鈴木 三郎(すずき さぶろう、1912年7月28日 - 19… 鈴木 三郎(すずき さぶろう、1912年7月28日 - 1997年9月23日)は、日本の哲学者。横浜市立大学名誉教授。 広島県出身。1936年東京帝国大学文学部哲学科卒。1961年「ヤスパースにおける実存倫理学の研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。横浜大学[疑問点 – ノート]助教授、校名変更で横浜市立大学教授を務め、1978年定年退官、名誉教授。 1950年12月、草薙正夫・武藤光朗・金子武蔵らとヤスパース協会創立のための準備会を開き、翌年2月23日(2月23日はヤスパースの誕生日)発足、理事長を務めた。
早川清(はやかわ きよし、1912年7月28日 - 1993… 早川清(はやかわ きよし、1912年7月28日 - 1993年7月9日)は、早川書房の創業者、社長。東京府(現:東京都)生まれ。 専修大学経済学部卒業。大学時代は相撲部に参加。海音寺潮五郎、戸川貞雄主催の同人誌『文学建設』に、黒沼健、乾信一郎らとともに参加。 1935年に早川書房を設立。1945年8月に正式に創業し、文芸書、演劇書を中心として出版を始め、1947年演劇雑誌『悲劇喜劇』を創刊、1952年、株式会社に改組し社長に就任する。 海外ミステリーの翻訳に力を入れ、1953年よりハヤカワ・ポケット・ミステリを創刊し今日まで続いている。1956年『エラリイ・クイーンズ・ミステリマガジン』を創刊、1966年より『ミステリマガジン』として続いている。
里見 明正(さとみ あきまさ、1912年7月26日 - 19… 里見 明正(さとみ あきまさ、1912年7月26日 - 1974年10月24日)は、埼玉県出身の洋画家。浦和画家のひとり。 熊谷中学校出身。浦和画家の須田剋太と同じく光風会に所属し、浦和市(現・さいたま市南区)の別所沼畔にアトリエを構え、須田のアトリエと隣り合っていた。別所沼対岸(稲荷台)の林倭衛のアトリエにも須田としばしば訪れた。また、寺内萬治郎の門下生が集まる武蔵野会に参加した。新文展に初入選で特選を受賞した。県北美術家協会会長、熊谷市教育委員長などを歴任し、文化の振興にも貢献した。作品は埼玉県立近代美術館に所蔵されている。
中山 正(なかやま ただし、1912年7月26日 - 196… 中山 正(なかやま ただし、1912年7月26日 - 1964年6月5日)は、日本の数学者(環論・表現論)。名古屋大学教授在職中に逝去。 東京生まれ。1935年、東京帝国大学を卒業。1937年から2年間、プリンストン高等研究所に滞在。1941年、大阪帝国大学より博士号を取得。1944年、名古屋大学教授。1954年に日本学士院賞を受賞。1963年日本学士院会員。名古屋数学雑誌(NAGOYA MATHEMATICAL JOURNAL)の創刊、編集に尽力した。代数学における中山の補題で有名。1964年に結核のため死去。晩年、理学部A館4階の研究室まであえぎつつ階段を昇る博士のために置かれたという「中山先生の椅子」の話はいまでも語り継がれている。
高橋 庄次郎(たかはし しょうじろう、1912年(明治45年… 高橋 庄次郎(たかはし しょうじろう、1912年(明治45年)7月23日 - 1995年(平成7年)3月25日)は、日本の政治家。埼玉県議会議長、埼玉県蕨市長。 1912年(明治45年)7月23日、埼玉県に生まれる。1937年(昭和12年)に法政大学を卒業する。 埼玉県蕨町助役、町長を経て、蕨市長に就任する。埼玉県議会議員に当選し、1971年(昭和46年)に副議長、1977年(昭和52年)に議長に就任する。この間、1959年の第5回参議院議員通常選挙に埼玉選挙区から自由民主党公認で立候補して落選した。 1995年(平成7年)3月25日に死去、82歳。 蕨町の青年団長時代に、青年祭(のちに成年式)を主唱・企画し、1946年11月22日に実施する。
糸川 英夫(いとかわ ひでお、1912年7月20日 - 19… 糸川 英夫(いとかわ ひでお、1912年7月20日 - 1999年2月21日)は、日本の工学者。専門は航空工学、宇宙工学。ペンシルロケットに始まるロケット開発や宇宙開発を先導し、「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれる。 小惑星探査機「はやぶさ」が調査を行ったことでも知られる小惑星「イトカワ」は、糸川英夫にちなんで命名された。 1912年、東京市麻布区(現在の東京都港区西麻布)で生まれる。小学校では六本木、中学校からは東京青山に育った。教育者の家庭であり父は麻布の笄小学校の教師であった。英夫という名は、1912年の東大銀時計卒業者(首席)の鳩山秀夫にちなみ、秀才好きの父に命名された。越境入学で麻布の南山小学校に学び飛び級で卒業した。
