上杉 正一郎(うえうぎ しょういちろう、1912年8月4日 … 上杉 正一郎(うえうぎ しょういちろう、1912年8月4日 - 1990年)は、日本の統計学者、マルクス経済学者。長く東京経済大学で教鞭を執り、同大学名誉教授となった。 上杉は、第二次世界大戦後の経済学界において、「社会統計学派の指導的理論家」であったとされる。 東京に生まれる。父・上杉慎吉は、東京帝国大学法学部教授で、天皇主権説に立つ憲法学者であった。なお、弟・上杉重二郎は、長じて労働運動史の研究者となり、北海道大学教授などを務めた。 1930年に第一高等学校に入学し、1933年に東京帝国大学経済学部に進んだ。学生時代の上杉は、日本共産青年同盟(共青)に参加し、滝川事件に関連して1934年と1935年の2度、検挙勾留された。
賀屋正雄(かや まさお、1912年8月4日 - 1994年1… 賀屋正雄(かや まさお、1912年8月4日 - 1994年1月27日)は日本の大蔵官僚。総理府内閣総理大臣官房審議室参事官、総理府内閣総理大臣官房審議室長、理財局次長、管財局長、為替局長、日本開発銀行理事、日本銀行理事、商工組合中央金庫副理事長、 山一證券投資信託委託会社社長などを務めた。 東京府出身。東京帝国大学法学部法律学科(英法)在学中に高等試験行政科を合格。東京帝大法学部法律学科(英法)卒業。1935年 大蔵省入省。大臣官房文書課属。 1946年7月 理財局国庫課長。1949年3月 外資委員会事務局次長。同年9月 外資委員会事務局長。1953年11月2日 銀行局検査部長。1955年5月 総理府内閣総理大臣官房審議室参事官。
菅原 独去(すがはら どっこ、1912年〈大正元年〉8月4日… 菅原 独去(すがはら どっこ、1912年〈大正元年〉8月4日 - 1990年〈平成2年〉12月20日)は、日本の俳人・僧侶。境港市光祐寺住職。 本名は真哲(しんてつ)。鳥取県倉吉市生まれ。昭和9年、仏教専門学校(現佛教大学)卒業。1935年(昭和10年)より句作をはじめ、1937年(昭和12年)に『ホトトギス』に初入選。その後、高浜虚子に師事し、1954年(昭和29年)よりホトトギス同人となる。1963年(昭和38年)より、句誌『城』の選者を務めた。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
根上 博(ねがみ ひろし、1912年8月3日 - 1980年… 根上 博(ねがみ ひろし、1912年8月3日 - 1980年6月7日)は、北海道余市郡余市町出身の日本の競泳選手。立教大学卒業。1930年代に活躍し、1936年ベルリンオリンピックで入賞した。 余市町大川尋常小学校(現 余市町立大川小学校)時代に本格的に水泳を始め、旧制余市中学校(現・北海道余市紅志高等学校)時代から競泳選手となり、全国大会に出場するが、予選で敗退している。 1931年に立教大学に入学してから徐々に力をつけ、1934年の第10回日本選手権水泳競技大会では男子1500m自由形にて19分16秒2で優勝、そのレースの1000m途中計時で12分41秒8の世界新記録を樹立すると、同年の第十三回全國學生水上競技大會では400m及び800mの自由形で牧野正蔵(早稲田大学)と激しく鍔迫り合いを演じ、2種目とも牧野に及ばず2位となるも800mでは10分8秒4のタイムを出し、10分1秒2を出した牧野とともに世界新記録を更新した。
飯沼 正明(いいぬま まさあき、1912年8月2日 - 19… 飯沼 正明(いいぬま まさあき、1912年8月2日 - 1941年12月11日)は日本のパイロット。1937年純国産機、神風号によって東京-ロンドン間の飛行に成功した。 長野県南安曇郡南穂高村細萱(現・安曇野市)に、飯沼文五郎の五男として生まれた。飯沼家は庄屋も務めた豪農だった。3歳で母と死別し、以後祖母に育てられる。 1924年(大正13年)、長谷川清澄(豊科町出身で日本初の一等操縦士)がサルムソン 2Aに搭乗して各務原飛行場から松本市に飛行している途中に南穂高村上空で旋回飛行をおこなった光景を小学校の教室から目撃し、飛行機への憧れを抱く。 1931年(昭和6年)3月、旧制長野県松本中学(現・長野県松本深志高等学校)を卒業し、第11期逓信省陸軍委託航空機操縦生として所沢陸軍飛行学校に入学した。
佐伯 正一(さえき しょういち、1912年(大正元年)8月2… 佐伯 正一(さえき しょういち、1912年(大正元年)8月2日 - 2007年(平成19年)9月)は、日本の教育学者。京都教育大学名誉教授。 島根県生まれ。1942年東京文理科大学教育学科卒。1965年「産業革命期イギリスにおける民衆教育発展の実態とその問題点についての研究」で東京教育大学より教育学博士の学位を取得。奈良学芸大学助教授、京都学芸大学助教授、校名変更で京都教育大学教授、1976年定年退官、名誉教授、関西外国語大学教授、1983年退職。1985年勲三等旭日中綬章受勲。2007年9月死去、95歳。 長男は思想史学者の佐伯啓思。
