宇田 荻邨(うだ てきそん、1896年〈明治29年〉6月30… 宇田 荻邨(うだ てきそん、1896年〈明治29年〉6月30日 - 1980年〈昭和55年〉1月28日)は、日本画家、日本芸術院会員。三重県松阪市生まれ。本名・善次郎。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
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宇田 荻邨(うだ てきそん、1896年〈明治29年〉6月30… 宇田 荻邨(うだ てきそん、1896年〈明治29年〉6月30日 - 1980年〈昭和55年〉1月28日)は、日本画家、日本芸術院会員。三重県松阪市生まれ。本名・善次郎。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
大中 寅二(おおなか とらじ、1896年(明治29年)6月2… 大中 寅二(おおなか とらじ、1896年(明治29年)6月29日 - 1982年(昭和57年)4月19日)は、日本の作曲家、オルガニスト。 東京市芝区三田(現在の東京都港区)に生まれる。大阪府立北野中学校時代に大阪教会で宮川経輝から受洗。1920年(大正9年)同志社大学法学部経済学科を卒業し、霊南坂教会(東京市赤坂区霊南坂町)オルガニストとなる(1979年(昭和54年)まで)。東京で山田耕筰に作曲を師事する。1925年(大正14年)にはドイツに留学し、ベルリンでレオポルト・カール・ヴォルフに作曲を師事する。帰国後、東洋英和女学院短期大学で教えた。 また副科で打楽器を習得し、1942年の満洲国建国10周年奉祝交響楽団(山田耕筰、大塚淳、ヘルムート・フェルマー指揮で新京での演奏)には打楽器奏者として加わっている。
木下 亀城(きのした かめき、1896年6月28日 - 19… 木下 亀城(きのした かめき、1896年6月28日 - 1974年1月14日)は、日本の鉱床学者・地球科学者。理学博士。九州大学名誉教授。福井県生まれ。 第七高等学校造士館を経て、1920年東京帝国大学理学部地質学科を卒業。工学部の平林武教授の指導を受け、ライフワークとなった黒鉱鉱床の研究に進む。卒業後、農商務省鉱務技手として仙台に勤務し、東北地方の金属鉱床の研究を行う。福岡鉱山監督局を経て、1925年商工省地質調査所に勤務。「小坂」「花輪」などの地質図幅を作成し、黒鉱鉱床生成の地質環境を研究。黒鉱鉱床アルカリ性溶液交代説で一世を風靡する。1929年アフリカおよびヨーロッパに出張。1931年黒鉱鉱床の研究により理学博士の学位を取得。
長崎 惣之助(ながさき そうのすけ、明治29年(1896年)… 長崎 惣之助(ながさき そうのすけ、明治29年(1896年)6月25日 - 昭和37年(1962年)11月7日)は、日本の鉄道官僚、実業家。第3代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1951年-1955年)。日本エアウェイ開発社長(在任1961年-1962年)。 秋田県南秋田郡川尻村(後の秋田市川尻上野町)で村長の長崎惣太郎の長男として生まれる。幼少の頃から成績優秀で長身でもあり、川尻小学校・牛島高等小学校を経て秋田中学校へと入る。中学校ではボート部に所属し、その後第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部独法科を卒業。 1920年鉄道省入省。1926年在外研究員として欧米に派遣され、その後1930年に設置された国際観光局の庶務課長に任命され、1932年経理局会計課長となる。
有元 史郎(ありもと しろう、1896年(明治29年)6月2… 有元 史郎(ありもと しろう、1896年(明治29年)6月25日 - 1938年(昭和13年)5月30日)は、日本の教育者、政治家。芝浦工業大学創設者。第4代岡山県津山市長(1937年)。広島県尾道市土堂町出身。本姓は菅原氏。諱は頼忠。 広島県尾道市土堂町出身。船具を扱う尾道の名家有元益太郎季久の四男として生まれるが、会社が廃業し3歳のとき、兄2人とともに叔母に引き取られる。14歳のとき、家出同然に兵庫県西宮市の叔父のもとへ向かう。奉公の後、独力で大阪天王寺の桃山中学校に編入、しかし腸チフスに感染し同校退学。一年間兵役に服した後、検定試験で中学を卒業。兄の援助を受け1919年、鹿児島の第七高等学校理科甲類入学。
野淵 昶(のぶち あきら、1896年〈明治29年〉6月22日… 野淵 昶(のぶち あきら、1896年〈明治29年〉6月22日 - 1968年〈昭和43年〉2月1日)は日本の舞台演出家、映画監督。 1896年6月22日、奈良県奈良市油留木町に生まれる。同市の花芝町に暮らす祖父母のもとで育てられる。祖父である野淵龍潜が1909年に亡くなった後、現在の大阪府堺市に移住。1914年、堺中学校(現在の三国丘高校)卒業後、同志社大学神学部、京都帝国大学文学部英文科で学ぶ。 京都帝国大学在学中の1918年、エラン・ヴィタール小劇場を結成して日本の戯曲家では武者小路実篤、秋田雨雀、久米正雄、谷崎潤一郎らの劇、海外の戯曲家ではアントン・チェーホフ、アルトゥル・シュニッツラー、ロード・ダンセイニ、グレゴリー夫人、ジョン・ミリントン・シング、ショーン・オケイシーらの劇を上演。
