原 亨吉(はら こうきち、1918年6月21日 - 2012… 原 亨吉(はら こうきち、1918年6月21日 - 2012年3月20日)は、日本の数学史家、フランス文学者、翻訳家。大阪大学名誉教授。 フランス科学思想史、近世ヨーロッパ数学史を専攻し、ルネ・デカルト、ケプラー、ホイヘンス、ロベルヴァル、ライプニッツを軸に研究論文・翻訳を行い、フランス語教育にも長くたずさわった。若き日はスタンダール、アラン、ヴァレリーらの翻訳も行った。 京都市出身。姫路市に育つ。第一高等学校理科乙類を経て、1938年京都帝国大学哲学科入学、1940年退学し1942年東京帝国大学仏文科卒業。1942年入営し少尉で敗戦、1945年8月20日中尉(いわゆるポツダム中尉)で除隊、1947年同志社女子専門学校教授、1949年関東学院大学経済学部助教授。
田村 耕一(たむら こういち 1918年(大正7年)6月21… 田村 耕一(たむら こういち 1918年(大正7年)6月21日 - 1987年(昭和62年)1月3日)は、日本の陶芸家。1986年(昭和61年)に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。 栃木県佐野市富岡町出身。昭和16年(1941年)東京美術学校工芸科図案部を卒業し、大阪府下で楽焼を学ぶが翌年応召する。戦後の昭和20年(1945年)京都市の松風工業株式会社松風研究所に入所して陶磁器の本格的研究を開始し、富本憲吉に師事した。昭和23年(1948年)栃木県佐野市へ帰り、赤見窯の築窯に加わる。翌年新匠工芸会展に出品、昭和25年(1950年)には濱田庄司の勧めで「栃木県窯業指導所」(現在の「栃木県産業技術センター 窯業技術支援センター」)技官となり、ココ工芸の結成に参加、のち生活工芸集団結成に加わった。
高橋 晄正(たかはし こうせい、1918年6月20日 - 2… 高橋 晄正(たかはし こうせい、1918年6月20日 - 2004年11月3日)は、日本の医師。 秋田県仙北郡西木村(現仙北市)生まれ。1936年(昭和11年)旧制秋田県立角舘中學校を卒業し1941年(昭和16年)東京帝國大學医学部を卒業する。その後物療内科に入局し増山元三郎に推計学を紹介される。 漢方医学(鍼、経絡など伝統中国医学全般)を研究し、1966年(昭和41年)『漢方の認識』(NHKブックス)を出版。その後 論文「西洋医学と東洋医学-科学論の立場から-」(『保健の科学』 37(1):4-、1995年(平成7年))や著作『漢方薬Q&A』(1990年、『漢方薬は危ない』、『漢方薬は効かない』などで伝統中国医学及び漢方薬(副作用)を批判した。
迫 幸一(さこ こういち、1918年6月20日 - 2010… 迫 幸一(さこ こういち、1918年6月20日 - 2010年10月29日)は、日本の写真家。 1918年(大正7年)、広島県呉市吉浦町に生まれる。1938年(昭和13年)、広島県立広島工業学校(現・広島県立広島工業高等学校)機械科を卒業した。1945年(昭和20年)、東洋工業勤務当時に広島市内で入市被爆する。 1952年(昭和27年)、『アサヒカメラ』に年間初入選する。1954年(昭和29年)には二科展に初めて入選し、以降も連続して入選した。1955年(昭和30年)、西ドイツの「国際主観写真展」に出品。 1957年(昭和32年)、オランダ美術館の「世界写真展」に出品する。1959年(昭和34年)にはニューヨーク近代美術館に出品後、5点が同館の永久保存対象となった。
大内 力(おおうち つとむ、1918年6月19日 - 200… 大内 力(おおうち つとむ、1918年6月19日 - 2009年4月18日)は、日本の経済学者。専門は、経済理論・経済政策。学位は、経済学博士(東京大学・1961年)。東京大学名誉教授、信州大学名誉教授。日本学士院会員。勲等は勲二等。 財団法人日本農業研究所研究員、東京大学社会科学研究所助教授、東京大学経済学部教授、東京大学経済学部学部長、東京大学総長特別補佐、信州大学教授、大東文化大学教授、全国大学生活協同組合連合会会長などを歴任。 東京府出身の経済学者である。マルクス経済学の経済理論、経済政策を専攻し、宇野弘蔵理論の立場から日本の農業問題を研究。また近代経済学の成果を柔軟に取り入れ、1970年の『国家独占資本主義』では、宇野理論における現状分析として、管理通貨体制下における金融政策(インフレ政策)による賃金上昇抑制と、それによる恐慌への対処を現代国家の本質的機能であるとした。