中内 力(なかうち つとむ、1912年〈明治45年〉7月20… 中内 力(なかうち つとむ、1912年〈明治45年〉7月20日 - 2001年〈平成13年〉11月22日、満89歳没)は、日本の政治家。高知県知事を務めた。 高知県吾川郡明治村(現・高岡郡越知町)出身(なお、出生地は現在の吾川郡いの町)である)。明治村立鎌井田尋常小学校、明治村立片岡尋常高等小学校を経て旧制・高知県立高知城東中学校(現高知県立高知追手前高等学校)卒業。その後、大阪での就職を経て帰高し高知県の外郭団体たる高知県体育協会の職員になり、その後高知県職員となる。民生部長、厚生労働部長、高知県教育長、副知事を歴任(なお、生え抜き初の副知事である)。とりわけ、いわゆる勤評闘争時には高知県教育長として組合側と対峙し、県教育界正常化のために奔走する。
灰山 元治(はいやま もとはる、大正元年(1912年)7月1… 灰山 元治(はいやま もとはる、大正元年(1912年)7月17日 - 昭和62年(1987年)11月27日)は、昭和初期に中等野球他で活躍したアマチュア野球選手、プロ野球選手。投手・内野手。プロ入り後は灰山元章と改名した。広島県佐伯郡廿日市町桜尾(現:廿日市市)出身。
細川 護貞(ほそかわ もりさだ、1912年〈明治45年〉7月… 細川 護貞(ほそかわ もりさだ、1912年〈明治45年〉7月17日 - 2005年〈平成17年〉10月3日)は、旧肥後熊本藩細川家の第17代当主。第2次近衛内閣で内閣総理大臣秘書官を務めた。 1912年(明治45年)、細川侯爵家第16代当主・細川護立と博子(侯爵池田詮政の長女)の長男として生まれる。曾祖父に島津忠義と鍋島直正。旧制学習院高等科を経て京都帝国大学で狩野直喜博士の教えを受ける。京大法学部卒業後、企画院嘱託。 1940年(昭和15年)、第2次近衛内閣で首相秘書官に就任する。1943年(昭和18年)、昭和天皇の弟宮高松宮宣仁親王の御用掛となり宮中グループを中心に各方面の有識者から情報や意見を収集し、海軍グループで同郷出身の高木惣吉海軍少将に協力して東條英機暗殺未遂事件や終戦工作の一翼を担い、戦時中の動静を「細川日記」として戦後発表している。
中里 喜一(なかざと きいち、1912年 <明治45年> 7… 中里 喜一(なかざと きいち、1912年 <明治45年> 7月16日 - 2001年 <平成13年> 1月21日)は、日本の政治家。東京都江戸川区長(9期)。位階は従四位。勲三等瑞宝章。 現在の東京都江戸川区生まれ。東京府立第一商業学校(現・東京都立第一商業高等学校)を卒業した。 1930年、東京府南葛飾郡松江町役場に入る。江戸川区教育課長、総務課長などを経て、1960年、助役となり、1964年、区長に就任する。区長を9期36年務め(この間、特別区区長公選制が導入され、中里は選任制と公選制の両方で区長に選ばれた)、1999年退任、この間、東京23区区会副会長などを歴任した。同年、江戸川区から名誉区民を贈られた。
松尾 孝(まつお たかし、1912年(明治45年)7月15日… 松尾 孝(まつお たかし、1912年(明治45年)7月15日 - 2003年(平成15年)10月28日)は、日本の実業家。カルビー創業者。広島県広島市出身。 カルビーの前身は1905年(明治38年)広島市宇品で創業した広島名産柿ようかん製造の松尾巡角堂である。ただ、松尾が幼少時代の家業は、米ぬかを中心とした穀粉製造販売を行っていた。幼少期は比較的不自由なく生活していた。太田川(旧太田川)で捕った小エビで母親が作ってくれたかき揚げが大好物で、これがのちにかっぱえびせんにつながっていく。 もち米の暴落で父が相場で失敗し、当時の金額で1万円の莫大な借金を抱えた。さらに1927年(昭和2年)広島第一中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)5年のとき、母が亡くなり、病弱で足も不自由な父と弟を養わなくてはならなくなり家業を始めた。
内山 興正(うちやま こうしょう、1912年7月15日 - … 内山 興正(うちやま こうしょう、1912年7月15日 - 1998年3月13日)は日本の曹洞宗の僧侶で、折り紙作家。詩人。 澤木興道に長年師事し、その死後に安泰寺の住職となる。 兄弟子に横山祖道、弟弟子に弟子丸泰仙がいる。 渡部耕法、唐子正定、関口道潤、櫛谷宗則、奥村正博、山本成一、本多廸冨、鷹峰道雄等がいる。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
