小山 源喜(こやま げんき、1915年7月8日 - 1991… 小山 源喜(こやま げんき、1915年7月8日 - 1991年4月11日)は、日本の男性俳優、声優、演出家。東京府東京市向島(現・東京都墨田区)出身。戦後のラジオドラマ黄金期を代表する声優。 隅田小、東京府立七中(現・東京都立墨田川高等学校)卒業、東京府青山師範学校中退。1934年(昭和9年)、遠縁に当たる二代目市川小太夫の縁で市川猿之助主宰の春秋座で初舞台を踏む(『若き日の成吉斯汗』)同年6月、丸山定夫のP・C・L映画に入る。1935年(昭和10年)10月、小山映画演劇研究所主宰。1936年(昭和11年)3月、新築地劇団演出部(千田是也の助手)を経て、1938年(昭和13年)には文学座旗揚げに参加。
山田 銀蔵(やまだ ぎんぞう、1915年7月8日 - 197… 山田 銀蔵(やまだ ぎんぞう、1915年7月8日 - 1978年12月25日)は、日本のクロスカントリースキー選手。青森県南津軽郡大鰐町出身。1936年ガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピック日本代表。 大鰐尋常高等小学校高等科を卒業後、青森営林局(青森林友)に勤務する。 1934年の第12回全日本スキー選手権大会クロスカントリースキー個人長距離(18km)で優勝。翌年の同大会32kmリレーでは、山田伸三らとともに青森林友を優勝に導いた。 1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックでは、クロスカントリースキー個人長距離(18km)で56位、4x10kmリレーで12位だった。 現役引退後は、地元青森で後進の育成に尽くした。
音羽 久米子(おとわ くめこ、1915年7月8日 - 没年不… 音羽 久米子(おとわ くめこ、1915年7月8日 - 没年不詳)は、日本の女優。本名は滝沢 ヤス(旧姓:森)。 1915年(大正4年)7月8日、東京府東京市四谷区(現在の東京都新宿区)に、父・芳五郎と母・寿美の8人兄姉の末子として生まれる。父は政治好きで、定職を持たなかった。 高等小学校を卒業後、師範学校入学を希望するが、芸事好きの末兄に勧められ、六代目尾上菊五郎が創設した日本俳優学校に2期生として入る。1936年(昭和11年)3月に卒業、その後は関西新派で舞台に立つが、数か月で帰京。久米正雄の紹介で9月に日活多摩川撮影所へ入社。六代目菊五郎の屋号である音羽屋と久米正雄の姓をもらって、芸名とする。
阪田 勝三(さかた かつぞう、1915年7月5日 - 201… 阪田 勝三(さかた かつぞう、1915年7月5日 - 2010年9月19日)は、日本の英米文学者。専門はジョン・キーツ、ウィリアム・フォークナー。 和歌山県生まれ。東北帝国大学法文学部英文科卒業。土居光知に師事。海軍大学校教授、戦後宮城学院女子大学助教授、教授を経て、1969年同大学および同短期大学にて公選制最初の学長。1972年日本大学文理学部教授、1976年「ジョン・キーツ論考 自己解体としての想像力」で日本大学文学博士。1986年日本大学定年後、96年までクラーク学園理事長を務めた(95-96年は和泉短期大学学長も兼務)。 多くのキーツ研究者が「思想の詩人としてのキーツ」を重く見るのに対し、阪田は「感覚の詩人としてのキーツ」に愛着を持った数少ない研究者である。
飛鳥 寛栗(あすか かんりつ、1915年7月5日 - 201… 飛鳥 寛栗(あすか かんりつ、1915年7月5日 - 2016年9月30日)は、浄土真宗の僧、仏教音楽研究家、元飛鳥山善興寺住職。近代日本の仏教音楽を体系化した人物である。 浄土真宗本願寺派善興寺(富山県高岡市)に生まれる。父は、同寺第17代住職で、浄土真宗本願寺派の監正局長をつとめた飛鳥寛徹。1939年龍谷大学文学部仏教学科卒業。学校法人清光学園清光女子高等学校(現高岡龍谷高校)初代常務理事、浄土真宗本願寺派教学伝道研究センター顧問をはじめ、財団法人国際仏教文化協会顧問や社会福祉法人中田保育園理事長などを歴任。仏教音楽コレクション・A主宰(現在は相愛大学の図書館に寄贈)。東洋音楽学会会員。善興寺第18代住職。
太田 緑子(おおた みどりこ、1915年(大正4年)7月5日… 太田 緑子(おおた みどりこ、1915年(大正4年)7月5日 - 2010年(平成22年)10月22日)は、日本の病院経営者。太田綜合病院の副理事長、夫の死後は理事長を経て名誉理事長を務めた。経営者として地域医療の充実、病院の発展に努める傍ら、福島県教育委員会委員長、福島県社会福祉協議会長、郡山国際フィルハーモニー協会副会長などを歴任して、地域の医療、社会福祉、教育、文化の発展に寄与し、福島県および郡山市の興隆のために尽くした。 1915年(大正4年)、福島県郡山町にて太田醫院を創業した医師の父三郎、母祥(さが)の七女として双子の妹薫子とともに生まれた。小学校を経て、安積高等女学校を卒業し、実践女子専門学校に進学し二年で中途退学した。
