宮本 常一(みやもと つねいち、1907年8月1日 - 19… 宮本 常一(みやもと つねいち、1907年8月1日 - 1981年1月30日)は、日本の民俗学者・農村指導者・社会教育家。 山口県屋代島(周防大島)生まれ。大阪府立天王寺師範学校(現在は大阪教育大学)専攻科地理学専攻卒業 。 柳田國男を読み、民俗学徒として立つ決心をする。その後渋沢敬三に誘われてアチック・ミューゼアムに入り、本格的に民俗学の研究を行うようになった。 1930年代から病没する直前まで、生涯に渡り日本各地をフィールドワーク(1200軒以上の民家に宿泊したと言われる)を行い、膨大な記録を残した。宮本が残した調査記録の相当部分は別集も含め、長年にわたり刊行した『宮本常一著作集』(未來社)で把握できるが、未収録の記録も少なくない[要出典]。
鈴木 明治(すずき めいじ / あきはる、1907年8月 -… 鈴木 明治(すずき めいじ / あきはる、1907年8月 - 2005年10月27日)は、日本酒を中心に酒類を対象とした研究をおこなった、日本の醸造学、発酵化学研究者。醸造試験所所長、東京農業大学教授などを歴任した。 長野県松本市生まれ。長野県松本中学校(長野県松本深志高等学校の前身)に学び、その後、東京大学農学部を卒業した。 醸造試験所(酒類総合研究所の前身)に入所して、日本酒をはじめ各種の酒類の研究にあたり、所長も務めた。この間、東京局所属の技官であった時には、山梨県の笹一酒造と関わりが深かった。また、1961年には、「清酒原料用米麹の老若に関する考察」により12月7日付で東京大学から農学博士を授与された。
川端 清策(かわばた せいさく、1906年〈明治39年〉8月… 川端 清策(かわばた せいさく、1906年〈明治39年〉8月31日 - 1985年〈昭和60年〉4月11日)は、日本の植物学者。高崎経済大学学長、同教授、北海道学芸大学教授、道都大学副学長、同教授、理学博士(北海道大学)。 群馬県伊勢崎市出身。1924年茨城県立太田中学校(現・茨城県立太田第一高等学校・附属中学校)卒。1924年群馬県佐波郡豊受尋常高等小学校代用教員、1926年北海道空知郡岩見沢町志文尋常小学校代用教員。軍隊に入隊を経て、1931年第二高等学校 (旧制)卒、1935年北海道帝国大学理学部卒業(恩師:山田幸男)。 1935年東海高等女学校(現茨城県立第二日立第二高等学校)教諭、1937年茨城県師範学校教諭。
木塚 静雄(きづか しずお、1906年8月31日 - 196… 木塚 静雄(きづか しずお、1906年8月31日 - 1966年)は、日本の家畜衛生学者。獣医師。 佐賀県藤津郡嬉野町(現・嬉野市)に生まれ、木塚貞吾の養子となる。1925年福岡県立中学修猷館、1930年3月第五高等学校理科甲類を経て、1933年3月東京帝国大学農学部獣医学科を卒業。 1933年5月農林水産省畜産局に入省。1937年7月宮城県種畜場(現・宮城県畜産試験場)長となる。1938年9月、鈴木梅太郎が院長を務めていた満洲国大陸科学院副研究官に転じ、1939年7月大陸科学院の機関である奉天獣疫研究所を兼任する。1945年3月高級ゼラチン研究により満洲国文化褒賞を受賞。1945年6月大陸科学院研究官となる。
相沢 巌夫(あいざわ いわお、1906年8月29日 - 19… 相沢 巌夫(あいざわ いわお、1906年8月29日 - 1945年10月2日)は、日本の陸上競技(短距離走)選手。陸軍司政官。 石川県金沢市生まれ。金沢の第四高等学校に入学。四高在学中の192年11月3日、神宮競技大会の100m走で10秒8を出し、当時の日本記録に並んだ。 京都帝国大学法学部に進む。1927年10月9日、近畿選手権の100m走で10秒7を記録し、日本記録を更新。日本陸上競技選手権大会では1927年に200m走で日本記録(21秒9)に並び優勝。 1928年5月中旬の日本陸上競技選手権大会では200mで21秒6の日本記録を更新し2連覇、100mでも優勝した。5月下旬に開催された第1回日本学生陸上競技対校選手権大会(インカレ)で100m、200m、4x400mリレーで優勝した。
長谷川 正彦(はせがわ まさひこ、1906年(明治39年)8… 長谷川 正彦(はせがわ まさひこ、1906年(明治39年)8月29日 - 没年不詳)は、日本の政治家。大阪府松原市長(2期)。 彦根高等商業学校(現・滋賀大学経済学部)卒業。柏原製油に入り、常務となったが退社。その後、河内信用組合設立委員会委員長を経て、専務理事となり、大伸金属顧問、同会長となった。このほか松原市公安委員長、大阪府公安委員会連合協議会会長、松原市教育委員長などを歴任した。 1967年(昭和42年)松原市長に当選。市長就任後は急増する市の人口に対応するため、道路や教育施設の整備、生活環境の改善、社会教育と福利厚生の充実など次々と施策を遂行した。在任中に清掃工場や老人福祉センター、青少年会館の開設、ゴミの定時収集の開始などがあり、市勢発展に力を尽くした。
