャパンライン設立、同社社長に就任。 1956年の第4回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で立候補したが落選した。
大間知 篤三(おおまち とくぞう、1900年(明治33年)4… 大間知 篤三(おおまち とくぞう、1900年(明治33年)4月9日 - 1970年(昭和45年)2月26日)は、日本の民俗学者。 1900年、富山県富山市愛宕町生まれ。呉服屋を営む旧家に生まれ、父は富山橋北銀行の頭取。富山中学校、第四高等学校卒、1927年、東京帝国大学文学部独文科卒。在学中、新人会に所属し、幹事長を務める。 卒業後には労働農民党書記を務め、日本共産党に入る。金沢連隊に入営ののち、1927年三・一五事件で三年間下獄。大間知ら、1927年2月『政治批判』創刊、1928年2月まで。1931年、出所して大宅壮一の翻訳団に加わる。1933年より柳田國男に師事、民間伝承の会(現日本民俗学会)の創立に参加。
時子山 常三郎(とこやま つねさぶろう、1900年〈明治33… 時子山 常三郎(とこやま つねさぶろう、1900年〈明治33年〉4月9日 - 1984年〈昭和59年〉6月26日)は、日本の経済学者。早稲田大学第9代総長。日本私立大学連盟第5代会長。 長男は元一橋大学経済学部教授で計量経済学者の時子山和彦。 1900年4月8日、大阪府堺市に生まれる。旧制桃山中学校(現・桃山学院中学校・高等学校)卒業。早稲田大学附属第一高等学院文科(政経)、早稲田大学政治経済学部経済学科を経て、1927年4月、早稲田大学大学院(財政学・統計学専攻)に進学し、1929年3月まで在籍する。1933年4月から在外研究員としてアメリカ合衆国・ドイツに留学する。 1939年4月から早稲田大学専門部政治経済科教授に、1940年2月から同大学政治経済学部教授に、1949年4月から第一・第二政治経済学部教授および同学部長になる。
吉江 勝保(よしえ かつやす、1900年(明治33年)4月8… 吉江 勝保(よしえ かつやす、1900年(明治33年)4月8日 - 1970年(昭和45年)9月17日)は、日本の内務官僚、政治家。山梨県知事(官選第42代、公選初代)。参議院議員(3期)、衆議院議員(1期)。号は知山。 京都府愛宕郡八瀬村(現京都市左京区)に吉江四郎の長男として生まれる。京都府立第一中学校(現京都府立洛北高等学校)のとき、教師から「スッポン」の漢字を知っているかと聞かれ、教室で自分だけが手を挙げて黒板に「すっぽん」と平仮名で書いてみなを唖然とさせ、それ以来、あだ名が「すっぽん」になった。 第三高等学校文科時代は柔道部で主将だった。1927年(昭和2年)に東京帝国大学法学部英法科を卒業。
小野 哲(おの あきら、1900年(明治33年)4月8日 -… 小野 哲(おの あきら、1900年(明治33年)4月8日 - 1978年(昭和53年)9月21日)は、日本の鉄道官僚、政治家。千葉県知事(官選第34代)、参議院議員(1期)。 小野禎一郎の二男として京都府乙訓郡向日町(現:向日市)で生まれる。第一高等学校を経て、1924年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。鉄道省に入り神戸鉄道管理局書記となる。 以後、鉄道局副参事、鉄道事務官、在外研究員(欧米留学)、門司鉄道局鳥栖運輸事務所長、東京鉄道局運輸部庶務課長、鉄道省運輸監理官、東京鉄道局運輸部長、大臣官房人事課長、門司鉄道局長、運輸通信省鉄道総局勤労局長、運輸省自動車局長、同企画局長などを歴任。
安田 幾久男(やすだ きくお、1900年 <明治33年> 4… 安田 幾久男(やすだ きくお、1900年 <明治33年> 4月7日 - 1978年 <昭和53年> 2月19日)は、日本の実業家。日本軽金属社長を務めた。位階は正四位。 石川県金沢市出身。1924年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に富士電機製造に入社。 1939年に日本軽金属に転じ、1946年5月に取締役に就任し、1953年には副社長に就任。1961年5月には社長に昇格した。1967年5月に会長を経て、1969年5月に相談役に就任。経済団体連合会理事、日本経営者団体連盟常任理事などを歴任。。 1957年に紺綬褒章を受章し、1958年に藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲二等旭日重光章を受章した。
