澤田 竹治郎(さわだ たけじろう、1882年〈明治15年〉8… 澤田 竹治郎(さわだ たけじろう、1882年〈明治15年〉8月2日 - 1973年〈昭和48年〉3月11日)は、日本の内務官僚、裁判官。行政裁判所長官。最高裁判所判事。岐阜県出身。 1909年(明治42年)に東京帝国大学卒業。内務省に入省。福島県属。内務官僚として警察部長などを歴任。1918年(大正7年)5月から行政裁判所評定官をしていたが、1944年(昭和19年)2月に「軍閥はその本分にもとり政治、産業を壟断し、独善専横をきわめ、戦争終結の時期と方法につき無計画・無方針である。大東亜戦も完全にわがほうの負けだ。軍閥が自分勝手な戦争を始めて国民に迷惑をかけるのはけしからん」という趣旨の軍部批判をして東京憲兵隊に陸軍刑法違反で1945年(昭和20年)5月1日に拘束され、同年5月23日に保釈された。
石原 謙(いしはら けん、1882年8月1日 - 1976年… 石原 謙(いしはら けん、1882年8月1日 - 1976年7月4日)は、日本の歴史学者。日本学士院会員。専門は神学史、キリスト教史。 1882年、東京市本郷区本郷4丁目39番地に本郷教会牧師石原量、母ちせの次男として生まれた。「少年の頃既に聖書を教えられ、中学四、五年の頃その研究に少なからず興味を覚えて、その頃受洗」(『石原謙著作全集』11巻214頁)したと、牧師である父の強い影響でキリスト教信仰を持ったことを記している。洗礼は1900年1月7日、18歳の時数寄屋橋教会(現日本基督教団巣鴨教会)の田村直臣牧師から受けた。 早稲田中学を経て、1901年(明治34年)7月一高に入学し、1903年に最初の論文「ナザレの聖者を論ず」を書いた。
黒羽根 秀雄(くろばね ひでお、1882年〈明治15年〉8月… 黒羽根 秀雄(くろばね ひでお、1882年〈明治15年〉8月 - 1927年〈昭和2年〉4月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。「韓崎」艦長。「鶴見」特務艦長。「対馬」艦長。山形県東田川郡手向村(現・鶴岡市羽黒町)出身。
竹内 茂代(たけうち しげよ、1881年8月31日 - 19… 竹内 茂代(たけうち しげよ、1881年8月31日 - 1975年12月15日)は、日本の医師(医学博士)、政治家。 長野県南佐久郡原村(現川上村)で庄屋を世襲した家系で、元村長・元郡会議員井出喜重の長女として生まれた。1907年、東京女医学校(現東京女子医科大学)を卒業。女性としては27番目の医師となった。同年夏には、自殺を図った原阿佐緒の治療にあたった。1916年医師の竹内甲平と結婚し、1919年新宿に井出医院を開業する傍ら、市川房枝らと社会運動に参加、婦人参政権運動の財務理事を務めた。1933年東京帝国大学医学博士。論文の題は「日本女子の體質に関する研究」。 1946年東京都第1区から第22回衆議院議員総選挙出馬し、女性として初めて当選、日本自由党に属し総務及び婦人部長を務めたが、翌年公職追放となった。
秋田 清(あきた きよし、1881年〈明治14年〉8月29日… 秋田 清(あきた きよし、1881年〈明治14年〉8月29日 - 1944年〈昭和19年〉12月3日)は、日本の政治家。第30代衆議院議長、厚生大臣、拓務大臣を務めた。 徳島県出身。旧制徳島中学(現:徳島県立城南高等学校)、日本法律学校(現:日本大学)、東京法学院(現:中央大学)卒業。高知地方裁判所の判事、二六新報の編集および社長職を経て政界入り。1932年(昭和7年)、衆議院議長に就任。1937年(昭和14年)、内閣参議に就任。1939年(昭和14年)、阿部内閣で厚生大臣に就任。1940年(昭和15年)、第2次近衛内閣で拓務大臣に就任。1944年(昭和19年)12月3日死去。
山下 新太郎(やました しんたろう、1881年〈明治14年〉… 山下 新太郎(やました しんたろう、1881年〈明治14年〉8月29日 - 1966年〈昭和41年〉4月11日)は、日本の洋画家。日本芸術院会員。二科会および一水会創立者のひとり。 画風はオーギュスト・ルノワールの影響を受けた美しい色彩が特徴である。また、パリ滞在中に表具師の家に生まれたことから敦煌から招来された仏画の修理を手がけたのを切っ掛けに、油彩画の修復や保存も学び、この分野の日本に於ける草分けとなった。同時に留学中から額縁を蒐集し、自作の額装にも配慮を欠かさなかった。 1881年(明治14年)東京・根岸の表具師の長男として生まれる。 幼少時から絵画に親しみ、また特に天神像を好んだことで実父と懇意にしていた狩野芳崖に天神図を依頼、その図画を手本として過ごした。
