今里 英三(いまざと えいぞう、1905年(明治38年)8月… 今里 英三(いまざと えいぞう、1905年(明治38年)8月21日 - 2007年(平成19年)8月20日 )は、日本の実業家。近畿日本鉄道(近鉄)の元社長(大阪電気軌道創立から8代目)。奈良県奈良市八島町出身。 1930年(昭和5年)、慶應義塾大学経済学部卒業とともに当時の大阪電気軌道に入社。同社が合併を経て近畿日本鉄道となったのち、1958年(昭和33年)に取締役経理局長となる。以後、1960年(昭和35年)常務取締役、1965年(昭和40年)専務取締役を経て、1971年(昭和46年)に取締役副社長。1973年(昭和48年)5月、近鉄中興の祖といわれた佐伯勇の後任として社長に就任する。近鉄社長としては初の私大卒であり、退任後も現社長の小林哲也(早稲田大学卒)まで私大卒の社長はいなかった。
奥田 東(おくだ あずま、1905年(明治38年)8月19日… 奥田 東(おくだ あずま、1905年(明治38年)8月19日 - 1999年(平成11年)4月28日)は日本の農学者。京都大学総長、日本WHO協会理事長、ユネスコ国内委員などを務めた。位階は正三位。 1905年8月19日に奈良県畝傍で教師・奥田清の長男として生まれる。なお、戸籍は京都府熊野郡久美浜町(現:京丹後市)。父親の転勤に伴い広島県福山市に移り、福山南小学校に入学。その後さらに転勤のため京都市上京区の京極小学校に転校した。1918年に旧制京都府立京都第一中学校(現:洛北高校)に入学。同窓生には朝永振一郎、桑原武夫、湯川秀樹らがおり、全員が旧制高校と大学も一緒で、かつ後に京都大学の教授となっている。
小林 運美(こばやし かずみ、1905年(明治38年)8月1… 小林 運美(こばやし かずみ、1905年(明治38年)8月18日 - 1978年(昭和53年)10月2日)は、日本の実業家、政治家。男性。 長野県小県郡上田町(現上田市)生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、上田蚕糸専門学校製糸科卒業。山十製糸に入社し、中央蚕糸会、全国産業組合製糸組合連合会、全国共営蚕糸組合などの蚕糸団体の役職を歴任し、昭和4年(1929年)ニューヨークで開かれた第2回国際生糸技術会議に出席した。また日本紡毛会長、東邦製糸取締役、帝国製糸専務などを歴任した。 同22年(1947年)第23回衆議院議員総選挙に長野県第2区から出馬し、初当選した。改進党中央常任委員や、国会対策委員を務めた。
旭川 幸之焏(あさひかわ ゆきのじょう、1905年8月18日… 旭川 幸之焏(あさひかわ ゆきのじょう、1905年8月18日 - 1978年1月31日)は、北海道上川郡旭川町(現:北海道旭川市、出生地は富山県下新川郡(現:富山県魚津市))出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は宮坂 幸吉(みやさか こうきち)。最高位は西関脇。 1905年8月18日、富山県下新川郡(現:富山県魚津市)で生まれる。2歳の時に家族で北海道上川郡旭川町(現:北海道旭川市)へ移住し、1921年の夏に友綱の一行が巡業で北海道へ来る際に、先乗りとして一足先に北海道へやって来た同郷の立浪親方(元小結・緑嶋)に見い出され、立浪部屋へ入門した。1922年1月場所で初土俵を踏み、1927年5月場所で新十両昇進を果たすが、ここから幕下との往復が5年以上繰り返されることとなる。
今井 啓一(いまい けいいち、1905年8月17日-1975… 今井 啓一(いまい けいいち、1905年8月17日-1975年11月27日)は、日本の歴史学者。 京都府出身。神宮皇學館卒。大東文化学院高等科修了。1961年「帰化の研究」で國學院大學文学博士。立命館大学教授、近畿大学教授、大阪樟蔭女子大学学芸学部教授。
中山 定義(なかやま さだよし、1905年(明治38年)8月… 中山 定義(なかやま さだよし、1905年(明治38年)8月16日 - 1995年(平成7年)1月16日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。海兵54期恩賜。第4代海上幕僚長。島根県出雲市出身。東京都目黒区在住であった。長男は第10代明治学院長の中山弘正。 旧制島根県立大社中学校より海軍兵学校第54期入校。席次は入校時は79名中4番、卒業時は68名中3番で恩賜の短剣を拝受。 海兵54期は、ワシントン軍縮会議の結果、艦船のみならず海軍士官も余剰と判断され、海軍兵学校生徒の採用数が通常年度の半分以下になった2期目のクラスである。 佐官になってからは、軍政部門での勤務が多かった。海軍大学校甲種第36期在校中に日中戦争が勃発、人手不足も手伝って、大学校在校者も駆り出され、中山は中国在勤を命ぜられる。