阿木 翁助(あぎ おうすけ、1912年7月14日 - 200… 阿木 翁助(あぎ おうすけ、1912年7月14日 - 2002年9月11日)は、日本の劇作家、脚本家。本名:安達鉄翁。息子は東宝プロデューサー。孫は笠井信輔(元フジテレビアナウンサー)。 脚本作品としては、1957年のNHKのラジオドラマ「花くれないに」、1964年のNET系のテレビドラマ「徳川家康」などが知られる。 長野県諏訪郡下諏訪町出身。旧制長野県立諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。1930年、小説家を志し上京。 1932年東京プロレタリア演劇研究所を卒業、築地小劇場演劇研究所の研究生となり、1934年にはムーラン・ルージュ新宿座文芸部、新派文芸部に入って劇作家としての道を歩み始め、「女中あい史」の脚本で名を挙げる。
楫西 貞雄(かじにし さだお、1912年〈明治45年〉7月1… 楫西 貞雄(かじにし さだお、1912年〈明治45年〉7月14日 - 1996年頃)は、日本の造園系都市計画家。 本人の文章によると、東京帝国大学農学部において、菊竹倉二と同じ研究室に所属していたという。 建設省計画局都市計画課や施設課長、大阪府土木部計画課技師、千葉市建設局等を歴任した。1958年当時は「協和コンサルタンツ顧問」であった。その後、社団法人日本緑化センター常務理事を務める[要出典]。 1978年に第5回日本公園緑地協会北村賞を受賞。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小西 四郎(こにし しろう、1912年7月14日 - 199… 小西 四郎(こにし しろう、1912年7月14日 - 1996年2月5日)は、日本の歴史学者、東京大学名誉教授。幕末史が専門。 兵庫県生まれ。東京帝国大学国史学科卒。文部省維新史料編修官を経て東京大学史料編纂所教授、1973年定年退官。NHK大河ドラマ『翔ぶが如く』の監修を務めた。 1996年、急性骨髄性白血病のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
湊 素堂(みなと そどう、1912年(明治45年)7月14日… 湊 素堂(みなと そどう、1912年(明治45年)7月14日 - 2006年(平成18年)7月24日)は、昭和から平成にかけて代表する臨済宗の禅僧。俗姓は湊。道号は葆州、法諱は素堂 (そどう)。室号は用いず。徳島県徳島市津田町出身。臨済宗建長寺派管長(1964年-1980年)、臨済宗建仁寺派管長(1989年-1999年)。湊 葆州(みなと ほしゅう) とも言う。世寿95。 1912年 (明治45年) 7月14日、徳島県徳島市津田に湊勝治郎・たねの四男として生まれ、恵人(よしひと)と名付けられた。 1926年(大正15年) 4月、徳島県立徳島中学校(現・徳島県立城南高等学校)に入学。1932年(昭和7年) 4月、旧制高知高等学校に入学。
橋本 武(はしもと たけし、1912年7月11日 - 201… 橋本 武(はしもと たけし、1912年7月11日 - 2013年9月11日)は、日本の国語教師、国文学者、元灘校(灘中学校・高等学校)教頭。京都府宮津市出身。中学の3年間をかけて中勘助の『銀の匙』を1冊読み上げる国語授業「『銀の匙』授業」で知られる。
森 国久(もり くにひさ、正字体:森國久、1912年(明治4… 森 国久(もり くにひさ、正字体:森國久、1912年(明治45年)7月10日 - 1961年(昭和36年)6月26日)は、日本の政治家。熊本県天草地方で首長を務め、全国の離島の振興に力を注ぎ、天草五橋の実現に尽力した。 熊本県龍ヶ岳町長、熊本県町村会副会長、天草郡町村会長、天草振興協議会長、天草架橋期成会副会長、天草観光協会長、全国離島振興協議会副会長、内閣離島振興対策審議会委員(すべて死亡時)。 出生から学校卒業まで 1912(明治45年)7月10日、熊本県天草郡樋島村(現・熊本県上天草市龍ヶ岳町樋島)に生まれる。地元の小学校を卒業後、1925年(大正14年)4月、熊本県立天草中学校(現・熊本県立天草高等学校)に入学。
岡 映(おか あきら、1912年7月10日 - 2006年4… 岡 映(おか あきら、1912年7月10日 - 2006年4月13日)は岡山県出身の部落解放運動家、歴史家。 岡山県英田郡江見町(現・美作市)の被差別部落に生まれ、京都で友禅職人として働く。1932年、日本共産党に入党。 1935年、全国水平社第13回全国大会に参加。 戦後は、農民運動・重税反対闘争に積極的に取り組んだ。 岡山県美作地方を中心に岡山県農民同盟の活動や岡山県人民解放同盟青年協議会副会長、部落解放全国委員会岡山県連合会常任委員、および同書記長を歴任。 1955年、部落解放同盟岡山県連書記長に就任。同中四国ブロック協議会議長を経て、1966年、同県連委員長に就任。 1970年2月19日、第5回部落解放同盟岡山県委員会開催。