中村 孝太郎(なかむら こうたろう、1881年〈明治14年〉… 中村 孝太郎(なかむら こうたろう、1881年〈明治14年〉8月28日 - 1947年〈昭和22年〉8月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。林内閣の陸軍大臣。石川県出身。子息は、陸軍中佐中村雅郎(44期)、陸将中村薫正(58期)。 石川県金沢市水溜町出身、石川県士族中村芳房の長男。(大野敏明著「西郷隆盛の首を発見した男」p.177,178、文春新書、2014年) 石川県第一尋常中学校(現:石川県立金沢泉丘高校、第6期生、同期には政治家永井柳太郎がいる)から陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校に進む。1901年(明治34年)11月22日に陸士13期を19番/722名の優秀な成績で卒業している。
竹崎 瑞夫(たけざき みずお、1881年8月28日 - 19… 竹崎 瑞夫(たけざき みずお、1881年8月28日 - 1961年9月7日)は、日本の経営者、ダイハツ工業社長、会長を務めた。高知県高知市出身。 1908年に京都帝国大学工科機械科を卒業。名古屋瓦斯支配人、竹崎鉄工所代表役員、島津製作所取締役などを経て、1932年に発動機製造(現在のダイハツ工業)取締役に就任し、1947年には社長に昇格。1955年に会長に就任。 1937年に大阪府実業功労賞を受賞し、1956年11月に池田市名誉市民に選ばれ、1957年3月に藍綬褒章を受章。 1961年9月7日、肋膜炎のために死去。
弓削 幸太郎(ゆげ こうたろう、1881年〈明治14年〉8月… 弓削 幸太郎(ゆげ こうたろう、1881年〈明治14年〉8月28日 - 1957年〈昭和32年〉12月16日)は、朝鮮総督府官僚。位階は正四位。勲等は勳三等。 岡山県赤磐郡豊田村(現在の赤磐市)出身。弓削新平の孫。1900年(明治33年)、日本法律学校(現在の日本大学)法科を卒業。1904年(明治37年)に高等文官試験に合格。専売局属、千葉県属、同警視、鹿児島県事務官、朝鮮総督府書記官、同学務課長、同宗教課長、同鉄道部長を歴任した。 退官後は復興建築助成株式会社取締役・支配人、中央朝鮮協会理事、中央協和会理事、東京府協和会理事を務めた。終戦後は千葉県農地委員となった。
岩波 茂雄(いわなみ しげお、1881年〈明治14年〉8月2… 岩波 茂雄(いわなみ しげお、1881年〈明治14年〉8月27日 - 1946年〈昭和21年〉4月25日)は、日本の出版人、岩波書店創業者。貴族院多額納税者議員。 次男の岩波雄二郎は岩波書店・二代目社長。孫の岩波律子は岩波ホール支配人。次女小百合は岩波書店会長の小林勇の妻。 長野県諏訪郡中洲村(現在の諏訪市中洲)の農家に生まれる。父義質は村の助役をしていた。 尋常小学校、高等小学校をへて、1895年(明治28年)に旧制諏訪実科中学校(現・諏訪清陵高)に進むも、在学中に父が病死し、戸主となる。母を助け農業をしていたが1899年に上京し、杉浦重剛を慕い、日本中学に入学。母が学資を仕送りしてくれた。ある時母親が上京すると茂雄は東京見物をさせようと思うも母は用事が済むとさっさと帰郷してしまった。
中尾 敬吉(なかお けいきち、1881年〈明治14年〉8月2… 中尾 敬吉(なかお けいきち、1881年〈明治14年〉8月26日 - 没年不明)は、日本の実業家、醸造家、政治家。若桜町会議員。 鳥取県八頭郡若桜村(現・若桜町)出身。中尾徳次郎の二男。1902年、中尾修家より分家する。病気のため鳥取中学校を3学年で中途退学する。若桜赤松組合村会議員に挙げられる。 1912年、若桜神社氏子総代、同年に醤油醸造業を経営する。1917年、江島神社崇敬総代。第1回国勢調査員となる。三倉谷土工森林組合監事、中尾製糸場持主、淵見製材合資会社有限責任社員である。 1922年に刊行された『八頭鳥取地価表 弐百円以上』によると、中尾敬吉の地価所有高は「852円25銭」である。趣味は書画、書道、骨董。
蒔田 広城(まいた ひろなり、旧字体: 蒔田 廣城、1881… 蒔田 広城(まいた ひろなり、旧字体: 蒔田 廣城、1881年(明治14年)8月25日 - 1943年(昭和18年)3月18日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。幼名・新之助。 元伊予宇和島藩主・伊達宗城の十一男として生まれ、子爵・蒔田広孝の養子となる。養父の隠居に伴い、1912年(明治45年)7月20日に子爵を襲爵した。 学習院を経て、京都帝国大学法科大学を修了。1911年、アメリカ合衆国を視察。帰国後、小田原急行沿線企業の重役を務めた。 1919年(大正8年)12月26日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、1925年(大正14年)7月9日まで在任。さらに、1932年(昭和7年)7月10月、貴族院子爵議員に当選し、研究会に所属して活動し1939年(昭和14年)7月9日まで通算2期在任した。
井上 貞治郎(いのうえ ていじろう、明治14年〈1881年〉… 井上 貞治郎(いのうえ ていじろう、明治14年〈1881年〉8月16日 - 昭和38年〈1963年〉11月10日)は、日本の実業家。 「段ボール」の実用新案を取得。大量生産と強固な段ボール箱の開発に成功し、聨合紙器(現社名・レンゴー)を設立した。「日本の段ボールの父」と評される。 兵庫県姫路市郊外で農業を営む長谷川家の三男として生まれた。2歳の時に、兵役を逃れるため遠縁にあたる井上家の死籍相続人になる。 高等小学校を卒業後、1895年(明治28年)から神戸の商家で丁稚を始める。その後中国料理店、パン屋、石炭屋等職を転々とする。1905年(明治38年)には妻・お雪と別れ、1人満州に旅立つ。 1909年(明治42年)に放浪の旅から立ち直り、東京で「三盛舎」(後に「三成社」と改名)を創業。