杉浦 健一(すぎうら けんいち、1905年(明治38年)8月… 杉浦 健一(すぎうら けんいち、1905年(明治38年)8月16日 - 1954年(昭和29年)1月15日)は、日本の文化人類学者である。 愛知県岡崎市の生まれ。東京帝国大学(現在の東京大学)卒業後、同大学院に入学するが中退する。その後は日本国内の辺地民俗学の調査の参加や、1937年(昭和12年)に南洋庁に入庁した事により、人類の調査のため1941年(昭和16年)に退職するまで5度ミクロネシアやパラオ等当時日本の直轄下であった南洋諸島を訪問した。またこの頃に文部省(現在の文部科学省)に入省し、同省の民族研究所の研究員として活動する。 第二次世界大戦後はアメリカ国内における文化人類学の影響もあり、親族組織論等多彩な人類学の研究に携わる。
岩﨑 勝平(いわさき かつひら、1905年8月15日 - 1… 岩﨑 勝平(いわさき かつひら、1905年8月15日 - 1964年9月10日)は、日本の洋画家。「孤独と貧困の鬼才」などと呼ばれる。 1905年(明治38年)8月15日、埼玉県川越町(現川越市)に生まれた。本名は「かつへい」と読む。父は育太郎、母は育太郎の後妻の満つ。育太郎は川越商業会議所副会頭を勤めるなど川越の有力者で、勝平の叔父には福澤諭吉の娘婿で「日本の電力王」と呼ばれた実業家の福澤桃介、伯母には「激情の歌人」として知られる女流歌人の杉浦翠子がいる。翠子の夫は洋画家の杉浦非水。 川越中学校(現埼玉県立川越高等学校)在学時から絵画の世界に惹かれ杉浦非水の紹介で岡田三郎助の本郷洋画研究所へ通う。
杉田元宜(すぎた もとよし、1905年8月15日 - 199… 杉田元宜(すぎた もとよし、1905年8月15日 - 1990年1月14日)は、日本の物理学者、科学史家、一橋大学名誉教授。 熊本県八代町(現・八代市)生まれ。高知育ち、甲南高等学校卒、1929年東京帝国大学理学部物理学科卒、逓信省勤務、1934年海軍機関学校教官、1945年東京産業大学教授、1949年一橋大学法学社会学部教授、「過渡的現象の熱力学」で京都大学理学博士。1951年一橋大学社会学部教授。1969年一橋大定年退官、名誉教授、青山学院大学教授、1976年退職。妻は日系カナダ人。没後、正四位勲三等瑞宝章叙勲。墓所は多磨霊園(25-1-60) ゼミの指導学生に北畠能房(環境学者、京都大学名誉教授)、鶴野史朗(アイ・アール ジャパンホールディングス創業者)、有賀貞一(CSK副社長、ミスミグループ本社副社長、リアルワールド会長等を歴任)など。
田辺 弥八(たなべ やはち、1905年(明治38年) 8月1… 田辺 弥八(たなべ やはち、1905年(明治38年) 8月13日 - 1990年(平成2年)4月29日)は、日本の海軍軍人。海兵56期。ミッドウェー海戦において、伊号第百六十八潜水艦長として米空母ヨークタウンを撃沈した武功で知られる。最終階級は海軍中佐。 香川県出身。旧制香川県立三豊中学校(第21回)を経て海軍兵学校(56期)を卒業。海兵56期の同期生に高橋赫一、大谷藤之助、三上作夫らがいる。 田辺は通信学校甲種を修了していわゆる「通信屋」となったが、次いで潜水艦水雷長養成過程である潜水学校乙種を修了し、潜水艦乗りとなる。海軍大尉時代は「伊八潜」通信長を5ヶ月、第二潜水戦隊参謀を1年8ヶ月務め、1940年(昭和15年)11月海軍少佐へ進級。
葛西 康(かさい やすし、1905年〈明治38年〉8月13日… 葛西 康(かさい やすし、1905年〈明治38年〉8月13日 - 1990年〈平成2年〉3月26日)は、日本の洋画家。青森県出身。秋田大学教授、一陽会会員、菁々会会員。 1905年(明治38年)に青森県弘前市で生まれる。1925年(大正14年)に青森師範学校(現・弘前大学)を卒業。1930年(昭和5年)に青森師範学校(現・弘前大学)専攻科を卒業。 1933年(昭和8年)に上京し、板橋区江古田町1856番地に落ち着き、東京・滝野川小学校に訓導として勤める。その後、東京・四谷第一小学校に移り同校訓導として勤める。鈴木信太郎に師事する。1941年(昭和16年)に菁々会の会員に推挙され、同年12月9日から銀座・菊屋画廊で開催された第3回菁々会展に『海』・『山』・『川』・『風景』の4点を出品。
黒田 嘉一郎(くろだ かいちろう、1905年(明治38年)8… 黒田 嘉一郎(くろだ かいちろう、1905年(明治38年)8月13日 - 1988年(昭和63年)5月13日)は、日本の医学者。息子は徳島大学医学部教授の黒田泰弘。 京城帝国大学を卒業。京城帝国大学助教授、三井産業医学研究所医化学部長を務めた後、1950年に徳島医科大学(現徳島大学)教授、1959年医学部長、1971年徳島文理大学学長を歴任。 1975年に坂口あさと共に第1回徳島県文化賞を受賞。1976年勲三等旭日中綬章受章。徳島ペンクラブや四国文芸協議会では理事や会長を務めた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