青野 平義(あおの ひらよし、1912年8月2日 - 197… 青野 平義(あおの ひらよし、1912年8月2日 - 1974年12月8日)は、日本の俳優。本名は青野 元太郎。旧芸名に里村 元春、青野 太郎。 1912年(大正元年)8月2日、東京府東京市麻布区六本木(現在の東京都港区六本木)に生まれる。生家は老舗和菓子屋「青野総本舗」で、店の人気商品「鶯もち」も「楽屋でも汚さず食べられる菓子を」と青野が提案したことで作られた。 慶応義塾商工部を中退後の1931年(昭和6年)、劇団自由舞台に入団し『どん底』で初舞台。その後、家業を継ぐが舞台への情熱が忘れられず、1938年(昭和13年)に文学座演劇研究所に第1期生として入所する。卒業後は里村元春の芸名で『若きハイデルベルヒ』『大寺学校』などに出演し、文学座の中堅俳優として活躍した。
清水 正一(しみず しょういち、1912年8月1日 - 19… 清水 正一(しみず しょういち、1912年8月1日 - 1989年7月25日)は、日本の柔道家。 長野県東筑摩郡島立村(現松本市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、日本体育会体操学校卒業。昭和9年(1934年)母校の体操学校に奉職し、同18年(1943年)教授に就任。同13年(1938年)から慶應義塾大学柔道部師範を兼務。同20年(1945年)から同25年(1950年)まで帰農していたが、同26年(1951年)東京大学講師、慶應義塾大学柔道部師範に復職。同43年(1968年)日本体育大学武道科特任教授、同48年(1973年)学長に就任し、また、柔道整復師養成施設設立を理事会に提案し、日体柔整専門学校初代校長に就任した。
妣田 圭子(ひだ けいこ、1912年〈大正元年〉8月1日 -… 妣田 圭子(ひだ けいこ、1912年〈大正元年〉8月1日 - 2011年〈平成23年〉4月24日)は、日本の芸術家。日本画「草絵」の創始者。本名は梶本 喜久代。 1912年(大正元年)大阪府生まれ。1930年(昭和5年)大阪府立清水谷高等女学校(現・大阪府立清水谷高等学校)卒業、大阪毎日新聞(現・毎日新聞大阪本社)学芸部の嘱託になる。1949年随心院(真言宗善通寺派大本山)で得度。和紙を切り台紙に貼って作り上げる日本画『草絵』を創始した。 以後、NHK学園も含め各地で教室を持ち、世界でも草絵を教え個展を開催。1978年(昭和53年)アトリエを山梨県北東部の山間地の牧丘町(現・山梨市)に構え、1982年(昭和57年)から定住。
花井 正八(はない まさや、1912年8月1日 - 1995… 花井 正八(はない まさや、1912年8月1日 - 1995年6月10日)は、日本の実業家。位階は従三位。勲等は勲一等。旧姓は山本(やまもと)。 トヨタ自動車工業株式会社会長(第4代)、日本高速通信株式会社会長、日本移動通信株式会社会長、日本経営者団体連盟副会長などを歴任した。 愛知県宝飯郡音羽町(現・豊川市)出身。岡崎市長を3期務めた竹内京治は叔父。音羽町の旧家花井家の養子となる。 豊橋市立商業学校(現・愛知県立豊橋商業高等学校)、大分高等商業学校(現・大分大学)を経て、1938年に神戸商業大学(現・神戸大学)卒業。トヨタ自動車工業に入社。入社にあたり、花井家伝来の田畑すべてを売却、全財産を投げうって、勤め先のトヨタ自動車工業の株を大量に買う。
大護 八郎(だいご はちろう、1912年8月1日 - 200… 大護 八郎(だいご はちろう、1912年8月1日 - 2008年)は、日本の郷土史家。 埼玉県入間郡勝呂村(現坂戸市)生まれ。1932年に埼玉県師範学校卒業し、同年3月から所沢小学校訓導となり、また1943年4月国際学友会日本語学校教授となる。1945年に日本大学文理学部高師地歴科卒業。1945年5月13日、埼玉県立川越高等学校で西洋史と社会科の教員となる。その後、1954年埼玉県教育局社会教育課文化財保護係長、1961年同課課長補佐を経て、1964年から埼玉県立文化会館館長などを経て、1974年から埼玉県立博物館館長。埼玉県文化財保護審議委員なども歴任。 専門は考古学・民俗学、特に石造文化財研究。
戸上 研之(とがみ かねゆき/けんし、1912年8月1日 -… 戸上 研之(とがみ かねゆき/けんし、1912年8月1日 - 1986年)は、日本の陸上競技(跳躍)選手。1936年ベルリンオリンピックで男子走幅跳に出場した。 現在の熊本県山鹿市石(旧鹿本郡八幡村)出身。宇土中学校(現在の熊本県立宇土中学校・高等学校)に学び、同窓の谷口睦生(短距離走、八代出身)とともに関西大学に進学した。 1936年ベルリンオリンピックでは日本代表に選ばれ、走幅跳で出場。記録は6.18mで、予選を突破できなかった。 1937年(昭和12年)1月から5月にかけ、村社講平(中央大学)とともにニュージーランドに遠征。クライストチャーチにおいて三段跳で15m58を記録した(当時のニュージーランド記録を越える記録)。