吉野 俊彦(よしの としひこ、1915年7月4日 - 200… 吉野 俊彦(よしの としひこ、1915年7月4日 - 2005年8月12日)は、日本銀行理事。父は逓信官僚の吉野圭三。 千葉県生まれ。武蔵高等学校を経て、1938年に東京帝国大学法学部を卒業し、日本銀行に入行する。日銀では調査局に勤め、内国調査課長、局次長、局長を経て1970年に理事に就任した。 1974年に山一證券経済研究所理事長に転じ、1984年に会長、1985年に特別顧問となり1998年まで務めた。また1978年1月に前川春雄副総裁を委員長とする日本銀行百年史編纂委員会が発足すると、呉文二、西川元彦と共に日本銀行百年史編纂委員会の委嘱委員を務めた。 神武景気以降、岩戸景気前夜の1950年代後半から1960年代初頭にかけて、戦後復興が一段落し、多くのエコノミストが「復興の勢いは終わり、これからは安定成長に移行する」と見通していた時期に、日本経済は依然として高い成長を維持できるか、それとも成熟・安定化すべきか、高度経済成長の是非と、日本経済の潜在能力をどのように評価するかを巡り、高度成長論者である下村治と安定成長論者の吉野の間で論争をおこなった。
金子 操(かねこ みさお、1915年7月1日 - 1990年… 金子 操(かねこ みさお、1915年7月1日 - 1990年3月22日)は日本の実業家。死亡時の役職は東宝代表取締役副社長、生活衛生同業組合京都興行理事長。東京都小平市出身。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
生源寺 廷(しょうげんじ ただし、大正4年〈1915年〉7月… 生源寺 廷(しょうげんじ ただし、大正4年〈1915年〉7月 - ?)は、日本の科学者。 大正4年(1915年)7月、父生源寺順、母嘉納治五郎の次女である忠子夫妻の長男として生まれる。昭和12年(1937年)3月31日、旧制福岡高等学校理科甲類を卒業。九州帝国大学応用化学科卒業。 博士論文「濃縮燃焼による亜硫酸パルプ廃液処理に関する研究」を著し、昭和36年(1961年)11月18日に工学博士を授与された。生源寺廷, 高橋英郎 & 丹野和夫 1962, p. 172によれば、工業技術院東京工業試験所に入所している。四国工業技術試験所(現在の産業技術総合研究所四国センター)に転じており(生源寺廷 1968, p. 26)、少なくとも翌年までは同所にいることが赤松勲・生源寺廷 1969, p. 195により判明している。
長岡 三重子(ながおか みえこ、1914年〈大正3年〉7月3… 長岡 三重子(ながおか みえこ、1914年〈大正3年〉7月31日 - 2021年〈令和3年〉1月19日)は、日本の女子水泳選手、実業家、能楽師。 1914年7月31日、山口県徳山市(現在の周南市)で、商家の7人兄弟の次女として生まれる。勉強熱心な家庭で山口県立徳山高等女学校(現在の山口県立徳山高等学校)に進学。同校を卒業したのち、1938年(昭和13年)、23歳の時に長岡守治と結婚し、藁工品の卸問屋「田布施長岡本店」に嫁ぐ。その後、守治との間に2人の子(二男)を授かり、専業主婦として一家を支え続けた。 1968年(昭和43年)、夫・守治が56歳で死去。53歳で家業を継ぐこととなったが、当時藁工品から化学製品への移行期で藁工品は斜陽になりつつあった。
立原 道造(たちはら みちぞう、1914年〈大正3年〉7月3… 立原 道造(たちはら みちぞう、1914年〈大正3年〉7月30日 - 1939年〈昭和14年〉3月29日)は、昭和初期に活躍し、24歳8か月で急逝した日本の詩人。建築家としての足跡も残した。別筆名(旧制一高時代の短歌投稿時に使用)に、三木祥彦・山木祥彦がある。東京帝国大学工学部建築学科卒業、学位(当時は称号)は工学士(東京帝国大学)。東大建築学科在学中の3年間、同学科より辰野賞を連続受賞、詩作では1938年に中原中也賞を受賞。 東京都中央区に生まれた。東京府立三中で芥川以来の秀才と称された。一高在学中に三中の先輩でもある堀辰雄を知り、また室生犀星に師事。東大在学中の夏に、信濃追分に滞在、土地の旧家の孫娘に恋をする。
上林 吾郎(かんばやし ごろう、1914年7月30日 - 2… 上林 吾郎(かんばやし ごろう、1914年7月30日 - 2001年6月21日)は、日本の経営者。文藝春秋社長、会長を務めた。京都府京都市出身。 1939年に早稲田大学文学部国文科を卒業し、同年に文藝春秋新社に入社。 出版部長、「文学界」・「オール讀物」・「週刊文春」・「文藝春秋」各編集長を経て、1961年に取締役に就任し、専務、副社長を経て、1984年6月に社長に就任。1988年5月には会長に就任。 2001年6月21日、肺炎のために死去。86歳没。