小寺 武四郎(こでら たけしろう、1912年7月9日 - 2… 小寺 武四郎(こでら たけしろう、1912年7月9日 - 2004年7月23日)は、日本の経済学者。第10代学校法人関西学院院長、元関西学院大学学長および経済学部教授。専門は金融論、国際金融論。日本金融学会第5代会長。 大日本紡績(後のユニチカ)社長・小寺源吾の四男。実弟はユニチカ社長を務めた小寺新六郎。元関西学院高等商業学部教授・小寺敬一は叔父。
高野 百介(たかの ももすけ、1912年7月9日 - 戦死)… 高野 百介(たかの ももすけ、1912年7月9日 - 戦死)は、長野県出身のプロ野球選手(外野手)。
小川 信雄(おがわ のぶお、1912年(明治45年)7月9日… 小川 信雄(おがわ のぶお、1912年(明治45年)7月9日 - 2002年(平成14年)9月6日)は、日本のエンジニア・実業家。日亜化学工業創業者、元社長、元会長。同社を世界有数の蛍光灯用・ブラウン管テレビ用蛍光体メーカーに育て上げ、中村修二の青色発光ダイオード開発も決定、支援した。阿南市名誉市民。子供は男女各2人の4人。現・日亜化学工業会長の小川英治は長女の婿養子。 1912年(明治45年)7月9日、徳島県那賀郡長生村(現・阿南市長生町)において、久積鶴吉・ソノ夫妻の末子として誕生。高等小学校卒業後の1927年(昭和2年)、県立富岡中学校(現・富岡西高校)に入学。同級生に後藤田正晴が居て、柔道部で小川と後藤田は互いを認める間柄となった。
福田 昌子(ふくだ まさこ、1912年7月8日 - 1975… 福田 昌子(ふくだ まさこ、1912年7月8日 - 1975年12月30日)は、日本の政治家、学校法人純真女子学園(現・学校法人純真学園)の創立者。衆議院議員。医学博士。 鹿児島県鹿児島市生まれ、福岡県出身(籍は築上郡吉富町)。福岡県立福岡高等女学校(現・福岡県立福岡中央高等学校)を経て、1934年(昭和9年)に東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)を卒業。九州帝国大学医学部に学び、九大医学部附属医院、済生会病院に勤務しながら、1940年(昭和15年)、ヒスタミンの研究により史上最年少(満26歳)で医学博士号を取得した。また、大阪府衛生課、東京都公衆衛生課などに勤めた。 戦後の1947年(昭和22年)に、第23回衆議院議員総選挙に社会党から福岡県第1区で立候補して当選した。
高木 養根(たかぎ やすもと、1912年7月7日 - 199… 高木 養根(たかぎ やすもと、1912年7月7日 - 1999年1月9日)は、日本の実業家。元日本航空社長。広島県福山市生まれ、岐阜県高山市育ち。 府立四中、一高を経て、1933年京都帝国大学文学部に入学。同年の文部省による滝川幸辰法学部教授の処分(滝川事件)に反対、古谷綱正・花田清輝(のちの文芸評論家)らとともに大学自治を擁護する文学部の運動の中心として活動したが、学内で配ったビラの文面が治安維持法違反に問われ2ヵ月で大学中退を余儀なくされた。1年間の拘置生活の後1935年、東京帝国大学法学部に再入学した。 1940年に大学を卒業し大日本航空に入社したが終戦により解散。1951年、航空活動の再開を見越して設立された日本航空に入社した。
松野 友(まつの とも、女性、1912年(明治45年)7月7… 松野 友(まつの とも、女性、1912年(明治45年)7月7日 - 1997年(平成9年)7月21日)は、日本の政治家。元岐阜県本巣郡穂積町(現:瑞穂市)町長。 夫は松野幸泰(元岐阜県議会議員、岐阜県知事、自由民主党衆議院議員、国土庁長官・北海道開発庁長官)。子に元瑞穂市長の松野幸信と元岐阜県議会議員松野幸昭、孫に自民党衆議院議員の棚橋泰文がいる。 1912年(明治45年)7月7日、岐阜県安八郡浅草村(現在の大垣市)で生まれた。1930年(昭和5年)に岐阜県女子師範学校本科第二部を卒業し、数年間小学校教員を務めた。1932年(昭和7年)5月に松野幸泰と結婚した。 夫の幸泰は岐阜県本巣郡穂積村の村会議員となり、太平洋戦争下では翼賛壮年団長を務めた。
福田 利光(ふくだ としみつ、1912年7月6日 - 200… 福田 利光(ふくだ としみつ、1912年7月6日 - 2001年11月29日 )は、日本の経営者。西日本新聞社社長を務めた。 福岡県三井郡北野町(現在の久留米市)出身。1934年に早稲田大学専門部政治経済学科を卒業し、1937年に福岡日日新聞社(のちの西日本新聞社)に入社。1963年に取締役に就任し、1969年に常務、1970年に専務を経て、同年10月には社長に就任した。1985年6月に会長に就任し、1991年6月に代表取締役相談役を経て、1993年6月に相談役に就任。 テレビ西日本会長、テレビ熊本・サガテレビ・テレビ長崎の取締役なども歴任。 1987年4月に勲一等瑞宝章を受章。 2001年11月29日に急性心不全のために死去。