石田 東四郎(いしだ とうしろう、1912年8月 - 200… 石田 東四郎(いしだ とうしろう、1912年8月 - 2009年6月25日) は、日本の陸軍軍人。太平洋戦争終結から48年目の1993年、中国河南省南召県から帰国した。 1912年8月、秋田県平鹿郡増田町土肥館(現在の横手市)に生まれる。1929年、満17歳で陸軍に志願し秋田歩兵第17連隊に配属された。1936年、一時除隊し、秋田県庁に勤務する。 1937年、輜重特務兵として再召集され第10師団架橋材料中隊(通称成谷部隊、長:成谷兵輔輜重兵少佐)監視隊に属しており、皆川字右衛門工兵少尉指揮のもと、黄河の渡河作戦に従事したことが美談として報じられている。中国河南省封丘に渡り、宣撫官として秋田部隊で情報収集任務に従事する。
田中 克己(たなか かつみ、1911年(明治44年)8月31… 田中 克己(たなか かつみ、1911年(明治44年)8月31日 - 1992年(平成4年)1月15日)は、日本の詩人・東洋史学者、中国文学者。 1911年、大阪府で生まれた。東京帝国大学東洋史学科で学び、1934年に卒業。在学中の1932年、保田與重郎、肥下恆夫、中島栄次郎、松下武雄、小高根太郎、杉浦正一郎、服部正己ら大阪高等学校同窓生と文芸同人誌『コギト』を創刊。1936年堀辰雄の推挙により、詩誌『四季』(第2次)同人となり、津村信夫や神保光太郎と共に編集にも携わった。1941年詩文集『楊貴妃とクレオパトラ』で第5回北村透谷記念文学賞受賞。 1942年1月、文士徴用軍属の第2陣として北川冬彦、中島健蔵、神保光太郎らと共に南方戦線後方(シンガポール・スマトラ)へ派遣された。
中村 茂(なかむら しげる、1911年8月31日 - 198… 中村 茂(なかむら しげる、1911年8月31日 - 1985年5月25日)は、日本の外交官。駐ポーランド特命全権大使や、駐ブラジル特命全権大使を務めた。 千葉県出身。1935年高等試験外交科合格。1936年東京商科大学(現一橋大学)卒業。1937年に外交官補に任官後、アメリカ合衆国や、ソビエト連邦、外務省調査部第二課、外務省政務局第三課で勤務。 1950年賠償庁特殊財産部長心得兼特殊財産部総務課長。1951年出入国管理庁長官官房秘書課長。1952年法務省入国管理局総務課長、法務教官。1953年外務大臣官房会計課長、在外公館等借入金整理準備審査会幹事。 在ロス・アンゼルス日本国総領事館総領事を経て、1958年在パキスタン日本国大使館参事官。
池田 峯雄(いけだ みねお、1911年8月30日 - 199… 池田 峯雄(いけだ みねお、1911年8月30日 - 1998年12月3日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(日本共産党公認、1期)を務めた。日本農民組合 (統一派)中央常任委員及び同常総同盟委員長などを歴任。 茨城県筑波郡作岡村安食(現在のつくば市安食)の小地主の家に生まれる。茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)3年の時に、父の経営する会社が倒産し、新治郡土浦町(現在の土浦市)へ移住。同地の茨城県立土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を卒業後、結城郡宗道村(現在の下妻市)で代用教員に就く。この間、土浦中学校同級生の小林孝祐を介して文化サークルに参加、加藤四海ら全日本農民組合連合会(全農)関係者と親交を深めた。
進藤 三郎(しんどう さぶろう、1911年(明治44年)8月… 進藤 三郎(しんどう さぶろう、1911年(明治44年)8月28日 - 2000年(平成12年)2月2日)は、日本の海軍軍人。海兵60期。最終階級は海軍少佐。 1911年(明治44年)8月28日、神奈川県横須賀市で、海軍機関大佐であった進藤登三郎の3男として生まれる。父親の転勤に伴い小学校一年から広島県呉市で育った。父が1921年(大正10年)新設された広海軍工廠の総務部長に就任したため、飛行機が身近なものとなる。広島県立第一中学校(現広島国泰寺高校)4年のとき、町でヤクザと喧嘩して相手に怪我を負わせて退校処分となり崇徳中学に編入、1929年(昭和4年)、海軍兵学校60期生として入学した。 ロサンゼルスへの遠洋航海後、「名取」・「日向」・「伊4」・「呂66」の乗組員を経て、1934年(昭和9年)11月に第26期飛行学生となった。
角谷 静夫(かくたに しずお、1911年(明治44年)8月2… 角谷 静夫(かくたに しずお、1911年(明治44年)8月28日 - 2004年(平成16年)8月17日 )は、日本の数学者。イェール大学名誉教授。娘は日系アメリカ人文芸批評家のミチコ・カクタニ(角谷美智子)。関数解析や確率論の研究で著名。 大阪市生まれ。旧制甲南高等学校文科を経て、1934年東北帝国大学理学部数学科卒業。大阪帝国大学助教授、1940年、アメリカのプリンストン高等研究所に留学。太平洋戦争中も同研究所で研究を続けるが、1942年に母親の意志を受けて帰国。1948年、再びプリンストン高等研究所に戻る。1949年イェール大学准教授、1952年同教授。1982年、定年退職。 コネティカット州ニューヘブンにて死去。