荻原 晃(おぎはら あきら, Aloysius Akira … 荻原 晃(おぎはら あきら, Aloysius Akira Ogihara, S. J.、1896年(明治29年)6月21日 - 1991年(平成3年)8月26日)、日本のカトリック聖職者でイエズス会士。洗礼名はアロイジオ。第3代広島使徒座代理を務めた。 1896年6月21日、山形県鶴岡市で生まれた。1921年に上智大学哲学科を卒業し、同年歩兵第32連隊に入隊した。1922年にオランダのイエズス会修練院に入り、1929年7月31日にスペインナバラ州のザビエル城内の教会で司祭に叙階された。1932年3月16日に日本に帰国。その後は広島教区の教会で働いた。 1940年にヨハネス・ロス司教を引き継いで第3代広島使徒座代理に就任した。
大神 善吉(おおがみ ぜんきち、1896年(明治29年)6月… 大神 善吉(おおがみ ぜんきち、1896年(明治29年)6月21日 - 1967年(昭和42年)10月27日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、福岡県筑紫郡春日村長。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 福岡県福岡市中小路(現博多区上呉服町)で、大神鹿吉、イノの二男として生まれる。幼くして父が死去し、御供所小学校(現福岡市立博多小学校)在学中は野菜の行商を行う。小学校卒業後、石屋、大工として奉公したが、上京し苦学して、1923年(大正12年)中央大学経済科を卒業した。 品川区会議員、立憲政友会院外団などで活動した。1938年(昭和13年)兄・恒吉の死去に伴い福岡県筑紫郡春日村(春日町を経て現春日市)に戻り、大神組を継承し土木建築請負業を営んだ。
水野 伊太郎(みずの いたろう、1896年(明治29年)6月… 水野 伊太郎(みずの いたろう、1896年(明治29年)6月20日 - 1964年(昭和39年)3月26日)は、日本の外交官。特命全権公使。 静岡県出身。1919年(大正8年)、高等試験外交科に合格し、翌年に東京帝国大学法学部法律科を卒業した。外交科試験以外の合格者を採用する「門戸解放」の一環として外務省に入省し、大使館三等書記官、外務事務官、公使館二等書記官、同一等書記官を歴任し、その間にベルギー、フランス、ルーマニア、ユーゴスラビアに勤務した。1935年(昭和10年)、外務書記官・調査部第二課長となり、通商局第一課長、同第三課長兼第四課長などを経て、1940年(昭和15年)に通商局長に就任した。
森下 國雄(もりした くにお、1896年6月20日 - 19… 森下 國雄(もりした くにお、1896年6月20日 - 1975年5月7日)は、日本の政治家。位階は正三位。衆議院議員(10期)。 栃木県塩谷郡阿久津村(現高根沢町)出身、早稲田大学政治経済学部卒業。コロンビア大学に留学する。外務参与官、外務次官、特派大使を歴任。1936年の総選挙で立憲民政党から立候補して初当選。終戦後公職追放された。1950年追放解除。追放解除後の1952年に自由党から政界復帰。その後、衆議院外務、建設各委員長、自民党代議士会長や道路調査会長、国土開発調査会長などを務めた。1972年の総選挙で落選した。 1975年5月7日、死去。78歳没。同月9日、特旨を以て位四級を追陞され、死没日付で正五位から正三位に叙され、銀杯一組を賜った。
菊地 幸作(きくち こうさく、1896年(明治29年)6月2… 菊地 幸作(きくち こうさく、1896年(明治29年)6月20日 - 1984年(昭和59年)1月2日)は、日本の政治家。栃木県真岡市長(2期)。 真岡市出身。1912年、芳賀農林学校卒業。1920年、栃木県庁に入る。県庁内では秘書、商工各課長、知事官房主事などを務め、東京都繊維配給に転じ、経理総務各部長を歴任し、その後は栃木県監査委員、県人事委員会委員長などを務めた。1954年、合併による真岡町の町長選挙に立候補し、当選する。真岡町は同年10月に市制施行し、真岡市長となった。市長を2期務め、1967年に市長を退任した。ほか、栃木県土地改良事業団体連合会会長、穴川土地改良区連合会理事長を歴任した。
川村 智保(かわむら ちほ、1896年〈明治29年〉6月19… 川村 智保(かわむら ちほ、1896年〈明治29年〉6月19日 - 1993年〈平成5年〉3月9日)は、日本の画家。
硲慈弘(はざま じこう、1896年6月16日-1946年4月… 硲慈弘(はざま じこう、1896年6月16日-1946年4月16日)は、天台宗の僧、仏教学者。 和歌山県生まれ。天台宗大学(のち大正大学)卒。東京帝国大学へ内地留学、島地大等に師事、その『天台教学史』の編纂助手を務める。1927年大正大学講師、助教授、教授。初代天台宗教学研究所長。