小泉 清三郎(明治38年(1905年)8月11日 - 没年不… 小泉 清三郎(明治38年(1905年)8月11日 - 没年不明)は、日本の実業家。小泉商店代表社員。 大正12年(1923年)島根県立商業学校卒。鳥取県履物統制組合理事長、同履物工業統制組合理事、同屑ゴム利用製品統制組合理事長、米子商工会議所議員、米子市万能町町内会長等を歴任。万能神社総代、瑞仙寺檀徒総代を兼任す。 趣味は読書。宗教は禅宗。住所は米子市万能町。 昭和9年(1934年)3月1日、万能町・小泉清三郎方より出火損害五千圓。 大正11年(1922年10月)『西伯之資力』によると、地価二百円以上納入者として、小泉清三郎(履物製造、九百九十六円八十八銭)、河原仁十(魚類問屋業、四百七十八円五十四銭)の二人がみえ、所得税納入者は十七人、国税営業税納入者として次の十七人の名が記されている
森田 忠勇(もりた ちゅうゆう、1905年8月10日 - 1… 森田 忠勇(もりた ちゅうゆう、1905年8月10日 - 1975年12月2日)は、兵庫県出身の野球選手・監督・公式記録員。
山崎 栄治(やまざき えいじ、1905年8月9日 - 199… 山崎 栄治(やまざき えいじ、1905年8月9日 - 1991年8月27日)は、日本の詩人、フランス文学者。 1905年に佐賀県西松浦郡伊万里町で生まれる。幼少期に中国に移住して幼稚園時代を奉天市で過ごし、小学校の途中で大連市から東京市の青山に移っている。大倉商業学校に進み、教科書に載っていたロングフェローの詩やウォルト・ホイットマンの『草の葉』を英語で読んだ他、15歳の頃にジャン=ジャック・ルソーの『懺悔録』、16歳の頃に野口米次郎の詩、そして17歳頃に萩原朔太郎の詩をそれぞれ読み、詩作への影響を受けた。東京美術学校の受験に失敗して東京外国語学校に進み、1925年には『日本詩人』に投稿した詩が四等に入選している。
池田 不二男(いけだ ふじお、1905年(明治38年)8月8… 池田 不二男(いけだ ふじお、1905年(明治38年)8月8日-1943年(昭和18年)11月27日)は昭和初期の音楽ディレクター、作曲家。38歳で亡くなるまでの僅かな期間であったが、戦前の日本歌謡史に残る抒情的な佳曲を多数残した。その作風はクラシックや海外の音楽を積極的に取り入れたものであり、ワルツやタンゴを好み、編曲も自らによるものが多い。ペンネームは原野為二、金子史郎、池上敏夫などがある。 1905年(明治38年)8月8日、佐賀県に生まれる。祖父は佐賀(鍋島)藩医の池田陽雲、父は蘭学者・医者・技術者の池田陽一。 佐賀県立佐賀中学校(現:佐賀西高等学校)を卒業し上京、東京高等音楽学院(現:国立音楽大学)にて矢田部勁吉、片山禎太郎に師事し、声楽を専攻。
森 蘊(もり おさむ、1905年8月8日 - 1988年12… 森 蘊(もり おさむ、1905年8月8日 - 1988年12月14日)は、日本庭園の研究者、作庭家。庭園研究家。『作庭記』など古文献の研究と、桂離宮や修学院離宮など多くの日本庭園における実地測量や発掘調査を組み合わせて、研究や庭園の復元整備に取り組んだ。旧大乗院庭園にかかる朱塗りの反橋、日本最古の人工滝である法金剛院の青女瀧などは、森が時代考証や現地調査を経て復元した。法華寺「仔犬の庭」や慈光院の新書院庭園など、古風な作庭も自ら手掛けた。 東京府北多摩郡立川村(現・東京都立川市)生まれ。1932年に東京帝国大学農学部農学科を卒業。在学中は、田村剛の造園学の講義を聴き造園研究の道に進むことを決める。
小川 信雄(おがわ のぶお、1905年(明治38年)8月7日… 小川 信雄(おがわ のぶお、1905年(明治38年)8月7日 - 1993年(平成5年)11月19日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。山口県出身。 1929年(昭和4年)に東京帝国大学法学部を卒業。北海道電燈の旭川支社に入社したが、3ヶ月で退社。「文化が進むにつれて専門技術を身につけるのが大切」と考え、1932年(昭和7年)に弁護士登録をした。 企業の法律相談を手がけ、二十数社の顧問弁護士をした。刑事事件については鮎川金次郎派の選挙違反事件を扱った。 1946年(昭和21年)に村上義一運輸大臣の秘書官をしたことがある。 1970年(昭和45年)12月22日に最高裁判所判事に就任。就任時に「最高裁長官の意見に対しても、他の判事からどしどし意見が出され、実にいいと思った。