木村 守江(きむら もりえ、1900年4月6日 - 1996… 木村 守江(きむら もりえ、1900年4月6日 - 1996年11月3日)は、日本の政治家、医師。福島県知事(公選第6-9代)、衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)を務めた。男性。 現在の福島県いわき市四倉生まれ。旧制磐城中学(現福島県立磐城高等学校)、慶應義塾大学医学部を経て医学博士、開業医となる。1938年1月、歩兵第65連隊の軍医として南京での捕虜の扱いについて『磐城時報』に軍事郵便で報告を寄せている。第二次世界大戦でも軍医でニューギニアなどで従軍。 1950年の第2回参議院議員通常選挙に福島県選挙区からで自由党から立候補し、当選。参議院議員を1期務めた後、衆議院に鞍替えし、1958年の第28回衆議院議員総選挙で旧福島3区から出馬して初当選(自民党)、以後3期連続当選を果たす。
渡辺 清彦(わたなべ きよひこ、1900年4月5日 - 20… 渡辺 清彦(わたなべ きよひこ、1900年4月5日 - 2000年2月7日)は日本の植物学者である。第二次世界大戦中に日本占領下のマレーシアのペナン植物園の園長を務めた。 静岡県森町に生まれた。父親は小学校長である。旧制掛川中学校、第八高等学校を経て、東京帝国大学の植物学科で学んだ。新設された旧制広島高等学校の教授を務め、1941年に陸軍司政官として日本が占領したマレーシアのペナン植物園の園長として派遣された。戦後は静岡大学を経て、千葉大学の教授となり、定年まで勤め、和洋女子大学の教授も務めた。1942年から1945年のペナン植物園の園長をしていたときに書き溜めた植物の図2200枚にE・J・H・コーナー(E. J. H. Corner; 『思い出の昭南博物館』の著者)らが説明をつけた『図説 熱帯植物集成』などを出版した。
小山 隆(こやま たかし、1900年4月5日 - 1983年… 小山 隆(こやま たかし、1900年4月5日 - 1983年8月4日)は、日本の社会学者。 岡山県出身。1924年東京帝国大学文学部社会学科卒。長崎高等商業学校教授、高岡高等商業学校教授、大阪大学教養部教授、1964年定年退官、名誉教授、東洋大学教授。1962年「近代家族の構造分析」で大阪大学文学博士。戦前は富山・岐阜県境の村の大家族構造を調査。戦後も家族の変容などを研究した。1964年日本社会学会会長。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
早坂 順一郎(はやさか じゅんいちろう、1900年(明治33… 早坂 順一郎(はやさか じゅんいちろう、1900年(明治33年)4月4日 - 1981年(昭和56年)1月22日)は、日本の実業家。徳陽相互銀行、東北放送社長などを務めた。 1917年旧制古川中学校(宮城県古川高等学校)を卒業。建築業に従事し、古川町、古川市議会議員、同議会議長を務め、その傍ら太洋無尽の外交員にもなり、1940年3月には古川出張所長に就いた。1942年4月、太洋無尽、東北無尽、宮城無尽が戦時統合で「三徳無尽」として発足すると、古川支店長、副社長を経て、1950年に社長となった。1951年10月、相互銀行法の施行に伴い、三徳無尽は「徳陽相互銀行」に商号を改めている。 宮城県内企業の首都圏との結びつきに早くから着目し、県外への出店を積極的に進めた。
市村 清(いちむら きよし、1900年4月4日 - 1968… 市村 清(いちむら きよし、1900年4月4日 - 1968年12月16日)は、日本の実業家。リコーを中心とする「リコー三愛グループ」の創始者。 「人の行く裏に道あり花の山」を座右の銘とし、常識の裏をかくアイディア社長として一世を風靡した。銀座4丁目交差点に建てた円柱・総ガラス張りの個性的な「三愛ドリームセンター」(1963年完成、2023年解体)も、元々は市村の「お客を動かさず、建物を回して商品の方を動かしてはどうか」との発想に基づくものであった。 産業界・学界で功労者を顕彰する市村賞にその名を遺す。 1900年4月4日、佐賀県三養基郡北茂安村(現在のみやき町)の農家・市村豊吉の長男として生まれる。