浜田 到(はまだ いたる、1918年6月19日 - 1968… 浜田 到(はまだ いたる、1918年6月19日 - 1968年4月30日)は、日本の歌人、詩人、医師。ロサンゼルス出身。 1912年、農園を経営していた両親が移住していたロサンゼルスに生まれ、4歳のとき帰国。両親の出身地である鹿児島県国分市(現・霧島市)に育つ。鹿児島県立第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)在学中に短歌を始め、旧制姫路高等学校、旧制岡山医科大学を卒業。 1935年に、一中の教員であった安田尚義が主宰する潮音系短歌雑誌『山茶花』に短歌作品を発表。異色ある作品として注目される。以後、『歌宴』『工人』を経由。 1944年に岡山医科大学卒業後、鹿児島市内の済生会病院に勤務(内科医)。 1951年、中井英夫に見出され『短歌研究』8月号の「モダニズム短歌特集」に塚本邦雄らとともに寄稿、1960年には塚本邦雄、寺山修司、山中智恵子、菱川善夫らとともに同人誌「極」に参加。
神田 慶也(かんだ よしや、1918年6月18日 - 201… 神田 慶也(かんだ よしや、1918年6月18日 - 2011年3月3日)は、日本の化学者。専門は分子分光学。九州大学総長や九州産業大学学長を務めた。 第五高等学校理科甲類を経て(1939年(昭和14年)卒業)、九州帝国大学理学部を卒業する。 1942年(昭和17年)より、母校の九州帝国大学理学部助手となり、助教授を経て教授に昇進、理学部長などを歴任後、1978年11月から3年間九州大学総長を務めた。その後、九州産業大学で学長を務めていた。 1994年、勲二等旭日重光章を受章。2011年3月3日、肺炎のため死去。 門下生に島田良一がいる。
村松 定孝(むらまつ さだたか、1918年6月17日 - 2… 村松 定孝(むらまつ さだたか、1918年6月17日 - 2007年10月5日)は、日本の国文学者。上智大学名誉教授。専門は近代文学。長男は名城大学人間学部教授の村松定史。 山梨県西八代郡市川大門町(現在の市川三郷町)生まれ。1941年、早稲田大学国文科卒。泉鏡花に心酔し、卒業論文の段階から鏡花本人を訪ね、親しく話を聞いた。戦争をはさんで、1949年、早稲田大学大学院博士課程修了、獨協学園高校教諭、1957年昭和女子大学講師、1960年助教授、教授を経て、1968年、上智大学教授、1989年に定年退職。 鏡花研究の権威で、その著書『泉鏡花』は何度も改訂再版されている。ほかに樋口一葉など女性作家も扱い、実証的な手法での研究で知られる。
河嶋 勝二(かわしま かつじ、1918年6月15日 - 19… 河嶋 勝二(かわしま かつじ、1918年6月15日 - 1995年4月8日)は、日本の経営者。ブラザー工業社長、会長を務めた。石川県出身。 1939年に大分高等商業学校を卒業し、1946年10月にブラザーミシン販売に入社。 1954年6月にブラザー工業に転じ、1969年7月に取締役に就任し、1975年1月に常務、1977年2月に専務を経て、1981年2月には社長に就任。1989年2月に会長に就任。 1982年11月に藍綬褒章を受章し、1988年11月に勲三等旭日中綬章を受章。。 1995年4月8日腎不全のために死去。76歳没。
津田 秀夫(つだ ひでお、1918年6月15日 - 1992… 津田 秀夫(つだ ひでお、1918年6月15日 - 1992年11月15日)は、日本の歴史学者。東京教育大学名誉教授。専攻は近世史で、社会経済史、教育史などの分野にもとりくんだ。 1918年、大阪府西成郡今宮町(現・大阪市西成区)で生まれた。1942年、東京文理科大学を卒業。 卒業後は、岐阜県中津農林学校教諭となったが、入営・召集のため休職し、1946年に復員。 戦後は大阪第一師範学校勤務した。1949年の学制改革で師範学校が大阪学芸大学となると同校講師となった。東京教育大学講師を経て、1953年より東京教育大学助教授。1962年、学位論文『封建経済政策の展開と市場構造』を東京教育大学に提出して文学博士号を取得。
戸井田 三郎(といだ さぶろう、1918年6月12日 - 1… 戸井田 三郎(といだ さぶろう、1918年6月12日 - 1996年10月13日)は、日本の政治家。衆議院議員。長男は元衆議院議員の戸井田徹。東京都出身。従三位勲一等瑞宝章。
山本 進(やまもと すすむ、1918年6月12日 - )は、… 山本 進(やまもと すすむ、1918年6月12日 - )は、日本のジャーナリスト、国際政治学者。 横浜市生まれ。1942年東京帝国大学経済学部卒、毎日新聞社に入り北米、南米特派員をへて経済部副部長を務めた。武蔵大学講師。