和島 岩吉(わじま いわきち、1905年〈明治38年〉8月5… 和島 岩吉(わじま いわきち、1905年〈明治38年〉8月5日 - 1990年〈平成2年〉5月13日)は、日本の弁護士、大阪府羽曳野市名誉市民。和島法律事務所所長。大阪弁護士会会長、日本弁護士連合会人権擁護委員長、日本弁護士連合会会長を歴任。和島陶牛名義による句集もある。 大阪府南河内郡埴生村(現・羽曳野市向野)で馬肉卸商の家庭の三男として生まれる。 苦学して専検に合格。1928年、松江高等学校文科乙類卒業。1931年に京都帝国大学法学部を卒業。同年、弁護士を開業。加藤老事件、徳島ラジオ商殺し事件、狭山事件、甲山事件などで弁護活動を行う。 1946年、部落解放大阪青年同盟委員長。1953年、大阪府同和事業促進協議会会長。
海老原 一郎(えびはら いちろう、1905年8月4日 - 1… 海老原 一郎(えびはら いちろう、1905年8月4日 - 1990年5月7日)は日本の建築家、日本芸術院会員。 東京府生まれ。本所区の府立第三中学校卒業。1924年、東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)建築科に入学。 在学中に山口文象と知り合い、近代建築運動団体・創宇社建築会(1923年結成)に参加。1929年の創宇社第6回展・第7回展、1930年の第8回展に、労働診療所、労働者アパートメント、消費組合食堂などの作品を出品した。 1930年3月に東京美術学校を卒業後、石本建築事務所に勤める。1938年に独立し、海老原建築事務所を設立する。 1950年代に尾崎記念館(現在の憲政記念館)、1960年代に日本最初の超高層ビル「ディックビル」(18階建)を設計。
小川 徳治(おがわ とくじ、1905年8月2日 - 2001… 小川 徳治(おがわ とくじ、1905年8月2日 - 2001年1月5日)は、日本の経済学者。立教大学経済学部元教授。専門は貿易商務。恩師のポール・ラッシュとともに立教大学にアメリカンフットボール部を創設して部長を務め、明治大学のアメリカンフットボール部の創設も支援した。日本アメリカンフットボール協会理事長も務め、フットボールの発展に携わった。日本アメリカンフットボール殿堂顕彰者。立教大学学生部長、就職部長、総務部長など大学運営の要職も務めたほか、立教大学の硬式野球部や空手部、スキー部の各部長も歴任し、アメリカンフットボールのみならず学生スポーツの振興に大きく貢献した。 東京市小石川区原町に小川延秋の二男として生まれる。
新村 猛(しんむら たけし、1905年(明治38年)8月2日… 新村 猛(しんむら たけし、1905年(明治38年)8月2日 - 1992年(平成4年)10月31日)は、日本のフランス文学者・言語学者・国語辞書編纂者。名古屋大学名誉教授。元橘女子大学学長。 新村出の次男。息子新村徹は中国文学者(妻は中井正一の三女)。他に学術編集者の新村恭がいる。 東京府で生まれた。京都第一中学校、第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部史学科に入学。すぐに仏文科へ転攻し卒業する。 1935年2月、中井正一や真下信一や武谷三男たちと共に同人誌『世界文化』を創刊、また週刊紙『土曜日』の常連執筆者として反ファシズム運動に関わった。このため、同志社大学予科教授であった1937年11月に真下信一らとともに治安維持法違反で逮捕され、2年間の獄中生活を送る。
高村 象平(たかむら しょうへい、1905年(明治38年)8… 高村 象平(たかむら しょうへい、1905年(明治38年)8月2日 - 1989年(平成元年)5月11日)は、第11代慶應義塾塾長、経済人類学研究者、ハンザ史研究者。中央教育審議会会長、日本学士院会員等を歴任。従三位勲一等瑞宝章。専攻はドイツ中世都市の研究、とくにドイツ・ハンザの研究。
伊藤 武雄(いとう たけお、1905年(明治38年)8月2日… 伊藤 武雄(いとう たけお、1905年(明治38年)8月2日 - 1987年(昭和62年)12月2日)は、日本の声楽家(バリトン)、教育者。広島県広島市出身。 1930年東京音楽学校(東京芸術大学)卒業。研究科に残りヘルマン・ヴーハーペニッヒ、ネトケ=レーヴェに師事。1935年デビューリサイタル。戦前から歌曲とオペラに活躍。1937年日中戦争に召集され従軍、上海の戦闘で右手を失うが、帰国後は母校の助教授として後進の育成に尽力した。またコロムビア・レコード専属となり、ドイツ歌曲の吹き込みを行う。1940年山田耕筰に請われオペラ『夜明け』で初舞台。しかし助教授がオペラに出るのは学校も文部省も当時許さず、学校は退職した。
本坊 豊吉(ほんぼう とよきち、1905年8月1日 - 19… 本坊 豊吉(ほんぼう とよきち、1905年8月1日 - 1992年1月6日)は、日本の経営者。鹿児島県加世田市出身。 1932年に慶應義塾大学法学部を卒業。長崎自動車、上海食品工業各社長を経て、1961年に薩摩酒造、本坊酒造各社長に就任し、鹿児島放送の設立にも携わり、社長と会長を務め、九州コカ・コーラボトリング社長も務めた。1974年5月に会長を経て、1978年6月から相談役を務めた。「さつま白波」ブランドを育て、焼酎ブームの立役者となった 1970年10月に藍綬褒章を受章し、1976年4月に勲四等瑞宝章を受章した。 1992年1月6日心不全のために死去。86歳没。