祇園寺 信彦(ぎおんじ のぶひこ、1911年8月27日 - … 祇園寺 信彦(ぎおんじ のぶひこ、1911年8月27日 - 1998年11月23日)は日本の西洋史学者。 宮城県大崎市古川(旧・古川市)生まれ。宮城県古川中学校(現:宮城県古川高等学校)卒業、第二高等学校(独法)卒業、東北帝国大学法文学部西洋史学科卒業。1962年「古ローマの社会と政治」で東北大学文学博士。東北大学文学部助教授、教授。1975年定年退官、名誉教授、東京国際大学教授。 専門は西洋古代史で、主としたのは、古代ローマにおける政治権力のあり方とその歴史的変遷、さらにその過程において個人が織り成した役割の問題の解明であった。研究は大類伸、原随園の学問的伝統を継承しつつ、マックス・ヴェーバーの歴史学方法論をよりどころとし、西洋古代史の研究と後進の指導に当たり、古代ローマ史研究において開拓者的な役割を果たした。
海老池 俊治(えびいけ しゅんじ、1911年8月27日 - … 海老池 俊治(えびいけ しゅんじ、1911年8月27日 - 1968年7月3日)は、英文学者、翻訳家。 京都市生まれ。1931年東京帝国大学文学部美学美術史卒、34年同英文科卒。女学校教師などをしながら、英文学で斎藤勇に師事し、また横光利一に師事して創作も目指した。戦後1951年から68年まで一橋大学社会学部教授。
西村 数(にしむら かず、1911年8月24日 - 2006… 西村 数(にしむら かず、1911年8月24日 - 2006年7月1日)は、日本の俳人。「ホトトギス」同人。本名は西村 一意(かずおき)。教育者でもあり、鹿児島県の公立高等学校の教頭や校長等を歴任。 鹿児島県谷山村麓(現・鹿児島市谷山中央)にて、教育者の藤太郎とトミの嫡子として生まれ、少年期は清渓学舎で郷中教育を受ける。1929年(昭和4年)に鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業した後、神宮皇學館で学び卒業。 1929年(昭和4年)に17歳で句作を始め、1932年(昭和7年)に「ホトトギス」九月号で初入選。数年後、関西ホトトギス大会で虚子特選を得て、虚子を生涯師と仰ぐ。1935年(昭和10年)、佐賀県伊万里町で教員となり、当地で森永杉洞に師事。
澤柳 大五郎(沢柳 大五郎、さわやなぎ だいごろう、1911… 澤柳 大五郎(沢柳 大五郎、さわやなぎ だいごろう、1911年8月23日 - 1995年11月3日)は、日本の美術史家。東京教育大学名誉教授。 東京生まれ。父は明治・大正期の教育官僚、教育者の澤柳政太郎。 西洋美術研究を開拓した児島喜久雄(東北帝国大学・東京帝国大学教授)の弟子の一人で後継者。 木下杢太郎(太田正雄)の研究・著作画集の編集を行った。新書などを除き歴史的仮名遣いで著訳書を刊行した。 弟子・同僚らによる『アガルマ 澤柳先生古稀記念美術史論文集』(同編集委員会編、同朋舎出版、1982年)がある。 (古田光、藤田健治、木田献一、屋形禎亮、澤柳大五郎、廣川洋一、中野幸次、秀村欣二、兼岩正夫、清水富雄、裾分一弘、下村寅太郎、西沢龍生、永井博による共編著) (澤柳大五郎、関根正雄、村治能就、浅野順一、中野幸次、秀村欣二、兼岩正夫、清水富雄、渡辺金一、下村寅太郎、西沢龍生、藤田健治、永井博による共編著)
林 文雄(はやし ふみお、1911年8月23日 - 2001… 林 文雄(はやし ふみお、1911年8月23日 - 2001年)は、日本の美術評論家。 愛知県出身。東京帝国大学卒業。戦後、日本美術会に所属、共産主義の立場から美術評論を書き、1946年から1948年にかけて土方定一らとの間でいわゆる「リアリズム論争」を展開した。 デジタル版 日本人名大辞典+Plus『林文雄』 - コトバンク
権 逸(クォン・イル、ごん いつ、朝鮮語: 권일/權逸、19… 権 逸(クォン・イル、ごん いつ、朝鮮語: 권일/權逸、1911年8月22日 - 2001年4月3日)は、在日本大韓民国居留民団(現・在日本大韓民国民団)中央団長。在日本大韓民国居留民団顧問。満州国で裁判官、日本で弁護士、韓国で政治家としても活動していた。第8・9代大韓民国国会議員。日本名は権藤嘉郎で、権赫周(권혁주)の名前も使用した。 独立運動家・映画監督の権赫朝は弟。俳優のイム・ドンジン(朝鮮語版)は姪の夫(弟の赫朝の娘婿)。 - 권일(權逸)[リンク切れ] - 国史編纂委員会
半田 亘理(はんだ わたり、1911年(明治44年)8月22… 半田 亘理(はんだ わたり、1911年(明治44年)8月22日 - 1948年(昭和23年)10月21日)は、大日本帝国海軍の軍人、戦闘機搭乗員。 操練19期。最終階級は中尉。黒岩利雄とならび、単機格闘戦の名手と謳われた撃墜王である。 福岡県久留米市に生まれる。1928年(昭和3年)、海軍を志し佐世保海兵団入団。艦船勤務を経て1932年(昭和7年)10月、第19期操縦練習生となる。同期生に磯崎千利、高橋憲一、田中平、五島一平。1933年(昭和8年)3月、同課程を修了し、戦闘機専修。空母「龍驤」飛行機隊に配属される。 その後、大村に転属。在任中、愛国号献納式典で祝賀飛行に参加した。当時部下だった田中国義はその練習中、編隊スローロール等で苦労していたが、半田機は「定位置を微動だにしない、ついて行くのに汗をかいた」と回想する。