篠崎 年子(しのざき としこ、旧姓:村田、1918年6月12… 篠崎 年子(しのざき としこ、旧姓:村田、1918年6月12日 - 2017年10月6日)は、日本の政治家。元参議院議員(1期)。元長崎県議会議員(1期)。 長崎県佐世保市生まれ。1931年(昭和6年)、佐世保市立大久保小学校卒業、1935年(昭和10年)、佐世保高等女学校卒業後、教職をめざし、長崎県女子師範学校入学。1937年(昭和12年)に卒業後、佐世保市立吉井南小学校、佐世保市立白南風小学校、佐世保市立光園小学校(現在の佐世保市立祇園小学校)、佐世保市立大久保小学校などで勤務。1941年(昭和16年)、教師と結婚。夫の校長就任と同時に退職。その後、夫が49歳で死去したため、1963年(昭和38年)、復職した。
荒川 久壽男(あらかわ くすお、1918年〈大正7年〉6月1… 荒川 久壽男(あらかわ くすお、1918年〈大正7年〉6月11日 - 1986年〈昭和61年〉12月31日)は、日本の歴史学者。元皇學館大学教授。 大正7年(1918年)6月、茨城県に生まれる。茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)、水戸高等学校を経て、昭和16年(1941年)3月に東京帝国大学文学部国史学科を卒業する。直ちに同大学の副手となる。1942年1月、海軍教授となり、土浦市地域と三重県内の海軍航空隊で教鞭をとった。 戦後は1947年(昭和22年)4月より茨城県日立市立中学校(現在の茨城県立日立工業高等学校)教諭、1948年7月より茨城県立水海道第一高等学校教諭、1958年4月より茨城県立水戸第二高等学校教諭、1964年4月より皇學館大学助教授、1968年より同大学教授にそれぞれ就任した。
河崎 晃夫(かわさき てるお、1918年6月11日 - 20… 河崎 晃夫(かわさき てるお、1918年6月11日 - 2000年7月7日)は、日本の経営者。三菱レイヨン社長を務めた。 大阪府大阪市出身。1943年に慶應義塾大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本化成工業に入社。1971年11月に三菱レイヨン取締役に就任し、1975年5月に常務、1979年6月に専務を経て、1982年6月に副社長に就任し、1983年6月には社長に就任。1988年6月に会長に就任し、1993年6月から相談役を務めた。 1992年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2000年7月7日肝不全のために死去。82歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
西野 一夫(にしの かずお、1918年6月10日 - 200… 西野 一夫(にしの かずお、1918年6月10日 - 2005年2月24日)は、元・東宝代表取締役副社長、芸苑社、東宝映像美術初代代表取締役社長。岡山県生まれの熊本県熊本市育ち。東京都港区南青山在住。 1936年4月から東京芦田工業所勤務。1938年に中央大学専門部経済学科中退と同時に東宝に入社。1948年11月、撮影所製作会計課長、1955年9月20日、撮影所製作部長、1960年7月、東京映画出向、撮影所支配人。 1969年3月25日に東宝撮影所支配人・東宝取締役に昇進し、1970年3月31日には馬渕威雄副社長の命で東宝美術代表取締役社長となる。その後、1974年8月22日に東宝常務取締役、1977年5月25日に東宝専務取締役を経て、1987年10月に亡くなった佐藤一郎に代わって芸苑社代表取締役社長となり、1988年には東宝映像、東宝美術が合併し東宝映像美術初代代表取締役社長となる。
鶴見 和子(つるみ かずこ、1918年(大正7年)6月10日… 鶴見 和子(つるみ かずこ、1918年(大正7年)6月10日 - 2006年(平成18年)7月31日)は、日本の社会学者、環境思想家。上智大学名誉教授。国際関係論などを講じたが、専攻は比較社会学。南方熊楠や柳田國男の研究などでも知られる。 1918年6月10日、東京府麻布区で、父・祐輔と母・愛子(後藤新平の娘)の間に、4人きょうだいの1番目(長女)として生まれる。 牛込成城小学校から1927年4月に砧の成城学園に移り、1929年4月に女子学習院5年へ転校。1934年頃から、父と親交のあった河合栄治郎の「国家権力に対する言論闘争」に共感、影響を受ける。1936年3月、女子学習院を卒業し、同年4月、津田英学塾へ進学。