副島 千八(そえじま せんぱち、1881年(明治14年)8月… 副島 千八(そえじま せんぱち、1881年(明治14年)8月15日 - 1954年(昭和29年)2月15日)は、日本の明治期から昭和期の官僚。幣原内閣の農林大臣や関東証券の社長を務めた。位階および勲等は従三位、勲二等。 佐賀中学校(旧制)から郁文館中学校に転校。第一高等学校に進学し、1907年(明治40年)東京帝国大学法科大学を卒業した。 農商務省に入省し、農政課長、食糧局長、製鉄所次長、鉱山局長を歴任した。1925年(大正14年)に農商務省が商工省と農林省に分割されると商工省商務局長に就任し、関税率改正準備委員会臨時港湾調査会、国産振興委員会委員、関税常設委員会、損害保険制度調査委員会、不当廉売審査委員会などの委員を務めた。
鈴木花蓑(すずき はなみの、1881年(明治14年)8月15… 鈴木花蓑(すずき はなみの、1881年(明治14年)8月15日または12月1日 - 1942年(昭和18年)11月6日)は、愛知県出身の俳人、大審院書記。本名は鈴木喜一郎(きいちろう)。 愛知県知多郡半田町(現半田市)生まれ。半田裁判所で書記見習いをしていた時に「ホトトギス」の存在を知り投句。1909年には名古屋裁判所に移り、1915年に上京、大審院書記となる。この年初めて「ホトトギス」で入選。また東大俳句会を指導し、後の水原秋桜子や高野素十らの4S時代を築く礎となった。晩年は「あをさ」「百舌鳥」などの俳誌を創刊するも、戦時中の紙不足に巻き込まれ廃刊を余儀なくされる。60歳を迎えて日本俳句作家協会常任理事となるも、間も無くして病に倒れた。
加藤 信太郎(かとう しんたろう 1881年8月14日 - … 加藤 信太郎(かとう しんたろう 1881年8月14日 - 1962年1月15日)は、日本の実業家。デンツプライ三金の創業者、初代社長・初代会長。
長崎 英造(ながさき えいぞう、1881年(明治14年)8月… 長崎 英造(ながさき えいぞう、1881年(明治14年)8月13日 - 1953年(昭和28年)4月29日)は大正・昭和期の日本の大蔵官僚、実業家。日本証券投資協会長。 広島県広島市堺町(現・広島市中区)生まれ。旧広島藩士・長崎正平の三男。旧制広島一中(現・広島県立広島国泰寺高等学校)卒業後、旧制第一高等中学(一高)、東京帝国大学法科大学と進み、1907年(明治40年)、大蔵省理財局国庫課入り。1910年(明治43年)、台湾銀行を経て、1913年(大正2年)、幻の総合商社、神戸の鈴木商店に帝大出身者として初の入社、大番頭金子直吉の片腕として多くの事業を手がける。特に東京総支配人(東京支店長)時代、当時の政財界人のトップが集った「番町会」のメンバーになるなど縦横に交流する。
松本 喜一(まつもと きいち、1881年8月12日 - 19… 松本 喜一(まつもと きいち、1881年8月12日 - 1945年11月13日)は、埼玉県秩父郡出身の官僚・教育者。東京高等師範学校教授、帝国図書館長を歴任。 第二高等学校を経て、1906年に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。山口県萩中学校教諭、群馬県師範学校教諭、茨城県女子師範学校長、茨城県師範学校長を経て、1921年に東京高等師範学校教授。1921年には田中稲城の後任として帝国図書館長事務取扱に就任したが、図書館界との関りがなかった松本が就任したことで反対の声も上がっている。 1923年1月11日、田中の後任として帝国図書館長(2代目)に就任。1926年から1927年にはアメリカ・ドイツ・イギリスの図書館を視察している。
望月 歓厚(もちづき かんこう、1881年8月12日 - 1… 望月 歓厚(もちづき かんこう、1881年8月12日 - 1967年11月28日)は、日蓮宗の僧、仏教学者。 山梨県出身。旧姓は田中。号・日電秋江。1888年得度。1910年日蓮宗大学林(現立正大学)卒業。研究院に学び内地研究員を経て、日蓮宗大学教授。1926年立正大学教授、文学部長、1944年学長、日蓮宗学研究所長。1952年定年退任、名誉教授。1957年「日蓮教学の研究」で東洋大学文学博士。静岡・富西寺住職、本覚寺住職、東京・宣明院住職、山梨・妙法寺住職。記念として日蓮宗の仏教研究に対する望月学術賞が創設されている。
斎藤 真三郎(さいとう しんざぶろう、1881年(明治14年… 斎藤 真三郎(さいとう しんざぶろう、1881年(明治14年)8月12日 - 1925年(大正14年)7月18日)は、衆議院議員(革新倶楽部)。新聞編集者。 山形県東田川郡渡前村(現在の鶴岡市)出身。1903年(明治36年)、早稲田大学邦語政治科を卒業。渡前村長、東田川郡会議員、同参事会員、同副議長、同議長、東田川西田川両郡組合会議員、同参事会議員を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、両羽実業新聞を経営した。