小林 正(こばやし ただし、1911年8月21日 - 197… 小林 正(こばやし ただし、1911年8月21日 - 1975年3月30日)は、日本のフランス文学・比較文学者。東京大学名誉教授。 満州・旅順生まれ。東京帝国大学文学部仏文科卒、1942年東京外国語学校教授、1954年東京大学仏文科助教授。スタンダールが専門で、1962年「『赤と黒』成立過程の研究」で文学博士。 1963年教授、また比較文学講座でも授業を担当し、文学部の西洋近代語近代文学専攻の創設に尽力した。1972年定年退官し名誉教授、同年より成城大学教授。 日本比較文学会理事、東京日仏会館常務理事などを歴任。レジオン・ドヌール勲章を授与された。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
神 直道(じん なおみち、1911年(明治44年)8月20日… 神 直道(じん なおみち、1911年(明治44年)8月20日 - 1998年(平成10年)9月29日)は、日本の陸軍軍人、宗教学者。軍人としての最終階級は陸軍中佐。陸士44期卒で瀬島龍三と同期。
灰田 勝彦(はいだ かつひこ、1911年8月20日 - 19… 灰田 勝彦(はいだ かつひこ、1911年8月20日 - 1982年10月26日)は、日本の歌手、ウクレレ奏者。本名及び幼名:灰田 稔勝(はいだ としかつ)。ハワイアンやヨーデル、流行歌で、第二次世界大戦前後に数々のヒット曲を飛ばして一世を風靡した昭和を代表する流行歌手である。伸びのある裏声が特徴で、日本の流行歌に都会の香りを持ち込んだ。また、映画俳優としても華々しく活躍した。作曲家でスチールギター奏者の灰田晴彦は兄(のちに有紀彦に改名)。 保谷市(現:西東京市)を気に入り、居を構えていた。 灰田稔勝(のちの勝彦)は、明治政府の移民政策によって広島(現:広島市南区)からハワイに移住した医師・灰田勝五郎の三男として、ハワイのホノルルで生まれた。
板谷 隆一(いたや たかいち、1911年〈明治44年〉8月2… 板谷 隆一(いたや たかいち、1911年〈明治44年〉8月20日 - 1991年〈平成3年〉9月1日)は、日本の海軍軍人及び海上自衛官。海兵60期次席。海兵同期に鈴木實、進藤三郎など。第7代海上幕僚長、第5代統合幕僚会議議長。 農業・板谷儀市の二男として佐賀県三養基郡中原村に生まれる。兄は真珠湾攻撃作戦時に空母「赤城」分隊長で、第一次攻撃隊制空隊長を務めた板谷茂(海軍中佐・海兵57期首席)。 旧制三養基中学を経て、海軍兵学校60期を次席で卒業。 海兵次席のエリートながら、日中戦争から太平洋戦争までほとんどの期間を第一線で勤務した。 1937年(昭和12年)8月9日に発生した大山事件(上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫中尉(板谷と海兵同期)が殺害され、第二次上海事変のきっかけの一つとなった)を受け、8月11日に大山中尉の後任として上海海軍特別陸戦隊附 兼 第三艦隊司令部附となる。
乾 孝(いぬい たかし、1911年8月19日 - 1994年… 乾 孝(いぬい たかし、1911年8月19日 - 1994年2月27日)は、日本の心理学者、法政大学名誉教授。専門は発達心理学。 東京で法学者・乾政彦の子として生まれる。1935年法政大学法文学部哲学科心理学専攻卒。城戸幡太郎に師事。助手、助教授をへて1946年教授、1976年定年、名誉教授。1947年民主主義科学者協会(民科)の哲学部会に参加、のちに人間科学部会、さらに心理学部会の結成に参加し、その中心となって活動。一方、1953年東京保育問題研究会の結成に関与した。児童文化問題にも造詣が深く、人形劇の創作や実践も行い、育児などに関して多くの一般書を書いた。 な日本応用心理学会名誉会員・日本社会心理学会名誉会員。
小林 行雄(こばやし ゆきお、1911年(明治44年)8月1… 小林 行雄(こばやし ゆきお、1911年(明治44年)8月18日 - 1989年(平成元年)2月2日)は、日本の考古学者。京都大学名誉教授。学位は、文学博士。日本学士院恩賜賞受賞者。 兵庫県神戸市に生まれる。1932年(昭和7年)、神戸高等工業学校(現:神戸大学工学部)を卒業し、副手に就任。後に依願退職し、近畿地方を中心に発掘調査に携わる。1935年(昭和10年)、京都帝国大学文学部助手。1945年(昭和20年)に海軍に招集され、戦後は1953年(昭和28年)に京都大学文学部講師、1954(昭和29年)年には日本学士院恩賜賞を受賞。1955年1月、『史林』38巻1号に「古墳発生の歴史的意義」を発表。
本田 親喜(ほんだ ちかよし、1911年8月17日 - 19… 本田 親喜(ほんだ ちかよし、1911年8月17日 - 1989年5月22日)は、アメリカ合衆国ハワイ州出身のプロ野球選手・監督。