川端 佳夫(かわばた よしお、1918年6月8日 - 196… 川端 佳夫(かわばた よしお、1918年6月8日 - 1968年1月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県出身。1940年青山学院文学部卒。卒業後は読売新聞記者となり、厚生省嘱託、農相秘書官となる。岩崎澱粉化学工業、内外自動車各(株)取締役、東海養魚(株)社長を務める。 1949年の第24回衆議院議員総選挙では愛媛1区から民主自由党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。この間、民主自由党情報部副部長、自由党人事、遊説の各副部長となった。1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して落選。1953年の第26回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。 このほか東京馬主協会会長にもなった。
小畑 実(おばた みのる、1918年6月7日 - 1986年… 小畑 実(おばた みのる、1918年6月7日 - 1986年5月1日)は、日本の元サッカー選手、元サッカー指導者。広島県出身。慶應義塾大学卒。 元日本代表FW。元東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)監督、元同チーム総監督。 1936年(昭和11年)、広島一中(現広島国泰寺高校)が全国中等学校蹴球選手権大会(現全国高校サッカー選手権)で初優勝を果たした時の左インナー(FW)。1937年(昭和12年)卒業。同年度卒に、久保道正(第一産業創業者)、藤田一暁(フジタ社長)、頼實正弘(広島大学学長)などがいる。 二宮洋一、津田幸男らとともに、戦前の慶應義塾大学体育会ソッカー部黄金時代の左インサイドとして活躍した。
林 知己夫(はやし ちきお、1918年6月7日 - 2002… 林 知己夫(はやし ちきお、1918年6月7日 - 2002年8月6日)は、日本の統計学者。正四位勲二等理学博士。
金子 正且(かねこ まさかつ、1918年6月7日 - 200… 金子 正且(かねこ まさかつ、1918年6月7日 - 2007年11月21日)は、日本の映画プロデューサー。群馬県出身。 1946年に京都帝国大学卒業と同時に東宝撮影所へ入社。戦争中は一度退社し、宇部興産(現・UBE)に勤務する。戦後再び東宝に入社するが、東宝争議で藤本真澄とともに再び退社し、藤本プロを経て1957年に東宝へ契約者として三たび入社し、並木透の名前で原作や脚本を手掛けた。しかし藤本の死で独立し、銀座の名画座「並木座」の代表取締役、ヨコハマ映画祭の審査委員長を務めた。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
犀川 一夫(さいかわ かずお、1918年6月7日 - 200… 犀川 一夫(さいかわ かずお、1918年6月7日 - 2007年7月30日)はハンセン病治療に貢献した日本の医師。プロミンを日本で最初に使用した医師の一人。ハンセン病が治る時代になり、通院治療を主張し、恩師光田健輔に反抗し、台湾で活躍した。後、沖縄愛楽園園長、沖縄県ハンセン病予防協会理事長、らい予防法裁判でも活躍した。 1918年、東京に生まれる。1944年6月、長島愛生園医療事務取扱となり、同年9月、東京慈恵会医科大学卒。召集され東部第24部隊に入営し、1944年12月、陸軍軍医中尉に任官し、日中戦争に従軍。1946年6月、復員し、愛生園に復帰して技官・外科医長を務めた。愛生園では、らいの病理学、プロミンの治験に従事。
朴 基玎(パク・キジョン、朝鮮語: 박기정、1918年6月7… 朴 基玎(パク・キジョン、朝鮮語: 박기정、1918年6月7日 - 1993年5月9日)は、大韓民国の教員、政治家。第2代慶尚南道議会(朝鮮語版)議員、第5代韓国国会議員を歴任した。 東萊公立高等普通学校(現・東萊高等学校(朝鮮語版))、明治大学専門部法科卒。国民学校(現・初等学校)教員、昌寧公立初級中学校及び改編後の霊山中学校(朝鮮語版)教員、醸造業経営を経て、第2代慶尚南道議会議員を務めた。1960年の第5代総選挙では昌寧郡選挙区から民主党所属で出馬して当選し、国会議員を1期務めた。なお、開票中盤には対立候補の自由党の辛泳柱(朝鮮語版)の先行を許さない昌寧郡民が投票箱に火をつけ、辛陣営の運動員と乱闘した末、辛候補を捕まって「郡民裁判」を行ったという前代未聞の騒乱事件が発生した。