嵯峨根 達雄(さがね たつお、1900年(明治33年)4月3… 嵯峨根 達雄(さがね たつお、1900年(明治33年)4月3日 - 1997年4月)は日本の政治家。京都府舞鶴市長(1期)。 京都府舞鶴市出身。1914年(大正3年)高野小学校卒。1918年(大正7年)加佐郡役所に入り、その後愛宕郡役所に転じる。1924年(大正13年)文官普通試験に合格。1926年(大正15年)京都府属となり、地方課に勤務する。1929年(昭和4年)内務属として内務省土木局港湾課に勤務。内務省に勤務しながら法政大学専門部法律科に通い、1934年(昭和9年)卒業。1936年(昭和11年)内務土木事務官、1943年(昭和18年)運輸通信省港湾局に転任する。 1946年(昭和21年)神戸市役所に入り、理事兼港湾部長となる。
松本 春子(まつもと はるこ、1900年〈明治33年〉4月2… 松本 春子(まつもと はるこ、1900年〈明治33年〉4月2日 - 1989年〈平成元年〉6月27日)は、日本の書家。日本のかな文字の第一人者、北海道を代表する仮名作家の1人とされる。毎日書道展名誉会員、創玄書道会名誉会員、藤女子大学教授。旧姓は小川 春子(おがわ はるこ)。 北海道帯広で誕生した。「女性に学問は不要」との考えが根強い時代にあって、進歩的な考えを持つ父のもと、幼少時より読み書きやそろばんを学んだ。特に父は書道に力を入れ、自身が道議会議員を務めたほどの名士だったこともあり、書道用具はすべて本場の中国製の物が揃えられた。これにより春子は小学生の頃、すでに大人顔負けの美しい文字を身につけていた。
石神 甲子郎(いしがみ かしろう、1900年4月1日 - 1… 石神 甲子郎(いしがみ かしろう、1900年4月1日 - 1979年10月7日)は、日本の造園家。行政官として国立公園の指定や国定公園の制定、日本の自然保護において尽力した。日本山岳会会員。静岡県出身。
城戸 武男(きど たけお、1899年〈明治32年〉4月29日… 城戸 武男(きど たけお、1899年〈明治32年〉4月29日 - 1980年〈昭和55年〉5月5日)は、日本の建築家。戦前は表現主義やスパニッシュ風の作品を多く手がけ、戦後は機能主義建築と和風建築で秀作を残す。建築史家の城戸久は弟。 1899年(明治32年)4月29日、三重県阿山郡上野町(現・伊賀市)字忍町12番屋敷に生まれた。城戸操の長男である。 三重県立第三中学校(現・三重県立上野高等学校)を経て、1920年(大正9年)3月に名古屋高等工業学校建築科(現・名古屋工業大学)を卒業した。教授の鈴木禎次に直接薫陶を受け、それが制作への強い源泉になったと回顧している。 卒業後は合名会社竹中工務店に入社し、1920年(大正9年)から1923年(大正12年)には本店設計部、1923年(大正12年)から1933年(昭和8年)には名古屋支店に勤務した。
木村 太郎(きむら たろう、1899年4月29日 - 198… 木村 太郎(きむら たろう、1899年4月29日 - 1989年11月6日)は、日本のフランス文学者、翻訳家、画家、書家。南山大学名誉教授。 父・粂市は実業家、母・いつ(銉次)は永井家の出身で、永井荷風は従兄弟にあたる。叔父の大島久満次は台湾総督府民政長官、神奈川県知事、衆議院議員を歴任。 東京市中央区賽町(京橋)生まれ。1924年東京帝国大学文学部仏文科卒業。日本大学、法政大学、日仏学院などで教えた後、1947年南山外国語専門学校に赴任、南山大学創設に寄与。1971年まで南山大学仏文科教授、文学部長。 1950年、名古屋日仏文化協会を創設。敬虔なカトリック信者で、ジョルジュ・ベルナノス、ポール・ブールジェ(fr:Paul Bourget)などを多数翻訳した。