岸 武雄(きし たけお、1912年7月6日 - 2002年1… 岸 武雄(きし たけお、1912年7月6日 - 2002年1月21日)は、日本の児童文学作家、教育者。 岐阜県出身。1932年岐阜師範学校卒業。小・中学校教諭を経て岐阜教育大学教授、1986年定年。 58歳から創作を始め、中部地方の歴史的事件をもとに底辺に生きる人びとを描き、1971年「千本松原」で野間児童文芸推奨作品賞。1979年「花ぶさとうげ」で小学館文学賞受賞。「千本松原」は1992年に「せんぼんまつばら 川と生きる少年たち」としてアニメ映画化された。 80歳を過ぎても旺盛な執筆活動を行い、2002年1月21日に死去。享年89。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
木村 謙二(きむら けんじ、1912年7月5日 - 没年不明… 木村 謙二(きむら けんじ、1912年7月5日 - 没年不明)は、日本の心理学者・教育者。稚内北星学園、北星学園女子短期大学の学長を務めた。専門は特殊児童心理学で、日本における障害児教育の先駆者の一人。 北海道夕張市出身。1935年、北海道札幌師範学校を卒業して深川尋常高等小学校の教員となる。しかしキリスト教徒のため天皇礼拝を拒んだ事などが原因で1937年に辞職し、同年に上京して東京市内の尋常小学校の代用教員などを務めながら1943年に法政大学法文学部を卒業した。 法政大学商業学校教員などを経て、1951年に北海道大学教育学部の助教授となる。1954年からは、北星学園が開設した一年制の幼児教育専修学校で教育心理学の講義を担当している。
佐藤 忠良(さとう ちゅうりょう、1912年7月4日 - 2… 佐藤 忠良(さとう ちゅうりょう、1912年7月4日 - 2011年3月30日)は、日本の彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。 生き生きとした女性像などをブロンズや木彫で表現した。本の装幀の仕事もこなし、福音館書店版の絵本『おおきなかぶ』の挿絵なども手がけた。出身地にある宮城県美術館には、「佐藤忠良記念館」が併設、日本で最も多い約600点の彫刻作品を収蔵。その他、滋賀県の佐川美術館の佐藤忠良記念館、札幌芸術の森「佐藤忠良記念子どもアトリエ」、国立近代美術館、国立国際美術館など、日本全国各地に佐藤忠良の作品が収蔵・展示されている。 女優の佐藤オリエは娘。作品のモデルを務めた彫刻家の笹戸千津子は弟子。
中村 三郎(なかむら さぶろう、1912年7月3日 - 没年… 中村 三郎(なかむら さぶろう、1912年7月3日 - 没年不明[戦死])は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、内野手。 諏訪蚕糸学校(現・長野県岡谷工業高等学校)在学中に、甲子園に2回出場(春1回〔1930年〕、夏1回〔1930年〕)。1930年春の大会では、優秀選手賞を受賞。そして、最後の出場となった1930年夏の大会では準優勝投手に輝いた。長野県きってのNo.1投手との誉れ高く、その後明治大学やノンプロの諏訪紡績でも活躍した。 1937年に大東京へ入団。プロ野球入団後は内野手に転向し、「三振か長打か」の荒削りなバッティングで人気を博した。同年春季シーズンで喫した46三振は、リーグ最多三振記録(1939年に佐藤武夫〈東京セネタース〉が56三振をマークするまではプロ野球記録でもあった)。
玉置 一徳(玉置 一德、たまき いっとく、1912年7月3日… 玉置 一徳(玉置 一德、たまき いっとく、1912年7月3日 - 1978年11月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。京都府相楽郡加茂町出身。息子は、民主党元衆議院議員の玉置一弥。 桃山中学校、第四高等学校を経て、1936年に京都帝国大学法学部卒業。浅野セメントに入社するも兵役で中国各地を渡る。1943年除隊となり、朝鮮の鉱山会社勤務時に終戦を迎える。 戦後、農業を経て日本社会党結成に参加。相楽郡選出の京都府議を経て1960年の第29回衆議院議員総選挙で民主社会党公認で旧京都2区に立候補し初当選。以後通算当選5回。国対畑を歩み、党国会対策副委員長、国対委員長を歴任した。 議員在職中の1978年11月26日、胸部大動脈瘤破裂により死去した。