島 茂雄(しま しげお、1906年8月29日-1993年12… 島 茂雄(しま しげお、1906年8月29日-1993年12月4日)は日本のトランジスタ技術者。日本カーバイド株式会社 元常務取締役。 鉄道技術者で新幹線の開発に携わった島安次郎の次男。元日本国有鉄道(国鉄)技師長の島秀雄は兄。一般社団法人FEA農研 代表理事である糸永季生を曾孫にもつ。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
車谷 弘(くるまたに ひろし、1906年(明治39年)8月2… 車谷 弘(くるまたに ひろし、1906年(明治39年)8月28日 - 1978年(昭和53年)4月16日)は、日本の編集者、俳人、実業家。文藝春秋専務取締役を務めた。 静岡県下田市出身。唐人お吉研究で知られる郷土史家・眼科医の村松春水を伯父に持つ。1929年(昭和4年)東京薬学専門学校(現・東京薬科大学)卒業。翌年『サンデー毎日』の懸賞小説に入選。永井龍男と下宿を共にしていたこともある。 1931年(昭和6年)より文藝春秋社に勤め、戦後、菊池寛が同社を解散した際、佐佐木茂索、鷲尾洋三らとともに文藝春秋新社を設立。『文藝春秋』、『オール讀物』の編集長、編集局長、出版局長を経て専務取締役となった。 小説を書くほか俳句をし、渡辺水巴、久保田万太郎に師事。
土屋 香鹿(つちや こうろく / かろく、1906年〈明治3… 土屋 香鹿(つちや こうろく / かろく、1906年〈明治39年〉8月28日 - 2006年〈平成18年〉11月26日)は、日本の内務官僚、弁護士。福岡県知事。静岡県浜松市出身。 浜名郡白脇村出身の海軍大佐土屋芳樹の四男として生まれる。1926年(大正15年)3月、静岡高等学校文科乙類を卒業。1928年(昭和3年)高等試験行政科に合格。1929年(昭和4年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業。同年内務省に入省し新潟県属となる。1930年(昭和5年)高等試験司法科に合格。新潟県知事官房文書課長、愛媛県地方課長、同農商課長、徳島県警察部特高課長、山形県警察部特高課長、埼玉県警察部特高課長、京都府商工課長、同庶務兼人事課長、岐阜県官房長、同経済部第二部長、山口県経済部第一部長、福岡県警察部長、同県内部部長などを歴任。
野澤 正雄(のざわ まさお、1906年8月26日-1994年… 野澤 正雄(のざわ まさお、1906年8月26日-1994年11月18日[要出典])は、広島県出身の元サッカー選手、日本代表選手(全日本)。野澤晁、野澤信韶は実弟。 同級の手島志郎らと共に広島高等師範学校附属中学(現広島大学附属高校)から1925年、創設間もない旧制広島高校(現広島大学総合科学部)に進学。1926年、東京帝大主催による旧制高校の全国大会、第3回全国高等学校ア式蹴球大会(インターハイ)では、ハーフバック(HB)・主将として1、2年生チームをまとめ準優勝。1928年の第5回大会では優勝に導いた。幅広い動きは当代随一と評され前線の手島らに好パスを供給し、全4試合で合計25得点を挙げる原動力となった。
肥州山 栄(ひしゅうざん さかえ、1906年8月25日 - … 肥州山 栄(ひしゅうざん さかえ、1906年8月25日 - 1980年9月11日)は、長崎県佐世保市東浜町出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は松本 栄(まつもと さかえ)。最高位は東関脇(1941年1月場所、同年5月場所)。得意手は左四つ、吊り、突っ張りなど。現役時代の体格は180cm、109kg。 1906年8月25日、長崎県佐世保市東浜町で漁師を営む家に生まれる。1926年の秋に上京し、明治神宮競技大会の相撲部門に青年団の部の長崎県代表として出場したところ、出羽海親方から見い出されて勧誘されたため、同年の年末に出羽海部屋へ入門した。 1927年1月場所で初土俵を踏むと序ノ口で2場所続けて全勝優勝したことで自信を付け、1929年9月場所では西幕下14枚目でありながら6勝0敗で全勝優勝を果たし、1930年1月場所では新十両昇進を果たした。
中川 重雄(なかがわ しげお、1906年8月24日 - 19… 中川 重雄(なかがわ しげお、1906年8月24日 - 1989年3月4日)は、日本の物理学者、教育者。立教大学理学部元教授・学部長、立教大学原子力研究所所長、立教大学野球部元部長。妻・京子は佐々木隆興の三女。 中川友次郎(内務・農商務官僚、群馬県知事)の三男として東京に生まれる。 1930年(昭和5年)東京帝国大学物理科を卒業。満鉄中央試験所職員、理化学研究所職員、大阪帝国大学理学部講師、佐々木研究所理事を務めた。 1949年(昭和24年)に、理化学研究所から立教大学理学部に赴任した中川重雄を中心に、立教大学宇宙線研究室が開設。理学部教授の中川が行う宇宙線観測実験の成果は新聞紙上を賑わせることとなった。