中原 歵(なかはら ただし、1914年(大正3年)7月30日… 中原 歵(なかはら ただし、1914年(大正3年)7月30日 - 1992年(平成4年)11月25日)は、日本の内務・警察官僚。警視総監。位階は正四位。 東京都出身。第一高等学校を卒業。1937年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1938年、東京帝国大学法学部を卒業。同年、内務省に入省し計画局属となる。1939年に徴兵され入営。1942年召集解除となる。 内務省に復帰し福岡県警察部職業課長に就任。以後、企画院勤務、内務省防空総本部業務局勤務、神奈川県警察部経済保安課長、同警備第一課長などを歴任し終戦を迎えた。 1946年、内務省警保局防犯課勤務となり、以後、山梨県警察部長、国家地方警察山梨県本部警察長、国家地方警察千葉県本部警察長、国家地方警察本部刑事部鑑識課長、同総務部会計課長、警察庁長官官房会計課長、茨城県警察本部長、警察庁警ら交通部長、警視庁交通部長、警察庁警務局人事課長、警視庁総務部長、同警務部長、警察庁警務局長などを歴任。
加藤 省吾(かとう しょうご、1914年7月30日 - 20… 加藤 省吾(かとう しょうご、1914年7月30日 - 2000年5月1日)は、静岡県富士市出身の作詞家。孫は声優の加藤有生子。 青春時代に聴いた流行歌「丘を越えて」に触発され、作詞家を志すようになった。1935年に単身上京、印刷会社に就職し、合間を縫って自作の歌詞をレコード会社に売り込んだ。1937年に書いた「かわいい魚屋さん」が山口保治の作曲を得て翌1938年にレコード化され、初のヒットとなった。その後音楽新聞社の記者を務めながら作詞を続ける。1946年には海沼實の依頼で創作した「みかんの花咲く丘」が空前の大ヒット、1949年にコロムビアと専属契約を結ぶ。1957年にキングレコードに移籍後は、子供向けテレビ番組の主題歌「隠密剣士の歌」「快傑ハリマオ」などがヒットした。
河合 滉二(かわい こうじ、1914年7月28日 - 199… 河合 滉二(かわい こうじ、1914年7月28日 - 1998年6月29日)は、日本の経営者。サッポロビールの社長、会長を務めた。岡山県井原市出身。 1939年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に大日本麦酒に入社。1949年にサッポロビールに移り、1971年に取締役に就任し、専務などを経て、1978年に社長に就任。1983年に会長に就任し、1985年から取締役相談役を務めた。1961年には上島珈琲会館を設立し、社長に就任した。 1984年に勲三等瑞宝章を受章した。 1998年6月29日肝不全のために横浜市の病院で死去。83歳没。
明石 孝(あかし たかし、1914年〔大正3年〕7月26日 … 明石 孝(あかし たかし、1914年〔大正3年〕7月26日 - 1997年〔平成9年〕5月29日 )は、近畿日本ツーリスト元社長、日本国有鉄道(国鉄)元常務理事である。 東京都出身。1938年〔昭和13年〕に東京帝国大学工学部を卒業した後に鉄道省に入省した。東京鉄道局新橋運輸部運転課長、同運転部電車課長、大阪鉄道管理局運転部長、東京鉄道管理局運転部長、運転局列車課長、名古屋鉄道管理局長、副技術長兼安全企画部長、運転局長など様々な要職での歴任を経て、1965年から1968年には国鉄常務理事東北支社長を務めた。 1968年4月に国鉄を退職し、同6月に近畿日本ツーリストに入社。顧問、専務取締役を経て、1973年から副社長を務めた。
石丸 藤吉(いしまる とうきち、1914年7月25日 - 1… 石丸 藤吉(いしまる とうきち、1914年7月25日 - 1991年11月21日)は、佐賀県佐賀市出身のプロ野球選手(内野手)。
有村 家斉(ありむら いえなり、1914年7月24日 - 1… 有村 家斉(ありむら いえなり、1914年7月24日 - 1997年6月23日)は、鹿児島県出身のプロ野球選手。 鹿児島第二中学校では投手として活躍し、1932年の全九州中等学校野球大会で佐賀中学校との試合では20三振を奪っている。 立教大学では4番ファーストとして出場し、卒業後は満州電業、全鹿児島、林兼造船とノンプロチームでプレー。 1952年に38歳という年齢で大洋ホエールズへ入団。1954年に外野手へ転向するが同年引退。1955年から大洋の二軍コーチに就任し、1957年に退団。 その後は北洋水産、柳川商業高校(現・柳川高校)、関東学院大学で監督を務めた。