藤谷 俊雄(ふじたに としお、1912年7月2日 - 199… 藤谷 俊雄(ふじたに としお、1912年7月2日 - 1995年2月11日)は、日本の歴史学者、部落問題研究家である。 京都府京都市出身。生家は真宗大谷派の即現寺。京都府立第二中学校卒業後、1934年に高知高等学校文科甲類、1937年京都帝国大学文学部史学科卒業。1938年、治安維持法違反で検挙。その後、生家の住職、また京都市史編纂に参加。 戦後、日本史研究会創設に参加。また1966年には部落問題研究所理事長兼所長に就任し、文化厚生会館問題によって奈良本辰也・林屋辰三郎・原田伴彦らが去った後の研究所再建に尽力。
白 石(ペク・ソク、백석、1912年7月1日 - 1996年… 白 石(ペク・ソク、백석、1912年7月1日 - 1996年1月7日)は、北朝鮮の詩人。平安北道定州の出身。 本貫は水原白氏。本名は白夔行。1929年に日本へ留学。青山学院英文科を卒業したのち咸興で英語教師となった。ペンネームの「石」という一字は、敬愛していた石川啄木から取っている。なお白石の出生年は啄木の没年でもあり、同時代的な交流はない。 白石の詩の世界は、当時のモダニズムの影響をうけながらも、郷土的な叙情の世界を方言で表す特徴を持っている。1938年の作『私とナターシャと白いロバ』ではモダニズムのイメージを用い、『エビガラスズメが来る夕方』『カズラン峠』などでは一般の読者もわからない方言を用いるなど、民俗的な世界を表している。
小林 幸三郎(こばやし こうざぶろう、1912年〈明治45年… 小林 幸三郎(こばやし こうざぶろう、1912年〈明治45年〉7月1日 - 2014年〈平成26年〉7月29日)は、日本の経営者。RKB毎日放送社長を務めた。群馬県出身。 1912年、現在の群馬県前橋市小坂子町に生まれる。芳賀小学校を経て群馬師範学校を卒業。満洲に渡り撫順・吉林小で教員として勤務。1940年に北京大学を卒業し、1938年に東京日日新聞社(のちの毎日新聞社)に入社。1943年に召集され海軍二等兵としてインパール作戦にも参加するが生還を果たす。 1946年帰国し毎日新聞社に復職。政治報道に従事し、安部晋太郎・竹内黎一・小林正巳は当時の部下にあたる。神戸支局長、政治部長、大阪本社編集局長を歴任。
戸谷 敏之(とや としゆき、1912年(明治45年)7月 -… 戸谷 敏之(とや としゆき、1912年(明治45年)7月 - 1945年(昭和20年)9月)は、日本の経済学者、歴史学者。日本常民文化研究所員。専門は農業経済史。
武田 喜三(たけだ きぞう、1911年7月30日 - 198… 武田 喜三(たけだ きぞう、1911年7月30日 - 1987年1月5日)は、日本の経営者、工学博士。大同特殊鋼社長、会長を務めた。 京都府出身。1935年に京都帝国大学工学部冶金学科を卒業し、同年に日本製鐵八幡製鉄所に入社。1961年に取締役に就任し、1963年に常務、1968年3月に専務、1970年3月に新日本製鐵専務を経て、1973年に大同製鋼社長に就任し、1976年9月には大同特殊鋼社長に就任。1982年9月に取締役相談役を経て、1984年9月に相談役に就任。 1965年4月に事業功労賞を受賞し、1975年4月に製鉄功労賞を受賞した。1977年4月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲二等瑞宝章を受章した。
宮本 馨太郎(みやもと けいたろう、1911年7月30日 -… 宮本 馨太郎(みやもと けいたろう、1911年7月30日 - 1979年4月12日)は、日本の民俗学者。立教大学名誉教授。風俗史家・服飾史家の宮本勢助は実父。 東京市下谷区(現東京都台東区池之端)に宮本勢助の長男として生まれ、生涯をこの地に過ごした。 立教大学に入学し史学科で東洋史を専攻し、白鳥庫吉、同じく白鳥清の両氏の薫陶を受けるが、このことを終生誇りとした。 1935年立教大学文学部史学科卒業。1938年民族学研究所研究員、1942年日本民族学協会調査部主任、のち立教大学文学部教授、名誉教授。財団法人日本常民文化研究所創設理事、国立歴史民俗博物館設立準備委員会委員などを歴任。 1929年アチックミューゼアム同人。
安藤 孝行(あんどう たかつら、1911年7月28日 - 1… 安藤 孝行(あんどう たかつら、1911年7月28日 - 1984年5月26日)は、日本の哲学者、翻訳家。岡山大学名誉教授。 1911年、愛知県西春日井郡豊山村(現:豊山町)生まれ。1929年、旧制・明倫中学校を出て、第八高等学校(文科甲類)に進学。1933年、京都帝国大学文学部哲学科に進んだ。大学では、田辺元らの指導を受ける。1936年に同大学を卒業し、大学院に進んだ。 1941年、第四高等学校教授に着任。太平洋戦争を経て、1949年に金沢大学助教授に就任。1951年、教授に昇格。1953年より立命館大学文学部教授。1958年からは文学部長を務めた。1956年、東京大学にて文学博士号を取得。1967年、岡山大学教授に転じた。