服部 英太郎(はっとり えいたろう、1899年4月29日-1… 服部 英太郎(はっとり えいたろう、1899年4月29日-1965年12月20日)は、日本のマルクス経済学者。 和歌山県出身。東京帝国大学経済学部卒。東北帝国大学経済学部助教授、1935年教授。42年治安維持法違反容疑で検挙、東京に予防拘禁される。1946年復職。1951年「ドイツ社会政策論史」で東北大学経済学博士。1962年福島大学経済短期大学部学長を兼任、東北大を定年退官、名誉教授。子に服部文男。戦後の社会政策論争で大河内一男の説を批判した。
久松 定武(ひさまつ さだたけ、1899年(明治32年)4月… 久松 定武(ひさまつ さだたけ、1899年(明治32年)4月29日 - 1995年(平成7年)6月7日)は、日本の政治家。愛媛県知事。位階は従三位。勲等は勲二等。爵位は伯爵。 1899年(明治32年)4月29日、伯爵久松定謨の次男として東京府東京市芝区芝栄町(現・東京都港区芝公園)の久松家本邸で生まれる。生家は旧伊予松山藩藩主・久松氏の嫡流である。学習院を経て東京帝国大学経済学部を卒業後、同大学院修了。 1924年(大正13年)に三菱銀行へ入行し、駒込支店や本店の預金係長、板橋支店長代理などを務めた後、1931年(昭和6年)からロンドン支店勤務。1934年(昭和9年)に帰国、1942年(昭和17年)に三菱銀行を退職した。
千田 正(ちだ ただし、1899年4月28日 - 1983年… 千田 正(ちだ ただし、1899年4月28日 - 1983年2月5日)は、日本の政治家、実業家。位階は従三位。勲等は勲一等。学位は商学士(早稲田大学)。金ケ崎町名誉町民。 参議院議員3期(1947年 - 1962年)、岩手県知事4期(1963年 - 1979年)を歴任した。 1899年(明治32年)、岩手県胆沢郡金ケ崎村(現・金ケ崎町)三ケ尻に父・政五郎と母・マサの長男として生まれる。千田家は水沢から三ケ尻に移り住み、北上川の舟運事業を行う地域有数の豪農だった。7歳で父を亡くした千田は、マサと養蚕と雑貨屋を始めた。 1905年(明治38年)、三ヶ尻小学校尋常科入学。1913年(大正2年)、胆沢郡立胆沢農業高等学校(現・岩手県立水沢農業高等学校)に進み、水沢の祖母宅から通った。
山本 敏雄(やままと としお、1899年(明治32年)4月2… 山本 敏雄(やままと としお、1899年(明治32年)4月27日 - 1971年(昭和46年)11月4日)は、日本の政治家。元茨城県水戸市長(5期)。 茨城県出身。1917年、茨城県立水戸中学校卒業。小学校代用教員を経て東京堂に勤務。水戸市会議員から水戸市助役となる。1947年、当時の水戸市長・風戸元愛が公職追放令により市長を辞職。市長選挙に立候補し、当選する。爾来5期20年に亘り市長の座にあった。水戸市から名誉市民を贈られた。
三和 義勇(みわ よしたけ、1899年(明治32年)4月26… 三和 義勇(みわ よしたけ、1899年(明治32年)4月26日 - 1944年(昭和19年)8月2日)は、日本の海軍軍人。海兵48期。最終階級は海軍少将。テニアン島で戦死。 1899年(明治32年)4月26日、岡山県に中学校長も勤めた教育者の息子として生まれる(本籍は岐阜県)。旧制北野中学を経て、1920年(大正9年)7月16日、海軍兵学校48期を171名中31番の席次で卒業、少尉候補生。 1921年(大正10年)6月、少尉任官。1923年(大正12年)6月、霞ヶ浦海軍航空隊に第9期航空術学生として入隊し、1924年(大正13年)5月に卒業。戦闘機搭乗員任命。1925年(大正14年)、霞ヶ浦海軍航空隊分隊長。
山村 久(やまむら ひさし、1899年4月25日 - 198… 山村 久(やまむら ひさし、1899年4月25日 - 1988年12月28日)は、日本の政治家。品川区議会議員(1期)、第4代品川区議会議長、東京都議会議員(7期)、第25代東京都議会議長を歴任した。 1899年4月25日、福井県に生まれる。1933年に金沢医学専門学校(現金沢大学医薬保健学域)卒業。1951年に荏原医師会長となる。また、同年から品川区議会議員を1期4年務める。この間、第4代品川区議会議長(1952年6月11日から1953年10月4日)を務めた。1955年、東京都議会議員選挙に品川区選挙区から立候補して、初当選する。その後、港湾委員会委員長(1956年)を務めた。1958年5月1日に衆議院選挙に立候補するため都議会議員を辞職した。