尾崎 盛光(おざき もりてる、1918年6月6日 - 198… 尾崎 盛光(おざき もりてる、1918年6月6日 - 1980年6月3日)は、日本の文筆家。東京大学文学部事務長を務めた。 尾崎三良の五男尾崎繁盛の子として東京府三鷹に生まれる。 1930年、横浜市立商業学校へ入学するも同年中途退学。1931年、旧制鎌倉中学二年へ編入学。1939年、松本高等学校文科甲類在学中に治安維持法違反の疑いで拘留される。1942年、東京帝国大学文学部社会学科を卒業する。 池貝自動車(現在の小松製作所)労務課に勤務するが、1947年に肺結核で退職する。胸部形成手術を受け、農耕、養鶏、子供の受験指導などで生計を立てる。 1955年、日高六郎の推薦で東京大学文学部事務室に勤務、1961年に事務長。
山脇 百合子(やまわき ゆりこ、1918年6月5日 - 20… 山脇 百合子(やまわき ゆりこ、1918年6月5日 - 2019年1月31日)は、英文学者、実践女子大学名誉教授。 東京で童話作家・横山寿篤、横山美智子の長女として生まれる。1936年3月に女子学院卒業、1940年3月に東京女子大学英文科卒業、1942年3月に早稲田大学英文科業卒。早稲田大学文学部大学院に1年間在籍。1944年4月に啓明学園女学校で英語教師になった後の同年10月から1947年4月まで朝日新聞東京本社に勤める。英国文化振興会の奨学金を利用して1952年7月から1953年10月までリヴァプール大学大学院に留学。 1954年4月、東京女子大学講師。 1957年4月、女子美術大学講師。 1958年4月、実践女子学園短期大学講師。
吉川 悦次(よしかわ えつじ、1918年(大正7年)6月5日… 吉川 悦次(よしかわ えつじ、1918年(大正7年)6月5日 - 1993年7月21日)は、日本の政治家。大阪府大阪狭山市長(8期)。 大阪府南河内郡狭山村(のち狭山町、現・大阪狭山市)出身。1935年(昭和10年)狭山高等小学校卒業。1951年(昭和26年)狭山村役場に入り、土木建設、厚生衛生、水道の各課長などを経て、1962年(昭和37年)9月、狭山町長に当選する。 町長在任中に役場新庁舎、町立公民館・図書館・総合体育館などが完成し、町の人口は増えて、6期目の1985年(昭和60年)には5万人を突破した。7期目の1987年(昭和62年)に狭山町は市制施行し、「大阪狭山市」となり、初代市長に就任した。
田川 誠一(たがわ せいいち、1918年6月4日 - 200… 田川 誠一(たがわ せいいち、1918年6月4日 - 2009年8月7日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(11期)。新自由クラブ代表(2代)、進歩党代表。元神奈川県議会議員田川誠治の長男。リベラル派、進歩主義派の代表的な政治家だった。 神奈川県横須賀市出身。田川家は大地主の家系。横浜商業学校(現・横浜市立横浜商業高等学校)を経て、1941年12月慶應義塾大学法学部政治学科卒業。朝日新聞社に入社したが、翌年に陸軍・近衛歩兵第5連隊補充隊(東部第8連隊)に入営した。復員後は朝日新聞社に復職し、通信部及び政経部記者、同社労組委員長等を務める。退社後、松村謙三衆議院議員(元文部大臣)秘書を経て、1960年の第29回衆議院議員総選挙に初当選。
奥田 直榮(おくだ なおしげ、 1918年6月3日 – 19… 奥田 直榮(おくだ なおしげ、 1918年6月3日 – 1988年10月20日)は、日本の考古学者。 子爵奥田直久の長男として生まれる。1931年、 学習院初等科を卒業し、東京高等学校に進学。山内清男らから考古学を学ぶようになる。満洲帝国国務院大陸科学院ハルビン分院に勤務。戦後は、根津美術館に勤務しつつ、学習院大学輔仁会史学部で後進の指導に当たる。1957年に江ヶ崎城跡の発掘調査に携わったことをきっかけに、中世考古学、城郭史研究を主とした研究テーマにするようになる。
渡辺 晶一郎(わたなべ しょういちろう、1918年6月3日 … 渡辺 晶一郎(わたなべ しょういちろう、1918年6月3日 - )は、日本のアマチュアレスリング選手、指導者。拓殖大学レスリング部創設者。 広島県高田郡向原町(現安芸高田市)出身。拓殖大学在学中の1938年、レスリング部を同好会として創部。1940年、同レスリング部は正式に部に昇格した。戦後は郷里・向原中学教諭に奉職。自ら現役選手として毎年国体の広島県チームの一員として活躍。また向原中学を始め、教え子たちが創部した広島県立向原高校や広島県立白木高校などを指導した。特に向原高校レスリング部は戦後の広島高校レスリングをリード、他校にレスリング部創設を促した。グレコローマン・ライトヘビー級で1964年東京オリンピックに出場した中浦章らが教え子。
井上 康弘(いのうえ やすひろ、1918年6月2日 - 没年… 井上 康弘(いのうえ やすひろ、1918年6月2日 - 没年不明)は、熊本県出身のプロ野球選手。