上村 伸一(かみむら しんいち、1896年〈明治29年〉6月… 上村 伸一(かみむら しんいち、1896年〈明治29年〉6月15日 - 1983年〈昭和58年〉7月27日)は、日本の外交官。東京帝国大学法科(現在の東京大学法学部)卒業。外務省東亜局第一課長。駐イギリス日本大使館臨時代理大使、トルコ大使などを務めた。著書多数。 千葉県印旛郡佐倉町(現・佐倉市)にて上村蔦松の長男として生まれる。札幌中学、二高を経て東京帝国大学法科へ進学。在学中の1920年(大正9年)10月に文官高等試験外交科(外交官及領事館試験)に合格。1921年(大正10年)、東京帝国大学法科卒業。同年、外務省に入省、牛荘官補に配属。昭和時代の幕開けを革命進行中のソビエト連邦駐在中に迎え、満州事変以降は中国外交の現場で奔走。
館 俊三(だて しゅんぞう、1896年〈明治29年〉6月15… 館 俊三(だて しゅんぞう、1896年〈明治29年〉6月15日 - 1964年〈昭和39年〉4月6日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員。 石川県鹿島郡七尾町(現七尾市)で生まれる。1916年(大正5年)石川県立七尾中学校(現石川県立七尾高等学校)を卒業し、小学校准訓導心得となる。 1920年(大正9年)鉄道省に入省し函館駅改札掛に就任。鉄道局書記、鉄道官補、函館駅助役を歴任。1946年(昭和21年)函館駅従業員労働組合の結成発起人となり、また同年5月に結成された国鉄北海道労働組合の委員長に就任。同年4月、第22回衆議院議員総選挙に出馬するも落選。1947年(昭和22年)4月、第23回総選挙で北海道第3区から日本社会党所属で出馬して初当選。
岩岡 とも枝(いわおか ともえ、1896年(明治29年)6月… 岩岡 とも枝(いわおか ともえ、1896年(明治29年)6月15日 - 1933年(昭和8年)11月7日)は、大正末から昭和の初めにかけて活動した挿絵画家、日本画家。雅号に岩岡花僊、岩岡周和。 戸籍上の名前はともゑ。弁護士の父・岩岡伊代治(長野県南安曇郡倭村出身)と母・ふくの間に東京市日本橋区浜町に生まれ育った。日本画を学び、池田輝方の曙会に所属する。弁護士の傍ら衆議院議員を1期務めた父・伊代治が1921年(大正10年)11月に亡くなった後、児童雑誌などに挿絵を描き始めた。『コドモノクニ』、『コドモアサヒ』、『金の星』などの雑誌のほか、楠山正雄、小川未明などの児童書に挿絵を描いた。1933年11月7日、「長らく心臓を悩んでおりましたが遂に病気昂進の為め」現在の東京都済生会中央病院で死去した。
和田 完二(わだ かんじ、1896年 <明治29年> 6月1… 和田 完二(わだ かんじ、1896年 <明治29年> 6月12日 - 1968年 <昭和43年> 8月13日)は、日本の経営者。丸善石油(現在のコスモ石油)社長を務めた。位階は従四位。 兵庫県豊岡市出身。1914年に旧制豊岡中学校を卒業。満鉄での勤務を経て、1930年に丸善石油に転じ、1951年11月に専務に就任し、1952年10月には社長に昇格し、1963年までに務めた。 1959年に紫綬褒章を受章し、1967年に勲三等旭日中綬章を受章。 1968年8月13日、心筋梗塞のために死去。72歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
松隈 秀雄(まつくま ひでお、1896年(明治29年)6月1… 松隈 秀雄(まつくま ひでお、1896年(明治29年)6月10日 - 1989年9月30日)は、日本の大蔵官僚。大蔵次官、日本専売公社総裁。 神奈川県出身。旧制第一高等学校を経て、1921年(大正10年)3月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)卒業。1920年(大正9年)10月、高等試験行政科に合格。 1921年5月、大蔵省入省し、参事官付。主税局国税課長、大臣官房文書課長などを歴任。1940年(昭和15年)5月25日、銀行局長。同年12月14日、主税局長。1944年(昭和19年)に谷口恒二(のちに日本銀行副総裁、東京大空襲で戦災死)のあとを受けて大蔵次官に就任。1945年2月、田中豊に大蔵次官の座を譲って勇退した。
佐々木 孝三郎(ささき こうざぶろう、1896年6月10日 … 佐々木 孝三郎(ささき こうざぶろう、1896年6月10日 - 1969年9月29日)は、日本の経営者。 宮城県出身。1917年に東京外語学校蒙古語科を卒業。南満洲製糖、満蒙毛織を経て、奉天新聞社副社長、奉天銀行取締役、奉天商工会議所評議員を歴任。1951年に宮城第一信用組合組合長に就任し、1957年4月から1962年2月までに東北放送社長を務めた。 1969年9月29日食道がんのために死去。73歳没。