山本 利三郎(やまもと りさぶろう、1899年4月25日 -… 山本 利三郎(やまもと りさぶろう、1899年4月25日 - 1982年5月30日)は、日本の鉄道技術者。 東京急行電鉄(大東急)から分離した後の小田急電鉄に取締役運輸担当として就任し、同社3000形電車(SE車)の開発に尽力した。また、その後の小田急電鉄の車両における思想に影響を残した。 大阪府大阪市南区(現在の天王寺区)上汐に生まれる。旧制第四高等学校を経て、1924年3月に九州帝国大学工学部電気工学科を卒業し、鉄道省に入省。 鉄道省では電気局に配属となり、1931年までに品川電車庫、田町機関庫、東京機関庫、蒲田電車庫、国府津機関庫などの現業機関を経験する。田町機関庫では導入されたばかりのイギリス製電気機関車に故障が多く苦労したという。
小保内 虎夫(おぼない とらお、1899年4月25日 - 1… 小保内 虎夫(おぼない とらお、1899年4月25日 - 1968年12月21日)は、日本の心理学者。 岩手県二戸郡福岡町(現在の二戸市)出身。旧制福島中学、旧制第七高等学校造士館を経て、1924年東京帝国大学文学部心理学科卒業。東京高等学校教授、日本大学教授、1945年東京文理科大学教授、1949年東京教育大学教授、1963年日本大学文理学部教授を歴任。 1952年「認識錯誤の法則に関する研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。視知覚の研究で小保内学説と呼ばれる感応理論を創設。
古村敏章(こむら としあき、1899年〈明治32年〉4月24… 古村敏章(こむら としあき、1899年〈明治32年〉4月24日 - 2000年〈平成12年〉1月1日)は、日本の実業家。位階は正六位。 長野県上伊那郡朝日村(現辰野町)出身。長野県諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。1931年丸興製糸(後の丸興工業)の創業に関わり、常任監査就任。専務を経て、1955年社長に就任。1962年長野県撚糸工業組合理事長。1964年市立岡谷蚕糸博物館初代館長。2000年死去。死没日付をもって正六位に叙された。
代田 稔(しろた みのる、1899年〈明治32年〉4月23日… 代田 稔(しろた みのる、1899年〈明治32年〉4月23日 - 1982年〈昭和57年〉3月10日)は、日本の医学博士、実業家。ヤクルトの開発者で実質的な創業者。長野県下伊那郡竜丘村(現:飯田市)出身。 貧しい人でも健康を手に入れられるよう「ハガキ1枚煙草1本の値段で買えるヤクルト」を経営標語とし、「健腸長寿」を理念とした。 「ヤクルトの父 代田稔物語」という伝記漫画が2004年の小学館『小学三年生』四月号に掲載され、2015年4月からはヤクルト80周年記念サイトにて配信されている(原案:久保田千太郎 漫画:ながいのりあき) 正五位、勲三等瑞宝章を受章。
水野 浩(みずの ひろし、1899年4月23日 - 1970… 水野 浩(みずの ひろし、1899年4月23日 - 1970年3月22日[要出典])は、日本の俳優である。本名は水野 浩一(みずの こういち)。青年期の舞台俳優から映画俳優に転向、老年期まで脇役に徹したことで知られる。 1899年(明治32年)4月23日、兵庫県神戸市に生まれる。 旧制・兵庫県第二神戸中学校(通称神戸二中、現在の兵庫県立兵庫高等学校)を卒業し、演劇を志して、佐藤紅緑が1915年(大正4年)に起こした劇団「日本座」に参加、その後、喜劇や歌劇(オペラ)、剣劇等の劇団を渡り歩く。満30歳を迎える1929年(昭和4年)、京都の松竹下加茂撮影所に入社、舞台俳優から映画俳優に転向する。その後、月形龍之介の月形プロダクション、尾上菊太郎の尾上菊太郎プロダクションに移籍したというが、出演記録は不明である。