石川 覚七郎衛門(いしかわ かくひちろうえもん、1906年(… 石川 覚七郎衛門(いしかわ かくひちろうえもん、1906年(明治39年)8月21日 - 1981年(昭和56年)4月30日)は、日本の教育学者。勲等は勲三等瑞宝章。熊本大学教授。 熊本県立八代高等女学校、熊本県立青年学校教員養成所教諭、熊本青年師範学校教授、熊本大学教育学部教授、熊本音楽短期大学教授、九州女学院短期大学教授などを歴任した。 熊本市下職人町に亀井豊作の四男として生まれる。1931年(昭和6年)第五高等学校文化乙類を卒業後、東京帝国大学文学部宗教史宗教学科入学。1932年(昭和7年)石川サイと結婚し石川姓となる。1933年(昭和8年)教育学科に転科。1936年(昭和11年)同大学教育学科卒。
加藤 栄三(かとう えいぞう、1906年(明治39年)8月2… 加藤 栄三(かとう えいぞう、1906年(明治39年)8月20日 - 1972年(昭和47年)5月24日)は日本画家。岐阜県岐阜市出身。弟は日本画家加藤東一。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
小山 省二(こやま しょうじ、男性、1906年(明治39年)… 小山 省二(こやま しょうじ、男性、1906年(明治39年)8月18日 - 1989年(平成元年)4月6日)は、東京府(現・東京都)出身の政治家、実業家。元衆議院議員(4期)。 現在の町田市小山町(おやままち)に生まれる。1924年(大正13年)東京府立繊染学校(現・東京都立八王子桑志高等学校)を卒業後、八王子市内において。戦後は1949年(昭和24年)から1955年(昭和30年)まで八王子織物工業協同組合の第9代理事長を務めた。1968年(昭和43年)藍綬褒章受章。 戦後より政治活動に進出し、1947年(昭和22年)に東京都議会議員選挙に八王子選挙区から立候補し当選、以後5期連続当選を重ね、1963年(昭和38年)には都議会議長に就任する。
石本 秀雄(いしもと ひでお、明治39年(1906年)8月1… 石本 秀雄(いしもと ひでお、明治39年(1906年)8月18日 - 昭和40年(1965年)10月5日)は、日本の映画撮影技師である。本名:藤井 秀雄(ふじい ひでお)。 1906年(明治39年)8月18日、淡路島の洲本に生まれる。旧制滝川中学校中退。 1922年(大正11年)、牧野教育映画製作所(等持院撮影所)撮影部に入社する。田中十三らの助手をつとめ、1923年(大正12年)のマキノ映画製作所への改組、1924年(大正13年)7月の東亜キネマへのマキノの吸収合併を経ても等持院撮影所で撮影助手をつとめる。 1925年(大正14年)6月のマキノ・プロダクションの設立に際して、新設の御室撮影所にともに移る。
山本秀祐(やまもと ひですけ、1906年8月17日 - 19… 山本秀祐(やまもと ひですけ、1906年8月17日 - 1981年10月27日)は、日本の工業技術者、実業家。富士工業所(現フジコー)創業者。 福岡県出身。明治専門学校(現九州工業大学)工学部冶金工学科卒業。当時、修理不可能と言われた溶損した鋳型の修理に世界で初めて成功し、事業化する。「特殊鋳かけ肉盛法」の技術開発が認められ、黄綬褒章を受章した。
曻地 三郎(しょうち さぶろう、1906年(明治39年)8月… 曻地 三郎(しょうち さぶろう、1906年(明治39年)8月16日 - 2013年(平成25年)11月27日、旧姓:山本)は、日本の教育者、教育学者。教育学・心理学・精神医学が専門。日本初の知的障害児通園施設しいのみ学園を設立、運営した。 福岡教育大学教育学部教授、韓国社会事業大学(現大邱大学校)教授・大学院長、社会福祉法人しいのみ学園理事長兼園長を歴任。関西大学法学士、広島文理科大学文学博士、九州大学医学博士。福岡教育大学名誉教授、韓国・建陽大学校名誉教授、中国・長春大学名誉教授、上海・華東師範大学名誉教授、モスクワ心理教育大学名誉教授。大韓民国国民勲章受章、ペスタロッチー教育賞受賞。吉川英治文化賞受賞。
花澤 武夫(はなざわ たけお、1906年〈明治39年〉8月1… 花澤 武夫(はなざわ たけお、1906年〈明治39年〉8月16日 - 1987年〈昭和62年〉3月5日)は、日本の内務・厚生官僚。位階は従四位。中高年齢者福祉協会(現:中高年齢者雇用福祉協会)理事長、船員保険会常務理事、厚生省保険院保険局年金課長などを歴任した。勲三等瑞宝章受章者。 花澤徳蔵の長男として東京府に生まれる。1927年(昭和5年)東京外国語学校を経て、1928年(昭和3年)高等試験行政科に合格。1930年(昭和5年)九州帝国大学法文学部卒業後、保険院社会局に入る。戦時色強まる1940年(昭和15年)の秋、厚生年金(当時は労働者年金保険)の創設を発表した。労働者年金は1942年(昭和17年)に創設し、2年後に厚生年金と名称を変えた。