潮 恵之輔(うしお しげのすけ、1881年〈明治14年〉8月… 潮 恵之輔(うしお しげのすけ、1881年〈明治14年〉8月11日 - 1955年〈昭和30年〉1月9日)は、日本の内務官僚。後に内務大臣兼文部大臣、最後の枢密院副議長を務める。 1881年(明治14年)、綿職人・潮房太郎の二男として島根県美濃郡横田村(後に同郡豊田村字横田となり、現在は益田市横田町)に生まれる。郁文館中学、一高を経て、1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学卒業後に内務省入省。行政法の専門家として活動、衛生局長・地方局長などを歴任した。1928年(昭和3年)に田中義一内閣の内務次官となり、濱口内閣・第2次若槻内閣で次官を務めた後に1931年(昭和6年)に貴族院勅選議員となる(研究会所属)。
木村 泰賢(きむら たいけん、1881年8月11日 - 19… 木村 泰賢(きむら たいけん、1881年8月11日 - 1930年5月16日)は、日本の曹洞宗の僧侶(岩手県東慈寺住職)で、インド哲学者・仏教学者。日本における近代仏教学の確立に貢献した。学位は、文学博士。東京帝国大学教授。 1881年に岩手県滝沢村一本木(現在の滝沢市一本木)に、父亀治と母リツの次男として生まれる。幼名二蔵。一家は1984年に大更村(現在の八幡平市大更)へ移り住み、父は当地で酒造業を営む工藤家の家事手伝いを勤めた。1891年に父が亡くなった後、母の労苦を見かねて酒造店で小僧修業していたところ、東慈寺の住職であった十九世村山実定に見込まれて養子となり出家。実定の号である泰山から一字を与えられ、泰賢と称した。
中山 友次郎(なかやま ともじろう、1881年(明治14年)… 中山 友次郎(なかやま ともじろう、1881年(明治14年)8月6日 - 1946年(昭和21年)11月15日)は、日本の海軍軍人、教育者。最終階級は海軍大佐。 1881年(明治14年)8月6日、高知街通町の商家阿波屋・中山友治の長男に生まれる。海南学校(現在の高知県立高知小津高等学校)を経て、1901年(明治34年)12月、海軍兵学校(29期)を卒業し、少尉候補生になる。1903年(明治36年)1月に海軍少尉任官。 その後、兵学校教官、「富士」航海長などを歴任。第一次世界大戦では駆逐艦艦長として紀淡海峡の警備につく。また地中海では第二特務艦隊第22駆逐隊(第10駆逐隊から改称)司令として英国商船の護衛に当り、ドイツ潜水艦を捕獲し勇名をあげた。
太田 茂(おおた しげる、1881年(明治14年)8月5日-… 太田 茂(おおた しげる、1881年(明治14年)8月5日-1940年(昭和15年)2月26日)日本のスポーツジャーナリスト。筆名は太田四州、太田志蹴。 1881年(明治14年)8月5日に香川県に生まれる。高松中学校を卒業し、1902年(明治35年)に和仏法律学校(現在の法政大学)法律科を卒業する。 『二六新報』、『読売新聞』、『国民新聞』などに大学野球の記事を書き、1921年(大正10年)から雑誌『運動界』を主宰する。スポーツジャーナリストの草分け的人物であり、神宮球場の建設など、学生野球の発展に尽力した。1940年(昭和15年)2月26日に死去、享年60。 1972年(昭和47年)、野球の啓蒙に尽瘁し、生涯を野球批評のために貫き、文筆をもって学生スポーツの健全な発展に献身した功績により野球殿堂(特別表彰)入りする。
長 延連(ちょう のぶつら、1881年〈明治14年〉8月4日… 長 延連(ちょう のぶつら、1881年〈明治14年〉8月4日 - 1944年〈昭和19年〉4月21日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事、警視総監。 静岡県敷知郡浜松常盤町(浜名郡浜松町大字常盤を経て現浜松市中央区常盤町)出身。長唯連の二男として生まれる。第一高等学校を経て、1907年に京都帝国大学法科大学を卒業。文部省に入り普通学務局属となる。1908年11月、文官高等試験行政科試験に合格。文部省普通学務局第三課長を務める。 内務省に移り、香川県事務官、高知県事務官・警察部長、山梨県警察部長、福岡県警察部長兼港務部長、大分県・山口県・京都府の各内務部長などを歴任。 1922年6月、岡山県知事に就任。
会津 八一(あいづ やいち、旧字体: 會津 八一、1881年… 会津 八一(あいづ やいち、旧字体: 會津 八一、1881年〈明治14年〉8月1日 - 1956年〈昭和31年〉11月21日)は、日本の歌人・美術史家・書家。雅号は、秋艸道人・渾斎。1951年に新潟市名誉市民。 早大英文科卒。奈良の仏教美術にひかれ、ひらがな書きの万葉調短歌を詠み、『南京新唱』(1924年)を刊行。のち上京、早大教授となり、「東洋美術史」等を講じた。晩年は新潟市に戻り、書に専念。歌集に『鹿鳴集』(1940年)など。 新潟県新潟市古町通五番町に生まれる。中学生の頃より『万葉集』や良寛の歌に親しんだ。1900年新潟尋常中学校(現新潟県立新潟高等学校)卒業後、東京専門学校(早稲田大学の前身校)に入学し、坪内逍遙や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講した。