大友 よふ(おおとも よふ、1904年8月31日 - 198… 大友 よふ(おおとも よふ、1904年8月31日 - 1988年6月28日)は日本の女性活動家、平和運動家、日本地婦連会長、北方領土返還要求運動連絡協議会(北連協)初代議長、日中友好協会全国本部副会長、岩沼市名誉市民。トルーカ名誉市民。 宮城県岩沼市生まれ。旧姓・高橋。同じ岩沼市出身で日本国憲法制定に尽力した日本社会党衆議院議員の菊地養之輔は従兄、世界医師会会長の武見太郎とも親戚関係にある。 大正11年、宮城県第二女子高等学校(現在の宮城県仙台二華中学校・高等学校)卒。会員600万人の全国最大の婦人団体組織全国地域婦人団体連絡協議会会長として国際的に活躍した。消費者保護や核兵器廃絶などに幅広く活動した。
神崎 清(かんざき きよし、1904年8月31日 - 197… 神崎 清(かんざき きよし、1904年8月31日 - 1979年3月2日)は、日本の小説家、文筆家。 島本 志津夫(しまもと しづお)の筆名も用いた。 香川県高松市出身。旧姓は河野であった。 兵庫県立第二神戸中学校(現・兵庫県立兵庫高等学校)から大阪高等学校に進学。大阪高等学校在学中の1925年に大阪で創刊された文芸同人誌『辻馬車』に藤沢桓夫らとともに参加。 東京帝国大学文学部国文科を1928年に卒業。卒業後、大森高等女学校(現・三田国際学園中学校・高等学校)の教員を務めたが、思想的な理由により1930年に退職に追い込まれる。以後、文筆業に就く。 島本志津夫名義で映画『女學生と兵隊』の原作も手がけた。
福山 郷太郎(ふくやま ごうたろう、1904年8月29日 -… 福山 郷太郎(ふくやま ごうたろう、1904年8月29日 - 1982年5月27日)は日本の政治家。宮崎県串間市長(第2代、2期)、串間市議会議長などを歴任。 宮崎県出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)にて学び、小山長規と同級で親しかった。1932年旧制第五高等学校(現熊本大学)文科卒業。1935年九州帝国大学法文学部法科(現九州大学法学部)政治専攻卒業。満洲綿花協会勤務を経て、1936年4月から1937年12月まで満洲国産業部農政課嘱託。 1959年4月串間市議会議員に当選し、1962年5月まで務める。そのうち1960年5月23日から1962年5月30日は、串間市議会議長の任にあった。
石山 源治郎(いしやま げんじろう、1904年8月27日 -… 石山 源治郎(いしやま げんじろう、1904年8月27日 - 没年不明)は、滋賀県大津市出身で春日野部屋に所属した元大相撲力士。本名は武田 源次郎。最高位は十両6枚目。 春日野部屋に入門し、1923年1月に初土俵を踏む。1930年1月十両に昇進。2場所続けて負け越したため、5月に幕下に落ちた。1932年1月十両に復帰したが、番付発表直後に起きた春秋園事件により脱退し、新興力士団を経て、関西角力協会に入った。
三上 良二(みかみ りょうじ、1904年8月25日 - 没年… 三上 良二(みかみ りょうじ、1904年8月25日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である。本名熊谷 了二(くまがい りょうじ)。優秀な助監督から早期に監督に昇進、佳作を生み出し、牧野省三亡きあとのマキノ・プロダクションを支えた。 1904年(明治37年)8月25日、東京都に生まれる。1919年(大正8年)3月、旧制荏原中学校(現在の日本体育大学荏原高等学校)4年修了、1923年(大正12年)7月、法政大学本科を1年次で中退し、関東大震災後の1924年(大正13年)、京都の日活関西撮影所現代劇部の監督部に入社した。 三枝源次郎に師事、助監督をつとめていたが、1928年(昭和3年)4月で日活を退社、同年5月に南光明、根岸東一郎とともにマキノ・プロダクション御室撮影所に入社した。
森 清治(もり せいじ、1904年8月25日 - 1975年… 森 清治(もり せいじ、1904年8月25日 - 1975年5月29日)は、日本の経営者。 佐賀県出身。1929年に九州帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に小野田セメントに入社。1955年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1966年5月には社長に就任。1973年10月には会長に就任。 1974年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1975年5月29日肝臓腫瘍のために死去。70歳没。