黒岩 重治(くろいわ しげはる、1896年(明治29年)6月… 黒岩 重治(くろいわ しげはる、1896年(明治29年)6月10日 - 1986年(昭和61年)4月24日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。 高知県香美郡東川村別役(香我美町を経て現香南市)で、黒岩兼太郎、加根の二男として生れた。1916年(大正5年)高知師範学校男子本科を卒業した。 安芸郡安田、香美郡岡ノ内、富家、片地、高知市第五の各尋常小学校訓導、川内、神谷、美良布の各尋常小学校長兼同高等小学校長、城山尋常小学校兼実業青年学校長、高知県視学、高知市立第二国民学校長、城北国民学校長などを歴任し、1947年(昭和22年)に退職した。 高知県教員組合連合委員長を務め、同組織の推薦を受けて、1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に高知県全県区から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
東 忠続(あずま ただつぐ、1896年(明治29年)6月9日… 東 忠続(あずま ただつぐ、1896年(明治29年)6月9日 - 1950年(昭和25年)3月24日)は、大正から昭和前期の日本の労働運動家。 奈良県吉野郡十津川村に生まれる。同志社大学に入学し、在学中から友愛会の普選運動に参加し、労働運動に関する青年組織の団長をつとめる。東が団長をつとめた青年組織は「ボルガ団」といい、20歳前後の若者30余名で組織された友愛会京都支部の育成組織であった。1920年(大正9年)同志社大学を卒業すると、翌年の1921年(大正10年)関西労働同盟会の書記となり、藤永田造船所の争議を指導した廉で検挙される。出獄すると、翌年の1922年(大正11年)尼崎合同労働組合組合長となる。
務臺 光雄(むたい みつお、新字体:務台 光雄、1896年6… 務臺 光雄(むたい みつお、新字体:務台 光雄、1896年6月6日 - 1991年4月30日)は、日本の実業家。読売新聞社(現・読売新聞東京本社、読売新聞グループ本社)の社長、名誉会長や、讀賣テレビ放送の会長を務めた。長野県南安曇郡温村(後に三郷村を経て現在は安曇野市)出身。 社会部や政治部が花形の新聞社にあって販売畑一筋で歩み、戦前まで東京を中心とした東日本のブロック紙に過ぎなかった読売新聞を日本屈指の全国紙にまで押し上げた。「読売と名が付けば白紙でも売ってみせる」と言ったとされ、その辣腕ぶりから「販売の鬼」と呼ばれたが演劇や登山を好む一面もある。プロ野球の歴史では反長嶋・反江川で親川上・親藤田の座標軸に据えられている。
森村 義行(もりむら よしゆき、1896年(明治29年)6月… 森村 義行(もりむら よしゆき、1896年(明治29年)6月4日 - 1970年(昭和45年)11月3日)は、日本の実業家。学校法人森村学園理事長、財団法人森村豊明会第3代理事長、社団法人日本陶磁協会第2代理事長。 公爵:松方正義の十二男として生まれ、後に森村開作(7代目市左衛門)の婿養子となる。旧制兵庫県立第一神戸中学校を経て、1918年に旧制第七高等学校造士館を卒業。1921年京都帝国大学法学部卒業、同年に森村男爵家の婿養子となり一族の諸会社の重役を務める。 1951年、学校法人森村学園理事長・学園長就任。1961年、(財)森村豊明会第3代理事長就任。1970年3月、(社)日本陶磁協会第2代理事長就任。
山田 延男(やまだ のぶお、1896年〈明治29年〉6月4日… 山田 延男(やまだ のぶお、1896年〈明治29年〉6月4日 - 1927年〈昭和2年〉11月1日)は、日本の科学者。フランスのラジウム研究所(後のキュリー研究所)で物理学者であるマリ・キュリーに師事し、その長女の物理学者イレーヌ・ジョリオ=キュリーらと共に放射能の研究に貢献。研究に伴う放射線障害により死去した。ラジウム研究所に留学した最初の日本人であり、放射線化学研究の犠牲となって死去した最初の日本人とされる。 戦前の日本は放射能研究の範囲が狭かったため、日本国内ではマリ・キュリーの偉業とは対照的に、山田の留学や死についてほとんど知られていなかった。山田に関する資料の大部分が関東大震災や東京大空襲で焼失したことも、その一因である。
金 成淑(キム・ソンスク、朝鮮語: 김성숙、1896年6月4… 金 成淑(キム・ソンスク、朝鮮語: 김성숙、1896年6月4日または6月5日 - 1979年12月18日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、教育者、大韓民国の政治家。第5代韓国国会議員、韓国社会党党首を歴任した。 本貫は慶州金氏、号は悔乙(フェウル、悔乙/회을)、別名は金成璹(読み・ハングル同)。郷土史学者の金泰能は甥。 全羅南道済州島大静面(現・済州特別自治道西帰浦市大静邑)加波里(すなわち加波島)出身。漢学修学を経て、京城第1高等普通学校(現・京畿高等学校)4年在学中の1919年に三・一運動に参加し、出版法・保安法違反の疑いで裁判を受け、投獄されたことがある。出獄後の1920年に帰郷し、摹瑟浦で大静普通学校の附設学校を設置したのを経て、1921年に郷里の加波島で民族主義教育を行う辛酉義塾を開設し、5年間教師として在任した。