鍵和田 良平(かぎわだ りょうへい、明治14年(1881年)… 鍵和田 良平(かぎわだ りょうへい、明治14年(1881年)8月1日 - 昭和31年(1956年)7月24日)は、日本の工学者。 電気起重機の発明で有名。 神奈川県足柄下郡足柄村(現・小田原市)出身。父は明治13年(1880年)頃に村長を務めた。明治40年(1907年)に京都帝国大学機械工学科を卒業した。すぐに芝浦製作所に入所し、設計係となった。明治44年(1911年)に石川島造船所に転じ、多くの発明を行った。昭和3年(1928年)9月に昭和肥料会社理事に就任した。 1956年7月24日、脳出血のため東京都渋谷区青葉町の自宅で死去。 娘の貴代は、子爵の堤経長と結婚した。
西村 禎一郎(にしむら さだいちろう、1881年(明治14年… 西村 禎一郎(にしむら さだいちろう、1881年(明治14年)8月 - 不明 )は日本の銀行家であり弁護士である。岡山県新見市出身。 1881年(明治14年)岡山県阿哲郡上市村井村(現:新見市上市)の西村幸三の6男として生まれる。20歳の時、1902年(明治35年)旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を卒業し、旧制第六高等学校文科へ入学。ドイツ語を専攻する。1905年(明治38年)7月に同校を卒業し、京都帝国大学法科大学へ入学した。その後、仮面浪人を経て、1907年(明治40年)東京帝国大学法科大学へ入学し、1912年(大正元年)10月に同大学独法学科を31歳で卒業した。 卒業後は村井銀行へ就職。
原 正鼎(はら せいてい、1881年(明治14年)8月 - … 原 正鼎(はら せいてい、1881年(明治14年)8月 - 没年不詳)は、日本の裁判官。 山形県米沢市出身。1906年(明治39年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業して、司法官試補となった。京都地方裁判所判事、大阪地方裁判所判事を経て、1909年(明治42年)に朝鮮に渡り、京城区裁判所判事、京城地方裁判所判事、京城覆審法院判事、高等法院判事を歴任。1920年(大正9年)、朝鮮総督府法務局民事課長に転じ、1923年(大正12年)に欧米に出張した。帰国後、高等法院判事、京城地方法院長、高等法院部長を経て、1932年(昭和7年)に大邱覆審法院長となり、1939年(昭和14年)に高等法院長に就任した。
岩本 勇次郎(いわもと ゆうじろう、1880年〈明治13年〉… 岩本 勇次郎(いわもと ゆうじろう、1880年〈明治13年〉8月30日 - 1938年〈昭和13年〉6月24日)は、日本の裁判官、弁護士、大学教授。 1880年愛媛県生まれ。東京帝国大学卒業後、裁判官となり、東京控訴院部長判事などを歴任後、大審院判事に就任。また、弁護士としては、東京第二弁護士会会長などを務めた。 また、明治大学法学部教授を務めたほか、慶應義塾大学講師、早稲田大学講師、中央大学講師、東京大学野球連盟理事長などを務めた。
丹下 茂十郎(たんげ もじゅうろう、1880年(明治13年)… 丹下 茂十郎(たんげ もじゅうろう、1880年(明治13年)8月24日 - 1938年(昭和13年)2月4日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。 愛知県東春日井郡勝川町(現在の春日井市)に、丹下武左衛門の二男として生まれる。愛知県の農林学校を卒業後、東春日井郡の書記、ついで愛知県の技手を務めた。その後、判任官から高等官に昇任し、農商務省農務局事務官補を務めた。さらに滋賀県産業主事、理事官に任じられ、勧業課長、蚕糸課長、商品陳列所所長などを歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、6回の当選を重ねた。その間、廣田内閣で大蔵参与官を務めた。
塩原 秩峰(しおはら ちつみね、1880年(明治13年)8月… 塩原 秩峰(しおはら ちつみね、1880年(明治13年)8月19日 - 1937年(昭和12年)3月24日)は、大正時代から昭和初期に活躍した日本の演歌師、歌手。栃木県那須塩原市出身。 初期の京都オリエントで書生節を多数吹き込み、「レコード流行歌」の普及に大きな功績を持った鳥取春陽に次ぐ、人気演歌師である。やや低めの歌声が特徴。代表曲には『平和節(ジョーヂァソング)』、『金色夜叉』、『春爛漫の花の色』などがある。京都オリエントがニッポノホン大阪支社レーベルになってからは新録音発売は途切れたが、1934年(昭和9年)、大阪ニットーで吹き込んだ『兵隊ぶし』で再びヒットを放つ。片面は美ち奴とデュエットの『水兵ぶし』で、塩原はこの2曲を最後に引退する。