南 博(みなみ ひろし、1914年7月23日 - 2001年… 南 博(みなみ ひろし、1914年7月23日 - 2001年12月17日)は、日本の社会心理学者。日本女子大学教授・一橋大学社会学部教授・成城大学教授を歴任。日本社会心理学会第3期・第9期・第10期理事長。 1914年、東京市赤坂区田町(現在の東京都港区赤坂)に生まれる。父は医師の南大曹(福島県出身、1878年生まれ。日本医科大学教授、日本消化器病学会会長、財団法人癌研究会理事長、南胃腸病院院長)。近藤達児は父の兄。石川千代松は母方祖母の弟。大倉喜八郎は叔母の祖父であり、林達夫も叔母の縁続きに当たる。 慶應義塾幼稚舎、東京高等学校 (旧制) 尋常科から理科乙類を経て、父親の希望により医師を志すが、父の激務に恐れをなし1937年(昭和12年)東京帝国大学医学部を中退。
斎田 朋雄(さいだ ともお、1914年〈大正3年〉7月23日… 斎田 朋雄(さいだ ともお、1914年〈大正3年〉7月23日 - 2012年〈平成24年〉7月)は、日本の詩人。本名は斎田 友雄(さいだ ともお)。群馬県ペンクラブ会長、西毛文学代表、日本ペンクラブ、日本現代詩人会、群馬詩人クラブ会員。 群馬県甘楽町福島に生まれる。 満州事変勃発の1931年(昭和6年)頃、詩の同人活動を開始した。1953年(昭和28年)、総合文学雑誌『西毛文学』(NCID AA11685096)を創刊した。1957年(昭和32年)群馬詩人クラブを創設。 1971年(昭和46年)、同じ群馬出身の詩人・大手拓次に触れ、その功績を大きく評価。自ら「大手拓次曼荼羅」を著し、『西毛文学』に連載した。
水口 宏三(みなくち こうぞう、1914年(大正3年)7月2… 水口 宏三(みなくち こうぞう、1914年(大正3年)7月21日 - 1973年(昭和48年)3月1日)は、日本の農林官僚、政治家。参議院議員(1期)。 東京府東京市本郷区本郷(現在の東京都文京区本郷)生まれ。東京府立高等学校を経て、1938年(昭和13年)、東京帝国大学農学部卒業後、農林省入省。1942年-1943年(昭和17-18年)企画院出向。戦後は供米制度に反対、1946年(昭和21年)、全農林職員労働組合を結成して初代委員長に選出、官公庁民主化運動の前面に立ち人事への発言権を得ることに尽力、全官公庁共同闘争委員会議長にもなった。その後、全官公職員労働組合の初代委員長に就任。1947年(昭和22年)の二・一ゼネストでは、中心指導者となる。
杉浦 清(すぎうら きよし、1914年7月20日 - 198… 杉浦 清(すぎうら きよし、1914年7月20日 - 1987年8月22日)は、愛知県西尾市出身のプロ野球選手・監督、旧制中等学校野球指導者、野球解説者。
滝崎 安之助(たきざき やすのすけ、1914年7月20日 -… 滝崎 安之助(たきざき やすのすけ、1914年7月20日 - 1980年9月5日)は、日本のドイツ文学者。東京大学名誉教授。 愛知県出身。1939年東京帝国大学独文科卒業。左翼文学運動に加わる。 戦後は新日本文学会に入りその後『人民文学』にも参加。 学習院大学助教授、東京大学教養学部助教授、1965年教授(ドイツ語)、1975年定年退官、名誉教授。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
大内 俊司(おおうち しゅんじ、1914年7月20日 - 2… 大内 俊司(おおうち しゅんじ、1914年7月20日 - 2001年7月4日)は、日本の経営者。山陽特殊製鋼社長を務めた。岐阜県出身。 1938年に日本大学法文学部を卒業し、同年に富士製鉄に入社。1965年に取締役に就任し、1967年に常務、1970年に新日本製鐵常務、1973年に専務、1977年に副社長、1979年に常任顧問を経て、1980年に山陽特殊製鋼社長に就任し、同社の再建に尽力。1986年に会長に就任し、1992年には相談役に就任。新日本製鐵室蘭硬式野球部の初代監督も務めた。 1975年に藍綬褒章を受章し、1984年に勲二等旭日重光章を受章。 2001年7月4日肺炎のために死去。86歳没。
高平 公友(たかひら きみとも、1914年7月18日 - 2… 高平 公友(たかひら きみとも、1914年7月18日 - 2000年2月10日)は、日本の政治家。参議院議員(2期、自由民主党)。 富山県出身。滑川商卒。立山町議を1期、富山県議を5期、同議長も務める。1975年、町議や県議として公共の福祉に奉仕して地方自治の発展に貢献したとして藍綬褒章受章。1977年の第11回参議院議員通常選挙に富山県選挙区から自民党公認で立候補して初当選し、2期務める。自民党参議院国会対策副委員長、鈴木善幸内閣科学技術政務次官、内閣委員長などを歴任した。1989年に引退。1990年秋の叙勲で勲二等瑞宝章受章。 2000年2月10日、胃癌のため富山県富山市の流杉病院で死去、85歳。