池田 寿夫(いけだ ひさお、1906年〈明治39年〉8月15… 池田 寿夫(いけだ ひさお、1906年〈明治39年〉8月15日 - 1944年〈昭和19年〉11月9日)は、日本のプロレタリア文学評論家。本名は横山 敏男(よこやま としお)。 新潟県新潟市旭町通2番町出身。1913年(大正2年)4月に新潟尋常高等小学校に入学、坂口安吾は同級生、1920年(大正9年)4月に新潟中学校に入学、坂口安吾は同級生、1924年(大正13年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)。 1924年(大正13年)4月に新潟高等学校に入学、左傾化、1927年(昭和2年)3月に卒業、4月に東京帝国大学農学部農業経済学科に入学、駒場社会科学研究会に入会、帝大同人雑誌連盟を結成、1928年(昭和3年)7月に『大學左派』を創刊。
高橋 哲雄(たかはし てつお、1906年(明治39年)8月1… 高橋 哲雄(たかはし てつお、1906年(明治39年)8月15日 - 1996年(平成8年)3月6日)は、広島県広島市出身の元日本のバレーボール選手、元バレーボール全日本選手。指導者、元日本バレーボール協会副理事長・名誉副会長。元大阪府バレーボール協会会長。広島高等師範附属中学校(現広島大学附属高校)~神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業(1928年)。「黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会」を創設する等、日本のバレーボールの草分け時代に、選手、指導者として、日本のバレーボール発展の礎を築いた。 多田徳雄監督下で日本バレーの草分けとなった神戸高商の中心選手として最強時代に貢献。在学中の1927年、当時唯一の国際大会だった極東選手権競技大会の第8回上海大会に神戸高商単独チームの主将として参加。
西田 政善(にしだ まさよし、1906年8月15日 - 故人… 西田 政善(にしだ まさよし、1906年8月15日 - 故人)は、日本の農学者。専門は林学と造園学。鹿児島大学名誉教授、九州学院大学学長。 宮崎県出身。1927年鹿児島高等農林学校林学科(現鹿児島大学農学部)卒業。鹿児島高等農林学校助手を経て、1934年助教授。1944年鹿児島青年師範学校(現鹿児島大学教育学部)教授。学制改革により1949年鹿児島大学助教授、1961年鹿児島大学教授(教育学部所属)。後に南九州大学教授を経て、九州学院大学(現第一工科大学)教授。九州学院大学学長代行を務めた後、1977年九州学院大学学長に就任。 1988年上原敬二賞受賞。西田は鹿児島や沖縄の庭園研究や修験道の庭園の研究で知られ、鹿児島の志布志麓庭園(平山氏庭園、昭和31年鹿児島県指定名勝)を高く評価。
小野 忍(おの しのぶ、1906年(明治39年)8月15日 … 小野 忍(おの しのぶ、1906年(明治39年)8月15日 - 1980年(昭和55年)12月18日)は、日本の中国文学者。東京大学名誉教授。 1906年、東京・神田で生まれた(広島県呉市出身)。1926年に松山高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部支那文学科に入学。塩谷温に師事し、1929年に卒業。 アプトン・シンクレアの評伝の翻訳などをした後、1934年に冨山房に入社。百科辞典の編纂に携わったほか、戦時中には満鉄調査部員として上海に駐在したり、民族研究所嘱託として内モンゴルの西北研究所に出向し現地で中国ムスリムの調査に参加するなどした。 1946年より國學院大學で講師を務めたのを皮切りに、東京大学、九州大学、京都大学などで非常勤講師を務めた。
副島 吉雄(そえじま よしお、1906年8月14日 - 19… 副島 吉雄(そえじま よしお、1906年8月14日 - 1974年6月9日)は、日本の機械工学者。大阪大学名誉教授。理学博士(京都帝国大学)。大阪工業大学工学部機械工学科元教授。 専門は、精密工学・光流体工学、応用物理学・分光学。 京都府出身。祖父は軍医の副島吉謙、父は京都帝国大学医学部教授・副島豫四郎。1931年京都帝国大学理学部物理学科卒業(分光学の権威である理化学研究所の木村正路の指導。1940年広島高等工業学校教授。1941年に召集され、陸軍工兵少尉として応召。1944年理学博士(京都帝国大学)。1947年神戸大学工学部教授、1959年大阪大学工学部精密工学科教授、第6講座(科学機器)を担当。