上野 慧賢(あがの えけん、1896年6月3日 - 1981… 上野 慧賢(あがの えけん、1896年6月3日 - 1981年6月2日)は、日本の教育者。駒澤大学高等学校名誉校長。学校法人駒澤大学理事、東京私立中学高等学校協会監事などを歴任。熊本県出身。 八代市生まれ。1917年、熊本県第一師範学校本科卒業。葦北郡日奈久尋常高等小学校訓導。1920年、津奈木尋常高等小学校。1923年、広島高等師範学校教育科卒業。熊本県阿蘇高等女学校教諭。1924年9月、熊本県第58番極楽寺林の慧禅について得度。1926年4月、東京帝国大学伝染病研究所看護婦養成所(のち東京大学第三厚生女学部)嘱託講師を兼任(1951年3月迄)。1927年3月、駒澤大学卒業。同年4月、日出高等女学校教諭。
宇田 新太郎(うだ しんたろう、1896年(明治29年)6月… 宇田 新太郎(うだ しんたろう、1896年(明治29年)6月1日 - 1976年(昭和51年)8月18日)は、日本の工学者。東北大学教授。 専門は電気工学、通信工学で、八木・宇田アンテナの発明者として知られ、同郷の盛永俊太郎、川原田政太郎と共に「魚津の三太郎博士」と呼ばれた。 富山県下新川郡舟見町(現・入善町)出身。旧制魚津中学、広島高等師範学校を経て、一旦長野県の旧制大町中学で教職に就くが、その後に東北帝国大学工学部電気工学科に入学。1924年に卒業後そのまま大学に奉職し、当時東北帝国大学で隆盛をみた超短波をはじめとする電磁波による電気通信の研究に従事し、八木秀次とともに八木・宇田アンテナを共同発明した。
二神 範蔵(ふたかみ のりぞう、明治28年(1895年)6月… 二神 範蔵(ふたかみ のりぞう、明治28年(1895年)6月29日 - 没年不明)は日本の実業家。元山下近海汽船社長。 二神は、東京都知事石原慎太郎の父潔の死後、慎太郎に一橋大への進学と、当時できたばかりの公認会計士の取得を強くすすめた 愛媛県南宇和郡城辺町(現在の愛南町)出身。二神彦一の男。 大正7年(1918年)東京高商(現在の一橋大学)を卒業し三井物産を経て、昭和6年(1931年)6月山下汽船に入社し日濠定航事務所長、紐育支店副長、名古屋支店長を歴任。 昭和18年(1943年)山下近海機船常務に転じ、昭和22年(1947年)3月同社社長に挙げられ、昭和24年(1949年)4月第二会社山下近海汽船を設立し社長に就任した。
小倉 謙(おぐら ゆずる、1895年6月26日 - 1981… 小倉 謙(おぐら ゆずる、1895年6月26日 - 1981年3月18日)は、日本の植物学者。専門分野は植物形態学・植物解剖学。 1895年、宮城県仙台市生まれ。父は実業家・歌人の小倉長太郎(茗園)。東京帝国大学植物学科を卒業。卒業後は母校の同大学講師・助教授を経て、1938年に教授昇進。わが国における植物形態学・植物解剖学の確立・発展に尽くした。1946年から55年まで、日本植物学会会長を務めた。1956年、東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は横浜市立大学教授として教鞭をとった。
関 未代策(せき みよさく、1895年6月26日 - 197… 関 未代策(せき みよさく、1895年6月26日 - 1974年3月8日)は、日本の経済学者。日本経済団体連合会の設立など、戦後の経済再建に重要な役割を果した。 1917年、明治大学政治経済学部卒業。在学中は雄弁会幹事長を務めていた。朝日新聞社に入る。1920年のワシントン会議では、緒方竹虎等と共に特派員に選出されたが、直前の急病により断念することとなった。 1925年に、母校からの要請により、朝日新聞社から明治大学に転じた。同商学部助教授に就任すると同時にパリ大学に留学。1927年に帰国し、政治経済学部助教授、1930年に同教授、1942年に「東洋思想と仏蘭西経済学」で、経済学博士の学位を取得。
鈴木 東民(すずき とうみん、1895年〈明治28年〉6月2… 鈴木 東民(すずき とうみん、1895年〈明治28年〉6月25日 - 1979年〈昭和54年〉12月14日)は、日本のジャーナリスト、労働運動家、政治家。岩手県出身。第2次世界大戦前にベルリン特派員であった時はナチスを批判して国外退去させられ、帰国後は戦争を批判して軍部から執筆禁止処分を受け、敗戦後は読売新聞労働組合の委員長として読売争議を闘ったがGHQの命令により解雇された。釜石市長となってからは釜石製鉄所の公害を規制して闘った。 1895年6月25日、釜石市唐丹町川目で生まれる。旧制遠野中学校を経て、1920年に第二高等学校を卒業後、東京帝国大学経済学部に進み、卒業する。1920年初冬、東大赤門前にあった文信社という謄写版印刷屋で、宗教上の対立で実家から家出同然に上京していた宮沢賢治と知り合う 。
芦間 圭(蘆間圭、あしま けい、1895年6月24日 - 1… 芦間 圭(蘆間圭、あしま けい、1895年6月24日 - 1956年以降)は、日本の文筆家、翻訳家。本名・安島 健(あじま けん)。別筆名に曲木 磯六。 秋田県湯沢市出身。東京帝国大学文学部倫理学科中退。報知新聞、日本評論社の記者をへて文筆に転じる。萩原朔太郎らの『感情』に寄稿したこともあり、菊池寛の代作をした。