浜野 政雄(はまの まさお、1914年(大正3年)7月18日… 浜野 政雄(はまの まさお、1914年(大正3年)7月18日 - 2007年(平成19年)1月9日)は、日本の音楽教育学者。 東京出身。1941年東京音楽学校甲種師範科卒。1941年福井県鯖江師範学校、42年8月青山師範学校(のち東京第一師範学校)教授、1949年東京都教育庁指導主事、56年文部省教科書調査官、1965年東京芸術大学講師、助教授、教授、音楽学部長。1983年名誉教授、武蔵野音楽大学教授。90年春、勲三等旭日中綬章受勲。
山田 禅二(やまだ ぜんじ、1914年7月17日 - 没年不… 山田 禅二(やまだ ぜんじ、1914年7月17日 - 没年不明)は、日本の俳優。本名は万田 正敏(まんだ まさとし)。北海道浦河郡浦河町出身。グループ71に所属していた。 1929年、北海道庁立室蘭商業学校中退後、王子製紙工業苫小牧工場に入社。 映画『大学は出たけれど』を鑑賞したことがきっかけで、1936年に日活多摩川撮影所の美術部に入社 。翌年、俳優に転向し、助演俳優として活動 。戦後は大映に入る 。戯曲座の舞台でも活動した 。1954年に映画製作を再開した日活に戻り、アクション映画の悪役として活躍。1966年にフリーに転向して以降はテレビドラマを中心に活動した 。
内村 皓一(うちむら こういち、大正3年(1914年)7月1… 内村 皓一(うちむら こういち、大正3年(1914年)7月15日 - 平成5年(1993年)12月29日)は20世紀に活躍した写真芸術家。 陰翳を重視する姿勢から作品はモノクロのみであり、カラーのものは一点もない。満州時代の作品は戦争という過酷な状況に生きる名もない人間の姿を写しながら荘厳な印象をあたえるものが多い。帰国後のものは神社仏閣・人物表現を通して日本の風習・礼節の描写に力を入れ、「東洋の幽玄美」と評された。
林 富士馬(はやし ふじま、1914年7月15日 - 200… 林 富士馬(はやし ふじま、1914年7月15日 - 2001年9月4日)は、東京府出身の詩人、文芸評論家、医師。俳号は空花。 東京府大曲に生まれ、父母の郷里である長崎県に育つ。長崎では芥川龍之介の門人だった渡辺庫輔と交友。慶應義塾大学文学部在学中に佐藤春夫の門人となり、1935年夏頃、佐藤邸にて太宰治と知り合う。1939年、佐藤春夫の序文を得て、第一詩集『誕生日』(私家版)を刊行(林修平名義)。しかし、薬物中毒や自殺未遂を繰り返す太宰の激しい生き方を見て一度は文学を断念した。 慶應義塾大学を中退して日本医科大学を卒業し、医師となる。1943年、文学青年時代の三島由紀夫と知り、当時まだ無名だった三島の才能を高く評価。
納家 米吉(なや よねきち、1914年7月15日 - 194… 納家 米吉(なや よねきち、1914年7月15日 - 1941年4月3日)は、和歌山県出身のプロ野球選手(投手、外野手)。 1914年に和歌山市で生まれた。雄小学校から和歌山高等小学校に進み、和歌山中学に進学した。和歌山中学で活躍していたが浪華商業学校にスカウトされる。浪華商時代は甲子園に合計4度出場(第9回選抜中等学校野球大会、第10回選抜中等学校野球大会、第19回全国中等学校優勝野球大会、第11回選抜中等学校野球大会)。昭和9年春の選抜では準決勝で享栄商・近藤金光と二日間にわたる投げ合いの末4対2で下し、同校初の決勝進出。決勝戦では東邦商(現・東邦高校)の立谷順市投手(専修大学)との投手戦となり、0対0のまま延長戦に突入。
丸山 静(まるやま しずか、男性、1914年7月12日 - … 丸山 静(まるやま しずか、男性、1914年7月12日 - 1987年7月2日)は、日本の文芸評論家。 東京帝国大学仏文科卒、京都帝国大学東洋史学科卒。1980年から愛知大学教授を務めた。 風巻景次郎・西郷信綱らと「抒情」を創刊。当初は島木赤彦をはじめ現代日本文学の評論を行ったが、のち文化人類学、民俗学に関心を移し、『熊野考』を遺作として残した。 ジュリア・クリステヴァ、ジョルジュ・デュメジルなどの訳者としても知られる。1968年、現象学会設立。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
熊谷 尚夫(くまがい ひさお、1914年(大正3年)7月11… 熊谷 尚夫(くまがい ひさお、1914年(大正3年)7月11日 - 1996年(平成8年)6月11日)は、日本の経済学者。専門は、厚生経済学・経済政策。学位は、経済学博士(大阪大学・論文博士・1958年)(学位論文「資本主義経済と雇傭」)。大阪大学名誉教授。日本学士院会員。位階は従三位。岡山県岡山市生まれ。河合栄治郎門下。