飯守 重任(いいもり しげとう、1906年8月13日 - 1… 飯守 重任(いいもり しげとう、1906年8月13日 - 1980年11月5日)は、日本の裁判官。最高裁判所長官を務めた田中耕太郎の弟。 佐賀県出身。1930年東京帝国大学独法科卒業後、裁判官生活に入る。 1930年代に満州国司法部に移り、審判官や司法部参事官を務め、治安立法や統制経済法の立法に関与した。戦後、中国から戦犯に問われ、撫順収容所で「熱河粛正工作に於いてのみでも、中国人民解放軍に協力した愛国人民を1700名も死刑に処し、約2600名の愛国人民を無期懲役その他の重刑に処している」と手記に書いたが、日本帰国後はこれを否定した。 戦後、シベリアや中国・撫順戦犯管理所に抑留されて、1956年8月に帰国し、東京地裁判事に復職した。
村上 実(旧字体表記:村上 實、むらかみ みのる、1906年… 村上 実(旧字体表記:村上 實、むらかみ みのる、1906年8月12日 - 1999年5月4日)は、兵庫県出身のプロ野球監督、実業家。 小学校時代の友人に、関西大学野球部監督、大阪タイガース二軍監督などを歴任する森田忠勇がいる。旧制天王寺中学で三塁手を務める。 慶應義塾大学野球部マネージャを経て、1932年にに阪神急行電鉄(現:阪急阪神ホールディングス・阪急電鉄)に入社する。1936年にはプロ野球球団阪急軍の創設に尽力する。球団代表に就任して25年間球団経営に携わった。 1937年には、秋季シーズンの監督を務める。初代阪急軍の監督である三宅大輔がこのシーズンも指揮を執るはずであったが、三宅の一切の妥協を許さぬ厳格な姿勢が選手達からの猛反発を受けてしまい、三宅は解任に追い込まれたために4試合目からの途中就任であった。
星野 茂雄(ほしの しげお、1906年8月10日 - 197… 星野 茂雄(ほしの しげお、1906年8月10日 - 1971年6月26日)は、日本の経営者。日本特殊陶業社長を務めた。 群馬県出身。1930年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。日本碍子での勤務を経て、1936年10月に日本特殊陶業に転じ、取締役、常務を経て、1956年11月に専務に就任し、1966年11月には社長に昇格 1971年6月26日、急性心不全のために在任中に死去。64歳没。
浅野 績(あさの いさお、1906年8月10日 - 1975… 浅野 績(あさの いさお、1906年8月10日 - 1975年2月9日 )は、日本の経営者。キャタピラー三菱社長を務めた。 岡山県総社市出身。1928年に東京高等工業学校工学部機械工学科を卒業し、同年に三菱造船に入社した。1965年5月に三菱重工業取締役に就任し、1966年11月に三菱自動車販売取締役を経て、1968年11月に社長に就任し、1970年1月にキャタピラー三菱社長に就任。 1975年2月9日、激症肝炎のために死去。68歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田中千代(たなか ちよ 1906年8月9日 - 1999年6… 田中千代(たなか ちよ 1906年8月9日 - 1999年6月28日)は、教育者、服飾デザイナー。昭和初期に渡欧し欧米の文化・服飾を学び、日本に近代洋裁教育、服飾デザインの礎を作った。民族衣装の研究・収集家でもあった。
飯田 房太郎(いいだ ふさたろう、1906年(明治39年)8… 飯田 房太郎(いいだ ふさたろう、1906年(明治39年)8月7日 - 1975年(昭和50年)5月8日)は、昭和時代の土木工学者、実業家。 神奈川県に生まれる。1930年(昭和5年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、間組に入社。各出張所次長、土木部次長、取締役、常務および専務をへて1967年(昭和42年)副社長、1969年(昭和44年)社長に就任した。この間、大井川千頭堰堤や久野脇発電所の建設、羽田飛行場の拡張工事などに携わり、1952年(昭和27年)大井川水系の開発が始まると井川ダム、奥泉ダム、畑薙ダム(第一、第二)などを次々と完成させた。 ほか、日本土木工業協会・日本建設業連合会・日本経済団体連合会・海外建設協会などの理事、日本建設機械化協会・土木学会各会長などを歴任した。
大倉 重作(おおくら じゅうさく、1906年〈明治39年〉8… 大倉 重作(おおくら じゅうさく、1906年〈明治39年〉8月4日 - 1982年〈昭和57年〉5月7日)は、日本の政治家。位階は従五位。勲等は勲四等。 静岡県小笠郡千浜村議会議員、静岡県小笠郡千浜村助役、静岡県小笠郡千浜村長、静岡県小笠郡大浜町長、静岡県小笠郡大東町長(初~第3代)などを歴任した。 静岡県出身の政治家であり、静岡県小笠郡にて千浜村の村長を経て、大浜町の町長や大東町の町長を務めた。大東町においては全町農業構造改善事業を提唱し、全国的な注目を集めた。企業誘致や教育機関の整備などを積極的に推し進めたが、町長在任中に死去した。 1906年(明治39年)8月4日、静岡県小笠郡千浜村にて生まれた。