宮本 梧楼(みやもと ごろう、1911年8月17日 - 20… 宮本 梧楼(みやもと ごろう、1911年8月17日 - 2012年7月20日)は、日本の物理学者(実験物理学)。理学博士。多年にわたり東京大学理学部教授を務め、原子核物理、加速器、核融合の分野で多くの業績をあげるとともに、数多くの人材を育成した。 旧制愛知県熱田中学校、旧制第八高等学校を経て、1936年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、嵯峨根遼吉教授の指導下で理研のサイクロトロンを用いた原子核物理の実験研究を始めた。その後、東京大学教授に就任、1972年に定年退官した。東京大学退官後も、茨城大学、日本原子力研究所(特別研究員)等で教育と研究にあたった。 宮本は戦後いち早く高エネルギー物理学、なかんずくその必須の手段としての高エネルギー加速器の研究に着手し、1953年には文部省機関研究費を用いて東京大学強収斂電子シンクロトロンの建設を始め、1957年に130MeVの装置を完成した。
平岡 忠次郎(ひらおか ちゅうじろう、1911年(明治44年… 平岡 忠次郎(ひらおか ちゅうじろう、1911年(明治44年)8月17日 - 1989年(平成元年)6月20日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 埼玉県入間郡元加治村(現:入間市)で、所沢町の織物問屋浜田屋の二男として生まれる。1936年、東京商科大学を卒業した。 その後、平岡洋行主、富士汽船社長、所沢産業社長などを務めた。 戦後すぐに日本社会党に入党。所沢市議会議員に就任。1952年10月、第25回衆議院議員総選挙で埼玉県第二区から出馬して当選。その後、第31回総選挙まで連続7回の当選を果たした。この間、世界連邦日本国会委員会事務局長、世界連邦国会議員世界協会常任理事、日本社会党埼玉県連合会長、同党政策審議会副会長、同財務委員会副委員長、同代議士会副会長、同国際団体部長、同政審会大蔵部長、同税制部長、同中央執行委員、社会文化会館建設副委員長兼事務局長、首都圏開発副委員長などを務めた。
中島 正行(なかじま まさゆき、1911年8月15日 - 1… 中島 正行(なかじま まさゆき、1911年8月15日 - 1952年5月29日)は、日本の柔道家(講道館8段)。 戦前の明治神宮大会柔道競技で優勝したほか、全日本選士権大会にも5度出場して優勝2度・準優勝1度の戦績を有す、戦前を代表する強豪柔道家の1人である。選手として活躍する傍ら神奈川県警察部や横浜市警察にて柔道指導に当たり、多くの後進の警察官育成に尽力した。 福岡県久留米市に父・末治郎の長男として生まれ、少年時代より同市花畑に町道場を開いていた今村の手解きを受けた。1929年6月に17歳で講道館へ入門して翌月に初段を許されると、その半年後に2段、1931年10月には3段に列せられた。 神奈川大学夜間部を経て1932年には神奈川県警察部相川勝六部長の知遇により同部巡査を拝命し、警察官としての職務に精励しながら柔道助教を務める。
田坂 敬三郎(たさか けいざぶろう、1911年〈明治44年〉… 田坂 敬三郎(たさか けいざぶろう、1911年〈明治44年〉8月15日 - 1998年〈平成10年〉4月25日)は、日本の政治家。愛媛県今治市議会議員、今治市長などを歴任した。 1935年(昭和10年)に早稲田大学を卒業。1947年(昭和22年)4月に今治市議会議員に初当選。2期目には今治市議会の副議長を務めた。 1954年(昭和29年)1月に行われた今治市長選挙に立候補し、稲本早苗、山沢和三郎、福島照一を破り初当選。田坂は当時で42歳であり、若き市長の誕生となった。 1958年(昭和33年)1月の今治市長選挙では無投票当選し、再選。1962年(昭和37年)1月の今治市長選挙では3選を目指して立候補したが、羽藤栄市に破れ落選した。
藤森 栄一(ふじもり えいいち、1911年(明治44年)8月… 藤森 栄一(ふじもり えいいち、1911年(明治44年)8月15日 - 1973年12月19日)は、日本の考古学者、諏訪考古学研究所所長、元長野県考古学会会長である。 1911年長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)に生まれ、旧制諏訪中学校在学中に考古学に目覚め、両角守一、地理学教師三沢勝衛の指導を受けた。1929年に卒業後、上京、森本六爾の主宰する東京考古学会に入会、本格的に考古学の研究を始めた。森本六爾の死後は、杉原荘介、小林行雄らとともに東京考古学会の運営に携わった。 1936年東京で葦牙書房(あしかびしょぼう)を興し、同社で森本六爾の遺稿集である「日本農耕文化の起源」を出版した。1943年出征、1946年復員の後、郷里諏訪に帰り、古書店「あしかび書房」を経営しながら、諏訪考古学研究所を立ち上げ、諏訪地方の遺跡を中心に発掘調査に当った。