倉島 丹浪(くらしま たんろう、1899年(明治32年)4月… 倉島 丹浪(くらしま たんろう、1899年(明治32年)4月22日 - 1992年(平成4年)12月23日)は、日本画家。河童の絵を多く手掛けた。 長野県埴科郡倉科村(現・千曲市)生まれ。旧制長野中学に進む。1921年(大正10年)、上京し、本郷絵画研究所に学び、橋本静水に師事。1926年(大正15年)、横山大観に入門。1930年(昭和5年)、野木逸子と結婚。「八代宗彦」の名で漫画家として活躍。戦後、屋代町(現・千曲市屋代)の芸術家集団白炎社設立に参加。1969年(昭和44年)、創作画協会の設立に尽力、特別理事に就任。1974年(昭和49年)、紺綬褒章受章。1980年(昭和55年)、更埴市長表彰。
水谷 一生(みずたに かずお、1899年(明治32年)4月2… 水谷 一生(みずたに かずお、1899年(明治32年)4月22日 - 1949年(昭和24年)11月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 三重県出身。農業・水谷専松の長男として生まれる。富田中学校を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第51連隊付となる。陸士付などを経て、1934年(昭和9年)8月から1937年(昭和12年)1月まで秩父宮雍仁親王付武官を務める。その後、陸士教官となり、1937年8月、歩兵少佐に昇進し、1938年(昭和13年)5月まで陸軍大学校で専科学生(5期)として学ぶ。同年5月、第16師団参謀に就任し、参謀本部員(大本営研究班)を経て、1940年(昭和15年)8月、歩兵中佐に進級。
正宗 厳敬(まさむね げんけい、1899年(明治32年)4月… 正宗 厳敬(まさむね げんけい、1899年(明治32年)4月22日 - 1993年(平成5年)6月18日)は、日本の植物学者。理学博士。 岡山県和気郡伊里村穂浪(現在の備前市穂浪)に生まれる。旧制第七高等学校を経て、1929年(昭和4年)、東京帝国大学理学部植物学科を卒業後、台北帝国大学理農学部助手となり、1934年(昭和9年)には同大助教授兼農林専門部教授となった。太平洋戦争後は、一時、横浜国立大学で勤務した後、1950年(昭和25年)金沢大学に赴任。金沢大学理学部(現・金沢大学理工学域)植物分類・地理学講座の初代教授を務めた。 ボルネオと台湾の植物誌の編纂、ラン科植物の分類などを行うと同時に、植物地理学的な研究も行った。
中西 其十(なかにし きじゅう、1899年(明治32年)4月… 中西 其十(なかにし きじゅう、1899年(明治32年)4月21日 - 1922年(大正11年)1月18日)は、京都府出身の俳人。京大三高俳句会設立会員、「京鹿子」創刊同人。本名、喜重郎。 京都府船井郡檜山村(ひのきやまむら)字八田第三番戸(現・船井郡京丹波町八田)に生まれる。父母の名は現在のところ不明。 1916年(大正5年)、同志社中学3年に中途編入。中学では小西米太という親友を得、島崎藤村の詩や古人の俳句について語り合い、また、芝居や浄瑠璃へも共に行った。 1919年(大正8年)3月、同志社中学校卒業。米太と共に、本格的に俳句を書き始める。当初の俳号は喜郎や西郎、坡十など。三高入学後に其十と名乗った。
岡安 彦三郎(おかやす ひこさぶろう、1899年4月20日 … 岡安 彦三郎(おかやす ひこさぶろう、1899年4月20日 - 1982年9月14日)は、日本の地方公務員。東京都副知事を務めた。 岡安六郎の五男として埼玉県に生まれる。父・六郎が生命保険会社の福岡支店長を務めていたため福岡市で育つ。1917年福岡県立中学修猷館、第五高等学校を経て、1925年京都帝国大学法学部法律学科を卒業。 東京市役所に入り、財務局地理課庶務掛長、同地理課長、経済局庶務課長、市長室企画部予算課長、1943年7月に東京市と東京府が廃止され東京都となると、その都長官官房用度課長、1946年5月日本橋区長、財務課長、財務部長、財務局長を歴任した後、1949年12月、東京都副知事に就任。