戸川 安章(とがわ あんしょう、明治39年(1906年)8月… 戸川 安章(とがわ あんしょう、明治39年(1906年)8月3日 - 平成18年(2006年)12月12日)は、日本の民俗学者。山形県民俗研究協議会会長。日本山岳修験学会顧問。致道博物館顧問、荘内文化財保存会理事。鶴岡女子専門学校校長。栄典・称号は、勲五等双光旭日章・羽黒町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)。
松田 武(まつだ たけし、1906年(明治39年)8月3日 … 松田 武(まつだ たけし、1906年(明治39年)8月3日 - 1988年(昭和63年)9月4日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官、旧軍需省官僚、実業家である。第4代航空幕僚長。
戸川 安章(とがわ あんしょう、1906年8月3日 - 20… 戸川 安章(とがわ あんしょう、1906年8月3日 - 2006年12月12日)は、日本の民俗学者。山形県民俗研究協議会会長。日本山岳修験学会顧問。致道博物館顧問、荘内文化財保存会理事。鶴岡女子専門学校校長。栄典・称号は、勲五等双光旭日章・羽黒町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)。 日本民俗学の第一人者で、特に出羽三山山岳修験道の研究で知られる。 母方で備中庭瀬藩戸川家の分家である帯江戸川家の家系。母方の祖父は帯江戸川家8代戸川安愛の弟の戸川最兎女(もとめ)栄秀。父の島津伝道は荒沢寺住職として、羽黒山修験本宗を天台宗から独立させた。安章は戸川家を継ぎ戸川姓となった。甥(妹の息子)に東京創元社の編集者の戸川安宣。
高瀬 侍郎(たかせ じろう、1906年〈明治39年〉8月2日… 高瀬 侍郎(たかせ じろう、1906年〈明治39年〉8月2日 - 1992年〈平成4年〉5月27日)は、日本の外交官。第14代拓殖大学総長。正四位勲二等旭日重光章。群馬県出身。 日独伊三国同盟を推進した責任から、終戦とともに外務省を辞職。戦後は東京都外務室長として勤務。
立木 勝(たき まさる、1906年8月2日 - 1987年4… 立木 勝(たき まさる、1906年8月2日 - 1987年4月13日)は、大分県知事(1971年 - 1979年)。官選も含めると第45・46代、公選のみでは第7・8代にあたる。 福岡県京都郡行橋町(※現在の行橋市、本籍は大分県大分市坂ノ市)出身。旧制大分中学校(現大分上野丘高校)、旧制第三高等学校を経て、1931年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、東京市社会局、京城府の小林鉱業に勤務。 終戦後に大分市役所に入り、1953年に大分県庁に移る。1955年に木下郁が県知事に当選すると、総務部長に抜擢され、総務部長、出納長、副知事として16年間の木下県政の女房役を務めた。 1971年に木下が引退すると、その後を継いで大分県知事に初当選。
徳川 良子(とくがわ よしこ、1906年(明治39年)8月1… 徳川 良子(とくがわ よしこ、1906年(明治39年)8月1日 - 没年不明)は、日本の女優。日活向島・帝国キネマ・新興キネマにそれぞれ所属した。 愛知県名古屋市出身。椙山高等女学校卒業後、1923年(大正12年)に日活向島からデビュー。1930年(昭和5年)に帝国キネマに移籍、新興キネマをへて1935年(昭和10年)まで活躍した。 その後は満洲に渡ったとされるが、詳細は不明。
耕 治人(こう はると、1906年8月1日 - 1988年1… 耕 治人(こう はると、1906年8月1日 - 1988年1月6日)は、日本の小説家・詩人。本名の姓は「たがやす」と読む。 熊本県八代市生まれ。明治学院英文科卒業。千家元麿に師事して詩作を始め、1930年(昭和5年)『耕治人詩集』を上梓する。 戦前の1937年(昭和12年)から川端康成を頼り、1939年(昭和14年)7月には、『文學界』に初めての小説を載せてもらうなど世話になっていた。 戦中の1945年(昭和20年)3月に、左翼思想犯として逮捕される。 戦後、主として私小説を書き始め、長く不遇だったが、1970年(昭和45年)に『一条の光』で読売文学賞、1972年 (昭和47年に『この世に招かれてきた客』で平林たい子文学賞受賞。
天児 民和(あまこ たみかず、1905年8月31日 - 19… 天児 民和(あまこ たみかず、1905年8月31日 - 1995年4月6日)は、日本の整形外科医。九州大学名誉教授。 先祖は「滝根」と称していたが、明治三年の氏姓制度で「天児」姓を名乗る。「天児」は「あまがつ」と読み、『源氏物語』若菜にもみえる、災難を除くため祓に用いられた子供の人形のこと。しかし「あまがつ」と正確に読んでくれる人がいないため、呼びやすく「あまこ」にしたと伝え聞いている、という。 神戸市出身。1926年九州帝国大学医学部入学、1930年卒業、1931年同整形外科教室入局、神中正一教授に師事。1936年ドイツ留学(ライプッチヒ大学整形外科学教室)、同年開催のベルリンオリンピックの嘱託医師などを務め、1936年医学博士、九州大学助教授、軍医をへて、1945年新潟医科大学教授、1949年新潟大学医学部付属病院長。