畑 歓三(はた かんぞう、1880年8月16日 - 1957… 畑 歓三(はた かんぞう、1880年8月16日 - 1957年1月31日)は、日本の教育者。関西学院文学部教授などを歴任した。 1880年8月16日に、香川県丸亀市で生まれる。愛媛県松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)を卒業後、1897年に関西学院普通学部へ編入する。1899年に同校を卒業し、1900年に同志社大学へ進学するも、退学。1902年に、文部省中等学校教員英語科試験合格。同年、早稲田大学に入学し、1905年卒業。1906年から1912年まで、私立麻布中学英語科教員を務め、1913年にカリフォルニア州アラメダ市日本人小学校長。また、同年、カリフォルニア大学大学院に入学し、美学・ギリシャ哲学を専攻する。
植竹 龍三郎(うえたけ りゅうざぶろう、1880年〈明治13… 植竹 龍三郎(うえたけ りゅうざぶろう、1880年〈明治13年〉8月15日 - 1942年〈昭和17年〉7月20日)は、日本の実業家、政治家、僧侶(僧名は龍山)。衆議院議員(栃木県第1区選出、立憲政友会) 栃木県那須郡、のちの川西町(黒羽町を経て現大田原市)に生まれた。先代植竹三右衛門の二男、植竹三右衛門の弟。1901年(明治34年)高等商業学校(現・一橋大学)を卒業。1903年、あるいは1911年、分かれて一家を創立した。朝鮮清津港において対支露貿易業を営み、同地日本人会議長、並びに商業会議所会頭に挙げられた。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙に栃木県第1区(宇都宮市)から立候補して当選。
櫻内 幸雄(さくらうち ゆきお、1880年〈明治13年〉8月… 櫻内 幸雄(さくらうち ゆきお、1880年〈明治13年〉8月14日 - 1947年〈昭和22年〉10月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。商工大臣、農林大臣、大蔵大臣など歴任。 元中国電力会長櫻内乾雄、元衆議院議長櫻内義雄の父。福田康夫元首相の妻貴代子や政治家の太田誠一は孫。 旧雲州広瀬藩士・櫻内和一郎の長男。東京専門学校(現:早稲田大学)中退。岐阜新聞、愛知新聞などで記者を務めていたが、実業家の雨宮敬次郎に認められ、実業界に入り、大日本軌道、日本高架鉄道の設立に参画、1907年(明治40年)に東洋競馬会を起こして理事。 また銚子、石巻、埼玉、逗子などで電燈会社を創業、1910年(明治43年)に日本電燈株式会社を設立し取締役。
杉 政人(すぎ まさと、明治13年(1880年)8月13日 … 杉 政人(すぎ まさと、明治13年(1880年)8月13日 - 昭和26年(1951年)11月19日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍中将。岡山県高梁市出身。渋谷隆太郎、上田宗重らと同様に機関科出身者として最初の海軍大将候補であった。退官後は、日本製鋼所の社長を務めた。 明治13年(1880年)に岡山県上房郡高梁町の備中松山藩士杉忠三郎と、その妻で由との間に次男として生まれる。地元の高梁男子校高等科を卒業し、創立第一回の県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)の二年生の編入試験に合格。中学時代に母の由が死去する不運に見舞われる。しかし、母の葬式では、一切涙を見せることはなかった。 卒業後、単身で当時、神奈川県横須賀にあったいわゆる「海軍三校」の一つ海軍機関学校へ入学(他二つは、海軍兵学校および海軍経理学校)。
百木 三郎(ももき さぶろう、1880年8月12日 - 19… 百木 三郎(ももき さぶろう、1880年8月12日 - 1940年12月3日)は、日本の技術者、実業家。東洋陶器(現TOTO)取締役社長を務めた。 窯業家河原徳立の三男として東京深川に生まれる。順天求合社(現順天高等学校)を経て、1899年東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科卒業後、農商務省海外窯業練習生としてアメリカ合衆国に留学し、1903年コーネル大学大学院修了。父の親友だった大倉孫兵衛に雇われ、1904年の日本陶器設立時に同社入社。 日本陶器では解任された飛鳥井孝太郎の後任として技師長となり、同窓の西山貞を招聘するなどして衛生陶器の開発にあたり、"sanitary ware"の訳語として「衛生陶器」の語を考案するなどもした。