舩橋 求己(ふなはし もとき、1911年(明治44年)8月1… 舩橋 求己(ふなはし もとき、1911年(明治44年)8月14日 - 1984年(昭和59年)2月4日)は、日本の政治家。3期10年にわたり京都市長を務める。全国革新市長会副会長。 岡山県岡山市出身。旧制第二岡山中学校(現;岡山県立岡山操山中学校・高等学校)、1934年京都帝国大学経済学部を卒業後、京都市役所に入庁。研修時代には交通局に所属し、市電の運転も行った。その後は住宅局、民生局、水道局(現:上下水道局)の各局長などを経て、1967年助役に就任。1971年の京都市長選に日本社会党と日本共産党の推薦を得て出馬し、前民社党代議士の永末英一らを破り初当選を果たす。 当選時は、同じく革新系の京都府知事蜷川虎三も「府市協調を歓迎する」と発言したものの、1975年の市長選では社会党の妨害によりこれまでの社共共闘が崩壊。
鈴木 進(すずき すすむ、1911年8月14日 - 2008… 鈴木 進(すずき すすむ、1911年8月14日 - 2008年7月16日)は、日本の美術史家、美術評論家。東京国立博物館文部技官、文化庁文化財調査官、東京都庭園美術館館長、名誉館長。 静岡県生まれ。1929年(昭和4年)、静岡県立静岡中学校を卒業後、東京帝国大学文学部美学美術史学科に進み、同学科で日本美術史の藤懸静也に師事。1936年(昭和11年)、卒業と同時に同学科初代の助手に就任。1940年(昭和15年)、文部省学芸課嘱託、美術問題を調査研究。1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)、兵役。復員後、1946年(昭和21年)、東京帝室博物館調査課に勤務、文部技官として国宝・重要文化財の指定・調査・研究に携わる。
花村 奨(はなむら すすむ、1911年8月12日 - 199… 花村 奨(はなむら すすむ、1911年8月12日 - 1992年10月31日)は、日本の詩人、作家。別名・土岐愛作。 岐阜県大垣市生まれ。東洋大学東洋文学科卒。岐阜県土岐市で小学校教師を務め、詩集を刊行する。1939年「首途」でサンデー毎日大衆文芸選外佳作、直木賞候補。「美しき首途」として映画化される。ほか『雑草夫人』も1940年映画化。宝文館に入社し、『令女界』『若草』を編集。長谷川伸、土師清二に師事し、新鷹会会員。戦後は花村の名で子供読物、歴史小説を書いた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
髙本 善四郎(たかもと ぜんしろう、1911年8月11日 -… 髙本 善四郎(たかもと ぜんしろう、1911年8月11日 - 2007年12月7日)は、日本の実業家、慈善活動家。ダイトロン創業者。 京都府舞鶴町(現舞鶴市)吉原地区生まれ。吉原尋常小学校、京都府立舞鶴中学校(現京都府立西舞鶴高等学校)卒業後、貿易に携わるため、東京商科大学(現一橋大学)専門部に進学し、1944年に卒業後商社に入る。 太平洋戦争中は中国大陸で従軍し、日本の降伏後大阪で個人事業を起業。東京通信工業の『テープコーダー』を扱い、1952年には大阪市北区に大都商事(現ダイトロン)を設立。 90歳で経営から引退後は、福祉や教育分野での慈善活動のため2001年に滋賀県にダイトロン福祉財団を設立、舞鶴市社会福祉協議会への寄付などを行った。
佐々 栄三郎(戸籍名:榮三郎、ささ えいざぶろう、1911年… 佐々 栄三郎(戸籍名:榮三郎、ささ えいざぶろう、1911年(明治44年)8月10日 - 1990年(平成2年)1月28日)は、昭和期の農民運動家、政治家、郷土史学者。衆議院議員。 香川県出身。1935年(昭和10年)早稲田大学法律科を卒業した。 華北綜合調査研究所所員、香川県購買農業協同組合理事を務めた。また、香川県議会議員、四国地方開発審議会委員、日本社会党香川県本部書記長、同副委員長なども務めた。 1953年(昭和28年)4月、第26回衆議院議員総選挙で香川県第2区から左派社会党公認で出馬したが落選。以後、第29回、第30回総選挙でも落選した。1967年(昭和42年)1月の第31回総選挙で当選し、衆議院議員に1期在任した。
田井 洋子(たい ようこ、1911年8月9日 - 2008年… 田井 洋子(たい ようこ、1911年8月9日 - 2008年3月13日)は、昭和・平成期の脚本家。 東京生まれ。兄は田井真孫。本名・丸茂ふぢ子。東京府立第三高等女学校卒。その後薬剤師を目指して薬学専門学校に進学するも、学内が大学への昇格運動 で揺れて休校状態だったため、進路を変更してタイピストになり、10年間官庁に勤務。 1929年、詩人の河井酔茗に入門し師事。しかし田井本人は詩が書けなかったことから、河井に勧められた岡本綺堂に師事して劇作を始め、綺堂主宰の「舞台」などに作品を発表。河井の元にはその後河井が亡くなる1965年まで通い続け、他に額田六福、岡田八千代にも世話になった。 1948年NHK懸賞放送劇に「魚紋」が1位入選。
熊沢 光子(くまざわ てるこ、1911年8月9日 - 193… 熊沢 光子(くまざわ てるこ、1911年8月9日 - 1935年3月25日)は、戦前日本の社会運動家。大泉兼蔵のハウスキーパー (日本共産党)として日本共産党スパイ査問事件に巻き込まれ、逮捕後獄中自殺した。 愛知県名古屋市の弁護士の家庭に生まれる。愛知県立第一高等女学校在学中に教師村瀬示路のマルクス経済学の講義をきっかけにマルクス主義に目覚める。同校を1931年に卒業し、妹の勝子や仲間とともに部屋を借りてエスペラント語を学ぶ。愛知県庁に勤務。1931年、米よこせ運動や消費組合運動をしていた山本秋により社会運動に参加。1932年に上京し住み込みの女給となりカフェーを転々とし、同年秋の赤色ギャング事件の資金局本部事務員として検挙され、4か月留置の末、転向して釈放され帰郷。