早川 三代治(はやかわ みよじ、1895年(明治28年)6月… 早川 三代治(はやかわ みよじ、1895年(明治28年)6月22日 - 1962年(昭和37年)8月28日)は、日本の経済学者、小説家。位階は正五位。 北海道小樽市生まれ。北海道帝国大学卒業後、経済学を学ぶためにドイツに留学し、ウィーンでヨーゼフ・シュンペーターに面会し、指導を受ける。帰国後、レオン・ワルラスやヴィルフレド・パレートを日本に紹介し、北海道を中心に所得調査を行い、日本の所得分布でパレートの法則を検証した論文を発表した。また、北海道帝国大学、小樽経済専門学校・小樽商科大学、早稲田大学で教鞭を取り、早稲田大学で経済学博士の学位を取得している。 一方で、東北帝国大学農科大学予科在学時に有島武郎の教えを受け、文学に傾倒し、その後島崎藤村に師事し、多くの小説・戯曲・随筆を創作した。
早川 元(はやかわ はじめ、1895年(明治28年)6月21… 早川 元(はやかわ はじめ、1895年(明治28年)6月21日 - 1970年(昭和45年)8月4日)は、日本の内務官僚。官選県知事、海軍司政長官。 長野県出身。早川繁夫の長男として生まれる。第八高等学校を卒業。1920年、東京帝国大学法学部を卒業。1921年、貴族院に入り貴族院属となる。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。 1923年4月、内務省に転じ警視庁属となる。以後、警察署長、警視庁事務官、同消防部長、長崎県書記官・警察部長、愛知県書記官・警察部長などを経て、1939年4月、熊本県総務部長に就任。 1941年1月、沖縄県知事に就任。標準語・国民礼法励行運動、南進政策、翼賛壮年団の結成、食糧増産などを推進した。
細川 鉅(ほそかわ つよし、1895年(明治28年)6月21… 細川 鉅(ほそかわ つよし、1895年(明治28年)6月21日 - 没年不明)は日本の実業家である。野村證券に務めた後、野村財閥直系・航空用ガソリンメーカーであった帝国潤滑油社長を務めた。広島県庄原市出身。 1895年(明治28年)広島県比婆郡東城町(現:庄原市)の細川平左衛門の次男として出生する。1908年(明治44年)地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1914年(大正3年)に同校を卒業する。その後、岡山市にある旧制第六高等学校へ進学する。1918年(大正6年)に同校を卒業する。同年、京都帝国大学法科大学政治経済学科へ進学。1921年(大正9年)京大を卒業する。
岩重 隆治(いわしげ りゅうじ、1895年(明治28年)6月… 岩重 隆治(いわしげ りゅうじ、1895年(明治28年)6月21日 - 1975年(昭和50年)3月10日)は、大正後期から昭和期の内務官僚、警察官僚、弁護士。陸軍司政長官、最後の官選福岡県知事。 山口県出身。岩重弥七の長男として生まれる。小倉中学校(現福岡県立小倉高等学校)を経て、第三高等学校を卒業。1921年(大正10年)11月、高等試験行政科試験に合格。1922年(大正11年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し長野県属兼警部となる。 以後、鹿児島県警察部保安課長、福岡県警察部保安課長、同警務課長、岡山県警察部特別高等課長、愛知県警察部特別高等課長、岡山県学務課長、同社寺課長、兵庫県商工課長、同水産課長、同地方課長、千葉県書記官・学務部長、京都府書記官・学務部長、青森県書記官・経済部長、三重県書記官・総務部長などを歴任。
菅野 和太郎(かんの わたろう、1895年6月20日 - 1… 菅野 和太郎(かんの わたろう、1895年6月20日 - 1976年7月6日)は、日本の政治家。大阪経済大学教授。
伊与田 光男(いよだ みつお、1895年6月19日 - 19… 伊与田 光男(いよだ みつお、1895年6月19日 - 1959年3月18日)は、日本の経営者。資生堂社長を務めた。 大分県中津市出身。1920年に東京帝国大学理学部化学科を卒業し、大学院で研究活動をする傍らに福原資生堂に入社した。1930年に資生堂取締役に就任し、専務を経て、1954年6月に社長に就任した。 1957年に藍綬褒章を受章した。 1959年3月18日、脳溢血のためにで死去。63歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
古賀 春江(こが はるえ、1895年6月18日 - 1933… 古賀 春江(こが はるえ、1895年6月18日 - 1933年9月10日)は大正から昭和初期に活躍した洋画家である。日本の初期のシュルレアリスムの代表的な画家として知られる。本名は亀雄(よしお)。後に僧籍に入り「古賀良昌(りょうしょう)」と改名した。「春江」は通称である。 1895年6月18日、福岡県久留米市の善福寺の住職(古賀正順)の長男として生まれた。善福寺は江戸時代初期からの歴史を持つ浄土宗の寺である。古賀春江は、父・正順が53歳、母・イシが43歳の時の子供でただ一人の男子だった(古賀春江が生まれる前に3人の女の子をもうけたが、2人は早世した)。松田実(後述)によると、そのために両親や姉の溺愛を受けて育ったという。