相見 志郎(あいみ しろう、1918年6月1日 - 2014… 相見 志郎(あいみ しろう、1918年6月1日 - 2014年6月26日)は、日本の経済学者。同志社大学経済学部名誉教授。夫人は作家の相見とし子(1925 - 2005年)。プロ写真家であった長男、相見明は1981年にアメリカで不慮の事故死。 作詞家もず唱平の目にとまり、作曲家の山上敏が演歌に仕上げた。 相見志郎は島倉千代子の大ファンの一人である。
李 政烋(イ・ジョンヒュ、朝鮮語: 이정휴、1918年6月1… 李 政烋(イ・ジョンヒュ、朝鮮語: 이정휴、1918年6月1日 - 1996年9月6日または1999年9月6日)は、大韓民国の実業家、政治家。第3・4代韓国国会議員。 漢字表記は李正烋とも。号は鳳剛(ポンガン、봉강)。 日本統治時代の全羅南道光山郡(現・光州広域市)出身。法政大学専門部法科卒。大韓青年団全羅南道組織部長・総務部長、国民会光山郡支部長・光山郡支部委員長、光州産業株式会社常務取締役、自由党光山甲区党委員長・中央委員、国会国防分科委員を務めた。 1996年9月6日に死去。享年78。 1955年11月の第3代国会議員在任中、同年春に10万ファンの無取引小切手を発行した疑いで「詐欺罪」の被告として告訴された。
織田 重治(おだ しげはる、1917年(大正6年)6月29日… 織田 重治(おだ しげはる、1917年(大正6年)6月29日 - 1995年(平成7年))は、大阪通管工業所の創業者で、アマチュアの古代史研究家。フィギュアスケート選手・織田信成の祖父。 兵庫県神戸市生まれ。1966年(昭和41年)家庭用下水配管の洗浄業を大阪市浪速区桜川で個人経営として創業。1968年(昭和43年)4月、家庭用下水配管の洗浄業を有限会社大阪通管工業所に改組する。 1983年(昭和58年)大阪医科大学の解剖学実習のための献体組織「さつき会」の初代会長となる。1985年(昭和60年)3月、「好太王碑文」の改竄説否定と碑文の再解析のために、古田武彦に従い藤田友治ら21名と訪中して「好太王碑」の現地調査を行う。
福地 重孝(ふくち しげたか、1917年 6月28日- 19… 福地 重孝(ふくち しげたか、1917年 6月28日- 1994年)は、日本の歴史学者。日本大学名誉教授、学位は文学博士。 茨城県生まれ。1947年東京文理科大学史学科卒。1962年3月27日東京教育大学より「日本近代史上における士族と士族意識に関する研究」にて博士号取得。東京教育大学講師を経て日本大学史学科教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
山川 鴻三(やまかわ こうぞう、1917年6月26日 - 2… 山川 鴻三(やまかわ こうぞう、1917年6月26日 - 2009年4月25日)は、日本の英文学者。大阪大学名誉教授。 三重県生まれ。京都帝国大学文学部英文科卒。京都工芸繊維大学助教授、1960年大阪大学文学部助教授、68年「近代英文学における批評の伝統」で大阪大学文学博士。74年教授、81年定年退官、名誉教授、佛教大学教授。
清宮 質文(せいみや なおぶみ、1917年〈大正6年〉6月2… 清宮 質文(せいみや なおぶみ、1917年〈大正6年〉6月26日 - 1991年〈平成3年〉5月11日)は、日本の木版画家。父は版画家・清宮彬(ひとし)。ガラス絵、モノタイプ、水彩画技法など、数多くの作品を残した。 1917年(大正6年)東京府豊多摩郡内藤新宿北裏町(現:東京都新宿区)に生まれる。 1935年(昭和10年)麻布中学校卒業。1937年(昭和12年)東京美術学校(現:東京芸術大学美術学部)油画科に入学。藤島武二に師事し、4年からは田辺至の指導を受ける。1942年(昭和17年)、東京美術学校を卒業。同年6月、長野県上田中学校の美術教師となるも、翌年3月に辞職した。 1944年(昭和19年)慶應義塾工業学校の美術教師となるが、同年中に応召される。
古瀬 大六(こせ たいろく、1917年(大正6年)6月26日… 古瀬 大六(こせ たいろく、1917年(大正6年)6月26日 - 2007年(平成19年)4月11日)は、日本の経済学者。元東北大学経済学部教授、一橋大学商学博士。四女の漫画家、山下和美の作品『天才柳沢教授の生活』の主人公・柳沢良則のモデル。なお、良則は大六の父、つまり山下の祖父の名である。 1917年(大正6年)6月26日、父・古瀬良則(英語学者・一橋大学名誉教授)、母・要(旧姓、鷲田)の長男として、石川県金沢市に生まれる。 1940年(昭和15年)、東京商科大学(現在の一橋大学)を卒業後、東京芝浦電気に入社。短期現役海軍主計科士官(4期)を志願し、同年5月、海軍経理学校に入学して海軍主計中尉に任官。