坂口 主税(さかぐち ちから、1899年(明治32年)4月2… 坂口 主税(さかぐち ちから、1899年(明治32年)4月20日 - 1981年(昭和56年)4月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、熊本市長(2期)を歴任した。 熊本県玉名郡賢木村(現・南関町)出身。1917年(大正6年)熊本県立玉名中学校、旧制第五高等学校を経て、1923年(大正12年)東京帝国大学法学部政治学科卒業。台湾総督府に入り、高雄、台北の各州の知事などを務め、台湾新報社社長に就任する。 帰国後、郷里の賢木村長に就任。1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙に旧熊本1区(定数5)から民主党公認で立候補し、初当選した。1949年(昭和24年)に再選。1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙の旧熊本1区では改進党は坂口を含め5人の候補者を擁立。
武智 馨(たけち かおる、1899年4月20日 - 1987… 武智 馨(たけち かおる、1899年4月20日 - 1987年12月3日)は、日本の機械工学者。大阪工業大学名誉教授。工学博士(名古屋大学)。元広海軍工廠鋳物実験部長・海軍技術者。日本鋳造協会関西支部元顧問。鋳物工学研究の第一人者の一人。 専門は、鋳造工学・鋳物工学。 1899年愛媛県松山市生まれ。1923年京都帝国大学工学部機械工学科卒業。広海軍工廠・横須賀海軍工廠などで、鋳物砂の調査に携わる。1935年ドイツ留学(技術監督官)、国際鋳物会議へ出席。1940年広海軍工廠鋳物実験部所長、戦艦のプロペラ鋳造に従事。1944年東京軍儒省鋳造技術指導班班長(第1級鋳物工場の技術指導)を経て、広海軍工廠素材部長兼鋳物実験部長。
高岡 忠弘(たかおか ただひろ、1899年(明治32年)4月… 高岡 忠弘(たかおか ただひろ、1899年(明治32年)4月20日 - 1972年(昭和47年)10月23日)は、昭和期の林業指導者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県中蒲原郡十全村長、同村松町長。 新潟県中蒲原郡十全村別所(村松町別所を経て現五泉市)で、高岡忠興の長男として生まれる。1922年(大正11年)家督を相続。1924年(大正13年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。農業を営む。 新潟県森林組合連合会長、同林業団体連絡協議会長、新潟木工 (有)専務取締役、北日本航空工業取締役社長、北越木材工業取締役社長などを務めた。 政界では、十全村長、新潟県会議員、同参事会員、大政翼賛会新潟県支部参与、新潟県社会教育委員長などを務めた。
山本 政喜(やまもと まさき、1899年〈明治32年〉4月2… 山本 政喜(やまもと まさき、1899年〈明治32年〉4月20日 - 1960年〈昭和35年〉4月7日)は、日本の英文学者・翻訳家。筆名・柾 不二夫(まさき ふじお)。息子にロシア文学者の川端香男里、娘に美術史家の若桑みどりがいる。 福岡県嘉穂郡幸袋町(現・飯塚市)出身。山本荒吉の四男。旧制第一高等学校を経て、1924年に東京帝国大学文学部英文学科を卒業。卒業後4年間滿洲において兵役を務め、その後、中等学校教員、講座編集のほか、雑誌寄稿、翻訳書等の出版に従事。1929年ごろから、「柾不二夫」のペンネームで『戦旗』『ナップ』にアメリカの左翼活動記事を翻訳紹介した。1932年、プロレタリア科学研究所マルクス主義芸術学研究会同人となった。
辻 兵太郎(つじ ひょうたろう、1899年(明治32年)4月… 辻 兵太郎(つじ ひょうたろう、1899年(明治32年)4月18日 - 1954年(昭和29年)6月24日)は、日本の政治家(秋田市会議員、同副議長)、商人(呉服商、秋田県呉服太物商組合長)、実業家。秋田土地社長。辻代表。秋田商工会議所副会頭。 秋田県・辻兵吉の長男。辻吟次郎の甥。1917年、秋田中学卒業。1919年、志願兵として入営し、陸軍中尉に進級した。呉服商を営み傍ら会社の重役であった。秋田市会議員に推され、1942年7月13日、副議長(第18代)に就任し、1945年3月10日、退任した。 趣味は囲碁、運動。宗教は浄土真宗。秋田県在籍。住所は秋田市大町、東京市麹町区永田町。