高崎 弓彦(たかさき ゆみひこ、1880年(明治13年)8月… 高崎 弓彦(たかさき ゆみひこ、1880年(明治13年)8月11日 - 1958年(昭和33年)4月9日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員。 岡山県令・高崎五六の三男として生まれる。兄高崎安彦の死去に伴い、1911年(明治44年)1月31日、男爵を襲爵した。 学習院を経て、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を修了した。1906年、三井物産に入社し米国ニューヨーク支店勤務となる。その後、日本製鋼所社員に転じた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで4期在任した。その他、政府貸付金処理委員会委員、財政収支調整調査会委員を務めた。
山口 亮一(やまぐち りょういち、1880年8月10日 - … 山口 亮一(やまぐち りょういち、1880年8月10日 - 1967年10月30日)は、日本の洋画家。佐賀市精町出身。 東京美術学校(現・東京芸術大学)卒業。大学卒業後、帰郷し制作と後進の指導にあたる。久米桂一郎、岡田三郎助、北島浅一、御厨純一らと佐賀美術協会を創設。同協会会長、佐賀師範学校教諭を務めた。
櫻井 兵五郎(桜井 兵五郎、さくらい ひょうごろう、1880… 櫻井 兵五郎(桜井 兵五郎、さくらい ひょうごろう、1880年(明治13年)8月8日 - 1951年(昭和26年)2月11日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、国務大臣、石川県会議員。幼名・正清。 石川県鳳至郡柳田村(現:鳳珠郡能登町)で桜井源次の長男として生まれる。1911年3月、早稲田大学政治経済学科を卒業。1915年4月、日本タイプライター株式会社(現キヤノンセミコンダクターエクィップメント)を創立し常務となる。その他、北陸毎日新聞社長・副社長、北日本耐火煉瓦社長、日本観光社長などを務めた。 1913年7月から1915年4月まで石川県会議員となる。1915年3月の第12回衆議院議員総選挙に石川県郡部区から立憲同志会に属して出馬し当選。
後藤 和佐二(ごとう わさじ、1880年(明治13年)8月6… 後藤 和佐二(ごとう わさじ、1880年(明治13年)8月6日 - 没年不詳)は、日本の検事、裁判官。 長野県上水内郡三輪村(現在の長野市)出身。水品安吉の二男として生まれ、後藤省三の養子となった。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。1907年(明治40年)、陸軍三等主計。東京地方裁判所予備判事、横浜区裁判所・横浜地方裁判所判事、横浜地方裁判所部長、東京控訴院判事、静岡地方裁判所部長を歴任した。 広島控訴院部長を務めた後、台湾総督府法院判官に転じ、高等法院上告部判官、高等法院検察官長、高等法院長を務めた。 1933年(昭和8年)に退官した後は、公証人となった。
宮崎 通之助(みやざき みちのすけ、1880年(明治13年)… 宮崎 通之助(みやざき みちのすけ、1880年(明治13年)8月6日 - 1964年(昭和39年)9月17日)は、日本の内務・警察官僚。官選愛媛県知事、静岡市長。 後の静岡県有渡郡大里村(現静岡市)出身。宮崎政吉の長男として生まれる。静岡県静岡尋常中学校に学び、第二高等学校を卒業。1906年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。逓信省に入省。1907年、内務省に転じ京都府属となる。 以後、福島県事務官、島根県事務官・警察部長、宮城県警察部長、北海道庁警察部長、警視庁警務部長などを歴任。 1921年6月、愛媛県知事に就任。県会多数派の政友会の後援で県政を運営したが、中央の政友会が分裂した影響で1924年6月に休職となり、1926年6月23日、休職満期となり退官。
二代目 河原崎 権十郎(かわらざき ごんじゅうろう、1880… 二代目 河原崎 権十郎(かわらざき ごんじゅうろう、1880年(明治13年)8月6日 - 1955年(昭和30年)1月11日)は、歌舞伎役者。本名は長谷 幸太郎。屋号は山崎屋。俳名に紫扇。 東京・日本橋の芝居茶屋の子として生まれる。九代目市川團十郎門人となり、明治18年(1885年)市川薫の名で新富座の『菅原伝授手習鑑・寺子屋』の菅秀才で初舞台。その後十一代目片岡仁左衛門門人となり下阪。明治38年(1905年)大阪弁天座で二代目市川権三郎を襲名する。 大阪での修業ののち帰京、大正8年(1919年)4月歌舞伎座で師匠の九代目團十郎の前名をおそって二代目河原崎権十郎を襲名。浅草の宮戸座、常盤座などの小芝居で活躍、『源平布引滝・実盛物語』の実盛や『神明恵和合取組』(め組の喧嘩)の辰五郎など、十五代目市村羽左衛門の当たり役を好んで演じ、しかも容貌や芸風までもが似ていたので「浅草の羽左衛門」と呼ばれ人気があった。
金光 攝胤(こんこう せつたね、明治13年(1880年)8月… 金光 攝胤(こんこう せつたね、明治13年(1880年)8月5日 - 昭和38年(1963年)4月13日)は、金光教の三代金光様。 明治13年8月5日今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。金光宅吉(いえよし)喜代(きよ)の長男。父金光宅吉の死にあたり、明治26年12月29日から、広前の取次の座を任され、金光教の信奉者からは三代金光様と呼ばれた。 明治31年、金光式子(金光萩雄の長女)を妻に迎えるも、先立たれ、明治40年佐藤キクヨ(佐藤範雄の長女)を妻に迎え、6男3女(金光鑑太郎(かがみたろう)、金光実司之助(みしのすけ)、金光眞整(しんせい)、佐藤祐子(ゆうこ)、金光護佑(ごゆう)、和泉賀代子(かよこ)、竹部理貴代(りきよ)、金光整雄(せいお)、秋山佑一(ゆういち)の9人)をもうけた。