小沢 凱夫(おざわ よしお、1895年6月13日 - 197… 小沢 凱夫(おざわ よしお、1895年6月13日 - 1978年5月5日)は、日本の医学者。大阪大学名誉教授。 専門は胸部外科学。大阪帝国大学第一外科初代教授。大阪大学外科の礎を築くとともに、日本の心臓外科、呼吸器外科をはじめ、外科学全般の発展に寄与した。 静岡県出身。1920年(大正9年)大阪医科大学卒業。1930年(昭和5年)医学博士を取得、大阪医科大学(後に大阪大学)教授に就任。1937年(昭和12年)国内初の片肺全摘術を行う。1936年(昭和11年)に日本初の心臓外傷手術が、岡山市榊原病院の榊原亨によって実施されたが、この時行われたガーゼによる圧迫止血(昭和11年)と、1937年(昭和12年)に小沢凱夫大阪帝国大教授が行った右室損傷の縫合止血との間で行われた止血法の大論争が日本の心臓外科の扉を開いたと言われる。
原 乙未生(はら とみお、1895年6月12日 - 1990… 原 乙未生(はら とみお、1895年6月12日 - 1990年11月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。日本の戦車開発の黎明期に中心的役割を果たし「日本戦車の父」と呼ばれている。 福岡県出身。原亨陸軍大尉の息子として生まれる。熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を優等で卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し重砲兵第5連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校高等科(24期)を優等で卒業し、さらに陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部機械工学科で学び、戦車設計をテーマにした卒論で1922年(大正11年)3月に卒業した。 1923年(大正12年)3月、陸軍中尉に昇進。
荒木 市次郎(あらき いちじろう、1895年〈明治28年〉6… 荒木 市次郎(あらき いちじろう、1895年〈明治28年〉6月11日 - 没年不明)は、日本の会社役員、鳥取県多額納税者、資産家、鳥取県の大地主。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)出身。荒木徳三郎の長男。1912年、家督を相続する。農業、金融業を営む。境貿易取締役・同専務取締役をつとめる。 境貿易の大株主である。境日本海写真倶楽部会員である。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は鳥取県西伯郡境町栄町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
土田 耕平(つちだ こうへい、1895年(明治28年)6月1… 土田 耕平(つちだ こうへい、1895年(明治28年)6月10日 - 1940年(昭和15年)8月12日)は、日本の歌人、童話作家。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)に生まれる。18歳で両親を失う。1911年旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を中退、同郡玉川村立玉川小学校の代用教員となる。ここで島木赤彦に師事し『アララギ』に投稿、編集に携わる。1913年に上京し、1915年旧制東京中学校(現・東京高等学校)卒。1921年まで伊豆大島で病気療養、のち上諏訪へ帰り、長野県内各地を頻繁に転居。1924年信濃毎日新聞の歌壇撰者となる。 後半生の大半を不眠症の療養、短歌、童話の創作に費やした。1940年下伊那郡鼎町で心臓病で死去。
ペトル河野通勢( - こうの みちせい、1895年6月10日… ペトル河野通勢( - こうの みちせい、1895年6月10日 - 1950年3月31日)は、日本の画家、版画家。 風景画、人物画(自画像含む)、銅版画、木版画、小説等の挿絵、装丁、山水画、南画など、その膨大な量の作品が占めるジャンルは多岐に亘っているのみならず、画風もまた題材・時期によって様々な展開をみせており、舞台美術なども手がけている。代表作には関東大震災に取材した多数の銅版画が挙げられる。 父の河野次郎(下野国足利藩士、旧姓杉本、聖名:アレクセイ)は長野師範学校の図画教師も務め、高橋由一の門下で洋画の普及・教育に尽力した洋画家であり、後に写真家となった熱心な正教徒であった。通勢も9歳の時に正教の洗礼を受けた。