梶芳 光運(かじよし こううん、1904年8月25日 - 1… 梶芳 光運(かじよし こううん、1904年8月25日 - 1984年1月18日)は、日本の仏教学者。 長野県松本市生まれ。1929年東京帝国大学文学部卒。1949年「原始般若経の研究」で文学博士(東京大学)。東京水産大学助教授、大正大学助教授、教授、1974年定年退任、名誉教授。
梶哲次(かじてつじ 1904年8月24日 - 1934年5月… 梶哲次(かじてつじ 1904年8月24日 - 1934年5月12日)は昭和初期のの社会運動家、農民運動家、日本共産党員。富山県で農民運動を指導した後上京し、日本共産党中央委員会の農民部員として活動した。梶哲二の表記もある。 富山県西礪波郡立野村(現高岡市)で商家の次男として生まれる。1922年旧制高岡中学(現富山県立高岡高等学校)を卒業すると、伯父を頼りに上京、川崎銀行に就職した。しかし、向学心を捨てきれず、1923年に青山学院に入学する。翌1924年、学生連合会参加組織「社会思想研究会」が学校に公認されるとこれに加わる。このころから社会主義者であり、弟の謙三が哲次の寄宿舎を訪ねた際、押入れを本棚にし、マルクスの肖像が飾ってあった。
中村 テル(なかむら てる、1904年8月24日 - 200… 中村 テル(なかむら てる、1904年8月24日 - 2009年5月3日)は、日本の登山家、日本山岳会名誉会員。 鉱山経営をしていた父親のもと、北海道夕張市にうまれるものの、父親が事業に失敗、福島県喜多方市に移り住むことになった。さらにその後は東京へと移り住み、文京区の本郷にある桜井ちか子による桜井女塾に入塾し英語を学んだ。10代より登山を始め、夏の富士山に登頂を成功、1927年1月1日に女性として初めて冬の富士山登頂を果たした。1961年には早稲田大学の山岳部OGが中心となって結成されたニュージーランド日本女子親善隊の隊長を勤め、エグモント山、ルアペフ山などの登頂に成功した。 2009年5月3日、老衰のため死去。
木下 常雄(きのした つねお、1904年8月23日 - 19… 木下 常雄(きのした つねお、1904年8月23日 - 1985年8月21日)は、日本の経営者、銀行家。福岡県出身。 1926年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に日本銀行に入行。1954年4月に大分銀行会長に就任し、1958年4月に頭取、1973年6月に会長を歴任し、1975年5月から1981年6月までに監査役を務めた。 1966年9月に藍綬褒章を受章し、1974年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1985年8月21日気管支拡張のために死去。80歳没。
門脇 源太郎(かどわき げんたろう、明治37年(1904年)… 門脇 源太郎(かどわき げんたろう、明治37年(1904年)8月23日 - 没年不明)は日本の実業家。山陰日日新聞社常務取締役。 鳥取県米子市安倍出身。慶應義塾外国語学校(マライ語)卒業。 昭和4年(1929年)万朝報社記者。昭和7年(1932年)帝都日日新聞関西支社通信部長、昭和10年(1935年)金融経済社創立、社長兼主筆、昭和17年(1942年)まで台湾、朝鮮、満州国へ6回に亘り出張、産業経済事情を視察する。 昭和18年(1943年)陸軍通訳官南方第二方面軍付、昭和23年(1948年)山陰日日新聞社大阪支社長、昭和28年(1953年)取締役に就任、昭和29年(1954年)兼任業務局長、昭和30年(1955年)東京支社長(兼任)を経て昭和31年(1956年)常務取締役兼大阪支社長に就任。
瀧川 勝二(たきがわ かつじ、1904年8月22日 - 19… 瀧川 勝二(たきがわ かつじ、1904年8月22日 - 1993年11月28日)は日本の実業家。元兵庫トヨタ自動車会長。 兵庫県神戸市出身。第二神戸中学校卒業(同窓会理事長)、第六高等学校卒業、京都大学卒業。父親は瀧川儀作で神戸トヨペットの前身であるカネキ商店を経営していた。 1946年商工省陸運管理局の指示で兵庫県自動車整備配給株式会社が解体され兵庫トヨタ販売が設立。瀧川勝二は取締役に就任する。 1963年運輸大臣表彰。1965年厚生大臣表彰。1967年藍綬褒章受章。1973年トヨタ自動車販売店協会理事長に就任。1975年勲三等旭日中綬章受章。1977年日本自動車販売協会連合会会長に就任。1979年トヨタ自動車販売店協会会長に就任。