茜ケ久保 重光(茜ヶ久保、あかねがくぼ しげみつ、1905年… 茜ケ久保 重光(茜ヶ久保、あかねがくぼ しげみつ、1905年〈明治38年〉8月31日 - 1993年〈平成5年〉3月5日)は、日本の政治家。日本社会党で衆議院議員(3期)、参議院議員(2期)を務めた。 宮崎県宮崎郡木花村(現・宮崎市)に、農家の次男として生まれる。1937年(昭和12年)早稲田大学政経科卒。在学中から反戦・労働・農民運動に参加。卒業後は群馬県水上町にあった阿能川鉱山に入り、所長となる。1940年(昭和15年)群馬県鉱業会理事長、1943年(昭和18年)全国鉱業会連合会理事長。 1945年(昭和20年)の日本社会党結党に参加。1948年(昭和23年)日本社会党群馬県連書記長、1950年(昭和25年)日本社会党本部中央委員。
沼田 嘉穂(ぬまた よしほ、1905年8月30日 - 198… 沼田 嘉穂(ぬまた よしほ、1905年8月30日 - 1989年5月23日)は、日本の会計学者。会計学、特に簿記学の研究・教育への啓蒙についても精力的に活動、著作も多い。横浜国立大学教授・駒澤大学教授を歴任。 明治38年、文京区本郷弓町にて出生。幼少時小石川小日向台町に移り、大正2年黒田小学校に入学。3年父の奉職先の大手町会計検査院官舎に移り、日比谷小学校(現麹町小学校)に転学、7年卒業。同年一ツ橋高等小学校に入学。8年錦城中学校に入学。12年夏に関東大震災により家屋壊滅。小石川林町に移転。13年錦城中学校卒業。同年東京商科大学(現一橋大学)専門部に入学、昭和2年同校卒業、就職に失敗し、同年本科に進学。
梶浦 善次(かじうら ぜんじ、1905年8月30日 - 19… 梶浦 善次(かじうら ぜんじ、1905年8月30日 - 1993年8月4日)は、日本の哲学者・教育者。専門は教育哲学・ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルに関する研究。北海道における学校経営者。 北海道留萌市出身。1925年札幌師範学校卒業。卒業後、北海道小樽市の小学校訓導として奉職するも、1926年に東京高等師範学校文科第三部に入学。1930年同学校卒業、北海道庁立札幌第一中学校(後の北海道札幌南高等学校)英語教諭。1938年北海道庁立小樽中学校(後の北海道小樽潮陵高等学校)英語教諭に転任。1942年東京文理科大学哲学科に入学、1944年同大学卒業。同年9月、北海道第一師範学校講師、同年12月教授。
橋本 聖準(はしもと しょうじゅん、1905年(明治38年)… 橋本 聖準(はしもと しょうじゅん、1905年(明治38年)8月30日 - 1994年6月24日)は華厳宗の僧侶。203世華厳宗管長、東大寺別当。 奈良市出身。写真家の入江泰吉とは幼なじみ。龍谷大学卒。龍藏院住職、執事長、大仏殿主任などを経て管長となる。修二会の声明の名手として知られた。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
村社 講平(むらこそ こうへい、1905年8月29日 - 1… 村社 講平(むらこそ こうへい、1905年8月29日 - 1998年7月8日)は、日本の陸上競技選手、指導者、毎日新聞記者。ベルリン五輪代表。 宮崎県宮崎市出身。小柄ながらも力強い走法で選手として活躍、引退後も毎日マラソンの設立や後進の育成など陸上界の発展に尽力した。 旧制宮崎中学校テニス部時代にロードレース大会で優勝したことをきっかけに長距離走を本格的に始めた。 1925年(大正14年)中学卒業後、都城歩兵第23連隊に入隊。1927年(昭和2年)に除隊し宮崎県立図書館に勤務。仕事のかたわら陸上競技を続けているうちに素質を認められ、1932年、27歳のときに中央大学法学部法律学科に進学。 中央大学在学中の1936年ベルリンオリンピックに日本代表として出場。
庄司 光(しょうじ ひかる、1905年8月29日 - 199… 庄司 光(しょうじ ひかる、1905年8月29日 - 1994年11月23日)は、日本の環境衛生学者。専門は、環境衛生学・公衆衛生学。学位は、医学博士(京都帝国大学・1942年)。京都大学名誉教授。1975年勲三等旭日中綬章受章。京都府生まれ。 厚生省生活環境審議会委員、日本学術会議・公害問題特別委員会委員、日本学術会議・環境問題特別委員会委員、大阪府公害審査会委員、大阪府総合計画審議会委員、大阪府公害対策審議会委員、京都府公害対策審議会委員、京都市公害対策審議会会長、神戸市公害対策審議会委員、神戸市環境影響評価専門委員会会長、大阪市公害対策審議会委員などを歴任。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