池 清(いけ きよし、1895年6月10日 - 1952年1… 池 清(いけ きよし、1895年6月10日 - 1952年10月17日)は、朝鮮総督府官僚。徳山市(現・周南市)市長。 山口県都濃郡徳山町(現在の周南市)出身。1917年、逓信官吏練習所卒。朝鮮総督府逓信局に勤務する。1925年に高等試験行政科に合格した後、朝鮮総督府逓信局副事務官、京城貯金管理所主計課長、朝鮮総督府逓信事務官、逓信局庶務課長、高等海員審判所理事官、新義州税関長などを経て、朝鮮総督府農林局林政課長兼土地改良課長から平壌府尹に勤務し、終戦を迎えた。日本に引揚げた後の1947年、徳山市助役に就任した。 1951年の徳山市長選挙に立候補。池は「市政の刷新」「健全財政化」「産業の振興と工場誘致」「学校の建設と充実」などを公約に激しい選挙戦を制して当選、市長に就任した。
西岡 芳次郎(にしおか よしじろう、1895年〈明治28年〉… 西岡 芳次郎(にしおか よしじろう、1895年〈明治28年〉6月9日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。弁護士。 三重県阿山郡新居村(現在の伊賀市)出身。第三高等学校を経て、1921年(大正10年)、東京帝国大学法学部独法科を卒業し、同年11月高等試験行政科に合格した。朝鮮総督府属、警察官講習所教授、忠清北道地方課長、平安南道地方課長、総督官房審議室勤務、農林局水産課長、内務局地方課長、総督官房審議室勤務、企画部長、慶尚南道知事を歴任した。 1943年(昭和18年)に退官した後は、帝国鉱業開発株式会社理事を務めた。戦後に公職追放となった。のち、弁護士を開業。上野市教育委員長を務めた。
里見 勝蔵(さとみ かつぞう、1895年(明治28年)6月9… 里見 勝蔵(さとみ かつぞう、1895年(明治28年)6月9日 - 1981年(昭和56年)5月13日)は、日本の洋画家。 国画会会員。洋画家の山内滋夫は孫にあたる。 京都市四条生まれ。東京美術学校卒業後にフランスに留学。二科展に入会し活躍。1926年には前田寛治・佐伯祐三らと1930年協会を設立したほか、児島善三郎らと独立美術協会を創立し、フォーブ運動を展開した。終戦後に国画会に入会。著書に「ブラマンク」など。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
池内 新蔵(いけうち しんぞう、1895年〈明治28年〉6月… 池内 新蔵(いけうち しんぞう、1895年〈明治28年〉6月6日 - 没年不明)は、日本の実業家、鳥取県多額納税者、地主。池内綿糸店社長。鳥取商工会議所顧問。 鳥取県鳥取市出身。池内新蔵の長男。1913年、旧制鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業する。家業の綿糸商を継承する。池内綿糸店、とりせんビル、丸興綿業各社長、鳥取大丸、鳥取瓦斯、日ノ丸証券、日ノ丸金属、日本海テレビ各取締役をつとめる。 鳥取市の豪商である。趣味は刀剣、読書。宗教は真宗。住所は鳥取市元大工町。 池内家は、藩政時代に主として酒造業により繁栄し、「高砂屋十家」と称された高砂屋一族のうちの一家である。「高砂屋十家」はいずれも高砂の郷士・池内氏を祖とし、本町四丁目にあった沢氏(初代高砂屋惣兵衛)と川端二丁目にあった小川氏(初代高砂屋六兵衛)を高砂屋両本家としていた。
一番ヶ瀬 佳雄(いちばんがせ よしお、1895年(明治28年… 一番ヶ瀬 佳雄(いちばんがせ よしお、1895年(明治28年)6月6日 - 1964年(昭和39年)11月15日)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚、陸軍司政長官。新竹州知事、台南州知事。 一番ヶ瀬健太郎の子として東京市に生まれる。第六高等学校を経て、1920年(大正9年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。在学中の1919年(大正8年)10月に高等試験行政科合格。卒業後、直ちに農商務省に奉職し農務局属となり、1925年(大正14年)5月に大阪府工業組合監督官、1934年(昭和9年)2月に拓務省管理局地方課長を経て、1935年(昭和10年)5月に台湾総督府殖産局農務課長に転じた。
小野 祐之(おの すけゆき、1895年(明治28年)6月5日… 小野 祐之(おの すけゆき、1895年(明治28年)6月5日 - 1944年(昭和19年)7月18日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・小沢。長男は元塩尻市長の小野光洪。 長野県上伊那郡小野村(現辰野町小野)で、小沢五郎三郎の三男として生まれ、東筑摩郡筑摩地村(現塩尻市北小野)の小野郡吾の養子となる。旧制長野県立松本中学(現・長野県松本深志高等学校)を経て、1920年、早稲田大学専門部政治経済科を卒業。陸軍に志願して入隊し2年後に歩兵少尉で除隊し、1928年、予備役歩兵中尉に昇進。帝国在郷軍人会本会審議員、同第十四師管連合支部審議員、同東筑摩郡連合分会長、同東筑摩郡将校分団長、同長野支部参事など、在郷軍人会の役職を務めた。