室井 綽(むろい ひろし、1914年7月11日 - 2012… 室井 綽(むろい ひろし、1914年7月11日 - 2012年10月5日)は、植物学者。専門は竹の分類、植物の生態。「日本竹笹の会」の会長として研究をリードし、「竹博士」と呼ばれた。 兵庫県赤穂市生まれ。1938年、盛岡高等農林学校農学部(現岩手大学農学部)卒業。1948年、第二神戸中学校(現兵庫県立兵庫高等学校)の教諭となり、1956年、富士竹類植物園(静岡県駿東郡長泉町)の初代園長となる。1962年「有用竹類の形態学的特性とその利用に関する研究」で北海道大学農学博士。1973年、県立兵庫高等学校を退職し、姫路学院女子短期大学教授。同年、兵庫県生物学会長。2012年10月5日、肺炎のため死去。
松本 民之助(まつもと たみのすけ、1914年7月11日 -… 松本 民之助(まつもと たみのすけ、1914年7月11日 - 2004年3月15日)は、日本の作曲家、教育者。東京藝術大学名誉教授。 1936年(昭和11年)東京音楽学校甲種師範科卒業。下総皖一に作曲、伊藤武雄に声楽、福井直俊にピアノを師事する。1936年 (昭和12年) ベルリンオリンピックの芸術競技で佳作入選。1938年(昭和14年)交響曲『文覚』がワインガルトナー賞優等賞受賞。作曲家の松本日之春、松本清は息子。弟子に坂本龍一や嵐野英彦、赤石敏夫らがいる。東京芸術大学音楽学部附属高等学校で松本に師事した奥慶一によれば「非常に熱心かつ厳格」という人物評がある。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
渡辺 俊男(わたなべ としお、1914年〈大正3年〉7月10… 渡辺 俊男(わたなべ としお、1914年〈大正3年〉7月10日 - 2007年〈平成19年〉8月18日)は、日本の運動生理学者、脳生理学者、医師。医学博士。お茶の水女子大学教授、横浜国立大学教授、日本大学教授。日本体力医学会名誉会員。 新潟県岩船郡関谷村下関(現 関川村下関)で渡辺医院(内科・外科)を開業する医師・渡辺彊(つとむ)の長男として出生。 関尋常高等小学校を経て、1932年(昭和7年)3月に新潟中学校を卒業、1934年(昭和9年)4月に東京慈恵会医科大学予科に入学、1937年(昭和12年)3月に予科を修了、1941年(昭和16年)3月に東京慈恵会医科大学医学部を卒業。 軍医として仙台の日本陸軍第2師団に入隊、会津若松陸軍病院に勤務、1943年(昭和18年)に応召、中国北部の日本陸軍第59師団に入隊、野戦病院(第3311部隊)に勤務、1945年(昭和20年)8月15日に朝鮮北東部の興南で終戦、ソビエト連邦によってシベリアに抑留され、1947年(昭和22年)12月に舞鶴港に帰還、最終階級は陸軍軍医少佐(ポツダム少佐)。
雲藤 義道(うんどう ぎどう、1914年〈大正3年〉7月8日… 雲藤 義道(うんどう ぎどう、1914年〈大正3年〉7月8日 - 2000年〈平成12年〉11月2日)は、浄土真宗の僧、仏教学者。位階は従四位。 島根県出身。1937年(昭和12年)に東京帝国大学文学部宗教学科卒業。中山文化研究所、1965年武蔵野女子大学教授、1972年学長、1985年定年退任、名誉教授。武蔵野学院長。1986年春の叙勲で勲三等瑞宝章を受章。2000年死去。死没日付をもって従四位に叙された。
岡崎 文次(おかざき ぶんじ、1914年(大正3年)7月7日… 岡崎 文次(おかざき ぶんじ、1914年(大正3年)7月7日 - 1998年(平成10年)7月23日)は、日本の技術者。富士写真フイルム在籍時の1956年、ほとんど独力で国産初のプログラム記憶方式のコンピュータ「FUJIC」を開発した。 富士写真フイルム退職後、日本電気(NEC)を経て、専修大学経営学部が情報教育開始のため「情報管理学科」を設置する際に、初代教授として招聘された。 「科学朝日」1948年8月号のSSEC(Selective Sequence Electronic Caculator)の記事とグラビア写真を見て計算機の実現可能性を信じたことが、岡崎文次のFUJIC開発の動機である。
高木 豊(たかぎ ゆたか、1914年7月7日 - 2005年… 高木 豊(たかぎ ゆたか、1914年7月7日 - 2005年5月14日)は日本の物理学者。特に強誘電体の研究者として有名である。東京工業大学、名古屋大学、大同工業大学(現在の大同大学)で教授を務めた。 1914年、現・大韓民国の釜山市で生まれた。旧制福岡高等学校を経て東京帝国大学(現・東京大学)に入学。1937年、同大学理学部物理学科を卒業し、授業担当の嘱託を経て1939年に理学部講師に就任。ここでエントロピーを計算する「高木の方法」を開発し、合金の規則-不規則転移を統計力学的に導いた。また、スレーターモデルを拡張して強誘電体であるKH2PO4の相転移を考察している。 1942年に第二工学部講師となり、高温まで連続で測定できる断熱型比熱測定法を開発し、「長崎-高木断熱計」と名付けられた。