稲井 好広(いない よしひろ、1911年8月8日 - 199… 稲井 好広(いない よしひろ、1911年8月8日 - 1990年4月7日)は、日本の経営者。兵庫県出身。 1938年に京都帝国大学工学部電気科を卒業し、同年に三菱鉱業に入社。1963年5月に取締役に就任し、1965年8月に常務、1971年に専務を経て、1972年6月に副社長に就任し、1973年5月には社長に昇格。1982年6月には会長に就任。 1974年11月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲一等瑞宝章を受章。 1990年4月7日心不全のために死去。78歳没。
門脇 政夫(かどわき まさお、1911年(明治44年)8月7… 門脇 政夫(かどわき まさお、1911年(明治44年)8月7日 - 2010年(平成22年)2月19日)は、兵庫県出身の政治家。位階は正五位。「敬老の日」の提唱者として知られる。 多可郡野間谷村(後の八千代町を経て現在の多可町)で染色業を営み、1942年5月、30歳で野間谷村会議員に当選。同村収入役を経て、戦後の1947年4月、野間谷村の村長に35歳で当選した。同年9月15日、村主催の敬老会を初めて開催した。55歳以上の住民を公会堂に招いて食事と余興(播州歌舞伎)でもてなした。「長い間社会に貢献してきたお年寄りに敬意を表すとともに、その知識や人生経験を次の世代に伝授してもらう場を設ける」という趣旨であった。
秋山 英夫(あきやま ひでお、1911年8月7日 - 199… 秋山 英夫(あきやま ひでお、1911年8月7日 - 1991年4月6日)は、日本のドイツ文学者。学習院大学名誉教授。 石川県生まれ。本名は朝日英夫。東京帝国大学独文科卒業。金沢大学教授。1967年、「ゲーテの光に照らしてみたニーチェ像」で、東京大学より文学博士の学位を取得。学習院大学教授を1982年まで務め、ニーチェを主として研究するほか、多くのドイツ文学・哲学の翻訳をおこなった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
山本 秀雄(やまもと ひでお、1911年8月6日 - 199… 山本 秀雄(やまもと ひでお、1911年8月6日 - 1991年11月16日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 東京市品川の二本榎に生まれた。父が寺の住職をしていた関係で小学校と中学校時代は北海道の函館で過ごし、函館中学校(後の函館中部高校)を経て早大一高に進学、この頃から柔道で頭角を現し始めた。同時期、小内落を考えだし研究し完成させた。膝を柔らかく保って両足の指先は左右に開かず真っ直ぐ平行に構え、小柄な体格と他人には真似のできないその独特の足運びから小さな大選手として名を馳せた。1933年10月の第7回明治神宮大会柔道競技では準決勝戦で東京高等師範学校の加藤幸蔵5段を小内落で降し、同門対決となった決勝戦では早大専門部の山口利雄5段の払釣込足に辛酸を舐めたものの準優勝という成績を残した。
田淵 久(たぶち ひさし、1911年〈明治44年〉8月6日 … 田淵 久(たぶち ひさし、1911年〈明治44年〉8月6日 - 1995年〈平成7年〉4月4日)は、日本の政治家。岡山県岡山市長。位階は従六位。 1911年(明治44年)岡山県岡山市生まれ。1939年3月、関西大学法学部政治学科卒業。 大学卒業後は満州国へ渡り、満州国協和会に勤務。満州国興安総省興北地区指導科長等を務めた。1945年にシベリア抑留され、1950年帰国。香川県財田町長を経て、1955年5月、岡山市長に就任。岡山市名誉市民制度を制定したほか、姉妹都市提携をアメリカ合衆国カリフォルニア州サンノゼ市と結んだ。 退任後に1959年の参院選に無所属で全国区に出馬するが落選、また1972年の衆院総選挙でも民社党公認で岡山県第1区から出馬するが落選している。
田所 太郎(たどころ たろう、1911年8月6日 - 197… 田所 太郎(たどころ たろう、1911年8月6日 - 1975年6月6日)は日本の編集者、新聞経営者。『図書新聞』の創刊者として、その名を知られる。 1911年、東京都に生まれる。京華商業学校から、銀行勤務を経て、旧制松江高等学校に進む。旧制高校時代、花森安治と出会い、校友会雑誌を編集する。花森とは生涯の親友であった。 東京帝国大学に入学し、同じく東京帝国大学に進んだ花森とともに、当時6万部を発行していた「帝国大学新聞」(東京大学の学生新聞「東京大学新聞」の前身)の編集に携わる。当時の編集部員には、他に田宮虎彦、扇谷正造、岡倉古志郎、杉浦明平などがいた。 東京帝国大学仏文科を卒業後、三省堂宣伝部、文部省社会教育局映画課を経て、昭和16年、日本出版文化協会にはいり、機関紙「日本読書新聞」の編集長として書評新聞のスタイルをつくる。