藤本 四八(ふじもと しはち、1911年(明治44年)7月2… 藤本 四八(ふじもと しはち、1911年(明治44年)7月25日 - 2006年8月19日)は、日本の写真家。古美術を撮影した写真作品で知られる。兄は美術雑誌・美術本編集者の藤本韶三。
片岡 清一(かたおか せいいち、1911年(明治44年)7月… 片岡 清一(かたおか せいいち、1911年(明治44年)7月23日 - 1999年(平成11年)2月26日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員。富山県砺波市出身。 東京帝国大学法学部政治学科卒業後、内務省に入省。東京府属。1966年(昭和41年)9月14日から1969年11月30日まで砺波市長を務めた後、同年の第32回衆議院議員総選挙に松村謙三の後継者として旧富山2区から出馬するも落選。続く1972年の第33回衆議院議員総選挙にて初当選(当選同期に小泉純一郎・加藤紘一・山崎拓・石原慎太郎・三塚博・村岡兼造・保岡興治・瓦力・越智通雄・野田毅・深谷隆司など)。以後連続当選6回。自民党内では中曽根康弘派に属し、1988年12月発足の竹下改造内閣で郵政大臣に任命され、初入閣(当時77歳5か月)。
川野 重任(かわの しげとう、1911年7月22日 - 20… 川野 重任(かわの しげとう、1911年7月22日 - 2010年7月22日)は、日本の農業経済学者。学位は、農学博士(京都大学・論文博士・1962年)(学位論文「土地改革の理論的性格」)。東京大学名誉教授。 鹿児島県南さつま市(旧加世田市域)出身。鹿児島県立川辺中学校 (旧制)を経て、第七高等学校造士館 (旧制)理科を1932年に卒業。1936年に東京帝国大学農学部農業経済卒業後、副手、1939年に助手、1942年に東京大学東洋文化研究所助教授、1951年に同研究所教授、1962年、「土地改革の理論的性格」で京都大学より農学博士の学位を取得。1966年、同研究所長に就任。1970年に所長退任。
坂本 鹿名夫(さかもと かなお、阪本 鹿名夫、1911年(明… 坂本 鹿名夫(さかもと かなお、阪本 鹿名夫、1911年(明治44年)7月21日 - 1987年(昭和62年)5月29日)は、日本の建築家。円形建築にこだわり、その経済性、合理性を主張し、朝日町立朝日小学校(登録有形文化財)など円形校舎、円形病院など全国に100以上の円形建築を手がけた。 東京生まれ。父は阪本釤之助で、鹿児島県知事や名古屋市長を歴任したため、その頭文字を導入して鹿名夫と名付けられた。従兄に永井荷風、異母兄に高見順がいる。 東京工業大学建築学科に進学し、卒業研究でも円形の飛行場を設計している。大学卒業後の1937年(昭和12年)、大倉土木(現・大成建設)に就職。戦時中は海軍に入隊し技術将校を経て、戦後会社に復職するが、1954年(昭和29年)大成建設を退職し、建築綜合計画研究所を設立し社長に就任。
渥美 かをる(あつみ かおる、1911年(明治44年)7月2… 渥美 かをる(あつみ かおる、1911年(明治44年)7月20日 - 1977年(昭和52年)12月10日)は、愛知県出身の国文学者。『平家物語』の研究で知られる。 夫は名古屋市で区長や教育長を務めた渥美善三、娘に実業家・著述家の渥美育子がいる。 以後、愛知県立女子短期大学教授、愛知県立女子大学教授、愛知県立大学教授を歴任
笠原 恒彦(かさはら つねひこ、1911年7月18日 - 1… 笠原 恒彦(かさはら つねひこ、1911年7月18日 - 1989年4月17日)は、日本の元ラグビー選手、俳優。本名同じ。東京市小石川区(現在の東京都文京区)生まれ、北海道育ち。 ラグビー選手として現役時代の主なポジションはフルバック(FB)及びファイブエイス(FE)。 北海中等学校(現 北海高等学校)を経て、明治大学(以下、明大)に進学。明大ではラグビー部で活動し、1930年度シーズンから1935年度シーズンまで、6年連続で明早戦に出場した他、同部在籍時代は全ての公式戦(全45試合)に出場した経験を持つ。トライゲッターであるとともに、キッカーとしても明大の得点源選手として活躍した。 また、1932年のカナダ代表来日試合を手始めに、ラグビー日本代表(以下、代表)としてキャップ6を獲得。
柄沢 十三夫(からさわ とみお、1911年7月18日 - 1… 柄沢 十三夫(からさわ とみお、1911年7月18日 - 1956年10月20日)は、日本の陸軍軍人、軍医。 長野県小県郡(現・上田市)で小学校教員の次男として生まれた。貧しい柄沢家を背負って立つ跡継ぎとして期待され育てられた。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1929年東京医学専門学校(現東京医科大学)に入学。1933年卒業、陸軍少尉。1936年4月、陸軍軍医学校に入学。軍医中将梶塚隆二が主幹を務める軍陣防疫学教室に所属、細菌学を学んだ。1937年7月、日華事変により学生のまま防疫部の一員として天津に渡り、防疫活動に従事した。この半年前に結婚し、天津にいる間に一女をもうけている。 1939年9月、陸軍軍医学校を卒業。