西野 嘉一郎(にしの かいちろう、1904年8月21日 - … 西野 嘉一郎(にしの かいちろう、1904年8月21日 - 2003年1月14日)は、日本の実業家、経営学者。学位は、商学博士(早稲田大学・論文博士・1957年)(学位論文「経営分析 その理論と方法に関する研究」)。国鉄監査委員、健保組合連会長、東洋英和女学院理事長を歴任。藍綬褒章、勲三等旭日中綬章、勲二等瑞宝章受章。 福井県敦賀市出身。1926年小樽高等商業学校(現小樽商科大学)卒。三機工業、東京建鉄を経て、1934年芝浦製作所に入社。芝浦マツダ工業経理部長、芝浦製作所経理部長を経て、1945年取締役。のち常務、専務、副社長を歴任。1957年「経営分析 その理論と方法に関する研究」で商学博士(早稲田大学)の学位を取得。
奥野 高廣(おくの たかひろ、1904年8月21日 - 20… 奥野 高廣(おくの たかひろ、1904年8月21日 - 2000年5月5日)は、日本の歴史学者。東京大学史料編纂所助教授。学位は、文学博士。現在[いつ?]でも織田信長研究の権威と評されている。 兵庫県洲本市生まれ。1928年(昭和3年)に國學院大學を卒業後、東京帝国大学史料編纂掛に勤務、『大日本史料』第2・9・10編や『史料綜覧』の編修に携わる。1941年(昭和16年)に東京帝国大学史料編纂官補、1954年(昭和29年)に東京大学史料編纂所助教授に就任。引き続き『大日本史料』第10・11・12編の編修にあたった。この間、1945年(昭和20年)6月12日には、『皇室御経済史の研究』が評価されて帝国学士院より恩賜賞を受賞。
末松 保和(すえまつ やすかず、1904年(明治37年)8月… 末松 保和(すえまつ やすかず、1904年(明治37年)8月20日 - 1992年(平成4年)4月10日)は、日本の歴史学者。学習院大学名誉教授。文学博士。専門は朝鮮史。 1904年(明治37年)、福岡県田川郡弓削田村(のち田川市)生まれ。福岡県立小倉中学校・佐賀高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学文学部国史学科に入学。1927年に卒業した。 卒業後は朝鮮総督府朝鮮史編修会に修史官として勤務。『朝鮮史』などの編修事業に従事し、1933年から京城帝国大学法文学部助教授を経て、1939年に同教授に昇格した。 敗戦にともない引上げ帰国。1947年に学習院教授に招聘され、1949年学習院大学開学とともに文政学部教授に就いた。
澤田 敬之助(さわだ けいのすけ、1904年8月20日 - … 澤田 敬之助(さわだ けいのすけ、1904年8月20日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。新漢字表記沢田 敬之助。本名内山 守(うちやま まもる)。初期芸名小澤 茗一郎(おざわ みょういちろう、新漢字表記小沢 茗一郎)、澤田 敬之介(沢田 敬之介)、澤田 慶之助(沢田 慶之助)といった表記に揺れがある。日本映画データベースにおける「沢村敬之助」は誤りである。 1904年(明治37年)8月20日、鹿児島県鹿児島市に生まれる。 旧制・鹿児島商業学校(現在の鹿児島市立鹿児島商業高等学校)を卒業後、東京に移り、満19歳となる1923年(大正12年)8月、山田隆也、岡田嘉子らによる新劇の劇団である舞台協会に参加、舞台俳優としてデビューする。
上田 義文(うえだ よしふみ、1904年8月19日 - 19… 上田 義文(うえだ よしふみ、1904年8月19日 - 1993年4月26日)は、日本の仏教学者。名古屋大学名誉教授。 岡山県出身。旧制龍野中学(現:兵庫県立龍野高等学校)、旧制第六高等学校を経て、1933年東京帝国大学文学部印度哲学科卒、1948年「唯識思想研究」で九州大学文学博士。1945年龍谷大学教授、1949年名古屋大学文学部教授となり、文学部長を務め、1968年定年退官、名誉教授。1972年筑紫女学園短期大学学長となり、1986年、同大学退任。1975年勲三等旭日中綬章受勲。
一戸 務(いちのへ つとむ、1904年8月19日 - 197… 一戸 務(いちのへ つとむ、1904年8月19日 - 1977年)は、日本の作家、中国文学者。 東京生まれ。東京帝国大学支那文学科卒。1929年福田清人、那須辰造らと第10次『新思潮』に参加、のち『文藝レビュー』に参加して小説を書く。文部省勤務。戦後、和洋女子大学教授。森鷗外の研究でも業績があった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
川喜田 壮太郎(かわきた そうたろう、1904年(明治37年… 川喜田 壮太郎(かわきた そうたろう、1904年(明治37年)8月19日 - 1972年(昭和47年)9月27日)は、日本の銀行家、文化人。元百五銀行頭取・会長、父は川喜田半泥子。 三重県津市に、旧家川喜田家の長男として生まれる。1928年(昭和3年)に法政大学経済学部を卒業し、日本銀行に入行する。1936年(昭和11年)に百五銀行に移り、1951年(昭和26年)に同行頭取に就任し、1971年11月には会長に就任。また、1970年5月から1972年9月までに近畿日本鉄道監査役を務め、菱川合資代表、相互商事社長、東海製鉄役員なども務めた。 三重経済界のトップとして、戦中・戦後を乗り切る。また、半泥子が設立した石水会館を石水博物館に発展させ、地域の文化振興に貢献する。