下光 軍二(しもみつ ぐんじ、1914年7月5日 - 200… 下光 軍二(しもみつ ぐんじ、1914年7月5日 - 2009年2月1日)は、日本の弁護士。1980年に破産したネズミ講「天下一家の会・第一相互経済研究所」の破産管財人。朝日法律相談所の設立メンバー。第一東京弁護士会所属。東京医科大学教授の下光輝一は息子。 1914年、広島県に生まれる。1941年、中央大学法学部卒業。1946年、弁護士開業。1949年、朝日新聞法律相談所を開設。 2009年、多発性脳梗塞にて死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。
柳原 三郎(やなぎはら さぶろう、1914年(大正3年)7月… 柳原 三郎(やなぎはら さぶろう、1914年(大正3年)7月3日 - 1990年(平成2年)1月25日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 岐阜県岐阜市出身。1932年(昭和7年)岐阜県立岐阜中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)を卒業。その後、日本大学を卒業した。 岐阜県会議員に選出され、司法保護委員も務めた。柳原工業工場長、同取締役副社長、岐阜商工会議所議員、岐阜県体育協会長などを歴任。岐阜青年連盟主幹に就任し『暁鐘』を主宰した。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で岐阜県第1区に民主党公認で出馬して初当選。その後、1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
木下 昌雄(きのした まさお、1914年 <大正3年> 7月… 木下 昌雄(きのした まさお、1914年 <大正3年> 7月3日 - 1995年 <平成7年> 7月19日)は、日本の経営者、工学博士。日立造船社長を務めた。位階は正四位。運動生理学者・木下東作の次男。兄は動物生理学者の木下治雄。妻・敦子は東京都知事・日本赤十字社社長を務めた東龍太郎の長女。 大阪府出身。1937年に東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業。海軍造船大尉を経て、1940年に東京帝国大学工学部助教授に就任し、1946年に鉄道技術研究所での勤務を経て、1949年に日立造船に入社。1964年11月に取締役に就任し、1967年11月に常務を経て、1973年11月に副社長に就任し、1979年6月に社長に昇格。
上松 陽助(うえまつ ようすけ、1914年(大正3年)7月2… 上松 陽助(うえまつ ようすけ、1914年(大正3年)7月2日 - 1996年(平成8年)1月18日)は、日本の政治家。岐阜県知事、岐阜市長を務めた。岐阜県名誉県民、岐阜市名誉市民。 岐阜県岐阜市出身。岐阜中学校(現:岐阜県立岐阜高等学校)、第八高等学校(現:名古屋大学)、東京帝国大学法学部政治学科(現:東京大学)卒業。 その後、日鉄鉱業に就職し、兵役を経て、雑貨を扱う常盤産業株式会社を設立し代表取締役社長に就任。 岐阜市役所に入庁し、経済部長、企業部長、民生部長、農林部長、民生局長等の要職を歴任した。収入役を経て、1970年に岐阜市長に初当選。 1977年2月に岐阜県知事選挙に出馬し、日本社会党参議院議員の中村波男らを破り初当選。
北川 悌二(きたがわ ていじ、1914年7月2日- 1984… 北川 悌二(きたがわ ていじ、1914年7月2日- 1984年12月16日)は、日本の英文学者。 東京生まれ。1938年東京帝国大学文学部英文科卒。旧制松本高等学校教授、旧・東京都立大学助教授を経て、東京大学教養学部教授、1975年定年、立正大学教授、獨協大学教授。 エリザベス朝演劇からサマセット・モーム、チャールズ・ディケンズ、ハーマン・メルヴィルなど幅広く翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