白鳥 三郎(しらとり さぶろう、1917年(大正6年)6月2… 白鳥 三郎(しらとり さぶろう、1917年(大正6年)6月26日 - 1988年(昭和63年)9月23日)は、昭和時代の政治家。埼玉県与野市長(第2代 - 第7代) 。さいたま市名誉市民。号・高丘独松。位階は正五位。 千葉県印旛郡久住村(現成田市)出身。1943年(昭和18年)日本ピストンリング技術学校卒業。1947年(昭和22年)日本社会党に入党し、与野町議会議員に当選し1期在任。1951年(昭和26年)埼玉県議会議員となり2期在任。1959年(昭和34年)以来、与野市長に6選した。在任中に下水道の普及を推進し、市域の下水道普及率はほぼ100%に達した。1983年(昭和58年)「後進に道を譲る」として収入役の井原勇を事実上の後継者に指名して市長を退任した。
石田瑞麿(いしだ みずまろ、1917年6月25日 - 199… 石田瑞麿(いしだ みずまろ、1917年6月25日 - 1999年11月17日)は、日本の仏教学者。学位は、文学博士。東海大学教授。北海道生まれ。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
喜田村 健三(きたむら けんぞう、1917年(大正6年)6月… 喜田村 健三(きたむら けんぞう、1917年(大正6年)6月24日 - 没年不明)は日本の大蔵官僚、実業家。国税庁元次長。万有製薬(現:MSD、メルク・アンド・カンパニーの日本法人)元専務取締役。東京都世田谷区在籍。長男は弁護士(ミネルバ法律事務所所属)の喜田村洋一。 京都府京都市出身。喜田村眼科病院院長を務めた喜田村朔治の三男として生まれる。第三高等学校を卒業。1939年(昭和14年)高等試験行政科に合格。1940年(昭和15年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、大蔵省に入る。短期現役海軍主計科士官(5期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入学し、海軍主計中尉に任官。1941年(昭和16年)1月、経理学校を卒業し山城に配属。
小林 陽太郎(こばやし ようたろう、1917年6月24日 -… 小林 陽太郎(こばやし ようたろう、1917年6月24日 - 2012年7月7日)は、日本の建築衛生学者。東京工業大学名誉教授。豊橋技術科学大学名誉教授。兵庫県生まれ。岡山県出身。専門は建築衛生学・建築環境工学。公害防止工学。都市生活者の居住条件と健康・精神衛生等。1960年に日本建築学会賞(論文),1993年に日本建築学会大賞を授与。数々の賞を受賞。1990年に勲三等旭日中綬章。国際連合世界保健機関専門委員,空気調和・衛生工学会長など多くの要職を務める。1966年にが発表した「ビルディングの環境衛生基準に関する研究」が「建築物における衛生的環境の確保に関する法律施行令」及び「労働安全衛生法の事務所衛生基準規則」で定められた範囲(17度以上28度以下)の根拠となっている。
奈良 友夫(なら ともお、1917年6月20日 - )は広島… 奈良 友夫(なら ともお、1917年6月20日 - )は広島県出身の元プロ野球選手、内野手。
武田 清子(たけだ きよこ、1917年〈大正6年〉6月20日… 武田 清子(たけだ きよこ、1917年〈大正6年〉6月20日 - 2018年〈平成30年〉4月12日)は、日本の思想史学者、国際基督教大学名誉教授。本名は長 清子()。夫の長幸男は経済学者。 兵庫県生まれ。1934年神戸女学院高等部を卒業し大学部英文科へ進む。1939年に日米交換留学生として神戸女学院大学の姉妹校、会衆派のオリヴェット大学で学び、卒業後、コロンビア大学に2年在籍、つづいてユニオン神学大学院修了。武田がミシガン州のオリヴェット大学からニューヨークへ移るきっかけは、大学で指導を受けた教員ホームズ・ハートショーン(M. Holmes Hartshorne)が恩師のラインホールド・ニーバーに紹介したことにある。
竹見 淳一(たけみ じゅんいち、1917年(大正6年)6月1… 竹見 淳一(たけみ じゅんいち、1917年(大正6年)6月19日 - 2003年(平成15年)5月23日)は、日本の実業家。日本ガイシ会長、ワシントンホテル取締役。NHK経営委員長、日経連(当時)副会長、JR東海監査役などを歴任した。 東京府高輪生まれ。森村学園の前身たる私立南高輪幼稚園、同小学校と黒澤明の姉である黒澤春代に教わる。デキの悪い子も骨身も惜しまず居残りで教えたり家庭教師をつけてくれたりした先生であった。父が亡くなったこともあり、将来も見据え官立に進むことにし東京府立一中入学。一中に入れたが、肺が弱く、7年間在籍した。その後、医科への進学も考えたが肺病もちでは医者に成れないと耳に入り、法文系統の慶應予科へ。