田鶴浜 弘(たづはま ひろし、1905年8月29日 - 19… 田鶴浜 弘(たづはま ひろし、1905年8月29日 - 1991年8月15日)は、日本のスポーツライター、プロレス評論家。 日本ボディビル協会の副会長も務めた。 早稲田大学卒業。報知新聞記者を皮切りにスポーツ記者として広く活躍し、とりわけプロレスでは「プロレス評論家の草分け的存在」と称される。日本初のプロレス専門誌『月刊プロレス』の創刊にも携わった。 1972年の全日本プロレス創立から1985年頃まで、日本テレビの『全日本プロレス中継』で解説者を務める。なおメインの解説者は田鶴浜より28歳若い山田隆で、田鶴浜は二番手のポジションだった。1975年に全日本で行われたオープン選手権では準備委員会の委員を務めた。
伊賀山 正光(いがやま まさみつ、1905年8月25日 - … 伊賀山 正光(いがやま まさみつ、1905年8月25日 - 2001年10月29日)は、日本の映画監督である。本名・旧名伊賀山 正徳(いがやま まさのり)。 1905年(明治38年)8月25日、秋田県秋田市保戸野表鉄砲町 (現在の同市保戸野鉄砲町)に生まれる。 旧制・秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)を卒業、東京に移り、明治大学に入学する。日本大学法文学部美学科(現在の日本大学藝術学部)に移籍し、在学中の1925年(大正14年)、国際活映巣鴨撮影所が製作した内田吐夢監督の『義血』で助監督を務めている。同作の撮影技師は円谷英二であり、同作は同年2月6日に公開されている。1927年(昭和2年)、同学の卒業と同時に、タカマツ・アズマプロダクション吾嬬撮影所に助監督として入社したが、同社は同年後半に活動を停止しており、翌1928年(昭和3年)には、京都の勝見庸太郎プロダクションに移籍した。
丸山 和歌子(まるやま わかこ、1905年〈明治38年〉8月… 丸山 和歌子(まるやま わかこ、1905年〈明治38年〉8月22日 - 1945年〈昭和20年〉)は、戦前に活動した日本の女性歌手。ステージからレコードで活動し、その分野では珍しく広い音域(特に高音のソプラノ)を持つ歌手だった。浅草オペラ館で活躍した。 東京・神田で篠原幼稚園を営む丸山和太郎の次女として生まれる。女子学院を経て、東洋音楽学校本科声楽部を卒業。永井郁子らに師事。 卒業後は、姉とともに実家の幼稚園経営を引き継いだ。1931年に浅草の金龍館で歌手デビューし、同年にはレコードもリリースされた。ステージに立つと「ワカちゃーん」というかけ声が上がったという。 1937年(昭和12年)にレコード歌手を引退した後はステージでの歌手活動を続け、戦争中は慰問活動で歌声を披露した。
大島 一衛(おおしま いちえ、1905年8月22日 - 19… 大島 一衛(おおしま いちえ、1905年8月22日 - 1961年9月23日)は、昭和時代前期に活動した日本の新聞編集者。 1905年(明治38年)、石川県で山中一兵の長男として出生。1928年(昭和3年)に京都帝国大学経済学部を卒業し、新愛知新聞社に入社する。入社後に新愛知の創業者・大島宇吉の次男で愛知県守山町の第6代町長を務めた大島藤次郎の婿養子となり、1935年(昭和10年)に新愛知傘下の国民新聞社へ営業局長として出向した。 翌1936年(昭和11年)、新愛知編集主幹兼国民新聞代表取締役の田中斉が読売新聞の正力松太郎から職業野球への参入を持ち掛けられたことを契機として「大日本野球連盟」と称する独自のリーグ設立構想を立て、新愛知傘下で名古屋軍(大日本野球連盟名古屋協会)、国民新聞傘下で大東京軍(大日本野球連盟東京協会)をそれぞれ発足させたが、この時は一衛が大東京軍の監査役と名古屋軍の取締役を兼ねていただけでなく田中が両球団の専務、義兄(妻の実兄)の大島一郎が名古屋軍副会長兼大東京軍取締役、新愛知の社外から名古屋軍会長に迎えられた弁護士の大野正直が大東京軍の取締役を兼ねる名実共に「兄弟球団」の体制であった。
友田 三八二(ともだ みやじ、1905年8月22日 - 20… 友田 三八二(ともだ みやじ、1905年8月22日 - 2002年2月9日)は、日本の経営者、工学博士。横河電機製作所(現在の横河電機)社長を務めた。広島県出身。 1927年に広島高等工業学校電気工学科を卒業し、同年に横河電機製作所(現在の横河電機)に入社。1940年7月に取締役に就任し、1949年12月に常務、1960年11月に副社長を経て、1966年11月に社長に就任し、1971年6月までに務めた。 1958年4月に紫綬褒章を受章し、1975年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2002年2月9日肺炎のために死去。96歳没。