北畠 教真(きたばたけ きょうしん、1904年8月18日 -… 北畠 教真(きたばたけ きょうしん、1904年8月18日 - 1969年2月14日)は、浄土真宗本願寺派の僧侶、政治家、参議院議員(2期)。 福岡県出身。1928年に龍谷大学文学部を卒業後、ベルリン大学とライプツィヒ大学に留学。山形県天童市の善行寺住職を継承した後に本願寺派の社会部長、教育部長、総務部長を歴任。築地本願寺輪番ならびにあそか病院長、津村別院輪番、宗会議長、全日本仏教会事務総長なども務めた。1954年のビルマにおける世界仏教徒会議では日本代表となった。 1956年の第4回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で立候補したが落選した。第5回、第7回の参議選に自由民主党から全国区で立候補し当選。
源田 実(げんだ みのる、旧字体: 源田實、1904年(明治… 源田 実(げんだ みのる、旧字体: 源田實、1904年(明治37年)8月16日 - 1989年(平成元年)8月15日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官、政治家。海軍では海兵52期を卒業し、最終階級は大佐。戦闘機パイロット、航空参謀を歴任。大艦巨砲主義だった日本海軍内で、いち早く航空機の有用性を見い出し「零戦」「紫電改」の開発に関与。戦争中は、大本営参謀として真珠湾攻撃を立案・指導。これによりアメリカ太平洋艦隊が機能不全に陥り、アメリカが第二次世界大戦に参戦するきっかけとなった。以降、ミッドウェー海戦他、海軍の戦闘に参画。また特攻作戦に深く関与し、第三四三海軍航空隊司令として終戦を迎えた。戦後1954年(昭和29年)空将補として自衛隊入りし、自衛隊では初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長を務め、ブルーインパルスを創設した。
松平 親義(まつだいら ちかよし、1904年(明治37年)8… 松平 親義(まつだいら ちかよし、1904年(明治37年)8月16日 - 1968年(昭和43年)3月16日)は、昭和期の法学者、政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵・松平親信の長男として生まれる。父の死去に伴い、1915年(大正4年)1月11日、子爵を襲爵した。 1925年(大正14年)学習院高等科を卒業し、1928年(昭和3年)東京帝国大学法学部を卒業。1930年(昭和5年)陸軍省嘱託となる。以後、拓務省嘱託、貴族院事務局嘱託、外務大臣秘書官付嘱託などを務めた。 1941年(昭和16年)10月25日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
高橋 勝之(たかはし かつゆき、1904年8月15日 - 1… 高橋 勝之(たかはし かつゆき、1904年8月15日 - 1986年6月8日)は、日本のジャーナリスト、翻訳家。 高知市出身。1927年早稲田大学第二高等学院ロシア文科卒。筆名・里見三吉。日本共産党、新日本文学会に属し、マルクス主義について執筆・翻訳を行った。
米田 正文(よねだ まさふみ、1904年8月14日 - 19… 米田 正文(よねだ まさふみ、1904年8月14日 - 1984年6月20日)は、日本の内務及び建設官僚、政治家。参議院議員(3期)。 現在の福岡県田川郡添田町出身。佐賀高等学校理科甲類を経て、1928年(昭和3年) 九州帝国大学工学部土木学科卒業後、内務省入省、内務技師として奉職する。 1933年(昭和8年)8月、満洲国国道局技正(薦任七等)へ採用(この際、内務省は依願退職の形となっている)。満洲国では、時期不明ながら、満洲国国道局技正、奉天省交通庁長を務めており、1940年(康徳7年・昭和15年)9月に安東省公署土木廳から交通部遼河治水調査處に転じていることが確認できる。その後、1941年(康徳8年・昭和16年)までには大東港建設局處長となっており、岸信介、直木倫太郎らの支持の下、事業の推進にあたっている。
平山 諦(ひらやま あきら、1904年8月13日 - 199… 平山 諦(ひらやま あきら、1904年8月13日 - 1998年6月22日)は、日本の数学者、和算史研究家。 千葉県成田生まれ。第二高等学校を経て、1930年東北帝国大学数学科卒業。1950年「和算に関する研究」で理学博士(理学)の学位を取得。林鶴一、藤原松三郎に師事。中学校教師をへて、1941年東北帝大講師。1968年退任。息子は天文学者の平山智啓(東京天文台)。