宮本 半蔵(みやもと はんぞう、1880年〈明治13年〉8月… 宮本 半蔵(みやもと はんぞう、1880年〈明治13年〉8月5日 - 1966年〈昭和41年〉5月17日)は、日本の柔術家である。 1880年8月5日(明治13年)福島県福島市吉井田に生まれた。 元々は丹治半蔵と言う名前であったが、宮本家の婿養子となったことで宮本姓となった。 宮本半蔵は福島県で天神真楊流を学んでいた。1895年(明治28年)神田錦町に天神真楊流の道場「柳真館」を開いていた吉田千春を紹介されて15歳で上京した。 紹介されての上京だったが、既に吉田千春の書生は津田繁三郎が務めていた状況だったので、人形町の竹岡宇三郎が世話をして神田向柳原に天神真楊流道場を開いていた戸澤徳三郎の書生となった。
岡上 彦三(おかがみ ひこぞう、1880年(明治13年)8月… 岡上 彦三(おかがみ ひこぞう、1880年(明治13年)8月3日 - 没年不明)は、日本の政治家。兵庫県飾磨市(現・姫路市)長(1期)。 兵庫県飾東郡飾万津(のち飾磨津→飾磨町→飾磨市、現・姫路市)大浜に生まれる。旧制兵庫県立姫路中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)卒業。陸軍に入り、中尉で退役した。 1912年(明治45年)飾磨郡会議員に当選。飾磨町会議員を経て、1931年(昭和6年)飾磨町長に就任。1940年(昭和15年)4月飾磨市の市制施行により、初代市長となったが、4ヶ月で退任した。 このほか、飾磨運輸株式会社社長を務めた。
原田 維織(はらだ いおり、1880年(明治13年)8月1日… 原田 維織(はらだ いおり、1880年(明治13年)8月1日 - 1953年(昭和28年)11月14日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事。 鹿児島県姶良郡加治木町(現在の姶良市)出身。原田経治の長男として生まれた。第七高等学校造士館を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1909年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務省を経て、1910年、内務省に転じ福井県属兼同県警視となる。 以後、福井県今立郡長、同県敦賀郡長、青森県警察部長、北海道庁土木部長、福岡県内務部長、熊本県書記官・内務部長、新潟県書記官・内務部長、長野県書記官・内務部長などを歴任。 1928年2月、三重県知事に就任。
阿部 栄之助(あべ えいのすけ、1880年8月1日 - 19… 阿部 栄之助(あべ えいのすけ、1880年8月1日 - 1954年4月26日)は、日本の郷土史研究家である。岐阜県の郷土史研究に従事。岐阜大学学芸学部講師。 長野県小県郡滋野村(現・東御市)に生まれる。長野師範学校在学中、小諸義塾の教師として赴任していた島崎藤村に英語を学ぶ。1908年、東京高等師範学校を卒業。東京高師では三宅米吉に師事。卒業後は、岐阜師範学校教諭となる。以後、岐阜県の歴史研究を志し、1915年「濃飛仏教史綱」(『岐阜県教育会雑誌』(途中から『岐阜県教育』に改題)に連載)を発表し、1923~1924年に『濃飛両国通史』(上下2冊)の大著を刊行。 1922年、岐阜県立恵那中学校(現在の岐阜県立恵那高等学校)が創設されると、初代校長に就任。
片山 孤村(かたやま こそん、1879年〈明治12年〉8月2… 片山 孤村(かたやま こそん、1879年〈明治12年〉8月29日 - 1933年〈昭和8年〉12月18日)は、明治から昭和前期にかけての日本のドイツ文学者・評論家。本名は正雄(まさお)。 1897年、山口県佐波郡八坂村(現:山口市)で生まれた。山口高等学校在学中に登張竹風の影響を受けてドイツ文学を志し、東京帝国大学文科大学独文科に進んだ。1902年に卒業。 卒業後は、第七高等学校造士館教授などを務めた。1905年に「神経質の文学」を発表して評論家として注目を集め、1907年にはオットー・ワイニンゲルの『男女と天才』の翻訳、1908年に『最近獨逸文学の研究』を著してドイツ文学の紹介にも努めた。1909年から1913年にかけてドイツに留学し、帰国後はドイツ語辞書の編纂に専念した。
乃木 勝典(のぎ かつすけ、1879年(明治12年)8月28… 乃木 勝典(のぎ かつすけ、1879年(明治12年)8月28日 - 1904年(明治37年)5月27日))は、明治時代の陸軍軍人で、乃木希典・静子夫妻の長男。戦死時の階級は陸軍歩兵少尉。戦死による一階級特進により、最終階級は陸軍歩兵中尉。