田中 生夫(たなか いくお、1917年6月19日 - 199… 田中 生夫(たなか いくお、1917年6月19日 - 1996年2月17日)は、日本の経済学者、岡山大学名誉教授。 京都府綾部市生まれ。第三高等学校卒。1941年、京都帝国大学経済学部卒、台湾銀行大阪支店に入行。1942年から1945年まで陸軍へ応召。1946年、岡山農業専門学校講師。1948年、教授。1950年、岡山大学法文学部講師、1951年に助教授、1961年に教授。1968年「イギリス初期銀行史研究」で、九州大学経済学博士。1980年から1982年、岡山大経済学部長、評議員。1981年から1982年、法文学部長。1983年、定年退官、名誉教授、金沢大学教授、のち福山大学教授、中京大学教授。
斎藤 秋男(さいとう あきお、1917年6月18日 - 20… 斎藤 秋男(さいとう あきお、1917年6月18日 - 2000年3月19日)は、日本の中国思想学者、専修大学名誉教授。 1917年、東京で生まれた。東洋大学文学部中国哲学文学科で学び、1941年に卒業。1942年から敗戦まで兵役に就いた。 戦後は、1946年から1950年まで中国研究所に勤務。1950年、母校の東洋大学助教授となった。1953年、北海道大学助教授に就いた。1965年に専修大学助教授に転じ、後に教授昇格。1977年から1982年まで、社団法人・中国研究所代表理事、のち理事長を務めた。1988年に専修大学を定年退任し、名誉教授となった。 専門は中国思想史。同時代の知識人・教育者の陶行知のに関する著作が多い。
川崎 文治(かわさき ふみはる、1917年6月17日 - 2… 川崎 文治(かわさき ふみはる、1917年6月17日 - 2002年7月30日)は、日本の経営学者。大阪市立大学(現大阪公立大学)名誉教授。元北九州大学(現北九州市立大学)学長。 福岡市生まれ。1942年9月東京商科大学(現・一橋大学)卒業、同年10月三井化学工業(現・三井化学)入社。 1950年3月三井化学工業を退職し、1951年9月より1953年3月にかけて福岡県立修猷館高等学校で講師を務め、その傍ら九州大学大学院に学ぶ。1970年大阪市立大学商学博士。 1953年4月久留米大学商学部助教授、1956年10月長崎大学経済学部教授、1964年4月大阪市立大学商学部教授、1974年4月同商学部長、1976年同名誉教授、1979年4月山口大学経済学部教授、1981年4月北九州大学(現・北九州市立大学)大学院経営学研究科教授を経て、1984年7月北九州大学学長に就任。
河村 憐次(かわむら れんじ、1917年(大正6年)6月14… 河村 憐次(かわむら れんじ、1917年(大正6年)6月14日 - 2014年(平成26年)2月15日)は、日本の政治家。山口県下松市長(4期)、山口県議会議員(5期)、下松市議会議員。位階は従四位。山口県下松市出身。慶應義塾大学法学部卒業。
安藤彦太郎(あんどう ひこたろう、1917年(大正6年)6月… 安藤彦太郎(あんどう ひこたろう、1917年(大正6年)6月14日 - 2009年(平成21年)10月27日)は、日本の日中関係史学者、早稲田大学名誉教授。 1917年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業。 「中国の会」は、尾崎秀樹が普通社主宰で1960年ごろに立ち上げ、野原四郎、竹内好、橋川文三、安藤、新島淳良、今井清一らをメンバーとした。 早稲田大学政経学部教授を務め、文化大革命の際は新島淳良や野村浩一とともにこれを礼賛した。1988年に定年退任、名誉教授となった。また、日中学院長をつとめ、のち名誉学院長。現代中国学会幹事を長く務めた。2009年10月27日、膀胱癌で死去、享年92歳。
丸居 幹一(まるい かんいち、1917年(大正6年)6月13… 丸居 幹一(まるい かんいち、1917年(大正6年)6月13日 - 2008年(平成20年)5月18日)は、日本の運輸官僚。退官後は新東京国際空港公団理事(1973年9月1日 - 1978年7月29日)やエアーニッポン社長などを歴任した。「成田空港の生みの親」とされる。 兵庫県宍粟郡一宮町(現宍粟市)出身。 1944年(昭和19年)9月東京帝国大学法学部政治学科を卒業、10月に運輸通信省に入省、その後航空局監督課に配属。 航技研監理部長、科学技術庁官房会計課長を経て、1961年(昭和36年)7月15日航空局技術部飛行場課長。 神戸海運局長などを経て、1968年(昭和43年)6月13日、航空局飛行場部長に就任。