大平 昌彦(おおひら まさひこ、1914年7月1日 - 20… 大平 昌彦(おおひら まさひこ、1914年7月1日 - 2010年2月1日)は日本の医学者。岡山大学名誉教授。専門は公衆衛生学。 福岡県出身。1932年福岡県中学修猷館、1935年旧制福岡高等学校理科甲類を経て、1939年九州帝国大学医学部卒業。同年5月九州帝国大学医学部第3内科(小野寺直助教授)に入局するが、同年7月には海軍軍医となり、横須賀海軍病院、海軍軍医学校、連合艦隊第4潜水戦隊、海南島陸戦隊、稚内通信隊、海軍潜水学校、ラバウル潜水艦基地に勤務する。 1946年5月復員。同年10月九州帝国大学大学院特別研究生となり、1948年9月満了。九州大学医学部助手を経て、1950年5月助教授に就任。
玉置 猛夫(たまき たけお、1914年(大正3年)7月1日 … 玉置 猛夫(たまき たけお、1914年(大正3年)7月1日 – 2010年(平成22年)4月21日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 香川県小豆郡草壁村(草壁町、内海町草壁本町を経て現小豆島町)で生まれる。1941年(昭和16年)神戸商業大学(現神戸大学)を卒業した。 1941年、日本銀行に入行。外国為替局、考査局、為替管理局などで勤務し、1960年(昭和35年)に退行した。 1960年11月の第29回衆議院議員総選挙に香川県第1区から無所属で出馬して落選し、以後1967年(昭和42年)1月の第31回総選挙まで2回連続で立候補したがいずれも落選。1968年(昭和43年)7月の第8回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
堀江 英一(ほりえ ひでいち、1913年(大正2年)7月31… 堀江 英一(ほりえ ひでいち、1913年(大正2年)7月31日 - 1981年(昭和56年)11月3日)は、日本の経済史学者。京都大学名誉教授。 徳島県出身。京都帝国大学経済学部卒。同助教授を経て、1947年京都大学教授、1956年「明治維新の社会構造」で、経済学博士(京都大学)の学位を取得。1976年定年退官、名誉教授、名城大学教授。西欧と日本の資本主義発達史を専門とし、戦後の経済史学会の中心であった。
常木 実(つねき みのる、1913年7月31日 - 2005… 常木 実(つねき みのる、1913年7月31日 - 2005年1月31日)は、日本のドイツ文学者。 千葉県生まれ。1938年東京帝国大学文学部独文科卒。外務省嘱託、旧制山形高等学校教授、旧制浦和高等学校教授。戦後東京大学教養学部助教授、教授、74年定年退官、名誉教授、帝京大学医学部教授、94年退職。
新美 南吉(にいみ なんきち、1913年〈大正2年〉7月30… 新美 南吉(にいみ なんきち、1913年〈大正2年〉7月30日 - 1943年〈昭和18年〉3月22日)は、日本の児童文学作家。本名は新美 正八(旧姓:渡邊)。愛知県半田市出身。雑誌『赤い鳥』出身の作家の一人であり、彼の代表作『ごん狐』(1932年)はこの雑誌に掲載されたのが初出。結核により29歳で亡くなったため、作品数こそ多くないがごん狐が小学校の国語教科書に継続的に採用されており、近年でもアニメーション制作が実施されたり学芸会の演目になることも多いので現在でも一定の国民からの知名度を持つ。童話の他に童謡、詩、短歌、俳句や戯曲も残した。彼の生前から発表の機会を多く提供していた友人の巽聖歌は、南吉の死後もその作品を広める努力をした。
岡見 正雄(おかみ まさお、1913年7月30日 - 199… 岡見 正雄(おかみ まさお、1913年7月30日 - 1990年2月6日)は、日本の国文学者。学位は、文学博士(京都大学・論文博士・1962年)(学位論文「中世小説研究序説」)。京都女子大学教授・関西大学教授・中京大学教授を歴任。 東京生まれ(本籍は秋田県)。父は岡見宇一。1923年に大阪へ転居、浪速高等学校 (旧制)卒、1936年に京都帝国大学文学部国文科卒、大学院入学。 1939年に天理外国語学校 (旧制)(現:天理大学)教授、1943年に京都府立京都第一高等女学校(現:京都府立鴨沂高等学校)教諭、1948年に京都府立桃山高等学校教諭、1949年に京都市立日吉ヶ丘高等学校教諭、1954年に京都女子大学教授、1961年に関西大学教授、1962年「中世小説研究序説」で京都大学より文学博士の学位を取得。
堀 多恵子(ほり たえこ、1913年(大正2年)7月30日 … 堀 多恵子(ほり たえこ、1913年(大正2年)7月30日 - 2010年(平成22年)4月16日)は、日本の随筆家。 静岡県出身。堀辰雄の妻。旧名・加藤多恵。父は日本郵船の駐在員で、香港、広東で育つ。東京女子大学卒。1937年弟の俊彦とともに静養のため軽井沢に行く。辰雄の婚約者・矢野綾子の死後、山下三郎(山下汽船)の弟の波郎に辰雄を紹介され、1938年室生犀星の媒酌で堀辰雄と結婚。1953年に辰雄が死去、以後信濃追分にある辰雄の家(その後堀辰雄文学記念館となる)を守り、彼の思い出などを書いて半世紀生きた。