色部 義明(いろべ よしあき、1911年7月18日 - 20… 色部 義明(いろべ よしあき、1911年7月18日 - 2001年8月12日)は、日本の経営者。協和銀行頭取を務めた。東京都出身。 1936年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。 1966年5月に協和銀行に転じ、1971年5月に頭取に就任し、1980年9月には会長に就任した。1986年9月に相談役を経て、1998年4月から名誉顧問を務めた。 また頭取在任時に安宅産業破綻処理に立ち向かう事となった。 また、1981年から死去するまで全日本学生囲碁連盟会長をつとめた。1986年7月から1987年12月までに日本棋院理事長を務めた。1986年、日本棋院から大倉賞を受賞する。 2001年8月12日気管支喘息のために東京都三鷹市の病院で死去。
中井 利之祐(なかい りのすけ、1911年〈明治44年〉7月… 中井 利之祐(なかい りのすけ、1911年〈明治44年〉7月17日 - 没年不明)は、日本の実業家。旧姓・中川。 奈良県・中川亀太郎の三男。1929年、郡山中学校を卒業。中井製膠所経営、康徳化学工業勤務を経て1948年に浪華化学工業を設立、社長に就任する。 浪華化学工業、朝日化学産業各社長、野洲化学工業取締役、大阪膠質ゼラチン工業協同組合、飛島会各理事長、日本にかわゼラチン工業組合副理事長、大阪同和事業協議会副会長などをつとめる。 また民生委員である。 趣味は読書。宗教は真宗。住所は大阪市東淀川区飛島町(現・東中島)。
柳井 深造(やない しんぞう、1911年(明治44年)7月1… 柳井 深造(やない しんぞう、1911年(明治44年)7月16日- 没年不詳)は、陸上選手であり研究者でもある。川崎重工業研究室長を務め、流体力学の研究で知られる。岡山県出身。 1911年(明治44年)岡山県に生れる。1925年(大正14年)、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。1930年(昭和5年)3月、同校を卒業し、旧制第六高等学校理科乙類へ進学する。1933年(昭和8年)同校を卒業し、京都帝国大学工学部へ進学する。 京大では、陸上部に所属し、1934年(昭和9年)柳井が大学2年生のとき、兵庫県にある甲子園南運動場で行われた第21回全日本陸上競技選手権大会の男子110mハードルでは、15.4秒で準優勝している。
中村 幸彦(なかむら ゆきひこ、1911年7月15日 - 1… 中村 幸彦(なかむら ゆきひこ、1911年7月15日 - 1998年5月7日)は、日本の近世文学研究者。博士(京都大学・1962年)(学位論文『戯作論』)。 兵庫県津名郡由良町(現:洲本市由良3丁目)に父・中村安郎、母・しげの次男として生まれる。旧制洲本中学校、1935年、京都帝国大学文学部国文科卒業。1940年、天理図書館司書となり、京都帝国大学大学院を退学。1949年、天理大学教授、1958年、九州大学文学部教授となる。1962年『戯作論』で京都大学の博士号を取得。1971年、九州大学を退職、関西大学教授に就任。 1981年、『此ほとり一夜四歌仙評釈』で第32回読売文学賞受賞。1982年から『中村幸彦著述集』の刊行開始(1989年7月まで)。
新原 勇(しんばら いさむ、1911年7月15日 - 198… 新原 勇(しんばら いさむ、1911年7月15日 - 1987年5月18日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 昭和初期に日本国内における最高峰の柔道大会であった全日本選士権大会や明治神宮競技大会等で活躍し、指導者としては朝鮮や台湾でその礎を築いたほか日本国内においては福岡県立嘉穂中学校を全国優勝に導いた実績を有す、戦前を代表する柔道家・柔道指導者の1人である。 現在の福岡県飯塚市幸袋に生まれる。県立嘉穂中学校に入学すると、当時福岡県下における柔道の大家であり同校の師範を務めていた榎本本吉より熱心に手解きを受け、 1929年に2段位で卒業して翌年京都の武道専門学校に入学した。武専で磯貝一、田畑昇太郎両範士に師事し、柔道教士であった福島清三郎、栗原民雄、森下勇らの胸を借りて稽古に励んだ新原は1932年に精錬証を受け、翌33年には講道館5段位、1934年の教士号試合では飯山栄作に競り勝って称号を拝受している。